9.11アメリカ同時多発テロを起こしたウサマ・ビンラディンと、2度のイラク戦争でアメリカと戦ったフセイン大統領は、かってアメリカから武器などの援助を受けて勢力を大きくしました。この2人がアメリカの援助を受けて戦った2つの戦争について書いてみます。
ウサマ・ビンラディンとソビエトのアフガン侵攻
ソビエトがアフガニスタンに侵攻した訳
1973年7月、ザヒル=シャー国王が眼の治療のためにイタリアに渡航中、ソ連で訓練を受けた若手将校らがカーブルの宮殿を占拠し、無血クーデターを成功させた。首謀者の前首相ダウドは直ちに王制を廃止して共和制の導入を表明し、自ら大統領に就いた。ダウド政権はソ連の経済援助を受けていたが、次第に独自色を強め親ソ派の軍人や人民民主党を弾圧し、一族登用など独裁色を強めたため、1978年4月、人民民主党と軍部が蜂起してクーデターを決行し、ダウド大統領は殺害され、タラキやカルマル、アミンら人民民主党政権が成立、4月30日に国名をアフガニスタン民主共和国に変更した。(渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書)
上の地図で分かるようにアフガニスタンはイラク(1979年2月のイラン革命まで親米派のパーレビ国王が支配していた)とパキスタンに挟まれていました。
新しくアフガニスタンの指導者となったタラキ革命評議会議長は、ソビエトに支援を求めソビエト政府はアフガニスタンの社会主義化を進めるため、数100人の顧問団を送り込みました。
社会主義政権の元、地主から土地を取り上げ小作人に分配したり、女性もベールを外し、男性同様学校に通って教育を受けられるようになりました。
しかし、これらの改革は地方ではイスラム教の教えに反するとして政府に反発する勢力が生まれ、各地で内戦が発生します。
内戦が深刻化する中、アミン首相がタラキ議長を失脚させ、新しく革命評議会議長になりました。このことはソビエト政府の反感を買い、アミン首相はアメリカに近づき「バランス外交」を目指しました。
このアミンの政治姿勢は1978年以来保ってきたソビエトの政治勢力を失わせる危険があり、「イスラム教国であるアフガニスタンを社会主義国に変え、その代償として民主化、近代化を助ける。」ため軍隊の派遣を決定した。
また同じ1978年2月、隣の国イランでイラン革命が勃発し、イスラム政権が成立して、神の教えを無視している共産主義政権と戦っているアフガニスタンを支援しようとの動きが高まり、ソビエト連邦内のイスラム系諸民族のイスラム民族運動が活発になりソ連から離脱する恐れが強まった。このためアフガニスタン国内のイスラム教勢力を弱める必要があったのもソ連軍派遣の要因になった。
ソ連のブレジネフ首相は、ウスチノフ国防相、アンドロポフKGB議長の
「侵攻に対して大した問題は生じない。アフガニスタンの反政府勢力、ムジャヒディン(イスラム戦士)の武器は小銃だけであり、1機の戦闘機も1両の戦車も所有していない。重装備を持ち、よく訓練された赤軍10万人を派遣すれば、1ヶ月以内にアフガン全土を制圧可出来る。」
との意見をもとに、1979年12月24日、アフガニスタンに11万5千人の兵力で軍事介入を開始しました。
アメリカの対応
アメリカの国家安全保障担当補佐官ブレジンスキーは、かねてからアフガニスタンに共産主義国家が誕生するのに懸念を表していました。ソ連がアフガニスタンに侵攻し、さらにイラン革命の混乱に乗じてイランにも手を伸ばしてペルシャ湾まで進出することを恐れた彼は、時のカーター大統領にアフガニスタンの反政府勢ムジャヒディンの支援を要請しました。
ベトナム戦争で、ソ連から秘密裏に渡された武器を持つベトコンに痛い目にあわされたアメリカは、アフガニスタンをソ連のベトナムにしようとしてムジャヒディンに武器援助を決定します。
ただ、アメリカが介入しているのを隠すためソ連の自動小銃AK-47や、ロケット砲 RPG-7をライセンス生産している中国から大量に買い付け、CIAを通じてパキスタンにあるアフガニスタンの難民キャンプから送りました。
この時の武器は、現在もイスラム過激派によって使われています。
AK-47 と RPG-7
AK-47
「世界で一番使われた軍用銃」としてギネスブックにも記載されている。
世界中で改良型や模造品などを入れて約8000万丁製造されており、アムネスティ・インターナショナルによると1億人以上の人がこの銃で殺されているとしている。
下にAK-47がよくわかる動画を乗せておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=cTQq709rE00
(出典YouTube)
RPG-7
ソ連の開発した携帯対戦車擲弾発射器。安価、簡便かつ効果的であるため、途上国の軍隊やゲリラ、民兵が好んで使用し、ベトナム戦争以降から現代に至るまで世界各地の武力紛争において広く用いられている。(出典ウィキペディア)
下にRPG-7の仕組みを解説した動画を乗せておきます。これを見るとロケット噴射が最後部ではなく弾頭のすぐ後ろや、発射後後部に小さな安定翼が出ることが分かります。
https://www.youtube.com/watch?v=ZfgLmDg-lWA
(出典YouTube)
1980年、強いアメリカを目指すレーガンが大統領に就任します。彼はムジャヒディンへの援助を増大しました。
アフガニスタンの戦いは激しさを増し、ソビエトはこれまでの地上戦から攻撃ヘリ(Mi-24 ハインド)で空から攻めることにしました。
これに対して、アメリカは今まで禁じていたアメリカ製のスティンガーミサイルをムジャヒディンに提供します。こうしてアフガニスタンはアメリカとソビエトの代理戦争に様変わりしました。
Mi-24 ハインドとスティンガーミサイル
Mi-24 ハインドを説明した動画を載せておきます。
出典YouTube
動画では触れていませんが、元がMi-8輸送ヘリであるため、操縦士と攻撃手の他に武装した兵員8名を乗せることが出来ます。地上からの攻撃を想定して、12.7ミリの重機関銃で撃たれても耐えられるだけの装甲を持っています。
スティンガーミサイル
スティンガーはミサイル本体の収納された使い捨て式発射筒、グリップ・ストックと呼ばれる再利用可能な発射装置、冷却用ガスとバッテリーが一体化したユニット(BCU)、ケーブルで接続されたIFF(敵・味方識別装置)から構成される。
攻撃するときには目標に向けてスイッチを入れ、ミサイルの熱感知センサーが作動したのを確認して発射する。後はミサイルが自動的に敵機を追尾するので、素早く避難することが出来ます。
2001年のアメリカ軍によるアフガニスタンのアルカーイダ掃討作戦の際にはこれの存在が脅威となるという説があったが、バッテリーや冷却ガスの供給やメンテナンスの行き届かぬ環境下で約10年が経過しており、稼働状態にあるものはほとんど残っていなかったと考えられる。
ソビエト軍のアフガニスタン撤退に貢献した下院議員チャールズ・ウィルソンの話はこちら。Mi-24 ハインドとスティンガーミサイルも出てきます。 ↓
映画 「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」ソビエトのアフガン侵攻をくじき、ソ連崩壊に導いたアメリカ下院議員チャールズ・ウィルソンの物語
ソビエトのアフガン侵攻とオサマ・ビンラディン
ビンラディン一族
ウサーマ・ビン・ラーディンの父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンのハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアのジッダに移住し、1930年に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウディ・ビンラディン・グループ」を柱とするラーディン一族を形成した。一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。グループは石油ブーム時代に建築業で財を成し、メッカおよびマディーナ(メディナ)のモスクの修理を任されるほど、サウジアラビア王家サウード家と深く結びついている。
父のムハンマド・ビン・ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの長兄のサーレムは前アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である(サーレムは1988年に自らの飛行機の操縦ミスでテキサス州サンアントニオで死亡した)。(出典ウィキペディア)
サイクロン作戦
サイクロン作戦(Operation Cyclone)で、アフガニスタン紛争中の1979年から1989年にかけて、アメリカ合衆国中央情報局(CIA)はムジャヒディンに武器や資金の提供を行った。
テキサス州選出の下院議員であるチャールズ・ネスビット・ウィルソンは、親しい関係にあったパキスタンのハク大統領を動かし、パキスタン軍統合情報局(ISI)を通じてアフガニスタンの抵抗組織へ武器や軍事訓練、資金提供を行なっていた。
この時のチャールズ・ネスビット・ウィルソンを題材にした映画があります。↓
映画 「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」ソビエトのアフガン侵攻をくじき、ソ連崩壊に導いたアメリカ下院議員チャールズ・ウィルソンの物語
サウジアラビアは、アフガニスタンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン家に支援を要請した。
ウサマ・ビンラディンは親から受け継いだ遺産3億ドルと、サウジアラビア総合情報庁(GIP)の長官トゥルキー・アル=ファイサル王子から提供された資金でパキスタンのペシャワールに「サービス局」(MAK)を開設し、エジプトやスーダンからムジャヒディン(イスラム聖戦士)を募集して軍事キャンプに送り込みました。
アフガニスタンからソビエトが撤退した後、オサマ・ビンラディンが集めたムジャヒディンを中心にアルカイダが結成されます。
1990年アフガン戦争で戦った英雄としてサウジアラビアに帰国しましたが、1991年湾岸戦争が起こり、イスラム教の聖地であるメッカやメディナがあるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍の基地を認めたサウード王家と対立した。
1992年、半ば追放という形でサウジアラビアから出国したオサマ・ビンラディンはスーダンに移りました。ビンラディン一族やサウジアラビアからの資金を絶たれたオサマ・ビンラディンは建設業を起こし、スーダン政府からインフラ整備の事業を受け新たな資金源を確保しました。
この資金をもとにハルツームや青ナイル川地域に軍事キャンプを設立し、アルカイダの組織は大きく成長しました。
しかし、サラエボやアルジェリア内戦、イエメンやソマリアなどにアルカイダを派遣したり、1993年の世界貿易センタービル爆破事件など各地でテロを続けるアルカイダはスーダンの厄介者となり、1996年処点をアフガニスタンに移しました。この時期スーダンは確保したオサマ・ビンラディンの身柄を引き取るようにCIAに求めましたが、断られています。
この時からアルカイダは
1996年、在サウジアラビア米軍基地爆破事件
1998年 在ケニアと在タンザニアのアメリカ大使館爆破事件
2000年 イエメン沖の米艦コール襲撃事件
と、アメリカに対してテロ攻撃を仕掛けます。
9.11アメリカ同時多発テロ以降
9.11アメリカ同時多発テロ事件が発生して、ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。
ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
その後、アメリカは長い間オサマ・ビンラディンの行方を見つけられなかったが、CIAの捜索の結果、2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、アメリカ軍の特殊部隊が、ビンラディンの潜伏先と見られていたイスラマバード北東のアボッターバードにある邸宅で、発見され殺害されました。
ウサマ・ラディンの隠れ家をを突き止めたCAI女性エージェントの話はこちら ↓
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