なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

ベトナム戦争 その10 1966年 ジョンソン大統領 本格的なサーチアンドデストロイ作戦の始まり 

time 2025/04/25

ベトナム戦争 その10 1966年 ジョンソン大統領 本格的なサーチアンドデストロイ作戦の始まり 

1966年から1967年は、それまで使用していなかったB-52を北爆に使ったり、サーチ・アンド・デストロイ作戦を本格的に展開して戦争を一気に拡大しました。ベトナム戦争を象徴するイメージ、米兵が村を襲い、村人達を取り押さえて連れ去ったり、貯蔵していた食料を捨てて使えなくした後、家々に火をつけて村全体を全滅させたり、飛行機からのナパーム弾で村を焼き払うのはこの時代から強くなりました。

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亀仙人2

サーチ・アンド・デストロイとキル・レシオ

地上戦、アメリカの一斉攻撃

1966年からベトナム戦争に派遣された米地上軍の総数が、1966年末には38万5千人、1967年末は48万6千人、1968年末は53万6千人となりました。それに伴い戦死した米兵の数も1965年末には約1300人だったのが、1966年末には約4000人,1967末に約7000人,1968年には約12000人となりました。

南ベトナムの戦いでは、せっかく共産ゲリラから奪った土地も、数ヶ月するとゲリラが戻ってきて再び解放民族戦線(ベトコン)が支配するようになってしまいました。

そのため国防長官のマクナマラは、殺した敵の人数を数え(ボディカウント)その数を勝ち負けの判断としました。映画などで殺した敵にトランプの札を置いているのを見ますが、これは殺した人数を数えるためです。

マクナマラは、味方1人に対して、殺した敵10人の割合を保てば(キルレシオ1:10)敵兵の数が枯渇して、戦いに勝てると踏んでいました。そのため兵士達は殺した敵兵の死者数を増やすために、戦いに巻き込まれて死んだ農民や子ども達も敵の死体数として加えるようになりました。そのため多くの一般人が、犠牲となってしまいました。

とにかく殺しまくれば相手が言うことを聞くだろうという考え方は、フランスによる植民地時代より外国の支配から自国を取り戻す為に戦い続けている北ベトナム軍と南ベトナムの解放民族戦線(ベトコン)には通用しませんでした。これは世界一の軍事力を持ち楽勝できると思っていたアメリカにとって、想定外の出来事でした。

マッシャー作戦/ホワイトウィング作戦

1966年1月24日~3月6日

マッシャー作戦はこれまで行われたなかで、最大のサーチ・アンド・デストロイ(捜索破壊)作戦です。初めは「マッシャー(すり潰す)作戦」と言っていましたが、ジョンソン大統領により穏やかな「ホワイトウィング作戦」と名前が変えられました。

この戦いは、前年の11月に行われたイア・ドラン渓谷の戦いに参加した第1騎兵師団(空挺部隊)と大韓民国陸軍(3軍併せて約1万名)が共同で、ベトナム人民軍第3師団(約6千名)と戦った争いでした。

大韓民国陸軍は、朝鮮戦争直後でアメリカからの復興支援を受ける代わりに、ベトナムに約5万人の部隊を派遣していました。そのため兵士の多くは反共意識が高く、実戦経験があり西側諸国から参加した国の中で最強の戦闘力を発揮しました。

ベトナム戦争では、ジョンソン大統領の呼びかけに応じて(メニーフラッグス作戦)、1965年から1966年にかけてタイ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、フィリピンの5か国が軍隊を派遣しました。

詳しくはこちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その8 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入の開始 前編(航空戦)ローリグサンダー作戦 

 

 

マッシャー作戦が行われたビンディン省ボンソンの場所は右上の赤い丸の部分です。

左下の赤印は1965年11月のイア・ドラン渓谷の戦いが行われた場所。

地図の中央右にあるアンケーの町には、両方の戦いに参加した第1騎兵師団の基地、キャンプ・ラドクリフがあります。

イア・ドラン渓谷の戦いについては、こちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その9 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入 後編(地上戦)アメリカ海兵隊のダナン上陸 

1966年当時ビンディン省の大部分は、解放戦線(ベトコン)と共産党の支配下にありました。ビンディン省にあるボンソンは南ベトナムの北と南を結ぶ国道1号線が通っており、これが切断されると南ベトナムが分断される恐れがありました。

作戦開始に当たって、ビンディン省の省都クイニョン市の北24キロにあるフーカットに臨時の指揮所と補給基地を設置しました。これはクイニョン市のある平地を、共産ゲリラから守る準備をしているように見せかけるためでした。フーカットには後にアメリカ軍と南ベトナム軍が使用する空軍基地が設けられ、現在は軍と民間が使用する、フーカット空港になりました。

1971年のフーカット空軍基地

出典 Wikipedia 

計画ではボンソン北部に複数のヘリコプター着陸基地を設け、そこから北部のアンラオ渓谷に向かって米軍と南ベトナム軍、韓国軍が進軍し、南西のキムソン渓谷には米軍と南ベトナム軍が進軍して、間の山地にいるベトナム人民軍を挟み撃ちにして、砲撃と空爆で殲滅する予定でした。

マッシャー作戦中、第1騎兵師団の部隊がCH-47ヘリコプターでボンソン付近から出撃。1966年1月25日

出典 Wikipedia 

本格的な攻撃は1月28日から始まりましたが、折からの悪天候で低い雲、強風、大雨のため砲兵隊や航空機からの支援を受けられず、攻撃に向かったヘリコプターは着陸した途端に共産側から攻撃を受け、大きな被害を出してしまいました。そのためチリヂリになった部隊の救助や、墜落現場や着陸地点平定と掃討作戦に兵力を取られ、2月4日に作戦は一時停止しました。

1966年、ベトナムのボンソン平原での作戦中に、 米陸軍のベルUH-1Dヒューイヘリコプターが第1騎兵師団の兵士を救助している。

出典 Wikimedia

作戦は2月8日から再開しましたが、その時共産軍は撤退を始めていました。アメリカ軍は共産軍を追撃すると同時に、共産軍がいなくなった村から農民を避難させ、からになった村を自由攻撃地帯として、空爆や砲撃によって食料庫や軍事施設と共に共産側が利用できないように、徹底的に破壊しました。

両方の渓谷は人口密度の高い農村地帯であり、 第1騎兵隊は作戦の成功として「14万人のベトナム民間人がアンラオ渓谷とソンロン渓谷の村落を離れ、ベトナム軍の支配下に戻ることを志願した」としています。なお農村に残った農民達は、共産側の協力者と見なされ、村の破壊と共に殺されてしまいました。

3月1日、捕虜の尋問によりアメリカの情報部は、ボンソンの東5マイル (8 km) のカイジャップ山脈で北ベトナム軍第6大隊、第12連隊が潜んでいるとの情報を得ました。

3月1日午前7時30分激しい砲撃の後、第2旅団第5騎兵隊、第1旅団第8騎兵隊、第2旅団第8騎兵隊がヘリコプターで山脈を越えて到着し、その付近を捜索しましたが何も見つかりませんでした。3月4日、南ベトナムの民間人から、北ベトナム軍の大半が2月末頃にその地域を離れたという知らせを受け、作戦は終了しました。

3月6日、すべての村を破壊した後で、共産側の兵士がいないことを確認し、作戦は終了しました。

死傷者と損失

アメリカ軍

死亡288名、負傷者998名

南ベトナム軍

死亡119名、負傷者不明

韓国軍

死亡10名、負傷者40名

北ベトナム軍の主張では2000人以上が死亡、負傷、捕虜になったとしています。

共産軍

死亡確定2150名、その他推定で1746名が死亡

捕虜 300~600名

投降者 約500名

民間人の死者数は不明だが1万人以上とみられています。1955年11月のイア・ドラン渓谷の戦いは近くに住民の住んでいない場所で行われましたが、今回は解放民族戦線(ベトコン)の支配下にある村々がある場所で行われたため、農民を含む民間人の犠牲者が多数出てしまいました。

このほか小規模なサーチ・アンド・デストロイ作戦は、ほぼ毎日行われていました。

1966年の仏教徒蜂起  1966年3月26日~6月8日

1966年当時、南ベトナムは4つの軍管区に分かれ、それぞれの地域を支配する軍団が、軍事と行政を行い、集めた税金の一部を中央政府に送っていました。

南ベトナムの軍管区、1966-67年 

上から第1軍管区、第2軍管区、第3軍管区、第4軍管区に分かれていました。

出典 Wikimedia Commons

下の写真は1966年の春まで、第1軍管区を治めて居た第1軍団の司令官グエン・チャン・ティ将軍です。

グエン・チャン・ティ

出典 Wikipedia

ティは1923年2月23日、当時のベトナムの首都で阮朝の本拠地であったフエで生まれた。この地域は古くから、ベトナムにおける仏教の中心地でした。このためゴ・ディン・ジェム大統領以来、カトリック教徒中心の中央政府に対して反政府運動の活発な土地でした。

フエで生まれたティも当然仏教徒であり、空挺部隊の隊長だった1960年、ジェム大統領のカトリック教徒優先の昇進に反対してクーデターを起こしたことがあります。

詳しくはこちら ↓

ベトナム戦争 その2 ケネディ大統領とジエム政権 1961年~1962年

しかし、クーデターに失敗して、ティはカンボジアに亡命しました。

1963年の仏教徒危機を端緒とする一連の騒動で、ゴ・ディン・ジエム大統領が殺された後ティはベトナムに戻り、政権を握ったカーン将軍が数回にわたりクーデターを企てたり鎮圧することを助け事により、南ベトナムの軍政で重要な地位を占めることとなりました。

1963年の仏教徒危機とジェム政権の崩壊については、こちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その4 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊 1963年11月1日の軍事クーデター

カーン将軍をめぐる一連のクーデターについては、こちらに書いてあります ↓

ベトナム戦争 その6 ジェム政権とズオン・ヴァン・ミン政権、グエン・カーン政権を倒した、北ベトナムの大物スパイ

1964年9月に起きた南ベトナムのクーデター未遂事件で、カーン将軍を救出したことより、1965年10月1日グエン・チャン・ティは第1軍団の司令官に任命されました。

1965年6月、民間人の政治家ファン・フイ・クアット首相が辞任した後、同僚の将校らからティの首相就任を指名されましたが、ティはこれを断り、グエン・カオ・キが首相に指名されました

1965年6月13日と14日、50人の将軍からなる軍事評議会が開かれ、グエン・バン・チューを国家元首、グエン・カオ・キを首相に任命しました。

アメリカはこれ以上政権の混乱を避けるため、グエン・バン・チューとグエン・カオ・キのコンビによる軍事政権を強力に支援したため、1975年まで政権は安定しました。

この時代のベトナムは一種の封建時代と同じで、れぞれの軍官区を担当した司令官が領地として統治して、集めた税金の1部を中央政府に送る仕組みでした。

第1軍管区には、南ベトナムでサイゴンに次いで人口の多いダナンと、かって阮朝の首都であった古都フエがあり、財政的に豊かな地域です。

本来ベトナムは仏教国であり、住民の8割以上が仏教徒でした。また軍の兵士達も大部分が仏教徒です。それまで政権や軍の上層部は、カトリック教徒であるゴ・ディン・ジェム大統領によりカトリック教徒により占められており、この傾向はゴ・ディン・ジェム大統領が亡き後も続き、仏教徒の住民や兵士達は不満をため込んでいました。この様な時、仏教徒であるグエン・チャン・ティが第1軍管区の司令官として着任したことで、彼に対する住民や軍の支持は絶対的なものとなりました。

古都フエは1963年5月8日、ゴ・ディン・ジエム政権の軍と治安部隊によって、非武装の仏教徒民間人9人が殺害された事件であるフエ・ファット・ダン銃撃事件が起きた場所です。この事件を基にゴ・ディン・ジェム大統領に対する抗議活動が活発となり(仏教危機)、1963年11月1日、将軍達による南ベトナムクーデターが起こり、ゴ・ディン・ジェム大統領と弟のゴ・ディン・ヌーが暗殺されてしまいました。

このとき、仏教徒達を指導していたのが僧呂のティク・チ・クアン師です。

1966年のティク・チ・クアン

出典 Wikipedia 

仏教危機から1963年11月の南ベトナムクーデターまでの詳しい説明はこちら ↓

ベトナム戦争 その4 ケネディ大統領とジエム政権の崩壊 1963年11月1日の軍事クーデター

 

1965年6月、グエン・ヴァン・チュー大統領とグエン・カオ・キ首相の新しい軍事政権が発足しました。1ヶ月後ティク・チ・クアンは、グエン・ヴァン・チュー大統領が故ゴ・ディン・ジェムが率いるカトリック系のカンラオ党員であることから、彼の辞任を要求し始めました。彼は仏教徒であるグエン・チャン・ティ将軍が国を率いることを望んでおり、仏教徒に対する過去の犯罪の疑いでティウを非難していました。

1963年の仏教危機の後、南ベトナムの仏教系の僧侶達は宗派の垣根を越えて、1964年1月ベトナム統一仏教協会を設立しました。その統一仏教協会を率いる長老のティク・タム・チャウ尊師も南ベトナムの経済不況、政府の汚職、そしてアメリカの影響力に抗議し、グエン・ヴァン・チュー大統領とグエン・カオ・キ首相の辞任を要求していました。

グエン・チャン・ティ将軍も、グエン・ヴァン・チュー大統領が率いる政府の不正と汚職にまみれた腐敗体質について、公然と批判を繰り返していました。

このため多くの将軍達は、グエン・チャン・ティが多くの仏教徒や兵士をつれて、1963年のような政権を転覆させるクーデターを起こすのではないかと恐れていました。

1966年3月10日、この状態に危機感を持ったグエン・カオ・キ首相は10人の将軍からなる軍事評議会を招集して、9対1でグエン・チャン・ティ将軍の軍事政権と軍団司令部から解任することを、決定しました。代わりに第1歩兵師団司令官のグエン・ヴァン・チュアン少将を軍団司令官に任命することを決定した。

3月11日、サイゴンラジオは、『ティ将軍が鼻腔の治療と健康診断のため休暇を取りアメリカに行くことを許可した』と伝えました。

3月12日、フエ、ダナンを中心とした仏教徒達や、第1軍団に属する兵士達によるグエン・チャン・ティ解任に対する抗議活動が始まり、数日間でフエとダナンでゼネストを行い、両市を制圧してしまいました。

ウェストモーランド将軍、ヘンリー・キャボット・ロッジ・ジュニア米国大使、ロバート・マクナマラ国防長官は、ベトナムでの政権の安定との共産主義に対する戦争遂行ためグウン・ヴァン・チユー大統領とグエン・カオ・キ首相を支持していました。そのためアメリカは、グエン・チャン・ティに対してベトナムから離れアメリカに亡命した場合、生活費と子ども達の教育費を提供するとの条件を提示していました。

ただ第1軍団のアメリカ軍を指揮し、グエン・チャン・ティの部隊の上級顧問を務めていたアメリカ海兵隊中将のルイス・ウィリアム・ウォルトは、士官としてのティの能力を高く評価して支持していました。

ウォルトはティと組んで1965年8月から「統合行動計画(CAP)」を行って成果を上げていました。「統合行動計画(CAP)」とはアメリカ海軍の衛生兵1名とベトナム民兵小隊で編成された小部隊を、ベトナムの各村に配置して村の防衛と民生の向上を計りました。ほとんどの場合ベトナム人民軍のメンバーは村の住人で年を取り過ぎているか、徴兵年齢未満の少年達で構成されていました。これはジェム政権時代に行われた戦略村構想と違い、村民を移動させないで住んでいる村の防衛力を高め、共産党勢力が村に浸透するのを防ごうというものでした。

戦略村についての詳しい説明はこちらをご覧ください ↓

ベトナム戦争 その2 ケネディ大統領とジエム政権 1961年~1962年

統合行動計画(CAP)のおかげでウォルトの保護下にあった「安全」な村の数は1965年から1967年の間に87村から197村に増加し、また全体的に「安全」な地域に住むベトナム人の数も41万3000人から110万人に増加しました。

惜しいことにアメリカ軍全体から見ると、こういった地味な活動より派手にドンパチやる方が好まれているようで、あまり注目されず1970年9月21日に廃止されました。この計画全体では解放民族戦線(ベトコン)や北ベトナム軍の兵士4400名が殺害され、CAP部隊によって守られた209の村のうち、ベトコンの支配下に戻った村は一つもありませんでした。

話を元に戻します。

3月16日、グウン・カオ・キ首相は民衆をなだめるために、グエン・チャン・ティ将軍を、ダナンに派遣しました。ダナンには第1軍団の司令部があります。

3月17日、サイゴンでキャボット・ロッジ米国大使が急進派の仏教指導者ティク・チ・クアン師と会談した。グエン・ヴァン・チュー大統領とグエン・カオ・キ首相も仏教統一教会のティク・タム・チャウ尊者と会見しました。

3月19日、多くの僧侶からなるベトナム仏教統一教会は、政府に反対するのではなく、選挙と文民政府の樹立のみを要求するとの声明を 発表しました。僧侶の大部分が軍事政権辞任の要求を取り下げたことで、仏教徒に夜よる抗議活動の勢いは下火になりました

この間にグエン・チャン・ティ将軍は、忠誠を誓う第1軍の兵士達と仏教徒を率いてダナンとフエを支配して、彼らの一部はラジオ局を通じて反軍事政権の放送を行いました。

5月14日、グエン・カオ・キ首相は、グエン・ゴック・ロアン将軍の指揮する兵士4000人と重火器をアメリカの飛行機で輸送し、分離独立運動を武力で鎮圧するためにダナンに派遣しました。これによりダナンとフエは制圧され、グエン・チャン・ティ将軍は捕らえられて、サイゴンに送られました。

1966年5月27日、サイゴンに到着したグエン・チャン・ティ将軍は、アメリカのロッジ大使とウィリアム・ウェストモーランド将軍との仲介でグエン・カオ・キ首相と話し合い、アメリカが彼を保護して家族の生活の面倒を見るとの条件で、グエン・チャン・ティ将軍を反逆罪で裁かないことに同意しました。

1966年7月14日、ティ将軍は懲戒処分として、軍からの永久除名と、国外追放を受けました。

1966年7月29日、政府報道官はグエン・チャン・ティ将軍が「治療」のためにベトナムから米国へ出発すると発表した。将軍が「治療」のためにベトナムから米国へ出発すると発表した。7月30日グエン・チャン・ティは「鼻の治療」のため、アメリカに出発(亡命)しました。

結局、いかに人口の大部分を占める仏教徒からの支持を受けていても、アメリカが協力に後押ししているグエン・バン・チューとグエン・カオ・キの政権を覆すことが出来ないことが分かりました。

ベトナムにかかわらず、反共の旗を掲げていれば、独裁政権であろうと、軍事政権であろうと、アメリカは支援し続けると言うことです。

 

ヘイスティングス作戦  1966年7月15日~8月3日

ベトナムは1954年7月21日のジュネーブ協定で、北緯17度線に沿って流れるベンハイ川の両岸に設けられた非武装地帯(DMZ)を境に北部はベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(のちのベトナム共和国、南ベトナム)に分割されました。

1966年6月下旬から7月上旬にかけて、非武装地帯の南側で偵察活動していた海兵隊偵察部隊は、北ベトナム軍の兵士を見かけるようになり小さな交戦が起こりました。

この時期は南ベトナムで仏教徒蜂起が起こり、グエン・チャン・ティ将軍による反乱軍がフエとダナンを支配していた時期です。

7月6日捕らえられた北ベトナム軍の兵士によると、自分は第324B師団の第812連隊に属していると名乗り、7月9日同じ部隊の中尉が投降してきて、第324B師団の目的は、クアンチ省の解放だと述べました。

クアンチ省は南ベトナムの一番北にある省で、省都のドンハにはサイゴンにつながる国道1A号線と、ドンハを起点にラオスとの国境線につながる国道9号線が通っています。1966年、北ベトナム軍がホーチミンルートから国道9号線に沿って南ベトナムへの侵入を防ぐため、国道沿いの主な街、ラン・ヴェイ、ケサン、カ・ルー、カム・ローには戦闘基地が設けられていました。

しかし今回は北ベトナム軍はホーチミン・ルートを通らず、カム・ローの北西約10kmにあるソンガン川渓谷から侵入して来ました。この近くにはベトナムの南北を分ける軍事境界線(すべての軍事行動を禁止する区域)がありますが、それを無視して越えてきました。

この報告を基にアメリカのウェストモーランド将軍は、北ベトナム軍を軍事境界線の北側に追い返す作戦(ヘイスティングス作戦)の開始を決定しました。

ヘイスティングス作戦の場所 赤い丸の部分

元の画像 出典 Wikimedia Commons

非武装地帯から入るコースは、1回ラオスに出て、ホーチ・ミンルートから入るのに比べ、簡単に南ベトナムに入れるのでこの後頻繁に使われるようになりました。そのため南ベトナムは軍隊をこの地域に派遣しなくてはならず、その分都市への防御が薄くなります。これが北ベトナムの狙いでした。

情報筋によると、推定兵力1500名のベトナム人民軍第90連隊は、カムロの北西約10kmにあるソンガン川渓谷を侵入経路として利用しているとのことでした。渓谷の南西を見下ろす208高地には北ベトナム第324B師団の司令部があります。

7月15日朝7時25分、ソンガン川渓谷の入り口に当たるLZクロウにヘリコプターにより第3/4海兵隊が着陸しました。第3/4海兵隊は第4海兵師団第3大隊と読みます。

 

LZクロウの位置(赤印の場所)

ところがロックパイルの北東8㎞の位置にあるLZクロウは、大型のヘリコプターCH-46が着陸するには狭すぎて、使用された20機のうち、2機が空中衝突で、1機が立木にぶつかり墜落してしまいました。さらに午後には着陸しようとした1機が北ベトナム軍の射撃を受け、墜落してしまいました。このためソンガン川渓谷はこの後、ヘリコプター渓谷と呼ばれることになりました。

LZクロウに着陸したK中隊とL中隊は着陸地点の周囲に谷を封鎖する陣地を構築しました。I中隊は呼びとしてLZクロウに残りました。作業中K中隊は銃撃を受け、すぐ近くにベッド数200床の北ベトナム軍の野戦病院と弾薬1200発を発見しました。K中隊はLZクロウの南1.8㎞ の目標地へ進軍を続けたが、北ベトナム軍に阻止され川から180メートル離れた丘に夜営陣地をしくことにしました。

ボーイングCH-46シーナイト

2006 年の海兵隊航空隊 CH-46シーナイト。

出典 Wikipedia

CH-46は1964年11月から海兵隊に配備され、初期型では乗員17名または貨物1.1トン、1966年、エンジンをジェトエンジンに変えた出力増強型では乗員25名または貨物2.5トンを運ぶことが出来ました。着陸した時、正面から見た形がカエルに似ていることから、フロッグというあだ名がついています。

出典 wallpaperbetter.com

同じ7月15日午前9時35分、LZクロウの北東五キロの地点にあるLZダブに第2/4海兵隊の3個中隊が到着しました。着陸後、第2/4海兵隊は第第3/4海兵隊に向けて西へ移動を開始したが、背の高いエレファントグラスと蒸し暑い気候に阻まれ合流することが出来ず、途中で夜間陣地を築き翌朝合流することにしました。

7月16日午後2時45分、第2/4海兵隊は途中北ベトナム軍の攻撃に遭いながら第3/4海兵隊との合流をはたし、ともにソンガン川渓谷の奥にあると思われる208高地にある北ベトナム軍の陣地に向かって進軍を開始しました。

午後4時、第1偵察部隊の海兵隊小隊がヘリコプターからロックパイルの山頂に懸垂下降し観測所を設置しました。

ここで良く名前の出てくる、ロックバイルについて説明します。

ロックパイル

2010年のロックパイル

出典 Wikimedia

ロックパイルは、クアンチ省の省都ドンハからケサンを通ってラオスに通じている国道9号線の脇に立つ、石灰岩で出来た高さ240㍍の岩山です。その山頂から国道9号線全体を見渡せるため、DMZやラオスからやって来る北ベトナム軍や解放民族軍(ベトコン)を見張るには最適の位置にあります。ただ山頂付近は急峻な崖になっていて、登攀は困難です。

ロックパイル山頂からケサン(左上の町)方面の眺め。

1968年1月

出典 wikipedia

7月17日、ロックパイルからの目撃情報に基づき、新たに配備された第2/1海兵隊大隊がロックパイル付近の川谷へと配置されました。

7月18日、第2/4海兵隊大隊はDMZ直下に封鎖陣地を築き、第3/4海兵隊大隊は第2/4海兵隊の南側に移動し、南から攻撃して208高地を占領することにしました。

7月18日午後、ヘイスティングス作戦で1番激しい戦いが行われ、アメリカ海兵隊で14名が死亡、49名が負傷しました。確認された北ベトナム軍の死者は159名で、推定500名が死亡したとみられています。

7月19日、第2/4海兵隊は208高地への攻撃のために再編成されました。

7月20日の朝、激しい空爆の後、第2/4海兵隊が208高地を襲撃しましたが、厳重に防御されていた北ベトナム軍の陣地は放棄された後で、無人状態になっていました。第3/4海兵隊は撤退しました。

7月21日、第2/4海兵隊は、ヘリコプター谷を通ってLZクロウに戻り、18日の墜落したヘリコプターの乗員8名の遺体を収容しました。

7月21日夜、ロックパイルの麓に陣地を築いていた第2/1海兵隊大隊は戦線で砲火にさらされ2名が死亡しました。北ベトナム側の死傷者は不明です。

7月24日、第3/5海兵隊大隊のI中隊が、ロックパイルの北約705㎞の362高地に無線中継局を設置していたところ、北ベトナム軍に襲撃され、I中隊は18名が死亡、82名が負傷してしまいました。北ベトナム軍は21名の死者と2名の捕虜を出しました。

7月25日、機動性の低い地形とヘリコプターの着陸地帯の不足を理由に、ソンガン川渓谷にいる部隊を南に撤退させました。

7月28日、大隊の撤退にも関わらず、海兵隊偵察パトロールはヘイスティングス作戦地域で作戦行動を続け、偵察パトロールがロックパイルの南西5kmの地点でで150~250名の北ベトナム軍を発見し、砲撃を要請して少なくとも50名の北ベトナム軍を殺害した。この戦闘がヘイスティングス作戦の最後の戦いとなり、残った北ベトナム軍第324B師団はDMZを越えて撤退するか、西側のジャングルに散開したとみられています。

この作戦でアメリカ軍の死者は126名、南ベトナム軍の死者は21人となりました。北ベトナム軍は約700名が死亡したとみられ、17人の捕虜を出しています。

ヘイスティングス作戦はは8月3日に終了しましたが、DMZ付近の北ベトナム軍への捜索破壊活動はプレーリー作戦と名を変え、1967年1月31日まで続けられました。

 

アトルボロ作戦 1966年9月14日~11月25日

アトルボロ作戦は、ベトナムのタイニン省で第196軽歩兵旅団が初めた捜索破壊作戦です。作戦名は旅団が編成された、マサチューセッツ州にある町、アトルボロから来ています。旅団は1965年9月に結成され、1966年8月14日に耐タイニン省に移動し、フレデリック・C・ウェイアンド少将率いる 第25歩兵師団の作戦統制下に入りました。

師団長には新たにエドワード・H・ド・ソシュール准将が就任しました。彼は優秀な参謀でありましたがミサイルの権威で、第196旅団に加わる前は、第25師団で砲兵隊を率い支援担当副団長を15ヶ月(そのうち4ヶ月はベシナム)務めましたが、歩兵を指揮したことはありませんでした。

1966年のタイニン戦闘基地。

上部の滑走路を挟んで手前が第196歩兵旅団の駐屯地、奥がフィリピン民間行動グループ(民兵)の駐屯地。

出典 Wikipedia 

新たに建設されたタイニン戦闘基地に着いた第196歩兵旅団の兵士たちは、3つの大隊に分けられ、1個大隊が訓練している間、残りの2個大隊は基地の建設に従事していました。

タイニンは、サイゴンとカンボジア国境を結ぶ国道22号線にある町で、サイゴンとカンボジア国境の真ん中にあります。

10月半ばまでは解放民族戦線(ベトコン)とたいした戦闘は無く、ベトコンの兵士2名を射殺した位でした。第25師団の別の部隊がタイニン市の南東約30kmにあるダウンティエン近くで、ミシュランのゴム農園で大規模な米の貯蔵庫を発見しました。

10月19日、部隊を作戦地域の東にあるタウンティエン地区に移動させ付近を捜索させました。

10月23日、町の北側で843トンの米の貯蔵庫が発見されました。これは北ベトナム軍1個師団の1ヶ月分の食料にあたります。さらにこの場所から押収した文書には、ここからバハオ川に沿った北側には、大規模な複合施設があると記されていました。

アメリカ軍は、スオイ・ダの特殊部隊基地と発見された貯蔵庫の間に解放民族戦線の大部隊がいると推測しました。

スオイ・ダの特殊部隊のキャンプ。1967年4月

出典 Wikipedia

第196歩兵旅団の指揮官ド・ソシュールは、部隊をダウティエンの郊外に作られた新たな基地に移動し、捜索破壊活動を行うことにしました。

タウンティエンのベースキャンプ。1970年7月

出典 Wikipedia

一方北ベトナムの第9師団司令官ホアン・カム上級大佐は、現地の貯蔵施設と拠点の安全を保護するため動き出します。

まず、約1500人からなる第271連隊に、タイニン戦闘基地にいる第196旅団を攻撃し、旅団の反撃部隊を誘き出し殲滅させる任務を与えた。

2個大隊を率いる第272連隊はサイゴン川を南下し、タイニン省のベトナム人民軍部隊である第14地方部隊大隊と合流し、タイニン市の南東30キロに位置するソイカオにある南ベトナムの地域前哨基地を攻撃することになっていた。

そして主力である第101連隊はスオイチェにある貯蔵施設の防護と、スオイ・ダにある米特殊部隊基地の攻撃、アメリカ軍に奪われた貯蔵施設の奪還を目指すことになりました。

カム将軍は、11月3日に作戦を開始することにしました。

 

アメリカ軍は察知できていませんでしたが、新たに見つかった貯蔵庫の地下には大規模なトンネルシステムがありました。さらにこのトンネルを通じて、相互に支援し合うバンカーで待ち伏せする北ベトナム軍がいました。バンカーには迫撃砲や機関銃座が備えられ、アメリカ軍がやって来るのを待っていました。

この地区はジャングルと、エレファントグラスと呼ばれる高さ2メートル以上にもなる背の高い草むらになっており、地面すれすれに設置されたバンカーを見つけるのは至難の業でした。

エレファントグラス(アルンド・ドナックス)。

出典 Wikipedia

解放戦線は高い木の上に狙撃兵を置いており、アメリカ軍が通りかかると狙撃を開始します。アメリカ軍の悪い癖で、1発の攻撃でも敵の位置を確認せずに反撃してしまいます。これでアメリカ軍の位置が分かり、待ち伏せしやすくなってしまいます。

さらに各所に地雷やブービー・トラップを仕掛け、アメリカ兵に負傷者を出します。負傷者が出るとアメリカ軍はすぐに救護ヘリコプターを呼ぶため、これによりアメリカ軍の居る場所を知らせることになります。

そしてヘリボーンを開始する前に着陸予定地域(LZ)を30分前から準備砲撃するため、解放戦線(ベトコン)側は兵士を集め待ち伏せしていました。

アトルボロ作戦の地図。

赤い色が北ベトナム軍と民族解放戦線。

出典 16thinfassn.org

11月1日、第196師団の指揮官ド・ソシュールは指揮所をダウ・ティエングに移し、第196師団から2個大隊、同じタイニンに駐留していた第25師団の第1大隊と第2大隊を移動させました。

11月3日、この日は北ベトナム軍が貯蔵施設や軍事拠点を守るために作戦を開始した日に当たります。

同じ日アメリカ軍も、ダウティエンからスオイ・ダの特殊部隊キャンプの間に北ベトナムと解放民族戦線(ベトコン)の大部隊が集結しているとみて,サーチ&デストロイ作戦を開始しました。ただ問題なのが作戦を指揮するド・ソシュール准将が歩兵を運用した経験が似ないことと、作戦に参加した第196師団の兵士達も実際に北ベトナム軍や解放民族戦線(ベトコン)と銃火を交えた実戦経験が不足していたことでした。

11月3日の朝、ソシュールは第196連隊の2個大隊、第1歩兵連隊の第2大隊と第31歩兵連隊の第4大隊を、バハオ川(上の地図で2股に分かれている左側の川)に沿って進軍させました。

同時に第27連隊第1大隊の2個中隊を攻撃隊列の西側と東側を封鎖するため、ヘリコプターで送り込みました。

計画では4個の攻撃部隊が、上の地図で赤い線で囲った下の部分の補給基地にいると思われる解放民族戦線(ベトコン)を、封鎖している2個中隊の所に追い込み、挟み撃ちする予定でした。しかし、この計画はすぐ崩れてしまいました。参加した攻撃側の4個部隊と、阻止する2個部隊が離れすぎて連携が十分とれず,それぞれの部隊が孤立状態になった居ました。さらに待ち伏せしている解放戦線(ベトコン)の予期しない攻撃により、無線連絡も十分にとれず各部隊を構成する中隊も、深いジャングルや草むらの中で道に迷って混乱してしまいました。

さらに悪いことに、この日から攻撃を開始した北ベトナム101師団も、スオイ・ダの特殊部隊のキャンプ攻撃を中止してこの戦いに加わってきました。

この状態は4日の日も続き、中には本部との連絡がつかず、行方不明となる中隊も出てきました。そのため、ある部隊から砲兵や航空機による支援要求が来ても、近くに味方の部隊がいる可能性があるため、支援を受けることが出来ませんでした。

11月5日早朝、第1歩兵師団長のウィリアム・E・デピュイ少将と副指揮官のジェームズ・F・ホリングスワース准将がダウティエンの指揮所に到着した。事態が深刻な状態に陥っていることでデピュイ少将はMACV(ベトナム軍事援助司令部)副司令官のジョン・A・ハインゲス中将はアトルボロ作戦を指揮している 第25歩兵師団のウェイアンド少将に、指揮権を第1歩兵旅団のデビュイ少将に渡すよう説得し、ウェイアンド少将これに同意しました。

デビュイ少将は戦闘中の部隊に対して、ただちに撤退し、もとの部隊に戻るよう連絡しました。その日の夕方、第1師団の1個大隊を乗せた飛行機がダウティエンに着陸を開始し、デピュイとその司令部がそれに新たな戦闘に入りました。

新たな部隊が現れたことで、北ベトナム101師団の各部隊は小隊に分かれて撤退を開始しました。これは北ベトナム軍で戦いの勝ち目が無いときは、部隊を温存するために撤退することになっていたからです。

11月6日から24日にかけて、第1歩兵師団の各旅団、そして後に第25歩兵師団、第11機甲騎兵連隊、第173空挺旅団、そして南ベトナム軍の3個歩兵大隊の総数2万2千が、逃げる北ベトナム軍をカンボジア国境まで追いかけて攻撃する戦いとなりました。

アトルボロ作戦 1966年11月6日~25日

出典 Wikipedia

この作戦全体で、アメリカ軍の死者155名、行方不明者5名、494名が出ましたが、そのうち11月3日から5日にかけての戦いで戦死60名、負傷者159名が出ています。

北ベトナム軍では死者1016名、捕虜200名以上出たことで、アメリカ軍はアトルボロ作戦は成功したと発表しました。貯蔵庫に保管していた大量の食料や武器を失ったことで、1966年12月には北ベトナム軍はサイゴン付近で新たな作戦を実行することが、出来なくなりました。

この作戦で勝利したことで、アメリカ軍はサーチ・アンド・デストロイ作戦に自信を持ち、後に続くシーダーフォールズ作戦ジャンクションシティ作戦を含む他の大規模作戦が始まることになりました。

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