sponsored link
亀仙人2ゴ・ディン・ジェムとグエン・カーン、二つの政権を倒した北ベトナムの大物スパイ
1960年代前半の南ベトナムでは、ジエム政権とカーン政権をめぐって多くのクーデターが計画されましたが、その裏には北ベトナムから秘密裏に送り込まれていた、大物スパイの存在がありました。
北ベトナムの大物スパイ、 ファム・ゴック・タオ
ファム・ゴック・タオはスリーパー・エージェント として、南ベトナム(ベトナム共和国)に送り込まれた、北ベトナム(ベトナム民主共和国)のスパイです。
ファム・ゴック・タオ 1964年
出典 Wikipedia
ファム・ゴック・タオは1922年2月14日、メコンデルタで最大の都市カントー市で生まれました。
彼の父エイドリアン・ファム・ゴック・トゥアンはカトリック教徒であり、ベトナム各地併せて4千エーカー(東京ディズニーランドの31個分)の土地と、千軒の家を持つ大地主でフランス国籍も持っています。そのため11人の子ども達(ファム・ゴック・タオは9番目)は皆フランスに留学しています。技術者であった彼の父親は、かつてパリの共産主義地下組織の長を務めフランスの植民地主義に反対だったため、ベトナム国外でベトミンの反フランス独立活動を支援していた。
その影響でタオは10代の時からホー・チ・ミンのベトナム独立のための革命運動に参加し、ベトミンに加わっていました。
1946年フランスがベトナムの再植民地化を狙い、メコンデルタに傀儡国家であるコーチナ共和国を設立すると、1954年のジュネーブ会議までベトミンとともにフランスの支配に反対する抵抗運動の指導者として、フランス軍と戦いました。このときの部下に、後に南ベトナムの将軍で大統領となるグエン・カーンがいました。
ジュネーブ会議後ベトミンの戦闘員は皆北ベトナムに引き上げなくてはならなくなり、タオは教師や銀行員として身分を偽り、ベトミンの宣伝員として南ベトナムに残りました。
1955年10月ジエム首相は国の形態を決める国民投票でバオダイに勝利し、新たにベトナム共和国を建国してその初代大統領に就任しました。就任後ジエム大統領は、国内の共産主義者を初めとす、反政府分子を激しく弾圧し始めました。
1956年10月タオは身の安全のためビンロンに移り、共産党員であることを隠しジエム大統領の兄ゴ・ディン・トゥック司教によりカンラオ党に入党しました。タオの家族は長年カトリック教徒であり、トック司教の信奉者として非常に親しい関係を保っていました。
カンラオ党に入党してから、タオは軍事グループの責任者となり、新しく入ったカンラオ党員や、民兵達の軍事訓練を提供しました。
1957年、彼は少佐の階級で大統領官邸政治調査部に配属され、共産ゲリラとの戦いに勝利したイギリス領マラヤ(現在のマレーシア)に派遣されました。
タオが派遣された頃のマラヤでは、マラヤ共産党(MCP)の軍事部門であるマレー民族解放軍(MNLA)とイギリス軍や英連邦軍との間でゲリラ戦闘がおこなわていました。イギリスのハロルド・ブリッグス将軍が、ゲリラの本拠地であるマレー山地に住む住民を新しい村に強制移住させ、ゲリラとの接触を断つことによりゲリラの勢力を衰退させることに成功した時期です。
マラヤ危機と新しい村
1909年〜1946年のイギリス領マラヤ
出典 ウィキペディア
第2次世界大戦中マレー半島を占領していた日本軍が撤退した後、マラヤにはイギリスが戻り、マラヤは再びイギリス領になりました。
1930年、マラヤに住んでいた華僑などの中国系住民が中心となりマラヤ共産党が結成されました。第二次世界緯線で日本がマラヤを占領すると、マラヤ共産党はイギリス軍の特殊部隊と組んで、マラヤ人民抗日軍(MPAJA)を結成して日本軍と戦いました。
マラヤ連合
出典 ウィキペディア
1946年4月1日、イギリスは極東地域との交易の拠点であり、イギリス海軍の基地があるシンガポールを切り離しマラヤ連合を発足させ、クアラルンプールを首都としました。マラヤ連合の市民権は民族の区別無く平等に与えられ、市民権付与の条件としては、出生地主義(親の国籍に関係なく、自国内で生まれた子はその国の国籍を与えられる)の原則がとられた。
マラヤ人の多くはイスラム教徒であり、各州ではスルタン(イスラム教の君主)がその州を治めていましたが、イギリスがスルタンの権限を縮小してイギリスが保護領として直接統治するようにしました。
当時のマラヤ連合での人口構成はマレー系が5割、中国系が4割、インド系その他が1割でした。そこで出生地主義を認めると中国本土から多くの中国人移民がやってきて、将来中国系住民が人口の過半数を超えることが考えられます。そうなるとマラヤ連邦は中国とおなじ共産主義国となり、共産主義はあらゆる宗教の存在を認めないので、イスラム教徒の多いマレー人が迫害される恐れがあります。そのためマラヤ連合ではマレー人の民族的抵抗が高まりました。
マラヤ連邦とマラヤ危機
1948年1月31日、イギリスはマレー系住民の意見を取り入れ、中国系住民の出生地主義に制限をかけ。マレー各州の象徴的な君主(スルタン)の地位を回復させ、それまでイギリスの植民地であったペナンとマラッカを加え。、新たにマラヤ連邦を結成しました。
しかし、この処置はマラヤに住む中国系住民の反発を招き、1948年6月16日マラヤ共産党(MCP)はマレー民族解放軍(MNLA)を結成して、イギリスからの完全独立とマラヤの社会主義化を目指して、イギリスの植民地当局との戦いを開始しました。これがマラヤ危機です。
1950年当時ゲリラ活動をしていたマレー民族解放軍(MNLA)は5千人、さらにマラヤ共産党は一般市民からなる「民元(ミン・ユエン)」を組織して共産主義革命家に食糧、情報、医薬品を供給していました。民元のメンバーは約25万人とみられていました。
新しくマラヤでの作戦部長に就任したハロルド・ブリッグスは、ブリックス計画と呼ばれる「新しい村」と呼ばれる村を各地に建設して中国系住民を収容しました。
ブリックス計画によって作られた「新しい村」 1950年
「新しい村」はマラヤ全土で400カ所以上作られ、
約50万人(マラヤの人口の約10%)に当たる
中国系農民が土地から強制的に移住させられました。
出典 Wikipedia
新しい村は周囲を柵や鉄条網などで囲み、武装した警備員を配置して住民が外部の者と接触できないようにしました。これにより共産ゲリラは食料や新兵の補充が、困難となりました。
その反面、教育や医療などのサービスを提供し、電気や水道の設備も整えました。
1952年1月22日、ブリックスの後を継いでマラヤ駐在英国高等弁務官になったジェラルド・テンプラーは、
「ゲリラと戦うためには、軍隊を派遣するより、マラヤの人々の心(ハーツ・アンド・マインド)を掴むことが大事」
と考え、新たな政策を打ち立てました。
テンプラーはゲリラ戦終了後に英国はマラヤから撤退して、マラヤの独立を認めることを約束しました。
これによりマレー民族解放軍(MNLA)の目標の一つである、イギリスからの独立は意味をなさなくなりました。
マラヤはインドと中国を結ぶ海上輸送の中継点として、昔から多くの華僑(マラヤ国籍のある中国出身者)や華人(マラヤ国籍を持つ中国人)が住み着いて貿易や商業を行い、マラヤ特産の錫鉱山やゴム農園を経営している者達もおり、彼らはマラヤの共産化には賛成ではありませんでした。
テンプラーの就任2年後には、マレー民族解放軍(MNLA)の勢力は3分の1まで縮小しました。
1955年9月8日、マラヤ連邦政府は共産主義者への恩赦宣言を発表しました。
恩赦の条件は、
- 自ら投降した者は、今回の緊急事態に関連して共産主義者の指示の下で行ったいかなる犯罪についても、この日付以前のものであれこの宣言を知らずに[今後]行ったものであれ、訴追されない。
- 投降は今すぐ、誰に対してでも行なえる。一般市民に対してでもよい。
- 全体的な「停戦」はないが、治安部隊はこの申し出を受け入れたい人を助けるよう用意しており、そのために各地で個別の「停戦」を手配する。
- 政府は降伏者に対して調査を行う。マラヤ政府に忠誠を誓い、共産主義活動を放棄する意思があることを示した者は、社会での通常の地位を取り戻し、家族と再会できるように支援される。
これにより、マラヤでのゲリラ活動は一層衰退することになりました。
1957年 – マラヤ連邦(初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン)がイギリスから独立しました。
ファム・ゴック・タオが派遣されたのは、この時期になります。
1963年 – シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立しました。
この「新しい村」をモデルとして、1961年から南ベトナムで「戦略村」が実施されました。
ベンチェ省省長
1960年11月から1962年5月まで、ファム・ゴック・タオはメコンデルタの要衝、ベンチェ省の省長を務めました。
ファム・ゴック・タオが省長になる前の1960年1月17日、南ベトナムにおける最初の武装蜂起がベンチェ省で発生しました。
詳しくはこちらを見てください ↓
1960年12月20日には、タイニン省タンビエン県タンラップ村において、元ベトミン(ベトナム独立同盟会)らを中心に南ベトナム政府に対する反政府組織として、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されました。
ファム・ゴック・タオは南ベトナム解放民族戦線の指導者グエン・ティ・ディンと秘密裏に活動を開始しました。
グエン・ティ・ディン
当時南ベトナム解放民族戦線中央委員でした。彼女は南ベトナムで最初に武装蜂起を仕掛けた人です。
彼女は、ベトナム戦争終了後の1987年4月19日から1992年7月19日まで、ベトナム社会主義共和国副大統領を務めました。
出典 Wikipedia
この地域は伝統的に反政府運動が盛んでしたが、タオが就任すると同時に解放戦線との争いがなくなり平和になりました。
他の省が戦闘で荒廃している中、タオの地区では農業の生産が復活し、多くの外国人ジャーナリストがその秘密を解こうと、タオの元に訪れました。タオは「自分が元ベトミンの指導者であったことから、共産ゲリラに対する戦術が成功したため」と説明しました。
その裏で南ベトナム解放民族戦前は、2000人の兵士を集め新たに2個大隊を編成しました。
戦略村計画
戦略村についての詳しい説明はこちらをご覧ください ↓
1962年南ベトナムはアメリカからの忠告を受け、戦略村計画を実施することにしました。
戦略村計画はマラヤで行われた「新しき村」に習い、共産ゲリラの支配下にある農民を「戦略村」と名付けた防備を固めた集落に移住させ、ゲリラとの接触を断つことで、ゲリラが食料や兵士の補充ができなくすることでした。
戦略村建設の責任者はジエム大統領の弟ゴ・ディン・ヌーで、補佐官としてベンチェ省での治安に成功し、マラヤで「新しき村」の視察をしてきたファム・ゴック・タオが監督官として実際の指揮をすることになりました。
ビンズオン省ベンカット地区。緑の丸の部分
1962年3月19日、南ベトナムの首都に隣接しているビンズオン省ベンカット地区から「戦略村」の建設が始まりました。上の地図で分かるようにベンカット地区は解放戦線の司令部といえる「南部中央局」とサイゴン市の真ん中にあり、解放戦線勢力の強い場所でした。ファム・ゴック・タオは、この地区にいるベトミンや解放戦線の兵士に偽の分証明書(偽物と言っても偽造したものではなく、本物の証明書に偽名と偽の住所が記載されているため見分けがつきません)を発行して、「戦略村」の中に大勢のゲリラを紛れ込ませる事に成功しました。
タオはゴ・ディン・ヌーをけしかけて、安全な場所に「戦略村」を建設し、その地域を確保してから次の「戦略村」を作る方法では時間がかかりすぎると言って、地域全体にわたって数多くの「戦略村」を同時に建設し短期間で地域全体を制圧する方法をすすめました。
そのため作れば作るほど、村を守るために配置された兵士の数が少なくなり、攻撃されやすくなってしまいました。
戦略村を囲む。鉄条網を絡めた竹製の柵
出典 Wikipedia
ジエム政権は建設された「戦略村」の数だけを発表していましたが、1963年11月のクーデター後の、1963年12月に南ベトナムに視察したマクナマラ国防長官により、そのうちの8割が破壊されたか、ゲリラによって占領されていたことが分かり、1964年末「戦略村計画」は正式に中止されました。
ファム・ゴック・タオが関与した3つのクーデター
1963年11月のクーデター
1963年半ば、南ベトナムの情報局長のチャン・キム・トゥエンはジェム大統領に対するクーデーターを企てており、ファム・ゴック・タオもその仲間に加わっていました。トゥエンは、もと秘密警察のトップでしたが1960年11月に起こったジエム政権へのクーデターを予測できなかったことで、閑職に追いやられていました。
トゥエンは軍事保安局長のド・マウ大佐と結び、軍部の中でカンラオ党やカトリック優先の人事に不満を持つ野党のベトナム民族党やベトナム民族党のメンバー、および仏教徒の将校を中心にメンバーを集め、7月15日にクーデターを実施する計画を立てました。
ところがトゥエンがジエム政権に対して陰謀を企てているとして、国外追放されたため計画はいったん中止となりました。
1963年シャーライパゴダ襲撃事件が起き、ベトナム全土でジエム政権に対する抗議活動が活発になりました。
ファム・ゴック・タオとド・マウ大佐は新たにクーデター計画を練り、300人ほどのメンバーを集め10月24日に実行する予定でした。
この計画はCIA職員ルシアン・コネインがタオの上司であるキエム将軍に、時期尚早であるとしてクーデターを止めるよう指示したため中止となり、 1963 年 11月 1日にズオン・ヴァン・ミン将軍とチャン・ヴァン・ドン将軍の指導のもとで行われたクーデターに組み込まれました。
11月1日のクーデターで、タオの部隊は、ラジオ局の占領に成功しました。
クーデター後タオは大佐に昇進し、通常戦争の戦法を学ぶためアメリカのフォート・レブンワースに6か月間派遣されました。
1963年11月1日のクーデターについては、こちらをご覧ください ↓
ファム・ゴック・タオがアメリカに派遣されている1964年1月30日、南ベトナムでクーデターが起こり、グエン・カーンが新たな国家元首となりました。
1964年1月30日のクーデター
1963年11月1日のクーデターで政権を握ったズオン・ヴァン・ミン将軍でしたが、12人の将軍による軍事革命評議会と、ジエム大統領時代副大統領であったグエン・ゴック・トウが首相を務める文民政府との調整で苦労しており、ベトミンや共産ゲリラとの戦いには消極的でした。そのため南ベトナム国内での共産党勢力は急激に勢力を伸ばし始めました。
ズオン・ヴァン・ミン将軍は国内での争いは、ジエム大統領一族による独裁的な弾圧によるものであり、ゴ一族が居なくなった今、治安が回復し、共産ゲリラの力は弱まり国内は安定するとみていました。
しかし、これは大きな間違いだったのです。
当時南ベトナム解放民族戦線にいた人たちは、ジェム政権によって迫害されたいた農民や仏教徒、カオダイ教やホアハオ教などの新興宗教の信者の他、北ベトナムの労働党(共産党)やベトミンの兵士達もおりました。彼ら共産党系の人たちは、ハノイからの支持を受けて南北両ベトナムの統一(南ベトナムへの侵略)を目指して活動を活発化させていました。
そのためクーデターでゴ一族の支配が及ばなくなると、将軍達が集まっているサイゴンを除くメコンデルタと、中部地方の暴君と言われたゴ・ディン・カンがいた中部高原での共産ゲリラの支配地域が急速に増えてきました。
カーンは共産主義者との戦いに消極的であるミン将軍を排除して、南ベトナムでの共産主義者との戦いを活発化しようと考えました。
彼はかってキエム将軍、ファム・ゴック・タオ、チャン・キム・トゥエン共にジエム大統領に対する独自のクーテターを計画した、ド・マウ大佐の紹介でトラン・ティエン・キエム将軍とクーデターを起こしました。
南ベトナム国内での共産主義者達の戦いに消極的であるミン将軍に比べ、カーンに好意的だったベトナム軍事援助司令部の司令官のポール・ハーキンス大将は「すべての軍団指揮官の中で最強」と考えていた。CIAもカーンは「一貫して米国のプログラムと助言に好意的だ」とみていました。
グエン・カーン 1964年
彼は1960年のクーデターの時、反乱軍の包囲網を突破してゴ・ディン・ジェム大統領を救ったことで有名になり昇進しましたが、このときクーデター側と二股をかけていたことから「寝返りを打つ」癖があるとして疑われるように成りました。
1963年11月のディム大統領打倒のクーデターに参加したのにもかかわらず、サイゴンから一番遠い位置にある軍事境界線を担当する第1軍団司令官に飛ばされていまいました。
出典 ウィキペディア
トラン・ティエン・キエム 1965年
1963年11月のクーデター当時は陸軍総司令官でしたが、クーデター後サイゴン周辺を担当する第3軍団司令官に降格されてしまいました。
彼の部下に、この項の主人公であるファム・ゴック・タオがいます。
出典 Wikipedia
1964年1月29日午前2時、カーンの部隊はタンソンニャット空港脇にある参謀本部を襲撃しました。建物にはわずかな警備員を除き職員は誰もおらず簡単に制圧されてしまいました。キエムの役目である革命軍評議会の委員である12名の将軍の捕縛も、それぞれの将軍が襲撃されるとは思ってなく家で寝ていたため、簡単に自宅に軟禁されてしまいました。
1964年1月30日16時、カーンはラジオ放送でミンの追放を流し、自らを新国家元首およびベトナム民族会議議長と宣言しました。
ところがカーンには政権能力も、民衆の支持もなく、彼は軍の中では「日和見主義者」と見られており、肝心の陸軍の掌握も満足にできていませんでした。
そこでベトナム軍事援助司令部の司令官のポール・ハーキンス大将の忠告を受け入れ、いったんタイに追放したズオン・バン・ミン中将を呼び戻して国家元首につけ、自分は首相として実権を担うことにしました。
南ベトナム国内での共産勢力との戦いに消極的であったミン政権に変わり、共産勢力との戦いに積極的な姿勢を見せていたカーン政権でしたが、1964年2月26日、包囲されていた3000人の共産党勢力に対して、航空機や砲兵の支援を受けた南ベトナム軍の「最精強」部隊が負けるという事件が起きてしまいました(ロンディンの戦い)。その後も南ベトナム軍は「出ると負け」状態が続き、カーン将軍はジョンソン大統領に北ベトナムへの空爆を頼みました。これは南ベトナム国内で戦っている解放民族戦線とベトミンの補給路を絶つ意味がありました。
ジョンソン大統領は1964年11月に行われる米大統領選挙に勝利するためには、南ベトナムで行われている共産党に対する戦いで有利な位置に立つことが必要でした。
トンキン湾事件
1964年8月2日。北ベトナムと海南島の間にあるトンキン湾で哨戒中のアメリカ駆逐艦「マドックス」が3隻の北ベトナム魚雷艇により攻撃される事件が起こりました(トンキン湾事件)。
8月4日駆逐艦ターナー ・ジョイがマドックスに合流し、哨戒活動を開始しました。両艦はレーダーに反射波を感じ砲撃を開始しました。
8月5日ジョンソン大統領は報復攻撃を命じ、空母タイコンデロガとコンステレーションが攻撃機を出撃させ、北ベトナムの石油貯蔵庫と四カ所の魚雷艇基地の攻撃を行いました(ピアス・アロー作戦)。
8月7日ジョンソン大統領は議会に対して「アメリカ軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる」権限を求めました。これに対して米議会は、下院410対0,上院88対2という圧倒的多数の支持で「トンキン湾決議」が採択されました。これにより本格的な北ベトナムへの攻撃が可能となりました。
同じ8月7日グエン・カーンは非常事態宣言を出し、いかなる抗議活動を禁止し、新聞・文書・ビラなどの検閲を初め、「国家安全保障上危険とみなされる要素」を持つ者を逮捕する権限を警察に与えました。
8月16日カーンは新しい憲法であるブンタウ憲章を制定しました。これは国家元首のキムを解任して、グエン・カーンが大統領に就任して、独裁政権を行うことを目的としていました。しかしブンタウ憲章に対して軍部の他、農民や仏教徒からも強い反対があり、非常事態の解除や、ブンタウ憲章を破棄することになりました。仏教徒の指導者達は、ジエム政権時代からのカトリック教徒や元カンラオ党であった官僚や軍人を解雇することを求め、カーンもこれに同意しました。
これに対して、トラン・ティエン・キエムやグエン・ヴァン・チュー(後の第2代ベトナム共和国大統領)などの多くのカトリック高官は「仏教徒への権力委譲」を進める恐れがあるとして、反対しました。
8月27日、上級将校らの間でさらに議論が続いた後、彼らは、新しい文民政府が樹立されるまでの2か月間、カーン、ミン、キエムの3人が3人体制で統治することで合意した。
「三頭政治」
国家元首: ズオン・バン・ミン中将
首相:グエン・カーン中将
陸軍最高司令官: チャン・ティエン・キエム将軍
アメリカに派遣されていたファム・ゴック・タオが帰国したときは、この三頭政治が確立したときでした。帰国したタオはカーンにより「革命軍事評議会」の報道スポークスマンに任命されました。
1964年9月のクーデター未遂事件
1964年9月初旬、ラム・ヴァン・ファット将軍は内務大臣を解任され、ズオン・ヴァン・ドック将軍は第4軍団司令官の職を解かれようとしました。これは二人がカトリック教徒であり、ジエム大統領のお気に入りで昇進したことで、仏教徒からの非難をかわす目的がありました。
ファットとドックは降格に不満を持ち、グエン・カーン対してクーデターを企てました。このクーデターは計画段階から国防大臣で三頭政治の一員であるキエムによって支持され、キエムの説得により参加した第7師団の機甲部隊の長であるリ・トン・バ大佐と戦車長であるズオン・ヒエウ・ギア大佐が参加しました。
1964年9月13日早朝、ファットとドックは10個大隊の機甲部隊を率いてサイゴン市内に入り、たいした抵抗もなくサイゴン市内を制圧しました。
ファットは国営ラジオ局を使って、カーンを捕らえ政権交代を宣言しました。
しかし、カーンはいち早くサイゴン市内から中部高原のリゾート地ダラットに逃げていました。カーンは、13日午後カーンの統治を望むアメリカの支援でボイス・オブ・アメリカを使い、「自分は捕らえられておらず、アメリカは変わらずカーン政権を支持している」と放送し、反乱軍に降伏するよう圧力をかけました。
9月14日の朝、カーンはベトナム共和国空軍司令官グエン・カオ・キ空軍元帥とベトナム共和国陸軍のグエン・チャン・ティ将軍の支援を受け、ファツトとドックを降伏させることに成功しました。
このクーデターに対してアメリカは、成立半年後のカーン政権が崩れ、南ベトナムの政変により国内が混乱状態になることを恐れて、カーン政権を支えることにしました。このためクーデターではなく、カーンと相談してファットとドックが解雇に対して抗議行動を行ったとして、2ヶ月間の拘留という軽い刑にしました。
またクーデタを支持した陸軍最高司令官: チャン・ティエン・キエム将軍は職を解かれ、新たに大使としてアメリカに赴任しました。これは体のよい国外追放です。またキエムの参謀役であるファム・ゴック・タオも大使館付けの報道官、兼武官としてアメリカに送られました。この時タオは将来の安全を考え、家族を連れてアメリカに赴任しています。
ラム・ヴァン・ファットは、1965年2月にファム・ゴック・タオと組んで、再びカーン政権に対するクーデターを起こしました。
カーンを助けたグエン・カオ・キとグエン・チャン・ティは1965年2月のクーデター未遂事件の後、カーンを追放することに成功しました。
アメリカに赴任した後もファム・ゴック・タオはキエムと組んで、南ベトナムにいるカトリック系将軍と共にカーンに対してのクーデターを計画していました。
1964年12月下旬カーンは、タオとキエムがアメリカと共謀して、カーンを追放しようして居るではないかと疑い、タオをベトナムに呼び戻しました。タオは南ベトナムに行くと逮捕されると考え、予定されていた飛行機とは別の飛行機に乗り、逮捕を免れ逃走しました。
1965年南ベトナムクーデター未遂
その後タオは潜伏して、カーンに反対するカトリック派の将軍達の支持を集めクーデターを準備しました。
1965年2月19日、タオとラム・ヴァン・ファット将軍を中心とする部隊がグエン・カーンに対すクーデターを起こしました。
このときグエン・カーンは、タンソンニャット空軍基地で南ベトナム軍の上級将校と、アメリカのマクスウェル・D・テイラー大使およびベトナム駐留米軍司令官ウィリアム・ウェストモーランド将軍との会議に出席していました。当時のタンソンニャット空軍基地はアメリカ軍とベトナム軍の司令部が置かれていました。
ファット将軍の反乱軍が空港に入ってくるを見たカーン、空軍司令官のグエン・カオ・キと共に飛行機に乗り、滑走路が封鎖される直前、脱出に成功しました。このためタオは、1964年のクーデターと同様カーンを取り逃がすことになりました。
グエン・カオ・キはカーンを下ろした後、戦闘機と共にタンソンニャット空港に引き返し、反乱軍に対して爆撃すると脅しました。
2月19日午後8時、タンとグエンカオ・キはアメリカ人の仲介による会合で、カーンを権力の座から排除するのり引き換えに、捕らえられている軍事評議会のメンバーの解放と、反乱軍を撤退させることで合意しました。
2月20日、グエンバン チュー、グエン カオ キー、およびアメリカの支援を受けた多数の将軍が将軍評議会を組織し、ビエンホアで会合しました。将軍らはグエン・チャン・ティ氏を反クーデター司令官に任命し、ファム・ゴック・タオ氏、ラム・ヴァン・ファット氏および他の将校13名に24時間以内に出頭するよう命じた。ファム・ゴック・タオ、ラム・ヴァン・ファット、レ・ホアン・タオ(第46連隊長)は出頭せずに逃走しました。
2月21日、将軍らはビエンホアで会議を続け、グエン・カーンを解任し、チャン・ヴァン・ミン将軍をベトナム共和国陸軍司令官に任命することを決定しました。グエン・カーンは最終的にアメリカに亡命しました。これにはいつまでたっても安定した政権を築けないグエン・カーンに見切りをつけたいという、アメリカ側の意向も反映されたみたいです。
ベトナム戦争のドキュメンタリー映画「ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実」の中で、テイラー大使がカーンに対して、ベトナムから出国するように電話で伝えた録音を公開している場面があります。
「ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実」1時間25分付近。
登場人物はグエン・カーン本人
1965年5月、軍事法廷は逃走中のタオとファットに対して。欠席裁判で死刑を宣告しました。
1965年6月14日、グエン・ヴァン・チュー将軍を委員長(国家元首に相当)、グエン・カオ・キー将軍を中央執行委員会委員長(首相に相当)とする国家指導委員会が設立された
グエン・ヴァン・ティエウ 1969年
出典 Wikipedia
グエン・カオ・キ 1966年
出典 ウィキペディア
1965年7月16日、逃亡中のタオは見つかって殺されてしまいました。
ベトナム民主共和国(北ベトナム)は、アメリカに亡命したタオの家族の安全を考え。死後30年たった1995年までタオが北ベトナムのスパイであることを明かしませんでした。
ラム・ヴァン・ファットはその後3年間逃亡生活を続け、1968年6月、ファットは潜伏場所から出てきて当局に出頭し、8月軍事法廷で恩赦を受け釈放されました。彼は1975年4月28日から30日まで、ズオン・ヴァン・ミン将軍の指揮下でサイゴンが陥落でサイゴンの軍事総督を務めました。