2024/09/20
1954年4月26日に成立したジューネーヴ協定で、ベトナムが南北に分かれた後、共産主義との戦いを期待されて就任したゴ・ディン・ジェム大統領でしたが、1960年頃から共産党との戦いより自己の権力拡大を目指すようになり、反対勢力の弾圧が激しくなってきました。1963年8月21日に反対派の一大勢力である仏教徒を弾圧するために行ったシャーライパゴダの襲撃以後、軍部の中にもジエム大統領に批判的な勢力が生まれ、クーデターの計画が立てられるようになりました。
sponsored link
亀仙人2シャーライパゴダ襲撃から11月1日のクーデター実行まで
11月1日のクーデターを計画した人たち
ここまでの経緯はこちらをご覧ください ↓
かねてからクーデターを狙っていたトラン・ヴァン・ドン将軍、ズオン・ヴァン・ミン将軍、レ・ヴァン・キム将軍の3人は、アメリカがベトナムへの援助を一部中止したことを受け、クーデターが容認されたとして新たなクーデター計画を作成しました。
トラン・ヴァン・ドン将軍
彼は1914年10月31日、医学を学ぶためにフランスに来ていた父のもと、フランスのボルドーで誕生しました。
1920年父とともにベトナムに帰国しました。彼はサイゴンの高等学校・シャスルー・ローバでズオン・バン・ミン将軍と同じクラスで学びました。
第2次世界大戦中彼はフランス植民地軍に入り、フランスを占領していた日本軍と戦っていました。この頃同じく日本軍と戦う地元民の組織を支援するためベトナムに入っていたOSS(後のCIA)のルシアン・コーネンと会っています。
その後フランス軍の支援を受け手板ベトナム国軍に入り第1次インドシナ戦争でベトミンと戦っていました。
1955年大佐となっていたトラン・ヴァン・ドンは、同じく大佐となっていた旧知のズオン・バン・ミンとともに、当時警察権を握っていたギャングのバイ・ビエン(ベトナム国の皇帝バオ・ダイはヨーロッパでの遊興費を稼ぐため警察権をバイ・ビエンに売っていました)と戦い、勝利して当時首相だったゴ・ディン・ジェムが警察権を手にするのを助けました。
この時期CIAのルシアン・コーネンはベトナムに派遣され、反共の宣伝活動をしていました。
バイ・ビエンとの戦いの詳しい説明はこちら ↓
この功績により二人は昇進して、少将となりました。
1960年代の初め、南ベトナム北部の非武装地帯を守る第1軍団の司令官として赴任しました。ドンは北部5省を北ベトナムからの侵入を防ぐためな働きましたが、私兵と秘密警察でこの地域を支配していたジエム大統領の弟ゴ・ディン・カン(1963年5月、仏教旗の掲揚を取り締まって仏教徒危機を作った人)と衝突したことで、軍の指揮権を解かれ、統合参謀総長に任命されました。これにはドンが仏教徒であることも関係していると思われます。
統合参謀長といっても実務から切り離され、ベトナムに訪れた賓客を空港で出迎え、儀仗兵を従えて閲兵式を行うのが主な仕事となっていました。
ズオン・バン・ミン
ズオン・バン・ミン(1964年撮影)
出典 Wikipedia
彼は 1916年 2月 19 日、ベトナム南西部のミトーの中産階級の農家に生まれました。
彼は地元のカレッジ・ド・ミトーで学び、その後サイゴンに行き、カレッジ・シャスルー・ローバでトラン・ヴァン・ドン将軍と同じクラスとなりました。
第2次世界大戦中、彼フランスの植民地軍に入隊して日本軍と戦っています。このとき日本軍に捕まり、捕虜となりましてが終戦後釈放されました。
その後ベトナム国軍に入り、パリ参謀大学の上級幕僚クラスで学ぶために海外に派遣された。 1953年初めに彼はこのコースを修了し、国軍参謀本部で勤務するために帰国しました。 1954年 11月、彼は中佐に昇進し、サイゴン – チョロン師団の司令官に任命されました。
1955年5月1日、彼はディエム首相によって、サイゴン~チョロン地域におけるレ・ヴァン・ビエン将軍のビン・スエン軍とその首都サイゴン~チョロンを守る作戦の司令官に任命され、5月5日には大佐に昇進しました。
ビン・スエン軍の戦いで勝利したことで、一緒に戦ったトラン・ヴァン・ドとともに少将に昇進しました。
1958年8月、アメリカのフォート・リーヴワースの指揮幕僚アカデミーの上級参謀クラス(コース58-2)に留学しました。米国カンザス州で16週間の研修期間を終了し帰国後の1959年1月初旬、首都軍区、第1軍区、第5軍区の3軍区の総司令官に任命されました。
1961年、彼は国防省次官に任命されました。 1963年初頭まで、彼は参謀本部の作戦軍司令官の職を務め、その補佐官はレ・ヴァン・キム少将でした。
1963年彼は実務から切り離され(彼も仏教徒です。)、大統領軍事顧問となり、ジエム大統領の住む独立宮殿に勤務しました。
レ・ヴァン・キム将軍
レ・ヴァン・キム中将
出典 Wikipedia
彼は1918年南ベトナム中部の町ビンディン市で、フランス国籍を持つ裕福な家庭に生まれました。後にドン中将の妹トラン・ティ・トゥ・フォンと結婚し、トラン・ヴァン・ドン中将の義理の弟にあたります。
幼い頃フランスに住む叔父を追って、フランスに移住します。
1940年大学2年の時、フランスの動員令に従ってフランス軍に入り、ポワティエ砲兵学校で学び、1年後予備中尉の階級で卒業し、ベトナムに帰国するまで、砲兵部隊で働きました。
1945年9月、彼はベトナムに移動され、新たに設立されたベトナム国を助けるため、フランス連合軍に配属されました。
1950年4月、フランスのパリ職員大学の上級職員クラスに留学しました。
1951年、フランスで参謀課程を修了した彼は、少佐となりベトナム国軍に配属されました。
1952 年 3月に中佐に昇進し、第 4中央高地軍区の副司令官の職に就きました。
1954年、彼は大佐となり国防省研究部長および移行評議会議長に任命されました。
1956年から1959年にかけて、サイゴンの陸軍大学の校長となりました。このとき少将に昇進しています。
1961年、参謀本部の作戦司令部に配属され、ズオン・バン・ミン中将の補佐官になりました。
仏教徒危機からクーデター開始までの流れ
1963年5月8日、北ベトナムとの国境に近い町フエで、お釈迦様の誕生を祝うお祭りに(ヴェーサーカ祭)に信徒が仏教徒の旗を掲載することを政府が禁止したことら、抗議集会が起こりました。その集会に対して軍が発砲や手榴弾で攻撃し9人が亡くなったことから、仏教徒による大規模な反政府運動が始まりました。
それに対してジエム大統領の弟ゴ・ディン・ニューは、仏教徒に対する弾圧を激しくしました。
6月11日に仏教の僧侶ティック・クアン・ドックが政府に対して抗議するため、路上で焼身自殺しました。ゴ・ディン・ニューの妻マダム・ニューは
「あんなのは僧侶のバーペーキューに過ぎない」
と発言したため、ジエム大統領を支援しているアメリカ政府に対して、大きな反発を引き起こしました。
ケネディ大統領は、ジエム大統領に仏教徒を迫害しているゴ、ディン・ニュー夫妻を政権から外すように求めましたが、ジエム大統領は同意しませんでした。
クーデターを計画した、ドン、ミン、キムの3将軍にとって一番気になっていたのが、サイゴンとその周辺地区を担当していたディン少将の第3軍団でした。
このままではサイゴンでクーデターを起こすと大規模な戦闘となり被害が大きくなるばかりか、下手をするとクーデターが失敗する恐れがありました。そのためドン将軍は、ディン少将を何とかクーデター側に引き入れたいと思っていました。
1963年のディン
出典 Wikipedia
そしてその機会は、意外と早くやって来ました。
1963年8月1日のシャーライパゴダ襲撃事件の後、ジエム大統領は南ベトナム軍の仕業と見せかけるため、ディン少将の第3軍団が寺院に潜入し仏教徒によるクーデターを未然に防ぎ、国を救った英雄としてディン少将を讃え、特別ボーナスを贈りました。
8月29日、気を良くしたディンは記者会見を開き、ジャーナリストに対して、
「私はヘンリー・カボット・ロッジ南ベトナム駐在米国大使を倒した。彼はクーデターを起こすためにここに来たが、私、トン・タット・ディンは彼を打ち負かし、国を救った」
と述べた。
引用 Wikipedia
発言の意味を聞かれたディンは、仏教徒による反政府運動はジエム政権を崩壊させようとする北ベトナムからの共産党員が各地のパゴダに潜入して、僧侶や仏教徒をけしかけて起こしたものだと説明しました。実際ゴ・ディン・ニュー夫妻は、こう主張していました。
さらにアメリカ政府は、仏教徒の要求を入れるようデエム大統領に圧力をかけ、この運動を後押ししていました。
6月11日、僧侶のティック・クアン・ドックがアメリカ大使館前の路上で焼身自殺すると、アメリカ国内ジエム政権を支持しているアメリカ政府に対して、批判が高まりました。
そこでアメリカ政府はジエム政権と親しいフレデリック・ノルティング大使を帰国させ、新たに強硬派として知られるヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを大使として送り、仏教徒騒動を利用してクーデターを起こし、アメリカ寄りの傀儡政権を作るつもりでした。
そこでディンはノルティング大使が帰国し、新たにロッジが大使としてベトナムに就任する間を狙い、クーデターを計画していた仏教徒たちを攻撃して、南ベトナムを仏教徒、共産主義者、そして「外国の冒険家」(ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア)から救ったと主張しました。
ここまでが、ディンが記者達に話した内容です。
彼の説明を聞いた記者たちは、一斉に笑い出しました。大の共産党嫌いで在り、国連大使の時代には国連を舞台にソビエトの国連大使と激しくやり合ったロッジが、共産党と一緒に仏教徒をけしかけてクーデターを指導するなどということはあり得ないことだったからです。
馬鹿にされたと感じたディンは、会議場から飛び出していきました。
この話を聞いたトラン・ヴァン・ドン中将は、ディンの自尊心を利用して味方に引き入れようと考えました。
記者会見の後ベトナム軍統合参謀本部の食堂に戻ったディンに対して、ドンは気分直しに全国の視察旅行に誘いました。
1963年8月29日、キム中将はCIAのルシアン・コーネンと会談して、アメリカ政府がクーデターを容認する印に、ジエム政権への経済援助を中止するように求めました。
8月31日までに、ロッジ大使とアメリカ政府との間で電報のやりとりがあり、8月31日ロッジ大使に対して、必要となれば南ベトナムへの援助停止の権限が与えられました。
ドンはディンとともに全国視察旅行を行い、多くの司令官と会いました。ドンはクーデターを計画しましたが、彼自身は直接指揮できる部隊を持たないため、各地の司令官と会う必要があったのです。
訪問先では酒場でパーティーが行われ、その後は高級娼館での女遊びと続きました。同席した指揮官達はあらかじめ打ち合わせていたとおり、ディンを外国支配からベトナムを救った国民的英雄であると持ち上げ、ディムの自尊心をくすぐり続けました。
この頃のロッジ大使がケネディ大統領に送った文書には
ロッジは、クーデターができるだけ早く始まることを切望していたが、反乱軍の将軍たちは、クーデターを計画するよりもパーティーや飲酒、女遊びを好む、のんびり屋の連中だとわかった。
・・・
サイゴンには、ゴ一族に強い忠誠心を持つカトリック教徒のレ・クアン・トゥン大佐が率いる特殊部隊と、忠誠心がはっきりしないトン・タット・ディン将軍が指揮するサイゴンの正規の守備隊があった。クーデターを成功させるには、ディンを説得して陰謀に参加させなければならなかったが、行動を迫り続けたロッジは、陰謀者たちは「何かを成し遂げる意志も組織力もなかった」
と苦々しく書いている。
引用 Wikipedia
ベトナムのジエム大統領、弟のゴ・ディン・ニューを政権の座から外すことに反対しているし、ジエム大統領に対するクーデターも頓挫し、困惑したケネディ大統領はロバート・マクナマラ米国防長官と統合参謀本部議長のマクスウェル・D・ティラー将軍をベトナムに派遣して現地調査を行いました(マクナマラ・テイラー調査団)。
ロバート・マクナマラ米国防長官
出典 ウィキペディア
統合参謀本部議長マクスウェル・テイラー
出典 ウィキペディア
10日間の視察による報告を受けて、10月5日ケネディ大統領は次の4点の処置を執ることを公表しました
- 経済援助の停止。アメリカは日用品の輸入を容易にするため補助金の提供(商品輸入プログラム)を行ってきたが、その資金のほとんどが治安維持のために使用されていました。
- ワシントンに審査を依頼した後、個別に、場合によっては毎月行っていた食料援助(食糧援助プログラム PL480)を停止する。
- サイゴン・チョロン地区の水道事業(900万米ドル)と、発電所建設のサイゴン電力プロジェクト(400万米ドル)への融資の停止。
- シャーライパゴダを襲撃したレ・クアン・トゥン大佐指揮下のベトナム共和国陸軍特殊部隊は、共産党とのゲリラ戦以外に活動した場合は資金援助を停止する。
そのほか公表はされませんでしたが、ベトナムにいるアメリカ海外援助軍は1965年までにに撤退を完了し、1963年末までに1000名を帰国させる予定でした。
この決定によりアメリカが一部にしろ援助を中止したことで、トラン・ヴァン・ドン中将はクーデターの実施が容認されたとして、具体的な行動を開始しました。
ドンは第3軍団を指揮しているディンに向かって、彼のような「国民的英雄」は内閣に入るべきだと助言しました。それと同時にディンのお気に入りの占い師を買収して、占い師に「あなたは近い将来、より高い地位に就くだろう」と伝えさせました。
その他の将軍達は、人々がジエム大統領の一族やカトリック教徒中心の組閣に不満を持っており、ベトナムは政治の場に若い活力のある将校の参加を必要としており、彼らの存在感がベトナム共和国陸軍での落ちてゆく士気を回復させる、と応援しました。
その気になったディンはジエム大統領に、自分を内務大臣として閣内に入れるよう、要求しました。これを聞いたジエム大統領は大変怒り、休養をとると称してディンを故郷であるリゾート地のダラットに追放してしまいました。ジエム大統領はベトナムが軍事政権に変わるのを恐れて、軍人は一切政治に関わらないようにしていたのです。
この処置により、ディンは完全にクーデター派に寝返ってしまいました。
10月半ばにはジエム大統領と弟のゴ・ディン・ニューは、将軍達の間でクーデターの計画が練られていることを察知していました。
ニューは、偽のクーデターを起こし、軍の中部に居て反政府活動をしている軍の幹部達を捕らえる計画「ブラボー作戦」を立て、その責任者にサイゴン地域を担当していた 南ベトナム軍第3軍団の指令官をしていた忠誠派の将軍、トン・タット・ディンを復帰させました。
ディンはつい最近ジエム大統領の叱責を受け、。故郷のダラットに追放されていたため、クーデターを企てても不思議ではありませんでした。もちろんニューはディンを大変信頼していたため、すでに彼がクーデター派に鞍替えしていたことに気がついていませんでした。
偽クーデターの指揮を執ることになったディンは、解放民族戦線の部隊がサイゴン北部に集まっているとの偽情報を流し、親ジエム派のレ・クアン・トゥン大佐率いる特殊部隊をサイゴン郊外のクチに移動しました。これは特殊部隊を共産軍との戦闘に使用しない限り、援助を打ち切るとのアメリカの処置を避けるものであるのと同時に、大統領官邸の警備を薄める目的もありました。
クチはサイゴンと民族解放戦線の拠点であるタイニンを結ぶ線上にあり、ベトナム戦争の最盛期には民族解放戦線の兵士により、全長250㎞に及ぶ地下道が掘られ、サイゴン攻略の一大基地となった場所です。現在このトンネルは、戦争史跡公園となって一部が観光用に公開されています。
クチトンネルの内部
出典 ウィキペディア
さらにデイム政権に忠誠を誓うジエム派のフイン・ヴァン・カオ将軍が担当していた第4軍団(メコンデルタ地区担当)の第7師団をミトに移動して、ディンの副官グエン・フウ・コー大佐(彼もクーデターに参加していました)を指揮官として送りました。
第7師団が新しく配備されたミトは、メコンデルタとサイゴンを結ぶ国道1号線に沿った場所にあり、メコンデルタからサイゴンに軍を移動させるのに重要な場所でした。
「ブラボー作戦」の計画では、サイゴン市内の兵力を減らした後で、反乱軍に変装したトゥン大佐が率いる特殊部隊の一部の兵士が南ベトナム軍の兵士に扮して偽のクーデターを起こし、「革命政府」の樹立を宣言してジエム政権に対して反対している各地の将軍や士官を呼び寄せます。
こうして反乱軍が集まったところで、ディンの第3軍、トゥン大佐の特殊部隊本隊、ミトにいる第7師団、メコンデルタの第4軍で反政府軍を包囲して、一挙に反政府組織を殲滅する予定でした。
ディンからこの話を聞いたトラン・ヴァン・ドンは、「ブラボー計画」を利用して本物のクーデターを実行することにしました。
1963年11月のクーデターとジエム政権の崩壊
11月1日午前、前日の夜からサイゴン市の郊外で野営していたディン率いる第3軍が続々とサイゴン市内に入ってきました。軍隊がサイゴン市外に集まっているとの報告を受けたゴ・ディン・ニューは偽クーデターと信じていたため、静観するように命じました。
11月1日午前10時、トラン・ヴァン・ドンはベトナムを訪問した太平洋地域の米軍司令官のハリー・D・フェルト提督とベトナム軍事援助司令部(MACV)司令官のポール・D・ハーキンス将軍とロッジ大使と、一緒にザーライ宮殿でジエム大統領と面会しました。
外国からの賓客(フェルト提督)を歓迎するのが彼の重要な役目であると同時に、ジエム大統領がザーライ宮殿に滞在しているのを確認する意味もあります。
ジエム大統領との会談の後、トラン・ヴァン・ドンは陰謀に関わっていない上級将校たちとの昼食会に出席するため、統合参謀本部の食堂に向かいました。
11月1日午後1時30分、CIAのルシアン・コーネンは非常時の連絡に使う無線機と、反クーデター派の将軍を買収するための資金を持って、統合参謀本部に到着しました。
サイゴン市内に入っていた反乱軍は、午後12時から一斉にクーデターを開始し、ほとんど抵抗にあわず国家警察本部、内務省、国立郵便局、ラジオサイゴンを制圧しました。
ジエム大統領のいるギアロン宮殿と、大統領警護隊が詰めているコンホア城砦も包囲されました。
大統領警護隊は兵士2500名の他戦車や装甲兵員輸送車、大砲などを装備し、特殊部隊が居なくなった今、サイゴン市で最大の兵力となっていました。
11月2日午前5時まで反乱軍と警護隊は激しく戦い、下の写真で見る門の両脇にある建物以外は、すべて破壊されました。
1881年のサイゴン市の地図
右側の青い丸で囲まれた四角い建物がオンデム(後のコンホア)城塞
左側の赤い丸で囲まれた建物が、1962年に爆撃を受けるまでジエム大統領が住んでいた独立宮殿
出典 Wikipedia
1930年頃のコンホア城塞の入り口
出典 Wikipedia
現在の様子、上の写真と同じ場所。
入り口の門の両脇に建っていた建物が残っており、かっての敷地はリパブリック・シティと名を変え、大学やテレビ局、競技場などが建てられています。
Google Mapのストリートビューから
11月1日のクーデターで破壊された正門
出典 Chuyện Xư
午後0時10分ジェム大統領のいるギアロン宮殿は包囲され、大統領官邸警護隊と銃撃戦が始まりました。本物のクーデターと気が付いたジェム大統領は、家族と共に宮殿の地下室に避難しました。
11月1日のギアロン宮殿
このとき見物人の中から、クーデターに巻き込まれ
20人が死亡、146人が負傷してしまいました。
出典 Chuyện Xư
午後1時45分、参謀本部で昼食会をしていたドン将軍は集まったジエム大統領に忠誠を誓う軍幹部に対して、クーデターが発生したことを告げ、賛成を求めました。反対した5人を除き、大多数の出席者が賛成しました。
反対派の5人が連れ去られた後、CIAのルシアン・コーネンは階級に応じて持ってきたお金を配りました。その後に、ズオン・バン・ミン将軍がクーデター宣言と目的を読み上げ、その場にいた将校達に書類に署名させ、階級と名前、そしてクーデターを支持していることを録音しました、この録音された内容は、午後4時30分ラジオで放送されました。
クーデターに反対した5人のうち、特殊部隊の隊長であるレ・クアン・トゥン大佐と、彼の弟で大統領警護隊の隊長レ・クアン・チュウ少佐は外に連れ出され、射殺されました。
メコンデルタに配備されていた第4軍団ですが、ミトに配備された第7師団のグエン・フウ・コー大佐があらかじめメコン川に居るすべてのフェリーの運用を禁止したため、サイゴンに行くことができなくなりました。メコンデルタで第4軍団を指揮していたジエム派のフイン・ヴァン・カオ将軍は、夜になりジエム大統領が行方不明になったのを見て、クーデターへの連帯を表明しました。
11月1日午後4時30分、反乱を起こした将軍たちは国営ラジオでクーデターを公式に発表しました。彼らはジエム大統領と弟のゴ・ディン・ニューに対して権力の放棄を求め、あらかじめ録音していた14人の将軍、7人の大佐、1人の少佐がクーデター参加者として名乗りを上げました。
ラジオ放送を聞いたジエム大統領は、すぐロッジ駐ベトナム大使に電話をかけてアメリカの態度を聞きました。
ロッジ大使は
「アメリカはいま午前4時半で連絡が取れないためアメリカ政府の意向は分かりません、しかし、あらかじめクーデターの責任者と連絡を取ってあり、あなたが辞任すれば兄弟とともに、国外に脱出させるための手はずは整えてあります。あなたの身の安全のため迎えの車を出しますから、こちらに来てください。」
と伝えましたが、ジエム大統領
「いや、私はこの事態を収拾してみせる。」
と言って、誘いを断りました。
その後ジエム大統領と弟のゴ・ディン・ニューは、あらかじめ用意していた地下道を通ってサイゴンの中華街チョロン地区に脱出しました。
11月2日日曜日の午前7時、サイゴンの中華街チョロン地区にある聖フランシスコ・ザビエル教会 で、ジエム大統領と弟のゴ・ディン・ニューが早朝ミサに出席しているのが見つかりました。
ディン兄弟が逮捕された聖フランシスコ・ザビエル教会と
デイム大統領が座っていた場所を示す銘板。
出典 Wikipedia
なぜデエム大統領がクーデターの最中に教会のミサに出かけたかというと、11月2日はキリスト教徒にとってすべての信者の死を悼み、祈りを捧げる万霊節と呼ばれる大切な日であったためです。ついでにいうと前日の11月1日は万聖節(諸聖人の日)で、殉教者、聖人、そしてすべての忠実な亡きキリスト教徒の死者を思い出す日です。そ10月31日の夜に行われるハロウィンは、その前夜祭になります。だからハロウィンには、死者や幽霊の格好をして、パーティーをするんですね。
ジェム兄弟はM113装甲兵員輸送車に乗せられ統合参謀本部に送られる途中、警護のため一緒の車内に乗っていたミンのボディーガードであるグエン・ヴァン・ニュン大尉と、ズオン・ヒエウ・ギア少佐によって殺されてしまいました。
M113の後部座席に置かれたジエム大統領の遺体。
出典 Wikipedia
クーデター後の南ベトナム
11月1日のクーデターを主導した将軍20名からなる革命軍事評議会を結成し、ラジオ放送でジエム大統領を解任させ、政府を解散させる決議を発表しました。
11月4日、革命軍評議会は12名の将軍による執行委員会を発足して、今後の活動方針を決めました。
12人のメンバーは
- ズオン・ヴァン・ミン中将:評議会議長
- トラン・ヴァン・ドン中将:第一副議長
- トン・タット・ディン中将:第二副大統領
- トラン・ヴァン・ミン中将:経済委員
- ファム・スアン・チュウ中将: 治安委員
- チャン・ティエン・キエム中将: 軍事長官
- ド・マウ少将:政治委員
- レ・ヴァン・キム中将:外務委員兼事務総長
- マイ・フ・スアン中将:隊員
- レ・ヴァン・ギエム中将:隊員
- グエン・バン・チュー少将:隊員
- グエン・フ・コ少将: 隊員
引用 Wikipedia
評議会は憲法第 1号を公布し、1956年ベトナム共和国憲法の廃止と、1963年9月 27日に選挙が終了したばかりの国会を解散し、グエン・ゴック・トー元副大統領を暫定首相に任命して、理事会が承認する臨時政府の人事計画を提出した。
11月6日に発足した、臨時政府の主なメンバーは、次の通りです。
首相兼経済財務大臣:グエン・ゴック・トー
国防大臣: トラン・ヴァン・ドン中将
安全保障(内務)大臣:トン・タット・ディン中将
グエン・ゴック・トー元副大統領が首相に選ばれたのは、彼が仏教徒であったためです。しかし、仏教徒のグエン・ゴック・トーは副大統領の時には、ゴ・ディン・ニューの仏教徒弾圧を支持していたため、国民の批判の的となりました。
ディン中将は約束通り、内務大臣となりました。
そのほかの閣僚についてはジエム政権時代に、反政府活動をしていた政治家や活動家のほとんどが殺されたり投獄されたため、いままで政治活動をしたことがない役人や知識人であり、まったく役に立ちませんでした。
従ってこの時代の政治は、評議会議長のミン中将による軍事独裁政権となっています。
ケネディ米大統領はゴ・ディン・ジエム大統領と弟のゴ・ディン・ニューの殺害を批判していましたが、11月8日新しく成立したミン政権を承認しました。
1963年11月20日ホノルルにおいて、ホワイトハウスからバンディ大統領特別補佐官、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、テイラー統合参謀本部議長、サイゴンからロッジ大使、ハーキンス米援助軍司令官が集まり、南ベトナムの現状分析と今後の活動方針の検討を行いました。
しかし11月22日、テキサス州のダラスでケネディ大統領が暗殺され、この会議の結果は生かされませんでした。
解放民族戦線の動き
1963年初めから、解放民族戦線による戦略村への攻撃が活発化しました。特に1963年8月21日に起きたシャーライパゴダの襲撃事件から11月1日のクーデターにかけて、軍の首脳達がサイゴンに集まり、地方の防御が薄くなると、解放民族戦線は戦略村に総攻撃をかけました。
この攻撃により1963年末までに、民族解放戦線は南ベトナム南部の1万7000の村の内1万2000の村を制圧し、ベトナム南部の人口1400万人の内500万人を解放し、2万3000人の若者が解放軍に加わりました。
1963年12月21日、南ベトナムを視察したマクナマラ国防長官は
「ベトコンの活動は、クーデター以後非常に活発となっており、7月以降の農村部の情勢は、我々が予想する以上に悪化してきている。」
そしてこう結論しています。
「情勢は非常に不穏である。今後2,3月以内にこの形成を逆転しなければ、南ベトナムはよく言っても中立国に、このままでは共産主義者に支配される国になってしまうだろう」
残念なことに、この予言は当たってしまいました。
翌1964年1月30日、クーデター後成立したミン政権は何の成果も上げられない内、グエン・カーン将軍の起こしたクーデターで倒されてしまいました。
その後1967年のグエン・カオ・キ首相の軍事政権が発足するまで、13回の政変劇が起き、9つの内閣と4つの憲法が生まれては消える、混沌とした状態となりました。
続きはこちら ↓
ケネディ大統領の後を継いだニクソン大統領と、アメリカ軍の本格介入のきっかけとなったトンキン湾事件については、こちらをご覧ください ↓
南ベトナムで、ゴ・ディン・ジェム、ズオン・ヴァン・ミン、グエン・カーンの3つの政権を倒した、北ベトナムの大物スパイがいます。詳しくはこちら ↓