なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

現在の中東問題は、ここから始まった 第1次世界大戦、中東の戦い

time 2017/02/13

現在の中東問題は、ここから始まった 第1次世界大戦、中東の戦い

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亀仙人2

第1次世界大戦(中東の戦い)

シナイ及びパレスチナ

アラブ反乱

第1次世界大戦当時のトルコはオスマントルコ帝国でアラビア半島に大きな領土を有していた。

ドイツ帝国は、オスマン帝国と同盟を結んでスエズ運河を脅かすと同時に、カリフであるオスマン皇帝の力を借り、全イスラム教徒を連合国に対して攻撃させようとしました。

イギリスはスエズ運河の通行とペルシャ湾沿岸地域の油田の利権、およびインドとの交通路を確保するためアラビア半島に出兵した。

当時、オスマン帝国にアミール(シャリーフ)として任命されビャーズ地方の支配を任されてのは、メッカにいたハーシム家のフサイン・イブン・アリーでした。しかし彼は根っからのアラブ民族主義者であり、かねてからオスマン帝国による支配に不満を持っていた。

1915年メッカの太守フサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプトの高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間に結ばれた、フサイン=マクマホン協定でイギリスは、オスマン帝国に反乱することを条件に、アラブ全域(エジプトからペルシャ「現在のイラン」までの地域)のアラブ人居住地・統一国家の独立を支持することを約束した。

反乱を指揮したフサイン・イブン・アリー

 1916年6月10日、ヒジャーズ地方はフサイン・イブン・アリーを国王とするヒジャーズ王国として、オスマン帝国からの独立を宣言し、トルコに対して反乱を起こした。イギリスはこの反乱に、海上から武器や弾薬の支援をするとともに「アラビアのロレンス」と知られるトーマス・エドワード・ロレンスを派遣した。

ラクダに乗ったトーマス・エドワード・ロレンス

 ロレンスは、フサインの三男ファイサル、次男アブドゥッラーの真意を得て、彼らの反乱をイギリスの反オスマン帝国の戦略にあうように調整した。

 彼は、ヒジャーズ鉄道終点のメディナにいるオスマントルコ軍を直接攻撃せず、重要な補給路であるヒジャーズ鉄道をゲリラ戦で、あちこちで破壊し、トルコ軍が鉄道の修理と護衛に多くの人員を割けずにいられないようにしました。

 1917年1月23日、イギリス軍の支援を受け800人ほどのトルコ軍が守る紅海沿いアル・ワジュを陥落し、ヒジャーズ鉄道攻撃の処点とした。

1917年5月9日ワジュを出発したロレンスは当時トルコのために戦っていたベドウィンのホウェイタット族の指導者アウダ・イブ・ターイーを説得して、7月6日アカバ湾奧の港町アカバを攻撃し、占領した。アカバを占領したことにより、新たな補給路を確保でき、またヨルダン方面に進軍しているイギリス軍が背後から攻撃される恐れをなくした。

スエズ運河から海岸沿いにシリアに向かって進軍するイギリス軍に対して、ロレンスの率いるアラブ反乱軍は、ヒジャーズ鉄道を破壊し、イギリス軍が陸側から攻撃されるのを防いだ。またトルコ軍がヒジャーズ鉄道の修復や警護に人員を割くことにより、戦闘に出せる軍勢を減らす効果もあり、イギリスの狙いは成功した。

アラブ反乱その後

1916年フサインがオスマン帝国に対して反乱(アラブ反乱)を起こした同じ年、イギリスのマーク・サイクスとフランスのジョルジュ=ピコよって作られた戦後のオスマン帝国の領土分割を決めたサイクス=ピコ協定が(現在のシリアより北がフランスの勢力範囲イスラエル・ヨルダン・イラクより南がイギリスの勢力範囲とする)結ばれた。これによってアラブ地域がフランス側とイギリス側に分割されることになった。

 さらにこの土地にもともと住んでいた3000万人ものクルド人がバラバラになり現在問題を起こしている。

1918年に イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人のリーダーである大資本ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して、イギリス政府の公式方針としてパレスチナ地区のユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束する書簡を送った。

これが後にバルフォア宣言として中東にアラブ系ではないユダヤ人の国家イスラエルの建国を認めことになった。ここにもともと住んでいたパレスチナ人は、ユダヤ人に追い払われ、パレスチナ問題の始まりとなりました。

イギリスが自分の領土でもない土地(住民も含む)を勝手に分割や分け与えることを約束した3つの協定はイギリスの3枚舌外交と言われ、今日の中東問題の始まりになっている。

ファイサル王子は戦後ダマスカスを首都とするシリア・アラブ王国(現在のレバノンとシリアを合わせた領域)の国王となるが、領土がサイコス=ピコ協定のフランス領にあったためフランス軍によって追放され、イギリスに亡命した。その後1921 年3月に行われたカイロ会議でイラク国王になる。イラク王国はファイサルの死後も続いたが、1958 年7月 14日のクーデターで滅亡しました。

 

関連する映画はこちら↓

「映画」 アラビアのロレンス

メソポタミア(現イラク)

20世紀初頭、中東の湾岸地域で石油が発掘され始めると、この地域の重要性が注目され始めた。石油は第1次世界大戦で使われ始めた、自動車や航空機の燃料としてだけではなく、軍艦も燃料を石炭から石油に切り替え始めたため、この地域を確保することは戦略上必要なことであった。イギリスは3C政策 (ケープタウン・カイロ・カルカッタを結ぶ三角形を支配する)によりこの地方に力を伸ばそうとしたが、ドイツの3B政策(中東に進出するため、ベルリン・コンスタンチノープル・バクダットを結ぶ鉄道を建設した)と衝突し、メソポタミアの戦いが始まった。

第1次世界大戦がはじまるとイギリスは、1914年11月6日湾岸地域にインド軍を主体とする1個師団を派遣し1914年11月23日にチグリス川とユーフラテス川の合流地点にあるバスラを占領しここに基地をもうけた。

翌1915年3月、ジョン・ニクソン大将はバスラからバグダットに向けて進軍を開始した。途中、貧弱な補給路と、50度を超す猛暑、不潔な環境による赤痢やコレラ・ペスト・マラリア等の疫病に苦しめられたが、11月にはバグダットから26キロにあるクテシフォンまで進んだ。しかし、ここでトルコ軍の反撃を受け兵士の半数を失いクートまで退却した。クートでイギリス軍はトルコ軍に包囲され、4か月に及ぶ籠城戦の末、4月29日クートは陥落した。

クートでの失敗に懲りたイギリス軍は、司令官をモード中将に変え戦力の増強に努めた。

1916年12月8日イギリス軍は9万5千人の兵力を率いてバグダットに向かって進撃した。モード中将は無理に進撃をせず占領した地域に鉄道を敷き補給路を確保し、川からは砲艦を使い砲撃をして着実に1万人のトルコ軍を追い詰め、1917年3月11日、バグダットを占領した。

メソポタミア戦線に関係する映画はこちら↓

映画 「肉弾鬼中隊」中東の砂漠でパトロールに出たイギリス軍は。

 

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