なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

ベトナム戦争 その9 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入 後編(地上戦)アメリカ海兵隊のダナン上陸 

time 2025/02/16

ベトナム戦争 その9 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入 後編(地上戦)アメリカ海兵隊のダナン上陸 

1965年3月8日、3.500人のアメリカ海兵隊がダナン近郊のレッドビーチに上陸しました(アイキャッチ画像の写真)。この部隊はダナン空軍基地の警備を担っていましたが、共産ゲリラ側からの砲撃に対処するため、4月1日南ベトナムにおける米海兵隊の任務の変更を承認し、ダナン基地周辺の共産ゲリラの掃討作戦を開始しました。これがアメリカ軍による地上戦の始まりとなりました。

sponsored link

亀仙人2

アメリカ軍による地上戦の開始

ダナン航空基地へのアメリカ海兵隊の派遣

ダナン空軍基地の場所

出典  Wikipedia

ダナン空軍基地はベトナムのダナン市にあるベトナム共和国空軍の基地でした。ベトナム戦争(1959年から1975年)の間、ここはアメリカ陸軍、アメリカ空軍(USAF)、アメリカ海兵隊(USMC)の部隊が駐留する主要基地トなりました。1965年3月までは3000メートルの滑走路が1本でしたが、ローリンクサンダー作戦が始まると発着する飛行機が増えたため、1966年7月に2本目の3000メートルの滑走路が完成しました。南北のベトナムを分割する軍事境界線(DMZ)からわずか100キロの位置にあるため、ベトナム戦争中は最も発着の多い基地となりました。

1965年、ダナン空軍基地の第416戦闘飛行隊のF-100D

出典 Wikipedia

ローリングサンダー作戦の開始後6日目に当たる1965年3月8日、基地防衛のためアメリカ海兵隊2個大隊、陸軍空輸部隊、ホーク地対空ミサイル部隊など3500名のアメリカ地上戦闘部隊がダナン近郊の海岸に上陸しました。

ダナン航空基地から西に4㎞離れた327高地に設置された、ホーク地対空ミサイル。

出典 Wikipedia

さらに4月1日からは砲撃から基地を守るため基地から50マイル(80キロ)までの範囲で、解放民族戦線(ベトコン)北ベトナム軍との交戦が許可されました。

ジョンソン大統領はダナンへの海兵隊の派遣をきっかけとして、米軍の大量介入を決め、1965年7月に8万5千名,9月に13万名、11月には19万名と急増しました。

またジョンソン大統領の呼びかけに応じて、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、などの各国から戦闘部隊、紫雲部隊が到着し1965年4月2日、国際軍事司令機構(IMCO)が設置されました。

アメリカ軍が直接戦闘に参加するに当たって、ベトナム軍事援助司令部(MACV)の司令官ウェストモーランドは3段階の戦略目標を立てました。

第一段階。1965 年末までに南ベトナム軍の敗北傾向を食い止めるために必要な米国と同盟国の軍事力の投入。

第2段階。北ベトナム軍と解放戦線ゲリラを破壊させ、戦いの主導権を握るために攻撃を行います。この攻撃は1966年から1967年にかけて行い、人口密集地から敵を追い払うまで続けます。

第3段階。敵が攻撃を続ける場合、遠隔地の基地地域に残っている敵軍を最終的に壊滅させます。この後は南ベトナム政府を立て直す政治的作業を行います。これには1968年いっぱいかかるとみています。

北爆開始後の共産側からの攻撃

1965年3月30日、サイゴンの米国大使館前で共産ゲリラが車爆弾を爆発させ、アメリカ人2人と米海軍に所属していたベトナム人19人とフリッピン人1が死亡し、そのほか近くに居た183人が負傷する爆弾テロ事件が発生しました。

米国大使館前で爆発した車の残骸

出典 Wikimedia

1965年3月8日の米海兵隊のダナン上陸を受け、ハノイ政府はアメリカ軍との本格的な地上戦が始まる前に、できるだけ南ベトナム軍をたたく方針を固め5月から本格的な攻撃を開始しました。

4月からソ連や中国からゲリラ戦に適したAK-47やRPG-7が大量に送られてきて、ジャングルでのゲリラ戦における戦闘力が強化されました。

 

AK -47

出典 Wikipedia

 

ベトナム戦争では、ソビエト連邦や中国、北朝鮮などの東側諸国から、北ベトナム軍(NVA)や南ベトナム解放民族戦線(NLF, ベトコン)に向けて、大量のAKが送り込まれた。戦場は熱帯雨林や沼地など過酷な環境でしたが、構造が簡単なためAKは水や砂に沈んだ後も確実に動作しました。

弾頭装填状態のRPG-7

出典 ウィキペデア

本来は 対戦車ロケット用擲弾発射器ですが、ベトナム戦争では戦車の他、装甲兵員輸送車、ヘリコプター、敵陣地への攻撃にも用いられました。弾頭を装備した状態でも10㎏と軽いため、一人で運べるのが特徴です。

ソンベの戦い(1965年5月10日~11日)

省都ソンベのあるフォクロン省は、南ベトナムとカンボジアを結ぶ重要な地域でした。4月16日アメリカ特殊部隊(通称グリーンベレー)の SF B34分遣隊がベトナム共和国軍を支援するためにソンベに派遣され、近くの丘に要塞(ソンベ・ベース・キャンプ)を築きました。

ソンベの位置

5月10日午前1時15分、解放戦線(ベトコン)の2大隊約2500人が迫撃砲の集中攻撃を行い、その後市街地に突入しました。アメリカ軍の要塞(ソンベ・ベース・キャンプ)はまだ建設途中であったが、南ベトナム軍とアメリカ軍によって攻撃は阻止されました。代わりに市街地を攻撃した部隊は3時間で後に、地元ラジオ局を始めガス貯蔵所、砲兵場、装甲分隊を破壊し、軍事訓練センター、特殊部隊駐屯地、米軍警備隊の駐屯地に重大な損害を与え、ベトナム共和国防衛軍は敗北しました。

5月11日の正午と午後にかけて、南ベトナム共和軍は反撃を開始して地元軍と連携するため部隊を派遣し続けた。民族解放軍(ベトコン)は激しく抵抗しましたが、弾薬がなくなり死傷者が増加したため、5月11日の夜、町から撤退しました。この戦闘中解放戦線(ベトコン)は13機の航空機を撃墜し、1台の装甲車両を焼き払い、救援に来たベトナム共和国軍第36レンジャー大隊の2個中隊を撃破しました。

翌12日、南ベトナム政府軍4大対が町を奪還ために派遣されましたが、そのときは解放戦線軍(ベトコン)が退却した後でした。

この戦いで解放戦線(ベトコン)は死者85名、南ベトナム軍の死者は49名、アメリカ軍の死者5名の犠牲者を出しました。

 

バジャの戦い(1965年5月28日~31日)

バジャはベトナム中部のクアンガイ省の省都クアンガイ市の北10㎞にある小さな村です。バジャの基地を守っているのは、南ベトナム51歩兵連帯です。この村のとなりロックトー村には南ベトナム地方軍の陣地があります。

クアンガイ省の南ベトナム軍の主力部隊には第51歩兵連隊、第3海兵大隊、第37および第39レンジャー大隊、そして105mm砲を装備した2個砲兵大隊が配置されていました。南ベトナム側の兵力は、約2500名となります。

バジャの位置

1965年5月、解放戦線(ベトコン)の第1連隊(第40,第60,第90の3個大隊で構成)が、隣のクアンナム省からクアンガイ省北部に移動してきました。それに第45独立大隊と、解放戦線のクアンガイ省地方部隊,第48地方大隊と第83地方大隊が加わり、解放戦線(ベトコン)の兵力は約2000名です。

1965年5月28日の夜、解放戦線(ベトコン)はバジャを中心とした4つの村に部隊を配置しました。

5月29日午前5時45分、解放戦線(ベトコン)軍第1連隊がロックトー村の南ベトナム地方軍の陣地に奇襲攻撃をかけました。10分もしないうちに南ベトナム地方軍2個小隊は制圧されてしまいました。

5月29日午前6時、バジャ村にいた南ベトナム第51歩兵連隊が救助に向かいました。午前9時50分、待ち伏せのために陣地を構えて待っていた解放戦線第90連隊により部隊は包囲されてしまいました。不意を突かれた南ベトナム軍第1大隊は混乱に陥り、効果的な反撃を仕掛けることができませんでした。1時間もしないうち南ベトナム軍は壊滅し、280名の兵士が死亡または負傷、217名が捕虜となり、政府軍の陣地に戻ることができたのは、南ベトナム軍兵士65名とアメリカ人顧問3名のみでした。

こうして解放戦線(ベトコン)はバジャとその周辺地域の支配権を得ることが出来ました。

5月29日午後、南ベトナム軍第1軍団戦術区司令官のグエン・チャン・ティ南ベトナム軍少将はバジャの奪還に向かって、2つの部隊を編成しました。

グエン・チャン・ティ

彼は後に南へトナムの大統領になるグエン・ヴァン・チューと、副大統領になるグエン・カオ・キに次ぐ、3番目の実力者とみられていました。

出典 ウィキペディア

第3海兵大隊と第2大隊は国道五号線に沿って、バジャ山の陣地に攻撃を開始します。

第39レンジャー部隊は山岳部を通って、バジャの南側面から攻めることにしました。

5月30日の朝、南ベトナムの砲兵隊と、アメリカ空軍の戦闘爆撃機がバジャ周辺に作られた解放戦線の陣地に対して、猛爆撃をかけました。

南ベトナムにおけるいろいろな戦闘記録を見て気づいたのですが、アメリカ軍のマニュアルに書いてあるのか知れませんけど、ある地点に攻撃をかける場合、砲撃や飛行機による爆撃を行い爆撃が終了すると同時に攻撃を開始する癖があります。守る方としては爆撃が始まると敵が攻めてくるのが分かり、さらり爆撃地点を囲むように部隊を配置すれば、攻めてきた敵軍を包囲することが出来ます。

5月30日正午、航空支援の元2つの部隊はそれぞれ目標に向かって攻撃を開始しました。

正面からバジャに向かっていた南ベトナム第3海兵大隊と第2大隊は、解放戦線(ベトコン)の第60連隊に包囲されていましたが、第60連隊は気づかれないようにして、バジャの手前にあるマト山までの進軍を許しました。14時5分解放戦線(ベトコン)第60大隊は、後方の南ベトナム軍第2大隊に対して攻撃を開始しました。南ベトナム軍は前後から攻撃を受けることになり苦しい戦いを続けましたが、夕方になり到着した4台のM113装甲兵員輸送車による火力支援を受け、フックロック村まで撤退しました。5月31日の早朝、解放戦線(ベトコン)の第60大隊と交代した第40大隊はフオックロック村の南ベトナム軍陣地への攻撃を再開しました。南ベトナム軍第2大隊と第3海兵大隊が頑強に抵抗しましたが、数時間にわたる激戦の後、ベトコンはフオックロック村を奪還し、そこで94人の南ベトナム兵の遺体を発見しました。

もう一つの部隊、南ベトナム軍第39レンジャー大隊はチョップノン山を確保するためフックロック北部に接近し、そこからベトコンの南側面を攻撃しました。5月30日の夜、チョップノン山では、ベトコン第45大隊が南ベトナム軍第39レンジャー大隊の防衛線から100メートル以内まで気付かれずに配置されました。5月30日夜明けと共に、ベトコン第45大隊はチョップノン山で南ベトナム軍第39レンジャー大隊に対して重迫撃砲で南ベトナム軍を砲撃し、続いて歩兵による攻撃を行った。5月31日午前4時までにベトコン第45大隊は最終目標であったチョップノン山を奪還し、第39レンジャー大隊は108名の兵士が死亡する壊滅的な打撃を受けてしまいました。

この戦いで解放戦線(ベトコン)は、915人の南ベトナム兵士を殺害または負傷させ、270人を捕虜にしました。さらにヘリコプター18機とトラック14台を破壊し、370個の様々な種類の武器を捕獲しました。

南ベトナム軍では556人の解放戦線(ベトコン)兵士を殺し、20個の武器を回収したと発表しました。しかし、これはおかしいですよね。死んだ解放戦線の兵士の内536人は素手で南ベトナム軍と戦ったことになります。どうやら戦いに巻き込まれて死んだ村人達を、解放戦線の兵士として、数に加えているみたいです。

これと似たようなことが、大虐殺で有名なソンミ村でも起こりました。ソンミ村でのアメリカ軍の最初の発表では128名の解放戦線(ベトコン)兵士を殺害し、3個の武器を鹵獲したとしています。

ソンミ村大虐殺の詳しい解説は、こちらをご覧ください↓

映画 「アメリカン・ソルジャーズ 真実の戦場」 1968年ベトナム戦争の最中 ソンミ村で起きた住民大虐殺の映画です。

ドンソアイの戦い(1965年6月9日~13日)

1965年、ドンソアイは暫定道路13号線、国道1号線、国道14号線を結ぶ交差点に位置する郡の町であった。

この町には1個装甲中隊(装甲車両6台)と2門の105mm榴弾砲を装備した200人の地元ベトナム兵によって守られたドン ソアイ特殊部隊キャンプがあります。キャンプには民間非正規防衛グループの3個中隊の400人の兵士と、彼らを指導するためのアメリカ陸軍特殊部隊の隊員11人、シービーチーム1104の隊員9人も滞在していました。

アメリカ特殊部隊はドンソアイの防衛を掌握し、警備とパトロール活動を強化し、地区本部、特殊部隊キャンプ、地区東側の装甲部隊と砲兵陣地の周囲に新たな防御要塞の建設をしていました。

ドン・ソアイの位置

ドン・ソアイはベトナム南東部のビンフオック省の省都です。

出典 Wikipedia

1965年6月10日夜明け、解放戦線(ベトコン)第9師団の一部である前線の第762連隊と第763連隊の部隊が絶え間ない迫撃砲の集中砲火と低威力の砲撃で攻撃を開始し、掩蔽壕と機関銃陣地に発砲した。目標地域の外側の防衛リングは破壊され、解放軍は主要なバンカーシステムを占領した。

早朝の攻撃に驚き、兵舎内の兵士たちは反応する時間がほとんどありませんでした。

午前8時頃、解放戦線軍が兵舎への砲撃を続ける中、アメリカ空軍第118中隊のヒューイUH-1ヘリコプターが南ベトナム軍第1大隊第7歩兵連隊の最初の派遣隊を乗せて、ドン・ソアイの北4㎞の地点にあるトゥアンロイゴム農園付近に着陸しました。南ベトナム軍司令部は、トゥアンロイ付近の着陸地帯が部隊の上陸に理想的であると考えていた。なぜならそこはドン・ソアンから十分遠く、解放戦線軍がすぐには発見して交戦しないと思っていました。しかし、解放戦線側は南ベトナム軍がここに増援部隊を送り込むことを予想して、待ち伏せ攻撃の準備を整えていました。

解放戦線の対空砲火により救援部隊を乗せたヘリコプターの着陸は妨げられ、地上に降りたベトナム共和国軍第1大隊は15分もしないうちに多大な死傷者を出して壊滅してしまいました。

午前11時55分頃、南ベトナム軍第1大隊の最後の兵士たちがトゥアンロイの当初の着陸地点付近で下船したが、彼らも着陸から3分以内に戦闘不能となってしまいました。

その後アメリカ軍とベトナム共和国軍は前線の陣地をナパーム弾で空爆したが、解放戦線軍はゴム農園内の陣地を守り通しました。

午後、解放戦線軍は57mm無反動砲を使用して地区本部ビルの一部を破壊した。

ドン・ソアイの上空からの眺め

ドン・ソアイのヘリコプター墜落現場の航空写真です。

出典 Wikipedia

6月11日早朝、第118航空中隊は南ベトナム軍第7空挺大隊を乗せて、ドン・ソアイの東側にあるサッカー場に着陸し、第7空挺大隊を下ろした後、前日大被害を受けたトゥアンロイまで移動しました。このサッカー場はドン・ソアイの近くにあったため、解放戦線の防備も薄くたいした抵抗も受けませんでした。しかし、この動きは地区中心部で無線通信を傍受していた、解放戦線軍に漏れてしまいました。

それとは知らず第7空挺大隊はトゥアンロイに到着し、7人の生存者と55体の遺体を収容した。午後、第7空挺大隊の一部がトゥアンロイゴム農園を通過して南ベトナム軍第1大隊第2グループの残党を捜索していたとき、解放戦線軍第271連隊は以前の待ち伏せ攻撃と同じ方法で空挺部隊への攻撃を開始した。この日は悪天候のため、アメリカ軍の航空支援はありませんでした。悪天候を利用して解放戦線軍は、南ベトナム軍の編隊を小集団に分割し、その多くを壊滅させた。翌日、南ベトナム軍第7空挺大隊の戦力は470人からわずか159人にまで減少していました。

ドン・ソアイ地区内の状況は悪化し続け、食料、水、医薬品、弾薬が不足していた。収容所内で一晩の恐怖が続いた後、米国の顧問らは撤退を決定した。

7月12日早朝、解放戦線軍は撤退して森の中に消え、ベトナム共和国軍は敗北しました。

ウェストモーランド米軍将軍は、ベトコンにフックロン省を支配できる立場を残すことを望まなかった。そこで、6月13日、彼は第173空挺旅団の米軍戦闘部隊を投入することを決定しましたが、その時には解放戦線軍は、ドン・ソアイから撤退を完了していました。

解放戦線側の被害は、134人が死亡、290人の負傷者が出ました。

南ベトナム軍は死亡416人、負傷者174人、そのほか233人の行方不明者を出しました。

アメリカ軍は死傷者29人、行方不明者13人を出しています。

1965年6月12日新政権樹立

1965年6月12日、1964年10月26日から文民国家元首を務めていたファン・カック・スーと、1965年2月16日から首相を務めていたファン・フイ・クアットが、将軍達の権力争いの中での政権運用の困難から自ら辞任を申し出ました。

6月14日、将軍評議会が会合し、グエン・バン・チューを国家指導委員会委員長に選出し、国家元首に就任しました。グエン・カオ・キは中央執行委員会委員長任命されました。実力者3位のグエン・チャン・ティは首相に任命されましたが、彼が辞退したためグエン・カオ・キが首相を兼ねることになりました。

グエン・バン・チュー

出典 ウィキペディア

 

グエン・カオ・キ

出典 ウィキペディア

グエン・バン・チューとグエン・カオ・キの軍事政権は「一息つく暇もない週」を設けることで政権の発足に決めた。軍事政権は検閲を実施し、容認できないとされる記事を掲載した多くの新聞を閉鎖し、市民の自由を停止した。そして文民政治家を「老木の村」に追いやり、「政府の政策を支持するセミナーを開催し、計画やプログラムを作成」させた。[彼らは「問題を起こす者は射殺する」という条件で、宗教団体やその他の反対派グループを無視することを決定した。

引用 Wikipedia

6月25日、サイゴン市内の水上レストランと近くのたばこ屋で、解放戦線のゲリラによる爆弾テロがあり、45人(内アメリカ人14人)が死亡しました。

サーチアンドデストロイ作戦

6月28日~7月1日、この戦争でアメリカ軍主導の元、初めてとなる大規模な索敵・破壊作戦が行われました

作戦地域Dの場所ネ赤い線の内側

上で接している赤いギザギザの印は1965年6月9日~13日にかけた行われたドン・ソアイの戦いの場所。

下の赤い丸はサイゴン市

出典 WIkipedia

サーチアンドデストロイ作戦の行われた場所の作戦地域Dは、サイゴンの北東約40マイル (64 km) にある熱帯湿潤低地の森林地帯で現在のカッティエン国立公園の一部になっています。深い密林のため人は住んでいません。この地に隣接しているドン・ソアイの戦いに勝利した解放戦線は、多くのゲリラを送り込み、基地を建設していました。

作戦は6月28日~7月1日までの4日間行われましたが、解放戦線のゲリラは見つかりませんでした。同行したオーストラリア兵(彼らはマレー半島でゲリラと戦った経験があります)たちは、彼ら(アメリカ兵)みたいにあらかじめ進入路を砲撃したり、怪しい場所を銃撃したりしては、ゲリラは皆逃げて見つかりっこないといってます。我々(オーストラリア兵)がパトロールするときは敵に見つからないように密かに潜入して、敵を確認してから攻撃すべきだと忠告しています。

1965年11月5日~8日にかけて、同じ作戦地域Dでアメリカ軍とオーストラリア軍共同のサーチアンドデストロイ作戦(ハンプ作戦)がおこなわれました。

このときは共産ゲリラ側の死者約400~700名、アメリカ軍の死者49名、オーストラリア軍の死者2名となり、大勝利を収めました。

サーチ・アンド・デストロイ(索敵・破壊)作戦とボディカウント

サーチ・アンド・デストロイ(索敵・破壊)作戦

下の図は1964年から 1967 年の南ベトナム利共産ゲリラの勢力錦衣を示しています。これを見ると南部のメコンデルタ、海岸沿いの平地、大都市や基地の周辺を除いた大部分が共産ゲリラの支配下にあることが分かります。その大部分がうっそうとした熱帯雨林の森林地帯でした。このような中では戦車や装甲車は入ることが出来ず、大砲の砲弾も大木に遮られて効果も半減させられてしまいます。航空機からの攻撃も木々の葉に邪魔されて、敵を見つけるのも困難です。

このような状態では、兵士一人一人が小銃や機関銃、手榴弾、迫撃砲などを使って直接敵と戦うしかありません。

サーチアンドデストロイ作戦は、少人数のパトロール隊を出して、共産ゲリラ間潜んでいる場所を探し、その位置を司令部に知らせます。司令部から知らせのあった場所を砲撃したり、航空機からの爆撃で敵の勢力を削ぎ、その後ヘリコプターなどで部隊を派遣して、残った敵兵を殲滅させます。こう書けば簡単なのですが、最初の砲撃があった地点で、共産ゲリラはその場から離れてしまいますし、ヘリコプターで陸戦隊を送っても森林地帯では着陸する場所がありません。そのため近くの農地や村などで着陸しても、敵は逃げているか、反撃の体制を作っていて待ち伏せしているかで、かえって被害が大きくなってしまいます。

地上戦の拡大により南ベトナムに駐留する米軍兵士は、1964年末の23,310人から1965年末までに184,314に増加しました。

米軍の死者も前年の216人から、1,928人に増えています。

1964年から 1967 年の南ベトナムのおおよその状況。

水色の部分が南ベトナムの領土。

オレンジ色の部分が共産ゲリラが占領している地域。

オレンジ色の線で囲まれた部分が共産ゲリラの勢力範囲。

出典 Wikimedia Commons

キル・レシオ

ベトナム戦争は共産主義者の支配下にある領地を南ベトナムに取り返す戦いでしたが、せっかく取り返しても、1~2週間もすると共産ゲリラが戻ってきて元の状態に戻ってしまいます。多くの犠牲者を出して戦っても、その成果がはっきりしない状態が続いていました。そこでアメリカ国防長官のロバート・マクナマラは新たな指標を採用しました。それがキル・レシオです。アメリカ兵戦死者1名に対して、共産側の兵士10名の割合(アメリカ兵の死者5万人に対して、共産側の死者50万人)をキープできれば、共産側は兵士が枯渇して和平に応じるだろうと考えました。

そのためアメリカ軍は領土の奪還より、どれだけ敵兵を殺したかに重点が置かれ、ボディカウント(敵兵の死者数)を増やす事が奨励されました。しかし、しばらくすると弊害が現れてきました。敵の死者数を増やすために戦いに巻き込まれた農民たちを解放戦線の兵士として数えていました。後にボディカウントを増やすために、解放戦線を支持しているとみられる村の女子どもを含む全員を殺し、これも解放戦線の兵士として数えるようになってしまいました。

 

1965年5月10日から7月22日にかけて、解放戦線軍は、4つの主力大隊、24の警備・特殊部隊中隊、6つの機械化分隊、4つの技術分遣隊を破壊し、約4500人の敵兵士を戦闘から排除し、34機の航空機を撃墜し、60台の軍用車両、6台の機関車、12台の鉄道車両を破壊したと発表した。あらゆる種類の銃2000丁以上を収集・破壊し、ビンロン省とフックロン省の5万人以上を解放した。

引用 Wikipedia

 

スターライト作戦(8月18日~24日)

スターライト作戦は、ベトナム戦争で南ベトナム軍の助けを借りず、アメリカ軍のみで解放戦線(ベトコン)と戦った戦闘です。

1965年5月28日~6月1日にかけて行われたバジャの戦いに勝利した解放戦線第1連隊が移動し、アメリカ軍はその移動先を探していました。

8月15日、第1連隊から脱走した兵士が南ベトナム軍に投降しました。兵士の証言から第1連隊はチュライから12マイル(19㎞)南にある ヴァン トゥオン村に基地を構え、総勢1500名ほどでチュライ空軍基地を攻撃する準備をしていることが分かりました。

 

チュライ空軍基地

今回の攻撃の目標となったチュライ空軍基地について説明します。

チュライ空軍基地は1965年5月7日、第3海兵遠征旅団(3MEB )がジェット機が発着可能な飛行場と基地区域を確立するためチューライに上陸した事から始まります。

チュライ空軍基地1965年

左にこの基地で運用されたA-4スカイホーク攻撃機が見える。

出典 Wikimedia 

1965年6月1日、「戦術支援用短距離飛行場 (SATS)」として、合金板を連結したアルミニウム表面の 1200 メートル (3900フィート) の滑走路が完成して、戦闘任務が遂行された。

滑走路用の鉄で出来たマットを敷いているところ。このマットはジッパーと呼ばれるアルミ製の金具で結ばれています。

出典 Seabee 71.com

この時期のチュライ基地は柔らかな砂の上に金属板を敷いた構造のために、重い飛行機の離着陸は出来ず、12海兵航空集団(MAG-12)のA-4スカイホーク攻撃機が配備されました。

A-4スカイホーク攻撃機

朝鮮戦争中の冷戦時代、アメリカ海軍は空母でも運用でき、核爆弾を運べるジェット攻撃機を求めていました。当時の核爆弾はまだ小型化されず、下の写真のように大変大きな者でした。

米空軍博物館のマーク7核爆弾。

  • 長さ: 15.2 フィート (4.6 m)
  • 直径: 2.5 フィート (0.76 m)
  • 重量: 1,680ポンド (762 kg)

出典 Wikipedia 

1952年6月、アメリカ海軍から小型攻撃機XA4D-1の発注を受けたダグラス社は、設計主務者をエド・ハイネマンとして設計を進めた。ハイネマンは「軽量、小型、空力的洗練を追求すれば自ずと高性能が得られる」とのコンセプトに基づき、海軍側の見込んだ機体重量14tの半分に満たない6.7tという小型かつ軽量な機体に仕上げた。1952年10月には前量産型YA4D-1の発注も行われている。

引用 ウィキペディア

1960年代初頭、空母サラトガに搭載されたMk 7核爆弾を積んだダグラスA4D-2スカイホーク

機体下真ん中の黒い色の爆弾が、マーク7核爆弾。両脇は燃料を入れた増槽。

出典 Wikipedia

軽量な機体に強力なエンジンを持ったA-4スカイホークは、1955年10月15日に500kmの周回コースで、F86セイバー持つ1,079 km/hの速度記録を上回る1,118km/hの新速度記録を達成しました。

 

作戦計画

8月15日解放戦線の第1連隊がチュライ空軍基地を狙っているのが分かった2日後、アメリカ海兵隊による解放戦線殲滅計画(スターライト作戦)ができあがりました。

計画ではアメリカの第3海兵隊第3大隊、第4海兵隊第2大隊、第7海兵隊第1大隊、第7海兵隊第3大隊、第12海兵隊第3大隊、計5500名で、ヴァントゥオン村にいる解放戦線第1連隊を包囲して海岸まで追い詰めます。海岸に出たところで沖合に待機していた、アメリカ海軍の駆逐艦USS オーレックUSS プリチェット、巡洋艦USS ガルベストンが艦砲射撃を行い(⑥の位置)、陸と海からの挟み撃ちで敵を殲滅させる予定でした。

第3海兵大隊の一部M中隊と第12大隊のK砲兵隊が、チュライ航空基地から陸路移動した作戦地域の北部に移動して、この方面からの敵の退却を阻止することにしました(①の位置)。

作戦開始の午前6時半、第3海兵大隊の残りは水陸両用装甲車(VTP-5)で、予定されているグリーンビーチ(⑤の位置)に上陸します。

そこから二手に分かれて、一部はこの辺り一帯を一望できる43高地を占領するために西に進みました。これは解放戦線軍(ベトコン)が、南に逃亡するのを防ぐ目的もありました。もう一方は直接ヴァン トゥオン村に向かいます。

さらに機械化上陸用舟艇(LCM)によって、M48パットン戦車、M67火炎放射戦車、オントス(正式名称:M50多連装106mm自走ライフル)が陸揚げされました。

手前のSF映画に出てきそうな車両がM50オントス。

空輸できる軽量な対戦車車両として開発されました。

奥は上陸に使用された水陸両用装甲車。

出典 historynet.com

 

作戦開始直後、第4海兵連隊第2大隊は内陸部3カ所に設けられたレッド(②)、ホワイト(③)、ブルー(④)にヘリコプターで着陸し、そこから各隊は海に向かって進軍し、解放戦線軍を海へ押しやります。

解放戦線側の防御準備

一方解放戦線(ベトコン)側も、グリーンビーチからアメリカ軍が上陸してくるのを読んでいました。そのためこの地帯一帯を眺めることができる43高地を占領して要塞化していました。さらに麓にあるナムエン村に解放戦線第1連隊第60大隊を配備し、43高地からの情報を元に作戦を立てる本部を設置していました。

さらに、ヴァン・トゥオン村に通じる村の周囲を頑丈な竹垣で囲み、トンネルや地雷、ブービートラップを仕掛けていました。

村を取り囲む竹垣。(1964年戦略村の物)

空掘の中には先を斜めにとがらせた竹が埋め込まれている。

出典 ウィキペディア

YouTubeにブービートラップの説明動画がありました ↓

また田んぼや畑の周囲には木を植え、見通しがきかないようにしていました。

スターライト作戦で、着陸地点ホワイトから移動している、海兵隊員達。写真の説明によると、彼らは右側の茂みを越えたところで、解放戦線と交戦したとのことです。

このような広い場所に出たところで、周りの茂みから一斉に攻撃されると、逃げ場がありません。

出典 historynet.com

戦闘開始

8月18日午前6時半、配置に就いていたアメリカ軍の一斉攻撃が始まりました。

着陸地点レッドに到着した部隊は、チュライ空軍基地委らの部隊との合流に成功し、ヴァン トゥオン村の北側の包囲に成功しました。

着立地点ホワイトの到着した部隊も、途中にある村々の抵抗を受けましたが、予定されていた東側の包囲線に到着し、翌朝の攻撃の為に準備に入りました。

一番大変だったのが、着陸地点ブルーに降りた部隊でした。作戦を練っている時間が2日しかなかったため、航空機による偵察でこの地域の重要地点43高地に近い開けた場所が、着陸地に選ばれてしまいました。

空からの偵察では分かりませんでしたが43高地はすでに解放戦線軍が占領していて、麓のナムエン村には解放戦線の第1連隊第60大隊が本部を設置していました。

着陸地点ブルーに着陸した部隊の役目は、43高地とナムエン村の確保でしたが、逆に包囲されてしまうことになりました。

そんな中でも部隊は43高地の奪回を目差し攻撃を開始しました。

部隊は増援の為にやってきた戦車隊と、地上攻撃用ヘリコプターUH-1BガンシップやA-4スカイホーク攻撃機、F-4ァントム戦闘機の航空支援を受けて、43高地の占領に成功しましたが、大きな被害を受け、16時30分、元の着陸地に戻り救援を待つことにしました。しかし、その日に救援部隊は到着しませんでした。

UH-1Bガンシップ

UH-1輸送ヘリの両側に2丁の7.62㎜機関銃と7発入りのロケットポッドを装着した地上攻撃の為のヘリコプターです。

出典 ウィキペディア

増援のためにやってきた戦車隊は、ナムエン村の脇を通り抜けようとしたところ、解放戦線軍(ベトコン)に包囲され動きがとれなくなり、装甲車を円形に配置して陣地を作り、周囲から攻撃を受けながらその中で夜を明かすことになりました。彼らはナムエン村が、すでにアメリカ軍によって占領されていたと勘違いしていました。

正午前アメリカ軍は支援のため、五両の戦車と。水と食料、海兵隊員を乗せた5両の水陸両用装甲車を送りましたが、水田地帯で包囲攻撃を受け壊滅状態となってしまいました。

YouTubeに、この部隊の動画がありましたので、見てください ↓

彼らは戦車や装甲車が向かってくると、解放戦線の兵士達は逃げると思っていたようです。

夜間になると、各地の解放戦線側からの攻撃は止まりました。

8月19日の夜明けを迎えると、解放戦線の兵士の大部分は、包囲網をくぐり抜け戦闘地域から脱出していました。アメリカ軍は各地の村落に残ったトンネルや塹壕に隠れている解放軍兵士を掃討して、20日の夜明けには海岸線に到着しました。

アメリカ軍はその後5日間に渡って地下に潜っていると考えられる解放戦線を捜索し、8月24日戦闘が終了しました。

アメリカ側の発表では

解放戦線(ベトコン)の兵士614名を殺害、9名を捕虜、42名の容疑者を拘束し、109個の武器を押収しました、アメリカ軍側の死者は45名、負傷者203名となっています。

解放戦線の発表では

アメリカ軍の死傷者900名、戦闘車両22両、リコプター13機を破壊しました、自軍の死傷者は約200名(そのうち死者は50名前後)となります。

イア・ドラン渓谷の戦い(1965年11月14日~18日)

イア・ドラン渓谷の戦いはベトナム戦争初の、アメリカ軍と北ベトナム正規軍の戦いです。

戦いのあったイア・ドラン渓谷の場所

1965年2月7日ローリングサンダー作戦のきっかけとなるキャンプ・ホロウェイへの攻撃があったプレイクの街の南西約50キロの場所にあります。

1965年11月初旬、北ベトナム軍はカンボジアと南ベトナムの国境地帯にあるチュポン山に32連隊、第33連隊、第66連隊の3連隊を終結させました。この山は西側でカンボジア国境に接したおり、ホーチミンルートからの補給を受けられます。反対の東側は森林地帯でまともな道路がなく、南ベトナム軍やアメリカ軍の戦闘車両が侵入してくることは不可能でした。

初めは12月にプレイメにある特殊部隊基地を皮切りに、この地方の重要地点であるブレイクを攻撃する予定でした。

8月下旬ブレイクと海岸との中間にあるアンケ―に第1機騎兵師団のヘリコプター基地となるキャンプ・ラドクリフ(アンケー陸軍飛行場)の建設が開始されました。
アメリカ軍の新たな展開により、北ベトナム軍は攻撃を早め10月中旬に、第32連隊と第33連隊だけで(第66連隊が到着したのは11月になってからです)プレイメの基地に攻撃をかけました。

プレイメ基地包囲戦 (196510月19日~25日)

 

青色の丸で囲んだところがプレイメの特殊部隊キャンプ地。赤色の丸で囲んだところがイア・ドラン渓谷の場所。

出典 Wikipedia 

1965 年のプレイメの特殊部隊キャンプ。

出典 Wikipedia

プレイメの特殊部隊キャンプはCIAが計画し、アメリカ軍特殊部隊(グリーンベレー)がベトナム中央高地に住む山岳民族を訓練して設立した軍事基地です。当時キャンプには400人以上の民間非正規防衛グループ(CIDG)の兵士が駐留していました。彼等のほとんどは山岳民族の一つジャライ民族で基地の周辺には家族も住んでいました。山岳民族を支援し、助言するために12人のアメリカ兵と南ベトナム兵が居ました。

1965年10月19日19時ごろ、北ベトナム軍第33連隊がプレイメの基地に攻撃を開始しました。第32連隊はブレイク市からの救援部隊を阻止すべく省道6C沿いに展開しました。プレイメのアメリカ軍司令官ハロルド・M・ムーア大尉は空爆を要請し、20日の午前4時から激しい空爆が行われ、北ベトナム軍の行動は封じ込められてしまいました。

10月20日午後、救援部隊が結成され、翌21日プレイメに向かって進軍を開始しました。23日17時30分、南ベトナム軍の救援隊は車列の前後で待ち伏せによる攻撃を受けました。しかし、米軍の航空支援により北ベトナム第32連隊は大きな被害を受け、チュポン山に向けて撤退を開始しました。

10月25日には南ベトナム軍の救援部隊がプレイメに到着しました。部隊はわずかな抵抗を受けたものの、25日の夕方、アメリカ軍の航空支援で大きな被害受けたため、プレテメの基地を包囲していた北ベトナム軍第33連隊も包囲を解き、チュポン山に向けて撤退しました。

その後も11月12日まで、アメリカ軍と南ベトナム軍は陸と空から撤退中の北ベトナム軍に攻撃を続けました。

この戦いでアメリカ軍側は南ベトナム軍で16名が死亡し山岳民族の特殊部隊で14名が死亡、アメリカ兵が3名死亡しました。プレイメの基地周辺の戦いと追跡中に850名の北ベトナム兵が死亡したと発表しました。

北ベトナム側の発表ではアメリカ側の死者は326名となります。

1965年11月13日、第3旅団司令官トーマス・W・ブラウン大佐は、第7騎兵連隊第1大隊の指揮官ハル・ムーア中佐と会談し、「翌朝に空中機動攻撃を行う」ことと、11月15日まで捜索破壊作戦を行うことを命じました。ただ司令部はチュポン山にB-52の空爆を予定しているので、山に登るのは禁止しました。

イア・ドラン渓谷の戦い、その1。 LZ  X-RAY の戦い。

着陸予定地のLZ  X-RAYは草原ではなく木などが生えていて、ヘリコプターで一度に輸送できる人数が60名ほどで、さらに基地のあるアンケーまで30分もかかるため、指揮官のハル・ムーア中佐は全隊員が揃うまで敵の攻撃を心配していました。

11月14日

午前10時40分、30分の準備攻撃の後第7騎兵連隊第1大隊(1/7)のBライフル中隊と指揮官グルーブが到着しました。30分後非武装の北ベトナム軍脱走兵が捕らえられました。尋問の結果チュポン山には北ベトナム軍3個連隊(約1500~2000名)が居ることが分かりました。この時点で着陸したアメリカ兵は200名足らずでした。

11時20分B中隊の残りとAライフル中隊が到着。 50分後、A中隊の残りの2個小隊からなる3番目の輸送隊が到着しました。

ムーア大佐は攻撃に備えてA 中隊を西と南側 、B中隊をその右翼である北西側に配置しました。

LZ X-RAYの位置。白い丸の部分。現在ここに国境警備隊の基地があります。

北東約2.5㎞の地点に次の戦いの場所である、LZアルバニーがあります。

北東約8㎞にある火力支援基地FSBファルコンから、砲撃支援を受けることが出来ます。

X-RAY到着後、北、西、南の3方を北ベトナム軍、第32連隊、第66連隊、第33連隊に囲まれているのが分かりました。

12時15分、北ベトナム軍の攻撃が開始されました。

13時32分C中隊が到着し、南から南西にかけて陣地を構築しました。14時30分C 中隊の残りと、 D中隊の先導部隊が到着しました。D中隊は迫撃砲や機関銃などの特殊兵器を装備している部隊です。

15時20分、第1大隊の最後の部隊が到着しました。到着したD部隊は、着陸地点の北と東に配備されました。

17時増援のため第7騎兵連隊第2大隊のB中隊が到着しました。

翌15日の夜明けまでにB中隊は47名(うち士官1名)、A中隊は34名 (うち士官3名) 、 C中隊は4名の死傷者を出していました。

11月15日

午前6時50分、C中隊の偵察隊が基地から150メートルほど離れたところで北ベトナム軍と接触、銃撃戦が始まりました。北ベトナム兵達は藪や草むらに隠れて夜の間に、基地近くまで来ていました。

午前7時45分、LZ  X-RAYは北ベトナム軍に3方向を包囲され、最初に戦いの始まった南側のC中隊の分断されたところから北ベトナム兵が基地内に侵入して、指揮所近くまでやってきました。

午前7時55分指揮官のハル・ムーア中佐は暗号名『ブロークンアロー』を宣言し、強力な航空支援を要請しました。『ブロークンアロー』はそのとき南ベトナムで利用可能なすべての支援航空機に、第7騎兵隊の居るLZ  X-RAYの防衛に当たるよう命じる暗号です。

X-RAYでのヘリコプターの離発着が困難になったため、X-RAYから南東に3.5キロ離れたLZ ビクターに第7師団第2大隊を空輸しました。午前8時、LZ ビクターに到着した第7師団第2大隊の増援部隊は徒歩でX-RAYに向かい、正午にX-RAYに到着しました。

11月15日のLZ X-Rayの救援。四角い印がアメリカ軍の位置。

出典 Wikipedia

激しい航空支援と砲撃により北ベトナム軍は多大な被害を受け、午前10時頃撤退を開始し、1時間半後には戦闘が終了しました。

午後4時にはグアムのアンダーソン基地から18機のB-52爆撃機が飛来し、チュポン山を中心に500ポンド(227㎏)爆弾900発を投下しました。この作戦はアークライト参戦と名付けられ、X-RAYおよびカンボジア国境付近にかけて、1週間で96回行われ7000発の爆弾を投下しました。この爆撃でアメリカ軍は、約1500名の北ペトナム軍の兵士が死傷と推定しました。

B-52による地上支援のアークライト作戦はベトナム戦争中各地で1973年まで続けられました。

11月16日

15日の夜から16日の早朝にかけて、4回の攻撃がありましたが、すべて撃退されました。

この時点でアメリカ軍は79人が死亡、北ベトナム軍は戦闘地域で634人の遺体が確認された他、砲撃や空爆で1215人が死亡したとみられました。これにより得意の人海戦術が使用できず、北ベトナム軍の攻撃能力は極端に落ちたとみられます。

これにより第7騎兵隊第1大隊は、任務が完了したとみられ午前10時30分頃部隊は戦闘地域から撤退するように命令されました。

ただ新たに侵入してくる敵に対して、第7騎兵隊第2大隊と第二騎兵隊第2大隊が夜間防衛のため残りました。

この戦いの責任者である第3旅団司令官トーマス・W・ブラウン大佐は全軍撤退を主張しましたが、ウェストモーランド将軍は北ベトナム軍を敗退させないうちに全軍撤退することは、報道陣にアメリカ軍が敗北したとの印象を与えたくないため、わざと2つの大隊を残したとの見方もあります。

この日もB-52により、新たな部隊の侵入を防ぐためX-RAY周辺の爆撃が行われました。

LZ X-RAYの戦いを題材にして作られた映画があります ↓

映画 「ワンス・ アンド ・フォーエバー」ベトナム戦争で初めて、アメリカ軍と北ベトナム正規軍が戦った争いです。

イア・ドラン渓谷の戦い、その2。 LZ  アルバニーの戦い。(11月17日)

11月17日、この日は正午からLZ  X-RAYを中心とする地域一帯に対してB-52による大規模な空爆が計画されていました。

午前9時、現地に残っていた第7騎兵隊第2大隊と第五騎兵隊第2大隊は、周囲の北ベトナム軍に気づかれないように徒歩で移動を開始しました。第7騎兵隊第2大隊は北東に3.5キロ離れたLZ  アルバニーに、第5騎兵隊第2大隊は東に3.5キロ離れたLZ  コロンバスに向かいました。

徒歩で移動したもう一つの理由が、X-RAYでの戦いでヘリコプターは延べ740回出撃し、4機が撃墜され55機が損傷を受けたため、修理・補修に手間取っていた為もあります。

11月14日から16日の朝にかけての戦いで、アメリカ軍は北ベトナム軍は大きな損害を受け、新たな戦いは仕掛けてこないだろうと思っていました。

アメリカ軍は気づかなかったけれど、北ベトナム第66連隊第8連隊はX-RAYの北部に居たため無傷で残っていました。戦いに参加したのは第7連隊と第9連隊で、X-RAYの西側と南側で戦っていました。アメリカ軍は、X-RAYの北側にはイア・ドラン渓谷に続く川が流れていたので、この方面からの攻撃はないだろうと思っていたようです。さらに10月下旬に行われたプレイメの特殊部隊基地襲撃後も残って戦いを続けていた北ベトナム軍第32連隊の残存兵も合流したため、この時点での北ベトナム軍の兵士は600~700名になっていました。

出発から2㎞行ったところで、第7騎兵連隊第2大隊はLZアルバニーへ、第5騎兵連隊第2大隊はLZコロンバスに向かいました。

11時38分第5騎兵連隊第2大隊は、LZコロンバスに到着しました。これには第5騎兵連隊第2大隊が戦闘に参加したのは、15日のブロークンアローによる爆撃後であったため体力がまだ残っていたためでした。

同じ頃第七騎兵隊の偵察部隊が、LZアルバニーの手前北ベトナム軍の斥候部隊と接触し、2人の斥候兵を捕らえましたが、2人の斥候兵を取り逃がしてしまいました。このためアメリカ軍は一時進軍を中止しました。最後尾の第2大隊本部にいたマクデード中佐は列の最前部に向かい2人の捕虜の尋問に立ち会いました。

このとき北ベトナム軍第8連隊は、LZアルバニーのすぐ北側で野営していました。アメリカ軍がLZアルバニーに向かって進軍してくるのを知った司令官は、軍を二手に分け一つはアメリカ軍の右側、もう一つは左側を敵に分からないように配置しました。

マクデード中佐は各中隊の中隊長を最前部の指揮グループに呼び、再び進軍を開始しました。

午後1時10分、A 中隊とB 中隊および指揮グルーブは、LZアルバニーに到着しました。このとき砲兵隊や航空隊に連絡して支援を求める無線機は、各小隊長が持っていました。

午後1時15分、部隊の先頭がLZアルバニーに到着したことを知ったC 中隊と D中隊の兵士達は指揮官が居なくなったため、戦闘初日から戦い続けていたことと、4時間の行軍の疲れからその場に倒れ込み、なかには眠ってしまう者も出てきました。このときを狙っていた北ベトナム軍は、一斉に攻撃を開始したためアメリカ軍兵士はほとんど無抵抗状態で一方的にやられてしまいました。

このときLZアルバニーに居たA中隊のジョージ・フォレスト大尉は、単独で最後部の大隊本部の隊に駆けつけ、体勢を立て直して前進を開始しました。幸いこの隊はしんがりを務めていたため戦闘態勢を取り続け、それほど被害を受けていませんでした。

1時間後航空機による、地上支援が始まりましたが白兵戦の状態のためアメリカ軍にも被害が及び、すぐ取りやめとなりました。

LZコロンバスにいる第5騎兵隊第2大隊は、救援のために一中隊を編成して急ぎLZアルバニーに向かわせました。救援隊は午後2時55分第七騎兵隊大隊本部の隊と合流して前進しました。午後4時30分、彼らはLZアルバニーに居るA中隊と合流出来ました。早速ヘリコプターの着陸場所を確保し、負傷者の搬出が始まりました。

午後6時30分、もとX-RAYで戦った第七騎兵連隊第2大隊のB中隊がヘリコプターで到着し守りを固めました。はげしい地上砲火を受けながらも午後10時30分まで負傷者の搬出は続けられました。

それに対して進軍路で孤立してしまった兵士は、負傷者も含め、北ベトナム軍兵士により、殺されてしまいました。

11月18日

夜明けとともに、アメリカ軍は遺体の収容を始めました。アメリカ兵と北ベトナム兵の遺体が戦場全体にわたった広がっていたため、この作業終わるまでに2日かかりました。

この結果第7騎兵連隊第2大隊の被害は、400名のうち155人が死亡、124人が負傷すると大規模な犠牲者が出てしまいました。つまり部隊の約70%が死傷するという、大きな被害を出したことになります。これにより北ベトナム軍は、アメリカ軍兵士との接近戦に持ち込めば、航空機や砲兵の援助攻撃を避けられることを学びました。

アメリカ軍の発表では、北ベトナム軍の死者403名、負傷者が150名とされていますが、これはかなり盛られた数字だと思います。

 

イア・ドラン渓谷の戦いにおける双方の死傷者

アメリカ側の発表

アメリカ軍

死亡 237名

負傷 258名

行方不明 4名

南ベトナム軍

死亡 132名

負傷 248名

行方不明 18名

北ベトナム軍の死者1037~1745名

 

北ベトナム側の発表

死亡 559名

負傷 669名

アメリカ軍の死者 1500~1700名

南ベトナム軍の死者 1275名

です。

戦いの後、ウェストモーランド将軍は、アメリカ軍の死者250名に対して、北ベトナム軍の死者が推定3000名(B-52の爆撃で死んだと推定された人数も含む)になったことに満足しました。これ以後アメリカ軍は、集まっていると思われる場所に部隊を送り込み、集まってきた敵兵を、空爆や砲撃により一網打尽にする戦略(サーチアンドデストロイ作戦)を進めることになりました。送り込まれた部隊とっては迷惑ですが、見方の被害よりも何倍もの被害を敵に与えれば、「よし」としたのです。

これ以後、ペトナムに派遣されたアメリカ軍は領地の獲得より、いかに効率よく敵兵を殺すかに重点を置く、ただの殺人部隊になってしまいました。

sponsored link

亀仙人2

down

コメントする




This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.



プライバリーポリシー