なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

映画 『オフィサー・アンド・スパイ』 ユダヤ人であるために無実の罪を科せられた、フランス軍参謀アルフレッド・ドレフュスを助けるために活躍した、軍情報部ピカール中佐の話です。

time 2023/08/01

映画 『オフィサー・アンド・スパイ』 ユダヤ人であるために無実の罪を科せられた、フランス軍参謀アルフレッド・ドレフュスを助けるために活躍した、軍情報部ピカール中佐の話です。

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亀仙人2

映画 『オフィサー・アンド・スパイ』

2019年        フランス・イタリア

1895年、フランスで陸軍大尉のドレフュスは、ドイツに機密情報を渡した国家反逆罪の罪で南米のフランス領ギアナにあるディアブル島(日本名、悪魔島)に送られました。

その直後、新しくフランス陸軍情報部の責任者に任命されたジョルジュ・ピカール中佐(アイキャッチ画像の人)は、翌年ドイツに情報を渡したのは陸軍少佐エステラジーであることを突き止め、軍の上層部にドレフュスの無罪を訴えましたが、軍部は体面を維持するため拒否しました。その後ピカール中佐は、1906年ドレフュスの無罪が確定するまで軍部と戦い続けます。

監督 ロマン・ポランスキー
脚本 ロバート・ハリス
ロマン・ポランスキー
原作 ロバート・ハリス
原題『An Officer and a Spy』

出演者

ピカール中佐:ジャン・デュジャルダン
ドレフュス大尉:ルイ・ガレル
ポーリーヌ(ピカール中佐の不倫相手):エマニュエル・セニエ
アンリ少佐:グレゴリー・ガドゥボワ
ゴンス将軍:エルヴェ・ピエール
メルシエ将軍:ウラディミール・ヨルダノフ
ボワデッフル将軍:ディディエ・サンドル
ラボリ弁護士:メルヴィル・プポー
サンデール大佐:エリック・リュフ
ベルティヨン筆跡鑑定人:マチュー・アマルリック
ビヨ将軍(陸軍大臣):ヴィンセント・グラス
ゾラ(作家):アンドレ・マルコン

 

映画『オフィサー・アンド・スパイ』の解説

映画は1895年1月5日、パリの陸軍士官学校の広場で国家反逆罪で有罪となったドレフュスが、すべての軍籍と位階を剥奪される儀式から始まります。この儀式の間中ドレフュスは無罪を訴え続けていました。

ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=中央左)

出典 ウィキペディア

その後ドレフェスは、仏領ギアナの沖合にある流刑地、悪魔島に移されました。

悪魔島について

悪魔島はドレフュスが流された流刑地であり、スティーブ・マックウィーンが主演した映画『パピヨン』の舞台にもなった島です。

悪魔島は絶海の中に浮かぶ孤島としていますが、実際は三つの島からなるサリュー諸島の一つです。

サリュー諸島の地図

悪魔島は、現在ロケットの発射基地であるフランス領ギアナにあるギアナ宇宙センターがあるクールの街から14㎞沖合にあるサリュー諸島の中のひとつで、長さ1100m、幅400mの島です。

出典 ウィキペディア

サリュー諸島は1852年(ナポレオン3世第二帝政期)にフランスの政治犯を収容するための流刑地として監獄が設置されました。その中で特に罪の重い者が送られたのが、悪魔島でした。

サリュー諸島の中で最大の島ロワイヤール島には、監獄の他に兵舎や病院、礼拝堂も置かれていました。

ロワイヤール島の海岸から見た悪魔島。

出典 Wikipedia

映画『パピヨン』で悪魔島が絶海の海に浮かぶ孤島(この映画でも同じように表現されています)を想像して居ましたが、すぐ近くに他の島があるのを知って、ガッカリした思い出があります。

フランス軍の軍事機密である、大砲の駐退複座機について

昔の大砲は撃った時の反動で、後ろ下がってしまいます。従って次に撃つときは、大砲を元の位置に戻し、照準をやり直す必要があります。

そのため、各国とも砲身の部分だけを動かすようにバネを使ったりして工夫しましたが、うまくいきませんでした。

これを最初に実用化したのがドレフェス事件で出てきた120㎜砲の水力制動機でした。

120mm C バケット榴弾砲。1915年

砲身の下に反動を吸収して元の位置に戻す、筒状の水力制動機が付いています。

出典 Wikipedia

第一次世界大戦で大活躍したM1897 75mm野砲では圧縮空気を利用した液気圧式駐退複座機を使用し、その上弾頭と発射薬を一体化した薬莢式の砲弾を利用することで装填作業が1動作で済むようにしたこともあり、従来の大砲に比べ7~10倍の発射速度を持つようになりました。つまりこの大砲1門で、従来型の大砲7~10門分の砲弾を撃つことが出来ます。

75ミリ野砲は、映画でも将軍や士官達を集めた試射会で、軍事機密の武器として披露されています。

M1897 75mm野砲

出典 ウィキペディア

液気圧式駐退複座機の仕組み

図2 液気圧式駐退復座機の動き

圧縮すると体積が大きく変化する空気を利用したことが、成功の鍵でした。

出典 両方とも大砲と装甲の研究

 

M1897 75mm野砲の詳しい構造はこちらをご覧ください。↓

 

ドレフュス事件の発端

1894年9月25日、フランスのスパイでパリのドイツ大使館の掃除婦をしていたマリー・パスティアンは、ドイツ陸軍武官マクシミリアン・フォン・シュワルツコッペンの屑籠から、フランス砲兵隊の機密情報を渡すと書かれた6つに分かれて破かれた書類を発見し、情報部に渡したことから事件が始まりました。

(おまけ、シュワルツコッペンの屑籠から、イタリア大使館付き武官パニツァルディ宛の手紙が大量に出てきました。どうやらこの二人は恋人同士みたいです。このイタリア人武官は、後に大事な場面で出てきます。)

ドレフュス事件の元となった書類(ボーダー)

1894年10月13日に撮影された写真

出典 Wikipedia

この書類には、

・最新式の120mm C バケット榴弾砲に装備された水力制動機とその操作法。

・砲兵隊の編成修正に関するメモ。

・1894年3月変更になった砲兵隊射撃マニュアル。

などフランス軍の機密情報が含まれていました。

この知らせを受けたフランス陸軍防諜部長のサンデール大佐は、砲兵隊将校で参謀本部に出入りできる者の仕業とみて、数人の士官を調べ参謀本部で唯一のユダヤ人士官アルフレド・ドレフュス大尉の筆跡が、書類の筆跡と似ているとして1894年10月15日陸軍省で司法警察官に指名されたパティ・デ・クラム司令官に命じて逮捕させました。

ドレフェスが有罪である唯一の証拠は、この書類の筆跡がドレフュス本人の筆跡と似ていることだけでした。筆跡鑑定に当たった4人の内2人は判定不能とし、1人はドレフュスではないと否定しましたが、パリ警視庁鑑識課のアルフォンス・ベルティヨンは筆跡の違いはドレフュスが故意に行ったとしました。

この時点ではドレフュスの有罪を決める証拠は、ドレフュスが書いた書類だけで、筆跡鑑定でも100%ドレフュスが書いたと証明できないため、有罪になるか無罪になるかは5分5分の状態でした。

また金銭的にも、ドレフュスは親から受け継いだ遺産と、妻の持参金と併せて年棒の20倍の資産があり、スパイ活動をしてお金を稼ぐ必要はありませんでした。

ドレフュス有罪に流れが傾いたのは、アンリ少佐が参謀本部を裏切る漏洩が1894年2月から存在した疑いがあり、機密上名前を出せないある「立派な人物」がドレフュス大尉を告発したと主張した。彼は法廷の壁に掲げられた十字架を指差しながら、その人物ははドレフュスであると宣誓したことでした。

それを裏付ける書類が裁判の最終日12月22日の前日、ドリフュスを逮捕したパティ・デ・クラム司令官により、被告とその弁護士を除いた裁判の関係者に送られました。

『Dの奴(canaille de D …)』と書かれた書類

この書類は、ドイツの武官シュワルツコッペンイタリアの武官パニツァルディの間で交わされた手紙でした。内容は(映画の字幕から)

『親愛なる友へ

Dの奴がくれたニースの

作戦地図を12枚同封します。

あなたのために最善を尽くすとのこと。」

と書いてありました。

『Dの奴(canaille de D …)』と書かれた書類

出典 L’ Affaire Dreyfus

しかし、この手紙に書かれた『Dの奴』とは、出入りの印刷業者ジャック・デュボアのことでドレフュスとは何の関係もありませんでした。

アンリ少佐はこれを知っていましたが、ドレフュスを陥れるため『Dの奴』をドレフュスとしてしまいました。

ユベール=ジョセフ・アンリ

出典 Wikipedia

1894年11月22日ドレフュスは軍法会議で有罪となりました。

 

ドレフュス大尉(1894年頃)

出典 ウィキペディア

1896年この事件のきっかけとなった最初の書類は、フランス陸軍の少佐、フェルディナン・ヴァルザン・エステルハージが書いた物と分かりましたが、フランス陸軍は誤審を認めずドレフュスは1906年に無罪判決を受けるまで、ギアナにある悪魔島に流されていました。

フランス軍防諜部長のジョルジュ・ピカール中佐は1896年事件の真犯人がエステルハージ(映画の字幕ではエステラジーになっています)であることを突き止め、ドルフュスの無罪を軍部に訴え彼の無罪を訴えましたが、軍部は軍事裁判の権威を守るためとして、抑えつけられてしまいました。

詳しいことは、映画のあらすじを見てください。

映画のあらすじと詳しい説明

ドレフュスが有罪となった後、ピカール少佐は中佐に昇格し、サンデール大佐の後任として防諜部の部長に就任しました。サンデール大佐は梅毒を患っており症状が悪化し、手足の麻痺の他、神経や脳が冒され正常な判断が不可能と認定されたためです。

1896年3月2日、ピカール中佐は、ドイツ大使館の駐在武官シュヴァルツコッペンがフランス陸軍士官エステルハージ少佐宛てに送った、スパイ活動が不十分であると判断し、彼との関係を断ち切りたいと通告する電報(「リトルブルー」)を手に入れました。

シュヴァルツコッペンからエステルハージに宛てた電報(「 リトル・ブルー 」)(1896年)。

出典 Wikipedia

この電報を古参の部下アンリ少佐に見せたところ、エステルハージはフランス北部の街ルーアンにある第74歩兵連隊におり、機密情報を得られる立場にないため監視しても無駄だと言われました。しかし、エステルハージは1877年から1880年まで防諜部に在籍しており、アンリ少佐と一緒に仕事をしていました(この部分は映画では省かれています)。そのためピカール中佐は、警察庁のデヴェルニーヌに彼の捜査を依頼しました。

 

歩兵第 74連隊司令官のフランソワ  フェルディナンド  エステルハージ

出典 Wikipedia

捜査の結果エステルハージは、赴任先のルーアンに行かずにパリにおり、パリのドイツ大使館に出入りしている写真2枚が手に入りました。同じく大使館に出入りしていたイタリアの武官パニツァルディも写真に撮られていました。

ピカール中佐は電報と2枚の写真を持ち参謀総長のボワデッフル将軍とビヨ陸軍大臣の所に訪れ、調査結果を報告しました。ビヨ陸軍大臣は調査の継続を命じ、さらにエステルハージから大臣の許に送られてきた、ルーアンからパリの参謀本部への転属願の手紙を渡しました。

部屋に戻ってエステルハージの手紙を読んでいる時、ピカール中佐はドリフェスが有罪となった決め手の書類の文字に似ていることに気が付きました。そこで裁判のとき書類の筆跡鑑定を行ったパリ警視庁鑑識課のアルフォンス・ベルティヨンに問題の書類とエステルハージの手紙の文字を調べて貰うと、両方の文書の筆跡が一致しました。

つまり、ドリュフェスは無罪だったのです。

 

ピカール中佐は再び陸軍参謀総長のボワデッフル将軍に訪れ、ドレフュスが有罪となった秘密書類を書いたのはエステルハージであり、ドレフュスの有罪を決めた軍事裁判は誤審であると知らせました。ボワデッフル将軍は情報局長のゴンス将軍に伝えるよう指示しました。

ピカール中佐は、書類を持って休暇中の情報局長ゴンス将軍のところに行き事情を話し、ドレフュスの再審を要求しました。

ゴンス将軍は軍事裁判の誤審を認めることは、軍の信頼と威信に傷が付くとして、口をつぐんでいるように命令しました。

それに対してピカール中尉は、軍事裁判の間違った判決によって罪のない者が有罪となることに納得がいきませんでした。

その後、ゴンス将軍はピーカル中佐の防諜部の部屋にやってきて、ドレフュス大尉に関する機密文書を持って行ってしまいました。

ドレフュスの有罪を証明する偽文書(偽ヘンリー)

防諜部のアンリ少佐は参謀総長ポワデフレ将軍と、情報局長ゴンス将軍からドレフュスの有罪を決定づける新たな証拠を見つけるよう、要請されました。しかし、証拠を得ることが出来なかった彼は、1896年11月1日、証拠となる文書を捏造して両将軍に提出しました。

偽ヘンリーとして知られる、捏造された文書

出典 Wikipedia

最初の『親愛なる友へ』と最後の『Alexandrine』の部分がイタリアの武官パニツァルディ(お待たせしました、やっと出てきました。正式な名前はアレッサンドロ・パニザーディ Alessandro Panizzardi )がドイツの武官シュヴァルツコッペンに送った文書から切り取ったもの。

真ん中の文章は、アンリ少佐が自分で書きました。内容は映画の字幕によると、

『 代議士がドレフュスについて

議会で質問するそうですが

ローマから

問い合わせがあっても

このユダヤ人とは

関係がなかったと

答えるつもりです。

あなたも聞かれたら

同様に願います。

彼との関係は誰にも

知られてはならないので。』 

と書いてあり、ドイツ武官シュヴァルツコッペンとイタリア武官パニツァルディが、ドレフュスと関係していることを示すものでした。

参謀総長ポワデフレ将軍と、情報局長ゴンス将軍はこの文書を何も調査せずに、ビヨ陸軍大臣に渡しました。

 

1896年11月10日、フランスの日刊紙Le Matin (ル・マタン)が、ドレフェス事件の元となった密書のコピーを掲載しました。ピカール中佐は機密情報を漏らした科で、パリからの出向を命じられフランス各州の視察旅行に出されました。ところがこの旅行はフランスの国内どころか、最後にはフランス領北アフリカのチュニジアまで送られ、次にリビアのトリポリに行くことになり、フランスに戻りました。

フランス軍はこれ以上情報が漏れないように、ピカール中佐を海外に送ったようです。

1897年1月、ピカール中佐の移動に伴い、アンリ少佐が中佐に昇進して防諜部の部長になりました。

1897年6月、ピカール中佐は逮捕を覚悟にアフリカから戻り、ストラスプール大学の学友であった弁護士ルイ・ルブロワに会い、軍の不正を訴えました。

ルブロワは上院副議長のシェイラー=ケストナー に打ち明け、ドレフュスが無実の罪を着せられていることを説明しました。

ピカール中佐はドリフュス事件を調べていたセーヌ県の軍司令官ペリュー将軍から調査委員会に呼ばれ、事件の始まりとなったドイツの武官シュヴァルツコッペンがエステルハージに送った電報(リトル・ブルーー)を偽造したことを認めるよう、要求されました。ピカールが断ると、委員長はモニエ外務大臣の妻ポリーヌに送ったピカールの恋文を出し、認めないと不倫関係を暴露すると脅しました。あまりにも汚いやり口に、ピカール中佐は委員会から退室しました。

弁護士のルブロワは、出版社主のシャルパンティエ、上院議員のアルチュール・ランク、下院議員のジョゼフ・レナック、新聞オーロール紙の主筆クレマンソー(後のフランス首相)、ドレフュスの兄マチュー・ドレフュス、作家のエミール・ゾラを集め、軍事裁判の不正を追及するキャンペーンを開始しました。

 

エステルハージの裁判(この部分は映画では省かれています。)

1897年11月15日、ピカール中佐の話を聞いて、ドレフュスの兄マチュー・ドレフュスは兄が有罪となった機密書類をエステルハージが書いたことを知り、苦情の手紙を陸軍大臣に提出しました。

翌11月16日、マチュー・ドレフュスが書いた手紙が朝刊に掲載され、軍はエステルハージの調査を開始します。

1898年1月10日、エステルハージの軍事裁判が始まり、ピカール中佐は疑惑の証明となる書類(リトル・ブルー)の発見者として裁判に出席しました。

1月11日、裁判の結果エステルハージは無罪となり、ピカール中佐はエステルハージを罪に陥れるための書類(リトル・ブルー)を捏造したとして有罪となり、60日間の懲役刑を言い渡されました。これはエステルハージがかって防諜部に在籍していたことを知ったピカール中佐が、防諜部員に知らせず独自に調査したことが、徒になりました。

私は告白する(J’accuse)

1898年1月13日、本当はスパイであるエステルハージが無罪となり、彼がスパイであることを訴えていたピーカル中佐が真実であるにもかかわらず証拠捏造で有罪となったことを知った作家のエミール・ゾラは、軍の不正に対する告発状をオーロール紙に掲載しました。

エミール・ゾラ

出典 ウィキペディア

 

公開状が掲載されたオーロール紙の第1面

出典ウィキペディア

この記事は、軍部に対する不信感を増しただけではなく、フランス国内の親ユダヤ人派と、反ユダヤ人派の対立が大きくなりました。

1898 年2 月 14 日のフィガロ紙掲載されたカランダッシュによる「家族の夕食」の絵。この絵は、ドレフュス事件中のフランス社会の分断を描いています。一番上で誰かが「何よりも、ドレフュス事件については議論しないようにしましょう!」と言っています。一番下では家族全員が争っていて、キャプションには「彼らは話し合いました」と書かれています。

出典 ウィキペディア

ピカール中佐は逮捕され、モン・ヴァレリアンの要塞監獄に送られる途中、この新聞を手に入れました。

1898年1月18日陸軍大臣のビヨ将軍は、エミール・ゾラとローロール紙に対して名誉毀損で告発状を提出しました。

エミール・ゾラの裁判

1898年2月23日、エミール・ゾラの裁判がセーヌ川のアサイズ裁判所で始まります。弁護士のルブロワは「海賊」の異名を持つ辣腕の弁護士フェルナン・ラボリをゾラの弁護人に任命しました。

ピカール中佐は証人としてこの裁判に出席し、エステルハージが真犯人とする証拠の書類「リトル・ブルー」について説明しました。

証人として「リトルブルー」を復元した防諜部のロート大尉が呼ばれましたが、彼はそのような書類は存在せず、ピカール大佐が偽造したと偽証しました。

次に証言台に立ったアンリ中佐(彼はピカール中佐の後を継いで防諜部の部長になり中佐に昇進していました)は、ドレフュスの有罪を証明する『Dの奴と書かれた書類』を親友のルブロワ弁護士に見せていたと証言しました。ピカール中佐がそんなことはしていないと否定すると、アンリ中佐は陪審員に向かって「彼は嘘つきだ」と叫びました。これがもとで二人は決闘することになります。

映画ではピカール中佐が退場するとき、アンリ中佐に向かって何か言っている場面がありました。セリフもなく字幕もありませんが、多分この時「嘘つき」と呼ばれたピカール中佐が、決闘を申し込んでいたと思われます

 

フランス軍でドレフュス事件を担当していたペリュー将軍は、アンリ中佐が偽造した「偽ヘンリー」(この時点では偽造したとは分かっていませんでした)を元にドリフュスが犯人であり、軍事裁判所は誤審していないと証言しました。

エミール・ゾラの裁判で証言するペリュー将軍

1898年 ルイ・レミー・サバティエ 作画

出典 Wikipedia

この裁判の裁判長は明らかに軍部に味方しており、ラボリ弁護士の講義や反論は受け入れてもらえませんでした。

裁判の結果エミール・ゾラは軍の名誉を落としめるため、故意に虚偽の内容の告発状を公開した名誉毀損の罪で有罪となり、禁固1年と罰金3000フランの刑を受けてしまいました。

ピカール中佐も、エステルハージを有罪にするための証拠(リトル・ブルー)を捏造とした罪で1年の刑を言い渡されました。

ラボリ弁護士はこの判決を不服とし、裁判のやり直しを求めて上訴しました。

2月25日、ピカール中佐は軍籍を剥奪されました。

3月5日、ピカールとアンリ中佐は陸軍学校の施設で決闘を行い、アンリ中佐は右腕を負傷しました。

6月16日、ラボリ弁護士の求めていた上訴は棄却されました。

7月13日、判決に従ってピカールは、サンテ刑務所に投獄されます。

7月18日、エミール・ゾラはクレマンソーの忠告に従って、投獄される前にイギリスへ亡命しました。

8月13日午後10時、新しく陸軍大臣となったゴドフロワ・カヴェニャックの部下ルイ・キュイニ司令官は、ドレフュスの有罪を決定づけたイタリアの武官パニツァルディがドイツ武官シュヴァルツコッペンに送った文書(いわゆる偽ヘンリー)をランプの光に透かした見たら、最初の部分と最後の署名の部分の紙質と、本文が書かれた部分のの紙質が違うことに気が付きました。

8月30日、カヴェニャック陸軍大臣がアンリ中佐を招集して尋問したところ、アンリ中佐は文書の偽造を自白しました。アンリ中佐は直ちに逮捕され、モン・ヴァレリアン要塞刑務所に連行されました。

8月31日、モン・ヴァレリアン要塞刑務所の独房で、カミソリで喉を切って自殺したアンリ中佐が発見されました。

モン・ヴァレリアン要塞の独房でのアンリ中佐の自殺を報じた Le Progrès illustré紙。

1898年9月11日。

出典 Wikipedia

映画ではアンリ中佐はピカールとの決闘に負けて、自白したように見えますが、実際には陸軍大臣から偽造したとの証拠を突きつけられて、自白しました。

1898年9月1日アンリ中佐が自殺した翌日、エステルハージはブリュッセル経由でフランスからイギリスに亡命しました。彼は二度とフランスの土を踏むことはなく、1923年8月21日、イギリスのハーペンデンで亡くなりました。

 

アンリ中佐が自殺した後、ピカールが釈放されたように描かれていますが、彼が釈放されたのは翌年の1899年6月13日でした。

彼が1898年エミール・ゾラの裁判でリトル・ブルーの書類を偽造した罪で有罪を言い渡されたのが、1898年2月23日、彼がサンテ刑務所に投獄されたのが、1898年7月13日なので、1年の刑期をほぼ満了したことになります。

従って映画のように、エステルハージが街を歩いているピカールを見つけ、彼を襲うことは実際にはあり得ません。

1899年6月3日、破毀院(日本の最高裁判所に当たります)は1894年の判決を破棄し、この事件はレンヌの軍事裁判所に差し戻されました。

6月4日、イギリスに逃亡していた作家エミール・ゾラが、フランスに戻ってきました。

6月9日、ドレフュスは、新たな裁判のために悪魔島をはなれました。

6月13日、上に書いたように、ピカールが刑務所から釈放されました。

アルフレッド・ドレフュスの再審

8月7日、アルフレッド・ドレフュスの裁判が第10地域の軍事裁判所で開始されます。ドリフュスの弁護士にはフェルナン・ラボリとエドガー・デマンジェの二人が就きました。

8月14日、フェルナン・ラボリ弁護士は、ジョルジュ・ピカールとエドモン・ガストと歩いていた所を何者かに拳銃で撃たれ、負傷しました。

弁護士フェルナン・ラボリ暗殺未遂事件を報じた、

Le Petit Journalの表紙。

1899年 8 月 27日

出典 Wikipedia

幸い怪我は軽く1週間の入院で済み8月22日から裁判に復帰しました。しかし、撃った犯人は見つかりませんでした。

1899年9月9日、裁判の結果5対2でアロフレッド・ドレフュスは反逆罪で有罪となりました。ただし情状酌量の余地があるとして、終身刑から禁固10年に減刑されました。

その後

1899年、ドレフュスは共和国大統領エミール・ルーベから恩赦を申し入れられ、これを受け入れて赦免(罪を免除)されました。

これはピカールや弁護士のルブロワ、ラボリ、その他クレマンソーやゾラ達をガッカリさせました。彼らの目的はドレフュスの無罪獲得より、誤審を冒し、それを隠蔽しようとした軍の組織的な犯罪を急談することでした。゜

1906年7月12日、破毀院はドリフュスに対する軍事裁判の判決を無効にしました。それにより、ドレフュスの裁判で有罪となった、アルフレッド・ドレフュス、ジョルジュ・ピカール、エミール・ゾラは正式に無罪となりました。

7月13日この決定により、ドレフュスは1階級上がって少佐、ピカールは2階級上がって准将となり、軍に復帰しました。

しかし、肝心の誤審をしたことの隠蔽を図った軍幹の不正は追求されず、不問のままとなりました。

1906年10月、クレマンソーが首相になると、ピカールは彼から陸軍大臣に指名されました。

映画は、陸軍大臣となったピカールに、ドレフュスが昇級に対する差別に抗議しに来て、会っているところで終わります。。

 

作家エミール・ゾラが、ドリフュス事件に参加して戦った映画があります。↓

映画 「ゾラの生涯」無実の罪で流刑に処されたユダヤ人将校ドルフュスの疑惑を晴らすため戦った、小説家エミール・ゾラの話です。

 

フランス軍内部のユダヤ人差別はこれで終わらず、第二次世界大戦中ドイツ占領下のフランスでは、第一次世界大戦の英雄ペタン将軍が率いるヴィシー政権で大規模なホロコーストが行なわれ、約72万5千人のユダヤ人が犠牲となりました。

詳しくはこちらをどうぞ ↓

映画 『黄色い星の子供たち』1842年7月16日から17日にかけて、ドイツ占領下のパリで外国籍のユダヤ人の大量検挙事件が起きました。

その他、フランスでのホロコーストに関する映画があります ↓

映画 『サラの鍵』1942年、パリでユダヤ人の一斉検挙が行われました。少女サラは、幼い弟が捕まらないように納戸に隠し、鍵を掛けました。しかしサラと両親は検挙されて、収容所へ送られてしまいました。

映画『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』1961年からフランスでは、第二次世界大戦の記憶が途切れないように若者を相手にコンテストを行っています。この映画は2009年のコンテストに優勝した、高校生達の話を元に作られました。

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