なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その1

time 2019/11/30

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その1

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亀仙人2

アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの登場と、大戦初期のアメリカの動き

今回は第1次世界大戦の終結に大きな力を発揮した、アメリカのウィルソン大統領と、アメリカが連合国側の一員として参戦を決定するまでの動きを、書いていきます。

ここから現在に至るまで「自由と民主主義」を守るために、積極的に海外の戦いに介入する、アメリカの外交姿勢が始まりました。

生い立ちと大統領当選まで

ウッドロウ・ウィルソン(アイキャッチ画像の人)は1856年2月28日牧師であった父ジョゼフ・ラグルズ・ウィルソンの長男として、バージニア州スタントンで誕生しました。

父ジョゼフ・ラグルズ・ウィルソンは息子に牧師を継がせようとしましたが、ウッドロウ・ウィルソンは「神の子」として政治を通して世界を平和にすることを目指して生きる道を選び、1873年にノースカロライナのデイヴィッドソン大学、1年後にはブリストン大学に編入して政治と歴史を勉強し、1879年卒業後にはバージニア大学で1年間法律を学びました。

1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を習得して、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任しました、。

その後1902年から1910年までブリストン大学の総長を務め、1911年から1913年までニュージャージー州知事として就任。

1912年の大統領選挙に民主党の候補として出馬して当選し、1913年3月4日から1921年3月4日まで連続2期アメリカ合衆国大統領を務めました。学問上の功績により博士号を習得した、唯一の大統領です。

平和の使者、それとも破壊者?

牧師の家に生まれ育ったウィルソン大統領は、『平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイによる福音書5章9節)』の教え通り、世界を平和に導くことが、神が自分に与えた使命であると思っていました。

そして、世界を平和に導くためには『独裁政治』ではなく『自由と民主主義』を普及させることが必要であると考え、そのためには武力の使用もやむなしと考えていました(宣教師外交)。

第1次世界大戦が勃発すると、牧師の子であり熱烈なキリスト教信者で、大学の総長を務め、戦争を終わらせ、世界中に平和をもたらすことがアメリカの使命であるというウィルソンに対して、アメリカの保守的なキリスト教徒たちは熱烈な支持を与えました。

このアメリカの外交姿勢は現代までも続き、ソビエトの『共産主義』、各国の『民族主義』との間で、『自由と民主主義』の戦いを生み出しているのは周知の事実です。

アメリカの外交姿勢

モンロー主義

第1次世界大戦前のアメリカの外交姿勢は、1823年第5代アメリカ大統領ジェームズ・モンローが「モンロー教書」に示したモンロー主義と呼ばれる外交政策によって行われていました。

モンロー主義とは

1・ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。
2・南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。
3・南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない。
4・現在、独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす。

つまり、アメリカはヨーロッパに介入しない代わりに、西欧諸国は南北アメリカ大陸におけるアメリカに干渉するな、ということです。

1898年、カリブ海のキューバが独立めぐってスペインと戦うようになると、アメリカはキューバにおける砂糖資源の利権を守るため当時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーはスペインに宣戦布告しました。

この戦いは4か月でアメリカの勝利に終わり、対スペインとの講和が成立し、パリ条約でキューバの独立が認められ、アメリカは旧スペイン領であったフィリピン、プエルトリコ、グアムを領有することになりました。

1901年9月6日、第25代アメリカ大統領マッキンリーが無政府主義者レオン・チョルゴッシュに暗殺されると、副大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領に就任します。

棍棒外交

ルーズベルトは大統領に就任すると、マッキンリー時代海軍次官を務めていた時に強化したアメリカ海軍の力を背景に、近隣諸国が安定した自国の政府を維持できなければアメリカが関与して、安定した政府を作るという外交政策を打ち出しました。

この外交方針は、「speak softly and carry a big stick(棍棒を携え、穏やかに話す)」との本人の言葉から棍棒外交と呼ばれます。

カリブ海で棍棒を持ったセオドア・ルーズベルトの風刺画(トーマス・ナスト画)

出典 ウィキペディア

棍棒外交の例としては、1903年パナマをコロンビアから独立させ、パナマ地峡の永久租借権を手に入れ、パナマ運河を建設しました。

1906年には独立したキューバで、精糖産業でのアメリカ資本の独占と、度重なる政府の不正で、国民の不満が爆発して反乱が生じました。この反乱を鎮めるため、アメリカは軍隊を派遣してキューバを占領しました。この占領は1918年自由主義者のホセ・ミゲル・ゴメスが大統領になり、終了しました。

ドル外交

ルーズベルトの後アメリカ大統領になったウィリアム・タフト大統領は、「弾丸に変えてドルで」という、アメリカの経済力でラテンアメリカ地域を支配しようとしました。

ニカラグアでは、欧州に負っていた対外債務をアメリカが肩代わりすることによって、ニカラグア政府をアメリカの保護国化(独立国としての主権は確保しているものの、外交権を他国に奪われている状態の国家)にしようとしましたが、結局武力による干渉で成功しました。

また中国に経済的勢力を伸ばそうとして、満州に鉄道を建設するためにドイツ・フランス・イギリス・アメリカの4か国による国際借款団を提唱しましたが、日本とロシアの反対で、成立しませんでした。

宣教師外交

タフト大統領の後、1913年に大統領となったウィルソンは、世界を平和にするためには民主主義の普及が必須であると考え、たとえ武力を用いても民主主義を普及させるべきとしました。

かつてスペインの宣教師たちがキリスト教を伝道する際に、時には武力を用いることも辞さなかったことにちなんで、ウイルソン大統領の外交政策は宣教師外交と言われます。

彼は手始めに、1910年以来武力による権力の奪取が続き、内乱状態にある隣国のメキシコに目を付けました。

1910年メキシコで30年以上大統領をづけていた82歳のディアス大統領に対して、マデロが大統領に出馬しました。ところがディアス大統領は、対抗馬のマデロを逮捕監禁してしまいます。マデロは選挙後に釈放され、すぐにアメリカに亡命しました。

82歳という高齢のディアス大統領の側近たちは、将来を心配し、現在の体制維持を時を条件に、1911年5月ディアス大統領を辞任させ、マデロを迎え入れました。1911年11月16日、大統領選挙により、マデロは正式にメキシコ大統領に就任します。

しかし旧体制の側近たちにより支えられていたマデロは、ディアス伊達棟梁時代の政権体制を維持した政治を行いました。

この為、軍部を掌握していたビクトリアーノ・ウエルタ将軍がアメリカ大使の援助を受け1913年2月9日にクーデタをおこし、マデロ政権は崩壊しました。

大統領となったウエルタは数人の議員を含む百人近くを処刑し、議会と裁判所を閉鎖、軍事独裁政権を確立した。ウッドロウ・ウィルソン・アメリカ大統領はウエルタ政権を承認せず、メキシコの重要な貿易港であるベラクレス港にアメリカ軍を上陸させ、政権交代するよう圧力をかけました。

マデロ政権時代、国防相を務めていたベヌスティアーノ・カランサが、反革命勢力打倒と護憲主義を掲げウエルタ政権と対抗しました。1913年7月14日ウエルタ大統領は退陣してフランスに亡命しまし、カランサは暫定大統領に就任します。

その後も旧支配層と革命派の戦いは続き、1915年5月1日カランサがメキシコ大統領に就任し、7月には全土をほぼ制圧して10月にはアメリカ合衆国もカランサを承認しました。

1916年カランサは憲法草案を公布して、翌年2月5日に新憲法が成立しました。

しかし、その後も国内の内戦は続き、安定した政権運営が出来るようになったのは、1940年になってからです。

このあたりは強力な支配者のフセイン大統領を、アメリカのブッシュ大統領が倒した後のイラク国内の混乱と似ています。

またカリブ海のハイチに対しては、経済的に困窮しているところをドイツが進出を狙っているのを阻止するため、海兵隊を上陸させ軍政を敷きました。そのあと民後主主義を育成するために、民主主義的な憲法を押し付けたところ、かえって反米感情を盛り上げてしまいます。

1912年アメリカ大統領選挙

ウィルソン大統領とハウス大佐

ウィルソン大統領は、大学で政治や歴史、経済などを学んだものの実際の国際的な経済、外交などに関しては素人同様でありました。その大統領を助けたのが、ハウス大佐ことエドワード・マンデル・ハウスでした。

エドワード・マンデル・ハウス 1915年

出典 Wikipedia

ハウスは1858年7月26日、テキサス州の大富豪でヒューストンの市長を務める父親トーマス・ウィリアム・ハウス・シニアの7番目の子としてヒューストンで誕生しました。

彼は、コーネル大学在学中の3年目に父親が急逝し、テキサス州でも5指に入る広大な綿花農場を始め、莫大な財産を受け継ぎました。そののち農園を売却し、金融業に移行します。

金融家としての彼は民主党に身を投じ、ジェームス・S.ホッグ(1892年)、チャールズ・A. Culberson(1894)、ジョセフ・D.・セイヤーズ(1898)の4人のテキサス州知事の政治顧問として活躍し、テキサス州に貢献した人として名誉大佐の称号を手に入れ、ハウス大佐と呼ばれるようになります。

金融家としての彼は、過去2回廃止されたアメリカの中央銀行の設立を目指すグループに入り、ロスチャイルド、ウォーバーグ、モルガン、ロックフェラーのアメリカ4大財閥を通じ、アメリカ国内だけでなく広く欧州に対しても政財界に人脈を築き上げました。

1912年の大統領選挙で、共和党の現職大統領ウィリアム、タフトと前大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領候補指名をめぐって争い、敗れたルーズベルトは新たに進歩党(革新党)を設立し、大統領選に立候補したため、共和党は分裂してしまいました。

これを見たハウス大佐は、かねてからの夢である、南部出身の大統領を誕生させるため、南部のバージニア州出身のウッドロウ・ウィルソンの選挙参謀になり、1912年の大統領選で当選させました。

この選挙戦を通じハウス大佐は、現実の政治活動に疎いウィルソン大統領から

「ハウス氏は私の第二の人格である。彼はもう一人の私だ。彼の考えは私の考えだ」

と言われるまでの信頼を獲得し、ウィルソン大統領を通じ、政策の立案から経済計画、外交政策を実質的に決定するようになりました。

ハウス大佐は、かねてから懸案であった中央銀行と同じ機能を持つ、連邦準備制度の元となる連邦準備法を成立させます。

また大企業による独占を防止するためのクレイトン法、不公平な取引を防ぐ連邦取引法、富裕層への課税を強化する累進課税の導入など進歩主義的な国内改革補実行しました。

海外的には、先に述べたメキシコの内乱に介入します。

このような時にヨーロッパで第1次世界大戦が勃発しました。

第1次世界大戦開戦とアメリカ参戦まで

1914年、ハウス大佐のヨーロッパ派遣

1914年春、ウィルソン大統領は、風雲急なヨーロッパに起こるであろう戦いを未然に防ぐため、ハウス大佐を大統領代行特使として、ヨーロッパ歴訪に派遣しました。

一応これは表向きであって、実際はハウス大佐は銀行家であり、1913年に成立した連邦準備制度も、恐慌が起きたとき通貨を安定させ、銀行が倒産するの防ぐ目的がありました。

今回の歴訪も、ヨーロッパ各国(特にイギリスとドイツ)の銀行家のツテで政財界の大物と会い、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世が計画している3B政策でイギリスと軋轢を起こすよりも、アメリカから原油を輸入した方が得になると、勧めるつもりでした。ちなみにハウス大佐の出身地テキサスは、原油の一大産地です。

そのため特使と言っても、費用は全部ハウス大佐が自費で賄っています。

ところがこの旅行中に、第1次世界大戦のきっかけとなる、サラエボ事件が起こります。

以下の文章は、大阪朝日新聞 1926年3月3日から1926年5月19日 (大正15年)に連載された『ハウス大佐回顧録』を参考にさせていただきました。

1914年5月27日、ジェラード駐独大使邸で行われた晩餐会において、ドイツ海軍のテルヒッツ提督と1時間ほど話し合った。

『私は、イギリスとの建艦競争でドイツ海軍がイギリスを脅かすほどの艦隊を持つようになれば、必ずイギリスと、戦うようになるだろうとの意見を述べました。

テルヒッツ提督は、余も戦いは望まぬが、もし戦った場合、相手がそれ相応の被害を受ける覚悟を与える程度の戦力は、必要である』

と言っていた。

1914年6月1日、ジェラード大使の骨折りにより、ポツダムで行われるシュリツペン祭(㊟白パンの祝典)で、ドイツ皇帝と単独会見が出来ることになりました。

㊟ドイツでは小麦の生産が難しく、普段はライ麦で作られた黒く固いパンを食べていました。この日、ドイツ皇帝は宮殿で、兵士たちと一緒に、小麦で作られた白いパンを食べ、ワインを飲んだりします。また、閲兵が行われたり、勲章の授与したりします。

祝典の後ドイツ皇帝と応接室で会談しましたが、私が

「英米独の間には共通の利害がある、三国が協定して立てば、世界の平和は維持することが出来る。」

と説くとドイツ皇帝はすぐに同意した。海軍の増強に対してドイツ皇帝は、

「ドイツが発展するためには、本国の4倍もあるアフリカや東アジアの植民地との海上輸送の安全を確保し、露仏との戦いに備えるためには欠かせない」

と述べ、止める気配はありませんでした。

続いてハウス大佐はフランスを経由してイギリスに入り、1914年6月17日と6月24日にイギリス外相エドワード・グレイ、翌25日にはイギリス蔵相ロイド・ジョージと会談しました。

1914年の第3代準男爵サー・エドワード・グレイ

出典ウィキペディア

 

外相としてのエドワードグレイは、フランス・ロシアと組んでドイツを包囲する三国協商をまとめ上げ、ドイツに対して強硬派で知られていました。そのためドイツに対して、その行動を抑えるための積極的な外交を行わず、第1次世界大戦を誘発させた原因の1つと見なされています。

この会談の模様は6月26日付のハウス大佐から、ウィルソン大統領に送られた書簡と、7月7日にハウス大佐からドイツ皇帝にあてた書簡に綴られています。

この最中の6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエヴォにおいて、セルビア人民族主義者に暗殺されるサラエボ事件が起こりました。

この2通の書簡によりますと、

  • フランスの政治家たちは普仏戦争の復讐は忘れ、アルザス・ロレーヌ地方の回復も忘れ、現在のままで自主独立が確保できれば十分と考えているらしいこと。
  • 三国協商については、イギリス・フランス・ロシアとの間に公式文書による協定はなく、ただお互いの利益のため話し合いによって決められたことであること。(つまり協商の相手国が攻撃を受けたとき、そこを援助する義務規定がないことを意味します。ドイツはこれを受け、第一次世界大戦で、フランスやロシアと戦っても、イギリス本国に影響が及ばない限り、イギリスは参戦しないだろうと考えていました。)
  • ヨーロッパの平和のためにはイギリスとドイツ間の会談が必要であり、アメリカがこの会談の仲介の労を取ることに同意している。

この三点の事項が、両方の書簡に書かれていました。

ところがドイツ皇帝に対する話し合いの結果を知らせる書簡が送られる前日の7月6日、ドイツはオーストリアに対して、もしセルビアと戦争になった場合、ドイツは無条件の支援を提供する(いわゆるドイツの「白紙小切手」)ことを確約しました。その日ドイツ皇帝は恒例になっている、ノルウェーへのヨット旅行に出かけたため、7月7日に送ったドイツ皇帝あての手紙は届きませんでした。

ロシア皇帝がヨット旅行を中止して帰国の途に就いたのは、7月24日、オーストリアがセルビアに対して最後通牒を送付したとの知らせを受けた後でした。

このため、ヨーロッパにおける戦争を未然に防ごうとするアメリカの努力は徒労に終わり、ハウス大佐は一旦アメリカに帰ります。

ハウス大佐がアメリカに帰国した後、イギリスのグレイ外相は平和のため、ドイツとの会談を続けようとしてていました。

7月24日、イギリス外相エドワード・グレイ卿はドイツ、フランス、イタリア、イギリスのような「セルビアに直接的権益を持たない国は、平和のために同時に行動すべきだ」と呼びかけ、7月26日この4か国による大使間の会議が設定されました。しかし、ドイツはこの会議への招待を断ります。

7月29日、平和を維持するためにエドワード・グレイ卿は、ドイツに対してオーストリアとセルビアの仲介を求めました。

しかし、グレイ外相が受け取ったのは、ドイツ軍が中立国ベルギーを通過させてフランスと戦うつもりである、との駐英ベルリン大使からの知らせでした。

第1次世界大戦開戦当時多くの人々は

「落ち葉のころ、クリスマスまでには家に帰れる」

と読んでいました。もちろんハウス大佐もそう思っており、

戦争は短期で終わり、イギリスとドイツの2大国が戦うことにより、戦後アメリカの経済力が台頭し、アメリカが大国として発展するだろう。またヨーロッパでの戦争で各国の工業施設が破壊されることにより、武器・弾薬を始めとする軍需品の輸出で潤うに違いないと考えました。

しかし、それには大きな問題がありました。ウィルソン大統領です。ガチガチのキリスト教徒てあるウィルソン大統領は、ヨーロッパで何が起ころうと、アメリカは介入しないモンロー主義を支持していました。

 かくしてハウスは《中立》をウィルソンに進言したが、特需によるボロ儲け話を説き起こしても大統領の反応は鈍いと見越し、ひと工夫している。なにを言ったかというと、

「天なる神がウィルソン大統領に望んでいることは、平和の精神を具現し、道義の審判者として世界のために公平無私を貫くことです。」

と始めたのである。

引用 消えた帝国―大統領ウィルソンの挫折 本多 巍耀 (著)26頁 芙蓉書房出版

神から世界を平和に導く使命を与えられたと信じるウィルソン大統領は、1914年8月4日「中立」を宣言します。

そして8月18日、ウィルソン大統領は国民に対して

「名目だけではなく、実質的にも中立を守り、考え方、行動においても公正である」事を要求し、「道義の審判者」として、調停を通じて世界に平和の贈り物を授けたいと訴えました。

このためにハウス大佐を特使としてイギリス・ドイツに派遣し、和平策を模索することにしました。

1915年ハウス大佐のヨーロッパ歴訪

ふたたび、ハウス大佐の回顧録に戻ります。

1915年1月30日、ハウス大佐は戦争終結の可能性を探るべく、後にドイツ潜水艦に撃沈させられるルシタニア号に乗船して、ニューヨークからヨーロッパに旅立ち、2月6日にロンドンに到着しました。

1915年2月7日のグレイ外相の会談に続き、3月20日にフランスを経由してドイツに入り、ホルベーク宰相、ツィンメルマン外務次官(1916年から外務大臣となり、アメリカの参戦を促したツィンメルマン電報事件を起こした)と話し合った後、4月16日にはフランスのポアンカレ大統領らと会談し、4月28日に再びロンドンに向かいました。

5月2日、ハウス大佐は米国大使館で行われた晩餐会に出席していましたが、電報でその日の午後2時、大佐の乗ってきたルシタニア号がドイツ潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没したことを知りました。乗客乗員1198名が犠牲になり、その中に128名のアメリカ人が含まれていました。

この事件でアメリカ人にドイツに対する非難がおこり、参戦もやむを得ないとの世論が起こりました。

ルシタニア号沈没事件を扱った映画の解説です。 ↓

映画「U-20」アメリカ参戦のきっかけとなった豪華客船ルシタニア号撃沈事件の映画です。

なぜこのようなことが起こったかというと、当時海軍大臣のチャーチルは、第1次世界大戦が起こる直前、世界中に散らばっている主な艦隊をスコットランドの北にあるスカパーフローに集結させていました。

イギリスは国民の必要とする食糧の3分の2を始め、生活必要物資の約半数は海外から運んでくる貨物船に頼っていました。

そのため、全世界につながる海上交通路(シーレーン)を守るために世界随一の海軍力を持っていました。

またドイツも、ジャガイモと黒パンの元となるライ麦は自給出来ましたが、それ以外の小麦などの農産物のほとんどと、家畜の飼料などは、海外からの輸入に頼っていました。

また戦争に必要な石油やゴムなども、海外から輸入していました。

この海上交通路を守るため、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世はティルビッツ少将を海軍大臣に任命して大規模な海軍の増強を命じました。

やがてドイツはイギリスについで世界第2位の、海軍を作り上げます。

この辺の詳しい事情は こちらに書いておきました。 ↓

解説 「ユトランド沖海戦」 第1次世界大戦で唯一の主力艦同士の戦い。前編 「ドッガー・バンク海戦」

第1次世界大戦が開戦すると、イギリス海軍はスカパーフローとノルウェーの間、英仏海峡を海上封鎖し、ドイツの艦艇の通過を防ぐとともに、ドイツ行きの商船を拿捕して武器などの禁輸品の没収を行いました。

公海である黒海を封鎖したことに、アメリカはブライアン国務長官を通じ「公海における航行の自由・貿易の自由」を求めてイギリスに強く抗議しました。

ドイツ向けの禁輸品は、大戦前の1908年に行われた第2回ハーグ国際会議での福産仏として定められた①絶対禁制品(弾薬・火薬・武器など)、②条件付き禁制品(軍事、非軍事双方で使われる商品、原油やゴムなど)でしたが、食糧や衣類などの自由品についてもジャガイモなどの澱粉から爆薬製造に欠かせないアセトンや、綿花、綿織物、パルプ、紙などの繊維から無煙火薬のニトロセルロースを作る技術が発達し、すべての商品が対象となりました。

更にアメリカから中立国のオランダやデンマークへの輸出も、陸揚げされた商品を鉄道を使ってドイツ国内へと輸送することが出来るため、禁止へと発展します。

アメリカは、イギリスが規制を強化するたびに強く抗議しましたが、グレイ英外相はそのたびにのらりくらりと言い逃れをしてきました。

 

これに対抗して、ドイツ海軍はUボート(潜水艦)で密かに封鎖線を抜け、イギリス金塊に戦闘海域を設定し、イギリスの軍艦やイギリスへ行く商船を撃沈しました。初めは民間の船に対しては、いったん停船させて乗組員を退避させた後、撃沈させていました。

1915年2月4日にドイツが発表した「戦争地帯」

出典ウィキペディア

しかし、イギリスが民間の船と見せかけ大砲を積んだQシップを使い、停船のため浮上したUボートを撃沈する被害が出たため、すべての艦船に対して無警告で撃沈する無制限潜水艦作戦を発動します。

この為イギリス向けの商品を積んだアメリカの商船も被害を受け、アメリカはドイツに対しても抗議しました。

 

Qシップの画像

出典 上下とも土と油

今回のハウス大佐の渡欧で、イギリスの外相エドワード・グレイやドイツホルベーク宰相やツィンメルマン外務次官と会談したのも、戦争当事国への貿易の増加を狙っていたアメリカ経済界の「海上航行の自由」への要請があった為でした。

1915年5月7日、イギリスの豪華客船ルシタニア号がドイツの潜水艦U-20によって撃沈され、アメリカ人128人を含む1198人が犠牲となりました(ルシタニア号事件)。

この事件で、アメリカ全土にドイツに対して宣戦布告を求める動きが出てきましたが、ウィルソン大統領は中立の立場を維持し、ドイツに対して強く抗議するだけにとどめました。

そもそも当時のアメリカ陸軍は20万程の兵力しかなく、その大部分はメキシコとの国境警備に当たったり、アメリカ国内に出没して略奪を繰り返すパンチョ・ビリャの様な反政府武装組織追跡のため、メキシコ国内に出兵していたため、海外に派兵する余裕がありません。

ルシタニア号事件の後、ハウス大佐はイギリス側と交渉を続け、無条件潜水艦作戦を中止するならば、ドイツ向けの主要食料品の禁輸処置を解くことを了承させました。

この条件を持って再びベルリンに行きドイツと交渉しましたが、ドイツは食料品だけでなく、原材料の輸入も認めるよう要求しました。

イギリスは原材料の輸入を認める代わりに、毒ガスの使用禁止を求めます。

このため、英独間の交渉はまとまらず、ハウス大佐は6月5日セントポール号に乗船し帰国しました。

1915年8月19日、アメリカに向かっていたイギリスの客船アラビック号がドイツの潜水艦U-24によって撃沈され、この事故で44人の乗客乗員が犠牲になったが、そのうちの3人はアメリカ人でした。

ルシタニア号事件でウィルソン大統領がドイツに送った非難の覚書の文面が強すぎるとして、非介入で中立主義のブライアン国務長官が6月に辞任しました。その後には連合国寄りのロバート・ランシングが就任しました。

更に大統領顧問であるハウス大佐も、ドイツの無制限潜水艦作戦による暴挙で2度もアメリカ人の犠牲者が出たことにより、連合国寄りになってしまいます。

この様な中、ドイツの宰相ベートマンは、アメリカが連合国側について参戦することを恐れ、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世に対して働きかけ、1915年9月18日無制限潜水艦作戦を停止させました。

それに反してイギリスは、ドイツへの主要食糧品の輸送禁止を解きませんでした。そのためドイツは、アメリカに対して敵視するようになります。

この様な事情により、ハウス大佐による和平工作は、失敗してしまいました。

続きはこちら ↓

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その2

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