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亀仙人2湾岸戦争からイラク戦争開始まで、アメリカの動きを見てみよう
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湾岸戦争から9.11アメリカ同時多発テロまで
湾岸戦争後もイラクへの攻撃は続いていた
湾岸戦争停戦に際して、イラクはクウェートからの撤退と共に、停戦条件として国際連合安全保障理事会によって大量破壊兵器の破棄を義務付けられました。その手続きをIAEA(国際原子力機関)や新たに創設されるUNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)によって監視するというものでした。
イラクはイラン・イラク戦争で化学兵器を使用し、国内でも反体制派のクルド人に対して毒ガスで1日に3000人を殺戮したことがあります。
武装解除が行われていることを確認するために、UNSCOMとIAEAの専門家チームがイラクに滞在し、関連の技術者に対するインタビュー、貯蔵、製造に関わると考えられる施設への訪問調査などを行ないました。
イラク側もこれを受け入れ、1998年頃までは大きな混乱はありませんでした。ところがUNSCOMは事前通達を伴う従来の方式から抜き打ち方式に調査方法を変更し、イラクはUNSCOMの査察に協力的ではなくなり査察の受け入れを拒否しました。
また湾岸戦争後、北部クルド人や南部のシーア派のイスラム教徒達がフセイン政権に対して反乱を起こし、この反乱はイラク全土に及びイラク18州のうち14州を支配するほどになりました。
しかし、サダム・フセインは、湾岸戦争後も生き残った共和国防衛軍と大統領親衛隊で反乱を鎮圧し、その後も多数の反政府国民を弾圧・殺害していました。
1991年4月5日に決議された国連安保理決議688によってフセイン政権に弾圧されているクルド人保護のため、イラク北部北緯36度線以北のイラク軍機の飛行を禁止しました。
1992年8月27日には同じく、南部シーア派のムスリム(イスラム教徒)保護を名目に、北緯32度(後に北緯33度になる)以南も飛行禁止空域に加わりました。
イラク飛行禁止区域
フセインはこれらの処置に不服をもち、戦闘機による飛行や地対空ミサイル配備などを行っていた。また、国連(UNSCOM)の査察により、ウラン濃縮施設やミサイル部品工場が存在しているとの疑惑が示された
1993年1月17日、ジョージ・H・W・ブッシュ(パパ ブッシュ)大統領は、イラク制裁を旨としてイギリス・フランスと共にトマホークミサイル45基を中心とした攻撃を行い、疑惑のザーファラエニ工場(バグダッド)を破壊し、戦闘機の撃墜や空軍施設の空襲を行いました。
新たに就任したビル・クリントン大統領も同年6月26日、23基のトマホークで情報施設を攻撃しました。
1995年9月3日から4日にかけて、44基のトマホークで軍事施設に攻撃を加え、8箇所の防空ミサイル施設、7箇所の防空指揮管制施設を破壊しました。
1990年8月の湾岸戦争で、国連は国連はイラクに対してほぼすべての輸出入を禁止するという経済制裁を下します。
この制裁は湾岸戦争が終わった後も続いており、食料の3分の2を輸入に頼っていたイラクは深刻な食糧不足に陥ります。さらにいえば、戦争で連合軍にボロボロにやられた後ですから、上下水処理場や電気や通信設備も復旧しなくてはいけません。
この制裁の食糧不足や医療設備の不備で50万人もの子供がなくなったと言われています。
そこで国連は1995年に、イラク・石油・食糧交換計画を出します。
イラク・石油・食糧交換計画は、1995年4月14日の安保理決議986に基づき、イラク国民の窮 状に鑑み、イラクが食糧・医薬品等の人道物資購入が可能となるよう同国の石油輸出を限定的に認めたもの。石油代金収入は、国連制裁監視委員会(いわゆる661委員会)により管理され、イラクによる人道物資の購入財源、イラク北部での国連人道活動経費、国連賠償基本経費、国連特別委員会(UNSCOM)や国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)の活動経費その他のイラク関連国連活動経費として支出されていた。出典 平成17年9月8日 外務省報道官談話
お役人だと固い表現になりますが、年間40億ドルまでならイラクが原油を売ることを認め、その代金は国連が管理する銀行に収め、そのお金の60%で食料品や医療品などイラクが必要とする物資を購入し、30%を湾岸戦争におけるクウェートなどへの賠償金、残り10%を国連がイラクで活躍するときの資金に充てようというものです。
こうすることで、イラクが新たに武器を買い、軍備を増強することが出来なくなります。
イラクは湾岸戦争で敵であったアメリカ・イギリスではなくソ連・中国・フランスを中心に石油を輸出します。
この3国は国連の常任理事国で、国連での拒否権があり大きな力を持っています。
イラクはこの3国とイラク国内の油田開発計画を作り、国連の経済制裁の緩和から廃止するように働きかけました。1999年には石油取引の上限が撤廃され、イラクの石油輸出額は湾岸戦争以前にまで復活してしまいます。そして国連が管理する銀行口座には莫大なお金が貯まりました。
イラク戦争でフセイン大統領が倒された2003年、国連の経済制裁が解除され、このお金はイラクが石油を売ったお金なので、戦後復興のためイラクに戻されましたが、後に大規模な汚職事件が発覚して国連を含む大事件となりました。
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1998年10月イラクがUNSCOMとIAEAによる査察団を追放して大量破壊兵器の査察を拒否したため、1998年12月16日から19日にかけて、トマホーク325基以上とB-52からの空中発射巡航ミサイル90基によるミサイル空爆を行ないました(砂漠の狐作戦)。
1998年までの査察でUNSCOMはイラクにはミサイルと核兵器は無く、化学兵器もほとんどないと考えてよいが生物兵器が疑問であるとする報告を行なっています。
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イラク戦争開戦からフセイン政権打倒まで
湾岸戦争はイラクがクウェートの主権を無視し、クウェートに侵入して併合を狙ったためイラクが悪いのははっきりしています。
アフガニスタン戦争は、アメリカ同時多発テロを起こし3000人以上の犠牲者を出したアルカイダをタリバン政権がかくまっていたため、容認できなくはない。
しかし、イラク戦争の場合はどう考えても納得がいきません。
アメリカが主張する『イラク攻撃の公式理由』とは
・イラクの保有する大量破壊兵器の脅威から世界を開放こと
・大量破壊兵器がテロリストの集団に渡るのを阻止こと
・イラク国民をフセイン独裁の圧政から解放すること
しかし、この主張は国連安全保障理事会において、フランス・ドイツ・ソ連・中国が反対したため認められませんでした。
イラクの所有する大量破壊兵器については、1991年から1998年までの国連の査察によって、イラクの妨害があったとしても『イラクが保有する可能性は極めて小さい』とされ、4年ぶりの2002年11月からの査察においても発見されませんでした。イラク戦争後の2004年10月にアメリカが派遣した調査団によって「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告書が提出されました。
だいだい持っていないものを「出せ」と言われて、「無いから出せない」と答えたら、いろいろ調べて出てこないので、代わりにぶん殴ってよいかという話です。
現にイラク・イラン戦争のさなか1981年6月7日イスラエル空軍がイラクのタムーズに在った原子炉を爆撃した事件(イラク原子炉爆撃事件)がありました。これはイラクが核兵器を持つ危険性があるとして、イスラエルが「先制的自衛」目的を理由にイラクに先制攻撃を行ったものです。この攻撃に対して国際連合安全保障理事会決議487が決議され、イスラエルは非難されました。もっとも国際的に非難されても、イラクからの核攻撃を未然に阻止できた、イスラエルの勝ちですけどね。
フセイン政権はクーデターを恐れて、反政府組織やテロ集団を徹底的に弾圧しており、存在しないか、たとえ存在しても大した勢力ではない、としています。
まして、フセイン政権と対立しているアルカイダなどの組織に大量破壊兵器を渡すなどとはあり得ないことです。
3番目の国民を圧制しているとしても、外国の政権をアメリカが勝手に攻撃して撃破することは許されません。
これらは、イラクを攻撃する理由としては不十分なものです。ではなぜ、アメリカはイラクに対して戦争を仕掛けたのでしょうか。
イラク戦争の真の理由
アメリカがイラクに戦争を仕掛けた理由として、イラクにおける『石油利権の確保』があります。
イラン革命により、アメリカとイギリスはイランにおける石油利権を失います。そこで目を付けたのが中東第2位の原油埋蔵量を持つイラクでした。
もしイラクの石油を確保できれば、アメリカは石油の国際価格の支配権を持ちOPECの力を弱めることが出来、更にサウジアラビアの依存度を低くできます。
イラクで発見された油田のうち稼働しているのは約5分の1で、多くは開発されていませんでした。イラク戦争前、フセイン政権はロシア・フランス・中国と新たな油田開発権の交渉をしていました。湾岸戦争で戦ったアメリカとイギリスは外されていたのです。
そこでアメリカはイギリスと結託してフセイン政権を倒し、これら3国との油田開発権の交渉を白紙にして、新たに親米派の政権を立て、イラクにおける石油の利権を確保しようしました。
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パウエル報告
アメリカはイラク侵攻における国差的合意を得るため、2003年2月5日の国際連合安全保障理事会において、アメリカの国務長官であったコリン・パウエルに説明させました。イラクが化学兵器、生物兵器などを密かに開発、所持していることを示すためのものでありましたが、後に、この時提示された証拠のほとんどがねつ造されたものや事実誤認であったことが判明されました。
この時の説明の全文と使用されたスライドは、アメリカ合衆国 ホワイトハウス のホームページに載っています。
イラク戦争開戦
アメリカ側は査察は不十分として、戦争をも辞さないとする新決議を提案したが、フランス等は査察は成果を挙げており継続すべきと主張しました。2003年3月15日、安保理ではイラク攻撃に対する新決議案が反対多数で否決される見通しとなったため、アメリカは安保理での裁決を避け、独断で開戦に踏み切ることを決定しました。
2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。
いくら何でも他国(アメリカ)が、独立国(イラク)の指導者に対して国外退去を命ずる権利はどのような国際法に照らし合わせても合致せず、ここにアメリカの傲慢さが如実に表れています。
2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、侵攻を開始しました。
正規軍同士の戦闘は2003年中に終了し、同年5月1日にジョージ・W・ブッシュにより「大規模戦闘終結宣言」が出ましたが、その後もテロなどが起こりイラク国内は安定していません。
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