なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

解説 1916年 ロシア軍最後の大攻勢 「ブルシーロフ攻勢」

time 2018/06/21

解説 1916年 ロシア軍最後の大攻勢 「ブルシーロフ攻勢」

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亀仙人2

ブルシーロフ攻勢

1916年6月4日から9月20日にかけて、ロシアのプロシーロフ将軍によって中央同盟軍に対して行われた、大規模な攻撃です。

ブロシーロフ将軍は彼の考案した新しい攻撃方法を使って、守備をしていたオーストリア軍に対して、大打撃を与えることになり、ドイツ軍を西部戦線から引き抜くことに成功しました。

(アイキャッチの画像はロシアのアレクセイ・ブルシーロフ将軍)

1915年12月のシャンティイ協定により、ロシア、フランス、イギリス、イタリアの連合国側は1916年夏に西部戦線と東部戦線でドイツに対して同時攻撃をかける計画を、練っていました。

ところが、それよりも早く、ドイツ側は1916年2月にフランスのヴェルダンに攻撃を仕掛けてきたのです。

ヴェルダンの戦いはこちらをご覧ください ↓

解説 「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました。 

前哨戦

ヴェルダンの戦いで苦戦を強いられていたフランスは、ドイツの戦力を分散させるため、再三にわたってイギリスとロシアに西部戦線と東部戦線で新たな戦線を開くことょ求めてきました。

ヴェルダンのフランス軍を助けるため、3月ロシア西方方面軍のアレクセイ・エーヴェルト司令官は東部戦線北方のナロチ湖においてドイツ軍に攻撃を仕掛けました。

ドイツ側の戦力8万人に対してはるかに多い37万の兵力を投入しましたが、ドイツ側の死傷者2万人をはるかに超える11万人の被害者を出して、逆にドイツ軍に叩きのめされてしまいます。

1916年4月ロシアの皇帝ニコライ2世はロシア南西部司令官にブルシーロフを任命しました。これは今まで能力より忠誠心を重んじて採用していた人事に反して、前年のオーストリア軍との戦いで、コンラートの攻撃を打ち破った実績を買われたものです。

ブルシーロフは少人数の衝撃部隊を組織して、敵の塹壕近くまで突撃壕という小規模な塹壕を作り部隊を潜伏させました。

また、前線の塹壕に大規模な地下壕を掘り、今まで後方に待機させていた本隊を最前線に配備します。

南西軍司令官ブロシーロフの「広域正面同時攻勢による多点突破」作戦に対して第8軍司令官カレディノン、第7軍司令官シェルバシェフの二人は大規模な砲撃をした後、歩兵を一点に集中して攻撃する、今までの攻撃方法を主張して反対します。

また、第9軍司令官は砲弾をはじめ、装備の不足を訴えてきました。

結局ブロシーロフの計画を支持したのは、第11軍のサクハノフだけになりました。

1916年5月31日、南西軍に対して、正式に攻撃命令が下りました。

戦闘

1916年6月4日、ロシア軍はオーストリア軍の塹壕に対して、短時間だが正確な砲撃を始めました。

砲撃がやみ、オーストリア兵が退避壕から出ようとしたところを、オーストリア軍の塹壕近くまで掘り進んでいた突撃壕に伏せていたドイツの衝撃部隊が襲い掛かります。

オーストリア兵士は攻撃の準備が出来ないまま、ロシア軍の捕虜となりました。

こうして空いた敵の弱点に、前線の地下壕にいた本隊が現れ占領します。

南北300マイルに及ぶ前線全体がこのような状況になり、オーストラリア軍は予備隊をどこに送るか決められぬまま、ロシア軍に前線を突破されました。

開戦1日めに、北部の第8軍は敵の本部のあるルックに到達し、6月8日には南西方面軍はルックを占領しました。この方面の指揮官であるオーストリアのヨーゼフ・フェルディナント大公は占領直前、からくも脱出することが出来ました。

その南方、サクハノフの第11軍はドブノを占領、オーストリアの予備軍と戦い、野戦でこれを撃破しました。

戦線の最南端では、レチツキー率いる第9軍がオーストリア軍をガルバシア山脈に追い詰めていました。

そんな中、シェルパシェフ率いる第7軍は従来通り2日間に及ぶ準備砲撃を行い、敵の予備隊を集めてしまったため、2万人の被害を出したうえ進撃できませんでした。

ブルシーロフ攻勢地図

1916年6月12日には、この地点を守っていた46万人のオーストリア軍のうち19万人が捕虜となり、オーストリア軍はドイツに援軍を求めます。

要請を受けたドイツ軍のファルケンハインはヴェルダンから7個師団を引き抜き東部戦線に送りました。また東部戦線北部で戦っていたヒンデンブルグも、南部に兵を送ります。

また、イタリアと戦っていたオーストリアのコンラート元帥も、兵を引き上げ東部戦線に向かいました。

この事態ににブルシーノフは先のナロチ湖のでドイツと戦ったロシア西方方面軍のエーヴェルトに対して、再びドイツ軍を攻撃するよう求めました。

しかし。エーヴェルトはナロチ湖での惨敗したことにより、積極的な攻勢に出ようとはしませんでした。

この状態にロシア軍最高司令部はエーヴェルトから兵を引き抜いて、ブルシーロフのもとに送りました。

しかし、ブルシーロフはこのまま前進を続けると、敵軍の中に突き出た状態となり、三方から攻撃される恐れがあるため、停滞せざるを得なくなりました。

ただ一番南の第9軍だけは、側方から攻撃される恐れがない為。そのまま進撃を続け9月20日カルパチア山脈に到達します。

やがて敵味方とも被害が多く出て9月末に戦闘が終了します。

ブルシーロフ攻勢の結果

作戦の第1目的である、ヴェルダンの戦いで苦しんでいるフランス軍を助けることは、ドイツ軍が7個師団を東部戦線に送ったことで、達成できました。

また7月1日にイギリス軍がソンムの戦いを開いたことにより、ヴェルダンの戦いで旗色が悪くなり、カイザーの支持を得られなくなったファルケンハインは8月29日に参謀総長の職から辞任しました。

後任の参謀総長にはヒンデンブルグが任命され、彼は参謀次長にルーデンドルフを指名しました。このドイツ「英雄コンビ」は敗戦まで指揮を執ることになります。

ソンムの戦いはこちらをご覧ください ↓

 

1916年 ソンムの戦い 戦い初日だけでイギリス軍は、戦死者19,240名、負傷者57,470名の損害を出してしまいました。

オーストリア=ハンガリー軍は150万人もの損失を出し、これ以後オーストリア=ハンガリー軍は戦闘単位としての地位を失い、ドイツ軍に吸収されることになります。

ルーマニアの参戦

戦闘初期の連合国側が優勢な状態を見て、それまで中立を保っていたルーマニアが、連合国側にたって参戦しました。

しかし、ヴェルダンの戦いで参謀総長を辞任したファルケンハインが指揮を執り、彼はトランシルヴァニアでルーマニア軍を破り、そのまま領内に侵入しました。また南からはマッケンゼンがドイツ・ブルガニア・トルコの軍で編成されたドナウ軍で攻め上り、12月6日同盟国軍はルーマニアの首都ブカレストを陥落しました。

同盟国は1916年中にルーマニアのプロイェシュティの油田や穀倉地帯を占領することができ、同年に始まったドイツにおける供給の不足を補うことができました。

ロシアの脱落

ロシア軍もこの戦いで50万人の被害を出ましたが、ロシアの人口を考えると大した影響はありませんでした。しかしこの戦い以後ロシア国内で厭戦気分が盛り上がり、また兵士たちのやる気もなくなって戦力が劣ろえ始めます。

やがてロシア国内での政治・経済が悪化して、国民の不満が増大し、ロシア革命と続きました。

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