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亀仙人2第1次世界大戦 アメリカの参戦
1917年4月6日、アメリカはそれまでにとっていた、ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しないモンロー主義を捨て、ドイツに宣戦布告し第1次世界大戦に参加しました。
アメリカ参戦の理由
ルシタニア号事件
アメリカ参戦の理由の第1に挙げられるのは「ルシタニア号事件」です。1915年5月7日イギリスの客船ルシタニア号がドイツのUボートU-20の雷撃を受け沈没しアメリカ人の乗客128名を含む1198名が犠牲となりました。これによりアメリカの参戦を望む声が高まり、参戦に傾いたというものです。
しかしこれには疑問があります。ルシタニア号事件はアメリカが参戦する2年前に起きたことと、当時ドイツは英仏による海上封鎖に対抗するため、イギリス周辺の海域を「戦争区域」とし、その区域を通過する敵商船は予告なしに潜水艦が魚雷で攻撃する「無制限潜水艦作戦」を宣言していました。ルシタニア号はイギリス船籍のためイギリスの国旗を掲げていました。
当時、国際法で民間船での武器弾薬の輸送は禁じていましたが、ルシタニア号は173トンの弾薬を積んでいました。このことは当時のアメリカのウィルソン大統領が積み荷の目録を公開することを禁じたため明らかにされていませんでしたが、最近の潜水調査でも実際に大量の弾薬を積んでいることが分かりました。
その上、ドイツは、ルシタニア号の乗客募集の広告の下にドイツ大使館を通じて撃沈予告の広告も出していました。
右がその新聞広告です。上半分がルシタニア号の寄港地のスケジュールと乗客募集の広告で、下の枠に囲まれた部分がドイツが出航前に通告した撃沈予告の部分です。日本語訳は
警告!
大西洋の航海に乗り出される渡航者の皆様は、ドイツ帝国とその同盟国、イギリスとその同盟国の間に戦争状態が存在することを認識してください。すなわち、戦場はブリテン島の周辺海域も含みます。ドイツ帝国政府からの公式通達によれば、イギリスとそのあらゆる同盟国の国旗を掲げた大型船は、それらの海域において攻撃対象になります。イギリスとその同盟国の船に乗って戦場である海域に航海に乗り出す渡航者の皆様についても同様であり、その危険は自分自身でご承知下さい。
ドイツ帝国大使館,
ワシントンD.C. 1915年 4月22日
これに関しては、民間の客船を攻撃したドイツも悪いが、民間の船(しかも客船)を使ってイギリスに弾薬を輸送しようとしたアメリカも悪いと思っています。さらにイギリスは攻撃されるのを承知で船を出港させ、攻撃されてアメリカ人の乗客が被害を受ければ、アメリカが参戦すると思っていた節もあります。
そのためかウィルソン大統領は、ドイツに対して強い抗議文を送っただけでアメリカの参戦は見送りました。
またドイツも国際的に批判が高まったため、「無制限潜水艦作戦」を一旦中止しました。
ルシタニア号事件の映画はこちら ↓
・ 「ツィンメルマン電報事件」
1916年1月11日、メキシコの自称革命家(アメリカでは山賊と言っている)パンチョ・ビリャはアメリカ政府が対立している派閥のカランサの大統領就任を承認したことに抗議し、チワワ州でアメリカ人の鉱山技師ら16にんをさつがいし、3月9には国境を越えニューメキシコ州コロンバスにあったアメリカ騎兵隊の駐屯地を襲撃し17人の市民を殺害した。
怒ったアメリカのウィルソン大統領はのちにヨーロッパ派遣軍の総司令官となるパーシング将軍と12000人の軍隊をメキシコに派遣した。ところが6月にビリャ軍と間違えてメキシコ政府軍を攻撃したことから、メキシコとアメリカの対立が強まった。
そんな折、1917年1月、ドイツの外相アルトゥール・ツィンメルマンは、メキシコ駐在の外交官にアメリカに対抗するた、ドイツとメキシコのが同盟を結ぶよう電報で指示を出した。この電報は暗号で出されたがイギリスの情報機関(ルーム40)によって解読され2月には広く一般にも知られるようになった。電文の内容は
もしアメリカ合衆国が参戦するならば、ドイツはメキシコと同盟を結ぶという提案だった。さらに、アメリカへのメキシコの先制攻撃はドイツが援助し、大戦でドイツが勝利した場合には米墨戦争によってアメリカに奪われたテキサス州、ニューメキシコ州、アリゾナ州をメキシコに返還するというものであった。また、メキシコにドイツと日本の仲裁と、日本の対米参戦の説得を促すものであった。
また同じ2月にドイツは「無制限潜水艦作戦」を再開したことにより、3月にアメリカの商船3隻が相次いでUボートに撃沈される事件が起きた。このため反ドイツの世論が一挙に高まり、1917年4月6日アメリカは第1次世界大戦に参戦することを決めドイツに対して宣戦を布告しました。
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本当の理由
ここまでは教科書などに書かれているアメリカ参戦の理由ですが、最後にドイツ・オーストリア側とイギリス・フランス側に分けたアメリカの輸出額の推移を見てみます。
ドイツ・オーストリア側
1913年1億7000万ドル
1916年100万ドル
イギリス・フランス側
1913年8億ドル
1916年30億ドル
第1次世界大戦前に比べると、イギリス・フランス側の貿易額が急に伸びています。ドイツ・オーストリア側が減ったのは、イギリスとドイツが共にドーバー海峡や北海で、海上封鎖や通商破壊をしたため、ドイツへの商船の通行が出来なくなったためです。
アメリカが参戦を決意するあたりから、ロシアの動向がおかしくなりついには第1次世界大戦から脱落してしまいました。このためドイツはロシアとの東部戦線にいた兵士を西部戦線に回すことができ戦いに対して優位な地位を占めることになります。実際ドイツもアメリカの参戦を予想してアメリカ軍が出て来る前に勝負をつけようとして、1981年の春に一斉に反撃に出ました。
イギリス・フランス共に戦争中のためこれだけの金額を払う力はありませんから、ドイツに勝ちドイツの払う賠償金を当てにしてアメリカの債権という形で借金をしていました。もし、ドイツが勝ってしまうとこれらり債権が焦げ付いてしまいます。そのため財界からの圧力で参戦したというのが、本当の理由みたいです。
アメリカは参戦することに決めたのですが、当時アメリカの陸軍には8~10万人の兵士しかいませんでした、そこでアメリカは徴兵制を敷き21歳から30歳の男性に登録を義務付けました。しかし、何十万人のずぶの素人を戦える兵士にするのに時間がかかり、1917年末に派遣されたのは17500人であったが、その後次々と増強され1918年5月末には100万人に達した。
総司令官ののパーシング小将はアメリカ軍を英仏軍の兵員不足を補填するのにつかわれるのに反対し、他国の軍に入らず独立した「アメリカ軍」として戦うことを主張した。
1918年春以降前線の比較的静かな場所で守備に就き実戦経験を積み、1918年5月28日カンティーニの戦いと6月6日ベローの森の戦いで勝利した。
1918年9月12日から始まったサンミエルのたたかいでパーシングは50万をこすアメリカ第1軍を指揮しこの戦いで勝利した。
その後に行われた1918年9月26日から11月11日まで続いたムーズ・アルゴンヌ攻勢で100万人以上のアメリカ軍とフランス軍により、ドイツ軍が春季攻勢で奪ったフランスの領土を奪還した。
1918年11月11日ドイツの無任所大臣であったエルツベルガーは、フランスのコンピエーニュ近郊の森に止められていた客車で休戦協定に署名し、第1次世界大戦は終了しました。
もっと詳しく知りたい方は、下のサイトをご覧ください
第1次世界大戦当時、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは戦争を止めるためいろいろ動いていました。 ↓
第1次世界大戦で戦ったアメリカ兵の映画です。
徴兵によりヨーロッパに出征して、両手足を失った兵士の話はこちら ↓
第1次世界大戦で活躍したアメリカ軍兵士の映画はこちら ↓
アメリカ参戦前から、フランス外人部隊で空軍パイロットとして戦った、アメリカ人義勇兵の物語 ↓
第1次世界大戦終戦直前、敵陣で行方不明になった黒人兵部隊を救出する話です。
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