ヴェルダンの戦い
1916年2月21日~1916年12月19日
ヴェルダンはフランス東部国境を守る要塞都市であり、町は大小60もの要塞や砲台によって守られています。
ヴェルダンの戦いの地図
赤い5角形が要塞、赤い丸が砲台や砦
1915年12月ドイツ軍参謀総長ファルケンハインは皇帝にこう進言しました。
“戦いにおいて攻めるより守る方が有利である。フランスは開戦以来多大な損害を被っており、敵の重要処点を攻めフランス軍主力をおびき寄せて守り切れば、敵の兵力を大幅に減らすことが出来、後の戦いが有利に運ぶ”
いわゆる消耗戦です。
ドイツ軍は兵士や武器の補給用に10本の軍用鉄道を敷設して、大砲1200門、砲弾250万発、兵士11個師団を輸送しました。
更に空からの偵察を阻止するため、ドイツは史上最大の168機に及ぶ航空戦力を投入して、制空権を確保しました。その中には初の戦闘機となるフォッカー アインデッカーがあります。この史上初の戦闘機によりドイツ側はベルケやインメルマンなど11名のエースパイロットが生まれました。
しかし5月になるとフランスも新型の戦闘機、ニューポール 11を投入して、制空権を奪還しました。フランスにはギンヌメールがこの機体に乗り、エースパイロットになります。
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1916年フランス、ヴェルダンの地図
一方フランス側は、大戦当初にベルギーのリエージュ要塞の早期陥落やロシアやオーストリアの要塞が意外と早く落ちたため、要塞砲を他に戦場に運ぶなどしたため要塞とは名ばかりのただの休憩施設となっていました。さらにこの地域の守備隊はわずか3個師団でした。
2月11日の攻撃予定が雨のため10日ほど遅れてしまいます。この間ドイツ側の異変を察知したフランスのジョフル将軍は、到着直後の2個師団を配置につけることが出来ました。
2月21日午前7時15分、ドイツ軍の大砲が一斉に猛烈な砲撃を開始しました。午後4時砲撃は終了して、熟練の古参兵で構成する少人数の斥候歩兵が突撃します。彼らは火炎放射器や機関銃などの重装備でフランス軍前線の脆弱なところに穴をあけ、そのあと歩兵が突撃して敵の後部に回り込みました。
敵の本体が救援に駆け付けたところで、いったん退却して味方の砲撃でおびき寄せたフランス軍を殲滅する予定でした。
しかし、ファルケンハインの”攻撃せよ”との命令に対して、第5軍の5個師団の指揮を任されたヴィルヘルム皇太子は消耗戦の意味を理解していませんでした。彼は、ヴェルダンの占領を目指しそのまま突撃してしまったのです。
勢いに勝るドイツ軍はそのまま攻撃を続け、2日目には第1陣地を破り第2陣地の前まで達しました。25日にはこの地域の最高地点にあるドゥモン要塞を占領ました。この時要塞で守備していたのは56名の老兵で、彼らは要塞の地下に避難しており、無抵抗で明け渡してしまいました。
一方フランス軍は、ソンムの戦いのために用意した第2線師団を招致して、ヴェルダンに投入しました。また第2軍司令官にフィリップ・ペタン将軍を当てました。北部の農民出身のペタン将軍は兵に対して思いやりがあり、兵士たちに「ペタンなら大丈夫」との声が上がります。これにより士気が回復し、乱れていた足並みもそろい始めました。
神聖なる道を行くフランス軍のトラック
またヴェルダンへの補給路は、鉄道が1本と狭い道路1本だけでしたので、フランス軍は全国からトラックを挑発して、大輸送作戦を開始し、2月下旬には2万5千トンの物資と19万人の兵士を輸送しました。この道路は『神聖なる道』と呼ばれるようになり、これから数か月、全軍の3分の2はこの道を通って運ばれます。
この間、ドイツ軍は攻勢を続けますが、ヴェルダンに近づくにつれ、今度はドイツ兵がフランス軍の砲撃の対象となります。このために生じた損傷および疲労のため一時攻撃の手を緩めため攻撃の進展は遅々として進まなくなりました。
ドイツ軍は3月4日から再び砲撃を開始して、3月6日に攻撃しましたが、フランス軍が強化されたことにより、損害ばかりが増え、6月7日にやっとの思いでヴォー堡塁を確保しました。
フランス軍の損害が増えたことにより、ペタン将軍をフランス大本営司令官にして、ヴェルダンの地区防衛は強硬派のニヴェル将軍に任されました。
しかし、フランスの要請でイギリス軍が6月から西部戦線でソンムの戦い、ロシア軍が東部戦線でロシアのブルシーロフ攻勢が起こし、ドイツ軍がヴェルダンからそちらに兵力を割いたため、8月からはフランス軍が反撃に出ました。
10月24日にはドォモン要塞を取り返し、12月15日にヴォー堡塁など多くの失地を回復しました。
この作戦でフランス軍は36万2千人の死傷者を出しましたが、ドイツ軍も33万6千人の死傷者を出し、ファルケンハインの目論見は外れてしまいました。彼は責任を取り、参謀総長の職を辞し、ルーマニア攻略戦の司令官となります。