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亀仙人2ソンムの戦い
1916年7月1日から11月18日までフランス北部のソンム川に沿った戦線で起こったイギリス・フランス両軍がドイツ軍に大攻勢をかけた戦い。両軍合わせて100万人以上の損害を出したが、両軍とも決定的な戦果は得られませんでした。
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ソンムの戦いまで
1916年6月5日、イギリスの新聞に1人の軍人の訃報が掲載されました。イギリスのスカパ・フローから船でロシアに向かったキッチナー陸軍大臣が機雷により船が沈没したため、死亡しましたのです。
第1次世界大戦以前のイギリスは、徴兵制をとっていなかったため常備軍としての陸軍は100万人しかおりませんでした。開戦により、陸軍の増強を図るためキッチナーは志願兵の募集をはかります。下がその新兵募集のポスターです。これにより彼は300万人の兵を集めることに成功しました。
これらの新兵はキッチナー・アーミー(新兵)と呼ばれます。
1914年8月、ベルギーに派遣されたイギリス海外派遣軍は、即戦力になるイギリス常備軍とその予備役とで構成されていました。
しかし、1916年初めまでの塹壕の攻防をめぐる激しい消耗戦のため、戦闘に参加したイギリスの正規兵はほぼ壊滅状態になりました。
フレンチ将軍の後を継いだヘイグ司令官は、急ぎ徴兵や志願兵などで新兵を集め前線に送りましたが、新兵の訓練には普通2年程掛かるところを、兵員不足が激しいため、わずか数か月の訓練で前線に送った。このため戦闘経験と訓練の不足のため、人員の損害が増えることになりました。
1915年12月6日から8日にかけて、連合国側はフランスのシャンティイで会議を行い、1916年の夏にフランス・イギリス・ロシア・イタリアがドイツに対して一斉に攻撃することに同意しました。
イギリスのヘイグ将軍は1916年夏の攻勢を目標に、新兵を訓練します。
しかし、この目論見はドイツ軍によって砕かれることになりました。
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ヴェルダンの戦い
1916年2月21日から12月19日
ドイツ軍参謀総長ファルケンハインは塹壕戦においては、攻めるより守る方がはるかに有利なことを利用し、フランス軍を挑発し、多大な損害を与えることで消耗戦に持ち込み敵を屈服させようとしました。
場所として、パリに続く街道にある要塞都市ウェルダンが選ばれた。砲撃の後大人数の一斉攻撃をやめ、後方から火炎放射器、軽機関銃、迫撃砲などを装備した攻撃歩兵の小部隊で敵の弱点を突き、4日後にはドオモン要塞を占領した。
フランスはパリを守るため全軍の4分の3の師団をここに派遣した。ファルケンハインの狙いは的中し、あとは防御に徹して、フランス軍に大きな損害を与えればよいだけだった。ところが従軍していた、ヴィルヘルム皇太子は消耗戦の考えを理解せずヴェルタン攻略に固執したため、ドイツ軍も消耗戦に巻き込まれ、両軍とも多大な損害を出した。
この戦いでフランス軍362000人、ドイツ軍336000人の死傷者を出した。
ヴェルダンの戦いの詳しい解説はこちら ↓
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ソンムの戦い
1915年12月6日から8日にかけて行われたシャンティイの連合国諸国会議で、1916年夏にソンム川に沿った地域で英仏合同の大攻勢を行う計画が立てられました。
しかし、1916年初頭のヴェルダンの戦いで苦戦を強いれらたフランスのジョフル司令官は、イギリスとロシアに対してドイツ軍と新たな戦線を開き、ドイツ軍の軍勢をそちらに引き付けるよう、要請しました。
ロシアはこの要請を受け、ナロチ湖と東部戦線でブルシーロフ攻勢を行い応えました。
詳しくはこちらをご覧ください ↓
イギリスも8月15日攻撃予定のソンムの戦いの予定を早め、攻撃開始を7月1日にすることにします。
150万人の兵力を持つイギリス軍ですが、その大部分はキッチナーの呼びかけに応じた志願兵で、訓練不足は否めませんでした。
更にヴェルダンの戦いに多くの兵力を取られてしまったフランスは、7月1日の攻撃開始の時は予定の40師団でなく5師団しか参加できなくなります。そのため19師団を有するイギリス軍が攻撃の主力となりました。
1916年6月24日からイギリス砲兵は、ドイツ軍に向かい約1週間にわたる激しい砲撃を続けました。
後に分かったことですが、このイギリス軍の砲撃は期待したほどの効果を上げていませんでした。
イギリス軍の使用した火砲の4分の1は設計の不備や素材が粗悪であったため故障しました。さらに多くの男性が戦場にとられたため、熟練工の代わりに、新たに女子工員が製造ラインに入り、組み立てに熟練を要する信管がうまく作動せず、砲弾の約3割が不発弾でありました。
そして決定的なのは、砲兵の大部分が新たに徴兵された兵士で構成され、促成でも何とかなる歩兵はともかく、熟練を経験を要する砲兵では的確に目標を破壊することが出来ませんでした。
悪天候のため6月28日攻撃のはずが7月1日に延びイギリス軍は総攻撃を開始した。
この2日間の猶予がドイツ側の陣地を立て直す時間をあたえ、ドイツ兵は陣地を再構築して、イギリス軍を待ち構えていました。
イギリス軍は1週間に及ぶ砲撃で、ドイツ軍の陣地は破壊されたと思い、攻撃を開始しました。
しかし、ドイツ軍は地下6メートルから10メートルまで、深く掘られた退避壕でイギリスの砲撃に耐えていました。砲撃がやむと彼らは破壊された陣地を修復して、待ち構えていたのです。
1週間に及ぶ激しい砲撃で地面が穴だらけになった上、前日までの雨で泥沼状態になった所を隊列をなしてのろのろ進むイギリス兵は、待ち構えるドイツの機関銃と大砲の格好の餌食になりました。
攻撃初日だけでイギリス軍は戦死19,240人、負傷57,470人の損害を出しました。その大部分が、攻撃開始から1時間以内のものです。
6月14日には、イギリス軍はドイツ人地に夜襲をかけて、一時的にしろドイツ最前線を突破することが出来ました。しかし、これも後方に控えていた、ドイツ軍の予備隊によってすぐ取り戻されてしまいます。
こののち、戦場はイギリスが攻撃して前進すると、ドイツ軍が反撃し、すぐに取り戻す戦いの繰り返しとなります。
戦車の登場
この戦いでイギリスは史上初めて戦車「マーク1戦車」を投入した。
マークⅠ戦車
この戦車の独特な形は、砲弾跡や塹壕を乗り越え鉄条網を破壊し、歩兵のための突破口を造ることを考えたためである。
9月15日、ソンムの戦いで戦車は初めて実戦に投入されました。
当初配備された49両の内エンジンやキャタピラなど初期不良で実際に稼働できたのは18両であった。さらに砲弾跡に落ちて壊れたり、エンジンストップなどで敵陣に達したのはたった5両しかいませんでした。
しかし、塹壕を突破するのに有効であると確信したイギリスは改良を重ね、大量に投入することで、のちの戦いで大活躍することになります。
ソンムの戦いの影響
11月19日冬が近づき、戦闘を継続することが困難となり終了しました。
ソンムの戦いでの死傷者はイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な被害を出した。その割には両軍とも大した戦果がなく、連合軍側が11キロほど前進しただけでした。このことは各国の国内に、厭戦気分を目覚めさせた。
ソンムの戦いを舞台にした映画はこちら ↓
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