なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その5 神聖ローマ帝国  新しい国のかたち フリードリヒ2世(第3章)

time 2021/09/06

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その5 神聖ローマ帝国  新しい国のかたち フリードリヒ2世(第3章)

ローマ皇帝フリードリヒは、古代ローマ帝国を手本として、ローマ教皇の支配を受けない新しい形の国を作ろうとしました。

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亀仙人2

2つの国のかたち

連邦制国家 ドイツ

オットー4世との闘い

フリードリヒ2世が王位を継ぐ以前のシチリア王国は、始祖のロベルト・イル・グイスカルドがローマ教皇の傭兵として働いていたため、教皇と親密な関係を保っていました。

ところが、フリードリヒの父ハインリヒ六世がシチリア王の継承権を持つ王女コンスタンツァと結婚後亡くなりフリードリヒ二世は、シチリア王と父が持っていたイタリア王、ブルゴーニュ王、ドイツ王を受け継ぐことになります。

これはローマ教皇庁にとって、教皇領を南北から挟まれることとなり、絶対に避けたい事態でした。

当時3歳だったフリードリヒ二世に対して、父フリードリヒ6世の弟シュバーベン公フィリップがフリードリヒのドイツ王就任を狙ってシチリアに乗り込んでくると、シチリアに居る元ハインリヒ6世の家臣たちは、フリードリヒにシチリア王としてシチリアに留まってもらいたいと思っていました。

そこで新たにフリードリヒの摂政になった母親のコンスタンツァは、ローマ教皇インノケンティウス3世に義弟のシュバーベン公フィリップをドイツ王に就ける代わりに、我が子フリードリヒをシチリア王として戴冠してくれるように求めました。さらにローマ教皇インノケンティウス3世が我が子の摂政にするとの遺書をしたためた2日後に亡くなりました。

こうして幼いシチリア王フリードリヒはローマ教皇の保護下に置かれ、誰も手出しが出来なくなりました。

ここまでの詳しい経過は、こちらに書いた在ります。↓

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その3 神聖ローマ帝国 古代ローマ帝国復活を夢見た男 フリードリヒ2世(第1章)

1208年フリードリヒの叔父であり、ドイツ王のフリップが暗殺されていまいます。リップの持っていたドイツ王位は、甥のフリードリヒが継ぐことになり、翌1209年フリードリヒは、自ら成人となったことを宣言し、元服します。これはフリードリヒがローマ教皇の保護を離れ、独立することを意味します。

おなじ人間がドイツ王とシチリア王を兼ね、ローマ教皇領を南北から挟まれる事態になることを恐た教皇イノケンティウス3世は、フリードリヒが元服する前に思い切った手を打っていました。

フリードリヒの父ハインリヒ6世が亡くなると、弟のフリッブがドイツ王に立ちます。

この時代のドイツ王は、親や兄弟が亡くなると跡を継いで自動的にドイツ王になれるわけではなく、ドイツ各地の領主の代表である選候帝から選挙でえらばれる必要がありました。

そこでローマ教皇イノケンティウス3世は、親教皇派でホーエンシュタウフェン家と対立していたヴェルフ家のオットー4世を対立候補として、擁立しました。

これは、将来シチリア王となるフリードリヒと、同じホーエンシュタウフェン家のフリップがドイツ王となり教皇の居るローマが北と南から挟まれるのを嫌ったためです。

1198年6月9日、オットー4世はケルン大司教アドルフの援助を受け、ローマ王として戴冠されました。

しかし、オットー4世は当時の吟遊詩人のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデが後に、「もしも彼に背丈程気前のよさがあったなら 多くの美点を備えていたのに」と皮肉ったほどのケチであり、さらに加えて人一倍強欲な性格でした。

この間もフリップとオットー4世との間における権力闘争は続き、2004年にはフリップ側が優勢となります。

2007年、フリップが優勢と見たローマ教皇イノケンティウス3世は、フリップをローマ王として認め、ローマでローマ皇帝としての戴冠を約束しました。その直後の2008年、娘の婚姻問題のもつれからフィリップは、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー8世 によって暗殺されてしまいました。

2008年11月11日、フランクフルトで行われた皇帝選挙において、オットーは帝位の世襲を行わないことを宣言し、選帝侯全員からの支持を得ることになりました。その後、オットーはヴェローナ、モデナ、ボローニャを経由してミラノに到着し、同地でロンバルディアの鉄王冠を戴冠され、「イタリア王」の称号を帯びた。

1209年10月21日、こうしてローマ王とイタリア王となったオットーは、教皇の権威に服することを条件に、ローマ皇帝として戴冠されます、

この条件とは

1 マティルデ・ディ・カノッサの遺領(トスカーナ地方)を含む教皇領の回復
2 シチリア政策における教皇の意向の尊重(フリードリヒの居るシチリア王国に侵入しないこと)
3 レガーリエンレヒト(司教の空位期間中、司教が置かれていない空の司教区から上がる収入を王が徴収する権利)の放棄
4 シュポーリエンレヒト(死去した司教が有していた動産に対する王の権利)の放棄
5 教会法(カノン法)に基づく司教の選出(皇帝による聖職者叙任権の放棄)

でした。

ところがオットー4世は1か月後の11月20日、トスカーナ地方の首都ピサを攻め、トスカーナ地方を皇帝領に組み入れてしまいます。続いていてイタリア半島の反対側にあるエーゲ海に面した教皇領の港湾都市アンコナを攻め、続いてイタリア中央部の都市、スポレートを攻めこの二つの都市を皇帝領として組み入れていまいました。

年が変わり1210年11月、シチリア王国のフリードリヒに臣従を求め、これが拒否されたことで、シチリアに遠征しました。

事ここに至りローマ教皇のイノケンティウス3世は怒り心頭に達し、オットー4世に破門を言い渡しました。しかし、オットー4世は破門を気にせず、ナポリ近郊の都市カブァで南国の冬を楽しんでいました。

オットー4世が破門されたのを受けて、ドイツ国内の諸侯たちは新たなドイツ王の選出を始めました。翌1211年9月、インノケンティウス3世の承認とフランス王フィリップ2世の支援を受けた諸侯がニュルンベルク国会でフリードリヒ2世を新たなローマ王に選出しました。

カノッサの屈辱の時は、俗界のローマ皇帝が聖職者の徐任に対して反抗したローマ教皇ですが、今回は逆にローマ教皇が俗界のローマ王の選出に介入してきました。

ローマ国内の要請を受け、フリードリヒ2世はシチリア王の王位をまだ2歳になったばかりの息子ハインリヒに譲り、急いでドイツに渡りました。

連邦制ドイツの始まり

フリードリヒがローマ皇帝に就任するまでの経緯はこちらに書いてあります ↓

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その4 神聖ローマ帝国 戦わずにエルサレムを取り返した皇帝 フリードリヒ2世(第2章)

自分の軍隊を持たないフリードリヒはドイツ諸侯の支持を得るため、それぞれの領地の所有権及び知行権を認め、さらに1220年4月26日、ドイツ領域にあ大司教や司教の管理している領地に対しても、「聖界諸候との協約」で俗界の領主と同じ権利を認めました。

1231年5月、息子ハインリヒの代には、大幅な自治権を認めた「諸侯の利益のための協定」を結び、それぞれの領主は一つの国として独立し、ドイツは神聖ローマ帝国の属州となり、ドイツ王はこれまでの支配者から、ドイツ国内の小さな国をまとめる代表者(総督)となりました。連邦制ドイツの誕生です。

フリードリヒ2世にとって数少ない強力な諸侯が存在する国よりも、弱小国が多く存在する国の方が統治しやすいと考えたのでしょう。

フリードリヒ2世以降の神聖ローマ帝国、ドイツは300余りの小さな国家(ラント)の集合体となりました。

黄色の部分がホーエンシュタウフェン家、及びローマ帝国領。

紫の部分がローマ教皇、及び教皇庁下にある教会、修道院、騎士団の領土。

右上のプロイセン地方は、チュートン騎士団が伝道して獲得した地域。

出典ウィキペディア

新たな法治国家を目指した、シチリア王国

カプァ憲章

ドイツ国内の統治に成功したフリードリヒ2世は、息子ハインリヒの養育をケルンの大司教に託して、ローマ皇帝戴冠のために、イタリアに旅立ちました。

彼はローマに着く前にボローニャ大学に立ち寄り、古代ローマの法律を研究していた法学者のロフレド・エピファーニオに逢い、新たな統治方法について話し合いました。

1220年11月20日ローマでの戴冠式を終えると、さっさとローマを離れ、ナポリ郊外のカプァで、法学者のロフレド・エピファーニオと新しい国のかたちについて話し合いました。彼らが手本としていたのは、帝政になる前の共和制古代ローマでした。この時代はイタリア半島の一都市にすぎないローマが、地中海全体にその勢力を広げていた時代でした。

古代ローマ人たちは征服した土地を収めるのに、税金と兵役などの義務を果たし、ローマに反抗しない限り、宗教やそれまでの慣習に対して何ら規制をせず自由にさせました。そのため征服された人々は、前の領主におさていた税金の届け先がローマに変わっただけで、何かあったときに強大なローマ軍の保護を期待できるようになり、進んでローマに協力するようになりました。

反面ローマに逆らったらどうなるか。紀元前192年のローマ・シリア戦争において、カルタゴはローマの要請に対して兵糧だけを送り兵力を提供しませんでした。当時、古代ローマの同盟国は、兵力と共にその必要とする兵糧も一緒に提供することになっていました。これをローマはカルタゴが信義誠実の原則(相互に相手方の信頼を裏切らないよう行動すべきであるという法原則)を破ったとして、第3次ポエニ戦争を起こし、住民20万人のうち15万人を殺し、5万人を奴隷として連れ去り、カルタゴは地上から消滅してしまいました。

このようにして古代ローマは巨大国家になっても、国を治めることが出来たのです。

フリードリヒ2世がこれからする治めようとするシチリア王国は、西ローマ帝国滅亡後ギリシャのビザンチン帝国(東ローマ帝国)、イスラム教のアラブ人、フランス北部からやって来たノルマン人、と支配者が変わり、国内にはギリシャ系。ラテン系、ノルマン系の人々が混在しており、隣にいるローマ教皇のようにカトリック一色の統治は不可能な状態でした。

そこで古代の民主制ローマの法律に詳しい法律学者ロペルドを呼び、法律の下に国を治める法治国家の成立を目指しました。二人は協議の結果、とり合えず次の事柄を公示しました。

  1. 王国の統治は、力の倫理を廃止、法に基づいて行われる。
  2. 王国内の領主が有する所領は、1192年以前に持っていた分はそのまま所有を認められる。それ以後、今日までに獲得した分はすべて王に返還しなければならない。
  3. 王国内の諸侯は己の一存で戦いを起こしたり、領民の財産の没収、裁判を禁止する。
  4. これに逆らった者は、領地・財産没収の上、死罪に処す。

1192年には、それまでシチリア王国を収めていたノルマン人系のオートヴィル朝タンクレーディが亡くなり、王位継承権がハインリヒ6世の妻コンスタンツァに移り、ホーエンシュタウフェン家にシチリア王位が移った年です。この時からハインリヒ2世がシチリア王に就き、ドイツに移り、戻ってくるまでに得た領地は、シチリア王に戻せということです。

当然これにはシチリア各地の領主から反発が起きましたが、それを取り締まる役にノルマン朝時代から居た由緒正しい領主エンリコ・ディ・モッラを当てました。各地に点在するマフィアを治めるのに誰でも言うことを聞く、マフィアの大親分を持ってくるようなものです。このエンリコは生涯フリードリヒに仕え、司法長官の役目を務めることになります。

それでもフリードリヒに反対する領主が出ましたが、彼らを法律通りに死罪にせず、身柄をチュートン騎士団のヘルマンに預け、巡礼者の保護や聖地エルサレムの警護に当たらせました。

カプア憲章を書き上げた後、フリードリヒはイタリア全土の巡察に出かけます、記録によると同じ所に留まらないで、1日か2日後には次の場所に出かけるという忙しいスケジュールでした。それには訳があり、これから新しい国を作るにあたっていろいろな費用が必要でしたが、それには自分の持っている領地が足りませんでした。そのため早く領地を返してもらわなければ、国家経営が成り立たないのです。

ナポリ大学

また新たな国を作るのにあたって、多くの読み書きできる官僚が必要になってきます。今まで文字が使える人のほとんどが司教や司祭と言った聖職者であり、各地にある大学も元修道院から発展してきたものでした。

フリードリヒとしては、キリスト教の聖職者ではなく、広く教養にあふれ官僚として役立つよう読み書きができる人を育てる必要がありました。彼は法学者のロフレドに命じ、ナポリに聖職者を目指す人以外にも、向学心にあふれた若者を教育するために、1224年国立のナポリ大学を開校させました。

ナポリ大学では法学の他に、文章を作るための修辞学、倫理学、哲学なども教えました。もちろん国立であるから授業料は無料、、そして学生生活を送るための資金として奨学金制度も設けました。このお金は卒業後シチリア国の官吏になって返す仕組みです。それまでサレルノにあった医学校も、ナポリ大学に統合されました。

シチリア海軍の創設

シチリア海軍の創設についてはこちらに詳しく書いておきました。↓

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その4 神聖ローマ帝国 戦わずにエルサレムを取り返した皇帝 フリードリヒ2世(第2章)

この海軍の提督には、マルタ島生まれの元海賊のエンリコが就任しました。

南国プーリア

フリードリヒが初めてプーリアの地に足を踏み入れたのは、記録によると1221年2月15日になります。

この時代のプーリアはドイツに居た時のフリードリヒが「ブーリアの少年」と呼ばれていたほど、北ヨーロッパの人々にとってなじみの深い土地でした。

第1回十字軍が成功し、エルサレムへの巡礼が盛んになると、ローマからナポリに行き、イタリア半島を横切って最もアラブの世界に近いプリンディジから船に乗り出発しました。後のフリードリヒの編成した第6回十字軍も、プリンディジから出航しています。

プーリア地方は、イタリア半島のふくらはぎから踵に当たる部分です。ここはイタリアには珍しく、平原が広がり古来から、小麦や各種南国の果物の栽培が盛んでした。

上の赤丸の部分がフリードリヒの宮殿があったフォジシア。下の赤丸の部分がエルサレムへの巡礼者や十字軍の出発地となったブリンディジの港。

出典 google map

フリードリヒはこの開けた明るい土地が気に入り、シチリア王国の首都パレルモでなく、プーリア地方北部のフォジシアに居住用の城を築くことにしました。

1222年6月22日プーリアを巡回中のフリードリヒの元に、妻コンスタンツァがマラリアに罹って死亡した、との知らせが届きました。

コンスタンツァの葬儀は、大司教べラルドの居るパレルモの大聖堂で執り行われました。フリードリヒがローの皇帝の戴冠を受けた時、コンスタンツァも教皇から直々にローマ皇后として戴冠を受けていました。彼女の遺体は皇后にふさわしく金糸銀糸の模様を施された深紅の絹織物で作られた衣装に身を包み、身のまわりの宝飾品と共にローマ時代を模した豪華な石棺に収められました。その蓋にはこう書かれていました。

『皇后でありシチリア王国の王妃であったコスタンツァここに眠る。あなたのフリードリヒ』

サラセン人の反乱

中世のヨーロッパではアラビア人だろうが北アフリカのベルベル人だろうが、バルカンやアナトリア半島のトルコ人だろうが、イスラム教徒ならひとくくりにして「サラセン人」と呼んでいました。もっともイスラム教徒はキリスト教徒をひとくくりにして「フランク」と呼んでいたのと同じです。

1221年冬、シチリアに居たサラセン人の農民たちが反乱を起こしました。彼らはノルマン人王朝下では領主の小作人などとして暮らしていましたが、フリードリヒの治世になっても立場は変わらず、貧しいままであった。周りの自作農民はフリードリヒにより税が収入の12分の1に下げられたほか、余った作物を毎週末、各都市で行われる市で自由に売ることも許され、豊かになっていきました。

またサラセン人の中には建築や土木に関わり、ノルマン王朝時代に行政官として仕えていたものもいました。アラブ商人として活躍した来た彼らは文字の読み書き、計算が達者で官吏として重宝がられ、中にはゲルマン人の王宮に出入りを許される者も出て来ました。

こうして貧富の差が激しくなると、施政者に対する不満がが起きてしまいます。中には山賊などの悪事に走るものもありました。

この不満に付け込んだのがシチリア島の対岸北アフリカのムワッヒド朝のイスラム教徒でした。

タダムワッヒド朝の扇動者にとって不運だったのは、フリードリヒがチュートン騎士団のヘルマンと共に、妻の葬儀に来ていることでした。

叛乱の首謀者は直ちに捕らえられ、処刑されたことで暴動はすぐに収まりました。

しかし、この反乱に参加した2万人ものイスラム教徒の処分が大きな重荷になってきました。従来でしたら全員捕らえて奴隷として売ってしまうことです。この当時、異教徒を奴隷として売ることはローマ教皇も認めていました。

しかし、これをしてしまうとかえってイスラム教徒の反発を招き、かえって反乱が広がってしまう可能性があります。

それでも何もしない訳にはいかず、フリードリヒは関係者2万人をその土地から追放することにしました。

追放先は、新たな宮殿を作っているフォジシア近くのルチェラに、新たに街を造り収容しました。この町での信仰の自由を認めたため、街には多数のモスクが立ち、1日5回礼拝の時になると礼拝の始まりを知らせるアザーンが町中に響きわたります。

もちろんフリードリヒは仕事も用意して、若者は軍に編入しイスラム人部隊を作りました。その他の男性は新しい宮殿の建設や、王領の農地で作物の栽培や、牧畜の仕事に着かせました。

火山性の土地であるシチリアの農地と違い、豊かに肥えたプーリアの土地で小麦や果樹などたくさん収穫できます。

ノルマン朝時代、シチリア王国のルッジェーロ2世がアラブの行商人が伝えた桑の栽培を始め、絹織物を作っていました。フリードリヒはこれに目を付け、王立の織物工場を作り、桑の栽培と共に女性を集めて絹織物の生産を始めました。それまで遠くシルクロードを通って運ばれてくる絹織物は、金の重さと同じ価値があると言われるほど、高価なものでした。フリードリヒが作った絹織物はシチリア絹と呼ばれ、高値で売買されました。

もともと貧しさから始まった叛乱でしたから、豊かになるとともに叛乱したことを忘れ、かえってフリードリヒに忠誠を誓うようになりました。

1228年フリードリヒは、聖地エルサレムの奪還を目指し十字軍を編成し、1229年2月11日にアル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還されることになりました。

血を流すことなく、聖地エルサレムの奪還に成功したことで、第6回十字軍の目的は達したと思っていたフリードリヒの元に、信じられない知らせが届きました。

破門中のフリードリヒがイスラム教徒と戦うどころか、エルサレムを取り戻すのに勝手に異教徒と講和したことで、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒが教皇に敵対し続けたとして、シチリア王国に対して攻撃を仕掛けました。

この時、先のサラセン人部隊が大活躍して、この攻撃を跳ね返しました。彼らにすればローマ教皇に負ければ、下手すると死罪、良くても奴隷として売られるか、土地、財産を没収のうえ追放される可能性があるため、必死で戦ったのでしょう。

このあたりのことについては ↓のブログの無血十字軍を見てください。

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その4 神聖ローマ帝国 戦わずにエルサレムを取り返した皇帝 フリードリヒ2世(第2章)

フリードリヒの働きにより、聖地への巡礼が容易になり ブリンディジの港から多くの巡礼者がエルサレムに向かって旅立ちました。

その中には各国の王族や、貴族達もいました。フリードリヒはその人たちをできたばかりのフォジシアの宮殿に招きました。

19世紀に描かれたパレルモのフリードリヒ2世の宮廷

出典ウィキペディア

フォッジアの宮殿はヨーロッパの宮殿と違い、イスラム人が造ったため広い中庭には木々が茂り、池や小川が配されていました。客人たちは宮殿に設けられたローマ式の大浴場で旅の汗を流した後、プーリア産のワインや山海の珍味、珍しい南国の果物が供され、さらにアラブ人の舞姫による舞踏も披露されました。そして帰るときにはシチリア産の高価な絹織物がお土産として贈られました。

メルフィ憲章『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)

フリードリヒはいつから教皇に逆らうようになったか、それは要しよう雨期にすごしたパレルモの地にあったと思います。

パレルモの宮殿近くにあるマルトナーラ教会にはシチリア王ルッジェロ2世の戴冠を描いたモザイクがあります。

マルトラーナ教会

 出典ウィキペディア

ノルマン人の王ルッジェーロ2世を描いたパレルモのマルトラーナ教会のモザイク壁画。

出典ウィキペディア

少し離れたモンアーレ大聖堂にはノルマン王朝最後の王であるグイエルモ2世の戴冠を描いたモザイクがあります。

モンレアーレ大聖堂正面

出典ウィキペディア

イエス・キリストより戴冠されるグリエルモ2世(モンレアーレ大聖堂に描かれたモザイク画。)

出典ウィキペディア

2つのモザイクを見ると、両方の王ともキリストから直性王冠を授かっています。

子供のころにこれを見たフリードリヒは、王冠は直接神から授かるもので、キリスト教の聖職者や信者に関しては、ローマ教皇が最高の地位にあるのは認めますが、ローマ教皇が世俗世界のトップであるローマ皇帝の戴冠を行うのは間違っていると、思ったのも不思議ではないと思います。

それにドイツに居るのなら別ですが、シチリアにいる限り、キリスト教徒であろうとなかろうと、仕事に関しては、たいした影響はありませんでした。

1230年7月、教皇との和解が成立し、破門が解けたことから本格的に国内の整備に取り掛かりました。

1231年の5月から9月にかけて、フリードリヒはイタリア半島南部にあるメルフィの城に国の要人たちを集めました。メルフィの城は大学のあるナポリとフリードリヒの居城があるフォッジアの中間地点にある城です。

メルフィ憲章が作成された、メルフィ城

出典ウィキペディア

ここでフリードリヒの念願である「法に基づいた国家の形成」について必要な法律を作成するためでした。

1231年9月1日、4か月に及ぶ協議の結果メルフィ憲章『皇帝の書(リベル・アウグスタリス)』が発布されました。

司法制度

新たに司法制度を作り、それまで各地の領主や教会が持っていた裁判権を取り上げ、裁判は各地に設けられた新しい裁判所で法に乗って解決するようにしました。もし判決に不服がある場合はより上級の裁判所に控訴することもでき、最終的には王であるフリードリヒの判断にゆだねることにしました。

裁判官にはナポリ大学で法学を治めた専門家があたり、各地での任期は1年としました。任期を1年としたのは、地元との癒着をなくすためです。また、弁護士や検事の職も作り裁判官、弁護士、検事、それぞれにギルド(組合)りその身分の保証と収入を安定させました。また貧しくて裁判を起こせない人には、裁判費用を国が負担することも決められました。

税制・経済

税に関しては、基本的に収入の12分1を国に納めさせました。もし、他国との争いが起きた場合は、その都度臨時に特別税を作り、徴収することにします。

更に塩、鉄、真鍮、タール(木造船の隙間を防ぐのに必要)を専売品とし、国が定めた値段で買い、それを4~6倍の値を付けて売ることで国の収入を増やしました。

大都市では日を決めて定期的に大きな市を開き、農民たちは税を納め自家消費分を除いた農産物を売り、手工業者が造った日用品を手軽に買えるようにしました。そのための正確な度量衡制度を整え、違反したものは罰金の他、市場への出店を禁止します。

更に信頼できる硬貨としてアウグストゥス金貨を発行し、貨幣経済の促進を図りました。

フリードリヒ2世の横顔を刻んだアウグストゥス金貨

出典ウィキペディア

そのほか

  • 貧民を対象とした無料の職業訓練・診察
  • 私刑の禁止
  • 薬価の制定
  • 役人に対する不敬・賄賂の禁止

等も決められました。

そして何よりも重要なことは、メルフィ憲章は誰でも読めるようにイタリア語で書かれたことです。

フリードリヒが新しい法律を作っていることはローマ教皇にも知られ、教皇はフリードリヒ宛に

『ローマ法王 を 頂点 に する キリスト教 世界 の 秩序 の 破壊 になり かね ず、 ゆえに 神 の 恩寵 を 失う 行為 になり かね ず、 神 と 信徒 たち にとって の 敵 になり かね ない ゆえ に やめよ」』

引用 塩野七生. 皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)(新潮文庫)

と知らせてきました。

これで止めるフリードリヒではないので、メルフィ憲章は無事成立しました。

いまさら破門しても言うことを聞かないのを知っている教皇グレゴリウス9世は、メルフィ憲章が発布された半年後の1232年2月キリスト教最大の汚点となる「異端裁判所」を設立しました。一旦異端者として告訴されると、控訴は認められず、即処刑されてしまいます。なにせ神の使いである教皇とその下にいる司教や司祭が決めるのですから、判断に間違いがあるはずがないという理屈です。

教皇グレゴリウス9世はさっそく厳格で知られるドミニコ会の修道士を送りましたが、メルフィ憲章により聖職者が勝手に裁判して罰することは禁じられていたので、異端者を捕らえて処刑することが出来ませんでした。

これと同じような手を使ったのが、北イタリアのジェノバでした。ジェノバでは異端裁判の時、市の代表者1名を同席させることを条件にしました。教皇はその条件を飲み異端裁判を行いましたが、いざ判決となるとその代表者が、どこかへ雲隠れしてしまったのです。そのため裁判は不成立となり、ジェノバでは一人の異端者も出せませんでした。

息子ハインリヒの反乱

この頃からドイツ諸侯から息子のハインリヒが、フリードリヒの規律を守らず、勝手に政治を始めて謀反の兆しがあるとの知らせが届くようになりました。

息子のハインリヒとは1220年8月、9歳の時に彼をドイツ王に任命した後、ローマ皇帝の戴冠を受けシチリアに戻って以来会っていませんでした。

そのため、後見人にケルンの大司教エンゲルベルトを指名しました。この人もフリードリヒ好みの人で、教皇インノケンティウス3世が推すオットー4世が皇帝の時、対立していたホーエンシュタウフェン家のフリップに味方して武器を持って戦ったことで、破門されてしまいました。

その後アルビ派の異端に反対する運動(アルビジョア十字軍)に参加して、その罪を赦されました。

1225年11月7日、大司教エンゲルベルトは、従兄弟のフレデリク公爵が女子修道院の土地と財産を奪ったことで激しくしかったことから恨みを買い、暗殺されてしまいました。父代わりのエンゲルベルトが亡くなり、息子が落ち込んでいると思ったフリードリヒが結婚話を持つてきました。相手は隣国オーストリア公のの長女マルグリットでした。もちろん父と同じく、オーストリアに勢力を伸ばしたいフリードリヒの政略結婚でした。

1225年11月29日、新郎14歳、新婦21歳の結婚でありこの結婚は最初から冷え切った女値でした。生まれた二人の息子も3歳と1歳で続けて亡くなったことから二人の関係は完全に冷え切ってしまいました。マルグリットはかなりきつい性格だったらしく、ハインリヒは年上の妻の尻に敷かればなしだったそうです。

マルガレーテ(マルグリット)・フォン・バーベンベルク(16世紀)

出典ウィキペディア

人生の初めからこの状態で、周りに立ち直させ、相談に乗ってくれる人もいない状態で、ハインリヒはだんだんと壊れて行ってしまったのだろう。そこで自分が統治しているドイツで周りの諸侯に無理を言って父親の気を引こうとしたのかもしれません。

しかし、この時期のフリードリヒは崩壊した七里は王国の立て直しと、教皇から催促されている十字軍で手一杯で息子を気遣っている暇はありませんでした。

1228年ハインリヒは親政を開始すると、王権を強化する政策を採り、諸侯の領地や裁判権に対して侵害し始めました。

1231年になりハインリヒに反発したドイツ諸侯は、父のフリードリヒが1924年に聖職者領主と結んだ「聖界諸候との協約」同じ内容の権利を世俗諸侯にも認める「諸侯の利益のための協定」を結ばせました。

1232年、メルフィ憲章を発行してシチリアの統治を軌道に乗せたフリードリヒは、北東イタリアのアクレイアに諸侯を招集して皇帝臨席の「ディエタ(会議)」を開きました。当然ハインリヒも、この会議に呼び出されます。

このディエタでハインリヒが結んだ「諸侯の利益のための協定」をが正式に認められました。これはハインリヒが望んだ思惑に反して、ドイツ王の権限を縮小させ、ドイツ国内領主の権限を増大させるものでした。さらに出席した諸侯の前で、ハインリヒがドイツ国内を混乱させた罪を数え上げ、今後守るべき事柄を箇条書きにして渡し、その実行を誓わせました。

このままおとなしく父フリードリヒの言いつけを守っていれば、長男であるハインリヒはローマ皇帝になれたかもしれませんが、彼は父親に反抗していまいました。

ハインリヒは父フリードリヒが、シチリア諸侯の領地と裁判権を奪い、さらにそれまで持っていた課税の権利に変わりに全国同一の税制を敷き中央集権国家を作ったのを見て、ドイツもすべての権利をドイツ王が握る中央集権的な国家にしようとしたのかもしれません。

ハインリヒは父の命令に背き、反フリードリヒ派の諸侯を集め、親ドイツで知られるフランスに協力を求めましたが、フランスは親ドイツよりフリードリヒ個人に好意を持っていたため断られました。

この様子を見ていたローマ教皇は、ロンバルディア同盟の盟主であるミラノとハインリヒを結託させました。これは立派な国家反逆罪になります。

1235年、フリードリヒは7歳の次男コンラッドを同道してドイツに向かいました。

しかし、ミラノが古代ローマ時代から続くアルプス越えのサン・ベルナール峠サン・ゴッタルド峠ブレンナー峠の3本の峠道のうち、最初の2本の入り口を抑えていたため、遠回りになるオーストリア経由のブレンナー峠からドイツに入りました。

中世、アルプス越えに使われた3つの峠の位置。

左側2つの峠道の入り口にミラノがあるため、一番右のオーストリア・チロル地方を通る、ブレンナー峠が使われました。

父がやって来ると聞いてハインリヒはミラノに避難しようとしましたが、フリードリヒに攻められるを恐れたミラノは、これを断ってしましました。

1235年7月4日、ハインリヒは父フリードリヒの元に引き出され、終身刑を言い渡され、南イタリアに送られました。6年後の1242年ハインリヒ氏ほかの城砦への移動中、乗馬もろとも崖から飛び降り、亡くなりました。

15世紀に描かれた絵画。
左:フリードリヒ2世
右:身を投げるハインリヒ7世

出典ウィキペディア

 

ハインリヒに終身刑を言い渡した11日後の1235年7月15日、フリードリヒはイギリスのジョン失地王の娘イザベラと3度目の結婚式をあげました。ハインリヒが嫡子の資格を失った今、後を継ぐのがコンラッド一人になったこともありますが、フランスで1229年アルビジョア十字軍が終わり、南フランスと北フランスとが協定を結び一体化したため、将来強大な力を持つことが予想されたためでした。そのフランスを牽制するためには、イギリスとの関係を強化することが必要でした。

フリードリヒの最初の妻コンスタンツァとの結婚でシチリア王、2番目の妻ヨランドではエルサレム王となったように、政略結婚に対して迷いはありませんでした。彼女との間に4人の子供が得られましたが、成人したのは娘のマルガリータだけでした。イザベラは1241年12月1日、4度目の出産後すぐ亡くなりました。

ロンバルディア同盟

1236年、息子ハインリヒの反抗問題が終わり、教皇と一緒になりハインリヒに反抗したロンバルディア同盟の処理に取り掛かりました。特に盟主のミラノは祖父バルバロッサの時に壊滅させられていたにもかかわらず、蘇ってきました。さらに近年では、南フランスで行われていたアルビジョア十字軍から逃げて来た難民を受け入れ、ヨーロッパではパリに次ぎ2番目に人口の多い都市となっていました。この時のミラノは多くの手工業者が集まり、十字軍に参加するための集まった騎士たちのために鎧や兜、剣等の武器を製造していました。このため多くの難民を受け入れることが、出来たのです。

このため人口の増えたミラノは、旧市街の外側に新しく堀と城壁を設けて、防備を増強しました。

1158年のミラノ市街図

出典 Wikipedia

フリードリヒはロンバルディア同盟の各都市と戦う前に、ローマ教皇グレゴリウス9世に頼み各都市の代表を集め、ローマ皇帝に従うよう説得するための会議を開くよう呼びかけました。この会議でフリードリヒは、メルフィ憲章で定めた12分の1税を納め、各都市で行った裁判の代わりに新たにフリードリヒが送った裁判官の元に裁判を行うことに同意してくれれば、後はそれぞれの都市で行っていた自治に任せるつもりでした。

しかし、この会議に参加したのは初めから皇帝派のクレモナと、庶子のエンツォと婚約を結んでいるサヴォイア伯国だけでした。サヴォイア伯国はミラノの西側に位置し、これに注目したフリードリヒは庶子のエンツォとサヴォイア伯の娘との婚約を成立させていました。

この為、ロンバルディア同盟の都市と、ローマ皇帝フレデリックの間を取り持ったローマ教皇の呼びかけは、無駄になってしまいました。しかし、これには訳がありました。

この時代ロンバルディア同盟の各都市は、南仏で行われていたアルビジョア十字軍による異端者狩りから逃れた来た難民を受け入れていました。そこでローマ教皇は会議に出席した都市には、異端裁判を行うと脅したのでした。ローマ教皇の本音は、ロンバルディア同盟がアルプスの峠道を封鎖して、フリードリヒが簡単にドイツとイタリアを行き来出来ないようにしてくれた方が都合がよかったのです。もちろんフリードリヒもこのことは承知しており、わざわざローマ教皇までが乗り出した、和平の呼びかけを拒否したとして、ロンバルディア同盟16都市への攻撃を開始しました。

1236年8月、フリードリヒは騎兵1000騎、歩兵2000名を率いてブレンナー峠を超え、麓のヴェローナに入りました。鋼鉄製の鎧兜に身を固めた1000騎の騎士を目にした教皇派の都市ヴェローナは、相手が戦いを仕掛けてこない以上一時的に、フリードリヒを受け入れました。

フリードリヒはこの都市で、以前コンスル(執政官)を務めていたエッチェリーノ・ダ・ロマーノを仲間に加えました。

教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)

北イタリアのコムーネ(自治都市)が、教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)に分かれたのは叙任権闘争が初めでした。

教皇派を呼ぶのは、ホーエンシュタウフェン朝のハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世が叙任権闘争で争うと、バイエルン公ヴェルフ1世はグレゴリウス7世側に就き、1077年年3月にシュヴァーベン公ルドルフを対立王に擁立し、その子ヴェルフ2世をトスカーナ伯マチルデ(カノッサで有名なカノッサ城の城主)と結婚させることで、ローマ教皇との連携を図りました。このことからヴェルフ家の名前を取り、教皇派を(ゲルフ)と呼ぶようになりました。

皇帝派のギベリンの名は、ローマ教皇と対立していたホーエンシュタウフェン朝の居城がドイツのヴァイブリンゲン(イタリア読み、ギベッリーニ、Ghibellini)に在ったことからつけられました。

各コムーネにおいて教皇派となるか、皇帝派となるかは固定したものではなく、支持する勢力の強さにかかっていました。このためコムーネによっては両派の勢力争いで死者が出る事態となり、仕方なく他のコムーネから執政官を招いて、市政を任せることにしたところが出てきました。このように他のから招かれて市政を任された人はポデスタ(執政長官)と呼ばれました。

 

フリードリヒに招かれたエッチェリーノは、1226年教皇派の父エッチェリーノ2世の跡を継ぎ、ヴェローナのコンスル(執政官)となり、初めは教皇派としてロンバルディア同盟に加盟していました。しかし、途中で気が変わりフリードリヒが決めたメルフィ憲章の12分の1税と裁判所の開設を認め、皇帝派に鞍替えしました。

事態を重く見た教皇グレゴリウス9世は、1233年にドミニコ会の修道士ジョバンニをヴェローナ公として送り教皇派の勢力を取り戻しました。このためエッチェリーノはコンスルの職を奪われてしまい、それ以後ローマ教皇に対して恨みを抱くようになりました。もともと「人の姿をした悪魔」と称されるほどの残忍な性格と、腕っぷしの強さをかい、フリードリヒはこれから行う対教皇派の都市との争いに使うつもりで仲間に加えました。

エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ

出典ウィキペディア

おまけになりますが、この時代のヴェローナで実在した教皇派と皇帝派の争いをもとに、劇作家ウィリアム・シェイクスピアは戯曲「ロミオとジュリエット」を書きました。

劇中でロミオの生家であるモンタギュー家の元になったのは、ヴェローナのモンテッキ(イタリア語)家で1100年の終わりごろから大商人として活躍しており、当時は皇帝派の代表として1259年まで、エッチェリーノを支援していました。

一方ジュリエットの居たキャブレット家の元は、教皇派のカペレッティ(イタリア語)家で、先祖はヴェネツィア共和国の騎兵として勤めていましたが、後に香辛料を販売する商人としてヴェローナに移ってきました。

ジュリエットが居た家となった、カペレッティ(英語読み キャピュレット)家のバルコニー。

ちなみにロミオの居たモンテッキ(英語読み モンタギュー)の家もありますが、こちらは個人が所有して住んでいるため、非公開となっています。

出典ヴェローナ観光局

残忍で教皇嫌いで有名なエッチェリーノが率いる、1000騎の騎士を先頭にしたフリードリヒの軍は、ヴェローナを後にして、南側にある都市マントヴァに寄り、さらに教皇派の都市を巡りながら、10月30日昔からの皇帝派である都市クレモナに到着しました。

10月31日、フリードリヒは、騎士1000騎だけを連れて、東に150km離れたヴィチェンツァに向かいました。普通クレモナからヴィチェンツァまで2日から3日かかるところを半日でやってきました。しかもヴィンチェンツアはクレモナから見て正反対の方角にあります。そのため城門を占めるのが間に合わず、城内への進入を許してしまいました。

城に入ったフリードリヒは殺戮、強奪、破壊、放火と暴虐の限りを尽くし、街は完全に破壊されました。その先頭に立ったのがローマ教皇を憎んでいたエッチリーノでした。

街を破壊尽くしたフリードリヒは回廊の脇に立っていた樹木の枝を、剣で切り落とし

「われに反するものは、こうなるのだ。」

と宣言しましたが、それを見ていたエッチリーノは、持っていた三又の槍(穂先が⍦の形をした槍)を根元に差し込み、

「そうではない!!こうするのだ」

と言いながら、根こそぎ木を引き抜いてしまいました。

この話は北イタリア中に広まり、11月の終わりには東側の8つの都市がフリードリヒに服従を誓いました。アルプス越えに不向きな冬が近づいたため、フリードリヒはヴェローナを含め新たに獲得した都市をエッチリーノに任せ、一旦ドイツに戻りました。

フリードリヒはドイツに戻る途中のウィーンで、ディエタ(ドイツ諸侯会議)を開き次男のコンラッドを正式にドイツ王として認めさせました。ドイツ国内でなくウィーンでディエタを開いたのは訳がありました。

フリードリヒの長男の妻マルガリットが生まれたばかりの息子を連れて、実家のオーストリア公の元に帰っていました。そのためオーストリア公レオポルト6世は、この子を次のドイツ王にしようとしていたのでした。そのためフリードリヒは機先を制するため、次男のコンラッドをドイツ王にする必要があったのです。

 

2回目となるロンバルディア同盟との闘い

1237年9月、フリードリヒは1万5千の兵を率いて再びロンバルディア同盟との戦いを開始しました。集めた兵の中には、ドイツからの他、征服した北イタリアの都市やシチリアからやって来たサラセン人の弓兵もいました。

フリードリヒはアルプスからの出口であるヴェローナを守るため、すぐ南にあるマントヴァを攻撃しようとしましたが、マントヴァは攻められる前に降伏しました。それを見て、さらに南にあるパルマもフリードリヒの服従を誓います。

この時、ミラノからポデスタ(執政長官)のティエポロが8千の兵を率いてマントヴァ救援に向かいましたが、途中のブレシアまで来たところでマントヴァが陥落し、フリードリヒが迫ってきたため、ミラノに帰るにも後ろから襲われる危険があるためそのままブレシアに留まっていました。

フリードリヒもクレモナに到着しましたが、このままミラノに進むと、ティアポロが率いるミラノ軍に背後を取られることになり、両軍とも動きが取れない状態となってしまいました。

 

 

ロンバルディア同盟、1237年~1238年にかけての様子。

黒線がフリードリヒが率いる皇帝軍の進路。

赤線がミラノ軍の進路。

赤丸で囲った都市が、新たに獲得した街

青丸で囲った都市と、大学のあるボローニャだけがロンバルディア同盟に残りました。

11月初め、このまま睨み合いを続けても、冬が来ると戦闘に不向きな季節になるため、フリードリヒは思い切って攻勢に出ることにしました。

ブレシアの町は、オ―リオ川によって作られた湿地帯の中の丘の上にあります。先に到着したミラノのティエポロの軍は街に近い高台の上に、陣を敷いていました。

反対にフリードリヒは、湿った湿地帯に軍を置くしかありませんでした。時が経つにつれ、フリードリヒの軍はだんだん弱って来て、士気が落ちてきました。

11月下旬、フリードリヒは全軍にクレモナへ撤退するよう命令を出しました。しかし、これはフリードリヒの仕掛けた罠でした。クレモナへ撤退したと思わせた軍は、途中で反転して、オーリオ川を渡ったところにあるコルテヌォーヴァで、ティエポロの軍を待ち構えていました。

2015年パリオディレニャーノの歴史的パレード中のカロッチョの複製

出典 Wikipedia

1237年11月27日、フリーどりヒがクレモナに引き返したと信じたティエポロの軍は、野営地を引き払いミラノへ帰り始めました。

フリードリヒはミラノ軍全軍がオーリオ川を渡り切ったところで、総攻撃を命じました。帰り道でもあり、寒い中、川を渡った直後の軍は戦いの準備が出来ていなかっため、3000人の死者と4000千人の捕虜を出し、ミラノ軍は壊滅しました。

死者の半分以上は、逃げようとしてオーリオ川に飛び込んで溺れたものと、市のシンボルのカロッチョを守るための死んだ人たちでした。

カロッチャは、4頭の牛に曳かせた大きな荷車の上に、市のシンボルである旗と祭壇、鐘を乗せ、戦いの最中には司祭が勝利のためのお祈りをあげ、周りには戦意を盛り上げるために数人のラッパ手がラッパを吹き鳴らした居ました。

こんなもの動きが鈍い上に、敵を呼び寄せるだけなので邪魔だと思いますが、市の象徴であるカロッチョを敵に奪われまいとして、多くの人が死んでしまいました。

戦いの後、フリードリヒは奪い取ったカロッチョをローマに運び、戦勝のあかしとして展示しました。

この戦いの後、ミラノ周辺のローディ、ヴェルチェッリ、パヴィアの街が、フリードリヒ側に加わり、18あったロンバルディア同盟の都市は、5都市に減ってしまいます。

 

 

 

 

 

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