100年以上続くホーエンシュタウフェン朝( 1138年~1254年、シチリアでは1266年まで)て゛活躍した3人の王について書いていきます。この3人達はドイツ、イタリアだけではなく、古代ローマ帝国に続く、世界帝国を夢見ていました。
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亀仙人2ホーエンシュタウフェン朝
ホーエンシュタウフェン家の登場
1125年、皇帝ハインリヒ5世が亡くなると嫡子がないためザリエル朝は断絶してしまいました。
ハインリヒ5世は姉の嫁ぎ先であるホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の王位継承を願っていました。
1125年マインツのドイツ諸侯による国王選挙の結果、ザリエル家と対立し続けていたヴェルフェン家のザクセン公ロタールがドイツ王(ロタール3世)に選出されて、ズップリンブルク朝を開きました。
国王選挙で敗れたホーエンシュタウフェン家はこの結果に不満を持ち対立王のコンラートを立て、ヴェルフェン家のロタール3世に対して反乱を起こし、ドイツ国内は10年近く内乱状態となりました。
1133年6月4日、ロタール3世はラテラノ教会でインノケンティウス2世から皇帝の冠を授けられました。
1137年、ロタール3世は教皇の命を受けたシチリア遠征の帰り道、ブライテンヴァンクで死去してしまいます。ロタール3世には嫡子が居ないためズップリンブルク朝は一代で断絶することになりました。ロタール3世は自身のザクセン公を継ぐことになる娘婿、ヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ10世(傲岸公)を後継者に望んでいました。
1138年3月7日、コブレンツで国王選挙が行われ、ホーエンシュタウフェン家のコンラート(コンラート3世)が選ばれ、ホーエンシュタウフェン朝が始まりました。
これはバイエルン公ハインリヒ10世が、ロタール3世からザクセン公領も引き継いだため、皇帝の力が強くなることにドイツ諸侯が反対したためで、当時は弱小勢力であるコンラート3世が選ばれました。
ハインリヒ10世は新王に対してザクセン公位の承認を求めたが、彼の強大化を恐れたコンラート3世は2つの公位を兼ねるのは不法だとして拒否し、公位を没収してザクセンをバレンシュテット伯アルブレヒト熊公、バイエルンを異父弟のオーストリア辺境伯レオポルト4世に与えました。
ハインリヒ10世は捕らえられ、2年後の1139年10月20日死去しました。
コンラート3世はハインリヒ10世の死後、遺領の返還を求める子のハインリヒ11世(獅子王)と王位をめぐって戦い、コンラート3世から取り上げたザクセンの所領を返すことになりました。
これ以後イタリアも巻き込んでホーエンシュタウフェン家を中心とする皇帝派(ギベリン)と、ヴェルフ家を中心とする教皇派(ゲルフ)との対立が激しくなりました。(参考ウィキペディア 教皇派と皇帝派)
神聖ローマ帝国の領域の変化(ホーエンシュタウフェン朝初期時代)
出典 コトバンク
皇帝の支配する帝国を作った、フリードリヒ1世赤髭王(バルバロッサ)
1152年、病に倒れ死期を悟ったコンラート3世は二人の子供を差し置いて、甥のフリードリヒ1世(赤髭王)に王位を譲りました。
フリードリヒ1世。
髭が赤いことからバルバロッサ(イタリア語=赤髭)と呼ばれました。
出典 PILLOLE DI CONOSCENZA (知識の丸薬)
フリードリヒ1世がローマ王に選ばれたのは、幼い時から英明であると認められていたほか、母親のユーティトが叔父のコンラート3世と戦ったハインリヒ10世の妹のため、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家両家の血を受けていることにより、両家の争いを収めることが期待されたためもあります。
ヴェルフ家略系図
ヴェルフ家略系図
引用ウィキペディア
ホーエンシュタウフェン朝 略系図
出典 コトバンク
イタリア遠征
北イタリアのヴェネツィアとジェノヴァでは、1095年教皇ウルバヌス2世の十字軍派遣の呼びかけ以来、東方のイスラム圏との行き来が盛んになり、東方貿易が発達しました。こうした都市から持ち込まれた絹織物や胡椒などの香辛料は、アルプス越えの峠道が集中するミラノを通り、ヨーロッパ各地に運ばれるようになりました。
東方からの品物に対する代価として、ヨーロッパからは、1192年、ヴェネツィアで質の高いグロート銀貨が鋳造され、また金貨はシチリア王国(1231年)で鋳造されたのを初め、フィレンツェのフィオリーノ金貨(1252年)、ヴェネツィアのデュカット金貨(1284年)などが生まれ使用されました。
ヴィネツィアのデュカット金貨
出典 ウィキペディア
これにより北イタリアでは、自給自足の経済から、一挙に貨幣経済に変化しました。
また十字軍の遠征により、騎士たちが身に着けるプレートアーマーと呼ばれる全身を覆う鉄製の甲冑が生まれ、ミラノが主な生産地となりました。
全身を覆うプレートアーマー
1540年 スウェーデン (ドイツ)
出典ウィキペディア
それまでイタリアの都市はその地域の領主の下で、教会の司祭が行政を行っていましたが、経済的に豊かになったミラノなどの市民は商人ギルド(組合)を中心にして自治権を獲得し、都市国家を建設していきました。その過程で封建領主と戦うため、ローマ教皇の支持を受けることが多くなりました。また、増え続ける都市住民を養うため、周辺の農地を領主から買収したり、奪ったりして領域を広げていきます。ミラノなど大都市では、封建領主並みの領地を持ち、独自の軍組織を備えるところまでも出てきます。
この様な都市は北イタリアではコムーネ(自治都市・都市共和国)と呼ばれます。コムーネとなった都市では、それまで皇帝の持っていた税の徴収権や、住民の裁判権などを奪い、皇帝の権力の及ばない地域となってしまいました。
1154年10月、フリードリヒ1世(バルバロッサ)は皇帝の庇護下にある封建領主の実権や、周辺の農地からの税収がこれら都市国家に奪られることの対策として、北イタリアへ遠征しました。この遠征には従兄弟の当たるヴェルフ家のハインリヒ11世(獅子王)も参加します。
翌1155年6月18日、聖ペテロ教会(後のサン・ピエトロ大聖堂)で教皇ハドリアヌス4世からローマ皇帝として戴冠されます。
この第1次イタリア遠征では、ミラノから貨幣鋳造権を奪い、これを皇帝に忠誠を誓ったクレモナ市に与えるだけに留まりました。後にこのクレモナ市が、反皇帝派の都市で結成されたロンバルディア同盟を提唱することになります。
イタリア遠征から帰ると、一緒に参加したハインリヒ11世の労をねぎらうため父のハインリヒ10世から奪ったバイエルンの領地を返し、バイエルン公としました。
1157年、教皇ハドリアヌス4世はフリードリヒ1世をローマ皇帝として戴冠したことにより、帝国の領地は教皇の封土であると宣言しました。
これに怒ったフリードリヒ1世は両剣論をもとに、皇帝の位は教皇からではなく、皇帝の位は神から直接与えられたもので、教皇は世俗権力に介入できる権利はないと主張しました。
両剣論とは
新約聖書ルカ伝第22章38に記載されている
弟子たちが言った。『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』イエスは言われた。『それでよい』
ラテン語:at illi dixerunt Domine ecce gladii duo hic at ille dixit eis satis est引用ウィキペディア
ハインリヒ6世とシチリア王国
シチリア王国の始まり
始まりは、ロベルト・イル・ルイスカルドとルッシェーロ1世の父タンクレードが傭兵として働くために、北フランスのノルマンディー公国から南イタリアにやってきたことから始まりました。当時のイタリアはビザンチン帝国やペルシャと北アフリカからのイスラム教徒が侵入を繰り返し、その土地の領主は侵入者から守るための傭兵を必要としていました。
彼等は、傭兵として働く傍ら、仕事がない時は山賊みたいなことをして(ほぼ山賊)領地を広げ、勢力を伸ばしていきます。
イタリアでローマ教皇とローマ皇帝による叙任権闘争が始まると、タンクレードの6男のロベルト・イル・グイスカルドが教皇側の傭兵としてローマ教皇ニコラウス2世に雇われました。
ロベルト・イル・グイスカルドの働きによって、対立教皇のベネディクトゥス10世からローマを追放されたイルデブラント(後のグレゴリウス7世)と共にローマを制圧することが出来ました。
この功績によりロベルト・イル・グイスカルドは今後も教会の守護することの引き換えに、アプーリア、カラブリア(イタリア半島の先端部分)とシチリアの公爵位を与えられました。
シチリアの統一を任せられた弟のルッジェーロは、1072年パレルモを陥落兄のロベルトからパレルモ伯(ルッジェーロ1世)に任じられました。
ロペルトは南イタリア全体と、ビザンチン帝国制覇を目指しコルフ島アルバニアを征服したところで、ローマ皇帝ハインリヒ4世(カノッサの屈辱の主人公)によってローマのサンタジェロ城に包囲された教皇グレコリウス7世を助け出すために、呼び戻されてしまいました。
助け出された教皇グレゴリウス7世は、ロベルトの支配する南フランスのモンテ・カッシーノからサレルノへと移動して、1085年5月25日サレルノで亡くなりました。
その2か月後の1085年7月17日、再びビザンチン帝国遠征に出たロベルトは、熱病にかかり病死してしまいます。
ロベルトの領地は頭領となったルッジェーロ1世が引き継ぎ、長男のシモーネが早世(12歳)した為、1127年弟のルッジェーロ2世に移りました。
1130年、南フランスに強力な勢力が出来ることを恐れたローマ教皇イノケンティウス2世は、ローマ皇帝ロタール3世にシチリアの遠征を要請しました。
同じ年、ルッジェーロ2世は反教皇派が擁立した対立教皇アナクレトゥス2世から、シチリア王位を授けられました。この時からシチリア王国が始まります。
しかし、ロタール3世との闘いには負け続け、領地の大半を取られてしまいます。
しかし、ロタール3世がドイツに帰国すると形勢は逆転して、1139年までには失った領土を取り戻すことが出来ました。
1138年対立教皇アナクレトゥス2世が死亡すると、ルッジェーロ2世はイノケンティウス2世と和解し、1144年にシチリア、ナポリ王位を認められました。
ルッジェーロ2世のシチリア王国は、盛んに海上交易をおこなうとともに、多様な文化、宗教を認める政策を採り、イタリア人、ギリシア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人等が住み多民族国家を形成しました。
これにより、キリスト教のもとで異教としてで禁止されていた、ギリシャ神話、ユダヤ教の旧約聖書、イスラム教のコーラン、ゾロアスター教の聖典などが次々とラテン語に翻訳され、ギリシャ哲学、数学、天文学、占星術なども知られるようになり、12世紀にはじまるルネッサンス文化の基礎が作られました。
ルッジェーロ2世は1154年2月4日に亡くなりシチリア王位は、息子のグリエルモ1世とその子グリエルモ2世に続きます。
シチリア王略系図
出典ウィキペディア
1189年グリエルモ2世が病死してしまうと、後を継ぐ子がないためシチリア王国の王位は叔母のコスタンツァ(シチリア女王)に移りました。
その三年前の1186年1月27日コンスタンツァは神聖ローマ帝国フリードリヒ1世の嫡男ハインリヒ6世と結婚していました。
このためシチリア王国の位は、コンスタンツァか、その夫のハインリヒ6世が継ぐことになりました。
このまま行けばローマ教皇庁は、南北を反教皇派であるホーエンシュタウフェン朝のドイツ帝国と皇帝ハインリヒ6世と結婚したコンスタンツァのシチリア王国に、挟まれてしまいます。
この事態を打破するため、時の教皇クレメンス3世は本来は相続権のないルッジエーロ2世の長男ルッジエーロ3世の庶子(正妻以外の女性から生まれた子)であるタンクレーディを後継者に推し、タンクレーディは第4代シチリア王として即位しました。
もちろん正規の王位相続人であるハインリヒ6世が黙っているはずがなく、1191年1月、シチリア遠征を行います。
1191年4月ハインリヒ6世ととコンスタンツァはローマでローマ教皇ケレスティヌス3世からローマ皇帝・皇妃に戴冠されます。
ナポリを包囲したところで、イギリスに国外追放されていたハインリヒ11世(獅子王)がドイツに戻り反乱を起こしたため(もちろんこの裏にはローマ教皇と教皇派諸侯の働きがありました)、帰国せざるを得なくなりました。
ここで思わぬ幸運が訪れました。1192年十字軍遠征から帰国途中の英国王リチャード1世(獅子心王)がオーストリア公レオポルト5世に捕らえられ身柄はハインリヒ6世に渡されました。
1193年リチャード11世は15万マルク(10万ポンド)という多額の身代金と引き換えに、イギリスに帰ることが出来ました。
これまでザクセン公ハインリヒ11世を陰から支えて来て英国王リチャード11世が十字軍遠征とこの身代金によって財政がひっ迫したため、ハインリヒ11世の援助が出来なくなり、1194年ハインリヒ11世は皇帝ハインリヒ6世と和解し、1195年8月6日に死亡しました。
1194年シチリア王のタンクレーディが55歳で亡くなり、わずか9歳の息子グリエルモ3世がシチリア王となります。
これを機にハインリヒ6世は大軍を率いてシチリア遠征を行い、1194年12月25日イタリア王に即位しました。
ハインリヒ6世がイタリア王に即位した翌日、妻のコンスタンツァがイェージの町の広場に張られた大きなテントの中で、息子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世)を出産しました。
コンスタンツァがイェージの町で出産したのは、ハインリヒ6世の即位式に出席するためシチリアへに向かう途中、急に産気づいたためでした。
このテントには町の有力者が招かれ、コンスタンツァが本当にフリードリヒを出産したことを証明するために、立ち会っていました。
ハインリヒ6世がドイツに帰国すると、ドイツ人のシチリア支配に反対する勢力が反乱を起こします。1197年9月28日、ハインリヒ6世はシチリアの叛乱を抑える準備をしている最中にマラリアにかかって病死してしまいました。
後にはわずか3才の息子フリードリヒと、遺言によってフリードリヒの摂政となった母親のコンスタンツァが残されました。
古代ローマ帝国復活を夢見た、フリードリヒ2世
イタリア生まれ、イタリア育ちのドイツ皇帝
ビザンチン帝国(東ローマ帝国)初期
出典 コトバンク
ローマ帝国が東西に分かれて西ローマ帝国が滅びた後(476年)も、東側のバルカン半島からエジプトにおける地域は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)となって残りました。
610年頃ムハンマドがメッカで神の啓示を受けたとして、アラビア半島でイスラム教を広め始めました。ムハンマドは地元のヒジャーズ人や北方のユダヤ人と戦いながら、アラブ人をまとめ、632年死を迎えるころにはアラビア半島の大半を支配下に置いていました。
ムハンマドが死んだ時、ビザンチン帝国とサザン朝ペルシャは約1世紀にわたる戦いを繰り返していて、両国とも疲弊していました。
ムハンマドの跡を継いだカリフたちは、この隙を突き、642年ニハーヴァンドの戦いでサザン朝ペルシャを滅ぼし、ビザンチン帝国のバルカン半島とアナトリア半島を残し東地中海沿岸からエジプトを経て北アフリカまで勢力を広げました。
第4代のカリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブが首都をアラビア半島のメディナからイラクのクーファに移したことから内部対立が起こり、暗殺されてしまいます。
アリーの暗殺後、アリーの政敵であったシリア総督ムアーウィヤが自らカリフに就任してウマイヤ朝を開きます。
イスラム帝国の版図はさらに拡大し西は北アフリカのモロッコからイベリア半島まで、東は中央アジアから唐と国境を接するタクラマカン砂漠まで広がりました。さらに仏教伝搬の通り道であるガンダーラでインドに接していました。
おまけに言うとダルマさんの元になった達磨大師は、サザン朝ペルシャの人です。
濃い口髭に太い眉、さらに胸毛まで生えてる達磨大師の絵
達磨を描いた 月岡芳年『月百姿 破窓月』
(木版画 1887年)
出典ウィキペディア
イスラム帝国の拡張
a ムハンマド時代(622~632) b 正統カリフ時代 (632~661) c ウマイヤ朝(661~750) d ビザンツ帝国
1.メッカ 2.メディナ 3.ダマスクス 4.イェルサレム 5.バグダード 6.アレクサンドリア 7.コルドバ 8.グラナダ 9.トゥール 10.ポワティエ 11.ローマ 12.コンスタンティノープル
13.ニハーヴァンドの戦い 14.トゥール=ポワティエの戦い 15.タラス河畔の戦い
出典 世界史の窓
ここから、フリードリヒ2世時代のイスラム帝国に入ります。
8世紀半ば、ウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家を指導者として行われた革命によって、アッバース朝によるイスラム帝国が誕生しました。
アッバース朝(750~1517)の範囲
出典ウィキペディア
ここで大きな変化が起こりました。シルクロードを通ってはるか中国の唐から紙の製法が伝わりました。
古代エジプトでは神の元祖と言われているパピルスが用いられていましたが、作るのが大変なので普及しませんでした。
パピルスの作り方
カミガヤツリ(パピルス草)
出典ウィキペディア
原料となるカミガヤツリは高さが数メートルになる大きな草で、この茎の部分の皮を取って、芯の部分を薄く削り細長い板を作ります。
これを2~3日水に付けた後、縦横にきちんと重ねて並べ、布をかけて槌などで強くたたき、薄く延ばすと同時に繊維を破壊して樹脂を出します。
出来た物を布で包み日陰で干すと、樹脂が醗酵してお互いに強く接着して一枚の板となります。
この板を滑らかな石や、貝殻、象牙などで磨き薄くするとパピルスの出来上がりです。
今でいえば表面がつるつるになった、薄いベニヤ版みたいなものです。
プラトンの著作を記したパピルスの写本
よく見れば、縦・横に細長い板が組み合わされているのが分かります。
出典ウィキペディア
紙と違って折ることが出来ないため、書物などはこれをアラビアゴムで長く貼り合わせ、巻物にして使っていました。
アッバース朝の首都バクダットでは、紙が大量に生産され、ギリシャを中心としたヘレニズム文明やエジプト・メソポタミアから伝わったオリエント文明等の書物が「知恵の館(バイト=アルヒクマ)」で翻訳されアラビア語で記録されました。
また遠くインドからは現代の使用されている「数字の0」を含むアラビア数字の元となるインド数字が伝わり、それまでエジプトで発展してきた幾何学(ユークリッド幾何学)に変わり代数学が盛んになりました。
この数字を用いることで複雑な計算が出来るようになったため、星の軌道を予測できるようになり、天文学が発展します。
出典 筑波大学名誉教授、アラブ調査室室長 塩尻 和子 著「イスラーム文明と何か・・・現代科学と文化の礎』
この様にして200年後のルネッサンスの基礎となるアラビア語で書かれた文献は、十字軍によってヨーロッパに持ち込まれ、イベリア半島のトレドや、フリードリヒの居たシチリアのパレルモでラテン語に翻訳されていました。
これらの文書に親しむことで、フリードリヒはローマ教皇庁が唱えるカソリック中心の世界をはるかに超えた世界があることを、知ってしまいました。
この間フリードリヒが治めるはずのシチリア王国は、摂政である教皇イノケンティウス3世が送ってきた教皇使節団は行政に対して能力がなく、国内は元からいたシチリア人と統治しているドイツ人との争いや、アラビア人の反乱、さらに北イタリアにある有力都市の浸食などで王国の帝をなしていませんでした。
そのような中フリードリヒは1209年12月26日、14歳になったフリードリヒは自ら成人に達したと宣言して、後見人の教皇の元を離れこれからは全て自分の意志で行うと宣言しました。
普通、成人式は15~17歳でしてもらうのですが、フリードリヒにはそれまで待っていられない事情が生じたのです。
この後フリードリヒは生涯をかけて、カソリックを妄信し続けている歴代のローマ教皇と戦い続けることになりました。
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なぜ戦争が始まるのか 神と人の戦い ローマ教皇と神聖ローマ帝国 その4 神聖ローマ帝国 戦わずにエルサレムを取り返した皇帝 フリードリヒ2世(第2章)
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