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亀仙人2フィッシャー提督は天才なのか? それとも
航空母艦の誕生
イギリスのフィッシャー提督は、「超弩級」の言葉のもとになった戦艦「ドレッドノート」を作ったり、それまでになかった小型の戦闘艦「駆逐艦」の生みの親であり、イギリス海軍で艦隊編成の改革、海軍兵学校の創設、射撃法の改良などの近代化を推し進めた人として、ネルソン提督に次ぐ名声を得ています。
その反面、意外に弱かった巡航戦艦を大量に作ったり、小さな船に無理やり大口径の大砲を搭載した珍兵器も作っています。
ここではフィッシャー提督の作った変な艦艇について書いてみます。
巡洋戦艦は本当に失敗作なのか
フィッシャー提督の作り出した巡洋戦艦ですが、このユトランド海戦では大きな被害を受け、以後巡洋戦艦は一挙にすたれてしまいました。
フィッシャー提督の「速度は最大の防御なり」との理論通り、英巡洋戦艦は同じ口径の主砲を搭載した戦艦に比べて3~4ノット速く、戦艦と遭遇した時は素早く射程外に逃げることを前提に建造されました。
もともとの任務は戦艦に比べて、速力が早くまた航続距離が長いため本隊より先に進み、敵艦隊を偵察をすることでした。また敵艦隊前面に展開する、巡洋艦や駆逐艦などの小型艦艇を攻撃・排除することも任務に入っています。
大型艦に出会ったときには、速力を生かし常に敵の射程外に逃げることを前提に作られています。そのための同じ口径の主砲を搭載した戦艦に比べて、装甲が薄くなっています。
ところがユトランド沖海戦では、霧が立ち込めていて敵艦を発見した時は、すでに相手の射程内に入ってしまっていました。
そのため、想定外の艦同士の砲撃戦になってしまったのです。
ユトランド沖海戦で撃ち合った、イギリスとドイツの巡洋戦艦の被害を見てみると、
イギリス 6隻中3隻沈没
・巡洋戦艦「インディファティガブル」(「フォン・デア・タン」の砲撃で5発被弾。砲塔天蓋貫通、誘爆を起こし轟沈)
・巡洋戦艦「クイーン・メアリ」(「デアフリンガー」と「ザイドリッツ」の斉射で6分間に8発の命中弾を受け爆発、轟沈)
・巡洋戦艦「インヴィンシブル」(「リュッツオウ」または「デアフリンガー」から6発被弾。中部砲塔に当たり誘爆、轟沈)
轟沈とは、砲撃・爆撃・雷撃などにより艦船が一分間以内に沈没することを言います。そのため多くの犠牲者が出ることになります。
ドイツ 5隻中1隻沈没
・巡洋戦艦「リュッツオウ」(24発被弾、総員退艦後、味方魚雷艇の雷撃により自沈)
よく、イギリスの巡洋戦艦はドイツのそれに比べて装甲が薄い為、砲撃に弱く沈没した。と言われますが、沈没した3隻は火薬庫の爆発で、船体がちぎれて沈没してしまったのです。
そもそも水上艦は、少しぐらいの砲弾が当たっても簡単に沈まないように出来ていて、同じイギリスの巡洋戦艦の「タイガー」は17発の砲弾を受けても沈みませんでした。
旗艦の「ライオン」も6発の砲弾を受け、砲塔に火災が発生しましたが、運良く生き残っていた砲搭士官の指示で直ちに弾薬庫に注水して、誘爆を防ぐことが出来、沈没を免れました。
砲塔の仕組み 出典 ウィキペディア
軍艦の砲塔は打つ度に1発分づつ、砲弾と炸薬を弾薬庫から運び、特に誘爆を起こしやすい炸薬の倉庫では、弾薬庫の入り口と、エレベーター部分に分厚い防護扉が付いていて、同時に開けないことになっています。
しかし、ユトランド沖海戦ではイギリス艦隊は発射速度を上げるため、あらかじめ予備の砲弾と炸薬を砲塔内に積み上げており、さらに重くて開閉に時間のかかる炸薬庫の防護扉を開けっ放しにして、弾薬を運んでいました。
このため砲塔に火災が発生すると、一瞬のうちに弾薬庫が誘爆を起こし轟沈してしまったのです。
ドイツ巡洋戦艦「リュッツオウ」から発射された砲弾で被害を受けた「ライオン」の3番砲塔
出典 ウィキペディア
一方ドイツ側は、作業手順をきちんと守ったため、被弾して火災が発生しても誘爆を起こさず沈没を免れました。
下の写真は、21発の砲弾を受けて帰港した、巡洋戦艦「ザイドリッツ」です。
港にたどり着いた、ドイツ帝国海軍巡洋戦艦”ザイドリッツ”
出典ウィキペディア
ユトランド沖海戦で戦ったのは快足を誇る両国の巡洋戦艦が主体で、たとえ大口径の砲を持ち、厚い装甲を備えていても鈍足の戦艦は、25ノットの速度を出せるクイーンエリザベス級を除いて、戦闘に参加することさえも出来ませんでした。
こうして戦艦には攻撃力と防御力の他に速度も重要な要素となり、後のドイツ海軍のビスマルク級、フランス海軍のリシュリュー級、イタリア海軍のヴィットリオ・ヴェネト級、アメリカ海軍のアイオワ級等30ノット越えの速度を持つ、新戦艦が建造されることになります。
遅いといわれる日本の戦艦大和でも、27ノットを出せます。
このことだけでも、巡洋戦艦が生まれたことが無駄ではないと思います。
フォースの英国面に堕ちた船たち
フィッシャー提督の小さな船に大口径の大砲を搭載する趣味は、とんでもない船を作り出しました。
その1 M級潜水艦
先ずは画像をご覧ください。
M級潜水艦
出典 ウィキメディア・コモンズ
なんと潜水艦に、弩級戦艦並みの30.5㎝砲を搭載して(ただ古くなった弩級戦艦の砲をつけただけですが)しまいました。これならどんな大型船でも浮上して、1発で撃沈できるはずでしたが・・・。
まず大砲を打つときには、砲身に水などの異物が入ってはいけないので(実際1923年、発射時に砲身に海水が入り、爆発を起こしています)、蓋をしなくてはいけません。だから、水中からは打てません。そして打つ時は、まず浮上して蓋を外します。
第2に砲を回転することが出来ないので、照準をとるときは、潜水艦自体を回すことになります。相手が停船しているときはそれでも使えますが、動いているときは大変な手間がかかります。
相手が非武装の商船ならよいのですが、武装した艦艇では浮上して発射準備をしているうちに、こちらが撃たれてしまいます。
艦を動かして照準をとるのなら、潜水しながら魚雷を打った方が敵に見つからず有利です。というわけで4隻作るはずが3隻で製造打ち止めになりました。
1隻目のM1は潜水できる砲艦として残りましたが、実戦で活躍することはなく、1925年11月、民間船と衝突し、砲身が折れてしまい、そこから浸水して沈没しました。
2隻目のM2は大砲を乗せていた場所に、水上機格納庫を設置して、潜水水上機母艦となりました。こちらがその写真です。
水上機母艦となったM2 出典 ホビーサーチ
こちらは1932年格納庫の扉を閉め忘れたまま潜水。そして2度と浮き上がることはありませんでした。
3隻目のM3は潜水できる、機雷敷設艦として使われました。
その2 ハッシュ・ハッシュ・クルーザー
1914年10月トルコがドイツ側について第1次世界大戦に参戦すると、それまで自由に通行していたダーダネルス=ボスフォラス海峡はトルコに支配され、黒海に続くバルト海はドイツに支配されて、ロシアは海上からの輸送路を封鎖されてしまいました。
そこでフィッシャー提督は、「大英帝国海軍の総力を挙げてドイツ北部海岸に上陸、キール運河を抜けてバルト海まで突っ走り、一気にベルリンに攻め込むという大作戦」、通称「バルト海上陸作戦」を提案しました。
ところがバルト海は遠浅の海で、大きな大砲を積んだ戦艦は岸に近づくことが出来ません。そこで遠浅の海でも大口径砲で上陸部隊を支援できる船として、「ハッシュ・ハッシュ・クルーザー」の建造に着手します。
ちなみに「クルーザー」は巡洋艦で、「ハッシュ・ハッシュ」とは、人差し指を口に当てて「シィー」と言う動作を言います。訳せば「極秘巡洋艦」となりますか。
これは 巡洋戦艦の大口径砲を積んで高速で航行できる艦艇の考えをさらに推し進め、喫水の浅い軽巡洋艦に大型戦艦を凌ぐ大砲を搭載しました。合計3隻作られスペックは次の通りです。
カレイジャス
全長239.7メートル・主砲38㎝砲×6 ・速度32ノット
グロリアス
全長239.7メートル・主砲38㎝砲×6 ・速度32ノット
フューリアス
全長239.7メートル・主砲46㎝砲×2・速度31.5ノット
これらはまとめて大型軽巡洋艦という変な名前で呼ばれます。変だと思わない人は、大型軽自動車の海軍版だと思ってください。
ところが提督の提案した「バルト海上陸作戦」はリスクが大きすぎるとして、ボツになりました。
代わりにトルコを攻撃して、黒海から地中海に抜ける海路を確保する「ガリポリの戦い」が行われました。
「ガリポリの戦い」についてはこちらをご覧ください ↓
航空母艦完成までの道のり
予定していた3隻のうち2隻は完成してしまいましたが、3番艦のフューリアスは、戦艦大和と同じ46㎝砲を艦の前後に1門づつ装備するはずでしたが、建造途中でバルト海作戦が中止になり、前部砲塔の部分に小さな飛行甲板をつけ、空母としてスタートしました。
下が、その写真です。
大型軽巡洋艦から空母に改装されたフューリアス(後部から撮影)
出典 ウィキメディア
横から見たフューリアス 後部に46㎝砲の砲塔が見える
出典 forum.valka
下は砲塔を作る予定のところに作った、飛行甲板の写真。しかし、46㎝砲を装備した空母は凄い。
空母フューリアスの前部飛行甲板
出典 ウィキメディア
当時の複葉機は、こんな狭い所からでも発艦できましたが、着艦は非常に難しく、船と速度を合わせて平行に飛び、横滑りさせながら飛行甲板までもっていき、甲板の真上で失速させ、墜落させるような感じで着艦していました。
2013年、当時の着艦を再現すべく、小型飛行機を使って貨物船に降りた動画がありました。何回も着艦に失敗したようです。
https://www.youtube.com/watch?v=pMKHRWasRTM
出典 You Tube
海上を航行中の船に最初の着艦成功。1917年8月2日、イギリス航空母艦「フューリアス」の甲板にソッピーズ「パップ」を操縦した飛行中隊長E・H・ダニングによって実施された。
出典 戦闘機の開発
この時はまだ制動索がなく、人の手で飛行機を掴みストップさせていました。
さすがにこれではということで、1917年11月 から1918年3月にかけて、第1次改装を行い、後部砲塔を撤去してそこに縦85メートル、横20メートルの着艦用の甲板を設置しました。更に後部甲板に着艦した飛行機を前に運ぶ通路も設置されました。
これで横滑りをさせず、真っすぐに甲板に向かうことが出来ます・・・・。とはいかず、煙突からの排煙や艦橋によって気流が乱れ、とても着艦できる状態ではありませんでした。着艦の試験では、13機中9機が破損したといわれています。
というわけで、しばらくは発艦専用の空母として運用されました。
空母フェーリアスに後部甲板が付きました。煙突の後ろに飛行機を受け止めるネットが見えます。
出典 ウィキメディア
この状態で、1918年7月17日に本艦から7機のキャメルを発艦させ、地上基地にあったツェッペリン飛行船を撃破しています。これは空母艦載機による初めて成功した航空攻撃となりました。
1922年6月から1925年8月31日にかけて大改装工事を行い、今までの甲板の上に全通型の飛行甲板を作りました。
改装後のフューリアス
やっと航空母艦らしくなってきました。しかしまだ制動索を設置していないため、着艦した飛行機を整備員が駆けつけて、手で押さえていました。飛行機を止めやすくするため甲板の前部が、やや持ち上がっています。
今まで使っていた飛行甲板もそのまま残っており、2段式甲板の空母となり、日本の赤城や加賀(赤城や加賀は3段式甲板)に影響を与えました。
上部甲板で着艦。下の甲板で発艦が同時に行える。 ふつうは着艦した飛行機を格納した後、発艦する飛行機を出すため、時間がかかる。 出典 萌えよ空母学校
上部甲板で着艦。下の甲板で発艦が同時に行える。 ふつうは着艦した飛行機を格納した後、発艦する飛行機を出すため、時間がかかる。 出典 萌えよ空母学校
また艦橋全部が飛行甲板の下になって見通しがきかなくなったため、港に出入りする時などには、収納式(空母として使う時は、甲板の下に降りる)の操舵室を上部甲板の1番前に設けています。
1929年、横索式制動索(アレスティング・ワイヤー)を試験的に設置。結果が良好だったので以後順次に他の空母にも設置しました。
フェーリアスに設置された制動索。甲板に張られたワイヤーに着艦フックというカギをひっかけて止まる。
出典ウィキペディア
1939年の改装で、下部飛行甲板を廃止、前部に対空砲を設置しました。これは飛行機が大型になり、また艦載機が金属製になったため滑走距離が伸びて発艦できなくなったためです。今まで使っていた下部飛行甲板は、格納庫となりました。
また飛行甲板の右側に島式の艦橋を設けました。
フェーリアス 最終形
このように何度も改装を繰り返した航空母艦フューリアスであったが、この艦を手本としてバルト海上陸作戦中止後、使い道がなくて放置状態になっていた「ハッシュ・ハッシュ・クルーザー」のカレイジャスとグローリアスも航空母艦に改造されました。これらの艦はもともと32ノットの速度を出すことが出来たので、艦載機の発艦・着艦に有利なためでした。
航空母艦 グローリアス1930年就役
出典 ウィキペディア
航空母艦カレイジャス1928年就役゜
出典 ウィキペディア
空母フューリアスを含むこの3隻は、戦間期のイギリス海軍航空母艦の主力となりました。
空母フューリアスは第2次世界大戦でも、輸送船団の護衛空母や、雷撃機を搭載してドイツ戦艦ティルピッツを攻撃するなど大活躍しました。
空母フェーリアスは1945年4月に退役し、1948年スクラップとして売却されました。
ユトランド沖海戦に関する記事はこちら ↓
さてと、フェーリアスから外した46㎝砲はどうなったかというと。
フューリアスから外した46㎝砲を積んだロード・クライブ級モニター艦
出典 偏見で語る兵器
撃ったら船がひっくり返りそうな気がしますが、船底に重りをつけてあるので大丈夫だそうです。
ただ、砲は回転できず横向きに固定したままです。全部で3隻作られました。
フィッシャー提督のDNAは正しく、英国海軍に受け継がれました。