
1966年末には、ローリングサンダー作戦により、ホーチミンルートを通って南ベトナムへの兵員と物資の輸送量が減るどころか、かえって増えていることが分かりました。またウェストモーランド将軍の提唱で始まったサーチアンドデストロイ作戦を行っても、敵の戦意を減らすことが出来ませんでした。このような状況でマクナマラ国防長官は、アメリカ軍のべトナム撤退をジョンソン大統領に提言しましたが、大統領はウェストモーランド将軍と共に、アメリカ軍を強化して北ベトナム軍と民族解放戦線(ベトミン)を壊滅させる道を選びました。
アイキャッチ画像の人は、サーチアンドデストロイ作戦を実行した、ウエストモーランド将軍。
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亀仙人21967年の主な戦い
激化するサーチアンドデストロイ作戦
シアヌーク・トレイル
1953年11月9日、フランスから独立を勝ち取ったノロドム・シハヌーク王子は、その後もカンボジアを支配し続けていました。1954年のジュネーブ会議により、カンボジア国内に外国の軍隊を駐留させない中立の立場を取ることを条件に、独立を認められました。これによりカンボジア国内に駐留していたベトミン軍とフランス軍は、撤退しました。
ジュネーブ会議から10年後、隣国のラオスや南ベトナムで北ベトナムの支援を受けたパテト・ラオや解放民族戦線(ベトコン)が、大きく勢力を伸ばしました。
アメリカの援助を受けていた南ベトナムが、共産主義勢力の台頭を抑えきれないのを見て、シアヌークはたとえアメリカの後ろ盾があっても(カンボジアは1955年以来、アメリカから軍事援助を受けていました)北ベトナムの侵入を防げないと考えるようになりました。
1965年シアヌークはアメリカとの外交関係を断絶して、中華人民共和国に近づくことにしました。シハヌークと周恩来首相の間の合意条件の一つは、北ベトナム軍の国内の移動を認めることでした。これには訳がありました。1965年アメリカは「マーケットタイム作戦」を行い、共産圏諸国の船が、南ベトナムの港に入港できなくしました。これにより、北ベトナムから南ベトナムへの船による軍需品の輸送が、出来なくなっていました。
そこでシアヌークは国営のシアヌークビル自治港を使用して、南ベトナムへの援助品を積んだソ連や中国の船(大部分は船籍を隠すため東欧の旗を立てていた)の荷揚げと、カンボジア国内の道路を使いラオスまで運ぶことを黙認(カンボジアは中立国になる条件に、外国の軍隊の駐屯と活動を禁止しています)しました。
シアヌーク・トレイル
シアヌーク・トレイルは、東欧の旗を掲げた貨物船によって地図の左下のシハヌークビル港に陸揚げされ、メコン川に沿った国道110号線で、ラオス国内まで運ばれました。
出典 国立アメリカ空軍博物館
1966年10月から始まるシアヌーク・トレイルの実施に当たって、北ベトナム軍のK-20部隊は、カンボジア在住のベトナム人を使って貿易会社を作り、民間人を装って貨物を運びました。
貨物船と爆撃を受けないトラックを使用しての輸送は、1966年12月から1969年4月までで29,000トン貨物を運びました。また部隊はカンボジア政府から年間55,000トンの米を購入し、さらにカンボジアの農民から直接100,000トンを購入していました。カンボジアは米作が盛んで、米は大切な輸出商品でした。
ボロ作戦 F-4C vs MiG-21 1967年1月2日
1966年まで、ローリングサンダー作戦での爆撃任務はF-105サンダーチーフが、使用されていました。F-105戦闘機を表すFの文字が就いていますが、元々は重い原子爆弾を積んでマッハ2の高速で敵地に侵入して爆撃するために造られました。そのため最大で6.4㌧の爆弾を積めるため、ローリングサンダー作戦では爆撃機として使用されていました。
F-4ファントムⅡ
ベトナム戦争で一番活躍した戦闘機と言えばF-4ファントムⅡですが、一番多く撃墜された(614機)戦闘機でもあります。
アメリカ空軍のF-4D
出典 Wikipedia
F-4 ファントム IIはアメリカ海軍向けの長距離飛行可能な全天候型双発ジェット戦闘機として開発さました。無給油で3,184kmを飛行できる航続距離を獲得するため胴体内に6個と主翼内に2個の燃料タンクを持ち、高い推力と引き換えに燃料消費の激しい大型エンジンを2基搭載することになり大型な機体になってしまいました。
1961年海軍に配備された当時は、上昇速度、絶対高度、最高速度で世界最高を誇っていました。装備は胴体下にAIM-7スパローミサイルを半埋め込み式で4発搭載出来たほか、左右の主翼下の各2箇所と胴体中心線下の1箇所のハードポイントにパイロンを介して増槽と赤外線線誘導ミサイルAIM-9サイドワインダー4基を設置できます。
ベトナム戦争で実戦配備された初期にはMiG戦闘機との空中戦において、機関砲を装備していないことと、小回りがきかないことが問題となり、1965年から製造されたF-4Eからは、20㎜バルカン砲が装備され、前縁スロットの採用により旋回性能が改善されました。
MiG-21
アメリカ空軍国立博物館で展示されている、ベトナム人民空軍のマークを付けたMiG-21F。
空気取り入れ口の中にあるショックコーン(緑色の部分)は、速度によって前後に移動します。
出典 Wikipedia
MiG-21は、ソ連領内に侵入した敵の戦略爆撃機を撃墜するために造られたマッハ2を超える迎撃戦闘機でした。初めは20㎜機関砲2門だけでしたが、後にK-13赤外線誘導空対空ミサイル2発を搭載しました。
MiG-21は小型、軽量、機動性に優れ、さらに構造がシンプルで整備が簡単であると共に安価であったため、世界40カ国で採用されました。ソ連では合計10,646機の航空機が製造され、マッハ2を超える超音速ジェット戦闘機のベストセラーとなりました。製造から60年を超えた今でも一部の国では現役として稼働しています。
ローリングサンダー作戦の1965年から1968年にかけて、F-4とミグ21の間で行われた46回の空中戦では、F-4ファントムが27機、ミグ21が20機の損失となった。
引用 Wikipedia
これを含めベトナム戦争初期の1965年から1968年にかけて、米軍機と北ベトナム軍機の間で268回を超える空中戦が行われました。北ベトナム側の主張では244機の米軍機を撃墜し、自軍のミグ戦闘機85機が損害した、としています。
この結果アメリカ海軍は空中戦技術を磨くため、1969 年 3 月 3日にカリフォルニア州ミラマー海軍航空基地に海軍戦闘機兵器学校(「トップガン」としても知られています) を設立しました。
1966年5月から12月にかけて、米空軍のF-4ファントムⅡは47機の航空機を失い、その反撃でベトナム空軍のMiG-21戦闘機を撃墜できたのはわずか12機でした。
このような状態の中1966年9月30日、第2次世界大戦で12機の敵機を撃墜した熟練のパイロットのロビン・オールズ大佐が、タイのウボン空軍基地にいる第8戦術戦闘航空団の司令官に就任しました。
ロビン・オールズ。
赤い星は、彼の愛機に描かれたミグ戦闘機への撃墜マーク。
出典 Wikipedia
彼が就任した9月30日の2週間前には2機のF-4ファントムⅡがミグ21によって撃墜され、さらに5日後にもF-4ファントムⅡがMiG-21で撃墜されました。
ロビン・オールズ大佐が就任した10月以降、爆撃任務を帯びたF-105はQRC-160レーダー妨害ポッドを装備し、地対空ミサイルの脅威から逃れることができるようになりました。そのためF-105を落とすためMiG-21が直接攻撃するようになりました。ただそのMiG-21にも、大きな弱点がありました。それは機体が小型なため、燃料タンクが小さく、最大で1時間しか飛行できないことです。
オールズ大佐は、ここに目を付けました。
F-4ファントムⅡは主翼下に、4基の増槽やミサイルを取り付けるためのパイロンがあります。このうち1基のパイロンを改造してF-105で使用しているQRC-160レーダー妨害ポッドを取り付けました。
計画はウボンの第8戦術戦闘航空団のF-4C、7編隊からなる「西側部隊」と、南ベトナムのダナン空軍基地に拠点を置く第366戦術戦闘航空団のF-4C、7編隊からなる「東側部隊」で行われました。
1967年1月2日、「西側部隊」は、F-105と同じようにレーダー妨害ポッドを作動させ各編隊は5分間隔で離陸しました。その後F-105が普段使用する爆撃コースを通り、北ベトナムに侵入しました。
当時、戦闘予想地域は厚い雲の覆われ、地上の様子は見えませんでした。
15時0分、オールズ隊は突如厚い雲の中から出てきたMiG-21の3機編隊に襲われました。オールズ隊が苦戦の末3機を撃墜した頃、2番手のフォード隊が到着し、こちらも同様3機のMiG-21に襲われました。しかし、オールズ隊が戦闘区域に残っていたため、1機しか撃墜できませんでした。
3番手のランブラー飛行、残っていた2機のMiG-21を撃墜した後、新たに登場したMiG-21を撃墜しました。
4番手以降のグループは、視界不良で空対空ミサイルの脅威が増したため、その場を離れ戦闘に参加しませんでした。
ダナン空軍基地の「東側部隊」は悪天候のため出撃できませんでした。このため北ベトナムの空軍基地を封鎖して、出撃したMiG-21を燃料切れで墜落させる計画は実現できませんでした。
この日の戦闘で、北ベトナムは11機から14機のMiG-21を出撃させたと見られ、そのうち7機が撃墜され、味方の損害はありませんでした。
北ベトナムが保有する16機のMiG-21の内7機が失われたことにより、再訓練と新戦術の訓練のために、MiG戦闘機を4か月間地上に留めることになりました。
シーダーフォールズ作戦 1967年1月8日~1月28日
鉄の三角地帯はサイゴンから40㎞の位置にある平地で、密生した灌木や下草に覆われ、北部は人の背丈より高いエレファントグラスに覆われています。1946年から1954年にかけての第一次インドシナ戦争ではサイゴンに近いことから、フランスからの独立を目指すベトミン軍にとって格好の隠れ場所になっていました。そのためフランスからの攻撃から守るために、地域全体にわたって地下にトンネル網を造り、抵抗しました。
このトンネルは、フランスに変わってアメリカが南ベトナムを支援するために参加するとさらに拡張整備され、サイゴン政府にとって大きな脅威となっていました。
右下の緑色の三角形で囲まれた部分が鉄の三角地帯と呼ばれ、シーダーフォールズ作戦が行われた場所です。サイゴンの北約20~40㎞の位置にあります。三角形の左側の頂点が観光地となったクチトンネルの位置。
赤い大きな三角形は、サーチアンドデストロイ作戦の第1弾、アトルボロ作戦(1966年9月14日~11月25日)が行われた場所。
地図の左側は「オウムの嘴 」と呼ばれた、南ベトナムに大きく突き出したカンボジアの領土。
1966年1月8日、アメリカはこの地域の共産ゲリラを一掃するために、大規模な掃討作戦(シーダーフォールズ作戦 )を実行しました。
シーダーフォールズ作戦 の地図
上の地図に書かれている丸い丸にはベン・サック村があり、鉄の三角地帯に潜む解放民族戦線(ベトコン)に武器や兵士の他、食糧などを供給する補給基地となっていました。また近くにはベトナム戦争で造られた全長250㎞クチ・トンネルがあり、戦争史跡公園として保存されています。
シーダーフォールズ作戦の準備
今まで「鉄の三角地帯」が解放民族戦線(ベトコン)の聖域として残っていたのは、先に述べたように木や草が密集して生えている場所に加え、フランス統治時代からの砲撃で地面に多数の穴(クレーター)が出来ており、大型の戦闘車両の投入が困難であることもあります。このためこの地域の戦闘は、少人数の歩兵部隊による戦いが主となりました。解放戦線は無数の地雷や、落とし穴、ブービー・トラップを設けていました。またフランスとの戦いから造られ続けられている、迷路のようなトンネル網があり、敵を攻撃した後はすぐ隠れられるようになっていました。またトンネルは、敵の砲撃や空爆から兵士を守ることが出来、援護射撃の効果をなくす役目もあります。
シーダーフォールズ作戦の目的は、このような解放民族戦線(ベトコン)の助けとなるような樹木や草叢を無くし、地域全体を平地にした上で武器や食糧の貯蔵庫、司令所、野戦病院、トンネルを破壊して解放民族戦線(ベトコン)がサイゴン政府攻略のための前進基地として使用できないようにすることです。そのため鉄の三角地帯の北と西、南の3方面をアメリカ軍で包囲して、空からの爆撃や枯れ葉剤の散布で木々を倒し、東側から歩兵と共に、工兵がブルドーザーを使用して後続部隊が容易に侵入できるように道を切り開きながら侵入し、鉄の三角地帯にいる解放民族戦線(ベトコン)の兵士達を包囲網まで追い詰めて、一網打尽にする計画でした。
もう一つの目的は、鉄の三角地帯に居る部隊のための補給基地となっているベン・サック村を完全に破壊し、二度と使えなくすることでした。
計画が漏れて鉄の三角地帯やベン・サック村にいる共産側の兵士が逃げるのを防ぐため、南ベトナム政府軍や、基地内に居るアメリカ軍兵士には何も知らせず準備を包めました。また米軍基地内で働いているベトナム人達は、午後8時になると基地から退去して、その後は基地を閉鎖し、誰も出入りできないようにしました。
作戦開始の前の1月5日からアメリカ軍は移動を開始して、鉄の三角地帯を包囲するために兵を配置し初めました。これにより北ベトナム軍や解放民族戦線(ベトコン)の兵士達は、作戦予定地域から一斉に移動を開始しました。
1967年1月8日シーダーフォールズ作戦開始
ベン・サック村
1967年1月8日午前8時、60機のヘリコプターに乗った500人のアメリカ軍部隊が、ベン・サック村を包囲しました。ヘリコプターのスピーカから村人達に「全員村の中央に集まれ。逃げた者は撃つ」と呼びかけ、約1000人ほどの村人達が集まりました。彼らの世話と検問がヘリコプターで運ばれてきた、南ベトナム軍の兵士達によって初まりました。村人の内、解放民族戦線の兵士とみられた者、24名が殺されました。ベン・サック村の捜索でブービートラップ40個、ライフルグレネード6個、ライフル2丁、サブマシンガン1丁が見つかりました。
午後になると15歳から45歳までの男性は、州警察での尋問のためヘリコプターで連れ出されました。その晩は、残った女性や子ども人達はアメリカ兵の監視の下、自分たちの家で寝ることを許されました。
翌日、農作業に出ていた村人や近隣の村人も含め6000人の人々が集まりました。当時ベン・サック村では秋冬米の稲刈りの季節のため、近くの村人や親戚の人々もやって来ていたのでした。
アメリカ軍の予定では、集められた村人達は、南ベトナム海軍の上陸用舟艇でサイゴン川を下り、ビンズオン省の省都トゥーザウモット郊外にある米軍のフーロイベースキャンプ内に造られた難民収容所に送る予定でした。
しかし、前日まで何も知らされていなかった南ベトナム海軍は、急に言われても必要な数の上陸用舟艇を用意できず、仕方なく川船やトラック、ヘリコプターを使い村人を運ぶことにしました。一日では運べ切れないため、残った人々は村人の家に宿泊させました。混乱の中、村人全員を運美終えるには3日かかりました。村人の再定住の任務を負っていた南ベトナム当局者は、強制撤退が始まる24時間前まで難民キャンプを設営するという任務を知らされていなかった。さらにベン・サック村の人口3500人を遙かに超える6000人を収容するテントの用意も出来ていませんでした。結局米軍第1歩兵師団の助けを借り、急ごしらえの難民村を造りました。
プーロイベースキャンプに造られた難民テント、1967年1月29日
出典 ウィキペディア
シーダーフォールズ作戦の難民のための赤いテント、1967年1月29日。
出典 Wikimedia
村人や家畜が居なくなった後、解体班がやってきて家々に火を付けたりしてすべての建物を壊しました。次にブルドーザーを使い石垣や地下室、立木など壊し地面をならします。最後に爆撃機が航空が爆弾で大きなクレーターを造り、地下のトンネル網を破壊しました。
シーダーフォールズ作戦中のベン・サックの様子については、ドキュメンタリー作家のジョナサン・シェルが計画の初期からアメリカ軍と同行取材をしていて、その結果をニューヨーカー誌に掲載しました。
ジョナサン・シェル 2012年2月。
出典 ウィキペディア
彼の書いた取材記事『ベン・サック村 ベトナムでの悲劇」はこちらのサイトで読むことが出来ます。↓
THE NEW YORKER 100 The village of ben suc
鉄の三角地帯
シーダーフォールズ作戦開始により、鉄の三角地帯全体が自由射撃地帯になりました。
1月8日、大型の爆撃機B-52で大規模な爆撃が行われました。密林地帯では、爆弾の破片は木に吸収され、生えている木々の根っこにより、平地と違い大きなクレーターも出来ませんでした。またナパーム弾を投下しても、高温多湿なモンスーン気候では、森全体を焼き払うような山火事は起きにくい状態です。せいぜい立木をなぎ倒し、地表近くに掘られたトンネルを陥没させるぐらいの、効果しかありません。
1月9日、米軍は第25歩兵師団第2旅団を派遣し、鉄の三角地帯を囲む封鎖線に向かって、解放民族戦線(ベトコン)の兵士達を追い詰めようとしました。しかし、約6000名とみられる兵士達はすでに鉄の三角地帯から立ち去っていました。従って米軍の犠牲者は、わずかに残っていた地元ゲリラの狙撃兵と地雷、ブービートラップによるものでした。初日、アメリカ軍は2名の解放民族戦線の兵士を射殺しました。
その後、工兵隊が戦車ドーザー(戦車にドーザープレートを付けた物)、ブルドーザー、そしてローマ鋤(大型の装甲ブルドーザー)を使用して、密林を切り開き侵入を容易にしました。
ペトナムで使用されたM48パットン戦車に、ドーザーブレードキットを装備したM48 DB (M48 Dozer Blade)。
出典 ウィキペディア
第65工兵大隊B中隊が、ブルドーザーで群生した椰子を伐採しているところ。
1967年1月26日
出典 Wikipedia
ベトナム戦争で「ローマの鋤(すき)」と言われた、防弾装備を付けた大型ブルドーザー。鋭い刃先で30センチの木も切り倒せるそうです。
出典 Wikipedia
こうしてジャングルを丸裸にした後、人間の匂いを嗅ぎ分けられるように訓練した犬を使い、地下トンネルの入り口を見つけました。
狭いトンネルに入れるよう、背の低い特別に訓練された兵士(彼らはトンネルラットと呼ばれていました)を使い、トンネル内の捜査と破壊を行いました。操作後トンネルに水を流し込んだり、可燃性のガスを入れ爆破しようとしましたが、トンネル内は細かく区切られており、成功しませんでした。
トンネル・ラットの、ロナルド・H・ペイン軍曹が懐中電灯とピストルを持ってベトコンを探してトンネルに入っていくところ。
1967年1月24日
出典 Wikipedia
地下トンネルの様子。それぞれの分岐点には蓋がしてあって、水やガスが侵入できないようになっていました。
出典 TOP WAR
結局B-52による大規模な空爆を行い、破壊しようとしましたが深いところに掘られたトンネルは残りました。
切り開かれたジャングルや、農地には枯れ葉剤を散布して草や木が生えるのを防ぐとともに、生育した農作物を敵が使用できないようにしました。
作戦の結果
シーダーフォールズ作戦は1967年1月26日に終了しました。
アメリカ軍のこの作戦でベトコン約750人が死亡、280人が捕虜となり、540人がチエウホイ(武器開放)作戦で寝返りしたとしています。
さらに600丁を超える小火器と6万発の弾薬、2800個以上の爆発物、そして1万3千人の兵士に1年間分の食料を与えるのに十分な量の米を鹵獲した。
それに対してアメリカ軍の死亡者は72名、負傷者は337名、南ベトナム軍の死者は11名、負傷者は8名でした。そのほか戦車3両、装甲兵員輸送車9両、戦車ドーザー1台、ジープ2台、軽観測ヘリコプター2機が失われました。
この結果を受けてウェストモーランド将軍は「作戦は成功した」と述べましたが、目的とした「鉄の三角地帯」に駐留していたとされる、北ベトナム軍と解放民族戦線の兵士6000人を取り逃がしたのは大きな失策でした。
北爆の停止(1967年2月8日~2月12日)と拡大
2月8日、ジョンソン大統領は、ロンドンを訪れていたソ連のコスイギン首相にウィルソン英首相を通じて、ホーチミンに対して「南ベトナムへの陸海からの侵入が停止したという確信が得られ次第、貴国への爆撃停止を命じる用意がある」とのメッセージを送りました。
2月13日、北爆停止中、北ベトナムから南ベトナムへの物資の輸送が活発化したことを受け、北爆を再開しました。 これは北ベトナムが従来行ってきた「北爆を停止してから、南ベトナムへの物資の輸送を停止する。」との要求に反したためと思われます。
その後ジョンソン大統領は段階的に北爆を強化する「春期北爆攻撃」を承認しました。
- 2月22日、ハノイ、ハイフォンを除く5カ所の発電所への攻撃。タングエン製鉄所の攻撃。河川および加工の機雷敷設。20度線までの艦砲射撃の実施。
- 3月22日、ハイフォンにある2カ所の発電所に対する攻撃。
- 4月8日、ハノイ、ハイフォン周辺に対する以前からの制約を解除し、ケプ飛行場、ケブ市中心部にある変電所への爆撃、ハイフォンにある石油貯蔵施設、弾薬集積所、セメント工場に対する攻撃。
- 5月2日、ハノイの中心から1.6㎞北にある発電所への爆撃。
ジョンソン大統領はハノイやハイフォン等の大都市で、電気の供給が止まると大変なことになると考えていたようですが、そもそも北ベトナムには、大きな電力を必要とする工場が無く、せいぜい電灯が消える位で、戦争に必要な鉄や石油、セメント、武器弾薬はソ連や中国から送ってくるので、戦争の継続にはたいした影響を受けませんでした。
ジャンクションシティ作戦(1967年2月22日~5月14日)
サイゴンの北にあるタイニン省は、ホーチミンルートの終点であるカンボジアと接しており、 ここには1960年代初めには、解放民族戦線(ベトコン)の総指令部である、人民革命党中央執行委員会がおかれていました。アメリカは南ベトナム中央本部(COSVN)事務所(COSVN)事務所は、何らかの固定した建物だと思っていましたが、実は南ベトナム中央本部は南ベトナム解放民族戦線幹部の集まりで、各幹部の自宅に造られた下の写真のような建物を巡回しながら、会議を行っていました。常に移動していたため、アメリカはこのあたりにあると見当を付けることは出来ても、特定の場所に造られた建物を見つけることは出来ませんでした。
南ベトナム中央本部(COSVN)事務所として使用された、
グエン・ヴァン・リン同志の建物。
ジャンクションシティ作戦の場所
サイゴンの北、カンボジアとの国境近くにある黒線で囲ったかまぼこ型の地域が、ジャンクションシティ作戦の場所。
赤い星印の場所が南ベトナム中央本部事務所が置かれて居ると思っていた地域。
下の方にあるサイゴン近くにある赤い三角形の部分が、シダーフォールズ作戦が行われた場所。
現在、赤い星印の場所には南部中央局基地遺跡展示館があり、展示館の隣の森にはかって集会所として使われた解放民族戦線の将校や兵士達の集会所や住宅に通じる小道が残されています。ただ遺跡の面積は約70ヘクタールもあり(東京ドーム15個分)熱帯地方で全部回るのはかなりの大仕事です。
南部地域中央事務所遺跡展示館
出典 タイニン観光
展示館内部の動画 ↓
ジャンクションシティ作戦
フェーズⅠ
2月22日未明、B-52爆撃機がこの地域で共産ゲリラの拠点と思われる場所を爆撃しました。その後第1騎兵師団が70機のヘリコプターで国道4号線上にあるカトゥムからカンボジア国境までの間を攻撃して、陣地を築きました(下の地図の右上の部分)。
第196軽歩兵旅団は、自前のヘリコプターで国道22号線と246号線の交差点付近に着陸して、カンボジアとの国境にある検問所を固めました。また第196軽歩兵旅団の車両部隊が国道247号線と、カンボジア国境までの国道22号線上に展開して、この方面からカンボジアに行けないようにしました(下の図の左下の部分)。
さらにこの両方の地域を結ぶカンボジア国境沿いに造られた国道246号線上に、第173空挺旅団第503歩兵連隊第2大隊の兵士845人が落下傘降下して包囲網を完成させました(下の図の点線部分)。この空挺部問は、ベトナム戦争で使用された唯一の空挺作戦でした。
奉仕網から外れた右下の部分は、プレッククロック基地とカトゥムに到着した第1騎兵師団からサーチアンドデストロイ作戦を行い、塞ぐ予定でした。参加したアメリカ軍の兵力は3万人となります。
ジャンクションシティ作戦フェーズⅠ
出典 Wikipedia
2月23日、機械化された第11装甲騎兵連隊と第25歩兵師団第2旅団の装甲部隊が、上の図の下の部分から攻撃を開始して包囲網まで追い詰め、攻撃開始からの5日間で解放民族戦線(ベトコン)に54名の損害を与え、アメリカ軍の損失は28名でした。
投下した兵力の数に対してベトコン側の損害が少ないのは、この地域にいた解放民族戦線の第9師団と、南ベトナム中央本部の部隊が包囲網が完成するまでに、カンボジア領内に逃げていたためです。
民族解放戦線は、アメリカ軍基地近くの住民や農民から大規模な作戦を行う兆候があることや、この地域の向かって戦車や重砲、兵員輸送車が移動していること、ヘリコプターや空挺部隊の着陸予定地域に、空爆や予備砲撃が行われたことなどから「強い敵とは戦わない」原則に従って避難を完了していました。
プレック・クロックⅠの戦い 1967年2月28日
2月23日、第16歩兵連隊第1大隊がライケ基地から到着しました。彼らの任務は基地の飛行場と、砲兵部隊の防御でした。
プレック・クロック基地、1967年4月24日。
この基地は、ジャンクションシティ作戦中に第588工兵大隊によって建設されました。
出典 Wikipedia
2月28日午前8時、第16歩兵連隊第1大隊はプレック・クロック基地から国道4号線を南に6㎞離れた場所から東側の地域で、サーチアンドデストロイ作戦を行いました。ジャンクションシティ作戦フェーズⅠの地図で、右側下の部隊マークのあるところです。
午前10時半、ジャングルの中にある倒木の多い場所で、解放民族戦線(ベトコン)からの射撃を受け動けなくなりました。戦闘開始が20分後、部隊は包囲され。中隊全体が小火器、ライフル擲弾、ロケット弾、そして60mm迫撃砲弾の直撃を受けるようになりました。
12時30分、位置確認のためにやって来たヘリコプターに対して、着色発煙弾で位置を知らせ、基地からの砲撃や航空機による地上援護を受けながら戦い続けました。
14時30分、師団長のマークス大佐は、戦闘地域から北東600㍍の所にヘリコプターの着陸場所を作り、増援部隊を送りました。
15時、戦闘部隊支援のための増援部隊が到着し、戦闘地域に向かって進軍を開始しました。この頃には砲兵隊の援護射撃や、航空支援により戦闘は終了しました。
16時45分、増援部隊が到着しました。21時30分、第16歩兵連隊第1大隊の部隊は戦死者25名、負傷者28名を連れて、ヘリコプターの着陸地点に到着しました。その後の捜索で、解放民族戦線の死者167名が見つかりました。翌朝捕らえられた捕虜により、攻撃してきた敵は、解放民族戦線第9師団第101連隊の第2大隊と分かりました。
プレック・クロックⅡの戦い 1967年3月10日
プレック・クロック基地は、基地の境界線に沿って50㍍ごとに装甲兵員輸送車を配置し、その間は歩兵、工兵、砲兵を配置した塹壕で守られていました。
22時、民族解放戦線の部隊が基地の守備隊に対して、迫撃砲で攻撃してきました。すぐさま基地の重迫撃砲小隊が反撃を開始して435発の砲弾を発射しました。
30分の間に、民族解放戦線は200発の迫撃砲弾の他、75㎜無反動砲ととRPG-2:携帯型対戦車兵器を使用して数台の装甲兵員輸送車を破壊して、アメリカ兵20名が負傷しました。
22時30分、解放戦線の2大隊が東側の森から地上攻撃を開始しました。
キャンプに駐留していたアメリカ軍は、スオイダ にある第3旅団の戦術司令部に対し、近接戦術航空支援、砲撃、負傷者の医療搬送、弾薬補給の提供を要請しました。要請にしたがって5機のヘリコプターが64回にわたって負傷者の搬送と、弾薬の補給を行い、延べ100回の航空機による地上支援が行われました。
1時間後、解放戦線の攻撃は撃退されましたが、翌日の午前4時30まで狙撃兵による狙撃は続きました。
翌朝解放戦線の兵士197名の死亡と、負傷した兵士5名が捕虜となりました。捕虜の尋問と押収した書類により、攻撃してきて部隊は解放戦線第9師団第272連隊の2個大隊と分かりました。
アメリカ軍の被害は死亡者3名、負傷者38名でした。
ジャンクション作戦 フェーズⅡ
1967年3月18日、ジャンクション作戦における初期の目的、開放戦線の主力部隊である第9師団の包囲殲滅と、南ベトナム解放民族戦線の南部中央事務所(総司令部)の発見・破壊に失敗した後、ベトナム第2野戦軍司令官に就任したブルース・パーマー・ジュニア将軍は、ジャンクションシティ作戦の第2段階として、C戦区(War Zone C)全域でサーチアンドデストロイ作戦を実施しました。
ジャンクションシティ作戦中の交戦地図(赤い星印の所)
左側の2つはプレック・クロックの戦いのⅠとⅡ
右側の1番下は第二次アプ・バウ・バンの戦い
真ん中がスオイ・チェの戦い
一番上がアプグの戦い
出典 Wikipedia
第二次アプ・バウ・バンの戦い 1967年3月19日~20日
アプ・バウ・バンは、シーダーフォールズ作戦が行われた鉄の三角地帯の北東に接している村です。この村では1965年11月12日、アメリカ軍の夜間防衛陣地をめぐって、解放戦線との戦いが行われていました(アプ・バウ・バンの戦い)。
1967年3月19日午前11時50分、アプ・バウ・バン村の北1.5kmにある第9砲兵連隊第7大隊B砲兵隊(105mm砲)の第20火力支援基地を守るため、第1歩兵師団第9歩兵連隊のA中隊が到着しました。第1歩兵師団は第1次世界大戦の時に結成され、正規軍では最も古くから任務に就いている師団です。
A中隊は129名の兵員、M48戦車6両、M113装甲兵員輸送車(APC)20両、4.2インチ迫撃砲搭載車3両を擁していた。部隊はB砲兵隊の大砲を囲むように、円形の防御陣形を組みました。
基地の南側にはゴム農園が広がり、北と西側には森林地帯が広がっていた。東側30㍍の所には国道13号線が通っており、国道に沿って廃線となった鉄道の線路が残っていました。
A中隊が到着し日の22時50分、解放戦線の偵察隊から東側の線路を越えて機関銃が発射されました。ただちに戦車と装甲輸送車が反撃し、3分後に機関銃は破壊されました。
3月20日午前0時30分、ベトコンは攻撃を再開し、迫撃砲弾、ライフル擲弾、ロケット弾、無反動砲の射撃で第20火力支援基地を攻撃を始めました。部隊は第20火力支援基地の大隊と、さらに遠くのライ・ケにあ年月日る砲兵隊に砲撃支援を要請した
午前0時50分、解放戦線部隊は迫撃砲の攻撃が続く中、アメリカ軍を包囲するため、円形の陣地の境界に沿って南側から西に移動しました。さらに北側から新たな部隊が現れ、西に移動を開始しました。
A中隊は第9歩兵連隊本部に増援部隊の派遣を要請し、本部は北8㎞の位置に居るB中隊と、南側5㎞の位置に居るC中隊を援護のため向かわせました。
午前2時20分、増援部隊が到着し、反撃を開始しました。
午前3時30分、砲兵隊の援護に航空機による地上攻撃も加わり、解放戦線の勢いが衰え始めました。
午前7時、最後の砲撃と空襲が行われ、戦闘が終了しました。
第二次アプ・バウ・バンの戦いでジャングルに突入するM113装甲兵員輸送車と、援護する歩兵達。
出典 Wikipedia
この戦いで、解放戦線は227名の死者を出し、3名が捕虜となりました。アメリカ側の損害は死亡3名、負傷者63名でした。
スオイ・チェの戦い 1967年3月21日
スオイ・チェはC戦区(War Zone C)の真ん中に位置して、C戦区で行われるサーチ・アンド・デストロイ作戦全体に砲兵隊による砲撃支援を行える絶好の場所でした。スオイ・チェは、アメリカ軍の攻撃で廃村になった場所で、付近は枯れ葉剤散布で使えなくなった農地が開けており、新たに火力支援基地を建設するのに適していました。
3月18日、第22機械化歩兵連隊第2大隊がスオイ・ダの基地から北東約11㎞の位置にあるスオイ・チェに向かって移動を開始しました(下の地図で図で、一番下にある部隊)。部隊の任務は19日にヘリコプターで到着する部隊のために着陸地帯を占領・確保することでした。しかし、途中で解放民族戦線(ベトコン)の攻撃を受け、19日までにヘリコプターの着陸予定地に到着出来ませんでした。
3月19日の朝、機械化部隊の援護なしで30分の準備砲撃の後、最初のヘリコプターで運ばれた第77砲兵連隊第2大隊は何事もなく着陸に成功しました。
その後第3師団第22歩兵連隊が着陸しようとすると、解放戦線は着陸用地で5発の大型遠隔操作爆薬を爆発させた。これはアメリカ軍が落とした不発弾に、離れた位置から起爆できるように電線を付けた物で、ヘリコプターの着陸に合わせて爆発させました。これによりヘリコプター3機が破壊され、6機が損傷、アメリカ兵15名が死亡し、28名が負傷しました。さらに地雷により、歩兵5名が負傷しました。そんな中第3-22歩兵連隊は防衛戦を築きB中隊は防衛線の東側、A中隊は西側を担当しました。着陸後の捜索で、起爆用の電線を付けた不発弾21個が見つかりました。
同日遅く、第12歩兵連隊第2大隊が到着して、西側に移動して最初に予定された着陸場所(LZ シルバー)に到着して夜間駐留しました(下の地図の左上の位置)。
3月20日は戦闘も起こらず、各部隊は陣地の強化に努めました。新たに構築された火力支援基地は、FSBゴールドと名付けられました。配置された兵員は、約450名でした。
スオイ・チェの戦いマップ。
青い線で囲んだ楕円形の部分がスオイ・チェの火力支援基地。
出典 Professinal Forrum (PDF)
3月21日午前4時29分、第3-22部隊B小隊の監視班がジャングルの中で動きがあると、報告してきました。(FSBゴールドの円内、右下の部分)
午前6時30分、監視班が基地に戻る準備をしているとき、2名の敵を発見し、直ちに銃撃戦となりました。
午前6時32分、監視班救援のために新たな部隊を構成し始めたとき、米軍基地内に60㎜および80㎜迫撃砲による激しい攻撃を受け始めました。
午前6時35分、第3-22部隊B小隊の監視班は攻撃を受け、全滅しました。同時刻、解放戦線(ベトコン)の第9師団第272連隊の4個大隊に2個歩兵大隊とU80砲兵大隊を加えた2500名の部隊が、FSBゴールドに対して総攻撃をかけてきました。
午前6時38分、FSBゴールドの東側の守りに就いていたB小隊から、解放戦線(ベトコン)が鉄条網を超えて基地内に侵入したとの連絡が入りました。
午前6時40分、第3旅団司令官B・ガース大佐は近隣の砲兵基地に援助砲撃と、航空支援を要請し、唯一飛行可能なヘリコプター(OH-23バブルヘリコプター)を使いスオイダの旅団戦術作戦センターから現地に向かい、機上から戦闘指揮を執りました。
午前6時55分、西側の夜間陣地で夜を過ごしただい2-12大隊がFSBゴールドに向かって出発しました。
一方基地の南側に居る第22-2機械化連隊は、FSBコールドの前を流れるスオイ・サマセット川に行く手を阻まれ、渡河地点を探すため偵察隊を派遣しました。
この頃にはFSBゴールドを囲む4カ所の火力支援基地からの砲撃が届き、森の中の迫撃砲陣地を破壊し始めました。
午前7時15分、最初の航空支援が初まり、森の縁からFSBゴールドの間の開けた場所に爆撃を開始しました。
一方解放戦線(ベトコン)は、迫撃砲による攻撃が徐々に弱まり、代わりに森の縁から57㎜無反動砲とRPG-2携帯型対戦車ロケットを使い、基地内に入り込んだ歩兵を支援しました。
午前8時15分、基地の東側は完全に制圧され、防御に当たっていた第3-22B小隊は予備の防御ライン(基地内の点線の部分)まで撤退を開始しました。また西側の夜間陣地に居た第2-12大隊が到着しました。
南側に居る第22-2機械化連隊は、渡河出来る場所を見つけ川を越え始めました。
8時25分、北側の境界線に新たな敵が現れ、そこに設置されていたM45四連装機関銃がRPG-2弾の直撃を受け、破壊されました。攻撃側の解放戦線(ベトコン)が機関銃に到達し、さらに接近しようとしたとき、75メートル離れた砲兵隊陣地からビーハイブ弾が発射され、接近は阻止されました。
ビーハイブ弾とは
ビーバイブ弾は、榴散弾に込められた金属玉の代わりに、下の写真で示したロケットのような4枚の尾翼を付けた小さな金属製の矢を詰めた対人用砲弾です。
ファイル:フレシェットと呼ばれる小さな尖った金属製の矢。2009年1月にガザ地区で撮影
出典 INDEPENDENT
金属製の小さな矢を詰めたフレシェット弾は、散会した歩兵の集団を攻撃するための砲弾として、朝鮮戦争後の1957年から開発が進められ、1966年のベトナム戦争で実用化されました。ビーバイブ弾という名前は、飛んでくる小さな矢が、ハチの羽音のようなブーンという音を出すことから来ています。
写真は「ビーハイブ」90mm、105mm、そして爆弾パックのフレシェット爆弾です。爆弾1発あたり約14,000本のダーツ弾を内蔵していました。
ベトナム戦争では、主に集団で突撃する敵兵に向かって直接射撃で使用され、大きな効果があることが認められました。
午前8時30分、空中から指揮を執っていたガース大佐は、渡河を終えてFSBゴールドに向かって進軍中の第22-2機械化歩兵部隊の前方に、解放戦線(ベトコン)が待ち伏せしているのを発見し、空軍に地上支援を要請しました。
午前8時40分、F4ファントムが東側の森林限界に沿ってナパーム弾を投下し、陣地内の砲兵隊からビーバイブ弾を連射して、予備の防御ライン内の敵兵を排除しました。
午前9時12分、第22-2機械化歩兵部隊が基地の南側の境界線に到着し、境界線に沿って南から東側に進み、残っている解放戦線(ベトコン)の掃討を開始しました。 これによって予備の防御ラインに居た第3-22部隊B小隊は東に進出して、もとの防御ラインを確保しました。
午前9時30分、基地の基地の境界線は再び確保され、午前10時、負傷者を収容するため、ヘリコプターが着陸しました。
午前10時45分、戦闘は終了しました。
この戦いは双方とも砲と砲との打ち合いであったため、アメリカ軍の被害は少なく36名が死亡、193名が負傷しました。
一方、攻撃力に勝るアメリカにやられた解放戦線は死者647名、捕虜7名を出していました。
参加した全部隊に、大統領部隊表彰が授与されました。
アブグの戦い 1967年3月31日~4月1日
1967年3月下旬、解放戦線(ベトコン)第271連隊がカトゥムから第196歩兵旅団の迎撃を回避し、東方面に移動して、スロック・コン・トランのFSBチャーリーを攻撃しました(地図 1の右端の部隊)。
3月26日、FSBチャーリーの指揮官グリムズリー大佐は、ヘイグ中佐の第26歩兵連隊第1大隊のブルー・スペイダーズをLZジョージに派遣し、解放戦線(ベトコン)第271連隊に対して、サーチアンドデストロイ作戦を行うことにしました。第26歩兵連隊は1901年に設立された歩兵連隊で、連隊の紋章に描かれた青いスペードから、ブルースペイダーズと呼ばれています。ベトナム戦争では第1歩兵師団(ビック・レッドワン)に加わり、1965年から参戦しています。
第26歩兵連隊の紋章
出典 Wikipedia
LZジョージ(下の地図1左側の赤い色の地域)は、アプ・グ村の西約2㎞の所にある干上がった沼地で、ヘリコプターの着陸に適していました。
アプグの戦い、地図1
地図の左側がカトゥム方面
出典 第16歩兵協会
作戦開始予定の3月30日は、朝から悪天候のため準備砲撃の時間が2時間遅れ、第2歩兵連隊第1大隊の到着は31日に延期され、30日の午後になって第26歩兵連隊第1大隊だけが、LZジョージに着陸しました。着陸後、大隊は基地予定地の周辺をパトロールし、着陸地点周辺で、要塞化した敵の陣地を発見しましたが人影は有りませんでした。
その後、夜間防衛陣地のため、塹壕を掘り、地下に掩蔽壕(日本で言う防空壕)を作り、監視塔を建てました。その夜は交替で、見張り番を建てましたが、敵との接触はありませんでした。
3月31日、本隊の第2歩兵連隊第1大隊が到着しました。第2歩兵連隊第1大隊は本隊をA、B、Cの3つの中隊に分け、A中隊は基地の南側、B中隊は予備として、着陸地点の大隊境界線の警備と巡回にあたった。、C中隊は基地の東側でサーチアンドデストロイ作戦を開始しました。大隊の偵察小隊は境界線の北西の森を捜索していた。
13時00分、偵察小隊の先頭が解放戦線(ベトコン)の第70親衛連隊と接触し、戦闘状態に入り、指揮官のヒル中尉が致命傷を負ったとの連絡がありました。下の地図2で左上の部分。このとき基地の北部に居たB中隊の隊長は独断で、偵察小隊の救援に向かいました。
連絡を受けたヘイグ中佐は、空軍と砲兵に支援攻撃を要請して、ヘリコプターで戦闘地域に向かいました。途中B中隊が、偵察小隊に向かって進軍しているのを発見しました。これでは支援砲撃を受けることが出来ません。結果としてB中隊は十分な装備も無く、偵察小隊と共に激しい戦闘に巻き込まれました。
ヘイグ中佐は戦闘現場に着陸し、大隊の作戦部長に空中からの援護攻撃の指揮を命じ、A中隊に救援のため前進を命じました。激しい支援砲撃と地上支援の中、撤退を開始して、交戦状態にあったA中隊の2個小隊を除いた全部隊の撤退を成功させました。アメリカ軍が移動を始めると、解放戦線は追撃しようとしましたが、砲撃により阻止されました。17時5分に戦闘は終了し、アメリカ軍は死者7名、38名の負傷者を出していまいました。
一方、師団長ジョン・H・ヘイ将軍は増援として、第16歩兵連隊第1大隊を送りました。部隊は15時55分LZジョージに着陸し、第26歩兵連隊第1大隊の北西側を占領して、新たに陣地を構築しました。下の地図2で左側の森の中に囲われた部分。
アプグの戦い、地図2
出典 第16歩兵協会
4月1日午前4時55分、解放戦線から第26歩兵連隊第1大隊に対して1発の迫撃砲弾が撃ち込まれました。ヘイグ中佐はこれを聞き、迫撃砲攻撃を始める前の、位置合わせの準備砲撃であるとみて、直ちに全中隊に完全警戒態勢を命じ、身を隠して攻撃に備えるよう指示しました。
午前5時、60㎜、82㎜、120㎜の数百発の迫撃砲による解放戦線(ベトコン)の砲撃がLZジョージ全体に渡って行われました。この攻撃は同時にFSBチャーリーに対しても行われ、こちらは約1時間続きました。これはLZジョージへの砲撃支援を防ぐ目的でした。しかし、このときFSBチャーリーの砲兵隊は、LZジョージにより近い火力支援哨戒基地スラスト(地図1の真ん中の部隊)に移動しており、こちらは何の攻撃を受けていなかったため、LZジョージへの火力支援は支障なく行われました。
第2旅団戦術本部は、LZジョージに航空管制官と共に、爆撃機と武装ヘリコプターの派遣を決めました。航空管制官は、軽飛行機や小型ヘリコプターで戦場の上空から監視を続け、やってきた爆撃機や武装ヘリコプターに攻撃場所を指示する役目を持っていました。
午前5時15分、解放戦線(ベトコン)の本隊第271連隊が、C中隊の居るLZジョージの東北部に攻撃を仕掛けてきました。また第70親衛隊はLZジョージの周りで、陽動攻撃を開始しました。
数分後、敵の本隊から攻撃を受けたC中隊は持ちこたえられず、幅100㍍に渡って侵入され、3カ所の掩蔽壕が占領されました。約40㍍進んだところで、B中隊と偵察小隊が加わり、侵入を阻止することが出来ました。
午前6時30分、夜明けとともに爆撃機による空爆が始まりました。爆撃機は15分ごとにやってきて、敵の頭上にクラスター爆弾を投下しました。
クラスター爆弾とは
クラスター爆弾は、小さな鉄球を仕込んだ野球ボール大の小型爆弾を大きな弾体に仕込んだ爆弾です。
この爆弾を投下すると、空中で爆発して何百もの子爆弾を散布することが出来ます。このため広範囲にわたって目標に損害を与えることになります。地上にいる兵士から見ると、空から多数の手榴弾が、降ってくるような感じです。
ベトナム戦争で使われたCBU-24クラスター爆弾(下の写真)では、1つの弾体の中に、665個の子爆弾が入っています。
ベトナム戦争で使用された米軍のCBU-24対人・対物クラスター爆弾(ボール爆弾)
出典 Wkipedia
爆撃の合間には、武装ヘリコプターが航空管制官の指示に従って、地上にいる敵兵にロケット弾やミニガンで攻撃しました。
砲兵隊は、解放戦線の第271連隊がやってきた森の中の通路と、奥にある迫撃砲の陣地に向かって砲撃を繰り返しました。これにより解放戦線は徐々に勢力を弱め、午前8時攻撃は終了しました。
アプグの戦いで、解放戦線(ベトコン)側の死者は609名となり、アメリカ軍は死者17名、負傷者102名を出しました。
4月16日、第2野戦軍の米軍司令部はカンボジア軍司令部と合意の上、ジャンクションシティ作戦の第3段階として作戦継続を決定した。5月14日まで、第25歩兵師団の一部の部隊は、藪の中を前進し、村落を掃討し、大量の物資を回収するなど、長く過酷な捜索活動を行ったが、慎重に防御態勢をとっていたベトコン部隊とはほとんど接触しなかった。
引用 Wikipedia
ジャンクションシティ作戦全体の結果
この作戦で米軍は死者282名、負傷者1576名を出しました。そのほか戦車・装甲車24台、トラック12台、ヘリコプター4機、榴弾砲5問が破壊されました。
一方解放戦線側は死者2728名、捕虜34名、脱走兵139名、負傷者不明となっています。そのほか、900トンの食料、100基の大型兵器、500挺以上の小火器を失い、1967年末まで大規模な攻勢をかけることが出来ませんでした。