フリードリヒはイタリアとドイツの統一を目指して1つの帝国を作ろうとしましたが、大きな障害が2つありました。それはロンバルディア同盟の盟主ミラノと、ローマを南北から挟まれるのなんとしても防ごうとするローマ教皇でした。
プレシア攻撃
1238年になってフリードリヒは前年のコルテヌォーヴァの戦いの後加わった、コムーネへの支配を固めるため、1月パピア、2月トリノと立て続けにディエッタ(会議)を開きました。こうして皇帝派の結束を固める中、2月末には態度をはっきりしていなかったフィレンツェが皇帝派に加わりました。
ミラノ付近のロンバルディア同盟の都市(青丸)。
3月、それまで教皇派であったミラノが、講和を求めて使者を送ってきました。ミラノ側が求めた講和の条件は、
- 講和後はミラノ市民を国民として扱い、反乱分子として扱わないこと。
- 都市全体の城壁や搭の保持を認めること。
- 都市外にある城や農園の保持も認めること。
- 皇帝は1176年フリードリッヒ1世(バルバロッサ)と結んだ「コンスタンスの和約」に従って、収税と裁判の権利を含めたコムーネの自治を認めること。
でした。
しかし、4番目の条件である税と裁判の権利は、1231年のメルフィ憲章によって国が行うと定めており、この点でミラノだけを除外して認める訳にはいかないため、講和は締結されませんでした。
ミラノとの交渉が決裂した後、ロンバルディア同盟との戦いのためフリードリヒは軍を集め、約1万5千人の兵を集めました。その中には、地元北イタリアから忠誠を誓ったコムーネや、シチリア王国、ドイツからは息子のコンラートがドイツ諸侯の兵を集めて参加しました。この他、イギリスやフランス、スペインのカステーリャ王国からも兵を送ってきました。
この当時ミラノの人口は約8万人とみられ、半数の男性のうち戦闘に参加で張るのは約2万人でした、前年のコルテヌオーヴァの戦いで約8千人の被害が出ていたたる、ミラノ市内の兵数は1万2千人とみられます。その上急激に人口の増えたミラノは、旧市街と新市街とを2重の城壁で囲んでいました。城や要塞などなら周りを取り囲んで食料が尽きるのを待つことが出来ましたが、ミラノほどの大都市全体を包囲するには、人数が足りません。
そこで攻撃の矛先を近くの都市プレシアに向けました。プレシアは一度フリードリヒの挑発に乗り千人ほどの兵を城外に出しましたが、全員やられてしまい、それからは籠城戦に持ち込み、外に出てきませんでした。そのため攻撃しようとすると、城壁の上から投石器や弓などで攻撃してくるため、下手に近づくこともできません。
決定的な勝利を得ぬまま、冬が近づいたため10月10日にフリードリヒは包囲を解き、兵を解散して撤退しました。
このことはフリードリヒに恭順していた北イタリアの各都市に、大きな影響を与えました。籠城すれば、勝てなくとも負けないことが、分かってしまったのです。
この結果に一番喜んだのが、教皇グレゴリウス9世でした。
教皇グレゴリウス9世との闘い
1239年3月20日、長らくフリードリヒとローマ教皇との間を取り持っていたドイツ・チャートン騎士団の団長ヘルマンがパレルモ医科大学の病院で、亡くなりました。
マルボルク城(マリーエンブルク城・ポーランド)のヘルマン・フォン・ザルツァの像
出典ウィキペディア
ヘルマンの死後4日目の、1239年3月24日、グレゴリウス9世はフリードリヒ2世を破門したことを知らせる法王教書を発表しました。フリードリヒはこれに抗議する教皇宛の返書を大量にコピーして、プレシアの戦いに参加した諸侯や、都市、各国の王たちに送りつけました。グレゴリウス9世による破門も、3度目となると各国の王たちや、シチリアやドイツ国内の諸侯、枢機卿たちの中にも教皇の行いに疑問を持ち反対する者も出て、大した効果を得ることはできませんでした。
1940年、教皇は地中海貿易に大きな影響力を持ち強力な海軍力を備えた、ジェノバとヴェネチアを説得して、協力してシチリアを攻めるように要請しました。しかし、両方の都市とも地中海貿易で敵対関係にあるため、それぞれが散発的な攻撃をしただけで、何の効果もありませんでした。
1941年、武力を持たない教皇グレゴリウス9世は、国内統一に成功して大国になったフランスのルイ9世に特使を派遣して、弟のフリップを新たに皇帝にするのを条件に、フリードリヒに対する軍の派遣を要請しました。しかし、ルイ9世は国家統一が出来たのは、フリードリヒが祖父の代に結んだ不可侵条約を守ってくれたためと、教皇から与えられた皇帝の位は、教皇の一存で奪われる可能性があることを考慮して、軍の派遣を断りました。
フリードリヒを破門しても効果が得られないグレゴリウス9世は、1941年3月31日ローマで公会議を行うことを決め、各国の高位聖職者に通知しました。公会議は本来各地で行われているキリスト教の教義や典礼、教会法の違いを統一するために行うものですが、グレゴリウス9世はこの会議で、フリードリヒ2世を異端者として決定するつもりでした。そのため地元のイタリアやドイツからの参加者を上回る聖職者を集めるため、ローマまでの旅費とローマでの滞在費を教皇庁が負担することにしました。
しかし、余りにも急な公会議の招集に3月31日の開催日に間に合わない聖職者が出てしまいました。それでも教皇は公会議を開くことにこだわり、4月25日になって出席予定の聖職者400名がジェノバが用意した帆船30隻に乗り、海路ローマに向かって出発しました。
あらかじめ情報を得ていたフリードリヒは、5月3日ピサを通過したところにある無人島メロリアの付近で、ピサ海軍とシチリア海軍で挟み撃ちにして乗船していた聖職者全員を捕らえてしまいました。
メロリアの海戦
出典 大航海時代
この為、予定していた公会議は中止となりました。
1241年夏、フリードリヒはそれまで禁じていた、教皇領への侵攻を開始しました。教皇領の北側から、エッツェリーノと庶子ながらも北イタリアの統治を任されていたエンツォが攻め込み、南イタリアからはフリードリヒ自身がサラセン兵を率いて、教皇領に入りました。こうして歴代の教皇が恐れていた、教皇領の南北からの侵攻が始まったのです。教皇は各国に助けを求めましたが、フランスはドイツと不可侵条約を結んでいたため参加を見合わせました。イギリスはヘンリー3世の妹イザベラがフリードリヒの3人目の妻として結婚していたため、こちらも援軍を寄こしませんでした。最後の頼みとなったスペインも、国内に居るイスラム教徒との戦いの最中であり、とても国外に軍を派遣する余裕がありません。
8月20日フリードリヒの軍はローマの南18kmにあるグロッタフェッラータに到達しました。今日、明日にもフリードリヒ率いる軍隊がローマ市内に突入することを恐れていた市民にとって、信じられない奇跡が起こりました。8月22日、教皇グレゴリウス9世が急死したのです。
敵対関係の目標である教皇グレゴリウス9世が亡くなったことで、フリードリヒは教皇領から兵を引き上げ、次の教皇が選ばれるのを待つことにしました。
10月25日にミラノ司教であったケレンティウス4世が教皇に選出されましたが、2週間後の11月10日に死んでしまい、その後の教皇が決まるのはさらに20か月後のこととなりました。
この空いた期間を利用して、フリートドリヒは各地に息子たちを各地に配置して、新しく統治の仕組みを構築しました。
庶子ながら能力に秀でた次男のエンツォを、一番問題の多い北イタリアに配置します。彼を補佐するエッチェリーノには娘のセルヴァッジャ(1223年 – 11244年)を嫁がせ、体制を固めました。
三男の庶子フェデリーコは中部イタリアトスカーナ地方の都市、フィレンチェの長官(ポデスタ)に就き、トスカーナ地域全域を治める皇帝代理も務めました。
四男のコンラートは嫡子であるため、フリードリヒに対して反乱を起こした長兄のハインリヒに変わり、ドイツ王を継がせます。
五男庶子リカルドに対しては、中東部イタリアのスポレート公領とキエーティ伯領を任せました。両方とも三男のフェデリーコが治めるトスカーナ地方とローマ教皇領とに挟まれた位置にあり、戦略上重要な地域でした。このため若くして最前線に送られ、早死にしてしまいました。
六男庶子マンフレディはフリードリヒの息子の中で一番の美男子と言われ、約半世紀に記されたダンテの『神曲』の中で”金髪で、美男子で、たたずまいの美して男”と表されています。マンフレディはフリードリヒの死後シチリア国王となり、父の時死後18年にわたって、シチリアを治めます。この時は父の後について、見習いをしている期間中でした。
シチリアに対しては、ナポリ大学を卒業した第一期生が40歳中盤になり、各地の知事や裁判長として活躍して、フリードリヒが始めた法治国家の中核を占め安定した国家運営を行っていました。
このほかの大きな事件使徒手は、モンゴル帝国がポーランドとハンガリーまで攻めて来て、フリードリヒは両国の求めに応じて防衛のための戦力を派遣していました。
またイスラム国家のアイユープ朝のアル・カーミルが1238年に死去し、息子のアラディールが新たなスルタンになりました。フリードリヒはアラディールとも文通を続け、翌年エルサレムの講和を10年間延長することに成功しました。しかし、シリアを支配している弟のアル・アーデイルが力をつけ、エジプトのアラディールと争うようになりました。
異端裁判
1243年6月28日になって、新たなローマ教皇としてインノケンティウス4が就任しました。インノケンティウス4世はジェノバでグリマルディ家と並ぶ教皇派のフィエスキケ家の出身でした。ジェノバでは皇帝派のドーリア家とスピノラ家が勢力を争っていて、この時は教皇派の両家が街を支配していました。
フリードリヒは新たな教皇インノケンティウス4世と交渉を繰り返した結果、1年後の1244年6月ローマから2日ほどの行程に在るチヴィタカステラーナの城で直接会談することになりました。
これには、かねてから教皇と皇帝の仲を取り持ってきたフランスのルイ9世も喜んで、トゥールーズ伯爵を立会人として送ってきました。
しかし、いくら待っても教皇が会見場所に、やって来ません。
後になって分かったのですが、イノケンティウス4世は6月7日の夜中、4人の枢機卿と共にローマを抜け出し、海路実家のあるジェノバに向かいました。
ジェノバに着いた教皇は、フランス王のルイ9世に亡命を求めましたが、フリードリヒとの会談をすっぽかしたことから拒否されてしまいます。それから北イタリアの教皇派の都市を巡り、冬を迎え雪が降り始めたアルプスを越え、1244年12月2日アルル王国のリヨンに到着しました。
引用 塩野七生 著 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)(新潮文庫)』
教皇が逃げ込んだアルル王国は、神聖ローマ帝国を構成する自治王国のひとつであり、ローマ皇帝であるフリードリヒと言えども、その自治権を侵すことはできません。さらにリヨンは長く続いてきた大司教が治める大司教区で、領主はローマ法王が指名した大司教が治める領地であるということです。
そのためフリードリヒがリヨンに軍を進めることは、自分が治めてきたドイツ国内を構成する国の一つを攻めることであり、さらにリヨンに軍を入れることは、教皇のもとにある大司教の領土を侵すことで、二重に手を出しにくい場所でした。
リヨンで一息入れたインノケンティウス4世は、翌年1245年6月に開く公会議の招集状を高位の聖職者全員に送りつけました。
6月28日から行われたリヨン公会議では、フリードリヒの統治下にあるドイツとイタリアの聖職者は、参加をボイコットし、他の国でも教皇に批判的な司教や大司教も参加を取りやめました。そのために初日の参加者は150名、最終日7月17日の参加者はさらに減り、100名ほどになってしまいました。
最終日に教皇インノケンティウス4世はフリードリヒを異端者とし、皇帝の位とその領地を取り上げ、新たに教皇の決めたドイツ王とイタリア王とによって統治することを決めました。
教皇インノケンティウス4世の陰謀
リヨンの公会議の後、教皇派は身をクリューニ―の修道院に移し、各地の修道会に属するすべての修道士に、街に出て民衆に直接教皇の決定を知らせるように指令しました。今まで通り教会の扉に教皇勅書を貼って知らせるやり方では、文字を読める人が少ないため、通知を徹底することが出来なかったためです。
インノケンティウス4世は、フランスのルイ9世の末弟シャルルにシチリア王に任命するからシチリアに攻めるよう要請しましたが、兄のルイ9世が承知せず失敗してしまいました。
ドイツ
また、ドイツ国内の教会網を通じて、ドイツ王コンラートを廃位させ、新たなドイツ王を選ぶよう要請しましたが、こちらも断られてしまいました。
しかし、インノケンティウス4世はあきらめませんでした。1227年フリードリヒが行った最初の十字軍遠征に加わり、疫病で亡くなったチューリンゲン伯ルードリッヒ4世の弟ハインリヒ・ラスぺにドイツ王に就くように手はずを整えます。この時代のラスペは、チュートン騎士団に加わりモンゴル人の騎兵と戦い、その功績を認められて、1242年、まだ幼かったフリードリヒの息子コンラート4世の代理人に任命されていました。
1246年、教皇は、このラスペを説得して、ドイツ王コンラートの対立候補として擁立しました。
この時代のドイツ王は、ドイツ国内の領主によって選出されていました。しかし、その領主の中に世俗社会の領主の他、司教や大司教などの聖職者の領主も多数いました。これら聖職者の領主は教皇に逆らうと、聖職者の地位も解かれ、領地も取り上げられることになるため、ラスペに投票しました。
選出されたラスペはケルンの大司教にドイツ王として戴冠され、18歳だったコンラートに王位の移譲を求めましたが、拒否されてしまいました。
コンラート4世
出典ウィキペディア
コンラートは1246年8月5日、フランクフルトでラスペと戦いましたが、敗れて逃亡してしまいました。しかし、逃亡先でバイエルン公兼ライン宮中伯オットー2世の娘エリーザベトと結婚して、大きな後ろ盾を得ることが出来ました。翌1247年の冬、ラスペは再びコンラートと戦いましたが、この時受けた傷がもとで1247年2月16日死亡しました。
教皇インノケンティウス4世はこれでもあきらめず、ドイツ国内でコンラートの対立王となるものがいなかったため、オランダの王子ホラント伯ウィレムを対立候補に立て、アーヘンで神聖ローマ皇帝に戴冠させました。そして「神聖ローマ帝国」の国号を使用したのは、彼が初めてでした。しかし、他国の王子がローマ帝国皇帝になるのに反対したドイツ国内の諸侯は、聖職者諸侯も含めて彼をオランダ国内に追いやってしまいました。
1250年フリードリヒ2世、1254年その子のコンラート4世が死亡した後単独のローマ皇帝となりましたが、1256年1月28日オランダ北部のスリーラントに遠征中、戦死してしまいました。その後60年間にわたり、神聖ローマ皇帝になるものが出ず、ドイツは大空位時代を迎えます。
イタリア
これと同時に、法王インノケンティウス4世は、イタリアにも手を伸ばしていた。インノケンティウス4世の妹と結婚し義弟となった男に、オルランド・ロッシという人が居ました。彼は元フリードリヒの軍隊でロンバルディア同盟の諸都市と戦っていました。妹の兄が教皇に就任したため、軍を退役しパルマ近郊にある妻の領地で暮らしていました。
ある日、オルランド・ロッシは北イタリア、パルマのポデスタ(執政長官)であるデバルド・フランチェスコに会いに行きました。デバルド・フランチェスコはフリードリヒが子供の頃家庭教師をしていたグイエルモ・フランチェスコの息子でした。このデバルドをフリードリヒは預かり、庶子で三男のフェデリーコと一緒に教育し、この時はミラノ近くにあり、教皇派と皇帝派が争っていたパルマの長官に据えていました。
デバルドはオルランドの求めに応じて、マルケ地方の代官(税金を集める係、地方国税局局長みたいなもの)であるジャコモ・モッラとその隣のトスカーナ地方の代官を務めているバンドルフォを紹介しました。
ジャコモ・モッラの父はノルマン朝時代から続く大領主のエンリコ、モッラの次男で、エンリコ・モッラはフリードリヒがシチリアを治め始めた最初から司法長官として地方の領主を取り纏め、この事件の4年前に死ぬまでこの重職を務めていました。
バンドルフォ・ファザレッラも領主の息子から貴族に取り上げられ、長い間トスカーナ地方の代官として勤めていましたが、フリードリヒの次男のエンツォが代官になった為、その職を取り上げられてしまいました。ちなみにフリードリヒの3男フェデリーコはトスカーナ地方の首都フィレンツェの長官(ポデスタ)をしています。
ここに出てきた者の多くは、フリードリヒがシチリアを治め始めた当初から苦楽を共にしてきた領主や聖職者の息子たちで、フリードリヒはこの人たちを引き取り、自分の息子たちと一緒にフォッジアの王宮内に設けられた宿舎で教育し、次のシチリアを治めるために息子同様育ててきた人たちだったのです。
話を戻しますが、教皇の義弟であるオルランド・ロッシが二人に話した計画とは、1246年の復活祭の日(4月8日)皇帝フリードリヒと、北イタリアの統治を任されていた次男のエンツォを暗殺する話でした。
イタリアのバスクワ(復活祭)は、家族や親戚が集まって昼から夜までメインの子羊の料理を中心に、食事をしながら楽しく過ごします。この日は警備も緩やかで、フリードリヒと息子のエンツォも一緒に居り、この日に少年の時から一緒に居たイタリアの高官である二人が訪問しても、誰も警戒しません。
この話を聞いたデバルドは二人を説得しましたが、逆に計画が漏れるのを恐れた二人によって捕らえられ、一緒に南イタリアまで連れていかれ監禁されてしまいました。
イタリア南部に着いた二人は、家族や友に計画を打ち明け仲間を募りました。それに答えて、それに答えて参加したのは、シチリア島の代官デ・アーミス、半島南部プーリア地方の代官アンドレア・チカラ、大領主のサンセヴェリーの一家でした。
これらの人々も、フリードリヒから将来政府を支える幹部候補生として、同じ寄宿生活をしていた人々でした。
しかし、この話に疑問を持った人が二人いました。ジャコモ・モッラの末弟のルッジェロ・モッラもその一人です。兄のジャコモとは年が離れていたため、一世代遅れて幹部候補生として、フリードリヒに仕えていました。候補生時代はフリードリヒに大変気に入られ、度々鷹狩りに一緒に出かけ、最後には技能を認められて鷹匠の役目を与えられました。そのようなルッジェロにとっては、皇帝ルードリヒを暗殺するなど、とても出来ないことでした。
そこで、同じ世代で医者をしているジョバンニ・ダ・プレゼンツァーノに相談しました。ジョバンニもルッジェロと同じく幹部候補生として一緒に生活していましたが、途中で気が変わりパレルモの医科大学に入校して医者になりました。
二人は、ミラノ北方にあるカゼルダで領主をしているフリードリヒの5男リカルド(母親はパレルモの大司教べラルドの姪アンナです)に、大至急知らせることにしました。
その時ルッジェロは一族の城に監禁されているデバルドを助けるために戻ったところを、逆に捕まっていまいまた。
事が露見したことを知った、首謀者のエンリコ・モッラとバンドルフォ・ファザレッラは家族や暗殺に同意した人達を見捨てて、ローマに逃げ込みました。
知らせを受けたフリードリヒは、次男のエンツォと3男のフェデリーコ及び北東イタリアの長官エッツェリーノの3人を、これを機に北部の自由都市が反乱を起こさないようにするために残し、本人は軍を率いてローマをかすめるように陸路を通り南イタリアに向かいました。
船で行くよりも時間がかかる陸路を使ったのは、ローマに逃げ込んだ首謀者の二人を牽制する意味もあります。教皇が居ないと言っても、ローマ市内に兵を入れるのは全キリスト教徒の反発を招く恐れがあるため、控えざるをえませんでした。
計画の加わった一味は、全員死刑。デバルトとルッジェロは、両目を焼かれ失明させて放免。両家の家族は全員牢に入れられ、食事を与えられなかったため、餓死させられました。
本来は両家の一門や、計画を持ち込まれた人たちも罪を問われるのですが、これらの人たちまで罰すると、国家の運営に必要な高級官僚が不足するため、不問に付されました。
ヴィクトリア消失
1247年夏、誰もがこれで解決したと思っていましたが、実は大事な人を一人見逃していました。教皇の妹と結婚した、オルランド・ロッシです。
彼はデバルドが居なくなると教皇派の人を集めて皇帝派を追い落とし、パルマの長官となっていました。ローマ教皇インノケンティウス4世はパルマの結束を図るため、ミラノから枢機卿モンテロンゴを送り込み「キリスト教徒としての、正しい道」を説き、パルマの街をガチガチの教皇派に替えてしまいました。
オルランドはかってフリードリヒの下で軍人として戦っていたため、籠城戦の優位を知っており、城門を固く閉め、一兵たりとも外に出しませんでした。さらに4万人いる市民のうち、女子供も含む動けるもの全員に、いざとなった時に戦えるよう、訓練していました。
フリードリヒも、今回は長期戦覚悟で決着がつくまでパルマの街を包囲する予定でした。そこでパルマの街のそばに、木造の兵舎や炊事場、食堂の他に教会や各種の店舗、鎧や兜を補修したり軍服を縫う工場まで作り、周囲には堀をめぐらし、丸太で作った頑丈な柵で囲いました。今でいえば、軍の駐屯地に当たる基地は、「ヴィクトリア」と名付けられました。
秋にはパルマ周囲の麦畑を刈り取らせ、パルマの住民がこっそり外に出て、収穫するのを防ぎました。刈り取った麦は兵糧としてヴィクトリアの街に貯蔵されます。この地の長官エンツォは、友軍を率いてミラノが送って来る救援物資を取り押さえていました。
翌1248年に初頭には、パルマの食糧が尽き市内では飢えに苦しむ市民の不満があふれ出しました。しかし、教皇から送られて来た枢機卿モンテロンゴは声をからし、
「皆を苦しませているのは、異端皇帝のフリードリヒだ。フリードリヒを恨め。奴を殺せ」
と、フリードリヒに対する憎しみを煽り立てていました。
1248年2月18日、朝から天気の良い日でした。戦時用に近いためフリードリヒは数百騎の騎兵を率いて、好きな鷹狩りに出かけました。
パルマのオルランドは、この時を待っていました。フリードリヒが十分ビクトリアから離れたころ合いを見つけ、パルマの全兵士を動員してフリードリヒを追跡させました。彼としてはパルマがどうなろうと、フリードリヒさえ始末できれば、それでよかったのです。
パルマの敗戦
出典ウィキペディア
ビクトリアに居た皇帝軍の兵士達も、わずかな守備兵を残し、フリードリヒを守るため出陣しました。
しかし、これが罠だったのです。
しばらくすると、手に手に棍棒や、鎌や鍬、果ては包丁まで持ち暴徒と化した数万のパルマ市民達が、ビクトリアに襲ってきました。ビクトリアはたちまち火に包まれ、市民たちは蓄えられた食糧や金銀財宝、果ては鍋釜の日用品、死んだ兵士の鎧兜まで剝ぎ取って、引き上げていきました。
フリードリヒが戻った時には、ビクトリアは完全に消失し、後には多数の焼死体が残るだけでした。
エッチリーノが勢力を固めていた北リタリアの東部の都市と違い、ミラノ周辺の都市は、都市の自治を巡って皇帝派と教皇派の勢力が相争っていました。
そのためフリードリヒが負けたと知った各都市では、教皇派が勢力を盛り返し始めていました。そのためフリードリヒは息子のエンツォと共に、ロンバルディア地方の都市を巡り、勢力の回復に勤めました。
この時パルマの長官オルランドも、教皇派の勢力を拡大するために軍を率いて各都市を回っていました。
1248年夏、両軍は衝突し、オルランドはパルマに逃げ込もうとする直前、捕らえられて戦死してしまいまた。
これにより教皇派の勢力は一気に減衰し、1249年3月にはロンバルディア地方は元の状態にまで戻すことが出来ました。
晩年のフリードリヒ2世
1249年に入ると、フリードリヒの体に異変が見られるようになりました。
体中が痒くなり、掻いてしまうとそこが赤く爛れてしまうと、いう病気です。当時の医療技術では治療法がないため、南のナポリに移ってしばらく静養することにしました。ナポリはサレルモの医科大学に近く、郊外には皮膚病に聞くと言われている硫黄泉のポッッオーリの温泉があります。
北イタリアにフリードリヒが居なくなったことで、教皇インノケンティウス4世呼びかけに答えて、ドイツとイタリアでフリードリヒに対抗する勢力が動き出し始めました。
ドイツ北部のザクセン地方では、教皇により立てられた対立ドイツ王のヴィルヘルム2世(元オランダの王子)が活動して、ドイツ王である4男のコンラートと戦っていました。4男のコンラートがドイツ王に選ばれたのは、反乱を起こして死んだハインリヒに次いで2番目の嫡子(正妻から生まれた子)であったためです。
2男のエンツォは、ローマ教皇庁と深い関係のあるポローニャ大学の都市、ボローニャと戦っていました。
3男のフェデリーコは、エンツォの後を引き継ぎ、トスカーナ地方の長官となりました。
20歳半ばを過ぎたばかりの5男スポレート公爵のリカルドは、南イタリアで反乱を起こしたキエーティの鎮圧に向かいました。キエーティはイタリア半島を挟んで、ちょうどローマと反対側にあるエーゲ海に面した街です。
1249年5月22日、このリカルドが戦闘中に矢に当たって死亡しました。この後を継いだ同期で医師のジョバンニが指揮を執り、反乱は治めることが出来ました。フリードリヒにとって、長男ハインリヒに続き2度目の息子の死でした。
その4日後の5月26日、次男でフリードリヒの右腕として活躍していたエンツォが、ボローニャに囚われてしまいました。
報告では、ボローニャが降伏を申し入れ、エンツォがそれを受け入れるため、少数の従者だけを連れて城内に入ったところ、捕まったということです。
捕らえたボローニャも、エンツォの価値は十分わかっていました。このエンツォが手中にある限り、皇帝軍は攻撃を仕掛けることはできません。
ボローニャによって捕らえられた、エンツォ
出典ウィキペディア
フリードリヒはエンツォを助けるために、捕虜3000人との交換や、エンツォの体重と同じ重さの金塊の提供などの条件を出しましたが、ともに拒否されてしまいました。
ボローニャでのエンツォの生活は、寝室こそ窓から逃げられないように市庁舎の高い塔の上に設けられましたが、普段は大広間で生活し、外部との書簡のやり取りや、皇帝側の人でない限り誰とでも会うことが許されました。
エンツォも大人しく捕まっていた訳ではなく、寝具の布を切り裂いて窓から逃げようとしたが、窓からロープが降ら下がっているのを発見され、それ以後は大広間の中央に特製の檻を設け、その中で寝るようにされました。
またある日には樽職人に渡りをつけ、ボローニャ製の商品を送る木箱の中に身を潜めて外に運び出させようとしました。これも箱の淵から金髪の髪の毛が出ているのを見つけられ、失敗してしまいます。
彼は1272年56歳で死ぬまでの23年間、ボローニャで囚われ人として暮らすことになりました。
ウベルト・バッラヴィチーノ
フリードリヒとエンツォが居なくなった北イタリアでは、ミラノを中心に周囲の都市が次々と教皇派に鞍替えしていきました。エンツォが居なくなり、北イタリアの防備に大きな穴が開いてしまいました。
そこで目を付けたのがエンツォの下で長年働いていた傭兵隊長のウベルト・バッラヴィチーノのでした。
ウベルトの父は北イタリアの大領主でしたが、ウベルトは次男のためその領地を受け継ぐことが出来ないため、父から兵を借りてエンツォの下で傭兵として働いていました。
普通の傭兵は、普段は別の仕事を持っていて戦いの時だけ雇われる形をとっていましたが、ウベルトは戦いの専門家として16年にわたりエンツォと行動をともにして戦い続けてきました。
フリードリヒは、このウベルトに、エンツォが率いてきた軍を任せたのでした。
その効果は驚くべきものでした。籠城していたため落とせなかった、プレシアとパルマを始め、ピアチェンツァ、パヴィアまでもが1年も経たず、降伏して皇帝派に変わったのです。さすが闘いの専門家で、フリードリヒはこれまでで最強の武力を手に入れました。
これに一番慌てたのが教皇インノケンティウス4世でした。リタリアのトリノまで皇帝派になったことで、フリードリヒは1日もあれば教皇の所まで兵を送ることが出来るようになりました。
インノケンティウス4世はフランスに亡命を求めましたが、この時ルイ9世は国内の兵を引き連れて十字軍を結成してエジプトに遠征していました。しかし、エジプトで王と3人の弟を含む2万5千人の軍全体が、捕虜となってしまい、その後始末に大忙しで教皇の亡命を受け入れることが出来ませんでした。さらにイギリスにも亡命を求めましたが、こちらはマグナカルタ(大憲章)により議会の承認が得られず、拒否されてしまいます。
後はクリューニ―に籠って、我が身の安全を祈るだけでした。
1250年
1250年になると、ドイツのコンラートもドイツ国内の諸侯と共に戦って、対立王のホラント伯ウィレム2世を元のオランダに追い返しました。
こうしてイタリアとドイツが平穏になったことで、フリードリヒは息子や娘たちの助言に従って、プーリアにあるフォッジアの王宮に移り、休暇を取ることにしました。
それでも同じところに留まれないのがフリードリヒで、あちこちに出かけては好きな鷹狩りをしていました。
11月25日、ルチェラ(サラセン人たちを移住させた造った都市)と北方にあるトッレマジョーレの城との中間地点でいつも通り鷹狩りをしている最中、フリードリヒは急に強い痛みを訴え、その場に倒れこんでしまいました。
とりあえず近くの村フィオレンティーノに運び、フォッジアの宮殿に急を知らせ侍医ジョヴァンニを呼びました。ジョヴァンニは6日6晩手当を続けましたが、12月1日にこれ以上手の打ちようがないことを、フリードリヒに告げました。
12月7日、一族の者が到着したことで公証人を呼び、遺言を書きとらせました。
嫡子で最年長のコンラートには神聖ローマ皇帝と、シチリア王を継がせます。もし、コンラートが死んだ場合は、次の嫡子英国の王女イザベルとの間にできて12歳になるエンリコが継ぐことになります。その次が愛人からフリードリヒの最後の正妻ビアンカ・ランチアの息子マンフレディに渡ることになりました。都市から言うと18歳になったマンフレディが先ですが、庶子から嫡子になった年が遅いので、エンリコの後になりました。
遺言を伝えた後、フリードリヒはパレルモの大司教べラルドと一緒にすごし、12月13日に亡くなりました。
2000年12月13日、フリードリヒ2世の死去750年を記念して、終焉の地フィオレンティーノ村の跡地に建てられた記念碑
出典 Google Map
フリードリヒの遺体は、赤色の大理石で作られ棺(アイキャッチ画像の写真)に納められ、祖父で初代シチリア王ルッジェーロ2世、父のハインリヒ6世、母のコンスタンツァ、最初の正妻であったコンスタンツァと一緒にパレルモ大聖堂に納められました。フリードリヒが遺体となって納められた時に着ていた服の袖には、アラビア語で
「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」
と刺繍されていたのが、19世紀に行われた学術調査で分かりました。
その後
1252年3月、ドイツのコンラートの最初の子が生まれ、コンラートの子を意味するコッラディーノと名付けられました。
9月フリードリヒの後を追うように長年の親友、パレルモの大司教べラルドが亡くなります。
1253年、ミラノを中心とした北イタリアの大部分が、教皇派に寝返りました。この年、フリードリヒがコンラートに次ぐローマ皇帝の座の相続人に定めた、エンリコが死んでしまいます。
1254年5月、嫡子のコンラートは、ドイツを出て劣勢のイタリアを守るためマンフレディと共に戦っていた最中、死亡してしまいました。
この年の12月、教皇インノケンティウス4世が亡くなりました。その5日後に新教皇アレクサンデル4世が就任します。
1256年4月、庶子ながらイタリア中部のトスカーナで、今は敵となったロンバルディア地方の各都市を相手に戦っていた、フェディリーコが亡くなりました。
1258年8月10日、26歳になったマンフレディは、パレルモの主教会でシチリア王国の王としての戴冠式を行いました。教皇派マンフレディがもと庶子の出であることから、これを認めませんでした。
この後、マンフレディは父の言いつけを良く守り統治をおこなったことで、シチリア王国は安定した状態となり、経済も回復しました。
1266年フランスのルイ9世の末弟シャルルが、教皇からシチリア王の位を譲ることを条件に(教皇がマンフレディのシチリア王就任を認めなかったため、シチリアは王不在と見なされていました)、軍を率いてシチリアに攻め込みました。べネヴェントの戦いでマンフレディは戦死、残った家族も牢に入れられ死亡しました。
1268年コンラートの息子コッラディーノのシャルルに捕らえられ、斬首されます。
1272年フリードリヒの一族でただ一人残った、エンツォがボローニャに捕らえられたまま、死亡しました。
これで長く続いたホーエンシュタフェン家も、断絶してしまいました。