なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その4 神聖ローマ帝国 戦わずにエルサレムを取り返した皇帝 フリードリヒ2世(第2章)

time 2021/08/10

なぜ戦争が始まるのか 第1次世界大戦前のドイツ その4 神聖ローマ帝国 戦わずにエルサレムを取り返した皇帝 フリードリヒ2世(第2章)

1209年10月21日、ドイツではフリードリヒの叔父であるフィリップが暗殺され、王位を争っていたヴェルフ家のオットー4世がドイツ皇帝に戴冠されました。

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亀仙人2

ドイツ皇帝フリードリヒ2世

シチリアからドイツへ

フリードリヒが成人するまでのドイツ国内

フリードリヒがシチリアで成人するまでの間、ドイツでは1197年にハインリヒ6世が没した後、ハインリヒ6世の弟のフィリップと対立しているヴェルフ家のハインリヒ11世(獅子王)の子、オットー4世との間でドイツ王位をめぐる争いが起こりました。

当時シチリアに居たハインリヒ6世の子フリードリヒは、幼かったため(当時3歳)ローマ教皇の元に預けられてしまいました。仕方なくドイツの皇帝派の諸侯はハインリヒ6世の弟であるシュヴァーベン公フィリップをローマ王に推薦しました。

1207年フィリップはオットー4世の戦いに勝ち、教皇イノケンティウス3世もフィリップをローマ王として認め、ローマで皇帝として戴冠する約束をしました。

1208年6月8日、ローマ王フィリップは娘の結婚問題のこじれから、バイエルン宮中伯オットー8世 によって暗殺されてしまいます。この暗殺には、ローマ皇帝とシチリア王が同じホーエンシュタウフェン家が握るのを嫌った教皇イノケンティウス3世が、裏で手を回したとの説があります(WIkipediaではオットー8世と共謀して殺したと書いてあります)。

教皇イノケンティウス3世はホーエンシュタウフェン朝と対立しているヴェルフ家との和解を計り、故フィリップの娘ベアトリクスとオットー4世と婚約にこぎつけました。長く続いたローマ皇位をめぐる戦いに疲弊したドイツ諸侯は、1208年11月11日、フランクフルトで行われた皇帝選挙で、オットーは帝位の世襲を行わないことを宣言して、選帝候全員の支持を取りつけました

1209年10月21日、教皇イノケンティウス3世は、フリードリヒの居るシチリアに手を出さないことを条件に、オットー4世をローマ皇帝として戴冠しました。

その2か月後の12月26日、フリードリヒは自ら成人になったと宣言し後見人である教皇イノケンティウス3世の手を離れます。

突然の成人宣言に驚いたイノケンティウス3世ですが、これを認める代わりに10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約させました。

王女コスタンツァはハンガリー王に嫁いでいましたが、夫に死なれさらに一人息子にも死なれてしまったため、アラゴン王国に戻って来ていました。

翌年の8月15日フリードリヒは母親と同じ名を持つコンスタンツァとパレルモの主教会で結婚式をあげました。ちなみに母親のコンスタンツァはコスタンツァ・ディ・シチリア(伊: Costanza di Sicilia)と呼ばれ、フリードリヒの妃となったコンスタンツァはコスタンツァ・ダラゴーナ (伊:Costanza d’Aragona)と呼ばれます。

フリードリヒはこのコンスタンツァを大変気に入り、2年後には長男ハインリヒが生まれました。また結婚に際して持参金の代わりに彼女がつれてきた五百騎の騎士団は、シチリア王国再建のために大きく役立ちました。なにせ父親のハインリヒ六世が亡くなってからフリードリヒが成人宣言をするまでの約20年間シチリア王不在の状態で封建諸侯による統治が続いていたため、王国には税金が入らず、フリードリヒが使える軍事力は亡きに等しい状態でした。

結婚式の2週間後には、フリードリヒはシチリア諸侯を巡る旅に出かけてしまいました。

オットー4世との闘い

1209年10月21日の戴冠式の後もオットー4世はイタリアに駐留して、ローマの北隣で教皇派のトスカーナ(かってカノッサの屈辱で出てきたトスカーナ女伯マチルデが治めていた場所)を攻めここを皇帝の支配下に置きました。

続いてイタリア半島中央部にある教皇領領内のスポレート公国(生まれたばかりのフリードリヒは父ハインリヒ6世が亡くなるまでここに預けられていた)と、同じく教皇領内の港町アンコナから教皇の軍隊を追い出しここを皇帝領に組み入れました。

1年後の1210年11月オットー4世は教皇との約束を破り、シチリア遠征を行い、シチリア王国のナポリからサレルノを中心とした地域を占領してしまいました。

1210年11月18日、シチリアに侵入しないという教皇との約束を破ったことから、教皇イノケンティウス3世はオットー4世の破門を宣言しました。

 

イタリア地図

赤い楕円で囲った部分が、

養育費の代わりにローマ教皇に譲ったフォンディ地方

元画像 出典ワールドマップ

このためドイツ国内の反皇帝派の諸侯は、シチリアに居てホーエンシュタウフェン朝の血筋を引くただ一人の子、フリードリヒに注目しました。

翌1211年、ドイツ諸侯はニュルンベルクでオットー4世の廃位とフリードリヒのローマ王選出を決めました。

このため、オットー4世は急いでドイツに帰国します。

1212年1月、オットー4世の帰国と入れ替わりに反オットー派の諸侯から派遣された使者がフリードリヒを訪れ、ドイツに来るように求めました。

フリードリヒも、最近までオットー4世の攻撃から国を守るために戦っていたため、シチリア王国を統一するために何もできていない状態であり、迷いがありましたが、オットー4世を破門した教皇の支持を確実にするためにはオットー4世との戦いは避けられないと考え、ドイツ行きを承諾しました。

ただローマ教皇庁はドイツのローマ皇帝がシチリア王国を併合して、イタリア中部にある教皇領を南北から挟まれることを嫌っていたため、まだ1歳にもならない息子のハインリッヒにシチリアの王位を譲りました。

春になるのを待って、妻のコスタンツァとシチリア王となった1歳の息子ハインリッヒを残し、フリードリヒはパレルモの大司教べラルドとドイツからの使者、わずかばかりの従者を従え総勢10名ばかりで教皇の居るローマに旅立ちました。妻のコスタンツァの連れてきた騎士たちは万一のことを考え、すべてパレルモに置いてきました。

この後もパレルモの大司教べラルドは、教皇とフリードリヒの間を取り持つ役としてその生涯をフリードリヒのために働き続けました。

海を渡りローマに着いたフリードリヒはローマ教皇イノケンティウス3世に逢い、シチリア王の位を息子のハイドリヒに渡し、自分がローマ皇帝となってもシチリア王に着任しないことを誓いました。

更に今まで引き延ばしていたローマ教皇に対して支払う金300㌔の養育費の代わりに、ローマとナポリの真ん中に位置するフォンディ地方の領土を教皇に差し出しました。

気を良くしたイノケンティウス3世は、ドイツに行くのに十分な旅費とローマ教皇旗を与え、この旗を掲げた者の通行を許可し、かつ安全を確保するよう各国の君主や各地の大司教を通じて、通達しました。

こうして海賊に襲られることもなく、海を進み無事ジェノバに着いたフリードリヒは、陸路をドイツに向かって進み始めます。

しかしここで、さすがの教皇旗も通用しない町が、アルプス越えの峠道の前に立ちはだかりました。

それはかってロンバルディア同盟の盟主であった、ミラノです。

ミラノはフリードリヒの祖父フリードリヒ1世(バルバロッサ)と父ハインリヒ6世の2代に渡り、徹底的に破壊されたためフリードリヒを捕らえようと手ぐすねを引いて待っていました。

この為教皇派の都市を巡り、ミラノを大きく迂回しながらアルプス越えの峠道に到着しました。しかし、この峠道には一足先にドイツ入りしたオットー4世の手下が待っていました。

そこでローマ時代からの峠道を避け、険しいアルプスの山道を通り、8月になってやっと反オットー派の都市コンスタンツに到着しました。

フリードリヒがドイツを目指して移動している間、オットー4世はコスタンツァ家とウェルフ家の関係を良くしようと活動していました。

それは教皇イノケンティウス3世によって婚約させられていた、フリードリヒの父ハインリヒ6世の弟フリップの娘ベアトリクスと結婚することでした。

1212年7月22日オットー4世とベアトリクスの結婚式が盛大に執り行われましたが、その19日後の8月11日ベアトリクスは病にかかり14歳の若さで亡くなってしまいました。

この為、初めの目論見と違い、反オットー派諸侯の反感がより一層強まる結果となりました。

神聖ローマ帝国の領域の変化(コスタンツァ朝時代)
出典 コトバンク

コンスタンツに着いたフリードリヒは、オットー4世の領土であるザクセンに向かってライン川沿いに北上しながらドイツ諸侯を訪れ、支持を固めていきました。もちろんフリードリヒにはお金も軍事力がないため、ドイツ王になったときに、協力してくれた諸侯の領地や課税などの既得権を認めることを保証しました。

これは強力な武力を背景に、税金をかすめ取って来たオットー4世に反発してきた諸侯の心をつかみました。

ルードリヒが訪れる22年前に亡くなったフリードリヒ1世(バルバロッサ)の孫という由緒正しい血筋も大きく影響しました。

また一緒に行動していた大司教のべラルドはドイツ各地の第司教たちを回り教皇の信頼の厚さと、ルードリヒの教養の高さを説いて回り、オットー4世の粗暴さに辟易していた聖職者の支持を取り付けました。これには俗界の諸侯と同様に聖職者の所有していた領地の所有を認める、ルードリヒの方針も有効に働きました。

ここにロートリンゲン(仏語ロレーヌ)で境を接しているフランスからフリップ2世が活動資金として銀貨2万マルクを送ってきました。

これはフランス領内にあるイギリスの領土をめぐってイングランド王ジョンと戦っていましたが、これにオットー4世の父ハインリヒ獅子王が国外追放になったときジョンの父でイギリス王のヘンリー4世のもとに匿われたことから、オットー4世は度々ジョンを助けフリップ2世と戦いました。

粗野で無教養な代わりに、戦だけは強いオットー4世に手を焼いていたフリップ2世が、対立していたルードリヒを助けるために軍資金として贈ったものでした。

しかしルードリヒはこのお金を軍備に使わず、オットー派の諸侯を買収するために使ってしまいました。

これを見かねたドイツ・チュートン騎士団の団長ヘルマンが助っ人としてルードリヒに加わります。騎士団というのは普段は修道士として生活していますが、いざとなるとキリスト教を守るために騎士として活動する団体のことです。一番最初にできたのは、第1回十字軍がエルサレムを占領した後、聖墳墓教会の守備とそこを訪れる巡礼を守るために結成されたテンプル騎士団でした。

チュートン騎士団はドイツ貴族のみが入団を許されて結成され、団長のヘルマンは教皇の信頼も厚くドイツ国内では一目置かれる存在でした。このヘルマンも大司教のヘラルドと同様、その生涯をルードリヒと共にして軍事面で協力を惜しみませんでした。

この一方オットー4世は1214年7月27日、インクランド王ジョンと同盟を結び、フランス国境近くのブーヴィーヌ戦いでフランス王フィリップ2世と戦い大敗して本拠地であるブラウンシュヴァイクへの撤退しました。1218年5月19日オットー4世は赤痢のかかり死亡しました。

イングランド王ジョンは、戦うために高い税金を取ったうえ、フランス国内のイギリス領をすべて失うという結果になり、イギリス国内の諸侯からつるし上げを食い、王権の縮小と諸侯の権利の拡大を明記した「マグナ・カルタ」を認めるせざるを得ない羽目になりました。

 

1215年7月25日、地盤を固めてきたフリードリヒはアーヘンの大聖堂で正式にローマ王として戴冠されました。この時ルードリヒは十字軍を編成してエルサレムに遠征に行くと宣誓しました。アーヘンで戴冠式を行った理由はもう一つあります。40年前ドイツで大人気を誇ったバルバロッサこと、フリードリヒ1世がここでローマ皇帝として戴冠されたことです。

同じ1215年11月2日教皇イノケンティウス3世は、教皇の住居であるラテラノ宮殿で大規模な公会議(各国の聖職者が集まって、教義・典礼・教会法などについて審議決定する最高会議)が開かれ、フリードリヒの皇帝就任を正式に認め、オットー4世の破門を再決議しました。

お礼にフリードリヒは、皇帝となってもシチリア王(フリードリヒの息子ハインリヒが治めている)を兼ねることはないと、改めて明言しました。

翌1216年教皇イノケンティウス3世は、裏切り者のオットー4世がフリードリヒ敗れ、フリードリヒが十字軍遠征を宣誓したことに満足して、亡くなりました。

フリードリヒと十字軍

第5回十字軍

法王イノケンティウス3世の跡を継いだホリノウス3世は、88歳の高齢であった。ホリノウス3世の望みは、ローマカソリックと違う教義をを広めている異端派の撲滅と、第1回十字軍以後、イスラム教徒に取り返されたエルサレムを奪還することでした。そこに丁度フリードリヒが十字軍の派遣を誓ったのです。

法王イノケンティウス3世が亡くなるとフリードリヒは妻のコスタンツァと5歳になった息子のハインリヒをドイツに呼び寄せました。そしてコスタンツァ家代々の領地であるシュワーベンを継がせ、シュワーベン公爵に任じました。

この頃フリードリヒの元へ、教皇から十字軍に参加してエジプト向かうよう要請が来ました(当時のイスラエルを支配していたアイユーブ朝の首都がエジプトのカイロにあった)。しかしフリードリヒは、まだオットー4世が存命中であり、ドイツ統一が成っていないとして断りました。

そのころフランスでは、フランス王ルイ8世がイノケンティウス3世時代から始まった南フランスのカトリックの異端アルビ派討伐のため、アルビジョア十字軍を結成して戦っている最中で参加できませんでした。

イギリスでは欠地王と言われ、マグナ・カルタを認めさせられたジョンが1216年に亡くなり、当時9歳の息子ヘンリー3世が跡を継いで間もないため、十字軍参加を見送ります。

1917年、法王ホノリウス3世は、ハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世と、第1回十字軍によって作られたエルサレムキプロスアンティオキア、の十字軍国家とで第5回十字軍を結成し、1218年5月ナイル川河口の要塞ダミエッタを包囲しました。

この時代のエルサレム王国は、イスラム勢力によってエルサレムを取り返された後、港湾都市アッコンに籠り、どうにか持ちこたえている状態でした。

1100年ごろの十字軍国家

出典ウィキペディア

1118年9月には教皇使節ペラギウスが率いる後発軍が到着しましたが、ペラギウスが「教皇代理」として十字軍の指揮権を要求したため、最初から戦っていた十字軍を構成する諸国の軍隊と対立してしまいます。

1118年末に、『正式にローマ帝国の皇帝になりたければ十字軍を編成してエジプトへ遠征せよ』との、教皇ホノリウスから手紙が届きました。

ここからローマ皇帝フリードリヒの、引き延ばし作戦が始まります。

翌1219年初頭、フリードリヒは教皇宛に、自軍を率いての遠征ならば3月には発てるが、参加の諸侯を説得し、新たな軍を編成して出発するには6月から9月までかかるので、待って欲しいとの返書をしたためました。

 

この頃十字軍と戦っていたエジプトでは1218年8月にアイユーブ朝のスルターン、アル=アーディルが亡くなり、息子のアル=カーミルが跡を継いぎました。

翌1219年2月、スルタンのアル=カーミルは戦闘中のダミエッタとパレスチナ南部の2つの要塞と交換に、旧エルサレム王国領の返却を申し出ました。

これにより、第5回十字軍の目的であるエルサレム奪還は成功したと思い、出兵した王たちは軍を率いて引き上げようとしました。

しかし教皇から派遣されていたペラギウスはエルサレム奪還よりも、異教徒を皆殺しにするために戦うことを主張して、この申し出を断ってしまいます。

ここまでくると、ローマカトリックだけが唯一正しいと考え、一切の反対派を絶滅させようとする当時のローマ法王庁は、狂信者の集まりとしか言いようがありません。

これには十字軍に参加していた各国の王も、呆れて兵をまとめて帰国してしまいました。

残ったのは教皇から直に派遣されたペラギウスと一緒にやって来た兵士達、あくまで教皇に忠誠を誓ったテンプル騎士団を始めとする現地の騎士団、それにエジプトに商圏を伸ばそうとして参加し、船団を送ったジェノバ共和国を中心としたイタリアの商人たちでした。

この為、形勢は一挙に逆転してしまいます。

 

1年以上たった1220年4月、フリードリヒは説得のためと称して、世俗の君主と、聖職者の君主を集め、それぞれの君主が所有する領地の王と認め、大幅な自治権を与えました。そして、それまでドイツ全体を統治していた従来のローマ王をこれら王国の代表者とする改革を行いました。現代の連邦国家の始まりです。これは現在のドイツまで継続されています。

現在のドイツは ドイツの正式名称(ドイツ連邦共和国 Bundesrepublik Deutschland)が示す通り、ベルリン、ハンブルク、ブレーメン、ブレーマーハーフェンの4つの都市州(自治権を持つ自由都市)と、16の連邦州とで構成されています。

もちろんフリードリヒは、ドイツ各地諸侯の権利拡大をただ求めただけではありませんでした。代わりに息子ハインリヒのローマ王の就任を求め了承されました。

これを知った教皇ホリノウス3世から、怒りの手紙が到着しました。先代のイノケンティウス3世との約束を破り、息子のハインリヒをシチリア王とローマ王に就けたのはどういう訳かという詰問の内容です。これに対してフリードリヒは、十字軍を編成して遠征するからには死ぬ可能性があるため、もしもの時を考え跡継ぎを決めておく必要があるため、と返事しました。これにはホリノウス3世も黙るしかなく、息子ハインリヒがローマ王とシチリア王を兼ねることは、教皇によって黙認されました。

更にフリードリヒはドイツ諸侯は十字軍に出兵してエジプトに遠征することに同意しましたが、北イタリアの自由都市と諸侯の同意を得るためには、ローマに行き教皇から直にローマ皇帝として戴冠していただく必要があると、知らせました。

折り返し教皇からフリードリヒ宛に、ローマにおける戴冠式参加を知らせる、招聘状が届きました。

ここまで教皇ホリノウス3世がフリードリヒにうまく操られてしまったのには、大きな訳がありました。それは先に述べた通り、教皇が派遣した第5回十字軍が内部分裂を起こし、アラブ軍によりダミエッタに包囲されてしまったのです。そのため強力な援軍を送る必要がありましたが、当時そのような大軍を派遣できるのはローマ皇帝のフリードリヒしかいませんでした。

これに対して、第5回十字軍が負けると予想していたフリードリヒは、得意の引き延ばし戦術を取ります。

1220年5月教皇からの招聘状が届きローマに行く準備を始め、6月配下のドイツ諸侯に軍隊の派遣を求めました。7月には軍の編成を終え8月にドイツを発ち、9月には北イタリアに入りました。

10月にはボローニャに立ち寄り、1週間ほどボローニャ大学で法律を教えていたロフレド・エビファーニオ(後にフリードリヒの法律顧問となり、新たに設立されたナポリ大学の初代総長になりました)に逢い、彼の講義を聞いたりしていました。

1220年11月20日、フリードリヒが望んでいた通りローマで戴冠式が執り行われました。

戴冠式が終わるとフリードリヒは、さっさとシチリアに向かって旅立ってしまいます。理由はエジプト遠征に当たって、息子ハインリヒと一緒にドイツに向かって出発してから、8年間も留守にしていたシチリアの内政を整える必要があるとが、理由です。教皇ホリノウス3世は又は期待を裏切られたにもかかわらず、待つことにしました。

 

フリードリヒは十字軍に参加することに反対していた訳ではなく、教皇が直に派遣した第5回十字軍に組み入れられるの嫌っていただけです。特に十字軍を指揮しているペラギウスが問題でした。聖書に書かれたことが絶対正しいと信じて疑わないペラギウスは、1220年5月から8月にかけ、カイロに居るスルタンのアル=カーミル対して攻撃をかけ負けています。

8月に大敗した後、再びスルタンからダミエッタの要塞を明け渡す代わりにエルサレムを返還するとの申し出がありましたが、ペラギウスはこれを断り、後はただフリードリヒからの援軍を頼りに閉じ籠っていました。

こんなところに援軍として参加したら、戦闘に対して素人であるペラギウスから戦略や戦術を無視して、ただ神のご加護があるとの理由だけで無理な突撃を命じられ、全滅してしまうのに違いありません。実際翌年の7月には、その通りになってしまいます。

ローマで皇帝に戴冠された後、フリードリヒはシチリア王国再建に取り掛かりましたが、再三に渡る教皇からの援軍要請に抗しきれず、1221年5月バイエルン公ルートヴィヒ1世指揮の元にかなりの兵を送り出しました。7月には帰国していたエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌも軍を再編成して戻ってきました。

8月、神様のご加護を信じ、勝利を確信しているペラギウスは、諸将の忠告を聞かず、十分な食糧、補給品を持たずにカイロに向かって進撃しました。

8月はちょうどナイルが氾濫する時期であり、スルタンのアル=カーミルはペラギウスを後方からの補給が届かない地点まで引き付けておいてから、ナイル川の堤防を決壊させ全部押し流してしまいました。

8月30日、すべてを失ったペラギウスはダミエッタの要塞の返却と、8年間の休戦を条件に解放され、ローマに戻されました。

無血十字軍

教皇ホノリウス3世は第5回十字軍が失敗したのは、指揮官であるペラギウスと援軍を送らなかったフリードリヒの責任であるとして、破門をちらつかせ、フリードリヒに次の十字軍を編成して、エルサレムを奪還するよう求めました。

第5回十字軍が失敗した翌1222年、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌは一人娘のヨランダを連れて南イタリアの港町プリンディジにやって来ていました。同じ1222年6月23日、それまでフリードリヒを陰ながら支えてきた妻のコンスタンツァがマラリアに罹り、亡くなりました。このためローマ教皇庁で、フリードリヒの十字軍参加を確実なものにするため、イスラエル王の娘ヨランダと結婚させようとの話が持ち上がりました。フリードリヒは結婚の条件として、エルサレム王ブリエンヌが、エルサレム王の王位を一人娘のヨランダに移譲することを求め、ブリエンヌもこれを了承しました。

1225年7月25日、フリードリヒ2世と教皇ホノリウスの間の協議で、2年後の聖母昇天祭の日(8月15日)、フリードリヒ2世は十字軍を率いてプリンディジから出発することが決まりました。

1225年11月9日、ヨランダが成人するのを待って、フリードリヒは彼女とプリンディジの主教会で盛大な結婚式をあげました。これによりフリードリヒはローマ皇帝とイスラエル王を兼ねることになりました。

これに先立つ1221年フリードリヒは、シチリア王国の再建開始すると同時に、独自の海軍を作る準備していました。フリードリヒが受け継ぐ以前のシチリア王国は、地中海東方のギリシャやアラブ人と盛んに海上交易をおこなっていて、商船を海賊から守るための海軍を持っていました。

 

イタリア南部と北アフリカ

赤丸の都市は、フリードリヒが率いる十字軍の出発地となったブリンディジ

出典google map

フリードリヒがシチリア王を引き継いだ後、長い間留守にしていたためこの海軍は無くなってしまいました。そのため海上警備は、ジェノバとピサの海軍に頼っていました。この両都市の海軍基地として、フリードリヒはパレルモに対して島の反対側にあるシラクサ(上の地図のカタルーニャの少し下)の港を提供しました。ここにはジェノバとピサの居留地が作られ治外法権が認められていました。ところがジェノバとピサも東方交易が盛んな都市であり、両方の都市にとってシラクサはイタリア北部とアラブ世界を結ぶ交易路の重要な中継点となり、シラクサの港は東方世界との交易で利益を上げ、大いに発展していきます。

この利益は治外法権を認めた以上、ジェノバとピサのものになりフリードリヒの元には一銭も入って来ません。と言っても商船団を守る海軍を持たない以上、港の明け渡しを要求できる訳がなく、急いで海軍を整備する必要があったのです。

そこで、シチリアで一番と言われていたマルタ島生まれの海賊エンリコを採用して、100隻のガレー船の建造と、乗員の訓練を命じました。

16世紀に作られたガレー船の、復元模型

大勢の乗員が櫂(かい)を漕ぐことにより、風の在る無しや風向に関係なく動き回ることが出来、船首(上の模型では左側)に設けられた衝角を敵の船に突き刺して大穴をあけ、沈没させます。

出典ウィキペディア

また、チュートン騎士団の団長ヘルマンをドイツに派遣して、エルサレムに行く志願兵を集めさせました。

その間フリードリヒは、今一つローマ皇帝に従わない北イタリアに行き、各都市を回って十字軍の協力を求め説得していました。

更に、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌやチュートン騎士団のヘルマンから第5回十字軍の様子を聞き、アラブのスルタン、アル=カーミルがダミエッタの要塞と引き換えに、エルサレムを返却する用意があると提案してきたことを知りました。

この情報をもとに、アル=カミールがまだ聖地エルサレムの返還に応じる可能性があるかどうか探ろうとしました。もちろんそばにローマ法王が控えている状態で、直に異教徒であるアル=カミールとエルサレム返還の協議をすることはできないため、怪しまれないように策を弄しました。

ちょうどフリードリヒはシチリアで国立のナポリ大学を設立したばかりであり、生徒たちを教える学者を探していました。当時のヨーロッパの大学では、専門の聖職者を教育するため、主に神学と教会法を主に教えていました。それに反し、ナポリ大学では哲学、幾何学、古代ローマ法、倫理学、修辞学等、今でいえば一般教養学部に近い内容を教えるつもりでした。

しかし、神学中心に発達してきたヨーロッパの学問界では、このような内容を教えることの出来る学者は限られていました。

東ローマ帝国では多神教の下で発達してきたギリシャ文明が排斥されてしまいました。830年、アッバース朝の第7代カリフ・マームーンがバグダードに設立した図書館(後に「知恵の館」と呼ばれます)で、プラトンやアリストテレスの哲学・ヒポクラテスの数学・ガレノスの医学・天文学などのギリシャ時代の写本がアラビア語に翻訳されました。

更に時代が下がり、イスラム社会が広がるとともに、エジプトやインド、絹の道を通って中国などの古代文明も伝わり、パクダットは世界中の文化が集まりイスラム文明として発展してきました。

フリードリヒ2世とアッパース朝のアル=カミールが居た時代は、イスラム文明が最も栄えた時であり、優秀な学者が多勢居ました。

そこで、フリードリヒは設立したばかりのナポリ大学で教授として勤めてくれる優秀な学者を派遣してくれるよう、アル=カミールに依頼する手紙を送りました。もちろんフリードリヒはアル=カミールだけではなく、有力な太守やカリフ(イスラム教指導者)、ヨーロッパとイスラム圏を行き来する大商人たちにも、同様の書簡を送っていました。

もちろんエジプトに居るアル=カミールはフリードリヒが十字軍を率いて、エジプトに進軍を始めることは承知していました。そのうえでフリードリヒから手紙を見たアル=カミールは驚きました。なんと今度のフランク(アラブ人は十字軍のことをこう呼んでいました)は、アラビア語を自由に操れ、アラブ文明の特徴である哲学や天文学、数学に対して深い造形を持っていることが分かりました。興味を持ったアル=カミールは早速返事をかき、二人は哲学や天文学、果ては人生問題や自作の詩を披露するなどして、親睦の度合いを高めていました。

もちろんアル=カミールとしても、これらの文書の裏にエルサレム返還に対して、フリードリヒが交渉を求めていることは承知の上です。

1227年、フリードリヒが十字軍派遣のためプリンディジに軍を終結し始めた、3月18日教皇ホノリウス3世がこの世を去ってしまいました。

次に選ばれた教皇のグレゴリウス9世は、インノケンティウス3世の甥で叔父と同様ローマ教皇が絶対的な権力を持っていると、信じている人でした。

1227年8月17日、十字軍の出発地プリンディジには十字軍の軍勢の他、大勢の見物人、さらに十字軍と一緒にエルサレムに行こうとする聖地巡礼団の一行も来ていました。真夏の最中これらの人々小さな港町にが集まっていたため、チフスが発生してしまいました。そのため出港を延期して、9月8日健康なものだけを選んで改めて出港しましたが、船内でチフスが伝染したため、やむを得ずイタリアに戻りました。

1227年9月19日、教皇グレゴリウス9世は、散々引き延ばした挙句出発したと思ったらエルサレムの土も踏まず、すぐ引き返したフリードリヒの破門を決め、11月18日、これを記した教皇の教書が公表されました。

翌1228年3月23日、これでは足りないと思ったのかグレゴリウス9世は新たに次の3項を付け加えました。

  1. 破門された者が滞在する地、またはこの者が立ち寄る地のすべてを、「聖務禁止(宗教的行事、ミサを始め、洗礼や結婚式、葬式などの禁止)」に処す。
  2. 破門された者が領するすべて地に住む領民は、このものに誓った悪中の義務から解放される。ゆえに是を払う必要もなく、兵の募集に応ずる必要もない。
  3. 破門された者が率いていく以上、その軍は十字軍ではない。ゆえに、この軍勢の進む道筋に当たる地方の民は、軍勢の行進を妨害し、軍が運ぶ物資の略奪も許される。

この部分の引用 塩野七生著 「皇帝フリードリッヒ二世の生涯 (上)」

 

1228年6月28日、このような状況にも関わらずフリードリヒは十字軍(教皇グレゴリウス9世に言わせると、ただの軍勢)船団は、100人の騎士と3000人の歩兵を乗せてブリンディシの港から出航しました。フリードリヒの乗る大型のガレー船には、パレルモの大司教べラルドの他、シチリア王国のカプアとバーリの大司教も乗船していました。

出発に先立ち前年のうちに、チュートン騎士団の団長ヘルマンに800人の騎士を託して、エルサレム王国の都アッコンからエルサレムの町まで、かって十字軍が作った要塞の補強と改修を命じておきました。この工事には現地に駐留しているテンプル騎士団とホスピタル騎士団(巡礼者のために2000人を収容できる宿泊所と病院を経営しています)も手伝いました。

またパレルモの大司教べラルドも前年のうちにカイロに居るアル=カーミルを訪れエルサレム返還のための条件や、段取りを話し合っていました。

こうしてみると教皇グレゴリウスの破門も、北イタリアの親教皇派の都市を除いて効果がなかったみたいです。

それにしても第6回十字軍の軍勢は、先遣に出したヘルマンのチュートン騎士団も入れて、騎士千名、歩兵3千~4千名となり、祖父のバルバロッサが加わった第3回十字軍の騎士3千名、歩兵8万名に比べるとかなり小規模です。最も初めからアル=カーミルと戦うつもりのないフリードリヒにとっては、これで十分だったのでしょう。

 

十字軍の要塞分布図

出典 中東・イスラム世界への招待

1228年9月3日アッコンに着いたフリードリヒは教皇に無事到着したことを知らせるため、バーリの大司教をイタリアに向かわせましたが、それと入れ替わりに教皇グレゴリウス9世からの使者がやって来て、中近東に駐在するキリスト教徒の元締めであるエルサレムの大主教に破門されたフリードリヒに対して一切の協力を禁じる勅令を手渡しました。

そこでフリードリヒは十字軍総司令官の地位を降り、新たにチュートン騎士団のヘルマンを総司令官に任命しました。

困ったのはフリードリヒと一緒に要塞の改築を行っていたテンプル騎士団とホスピタル騎士団ですが、こちらは現地に駐在するキリスト教徒と、やってきた巡礼者を守るためという口実で、協力を続けることにしました。

これと同時にスルタンのアル=カーミル宛に使者送り、アッコンに到着したことを知らせました。

知らせを受けたアル=カーミルは、連絡係として太守のファラディンを寄こし、自身も離宮のあるガザに移ってきました。

フリードリヒもガザに近いヤッファ(現在のテルアビブ)に移り、ここでエルサレム返還の交渉が始まります。これは交渉の内容が分からないように、太守のファラディンとチェスをしながら何か問題が起こると、ファラディンは家に帰るふりをしていったん帰り、アル=カーミルから新たな指示を受けて戻ってくるという、かたちで行われました。ですからアイキャチ画像のようにフリードリヒとアル=カーミルが直接会うことはありませんでした。

チェスをしながら交渉するフリードリッヒと太守のファラディン

出典 キリスト教で読む西洋史

この間にチュートン騎士団のヘルマンは、ホスピタル騎士団とテンプル騎士団と協力して、旧十字軍国家が築いた砦の再建と要塞の補修を行い、アナトリア半島から地中海にそって陸路でエルサレムまで到達できるようにしました。

また、フリードリヒと教皇の関係が微妙なのと同じように、エルサレム返還に対してアル=カーミルとイスラム教信者及びカリフ(イスラム教指導者)の間の問題もありました。エルサレムにはイスラム教にとって重要な聖地である「岩のドーム」と、「アル=アクサー・モスク」があり、この地をキリスト教徒に渡すと、当然イスラム教徒からの反発が予想されスルタンの地位が危なくなる恐れがあります。

1229年2月11日長い交渉の末二人は合意に達し、まずヤッファにおいてフリードリヒが合意書に署名し、その後ガザに持ち込まれアル=カーミルが署名して、ヤッファ条約が締結されました。

主な内容は

  1. イスラム 側 は、 イェルサレム を、 キリスト 教 側 に 譲り渡す。 ただし、 イェルサレム 市内 の 東側 の 三 分の 一 にあたる 地域 は、 イスラム 教徒 の もの として 残し、 非 武装 の イスラム 教徒 が 管理 する「 イスラム 地区」 と する。
  2. イェルサレム は、「 イスラム 地区」 を 除い た 全市 は キリスト教 側 に 譲渡 さ れる が、 その イェルサレム の 周辺 一帯 は、 イスラム 側 の 領土 として 残る。
  3. ベイルート から ヤッファ に 至る 地中海 沿い に 連なる、 海港 都市 と その 周辺 地域 の キリスト教 側 の 領有 権 を、 イスラム 側 は 認める。
  4. キリスト 教 側 の 領土 で あろ う と イスラム 側 の 領土 で あろ う と 関係 なく、 巡礼 と 通商 を 目的 と する 人々 の 往来 は、 双方 ともが 自由 と 安全 を 保証 する。
  5. 双方 ともが、〝 保管〟 し て いる 捕虜 たち の 全員 を 交換 し 合う。
  6. この 講和 の 有効 期間 は、 署名捺印 後 から 始まる、 一二 三 九 年 二月 までの 十 年間 と する。   ただし、 その後 も 双方 が 同意 すれ ば、 なおも 十年、 また なおも 十年、 と 更新 さ れる 可能性 は 残さ れる。

となっています。

現在のエルサレム旧市街
1km四方の城壁に囲まれるエルサレム旧市街に3宗教の信徒32億人にとっての聖なる場所が集中する。

右側の四角く囲まれた部分が、神殿の丘と呼ばれるイスラム教地区。

出典 松岡 正剛の千夜千冊

 

1229年3月18日、キリスト教徒の元に戻ったエルサレムの聖墳墓教会では、エルサレム王の戴冠式が行われた。戴冠式の前に行われたミサでは、破門の身であるフリードリヒは出席できず、ミサが終わり大主教、大司教、司祭たちが引き上げた後で、一人で祭壇に上がり、そこに置かれていたエルサレム王の王冠を自ら頭上に乗せ、エルサレム王であることを宣言しました。教会関係者が出て行った後までに残っていた巡礼者や一般の参列者たちから、大きな歓声が上がりました。彼らにしては破門されたかは関係なく、安全に聖地を訪れることが出来るようになったことの方が大切でした。

エルサレム王となったフリードリヒは、その後も現地に残り修復の終わった要塞を、お互い連係して機能できるよう道路など交通網の整備を行っていました。

そこにローマ教皇が前エルサレム王のブリエンヌを先頭にして、フリードリヒの領地である南イタリアに侵攻してきたとの知らせが届きました。

教皇によると侵攻の理由は、破門されているにもかかわらず十字軍と名付けた軍を率い、戦うことなく異教徒と講和を結び聖地エルサレムを譲り受けたためである、としました。

これにはフリードリヒとアル=カミールが功を結んだ直後、エルサレムの大主教ジェラルドがローマ教皇宛に出した手紙が、もとになっていると考えられます。

手紙には、こう書かれていました。

“この皇帝は、キリスト教徒の皇帝に全く値しません。無能とするしかない男で、サラセン人の前ではひざましくことしか知らず、口から出するは彼等への感謝の言葉ばかり、おかげで、これら不信仰のやからからさえも軽蔑されている始末です。”

引用 塩野七生著 フリードリッヒ二世の生涯(上) 新潮文庫

この手紙で教皇グレゴリウスは9世は、フリードリヒがアラブの王(スルタン)アル=カミールにお願いして、聖地エルサレムを譲ってもらったと、とったようです。ローマ皇帝が異教徒の王にへり下るという恥知らずな行いをするくらいなら、正々堂々と戦って、力ずくで奪い取ってこそ、十字軍の指揮官たるものの正しい行いだと思ったのに違いありません。

教皇旗を前面に立ててやってきた軍隊に対して、人々は逆らうことが出来ず、次々と町を明け渡してしまいます。

南イタリアに帰ったフリードリヒは領内に住むイスラム人を集め、アラブ人だけの部隊を編成して反撃を開始しました。

まさか、ローマ教皇の軍に対して攻撃する軍がある筈がないと、安心しきっていた兵士は、獰猛で知られるイスラム教徒の軍勢がやって来ると分かったとたん、逃げてしまいました。フリードリヒは、一滴の血も流すことなく、4ヶ月後には奪われた領地を取り戻すことに成功しました。

1230年9月1日、教皇グレゴリウス9世はローマ近郊のアナーニにある生家での昼食にフリードリヒを招き、フリードリヒもそれに応じたことで和解が成立し、同時に破門も解かれました。

フリードリヒはその後もアル=カミールとその後を継いだ息子、さらにその弟と文通を続け、18年後の1248年フランス王ルイ9世が十字軍を率いてエジプトを攻撃するまで、エルサレムの平和は保たれました。

 

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