ベトナム共和国を支えていたアメリカでしたが、ジュネーブ協定で定められていた1956年7月に行われる、南北ベトナムの統一を決める自由選挙の実施を拒否しました。それは前年の秋に秋に発足したベトナム共和国(南ベトナム)が十分に人心を掌握できていないため、負ける恐れがあった為です。
もちろん統一のための自由選挙の拒否には、北ベトナムやソ連、中国などから強い批判がありましたが、アメリカと南ベトナム両国は、ジュネーブ協定に署名していないとして、無視しました。
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亀仙人2ベトナム戦争泥沼化の始まり
ジュネーブ協定後のベトナム民主共和国(北ベトナム)
ジュネーブ会議の後、北ベトナムでは戦闘が停止されました。この間を利用して、ベトナム労働党とベトナム民主共和国政府は、大規模な土地改革を実行しました。
1945年8月、ホーチミンがベトナム人民共和国が独立宣言を出す以前は、人口の2%しか占めない地主階級が土地の51.2%を所有する一方、人口の97%を占める勤労農民が土地の36%しか所有していなかった。また、農民の59.2%が土地無しのため、小作人にならざるを得なかった。
1953年から1956年にかけて実施された土地改革法により、フランス人、フランスからの移民、またはベトナムの裏切り者(フランスに従ったベトナム人)が残した土地資産、または戦争により放棄された土地資産の没収して、勤労農民に平等に分け与える政策を実行しました。
50年代土地改革期の一人あたり土地面積 (単位;㎡/人)
出典 ベトナム農業の歴史
土地改革が終了した翌年(1957年)の米の収穫量は1937年(戦前の最も収穫の多かった年)に比べると、240万トンから395万トンと大幅に伸びました。
土地を手に入れて喜んでいる農民
出典 Wikipedia
しかし、1955年頃から性急な改革の弊害が、目立つようになりました。はじめは政府から派遣された土地改革チームが、農民の代表と会いその地区の農民によって地主や、富農と告発された人を人民法院に送ってそこで裁いて処置していましたが、やがてその土地の農民代表を中心に、特別人民法院を設置して、そこで裁判を開き判決を出すようになりました。ですから地主や富農のほか、普段から農民たちに嫌われていた人達や、憎まれていた人たちも地主や富農と死刑判決を受けてその場で射殺される事件が起こるようになりました。
その中には中央政府の役人や、ベトミン軍の将校などもおりました。
このため1956年2月、ベトナム労働党第9回中央会議で土地改革の誤りを認め、革命の停止を決定しました。続く1956年9月の第10回中央会議では、中央政府は監視が緩く、地方での実施が制御不能になったことの責任を認めました。誤って殺された人の数ははっきりせず、800人~1500人、そのほか有罪となった人は1500人~2500人に上るとされています。
この土地改革で北ベトナムにおいて農村地帯の72.8%の世帯が土地を手に入れ、自営農家となり、ベトナム民主主義共和国(北ベトナム)の強力な支持基盤となりました。
ベトナム共和国
1955年10月23日の住民投票で圧倒的な勝利を収めたゴ・ディン・ジェムは、選挙から3日後の10月26日ベトナム共和国の建国宣言して、自ら初代大統領に就任しました。
1956年7月ゴ・ディン・ジェムは、ベトナムの南部と北部を統一するための総選挙実施を拒否しました。政権発足間もないベトナム共和国は国内の統一が達成されておらず、選挙を行えば負ける恐れかあったためです。
反共産主義者であり、民族主義者であるゴ・ディン・ジェムは、フランス統治時代からの政治家や官僚を排除して、側近を一族で固め独裁体制を構築しました。
特にゴ・ディン・ジェムの弟であり大統領顧問となったゴ・ディン・ヌーは、秘密警察を駆使して本来の目的である共産主義者のみならず、政府に対して批判的な政敵や、仏教徒に対して弾圧を行いました。これらの行動はかえって反政府的な行動を呼び起こし、南ベトナムにおけるベトミンの活動を助けることになってしまいました。
ゴ・ディン・ヌー、1963年9月
出典 Wikipedia
ベトミンとの戦い
1954年7月のジュネーブ協定では、戦闘に参加した双方の軍隊は北緯17度線を基にした暫定軍事境界線から、相手側の領土に居る軍隊を撤退することになっていました。しかし、ベトナム南部には軍に所属しない宣伝要員やべトミンの組織に入っている一般人、共産党員など人達約10万人が残っていました。彼等は翌年の総選挙のために、ホー・チ・ミン支持の宣伝活動をしていました。
国内で警察権と私設軍隊を持つ、バイ・ビエンとの戦いが一段落した1955年5月から1956年5月にかけて、ゴ・ディン・ディエムは南部全土で大規模な「共産主義者非難キャンペーン」第1段階を開始した。
キャンペーンに従って「共産主義を非難し、共産主義を破壊する」するために、ゴ・ディン・ジェム自身も
「どこかで共産主義者を見かけたら、すぐに撃たなければなりません。共産主義者の宣伝をしている人を見かけたら、すぐに撃たなければなりません」
「取り逃がすよりは、誤って殺害する方が良い」
と、過激な宣言を出していました。
1956年に成立したベトナム共和国憲法の第7条で「いかなる形態であっても、直接的または間接的に共産主義を普及または実施することを目的とした行為は、憲法に定められた原則に反する」と、共産主義に対する戦いを明記しました。
1959年5月6日、「国家安全保障、国民の生命、財産を妨害する行為を処罰し、特別な軍事裁判の設置を規制する」ため「共産主義を非合法化」し、南部全域に刑務所、拘留所、強制収容所を設置し、ベトミン支持の疑いのある人々を拘留するための移動軍事法廷を開設しました。移動軍事裁判で死刑の宣告を受けた人たちは、一緒に運ばれてきているギロチン台でその場で公開処刑されました。
実際に使用されたギロチン。
ベトナム、カントー市立博物館で展示
出典 Wikipedia
死刑を免れた者は、再教育キャンプに送られるか、政治犯としてメコンデルタ沖にあるコルソン島のコンダオ刑務所に送られました。
コルソン島の位置
コンダオ刑務所
左側が『虎の檻』と言われる過酷な監獄
出典 ウィキペディア
「虎の檻」と呼ばれる監獄には屋根がなく、鉄格子がはめられているだけです。
夏には強い日差しが差し込み、冬に雨が降っても、寒さに震えながら、濡れるしかありませんでした。
出典 ivivu.com
ベトナム共和国のデータによれば、1955年から1960年の間に48,250人が投獄された。米国の別の情報筋によると、約2万4000人が負傷し、8万人が処刑または暗殺され、27万5000人が投獄され、拷問の有無にかかわらず尋問され、約50万人が強制収容所に送られたという。
引用 Wikipedia
このように犠牲者が増えた原因は、ゴ・ディン・ジエムが、本来の共産主義者撲滅のほかに、ジエム政権に反対する野党や、ジエム大統領の土地政策に不満を持つ農民、カトリック重視の政策運営に批判的な仏教徒達も、政府転覆を狙っているとして共産党員と同様に捕らえたためでした。
特に、南ベトナムの人口の8割以上を占める農民や仏教徒を敵に回したことはジエム政権にとって大きなマイナスでした。警察権を握っていたゴ・デイン・ヌーは秘密警察と軍特殊部隊を使用して、反政府的と見なした人たちを弾圧し続けたことで、かえってディム政権への反発を招き、共産ゲリラへの支持者を増やすことになってしまいました。
ゴ・ディン・ジェム時代の土地政策
1950年代まで南ベトナム南部では、2.5%の大地主が土地の45%を所有していたのに対し、73%の自営農家の所有する土地は15%しかありませんでした。
ジェム政権の土地政策
ジェム政権の土地政策は、北ベトナムが行った大地主の土地を没収する代わり、100ヘクタール(1km四方)以上の土地を地主から買い取り、それた小作農や貧農の農家に安く販売する形で行われました。
地主に許される土地は100ヘクタールまでで、 それ以上の農地は政府が買い取り、土地を持たない人々に転売されました。
地主が所有する土地100ヘクタールのうち30ヘクタールは地主が直接耕作しなければならず、残り70ヘクタールを小作農に土地を貸す場合、地代は1年で収穫されるコメの量の10~15%に抑えること。
地主が不在、または放棄された土地は政府に没収されます。
土地を持たない小作農や、少ない土地しかない農家、北ベトナムから来た移民、または失業中の人は最大5ヘクタールまで政府所有の土地を買い取る権利を持ちます。買い取った土地の代金は3%の年利で12年以内に国に支払うことになります。
基本的には上に書いた通りですが、大地主の中には土地を家族一人一人の名義にして、一家族で何100ヘンタールの土地を所有することが出来ました。
1954年から起こったインドシナ戦争で、フランスの支配に勝利したべトミンによって追放された地主から取り上げられた土地を分け与えられた農家や、地主が放棄した農地を耕していた農家は、いままでただで耕していた土地を政府に没収されるか、新たに購入するかしなければなりませんでした。
カトリックの教会やカトリック教徒の地主たちは、この規則に従わず大目に見らていました。
また政府販売の土地についても、ベトナム北部から逃げて来たカトリック教徒や難民に優先的に割り与えられたため、もとから居た農民と対立するようになりました。
更に大地主の中には、法律で決められた地代よりはるかに高い地代(45~50%)を要求したり、土地を購入した農家から政府に払う土地代にいくらか割り増しして、土地を買い戻す(それでも政府が地主に払った土地代より安い)者が出てきました。確かに法律違反ですが、この辺は役人に賄賂を払うことでどうにでもなりました。
このため1958年の時点でゴ・ディン・ジェムは南部デルタ地帯の土地所有者はフランス統治時代と同じ様に復活して、2%の大地主が45%の土地を持ち、農民の半数が小作人という状態に戻ってしまいました。
ベトナムでは、フランスの統治時代から各村ごとに村会を設け、税の納入や共有地の管理を行ってきていました。ジェム政権はベトミンが村に潜入することを防ぐため、この村会を廃止して、中央政府から直接村長を派遣し政府の支配力を強めようとしました。しかし、この政策は失敗に終わりました。理由は派遣された村長は北ベトナムが脱出してきた農民やカトリック教徒が大部分を占め、肥沃な農地を与えられ、援助物資も優先的に配られるなどの特権を持ち、村のミニ独裁者となりました。彼らも中央政府の役人に同様に腐敗に満ち、徴収を任されていた税金や小作料などのピンハネや、援助物資の横領や横流しなどを行い富を蓄えていました。
昼間に農民の中に紛れていたり、森林地帯に潜んでいたベトミンは、夜のなるとこれらの村長や、県の役人を暗殺したり、誘拐を行ったりして排除し、村人達を助けました。
このためベトナム南部の農民では、ベトミンを支持する者が75%を超えることになり、ディエム政権の支持率が5%と大きく落ちてしまいました。
北ベトナムの15号決議と南ベトナム解放民族戦線の結成
1959年まで、北のベトナム労働党は南ベトナムでは政治闘争を支えるためのゲリラ活動は認めていましたが、本格的な武装闘争は禁じていました。しかし、ディム政権の徹底的な弾圧により多くの活動家を失ったベトナム南部から、「武装闘争」を認めてもらいたいとの要請が、ホーチミン主席と党中央委員会に届きました。
1959年1月13日、ハノイで開かれた第2回ベトナム労働党中央委員会第15回会議において、南ベトナムにおける政治闘争に加えて、武力闘争を認める決議(15号決議)が秘密裏に成立し、同年4月の拡大委員会において実行が決定されました。
15号決議の目的は、ジュネーブ会議後に行われるはずだった南北両ベトナムの統一選挙以来念願であった、北ベトナムと南ベトナムの統一を実現することでした。
しかし、北ベトナムが南ベトナムを統一するために軍隊を動かしたことが明らかになると、朝鮮戦争のように南ベトナムを支援しているアメリカが、共産主義の拡大に反対する自由主義国家を集めて国連軍を結成し、北ベトナムに向かってくる恐れがありました。
それを防ぐため、北ベトナムによる南ベトナム統一(言い方を変えれば北ベトナムによる南ベトナムへの侵攻)の目的はひたすら隠し、南部で活躍しているベトミンを中心に、独裁的なゴ・ディン・ジェム政権に反対している農民や仏教徒、民族主義者等を集めて後に南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)と呼ばれる抵抗組織を作り、ゴ・ディン・ジェム政権の打倒と、その後ろ盾となっているアメリカの国外退去を求める南ベトナム人による「自由と独立を求める戦い」を支援する形をとりました。
南ベトナムにおけるベトミンの活動を一体化するため、サイゴン北部タイニン省のカンボジア国境近くに、秘密基地Đ(Đは「東」を意味するベトナム語Đôngの頭文字)と呼ばれる南部中央局を設置しました。南部中央局は位置を特定されるのを防ぐため、タイニン省北部のカンボジアに近い国境地帯を中心に、常に移動を繰り返していました。
ホーチミンルートの始まり
1959年5月19日、北ベトナムから南ベトナムの民兵部隊に支援物資や兵士を派遣するための559部隊が設立され、後にホーチミンルートと呼ばれる補給路を建設しました。
中央下のカンボジア領内を通る赤の太線は、シハヌークラインと呼ばれる、ホーチミンルートの一部。
ラオス南部の北ベトナムと南ベトナムの国境である山岳地帯は、ラオスの共産主義勢力パテトラオが支配していたため、通行が容易であった。
カンボジア国内では、カンボジア王国の国家元首であるシハヌークは社会主義的な政策をとり、1970年のクーデターで倒れるまでホーチミンルートの通行を認めていました。
出典 ウィキペディア
初期のホーチミンルートでは、兵士と民間人が協力して物資を運んでいた。
出典 Wikipedia
自転車による輸送
出典 Wikipedia
ホーチミンルートで使用された自転車。
200㎏を超える荷物を運ぶため、車輪やフレームが木材で補強されています。
荷物を下ろした後は、これに乗ってもと来た道を戻りました。
ワシントンDC 国立アメリカ歴史博物館で展示
出典 Wikipedia
ホーチミンルートは、南ベトナムだけではなく、ラオスやカンボジアの共産勢力を支援するためにも使用されました。
南ベトナムにおける武力闘争の始まり
1959年12月初め、ベンチェ県の解放戦線の部隊に秘密基地Đから「党中央部から送られてきた極秘の重要指令があるから、直接受け取りに来て欲しい」との知らせがありました。
ベンチェからタイニン県北部にある基地Đまでは車で行けば半日の距離でしたが、途中政府軍の陣地や検問所があり、簡単に通り抜けることができませんでした。そこで女性活動家のグエン・ティ・ディンが果物の行商をしながら徒歩で基地Đに行き、12月末に命令書を持って戻ってきました。
グエン・ティ・ディン
当時南ベトナム解放民族戦線中央委員でした。彼女は後に「ロングヘアーアーミー」と呼ばれる婦人部隊を結成して、県庁にデモを仕掛けました。
彼女は、ベトナム戦争終了後の1987年4月19日から1992年7月19日まで、ベトナム社会主義共和国副大統領を務めました。
出典 Wikipedia
1959年5月の日付のある命令書には、1960年に南ベトナム全土で一斉に武装蜂起するように書かれていました。有効な通信手段がないため、党中央から基地Đに命令書が届くまで約半年かかったことになります。
ベンチェにいたベトミンの兵士達は、武装闘争の解除に喜びましたが、肝心の武器がありません。基地Đでは武器を用意していましたが、とても持って帰れる状態ではありませんでした。
ベンチェ県のベトミン達は、ディントウィ村にある政府軍の駐屯地を襲って武器を手に入れることにしました。
1960年1月17日午前6時、ベンチェ県の解放戦線の部隊は活動を開始しました。
政府軍駐屯地の隊長は誰よりも朝早く起き、村にある宿舎から部隊に行くのが習慣になっていました。これを知ったゲリラ隊は隊長の出勤時間に合わせて宿舎を取り囲み、隊長を捕らえて宿舎に閉じ込め、宿舎にあった武器を奪いました。
駐屯地の兵士達が村の朝市で買い物をすることを知っている村人達は、買い物に来た兵士を数人がかりで押さえ込んで、持っていた武器を奪いました。
武器を手に入れることに成功した、ベトミンゲリラは朝食中の駐屯地を襲い、守備隊を降伏させ30丁の武器を奪うことに成功しました。
1週間後の1月24日までに、近くにあるフォックヒエップ村と、ビンカイン村の駐屯地を奪い、計100丁の銃と2丁の重機関銃を手に入れました。
襲撃を始める前に、県庁のあるベンチェ市周辺の農家には、
「近く、ベンチェ市に対して、解放民族戦線が大攻勢を仕掛ける計画があるため、市内に入らないように警告する。」
とのビラを撒いていたため、守備隊はベンチェ市の警備を固めていて、地方に大軍を差し向けることができませんでした。
それでも政府軍の反撃で、フォックヒエップ村と、ビンカイン村に多くの犠牲者が出ました。
これに対して民族戦線は犠牲となってしまった夫、息子、父親達の婦人を集めて、県庁まで抗議に行きました。
ベンチェ県の県庁には、毎日2000人から5000人の婦人達が、解放民族戦線の兵士と間違えて殺された者に対する謝罪と、賠償を求めて集会を行うようになりました。
約2ヵ月に及ぶ抗議に根負けした県知事は3月15日、間違って殺された者に対する謝罪と賠償金の支払い、フォックヒエップ村に居る政府軍の撤退に応じました。
この後、アメリカの軍事顧問団や、ジェム政権の役人達は婦人による抗議団体を「ロングヘアー・アーミー」と呼んで嫌がるようになりました。
こうして1月の終わりには、ベンチェ県で20の村がベトミンの支配下に入りました。
ベンチェ県の成功を受けて、南ベトナム全土でジェム政権に反対する武力闘争が起きて、ベトナム南部に2627ある農村の内、1383の村がベトミンが率いる自治政府を確立しました。開放された地域に住む人口は約650万人で、ジェム政権における土地政策の失敗によって農民から奪われた土地の内3分の2に当たる約17万ヘクタールが、改めて農民達に再配分されました。
南ベトナム民族解放戦線の設立
1960年12月20日、タイニン省にある南部中央局(基地Đ)近くのタンラップ村で、南ベトナム民族解放戦線が樹立されました。南ベトナム民族解放戦線の樹立は、1961年1月29日、北ベトナムのハノイ放送でベトナム全土に知らされました。
私が若かった頃は、南ベトナム民族解放戦線のことをベトコンと呼んでいましたが、これはジェム政権が「ベトナム・コンサン(ベトナムの共産主義者)」を縮めて使用した蔑称です。前に書いたとおり、南ベトナム民族解放戦線の中には、共産主義のベトミンのほか、一般の農民や市民、仏教徒、外国の支配に反対する民族主義者などが混ざっているため全員が共産主義者ではありませんでした。
当ブログでは南ベトナム民族戦線のことを、短く「解放戦線」と書きますので、よろしくお願いします。
ケネディ大統領の登場
1961年1月20日、アイゼンハワー大統領の下で副大統領を務めていたリチャード・ニクソンを大統領選で勝ったジョン・F・ケネディが第35代アメリカ大統領として就任しました。
ケネディ大統領は就任直後の4月15日、革命に成功したキューバのカストロ政権打倒のためキューバのビッグス湾に上陸した侵攻作戦(ピッグズ湾事件)に失敗してしまいました。
ピッグズ湾事件事件の詳しい解説はこちらに書いてあります。↓
アメリカの攻撃を受けたカストロ首相は、1961年のメーデーの日(5月14日)に、共産主義陣営に入ることを発表しました。
1961年10月9日、偵察機U-2による航空写真で、ソビエトがキューバ国内に核ミサイルを設置していることが確認されました。
これに対して空軍のカーチス・ルメイはキューバに対して、早急な空爆と侵攻を主張しました。
ケネディ大統領は、新たに国防長官に任命されたロバート・マクナマラを使って軍部の強硬派を抑える一方、弟のロバート・ケネディ司法長官を駐米ソ連大使アナトリー・ドブルイニンと交渉させ、ソ連がキューバからミサイルを撤退すれば、アメリカは6ヶ月以内にトルコに配備しているソ連向きのミサイルを撤去するとの条件を出しました。
ワシントン時間10月28日午前9時、ニキータ・フルシチョフ首相がモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表し、同時にアメリカでもラジオで放送されて伝わりました。
これによって新たな核戦争の恐怖(キューバ危機)は、避けることができました。
キューバ危機を題材にした映画「13ディズ」の解説があります。 ↓
ケネディ大統領は、就任早々のピッグズ湾事件の失敗によりキューバの共産化を許したことで、南ベトナムにおける民族解放戦線の活動を止め、南ベトナムが共産主義国家になるのを防ぐことが絶対必要になりました。
1961年初頭の南ベトナム政府による見積もりでは、ベトナム南部で戦っている解放戦線の兵士は約7000名となっていました。これに対して南ベトナム政府の正規軍は15万名と地方軍5万名であった。普通これだけの戦力差があれば、解放戦線を殲滅できるのだが、そうはなりませんでした。
解放戦線の兵士達は普段は森林などに隠れている者や、昼間は農民や普通の市民として仕事をしてい者達で構成され、夜になると数名から数十名のグループを作り、南ベシナム政府の下級役人、村長や警察署長などの誘拐や暗殺、軍の弱小部隊(班4~6名、分隊5~12名、小隊30~50名)の攻撃を主として行い、不利な場合はすぐに撤退して元の農民や市民として暮らしていました。戦闘していないときは、協力者の育成や教育を行っていました。
ステイリー・テイラー計画
1961年5月、スタンフォード大学スタンフォード研究所の経済学者ユージン・ステイリーとベトナム駐留米軍司令官(1962年からアメリカ統合参謀本部議長を務める)マクスウェル・D・テイラー将軍によって作られた計画で、ケネディ政権の4年間で南ベトナムにおける共産主義勢力との戦いに終止符を打つ予定でした。
マクスウェル・D・テイラー
出典 Wikipedia
ステイリー・テイラー計画はつ切り3つの段階で行われる予定でした。
第1段階は、 1961 年半ばから実施され、農村部に新たに戦略村を設置して、民族解放戦線を排除し南部を平定します。
第 2 段階は 1963年初頭から実施され、アメリカの援助を強化して、経済の回復、軍事力の強化、鎮定作業を完了させます。
第 3段階は 1965年末まで実施され、経済の発展と南部の治安を安定させ、戦争を終結させます。
この計画に従いケネディ大統領はベトナムに対して新たな軍事顧問団を派遣しました。
アイゼンハワー大統領の時代に685人(ジュネーブ協定時に、フランスとアメリカがベトナムに派遣していた軍事顧問団の人数)であったアメリカの軍事顧問団を、1961年末には3164人に増員し、ケネディ大統領が暗殺される1963年11月には16263人にしました。
また11月12日、155人の操縦士と整備士、T-28練習機(訓練飛行だけではなく、地上攻撃も行いました)、および数機の輸送機SC-47と軽爆撃機B-26からなる飛行中隊を南ベトナムに送りました 。
枯れ葉剤散布
ランチハンド作戦(1961年~1971年)
南ベトナムの人民解放軍が潜む森林地帯を破壊し、また農村地帯の作物を奪うことで枯れ葉剤(強力な除草剤)を散布する作戦です。
1961年8月10日、アメリカはランチハンド作戦によりコントゥム省北部の国道14号沿いに試験的に枯れ葉剤を散布しました。
1961年11月30日:アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは「疑わしい地域の森を枯らすために」除草剤(=枯葉剤)を使うことを決断、作戦遂行を承認。翌1962年1月13日からランチハンド作戦が正式に開始されました。
1961年から1971年にかけて、南ベトナムで枯れ葉剤が撒かれた地域。
緑色が森林地帯、赤色が農業地帯
出典 Wikipedia
後に使用した薬剤に含まれる毒物ダイオキシンによって、散布した地域に奇形児が多く発生し問題となりました。
1962年、戦略村の建設
戦力的には圧倒的に優位に立っている南ベトナム政府軍にも、大きな悩みがありました。それは政府軍と戦った解放軍の兵士が農村に逃げ込んでしまうと、誰がゲリラか分からなくなってなってしまうことでした。村人にゲリラの存在を尋ねても、報復を恐れて口を割らず、無理に口を割らそうとしたり、共産主義者に協力したとして逮捕したりすれば、かえってジェム政権に対する反感を増すだけでした。またゲリラ側も口を割ったり、政府軍に協力した者を見せしめのためにテロを行っており、住民にはその恐怖が滲み込んでいました。
1962年2月2日、ジョンソン副大統領、スタンフォード大学教授のユージン・ステイリー、大統領顧問のマックスエゥル・D・テイラー大将による提言で戦略村計画(ステイリー・テイラー計画)が始まりました。
戦略村計画とは、農村に戦略村と呼ばれる新たな施設を作り、近隣の農民を全部その施設に収容します。施設は鉄条網を絡めた頑丈な柵や堀で囲まれ、中央には周囲を見張らせる監視搭が作られています。集められた農民たちは住民台帳に登録され、住民票が発行され戦略村に入るには監視員に住民票を見せなければなりませんでした。
農民たちは朝、戦略村から農作業に出かけ、夕方には村に戻るよう強制されました。これにより、開放戦線のゲリラたちは農民と分離され、夜出歩くとゲリラとして警備している政府軍兵士や警官から、攻撃されることになりました。
1964年8月の戦略村
出典 Wikipedia
戦略村は1962年にサイゴン近くのヒンズオン省ベンカット地区から始まり、4248の村が作られたのを始めに、1963年初頭までに9095の戦略村が造成され、南部人口の40%に当たる800万人が収容されました。
結論を言えば、この計画は失敗してしまいました。
戦略村の生活は先に書いたとおり、朝になると厳重に包囲された村から出て農作業に従事し、夜には村に帰って寝る、生活でした。農民達の行動は村に立てられた監視塔により監視され、勝手に村から出入りできないようになっていました。元々自由に暮らしていた農民達にとって、これはまさに強制収容所に入れられた囚人達と同じでした。
農民達の多くは仏教徒であり、先祖代々住んでいた家や、守り続けてきた墓を捨て、新たな場所に移り住むことに抵抗がありました。
戦略村に移住した農民には、アメリカの援助金から移住に掛かった費用や失った家に対して補償金がもらえ、戦略村建設に働いた労働にも賃金が支払われることになっていました。しかし、そのお金は南ベトナム当局の役人達の懐に入り、支払われませんでした。もっとひどいところでは、アメリカから無償で提供された屋根を葺くためのトタン板や、戦略村の防備に必要な鉄条網も金を取られ、その金は中央政府から派遣された村長(主に北から亡命してきたカトリック教徒や農民)や村の守備隊(南ベトナム政府軍兵士や警察官)の隊長が持って行きました。
移住を拒んだ農民は、住む場所を無くすため政府軍によって家を焼かれ、ひどい時には見せしめとして政府軍によって殺されたりしました。
これにより、ジェム政権に対する反感がより増すようになりました。
そして、なぜか戦略村は民族解放戦線の支配の強い地域を中心に、造成されました。当然ながらこの地域に作られる戦略村は完成前から、そして建設後も民族解放戦線の攻撃を受けることになります。
1962年5月アメリカのマクナマラ国防長官がベトナムを訪れ、戦略村を視察しました。マクナマラ国防長官の報告を受け、ケネディ大統領は
「1年前からのアメリカの援助増大も関わらず進展は思わしくないが、戦略村の建設は順調に進んでおり、ベトコンの締め出しは成功しつつある」
と、楽観的な見方を述べていました。
南ベトナムの治安を担当しているゴ・ディン・ヌーは強引に建設を進め、1962年10月11日全土で3500の戦略村が完成したとして式典を開きました。しかし、この日16の戦略村が民族解放戦線から攻撃され、兵士と農民併せて700人を超す犠牲者が出ました。
こうなったのは南ベトナム全土で戦略村の警備に当たる政府軍兵士の数が約10万人なので、戦略村の数で割ると平均30人ぐらいになってしまったことです。民族解放戦線側は戦略村で、警備が手薄なところを狙って攻撃しました。それぞれの村には無線機が設置されており、攻撃されたとき近くの村に応援を頼めるようになっていましたが、どの村も人数が減ると自分の村が攻撃される恐れがあるため、応じませんでした。
本来戦略村は、解放戦線からの攻撃を逃れるため農民たちを安全に保護し、民族戦線の支配から遠ざける為の場所でしたが、ジェム政権によって家や農地を失い、さらに民族戦線に格好の攻撃の的を与えることになりました。
こうして期待の戦略村は民族解放戦線に多くの農民による協力者と、広い支配地域をもたらしただけに終わり、ジェム政権がクーデターで倒された後の1964年には、自然消滅することになりました。
仏教徒への弾圧
ゴ・ディン・ジェム大統領は自身が熱心なカトリック教徒であることから、カトリック教徒を優遇する政策を採ってきました。好意的に見れば、ジェム大統領は民主主義の概念はキリスト教下のヨーロッパを中心に発達してきたため、南ベトナムの民主化には旧来の仏教に変わって、国民をカトリック教徒に改宗することが必要だと考えていたのかもしれません。元々ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教はほかの宗教を認めない傾向がありますが、ジェム大統領の場合は、権力を握ってしまったので誰も止められず、抑えが効かない状態に状態になったのでしょう。
フランス植民地時代、カトリック教会はベトナム最大の地主でした。1950年から行われた小作農家を自立させ自営農家を増やすため行われた土地政策でも、カトリック教会の持っていた土地はそのままであり、相変わらず南ベトナム最大の地主の地位は安泰でした。
ジュネーブ協定後共産主義の北ベトナムから避難してきたカトリック教徒の農民は、『反共主義者として、信頼できる』として南ベトナム各地の農村の村長として送り込まれました。これらの村長やカトリック系の農民は、解放民族戦線と戦うための民兵として、優先的に銃を渡されました。彼らは民兵とされているため「徴兵」の義務は免除されました。
アメリカから送られてくる食料援助は、カトリック教会の組織が一手に引き受け、各地の教会を通して配布され、農民達の改宗を促すために使用されました。
1963年には南ベトナムの行政機関の内、中南部のダラット市の市長を除いてすべての知事と市長はカトリック教徒でした。中央政府では国会議員の中で約30%がカトリック教徒であり、閣僚12人の中で4人がカトリックでした。
軍部では16人の将校の内3人がカトリック教徒でした。ジェム大統領は将校達に
「カトリックの士官を慎重な場所に置いておけ。彼らは信頼できる」
と言ったとされ、多くの将校はカトリック教徒になると軍隊内での昇進が早まると信じて、カトリックに改宗しました。
軍によるクーデター未遂事件
1回目
1960年11月11日、カトリック教徒重視の昇進に対して不満を持っていた、南ベトナム軍空挺部隊のヴォン・ヴァン・ドン中佐とグエン・チャン・ティ大佐が、ジェム政権による独裁政治に反対してクーデターを起こしました、
両名はクーデターを起こしけれど、ジェム大統領の辞任は考えておらず国民を弾圧していたゴ・ディン・ヌー(ジェム大統領の弟)の辞任を要求していました。
大統領官邸が反乱軍に包囲されていたとき、近くに住んでいた南ベトナム軍参謀のグエン・カーン准将が包囲網を抜け、官邸の塀を乗り越えジェム大統領と会うことができました。カーン准将は反乱軍と交渉を続けながら時間を稼ぎ、近隣部隊に連絡し救援を要請しました。急を聞いて駆けつけた部隊により逆に反乱軍が包囲され、クーデターは失敗しました。
2回目
1962年2月27日、南ベトナムのサイゴンにある独立宮殿が、2人の反体制派ベトナム空軍パイロット、グエン・ヴァン・コック少尉とファン・フーコック中尉によって爆撃される事件が起きました。
このとき投下された爆弾の1つが、本を読んでいたジェム大統領のそばに落ちましたが、幸い爆弾は爆発せずジェム大統領は助かりました。
原因は、コック少尉の父親で南ベトナム軍の少尉で、野党ベトナム国民党の指導者でもあるグエン・ヴァン・ロック氏が反政府活動を行ったとして逮捕されたことにありました。そのためコック少尉は友人のフーコック中尉を誘い、独立宮殿にいるジェム大統領と弟のゴ・ディン・ヌー夫妻の暗殺を狙い、独立宮殿を爆撃したのでした。
ファン・フーコック中尉はサイゴン川上空で、魚雷艇による射撃で損傷し不時着し捕らえられました。グエン・ヴァン・コック少尉は、カンボジアに逃げました。
1963年11月のクーデターでジエム政権が崩壊した後、2人は恩赦を受けベトナム共和国空軍で任務を続けました。
その後ジエム政権による仏教徒の弾圧から、軍と国民の反発が強まりクーデターが起こりジエム政権は崩壊しました。
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