2024/09/20
1918年12月13日金曜日(何やら不吉な予感)の夕方、パリ講和会議に臨むウィルソン大統領を含むアメリカの代表団を乗せた船がフランスのブレスト港の到着しました。病弱なウィルソン大統領のために船の傍まで線路を敷いて用意された列車に乗り、パリのリュクサンブール駅に午前3時に到着しました。真夜中にもかかわらず大勢の市民が先の見えない戦争を止めた救世主として、ウィルソン大統領を讃えました。
その後訪れたロンドンやローマでも同様に大歓迎を受け、「14箇条の平和原則」に則った講和の実現に向かって自信満々でパリの講和会議に望んだウィルソン大統領ですが・・・。
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亀仙人2パリ講和会議とヴェルサイユ条約
1919年1月12日、フランスの外務省においてウィルソン米大統領、ロイド・ジョージ英首相、クレマンソー仏首相、オルランド伊首相および4カ国の外相(日本は1日遅れて13日から、珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使が、まだ欧州に到着していない 西園寺公望元首相、牧野伸顕元外相の代理として参加)による非公式の準備会議がスタートしました。
この会議に出席した米英仏伊日からなる10名の最高会議(十人委員会)がすべての会合に出席し、重要事項を特権的に決定することが決められました。
ただし、日本は人種平等規定・山東問題以外に発言することが無かったため、後半からは五大国会議から外された。
イタリアも未回収のイタリアのフィウメ(現在のクロアチアの都市リエカ)などの領有が認められなかったことを不服として途中から降りたのため、実質的には米英仏の3カ国が会議をリードすることになりました。
さらに講和会議では、ウィルソン大統領の『14ヶ条の平和原則』に基づいて,「国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸(港湾・水路・鉄道)、賠償」の五つの論点についてそれぞれに専門の委員会を設け、5大国の他、小国の代表も参加して討議することが決められました。
パリ講和会議
1919年1月18日、フランス外務省の会議室で参加33カ国による、ドイツに対する講和会議が始まりました。この日は1871年1月18日普仏戦争で勝利したプロイセン王国がヴェルサイユ宮殿鏡の間でウィルヘルム1世の即位式を挙げ、ドイツ帝国成立を宣言した日で、フランスにとっては忘れることが出来ない屈辱的な日です。
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた、ヴィルヘルム 1 世のドイツ皇帝への戴冠式
出典 ウィキペディア
開催国の代表としてフランスのポアンカレ大統領が開催演説を行いましたが、途中からから感情を抑えきれなくなり、
「正義は我が方にある」と叫んで拳を振り上げ、しかもその後、
「邪悪なる敵を屈服させたその正義が、たった今求めていることはドイツに対する懲罰である。
すなわち一八七一年一月十八日のまさにこの時刻、ベルサイユ宮で侵略軍によるドイツ帝国の成立が宣言され、泥棒のようにアルザスとロレーヌの二つの県を持ち去っていったのだ。
正視に堪えぬ腐乱の中から生まれた穢らわしいドイツ。誕生のその瞬間から邪悪な死の牙を持ち、そして汚辱にまみれて死んでいったドイツ。
諸君はドイツがなした諸悪を正し、ふたたびあのような忌まわしいものが出現することを防ぐためにここに集まった。
諸君は世界の未来を握っている。
私はここに集う諸君に重大な審議をゆだねつつ、パリ会議の開催を厳粛に宣言する」
出典 本多巍耀(ホンダタカアキ)著「消えた帝国」114~115頁 出版 芙蓉書房
と、ウィルソン大統領が目論んでいた14ヶ条の平和原則に則った講和を否定する演説してしまいました。たまたま虫の居所がよかったのかウィルソン大統領がおとなしくしていたため、事なきを得ましたが、例の発作が起き激高してしまったら、講和会議そのものが吹っ飛ぶところでした。
元々重要な国際会議では国家元首がこのような発言をして批判されるのを防ぐため、次席の首相などが(アメリカではランシング国務長官、イギリスやイタリアでは国王に替わってロイド・ジョージ首相やオルランド首相、フランスでは先のポアンカレ大統領膠って首相のクレマンソー、日本では天皇に変わって西園寺公望・元首相)が全権大使として出席するのが通例となっていましたが、ウィルソン大統領は側近のハウス大佐が諫めるのも聞かず、
「今回の大戦のような大惨事を防ぐため、偉大なる民主主義国家による国際連盟を設置することは、神が私に与えた使命である。この使命を果たすためには余人ではなく私自身が出席する必要がある」
と主張して、強引に出席することに決めました。こうなってきては『触らぬ神に祟りなし』で随員としてやってきたランシング国務長官も、ただ見守るしかありませんでした。
フランスのポアンカレ大統領が、講和会議の冒頭でこのような発言をしたのには、訳があります。
フランスは第一次世界大戦でドイツに攻め込まれ、国土の大半が焼け野原となり、140万人もの戦死者を出していました。
それなのにドイツは、負けそうになるとさっさと休戦したため、ドイツ国内は無傷で残っていました。さらに、ウィルソン大統領の言う「無賠償、無併合」の原則に従って、ドイツが奪った領土を返し、壊した家や工場の建物、道路や鉄道の復興資金は出すけど、戦死した兵士の補償金や、戦争で使った大砲などの兵器や砲弾などの消耗品の代金(戦費)は、フランス、ドイツの双方とも兵士を殺したり、大砲などを壊したのでチャラにしてね、言ってきたのです。とてもじゃないが、フランスが飲める条件ではありませんでした。
現代のロシアとウクライナの戦争で、ロシアが2014年のマイダン革命の後で奪ったクリミア半島や、ドネツク州、ルハンシク州などの領土を返し、戦争で破壊した建物やインフラ施設の復興資金を出すだけで、終戦にしようと話しているのと同じです。
そのためフランスはドイツが2度と戦争することが出来なくなるよう、国内の復興資金や戦争にかかった費用(戦費)はもちろん、アメリカから武器を購入した代金、戦死した家族や傷痍軍人のための年金など、できる限り高額な賠償金を請求するつもりでした。
さらに1971年の普仏戦争で奪われたアルザス・ロレーヌ地方の他に、ライン川領域(ラインラント)からフランスまでの地域をフランスの領土として要求しました。この地域はザール炭田や鉄鉱石の鉱山があり重工業が発展し、さらにライン川の水運を利用して商業が盛んで、ドイツ経済の要となる地方です。
このためポアンカレ大統領は、ドイツからできるだけ多額の賠償金を取るため、ウィルソン大統領の好きにさせないよう、釘を刺しておく必要が在ったのです。
イギリスは国内が戦場とならなかったため、ドイツによって沈められた船の代金と、イギリスの海上覇権確定のためにドイツ潜水艦艦隊の解体、ドイツ海軍艦艇の引き渡しで済まそうと考えていました。
それよりもフランスがドイツからの多額な賠償金と領土の拡大で大国になることと、経済的に追い詰められたドイツ国内で革命が起き、ドイツが共産国に変わってしまう方を恐れていました。イギリスは、ドイツをソ連からの共産化を防ぐ盾として使うつもりでした。
そのためイギリスはアメリカと共に、フランスの過大な要求を抑える立場をとることとなります。
2日後の1月20日、五大国の十人委員会による実質的な講和会議が始まりました。国内復興のために一刻も早く、ドイツとの賠償問題と領土問題の解決を急ぎたいフランスに対して、ウィルソン大統領は今後の国際平和のために、『国際連盟』の設立を最重要事項として討議すべしと主張して譲りませんでした。明らかにフランスに対する嫌がらせです。このままではいつまで経っても、会議は進行しません。
そこでイギリスのロイド・ジョージは一計を案じました。『国際連盟』の設立を論じるために五大国から二名、その他中小の国(ギリシャ、中国、セルビア、ポルトガル、チェコスロバキア、ポーランド、ブラジル、ルーマニア、ベルギー)から一名の代表を出して小委員会を作り討議し、その結果を受けて十人委員会で決定しようと言うものです。この話にウィルソン大統領は大いに乗り気になり、自ら委員長になることを認めさせました。もちろんフランスのクレマンソー首相とイギリスのロイド・ジョージは、この委員会には加わらず、ドイツとの講和条件に力を注ぎます。
国際連盟
パリ講和会議開催から一週間後の1919年1月25日、第2回総会で『国際連盟委員会(連盟規約検討委員会)』が公式に設立されました。
『国際連盟』設立が決まるとウィルソン大統領は、2月3日から2月13日にかけて立て続けに小委員会を開き25ヶ条からなる『国際連盟規約原案』を作成し、翌1919年2月14日に行われた第三回パリ講和会議総会に提出して、『国際連盟』の設立が認められました。
同じ2月14日の晩、パリ講和会議出席後ウィルソン大統領は議会に対して講和会議の経過報告を行うため、一旦アメリカに帰りました。
出発に先立ちウィルソン大統領はハウス大佐に対して
「後は一任するが、領土問題と賠償問題に関しては、あまり首を突っ込まないよう。そして十四ヶ条の平和原則に則って行動していくれ。」
と念を押しました。
アメリカでは前年11月に行われた中間選挙でウィルソンの所属する民主党に変わって、共和党が第1党となっていました。
2月24日、ウィルソン一行はボストン港に上陸し、そのまま帰国祝典会場に向かい、集った1万2千人の支持者を前に『国際連盟』成立の演説を行いました。集った聴衆達は元々ウィルソン大統領の熱心な支持者達だったので、熱烈な喝采をウィルソン大統領に浴びせ、これでウィルソン大統領は国民の理解を得られたとして、議会では問題なく連盟規約を批准できると思い込んでしまいました。
しかし議会では、共和党のロッジ上院議員が、国際連盟規約の第10条に書かれた集団安全保障について
「これによりアメリカはモンロー宣言を破棄して、見たことも聞いたこともない土地での戦争に巻き込まれ、大勢の戦死者を出すことになるだろう。」
と述べ、『国際連盟』の批准に反対しました。3月4日には批准に反対する上院議員37名が署名した上申書が決議され、ウィルソン大統領は連盟規約の見直しを求められました。
アメリカの上院議会では条約等の批准には、定数96名の内2/3以上の賛成が必要とされていました。従ってこのままでは国際連盟は批准されないことになります。
この集団安全保障による平和維持の考えは、世界で初めて国際連盟規約第十条によって採用されました。
国際連盟規約第十条〔領土保全と政治的独立〕
連盟国は、連盟各国の領土保全および現在の政治的独立を尊重し、かつ外部の侵略に対しこれを擁護することを約す。右侵略の場合またはその脅威もしくは危険ある場合においては、連盟理事会は、本条の義務を履行すべき手段を具申すべし。
引用 篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置3361/3647
各国が自国の安全を国際組織に委ねるもので、万一侵略を受けた場合には加盟国全体が被侵略国を援助し侵略国に立ち向かうというものである。同盟との違いは、同盟では加盟国は通常二力国多くとも数力国と限定され、しかも通常は仮想敵国を想定する点にある。他方、集団安全保障は国際社会という全体を想定し、「一国が全体のために、全体が一国のために行動する」ことが求められる。
引用 篠原初枝『国際連盟―世界平和への夢と挫折』2010 中公新書 Kindle版 位置636/3647
ハウス大佐とパリ講和会議
ブレスト=リトフスク条約
1917年11月8日、レーニンは「全交戦国の政府にむかって、無賠償(敗戦国から賠償金を取らない)、無併合(敗戦国の領土・国民の併合をしない)による即時平和」を実現するための交渉開始を呼びかけました。併せて民族自決の原則と、秘密条約を破棄し秘密外交を否定することも声明しました。
この呼びかけ連合国側には無視されましたが、連合国の攻撃に押し込めされているドイツには受け入れられ、1917年12月15日ブレスト=リトフスク(今ベラルーシでポーランドとの国境地帯にある町)で休戦協定が結ばれ、東部戦線での戦闘は中断されました。
1週間後の12月22日から、ドイツとロシアとの間で講和に向けた会議が開催されました。
1918年1月8日、ロシア代表のトロツキーは「戦争もしないが、講和もしない」と宣言して、ロシアに帰りました。この時トロツキーはドイツ国内の労働者がロシアにならって革命を起こし、ドイツの政体が変わると予想していました。そのため講和会議を延長して、様子を見ることにしたのです。
同じ1月8日、アメリカのウィルソン大統領も議会において、無賠償、無併合、民族自立、秘密外交の禁止を骨子とする「14ヶ条の平和原則」を発表しました。内容はレーニンの「平和原則」とほぼ同じですが、違いは戦争を予防するために、新たに国際間の協議のための国際平和機構設置を提言していました。
しかし、1918年2月18日ドイツを含む中央同盟国は休戦協定を破棄して、ソ連領内に攻め込みました。その後2週間あまりで黒海からバルト海沿岸まで占領され、ロシアのボルシェビキ政権はさらに悪い条件で講和を結ぶことになりました。
1918年3月3日、ロシアと中央同盟国との講和条約となるブレスト=リトフスク条約は、ボリシェヴィキ政府と、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国との間で調印されました。
このこうわでロシアは、全領土の4%の他、人口の約三分の一、最大の穀倉地帯、石炭・鉄・石油などの近代的工業中心地などを失うこととなり、60億ルーブルの賠償金を支払うことになりました。
ブレスト=リトフスク条約によってロシアがドイツに割譲した地域
出典 ウィキペディア
このような過去があるため、フランスはドイツが講和条約を結んだとしても、国力が回復すると復讐のため再びフランスに攻め込んで来ると考えていました。
そのためフランスが要求したドイツとの講和条件には、
- ドイツとの国境をライン川沿いのラインラントとし、その内側のザール地方と共にフランス領とすること。
- もしそれが駄目なら、ラインラントをドイツから独立させ、ラインラント共和国を作りドイツとの緩衝地帯とすること。
- 戦争責任はドイツにあるとして、戦争で受けた被害の弁償の他、かかった戦費やアメリカからの武器購入の債権も併せて可能な限りの賠償金を請求して、ドイツ経済を破綻させ、ドイツが簡単に復興できないようにすること。
などが主な要求でした。
ウィルソン大統領がアメリカに行くと、イギリスとフランスはウィルソンの側近ハウス大佐を呼んで、ドイツとの講和の会議を始めました。
両国は国際連盟設立に賛成したのだから、今後は少しでも早くドイツとの講和を進めるため、ハウス大佐に対して国際連盟規約を含まない、予備的講和条約締結を進める提案をしました。
ウィルソン大統領と違い、現実派のハウス大佐も予備的興和条約についての討議を進めることに同意しました。
実はウィルソン大統領も、先のロッジ議員から
「パリ講和会議に行っても、ドイツとの講和は何も進んでいない。講和会議なのだから、国際連盟設立より先にドイツとの講和を進めるべきだ。」
と忠告されていました。しかし、ウィルソン大統領にとっては、国際連盟を作って世界の救世主となる方が大事なので、ドイツとの講和は無視していました。
3月4日、ウィルソン大統領は再びパリに戻ってきました。そして留守を守っていたハウス大佐から、予備的講和条約の話を聞くと、大変怒りハウス大佐を外交顧問から解任してしまいました。
ハウス大佐は第一次世界大戦のはじめから、ウィルソン大統領の意を酌んで戦争を止めさせるために、ヨーロッパ各地を回っていたにも関わらずです。しかも彼は、予備的講和条約を結ぶことに同意しましたが、領土問題などに関してはウィルソン大統領の言いつけを守り、何一つ独断で決めていませんでした。
何が気に障ったかというと、国際連盟の設立を興和条約から外してしまったことです。
ウィルソン大統領にとって、国際連盟設立こそ自分がキリストに変わって世界に平和をもたらす救世主であることを示す証であり、生きがいだったのです。
アメリカに帰国したとき、多くの議員から国際連盟に反対する上申書が出されていたため、国際連盟設立を含まない講和条約が出来ると議会から批准され、国際連盟の設立が無視される恐れがあったためでした。
続く