2024/09/20
東西に分かれたフランク王国のあと、東フランク王国のオットー1世が、ローマ教皇から皇帝の冠を受けたところから、有名なカノッサの屈辱の後までを書いていきます。
神聖ローマ帝国の成立まで
ザクセン朝
912年フランク人の王コンラート1世は、反発するザクセン人のザクセン公ハインリヒ1世と王の座を巡り、東フランク王国は内戦状態となりました。
918年、戦場で負傷し死の床にあったコンラート1世は、後継者に宿敵のザクセン公ハインリヒ1世を後継者に指名し、919年37才でなくなりました。
コンラート1世がハインリヒ1世を後継者に指名したのは、王国の分裂を防ぐため、国の将来を最も力のあるハインリヒ1世に託したためです。
919年、王位を継承したハインリヒ1世は国内の有力諸部族(バイエルンやシュヴァーベンなどの分国)と一定の妥協をしながら王権に組み込み、解体しかけていた国内を統一しました。
更にマジャール人(ハンガリー人の元になった部族)に対する防衛戦に成功し、北方のデーン人、東方の西スラヴ人と戦い、領土を拡張しました。
929年9月16日ハインリヒ1世は次男オットーを次期国王にする王令を発布しました。これまでフランク王国では複数の子がいる場合は、それぞれに分割相続してきましたが、ハインリヒ1世はこれを改め、王国の弱体化を防ぐため、ひとりに単独相続することにしました。
ハインリヒ1世時代のドイツ(色のついた部分)
オットー1世(初代神聖ローマ皇帝)
936年7月2日、ハインリヒ1世が狩りの途中脳卒中で亡くなると、かねてからの指定通りオットーが王位につき、オットー1世が国王となりました。
オットー1世は直轄地のザクセンの他、王国を支えるフランケン、バイエルン、シュバーベン、バイエルンなどの大公領に対して、政略的な婚姻や、跡継ぎの絶えた大公領に自分の肉親を継がせるなどして、王国を支える大公領をすべてオットー1世とその近親者で占めることで、国内の内紛を閉じ込めました。
950年、イタリアの王位継承権を持つイタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデがオットー1世に救いを求めてくる事件が起こりました。
彼女は、イタリア王位を狙うイヴレア辺境伯ベレンガーリオとその息子アダルベルトに結婚を迫られ、断ったために幽閉されているというのでした。
951年オットー1世は、アデライーデと結婚し、イタリア王となります。
960年、オットー1世に敗れたベレンガーリオと息子アダルベルトは教皇ヨハネス3世を攻撃しました。教皇ヨハネス3世はオットー1世に救いを求め、オットー1世は再びイタリアに遠征して、教皇を助け出します。
962年、助けられたお礼として、教皇ヨハネス3世はオットー1世に「ローマ皇帝」の冠を授けました。ここから神聖ローマ帝国が始まります。
ここに至るまでの経過は、非常にややこしいので、この部分は読み飛ばして結構です。
独立イタリア王国
870年のメルセン条約締結後、875年イタリアを支配していたロドヴィコ2世(皇帝ルートヴィヒ2世)が亡くなると跡継ぎが居なかったため、イタリアは王の座を巡って各地の有力な諸侯の争いが続きました。
その中で、888年母ギーゼラがフランク王女であることから、フリウーリ辺境伯ベレンガーリオが、諸侯および司教の特別議会においてイタリア王ベリンガーリオ1世として認められました。
ベリンガリーオ1世が即位した888年から、オットー1世がローマ皇帝に戴冠した962年までを「独立イタリア王国」の時代と言います。
ベリンガリーオ1世に対立する諸侯は、同じく女系(母親がピピンの娘)でフランク王国の系列を持つスポレート公グイードを立て争いました。
グイードははベレンガーリオ1世とイタリアの王位をかけて争い、889年のトレッビア川での戦いで彼を破りパヴィーアでイタリア王に即位し、続いて891年グイードは教皇ステファヌス⒌世に強要して自ら皇帝に戴冠させ、息子ランベルトを共同のイタリア王として認めさせました。
しかし、ベリンガーリオ1世は、司教によって選ばれたイタリア王位は、破門されない限り有効であるとして、退位を拒み王位に就き続けました。
ここでイタリア王が二人いることになりました。
同じ年、教皇ステファヌス⒌世が亡くなると、新たにフォルモススが教皇となり、翌892年グイードは新教皇に圧力をかけ、息子のランベルトを共同の皇帝として認めさせました。
893年、グイードとランベルトの圧力を受けたフォルモスス教皇は、東フランク王アルヌルフ(皇帝ルートヴィヒ2世の孫)に助けを求めました。
アルヌルフは庶子ツヴェンティボルトイタリアに派遣してベリンガーリオ1世と協力してことを収めようとしましたが、失敗してしまいます。
894年グイードが亡くなると、皇帝位は息子のランベルトに継承されました。ただランベルトがまだ幼かったため(ランベルトがいつ生まれたのかはっきりしないため、正確な年齢は分かりませんが15歳前後と思われます)母親のアジェルトゥルデが摂政となって補助しました。
同じ年、東フランク王アルヌルフがイタリアに出兵しました。
摂政のアジェルトゥルデはランベルトの皇帝位の正式な公認を求めてローマに行きましたが、フォルモスス教皇が東フランク王アルヌルフを皇帝にするつもりてあったため、サンタンジェロ城に監禁してしまいます。
896年2月、東フランク王アルヌルフがランベルトを破ってローマに入城し、教皇フォルモススを助け出して、教皇から皇帝の戴冠をされました。
同年4月、教皇フォルモススが死亡し、東フランク王アルヌルフも戦いで移動中に脳溢血で倒れ故郷に帰った為、再びランベルトがローマを支配することになりました。
898年10月15日、ランベルトは狩りの途中で死亡してしまいます。
899年、ベレンガーリオ1世は正式にイタリア王に選出され、王位に着きました。
同じ899年東フランク王アルヌルフが死亡し、皇帝位が空位となりました。
これを受けて、トスカーナ辺境伯アダルベルト2世と教皇ベネディクトゥス4世はプロヴァンス王ルイ3世を皇帝位に就けようと画策しました。
このイタリアの混乱で、ベレンガーリオ1世は敗北し、プロヴァンス王ルイ3世が900年のパヴィアでの議会でイタリア国王ロドヴィコ3世として即位し、901年に教皇から皇帝に戴冠されました。
902年ベレンガーリオ1世は本来は敵であるマジャール人から傭兵を雇い、反撃を開始します。
905年ベレンガーリオ1世はロドヴィコ3世を破り、再び王位に着きました。
負けたロドヴィコ3世は両眼をつぶされプロヴァンスに戻りプロヴァンス王を名乗り続けましたが、実権は又従兄で義兄のアルル伯ユーグ(後のイタリア王ウーゴ)に握られていました。
ベレンガーリオ1世は王位を安定させるため、強力な諸侯のうち、イヴレーア辺境伯アダルベルト1世と娘ギーゼラを結婚させることでイヴレーアと和解した。
915年12月、ベレンガーリオ1世はローマに行き、教皇ヨハネス10世により皇帝として戴冠されました。
888年にイタリア王に就任してから、ここまでずっとイタリア国王の座を巡り戦い続けてきたベレンガーリオ1世に対して、922年イヴレーア辺境伯をはじめとするイタリア諸侯は、今度は上ブルグントの王ルドルフ2世を対抗馬に出してきました。
900年ごろのブルゴーニュ地方の地図
黄緑色の部分が上ブルグラント(上ブルグント)王国
その下の褐色の部分が下ブルグラント王国、下ブルグランド王国の下(南)側がプロヴァンス地方
茶色の部分はリチャード公国
出典 Wikipedia
この戦いでベレンガーリオ1世はルドルフ2世に負け、ルドルフの王位を認めることになりました。
この後、ベレンガーリオ1世は5000人のハンガリー人(マジャール人)の傭兵を雇い、ルドルフ2世に戦いを挑みましたが、これがかえって悪い結果を呼び込みました。
当時ドイツやイタリアでは東からに侵入してくるマジャール人と度々戦っており、かえって家臣の反感を得ることになってしまいました。
924年ベレンガーリオ1世は、ヴェローナでミサの最中に家臣の一人から背中を刺されて殺されてしまいました。
これによって、イタリアでは962年にオットー1世が戴冠するまで、皇帝の称号を持つ人物がいなくなりました。
ここからいよいよ核心部に入ります。
925年、ドイツ人のルドルフ2世に反感を持つベレンガーリオ派のイタリア諸侯は、ベレンガーリオ1世によって両目をつぶされプロヴァンスで隠棲しているロドヴィコ3世(ルイ3世)の摂政でプロヴァンス王国の実権を握っているユーグ・ダルル(ウーゴ)を担ぎ出して対抗しました。
926年、ルドルフ2世は上ブルグントに撤退して、ウーゴはイタリア王に即位します。
931年4月ウーゴは、イタリアの貴族に彼の息子ロターリオ2世を次のイタリア王として認めさせ、戴冠させました。
933年、ウーゴはルドルフ2世に対して、イタリア王を放棄する代わりに、下ブルグランドを譲り渡しました。これによってルドルフ2世によるフルグランド王国(アルル王国)が誕生し、ルドルフ2世はイタリアにおけるすべての権利を手放しました。
ブルグント王国(アルル王国)。
ブルグント王国がアルル王国と呼ばれたのは、首都がアルルにあった為。
出典ウィキペディア
941年にウーゴは敵対するイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ(ベレンガーリオ1世の孫)から辺境伯位を取り上げてイタリア王国から追放ましたが、945年に反撃されて逆にプロヴァンスに隠棲させられた。
947年、イタリア王国に残されたロターリオ2世は、ルドルフ2世の娘アデライーデ結婚した。
950年にロターリオ2世は死去し、これにはベレンガーリオによる毒殺が噂されました。ベレンガーリオはイタリア王ベレンガーリオ2世として息子のアダルベルトとともにイタリア王として戴冠したが、前王を毒殺した容疑により親子の政治的地位は弱体化していた。
ベレンガーリオ2世は王位の正当性を得るため前王の未亡人アデライーデをアダルベルトと結婚を強要しました。拒否したアデライーデは監禁され、東フランク王オットー1世に救援を求めました。
950年、オットー1世はイタリアに遠征して、アデライーデを救出して、翌951年彼女と結婚し、イタリア王となります。
960年、オットー1世に敗れたベレンガーリオとアダルベルトの父子は、ローマ教皇ヨハネス12世を攻撃し、教皇はオットー1世に助けを求めることで窮地を脱出することが出来ました。
962年2月2日、助けられた見返りとして教皇ヨハネス3世はオットー1世に「ローマ皇帝」の帝冠を与えました。
ここから神聖ローマ帝国が始まります。
オットー1世は皇帝即位の時には「皇帝アウグトゥス」と名乗り、神聖ローマ帝国皇帝ではなかった。これは西フランク王国が残っていたためです。神聖ローマ帝国皇帝の名称が使われるのは、13世紀になってからでした。
オットー1世は国内の有力諸侯を抑えるため、教会組織の利用を思いつきます。聖職者は読み書きができ文書の作成に通じている上、婚姻を禁じられている為その地位の世襲問題が起きません。
そこで国内の各協会に領地を寄進し、関税権や市場権、貨幣鋳造権を認めたりすることで聖職者を国家官僚として利用しました。これを帝国協会政策と言います。
さらに上の青枠に書いたように、当時のイタリアは各地の有力諸侯がオットー1世のイタリア王に対して戦いを仕掛けてきます。そのたびにイタリアに遠征軍を出さなくてはならず(イタリア政策)、兵を出した東フランク王国内の諸侯は、見返りに皇帝から色々な特権を得て、力が強くなっていきました。
その中で、領地購入の権利と、相互相続契約(婚姻先で領地の相続人が途絶えた時、その領地をもらえる契約)締結の権利が後に大きくものを言います。
オットー1世から続いた神聖ローマ帝国皇帝は、第4代のハインリヒ4世で断絶し、第5代目のコンラート2世からはザリエル朝に移ります。
オットー2世、オットー3世とも若くして王位に就いたため(オットー2世18歳、オットー3世3歳)、国内諸侯の反乱に悩まされました。
オットー3世が21歳で亡くなり嫡子がいなかったため、ザクセン朝唯一の男系子孫となっていたハインリヒ2世が29歳で即位しました。ハインリッヒ2世は帝国協会政策を強化するとともに、各地に巡行して諸侯との親交を強めました。
1004年イタリアに遠征し、イタリア貴族たちが建てていたイタリア王アルドゥイーノ王を廃止しました。
またボヘミア公国(現在のチェコ)の併合に成功し、1014年40歳で皇帝として戴冠し、1024年51歳で嫡子なく死亡しました。
ザリエル朝
ハインリッヒ2世の死亡後、各地の聖俗諸侯が集まりオットー大帝の外玄孫(やしゃご)であるコンラート2世が国王に着きました。コンラート2世はイタリア遠征を行い、またドイツ各地に巡行して国内の安定に勤めました。
1032年9月、ブルグント(アルル)王ルドルフ3世が嫡子なく死亡すると唯一の血縁(いとこの婿)であるコンラート2世が相続しました。
フランスの一部であれ、ブルグランド(ブルゴーニュ)地方を手に入りたことで、「ローマ帝国」の文字が公文書で使われました。
11~12世紀ごろのローマ帝国
赤実線がオットー1世の時代
赤点線がコンラート2世時代
出典 ウィキペディア
1039年コンラート2世が48歳で死亡し、その子ハインリヒ3世が跡を継ぎました。
ハインリヒ3世は国内の諸侯の下に勤める上級家臣に直接領土を授け、諸侯の監視を強めました。日本でいえば徳川時代に各藩に居る家老や大老に、徳川家が直接領土を与えて、藩主を監視させるようなものです。
これに対して、各諸侯も教皇に賄賂を贈り、自分の二男や三男を司祭や司教にしてもらい、彼らを地元の教会に配することで、帝国教会制のなし崩しを計りました。
この為ローマ教皇は教皇領から上がる税収入や、代々の皇帝による手厚い保護政策によって十分潤っていましたが、新たに聖職売買によって莫大な利益を上げ、急速に世俗化していき、人格高潔にして学識豊富な人々によって運営されていたとするローマ教会は、次第に腐敗していきました。
もちろんこのような事態は、教会内部でも改革を求める動き(修道院改革運動)が始まり、その急先鋒がローマ時代から厳格な戒律の下で宗教活動を続けていたベネディクト会派のクリューニ―修道院でした。
ハインリッヒ3世もローマ教皇庁の乱れを正し、ローマ教会を支配下に置くため積極的にこの運動を支援しました。
教皇ベネディクト9世時代におけるローマ教皇庁の乱れ
教皇ベネディクト9世(在位:一期目1032年10月 ~1044年9月、二期目1045年4月 -~5月、三期目1047年11月 ~1048年7月)
凄いとしか言いようのない人で、このような人が教皇になっていたことが信じられない人物です。当時の人が彼をどう見ていたか、ウィキペディアから引用すると
伝承によると、ベネディクトゥスは放蕩に明け暮れるでたらめな生活を送ったという。ペトルス・ダミアニはその著作『ゴモラの書』においてベネディクトゥス9世を「聖職者に扮した地獄からの悪魔」に喩え、教皇庁の腐敗やベネディクトゥスの同性愛行為を批判した。またピアチェンツァ司教ベンノーもベネディクトゥスの犯した「嫌悪すべき姦淫と殺人」を糾弾した。後年、教皇ウィクトル3世は「ベネディクトゥスの強姦、殺人、そして口に出せないような所業」について調査を行わせており、その結論として「彼の教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。私は身震いを禁じえない」と述べている。
引用 ウィキペディア
1044年、ベネディクト9世はローマから追放され、新たにシルウェステル3世(在位:1045年1月20日 – 1045年3月10日?)が教皇に選出されました。陰ではシルウェステル3世は、教皇に選ばれる際に賄賂を使ったと言われています。
しかし、1045年4月にベネディクト9世はローマにもどり、シルウェステル3世を廃位、破門の上ローマから追放して自ら教皇に就きます。その一か月後、ベネディクト9世は手に入れた教皇位を金650㎏で司祭ヨハンネス・グラティアヌスに売ってしまいました。
教皇位を手に入れた、司祭ヨハンネス・グラティアヌスは教皇グレゴルウス6世(在位1045年⒌月1日 ~1046年12月20日)として1045年5月1日に就任しました。
しかし、教皇庁の混乱はこれで終わりませんでした。ベネディクト9世から教皇位を奪われ追放されたシルウェステル3世が教皇位の正統性を訴え、さらにベネディクト9世も教皇に復帰しようと画策したことから、教皇をめぐる3人の泥仕合が起こってしまいました。
ハインリッヒ3世は1046年秋にイタリア遠征し、この混乱を収拾するため1046年12月イタリアのストリで教会会議を主催しました。この会議でベネディクトゥス9世とシルウェステル3世は聖職を剥奪され、グレゴルウス6世に対して退位を勧告したうえで、ドイツ人司教スイドガーを教皇クレメンス2世として就任させました。
ハインリヒ3世はこのクレメンス2世から戴冠され、1046年に正式にローマ皇帝となりました。
教皇庁のゴタゴタはまだ続きます。
クレメンス2世が翌1047年10月に死去すると、11月にネディクトス9世は教皇の住まいであるラテラン宮殿を占拠し、自身の教皇復帰を宣言しました。
1048年7月ハインリヒ3世はネディクトス9世の廃位を宣言し、ドイツ人でブレッサノーネ司教のポッポを、ダマスカス2世として教皇に着かせました。この後しばらくドイツ人教皇が続きます。しかし、ダマスス2世は就任23日後、避暑に訪れたパレストリーナにて死去してしまいます。
ハインリヒ3世は自らの縁者であるトゥール司教ブルーノを教皇レオ9世とした。レオ9世は前述のヒルデブラント(後の教皇グレゴリウス7世)をはじめとするスタッフを教皇庁に集め、シモニア(聖職売買)および聖職者の妻帯の廃止などの教会改革に尽力しました。
ハインリヒ3世による教皇の廃位と、新たな教皇の任命は腐敗した教皇庁を立て直すためのものでしたが、世俗権力による聖書者叙任に反対する勢力が教皇庁内に起きてきます。
退位を勧告されたグレゴルウス6世はケルンに移り、1048年初頭当地で死去しました。この時グレゴルウス6世に死ぬまで付き添っていたベネディクト会派の司祭イルデブランドが後に史上最強の教皇と言われ、ハインレヒ3世の子ハインリヒ4世と神権をめぐり激しく戦った教皇グレゴリウス7世でした。
1056年10月5日、ハインリヒ3世が38歳で亡くなり、生前に自分が亡くなった後は子に王位を継ぐと決めてあったため、6歳のハインリヒ4世が跡を継ぎました。ハインリヒ4世がまだ幼かったため、母アグネスが摂政に着きます。
ハインリヒ4世
まだ幼いハインリヒ4世をめぐって、ドイツ国内の有力諸侯は色々な動きを見せます。
1062年12歳の時、ハインリヒ4世はケルン大司教アンノ2世とバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムに率いられた豪族達の手で誘拐されケルンの寺院に軟禁されてしまいます。摂政の母アグネスは解任され、新たに司教のアノン2世が摂政となりました。
しかし、対立する諸侯はドイツ王の独占を許すはずがなく、ハインリヒ4世は直ぐにマインツ大司教ジークフリートやハンブルク・ブレーメン大司教アーダルベルトと共有して養育されました。
1054年に上ロートリンゲン公のゴットフリート3世が、夫トスカーナ辺境伯ボニファーチオ4世を亡くし(ハインリヒ3世によって暗殺されたとも言われている)、庇護者を求めていた同じアルデンヌ家出身のベアトリクスと結婚し、トスカーナ辺境伯も兼ねることになりました。
ゴットフリートはイタリアでの支配権拡大を企て、フィレンツェ市民の暴動を鎮圧した後、エミリア、マルケ、ウンブリアへ出撃し勢力を拡大させていった。
イタリアにおけるゴットフリート3世の勢力拡大を懸念したハインリヒ3世は、1055年、ゴットフリート征伐のためイタリアに遠征すると、ゴットフリートは妻と3人の子供を置き去りにしたまま、単身ロートリンゲンに逃げてしまいました。
残された妻ベアトリクスは10歳の長女マチルデを連れてトスカーナ伯領の所領安堵を願うためハインリヒ3世のもとに訪れました。ところがハインリヒ3世は二人を捕らえて、ドイツに送ってしまいます。このため、 カノッサ城にいた長男フェデリーゴと妹ベアトリーチェは二人とも殺されてしまいました。兄が亡くなったことでトスカーナ辺境伯の爵位はマチルデに移りました。
父と兄をハインリヒ3世によって殺されたことでマチルデは、ハインリヒ3世への復讐を誓います。なぜこんなことを書いたかというと、後に述べる「カノッサの屈辱」で大きな役割を果たすことになるからです。
トスカーナ辺境伯マチルデの領地
1056年ハインリヒ3世が亡くなると、ゴットフリート3世は新帝ハインリヒ4世に臣従を誓う代わりにロートリンゲンとトスカーナの領有権を認めさせ、イタリアへ戻りました。
1057年ハインリヒ3世の腹心である教皇ウィクトル3世が死亡すると、ゴットリート3世は新皇帝ハインリヒ4世に諮ることなく、自分の弟を教皇ステファヌス10世として就任させることに成功しました。これによってルイ9世から始まったドイツ人教皇の歴史が終わりました。
これにはドイツ皇帝による教皇選任を嫌う、イルデブランド(後の教皇グレゴリウス7世)の力添えがあったと言われます。
ゴットリートは弟を教皇にすることにより、皇帝ハインリヒ4世を廃位して自分が新皇帝として弟の教皇ステファヌス10世に戴冠させるつもりでしたが、就任7か月余りでステファヌス10世が亡くなり、この目論見は破綻しました。
次の教皇にはイタリア貴族の支持を受けたヴェレットリの司教であるベネディクトゥス10世が教皇となりました。
1058年、これに反対するイルデブランント(後の教皇インプラント7世)と先のゴットフリート3世、反ベネディクトクス10世派の枢機卿たちは、フィレンツェの司教であるジェラールを対立教皇ニコラウス2世として擁立しました。
ニコラウス2世はローマへ進行する途上のストリで会議を開き、ベネディクトゥス10世の廃位と破門を宣言します。
ニコラウス2世は、当時南イタリアに強力な国家を形成していたノルマン人の力を借り、ベネディクト10世支持者への報復戦争を始めました。1059年秋にはベネディクトゥス10世の籠っていたガレリアを奪取、ここに至ってこの対立教皇は降伏し、教皇位を放棄しました。
この時働いたノルマン人傭兵の長であるロベルト・イル・グイスカルドは教皇から領土を与えられ、ナポリ・シチリア王朝の始祖となります。彼は1081年ハインリヒ4世と対立し、ローマの聖天使城に閉じ込められたグレゴリウス7世を助け出す活躍をしました。
1059年の教会会議を経てニコラウス2世は教皇勅令を出し、教皇選出は世俗権力の干渉を廃し、枢機卿団の相互選挙(コンクラーベ)によって決めることとしました。
これらの改革は摂政アグネスをはじめとするドイツ政府の反発を招き、後のハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の戦いに続きます。
1061年ニコラウス2世が死亡し、シチリア王国やノルマン人の支持の下アレクサンドル2世が跡を継ぎます。しかしハインリヒ4世の母で摂政のアグネスは対立教皇ホノリウス2世を擁立しました。これによるローマ教皇が二人立つことになった為、1064年にイタリアのマントヴァで行なわれた司教会議でホノリウス2世は教皇から退位させられました。
1073年アレクサンデル2世が死去すると、1048年の教皇レオ9世から25年にわたって代々の教皇に使え、教会改革運動を推進してきたイルデブラントが教皇グレゴリウス7世として着任します。
教皇グレゴリオ7世は教皇権の確立をめぐって、ハインリヒ4世と戦うことになります。
この後も、バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイム、教皇グレゴリオ7世、トスカーナ女伯となったマチルデの3人はハインリヒ3世の疫病神となり、付きまとうことになりました。
1065年、ハインリヒ4世は15歳になり親政を開始し、失われた横領地の回復を開始しました。
1070年、ハインリヒ4世誘拐の首謀者であるバイエルン公オットーのバイエルン大公位および領地を取り上げました。これに対しオットーは、出身地のザクセンでザクセン大公の子マグヌス・ビルングと同盟し、ハインリヒ4世に対し反乱を起こしたものの、1071年初めに降伏し拘束されました。
1073年、オットーは再びザクセン貴族たちの首謀者として、ハインリヒ4世に対して反乱を起こします(ザクセン戦争)。
1073年6月29日、ザクセンの貴族たちはゴスラーにある皇帝の居城に処遇改善を訴えて押しかけましたが、ハインリヒ4世はこれを拒否しました。これに怒ったザクセン諸侯は軍を出し攻めこみました。ハインリヒ4世は、近くのハルツ城に逃げ込みます。
6000人のザクセン軍に対して、ハルツ城の守備兵は300人しかいませんでしたが、ハインリヒ4世は、井戸に作られた秘密通路を通って脱出に成功しました。
ハインリヒ4世はザクセンに対して攻撃をしようとしましたが、思うように兵が集まらず、1074年2月2日和平交渉が開かれ、ハルツ城を明け渡すことで合意しました。3月になり、ハルツ城には王室の墓とそれを守る教会がありましたが、すべて破壊されてしまいました。
王家一族の眠る墓と、教会を破壊したことはザクセン以外の諸侯の怒りを買い、ハインリヒ4世は前にもまして多くの軍勢で、ザクセンに攻め込みました。
1075年6月9日、皇帝に反抗したザクセンは敗北してし、ハインリヒ4世は一挙に権力を増大しました。
ハルツ城の位置
ハルツ城の城門の跡と案内板
出典 上下ともWikipedia
叙任権闘争とカノッサの屈辱
ザクセンの反乱に懲りたハインリヒ4世は、帝国協会政策に従って次々と自分の息のかかった司教を全国の教会に就任させました。
これに対して、聖職の世俗権力からの脱却を目指していたグレゴリウス7世は、1075年俗人による聖職者叙任を禁じる教皇勅書を出しました。
これに対して、ハインリヒ4世はイタリアに勢力を伸ばそうとして自分の息のかかった司祭たちをミラノ大司教、、フェルモやスポレートの司教などに次々と任命しました。
1076年1月8日、グレゴリウス7世は司教の皇帝ではなく、任命権が教会にあることを通達し、これに従わない場合は皇帝を破門して、皇帝権の剥奪をすると通知しました。
これを受けてハインリヒ4世は、同年1月24日教皇の醜聞(スキャンダル)を種に、ドイツの司教24人を招集してヴォルムスで行われた帝国集会で、グレゴリウス7世の教皇廃位を決議しました。
グレゴリウス7世のスキャンダルとは
それまでのドイツ人教皇を倒して、自分の弟教皇ステファヌス10世を着任させたゴットフリート3世は、その後もイルデブラント(グレゴリウス7世)と共に、ドイツ国王による対立教皇に反発し続け、教会改革派の教皇を擁立してきました。
1069年養父ゴットフリート3世が亡くなると、マチルデはかねてからの婚約者であるゴットフリート3世の先妻の息子、ゴットフリート4世と結婚しました。結婚後二人はドイツのロートリンゲンで暮らしましたが、1071年に生まれた子が早世すると、翌年マチルデはイタリアのマントヴァにいた母ベアトリクスのもとに戻りました。
イタリアに戻って所領を回復したマチルデ(トスカーナ女伯爵の爵位を持っていたため)は、結婚の解消を養父ゴットフリート3世と付き合いの深い教皇グレゴリウス7世に訴え、認められました。
これによっグレゴリウス7世と、マチルデの不倫の噂が立ちました。
マチルデがローマ教皇グレゴリウス7世の崇拝者であったのに対し、ゴットフリート4世は皇帝ハインリヒ4世を支持し続け、1076年1月24日のヴォルムスで行われた帝国集会では、グレゴリウス7世のスキャンダルの証人として出席しています。
その後しばらくして、ゴットフリート4世はドイツのフラールディンゲンで暗殺されました。これは教皇派によるものとも、元妻マチルデによる毒殺とも言われています。
これに対して教皇グレゴリウス7世は、2月22日ハインリヒ4世を破門しました。
これに喜んだのがザクセンを始めとする反対派の諸公たちで、一年後の2月22日までに破門が説かれない場合、教皇をドイツのアウクスブルクに招いて会議を開き、新しいローマ王を決めることにしました。
この間ハインリヒ4世はシュバイア―の城に閉じこもっていましたが、12月中旬教皇と直接会って問題を解決するため、妻のベルタと長男コンラート共に、雪のアルプスを越えてイタリアに入りました。
グレゴリウス7世も、ハインリヒ4世破門後のドイツ王を決めるアウクスブルクの会議に参加するため、ドイツに向かっていましたが、ハインリヒ4世が近づいているのを知り、途中にあるマチルデ女伯のカノッサ城で籠城しました。
『カノッサの屈辱』
エドゥ・シュワイザー画(19世紀)
上の方の窓から見下ろしているのが、マチルデとグレゴリウス7世
出典 ウィキペディア
カノッサの屈辱
右側に描かれているトスカーナ女伯のマチルデに、グレゴリウス7世へのとりなしを依頼しているハインリヒ4世(中央)。
左は修道院改革の推進役であるクリュニー修道院の院長ユーグ1世 (後の教皇ウルバヌス2世)。
出典 ウィキペディア
カノッサの城門前に立つハインリヒ4世と妻のベルタ、一緒にいる子供は後に父に反抗することになった長男のコンラート。
出典 ウィキペディア
1077年1月、カノッサの城に着いたハインリヒ4世は、武装を外し僧服に着替えて3日間城門の前に立ち、グレゴリウス7世に許しを請いました(カノッサの屈辱)。これによってハインリッヒ4世は、破門を解かれドイツに戻りました。
普通はここで終わりますが、皇帝ハインリヒ4世と、ローマ教皇との戦いは続きます。
ハインリヒ4世の破門が解かれたにもかかわらず、かって幼いハインリヒ4世を誘拐したバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムは南部のバイエルン州、シュヴァーベン州、ケルンテン州と共謀して、ハインリヒ4世の姉の婿であるシュヴァーベン大公ルドルフを新たにローマ王に立て、ハインリヒ4世と対立しました。ルドルフの対立国王就任には、カノッサの城主マチルデも後援していました。
教皇グレゴリウス7世は始め中立の立場をとっていましたが、1080年3月7日、ハインリヒ4世をふたたび破門して、ルドルフの味方になりました。これは、ハインリヒ4世よりも、ルドルフの方が勢いがあり、支配しやすいと考えたためです。
戦いは対立王ルドルフが有利に進めていましたが、1080年10月15日ハインリヒ4世と戦ったエルスターの戦いで右腕を切り落とされ、その傷がもとで翌日死亡したため、形勢は一転しました。
ルドルフの所有していたシュヴァーベンはホーエンシュタウフェン朝を開くことになるフリードリヒ1世に与えられました。
1081年、勢いに乗ったハインリヒ4世は、対立教皇としてクレメンス3世を擁立し、イタリアに進軍してグレゴリウス7世をローマから追い出しました。この途中でローマの手前にあるトスカーナ女伯マチルデは領地を奪い取られてしまいました。
その後マチルデはバイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムや教皇グレゴリウス7世と連絡を取り、対立王ヘルマン・フォン・ザルム立て対抗しましたが、敗れてしまいます。
1083年バイエルン公オットーは死亡しました。
1084年3月24日、ハインリヒ4世は正式にクレメンス3世を聖別(俗世間から切り離すこと、日本でいえば出家して僧侶になるようなもの)して、教皇クレメンス3世として即位させました。この時ハインリヒ4世はローマ皇帝として戴冠しています。
グレゴリウス7世はサン・ピエトロ大聖堂と城壁で繋がっている聖天使城(サンタンジェロ城)に追い込まれました。この時教皇ニコラウス2世を助けたロベルト・イル・グイスカルドが駆けつけ、ローマから脱出できました。
その後ハインリヒ4世はロベルとが引き連れたノルマン軍に敗れ、ドイツに引き上げます。しかし、このノルマン軍がローマで略奪の限りを尽くしたため、ノルマン軍に助けられたグレゴリウス7世もローマ市民の恨みを買い、ローマに戻ることが出来ませんでした。
ローマを離れた教皇はモンテ・カッシーノ、サレルノへと移りながら、対立教皇のウィクトル3世とウルバヌス2世を立て、教皇クレメンス3世と対決を続けました。最後は
「私がこうして流浪の身で死ぬのは正義を愛し、不正を憎んだからである」
との言葉を残し1085年5月25日亡命先のサレルノで客死します。
長男コンラートの反乱
バイエルン公オットーとグレゴリウス7世が亡くなった後も、トスカーナ女伯マチルデの戦いは続きます。
1070年バイエルン公オットーの領地はハインリヒ4世によって取り上げられ、オットーの娘エテリンデと結婚していた、ヴェルフ=エステ家のヴェルフ1世に与えられました。
しかし、1077年ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との徐任権闘争で教皇側に付いたため、バイエルン公の地位は剥奪され、バイエルンはハインリヒ4世が直接統治することになりました。
1087年ハインリヒ4世は妻ベルタを亡くし、2年後の1089年キエフ大公フセヴォロド1世の娘、アーデルハイト・フォン・キエフと結婚しました。しかし、後妻アーデルハイトへの暴力がもとで大事件が起きてしまいます。
1089年、トスカーナ女伯マチルデは、27歳年下であるヴェルフ1世の長男ヴェルフ2世と結婚しました。
1090年ドイツ国内の反対派を抑えることに成功したハインリヒ4世は、イタリア国内の反皇帝派を攻撃するため、イタリアに遠征しました。
1092年イタリア北部を占領したハインリヒ4世は、トスカーナ女伯マチルデのいるカノッサ城を攻撃しました。しかし、ハインリヒ4世はこの戦いに敗れたうえ、教皇ウルバヌス2世に味方する南ドイツの公爵ヴェルフ1世と、ケルンテン公ベルトホルト・フォン・ザーリンゲン、あとコンスタンツのゲプハルト司教との連立によってアルプスのアルプスの峠道が封鎖されたため、1096年までイタリアから出られなくなりました。
1093年の春、ハインリヒ4世の長男コンラートは、トスカーナ女伯マチルデからカノッサ城に招かれました。そこでマチルデに説得され、父と離反して教皇ウルバヌス2世側に付きました。同年、コンラートはモンツァの大聖堂にてミラノ大司教よりイタリア王の冠(ロンバルディアの鉄冠)を受けました。
翌1094年には、ハインリヒ4世から息子コンラートとの関係を疑われ、サン・ゼーノ修道院に監禁されていた後妻のアーデルハイトも、カノッサの城に逃げてきました。
なぜこのような状態になったか、ウィキペディアから引用してみると、
アーデルハイトが自身への虐待を書簡で糾弾したことで、1094年4月にコンスタンツで教皇特使による宗教会議が開かれる事態となった。翌年3月、アーデルハイトは教皇ウルバヌス2世の勧めを受け、ピアチェンツァ公会議の開かれている教会の前で、衆目の元で陳情を行った。彼女は自分の意に反して拘束されたり、乱交への参加を強要されたり、自分の裸身の上で黒ミサを開こうとされたりしたなどとしてハインリヒ4世を弾劾した。後世の年代記者によれば、ハインリヒ4世は異端のニコライズムに関わり合いを持つようになってきていて、自身の宮殿で乱交や卑猥な儀式を開催していたのだという。彼はアーデルハイトにこうした集会への参加を強制し、ある時実子のコンラートにアーデルハイトをあてがおうとすらしたが、コンラートは憤激して拒絶し、これが父に対する反乱の原因になったのだという。この伝説は、ハインリヒ4世とウルバヌス2世の間の叙任権闘争でコンラートが後者につき父に反抗した史実が背景となっている。
12世紀中ごろの記録によれば、アーデルハイトはハインリヒ4世に乱交を強制されて妊娠したが、その子の父が誰か分からず、ハインリヒ4世の元を離れる決断をした、としている。現代の歴史家クリスティアン・ラフェンスパーガーは、1115年ごろに書かれた『カノッサのマティルダ伝』(ドニゾー著)に出てくるあるハインリヒ4世の子の一人の死に関する記述から、アーデルハイトをめぐる伝説の中にはある程度の事実が含まれている可能性があると指摘している。
引用 ウィキペディア
1095年3月、アーデルハイトが陳情を行ったピアチェンツァ公会議には、200人の司教が出席し、4000人の教会員と3万人の平信徒が出席していました。ハインリヒ4世は非難の的となり、同年4月クレモナ主教区 で教皇ウルバヌス2世の下で息子コンラートとの和解に応じました。
クレモナ主教区の位置
出典 ウィキペディア
これにより、ハインリヒ4世は聖職者に対する叙任権を放棄することを認める代わりに、教皇ウルバヌス2世はコンラートを次のローマ皇帝として戴冠することを約束しました。
同じ年、ハインリヒ4世の後妻であるアーデルハイトは離婚が認められ、キエフに戻りペチェールスク大修道院で修道女になり、1109年に死亡しました。
トスカーナ女伯のマチルデは、結婚していたヴェルフ2世の父ヴェルフ1世がハインリヒ4世と和解し、アルプスの峠道の封鎖を解いたことで、ヴェルフ2世と離婚しました。父ヴェルフ1世は翌1096年、もとのバイエルン公として復帰しました。
教皇との和解が成立したことで、アルプスの封鎖が解かれ、1097年ハインリヒ4世はドイツに帰ることが出来ました。
第1回十字軍(1095~1096)
ハインリヒ4世がイタリアで動きが取れなくなっていた間、教皇ウルバヌス2世は1095年11月に行われたクレルモン教会会議の最後にで信者に向かって、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝によって奪われた聖地エルサレムを奪還するための活動に、参加するよう呼びかけました。
これは1071年、マンジケルトの戦いでトルコ系イスラム国のセルジューク朝に敗れ、アナトリア半島を占領された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)皇帝アレクシオス1世コムネノスが、1095年に開かれたピアチェンツァ公会議で教皇ウルバネス2世に助けを求めたことが発端です。
これが第1回十字軍(当時は十字軍とは言われませんでした)となります。第1回十字軍には各国の領主や騎士などの他に、市民や農民たち一般人も参加しました。
1092年のセルジューク朝版図
出典ウィキペディア
この第一回十字軍は、エルサレム奪還を果たしただけでなく、小アジアからエルサレムまでの道筋に沿って多くの十字軍国家が出来、さらにキプロス島までも占領したことで、陸上と海上から聖地エルサレムまでの往来が楽にできるようになりました。
1100年ごろの十字軍国家
出典ウィキペディア
おまけですが、ハインリヒ四世も破門の解消を望み参加を表明しましたが、破門中でキリスト教徒ではないため、断られてしまいました。
そして何より、今まで何の軍事力を持たなかった教皇が、大きな軍団を編成する力があることを示したのが教皇の力を大きくしました。
ハインリヒ5世
翌1098年、ハインリヒ4世は再び教皇との約束を破り、マインツの帝国会議でコンラートのローマ王、イタリア王位を剥奪して次男のハインリヒ(ハインリヒ5世)に継がせました。ただ長男コンラートの反抗に懲りたハインリヒ4世は、存命中にハインリヒ5世が政治に参加しないことを誓わせました。
1101年7月27日、ハインリヒ4世に逆らったコンラートがフィレンツェで亡くなりました。
1102年ハインリヒ4世は教皇ウルバヌス2世の跡を継いだパスカリウス2世により、また破門されてしまいました。
父親ハインリヒ4世が破門されたことにより、将来を心配したハインリヒ5世は1105年春のザクセンを皮切りに反皇帝派(新教皇派)の諸侯を訪問し、国内の結束を固める努力をします。
これによりハインリヒ4世との反目が高まり、父と子双方の軍隊がレーゲン川で向かい合いましたが、両派の諸侯が仲裁に入り、1105年のクリスマスにマインツで開かれる帝国議会で解決することに合意しました。
1105年12月20日、マインツで父に出会ったハインリヒ5世は、涙を流して父に謝りました。それを見たハインリヒ4世は彼の軍隊を解散させました。12月23日、ゲブハルト司教の所有するベッケルハイム城訪問しましたが、そこで捕らえられて牢獄に入れられてしまいました。
牢獄に入っているハインリヒ4世を訪ねるハインリヒ5世
出典 ウィキペディア
12月25日の帝国会議でハインリヒ4世の廃位が決まり、12月31日ハインリヒ4世は退位して、翌1月5日、ハインリヒ5世が単独のドイツ王として就任しました。
ハインリヒ4世は牢から出された後リエージュに移り再起を図りましたが、1106年8月7日リエージュで死亡しました。
1110年ハインリヒ5世は、常任権問題解消と皇帝戴冠のため、イタリアに遠征します。
途中のトスカーナの通過に際して、マチルデはハインリヒ5世が教皇派になったことで通過を認めました。
ローマ教皇との会見では、皇帝戴冠の条件である叙任権を教皇に渡す代わりに、教会の持つ領地を皇帝に返すことを求めさせました。しかし、領地を奪られることになったイタリアの各協会が反対したため、肝心の戴冠式行うことは不可能となりました。
結局、ハインリヒ5世は兵を動かして、教皇や高位聖職者をローマから拉致して、ポンテ・マンモロにおいて、皇帝に有利な叙任権に関する取り決めを定めた(ポンテ・マンモロ協約)。その後ローマにもどりサンピエトロ大聖堂で、戴冠式を行うことが出来ました。
しかし、ハインリヒ5世が無理やり協定を結んだり皇帝戴冠を行ったことで、ローマはょう会はハインリヒ5世がドイツの帰った、彼を破門しました。
1111年イタリアからの帰り道ハインリヒ5世は、トスカーナ女伯マチルデと直接会い、マチルデの領地をハインリヒ3世以前の状態に戻しました。
1115年マチルデは亡くなりました。彼女の領地は子供がいないため、遺言により教会に寄進され教皇領に組み込まれました。
1116年2月、かねてからイタリア進出を狙っていたハインリヒ5世は一連の法廷文書を用意した使節団をイタリアに派遣し、マチルダの遺領のほとんどを相続してしまいます。
ハインリヒ5世が帰ったドイツでも、領地を取り上げられることになった国内の教会が反発して、大混乱となりました。
1122年、ハインリヒ5世は叙任権問題を解決すべく、イタリアに遠征します。9月23日にヴォルムス協約が成立し、一応の決着がつけられました。
ヴォルムス協約の内容は
- 皇帝は司教と修道院長に対する聖職権の授与の権利を放棄すること
- 帝国内の教会は自由に叙任を行う権利を得ること
- 皇帝は帝国内で司教と修道院長の叙任に立会い、選出が難航した場合のみ指名する権利を得ること
- 選出する教会は、皇帝により領地を寄進された教会か、領地の所有を認められた教会に限ること
となっており、教会側に叙任権が与えられることで決着しました。
1125年5月23日、ハインリヒ5世はユトレヒトで癌のため死去しました。
ハインリヒ5世には子供が居なかったため、王位継承権は姉の嫁ぎ先である、ホーエンシュタウフェン家に移りました。
出典コトバンク
この部分は、思いのほか長くなってしまいました。その大部分がハインリヒ4世に関するものです。
彼は12歳の時、ケルンの大司教アンノ2世と、バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムに誘拐された後、政争の具とされ、各地の権力者や有力な宗教家によってたらい回しにされてしまいました。
この経験がもとになって、権力や宗教に反発する心が芽生え、生きている間は反皇帝派の諸侯や、ローマ教会に対して戦い続けることになります。
これによってローマ教会はカノッサの屈辱の元となった1076年の破門に続き、1081年、1084年、1089年、1095年、1102年、1106年と何度も彼を破門しましたが、ハインリヒ4世はその都度仕返しのためローマ教会に戦いを挑み、最後は二人の息子からも反発され、1106年8月7日に破門されたまま死んでしまいました。
権力者憎しの感情に取らわず、他の道を取れば戦いに参加した兵士や領民の命も助かり、ハインリヒ4世自身ももう少し穏やかな生活が遅れたと思うのですが。
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なぜ戦争が始まるのか 神と人の戦い ローマ教皇と神聖ローマ帝国 その3 神聖ローマ帝国 古代ローマ帝国復活を夢見た男 フリードリヒ2世(第1章)
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