なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その2 アメリカのアフガン侵攻

time 2017/11/05

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その2 アメリカのアフガン侵攻

アメリカのアフガン侵攻 (2001年~2014年)

9.11アメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされたオサマ・ビンラディン率いるアルカイダの引き渡しをタリバン政権が拒んだため、アメリカ合衆国、NATOがアフガニスタンの北部同盟と組んで2001年10月7日から空爆を開始し、11月13日には首都カブールを制圧した。
2001年12月22日には暫定政権を発足させたが、その後も不安定な状態が続き現在に至っている。

ここまでの経緯はこちら ↓

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」 から「イスラム国」まで その1 アメリカ同時多発テロ

アフガニスタンの歴史

アフガニスタンからパキスタン北部は古くはガンダーラと呼ばれ、ヨーロッパからアジアを結ぶ交易路が中国とインドに分かれる分岐点に当たり、発展してきた。

1978年4月軍事クーデターが起こり、社会主義政権が誕生しました。新しく指導者となったタラキ革命評議会議長はソビエトに支援を求め、それに応じてソ連は軍事顧問団を送り込みました。

しかし急激な改革はイスラム教徒の反発を招き、各地で反乱がおこります。社会主義の勢力拡大を狙うソ連は1979年12月24日アフガニスタンに武力侵攻を行い、世界各地から集まったイスラム義勇兵(ムジャヒディン)との戦いになりました。共産主義の勢力拡大を恐れたアメリカはムジャヒディンに武器などの支援を続け8年間に及ぶゲリラ戦が繰り広げられました。

オサマ・ビンラディンは、1979年駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表としてアフガニスタン国境に近いパキスタンのペシャワールに居を構えアフガンゲリラ諸派と共にムジャヒディンとして戦った。ソビエト軍撤退の1989年までアメリカの中央情報国(CIA)の援助を受け、軍事訓練は
パキスタン軍統合情報局(ISI)とパキスタン陸軍が担当した。

またサウジアラビアを代表する財閥の1族、ビンラディン家や、ファイサル王子が長官を務めるサウジアラビア総合情報庁(GIP)から資金を得て、エジプトやスーダンなどからムジャヒディンを募集し、軍事訓練キャンプに送り込みました。

1988年8月アフガニスタンでの活動を優先する一派と別れ、新たにビン・ラディンを中心とするアルカイダを創設した。

ソ連軍撤退後の1990年にサウジアラビアに英雄として帰国したが、1990年8月にフセインのイラク軍がクウェートに侵略して湾岸戦争が始まった。この時オサマ・ビンラディンはサウジアラビア国内に異教徒のアメリカ軍が駐留することに強く反対したが受け入れられず、この時から反米感情が一挙に強まった。

1992年ビンラディンはは秘かにサウジアラビアを脱出し(これにはサウジ家を攻撃し続けるビン・ラディンを、ファハド国王が追放したという説もある。)各地を転々とするようになった。

ソビエト軍の撤退後、大量の兵器を手に入れたムジャヒディンはアフガニスタンの主権をめぐっていくつかの軍閥に別れお互いに軍事衝突を繰り返し、無秩序・無法状態に陥りました。

軍閥による残虐行為と略奪が続く中、イスラム教に基づき新たに治安と秩序の回復のために立ち上がったのが、イスラム神学校の学生が組織するタリバンでした。

2001年赤い部分が北部同盟の支配地域。その他はタリバンが支配。出典ウィキペディア

タリバンは親パキスタン寄りの政権確立を願うパキスタン軍統合情報局(ISI)と、アフガニスタンに安定した政権求めるサウジアラビアのサウジアラビア総合情報庁(GIP)の支援を受け、カンダハールを処点として北に軍をすすめ、1996年には首都カーブル、そして北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧し、9.11米国同時多発テロ事件のころまでに国土の大部分を支配するようになりました。

1996年タリバンはオサマ・ビンラディンとアルカイダ幹部を客人としてアフガニスタン滞在を許可した。アフガニスタン滞在を許されたオサマ・ビンラディンはアフガニスタン国内にアルカイダの訓練キャンプを設置し、ここからタンザニアとケニアのアメリカ大使館爆破、アメリカの駆逐艦コールに対する自爆テロを行った。

アメリカはタリバンに対してビン・ラディンとアルカイダ幹部の引き渡しを求めたが、拒否されたためアフガニスタンに対して経済制裁を行った。

アメリカのアフガン侵攻

9.11アメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされたオサマ・ビンラディン率いるアルカイダの引き渡しをタリバン政権が拒んだため、アメリカ合衆国、NATOがアフガニスタンの北部同盟と組んで2001年10月7日から空爆を開始し、11月14日北部同盟は首都カブールを制圧した。

しかし、タリバンに言わせると、アルカイダに軍事キャンプの設置は認めていたが、9.11のテロ事件に関しては知らなかった。またテロを行った実行犯の大部分はサウジアラビア人でアフガニスタンはだれ一人も加わっていない。それにアルカイダの活動資金は、かってはサウジアラビアとパキスタンから出ていてアフガニスタンは出していないとのことです。

しかし、アメリカにとって実態の分からないテロのネットワークよりは、タリバン政権の方が攻撃しやすいということで、アフガニスタンに侵攻しました。

タリバン政権が直接9.11テロに加わっていないのに攻撃することに反対する意見をかわすため、女性にアフガニスタンの民族衣装ブルカを強制的に着せて女性の人権を無視しているとのキャンペーンを広げ、タリバンに対する反感を広めました。

イスラム教徒の女性の服装 出典AFPBB News

アフガニスタンに親パキスタン寄りの政権を立てるためタリバンを支援してきたパキスタンも、隣国インドとアメリカを敵にするわけにいかず、アフガン侵攻に賛成しました。

アメリカはタリバンによって北部に追い詰められていた軍閥に資金と武器を与え、北部同盟を結成させ、タリバンに対抗させました。アメリカ軍による強力な空爆の助けと、最新の兵器を備えた北部同盟は瞬く間にタリバンをカンダハールを中心とする南部へ追いやることに成功しました。

しかし、攻撃を急ぐあまりアメリカは戦後の統治戦略を何も考えていませんでした。アメリカは自国が直接統治することを嫌い、国連に調停役を頼みました。

2001年11月27日、国連はドイツのボン近郊のケーニヒスヴィンターにタリバンに敵対してきた北部同盟を含む4つのグループを集め会議を開きます。しかし、アフガニスタンの人口の半分を占めるタリバンを構成するパシュトゥン人を抜きに国を運営することは、再び内乱を起こすことを恐れた国連は、北部同盟に暫定政府の重要な閣僚のポストを与えることを条件に、暫定政府の議長としてパシュトゥン人のハミード・カルザイを認めさせました。

12月5日ボン会議は合意に至りましたが、北部同盟の支配する地域では、ビン・ラディンとアルカイダに対する攻撃が行われており、南部では相変わらずタリバンが抵抗を続けてておりカンダハールを支配して、戦争終結には程遠い状態でした。

このままでは北部同盟とタリバンの戦いが長引くと見たカルザイは自身の出身地であるカンダハールに直接出向き、タリバンの指導者オマルと直接交渉しました。

カルザイとオマルは、タリバンが降伏を受け入れカンダハールの主権を暫定政府に委譲する代わり、暫定政府はオマルの生命と尊厳の安全を保障し、カンダハールに住むことを許すとの合意に達しました。

やっとアフガニスタン国内の戦いが終わるめどがついたのです。しかし、アメリカはこの合意に反対して、この合意を破棄させました。

アメリカの言い分は9.11テロを起こしたアルカイダを支援したタリバンも同罪であり、尊厳を保ちながら平和に暮らすことは許されないというものです。

前にも書きましたが、タリバンはアルカイダの訓練キャンプの設置を認めただけであり、9.11アメリカ同時多発テロにはだれ一人加わっておらず、直接関与もしていません。

12月7日タリバンはカンダハールを捨て、隣国パキスタンや農村部に逃げ込み、地下に潜伏して活動を続けることになります。

こうしてアメリカはタリバンに対するいかなる交渉も拒否して、延々と続く戦争を選びました。

アメリカは、アルカイダを攻撃する代わりにカンダハールから撤退したタリバン幹部を次々と捕らえグアンタナモ基地などの秘密基地に送り込みました。

2001年12月22日、ボン合意に基づき元国会議長の息子ハーミド・カルザイを議長とする暫定政権が発足しました。カルザイはかねてからの約束通り、タリバン掃討に貢献した各軍閥に重要なポストを割り当てました。これはタリバンが出現する前の軍閥が武力闘争を繰り返していた時代に逆戻りすることを意味して、不安定な状態は現在も続いています。

2002年1月アメリカのブッシュ大統領は一般教書演説で9.11アメリカ同時多発テロを起こしたアルカイダではなく、タリバンを負かしたことで勝利宣言を行いました。

これを受け、国連の平和維持部隊やNATOの治安部隊が続々アフガニスタンに到着しますが、後に彼らはアメリカが9.11アメリカ同時多発テロの報復としてアルカイダではなくタリバンを選んだ大きなツケを払わされることになります。

2003年3月、イラク戦争が始まり多くのアメリカ兵がイラクに移動した。

2004年10月9日、大統領選挙が行われカルザイが55.4%の票を獲得し、12月大統領に就任して、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。

カルザイ政権の閣僚に着いた軍閥たちは、そのポストを自分の一族に分け与え、誰が一番多く政府からゆすり取れるか、誰が一番うまく政府を利用できるかの争いになりました。彼らは新しく発足したアフガニスタン・イスラム共和国を自分たちの戦利品のように考えていました。

道路・ダムや灌漑用水の整備・病院、学校の建設などアフガニスタンのインフラ整備のため数十億ドルの資金がアフガニスタンに流れ込みました。しかし、これらの資金の大部分は事業を請け負った海外の企業に払い込まれ、残りの部分は政府関係の軍閥のものとなり実際に使われた金額はわずかなものでした。

アフガニスタン国民が期待した新しい政府は、賄賂や汚職がはびこる腐敗した政権となり、アフガニスタンの復興は実施されませんでした。

こうした人々の失望をもとに、再びタリバンが勢力を復活し始めました。

アフガニスタンを追われたタリバンは、パキスタンのアフガニスタン寄りにあるとライバルエリアと呼ばれるパシュトゥン人の民族自治区に逃げ込み勢力を蓄えていました。この地区はパキスタン政府の力の及ばない場所です。

2006年春、各地に点在していたタリバンはオマル師を中心に結束を固めアフガニスタンに大規模攻撃を開始し、その勢いは首都カブールに迫りました。急速な治安の悪化に対してアフガニスタンに駐留している多国籍軍は兵の増員を要求しました。

2007年1月アメリカは、NATO会議において2500人の増派を決定し、イギリスフランスもこれに続きました。

2009年、新たに就任したオバマ大統領はアフガン重視の政策を取り、アフガン米軍司令官に強硬派のマクリスタル中将を据えました。

マクリスタル司令官はそれまで3万人規模だった米軍を一挙に10万人規模に増やし、タリバンを根絶やしにするため「キャッチ・アンド・キル」作戦を実施し、深夜にタリバンが隠れていると見られる部落を襲い、ゲリラのみならずゲリラを匿っていた住民も殺害しました。

2011年5月1日、アメリカはビンラディンを殺害したと発表しました。しかし皮肉なことに、この発表でアフガニスタンの国内状態が改善されることはありませんでした。また、アフガニスタンに駐留している多国籍軍は、対テロ作戦が終了したとして2014年をめどに撤退を開始しました。

 

アフガニスタンに灌漑用水を作った、日本のペシャワール会中村哲さんのビデオです。

出典YouTube

2001年のアフガニスタン紛争に関係する映画

なぜ、戦場で人を殺せるようになるのか 映画 「アルマジロ」から見てみよう

映画 「DC911」9.11アメリカ同時多発テロでなぜ、アメリカはアフガニスタンに侵攻したのか。

続きのイラク戦の解説はこちら ↓

誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その3 なぜ、アメリカはアルカイダと関係のないイラクに戦争を仕掛けたのか

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