約550万人から600万人ともいわれる、ヒトラーのユダヤ人に対する大量虐殺はどのようにして始まったのか。調べてみました。
第2次世界大戦開戦まで
ドイツ国内のユダヤ人
1933年1月ヒトラーが首相に就任した当時、ドイツ国内のユダヤ人は全人口の0.76%約50万人ほどでした。
ドイツのユダヤ人は、ビスマルクによるドイツ統一でドイツ帝国が創設されると共に、ドイツ国内で信仰の自由が認められ、ユダヤ人の法的平等が認められました。
豊かな財力を持つ彼らは、産業革命後からの資本主義の発展と共に、工業や商業に手を出し目覚ましい成功をおさめ、ドイツ経済界に大きく進出しました。
その反面、社会の変化に対応できない手工業者や農民などの中間層からなるキリスト教徒の反感を買うはめになりました。
レイシズム(人種主義)
「レイシズム」とは、人種間に根本的な優劣の差異があるという、人種差別を正当化する思想です。
フランスの作家アルテュール・ド・ゴビノーは、人種論の古典ともいわれる『人種不平等論』(1853-55年)で、人類を黒色人種・黄色人種・白色人種に大きく分け、黒色人種は知能が低く動物的で、黄色人種は無感動で功利的、白色人種は高い知性と名誉心を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべて彼らが作ったと主張した。
アルテュール・ド・ゴビノー(1816-1882年)
出典ウィキペディア
ゴビノ―のアーリア人種至上主義は、ヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『十九世紀の基礎』(1899年)に継承され、そこでは理論はさらに先鋭化され、アーリア人種の中でもゲルマン人こそ最も優秀な民族であると主張された。彼の理論は後にナチズムのイデオロギーを支える重要な柱となった。20世紀初頭のドイツ人は、「アーリア人種」という神話を「民衆思想の一部」となったといわれるほど広く受け入れ、「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼした。ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であり、ドイツ的な「精神」が「アーリア人種」の証とみなされた。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、人種主義はドイツ・ナショナリズムを統合するものになっていった。
引用ウィキペディア
ドイツの「人種衛生学」
「種の起源」を著わし進化論を唱えたダーウィンの従兄弟のフランシス・ゴルトンは、「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」を唱え、優生学が始まりました。
フランシス・ゴルトン(1822年~1911年)
出典ウィキペディア
優生学の目的は様々であるが、「知的に優秀な人間を創造すること」、「社会的な人的資源を保護すること」、「人間の苦しみや健康上の問題を軽減すること」などが挙げられる。これらの目標を達成するための手段として、産児制限・人種改良・遺伝子操作などが提案されました。
つまり、劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする考えです。
その反面、優生学は劣悪な遺伝を持つ人間を、社会的に排除しようというとする思想も生み出しました。
1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツ博士が『民族衛生学の基本指針』を出版。「民族衛生学」という言葉が初めて用いられた。このプレッツ博士の著書は「ドイツ優生学」の出発点となりました。
アルフレート・プレッツ博士(1860年~1940年)
出典 ナチスの「人間改良計画」
1927年9月、「ドイツのオックスフォード」と呼ばれたベルリン=ダーレムに「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」が設立された。
1942年まで、オイゲン・フィッシャー博士が、研究所長を務めていました。
解剖医で人類学者のオイゲン・フィッシャー博士
(1874年~1967年)
1908年、彼はフィールドワークに出かけた。南西アフリカのドイツ植民地で、彼はブーア人と「ホッテントット」の祖先をもつ、混血のレーオボートと呼ばれる種族を調査した。1913年の彼の研究報告書の
最後の章には『混血の政治的意味』というタイトルの下にこう書かれていた。
「私たちは人種の混血についてまだあまり多くを知らないが、はっきりわかっているのは次の点である。すなわち、劣等種族の血を受け入れたヨーロッパ民族は──黒人、ホッテントットなどは劣等人種であり、このことを否定するのは空想家だけである──この劣等要素を受け入れたことによって精神的・文化的衰退をこうむった、ということである。
こういう劣等種族の人間には保護を与えられてはならない。せいぜい彼らが我々の役に立つ間、与えられていいだけだ。さもないとここで自由競争が、つまり没落が始まるからだ」
ナチスドイツにおける優生政策
ナチスドイツの最高指導者であったアドルフ・ヒトラーは優生学の信奉者であり、「ドイツ民族、即ちアーリア系を世界で最優秀な民族にするため」に、「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てた(ホロコースト)以外に、長身・金髪碧眼の結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させ、「ドイツ民族の品種改良」を試みた。民族衛生の旗の下に実施された様々な優生計画を通して、純粋ゲルマン民族を維持する試みが行われた。つまり、強制断種と強制結婚を両用したのが、ナチスドイツである。
1930年代、エルンスト・リューディン(ドイツ語版)が優生学的な言説をナチスドイツの人種政策に融合させる試みを開始し始めた。
人体実験
ナチス政府は、自らの遺伝理論を検証するために様々な人体実験を行った。それは単純な身体的特徴の測定から、ヨーゼフ・メンゲレがオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーに対して強制収容所で行わせた双生児への驚愕すべき実験まで広範に渡るものである。T4作戦
1933年から1945年まで、ナチス政府は、精神的または肉体的に「不適格」と判断された数十万の人々に対して強制断種を行い、強制的安楽死計画によって施設に収容されていた数万の人々を殺害した(T4作戦)。レーベンスボルン(生命の泉)計画
ナチス政府は「積極的優生政策」をも実施し、多産のアーリア民族の女性を表彰し、また「レーベンスボルン(生命の泉)計画」によって「人種的に純粋」な独身の女性がSS(ナチス親衛隊)の士官と結婚し、子供をもうけることを奨励した。引用ウィキペディア
ナチスの安楽死計画 ─ 暗号名「T4作戦」
ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を短縮したもので、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。 引用 ウィキペディア
1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺(安楽死)」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えます。この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となります。
フィリップ・ボウラー 出典ウィキペディア
カール・ブラント 出典ウィキペディア
1939年9月1日、ヒトラーは日付のない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死」を下す権限を委任する責任をもつ「計画の全権委任者」としての地位を、ボウラーとブラントに与えました。
ちなみに1939年9月1日は、ナチスがポーランドに進攻して、第2次世界大戦が始まった日です。
1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“党指導者ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー” 出典ウィキペディア
「T4作戦」の責任者であった総統官房長フィリップ・ボウラーと、ヒトラーの侍医カール・ブラント博士は、全ドイツの障害者施設に全収容患者一人一人に関する調査書を送り、記入されて返ってきた患者のリストを専門家に評価させ、「+」ないし「-」記号によって障害者の運命を決める規則の細目を作成しました。
退院の見込みがない患者や、労働者として使えないと判断された患者には「+」の記号が付けられました。
全国の精神病棟から「+」の記号のついた患者は、窓を塞がれた特別なバスによって「安楽死施設」に送られ殺害されました。
ドイツのヘッセン州にあるハダマーの精神病院。「T4作戦」の舞台となった。
各地の精神病院から患者を「安楽死施設」に移送する灰色のバス2台。
ハダマー安楽死施設の「シャワー室」(ガス室)
出典ウィキペディア
このような「安楽死施設」の付いた精神病院がドイツに6ヶ所設けられ、60人の専任医師と300人のスタッフが働いていました。
ナチスが作った精神病や遺伝病患者が社会に負担を与えていることを訴えるポスター
椅子に腰かけた脳性マヒとおぼしき
男性患者の後ろに、健康かつハンサムな
ドイツ青年が立ち、かばうように患者の肩に
手を置いている。そして、「この立派な人間が、
こんな、我々の社会を脅かす病んだ人間の世話
に専念している。我々はこの図を恥ずべきでは
ないのか?」というキャプションが付けられていた。
出典 ナチスの人間改造計画
君の負担
一人の遺伝病患者は60歳になるまでに平均で5万マルクかかる
出典 猿虎日記
一人の遺伝病患者は国家にとって毎日5.5マルクのコスト
5.5マルクで遺伝的に健康な一家族が一日生活できる!
出典 猿虎日記
精神病院で信者たちの家族が殺されている噂が、ミュンスター大聖堂の司教クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレンの耳にも入ってきました。
ミュンスターの聖パウルス大聖堂 出典ウィキペディア
フォン・ガーレン司教(1878年~1946年) 出典ウィキペディア
フォン・ガーレン司教は1941年8月3日、安楽死政策を批判する説教を行いました。下はその説教原稿です。
『行われていることは障害者を救済する恵みの死ではなくたんなる殺害だ』
貧しい人 病人 非生産的人な人
いて当たり前だ。
私たちは 他者から生産的であると
認められた時だけ生きる権利があるというのか
非生産的な市民を殺してもいいとの原則ができ
実行されるならば
我々が老いて弱った時 我々も殺されるだろう
非生産的な市民を殺してよいとするならば
いま 弱者として標的にされている精神病者だけでなく
非生産的な人 病人 傷病兵
仕事で体が不自由になった人すべて
老いて弱った時の
私たち全てを殺すことが許されるだろう
(フォン・ガーレン司教)
ナチスの秘密警察は説教の原稿を秘密警察によって没収しようとしましたが、原稿は教会関係者や信者によって書き写され、広まってしまいました。
T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令したが、ガス室での大量殺人がなくなっただけで、医者や看護師による注射や餓死などの方法で患者を死亡させていました。
更にT4作戦の関係者は、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーによってハンガリーやポーランドで新しく設置された強制収容所に配置転換され、『無用の長物』を排除する仕事に就きました。『無用の長物』に該当した人たちは、「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心でした。
後にこの人たちは、ホロコーストの専門要員として活用されました。
T4作戦関連で死亡した人は、約20万人と言われています。
ヒトラー政権のユダヤ人政策
1933年ヒトラーが首相となり、政権を握るとナチス党の25ヶ条の党綱領を実施し始めました。
ナチス党の党綱領゜からユダヤ人に関係するものを上げると
第4条
民族同胞のみが国民たりうる。宗派にかかわらずドイツの血を引く者のみが民族同胞たりうる。ゆえにユダヤ人は民族同胞たりえない。
第5条
国民でない者は、ドイツにおいて来客としてのみ生活することができ、外国人法の適用を受けねばならない。
第6条
国家の指導と法律によって定められた権利は、国民のみがこれを有する。ゆえに我々は、いかなる公職も、それが国家のものであるか州のものであるか市町村のものであるかを問わず、国民のみによって占められることができるようにすることを要求する。我々は、人格や能力を考慮せずにただ政党の視点のみによって占領されている腐敗した議会の体たらくに対して闘争する。
第7条
我々は、国家がまず第一に国民の生活手段に配慮することを約束することを要求する。国家の全人口を扶養することが不可能であれば、外国籍の者(ドイツ国民でない者)は国外へ退去させられる。
第8条
非ドイツ人の今以上の移民は阻止される。我々は、1914年8月2日以降にドイツに移住してきた非ドイツ人が、直ちに国外退去を強制されることを要求する。(注1914年8月2日はドイツがルクセンブルクに進撃して、第1次世界大戦がはじまった日)
第23条
我々は、故意の政治的虚言およびその報道による流布に対する法的な闘争を要求する。我々は、ドイツ的報道機関を創造することを可能にするため、以下のことを要求する:
a. ドイツ語で発行される新聞の全ての編集者と従業員は民族同胞でなければならない。
b. ドイツ以外の新聞はその発行にあたって国家の明確な許可を必要とする。それらをドイツ語で印刷することは許されない。
c. 非ドイツ人によるドイツの新聞に対する出資または影響は、法律によって禁止される。違反に対する罰として、そのような新聞企業の閉鎖、および関与した非ドイツ人の即時国外追放を要求する。
d. 公共の福祉に反する新聞は禁止される。我々は、我が民族生活に退廃的な影響を与える芸術・文学的傾向、および行事の閉会、上述の要求の違反に対する法的な闘争を要求する。
1933年3月23日、全権委任法が制定されると、ヒトラーは議会の承認なしに法律を制定することが出来るようになり、上記の要綱を実施するための法律が次々と作られました。
1933年3月28日、『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』を発し、4月1日から三日間にわたって全国的なユダヤ系の商店、商品、開業医、弁護士などのボイコットが一斉に行われました。
ベルリンのユダヤ人商店のボイコットを撮影するナチス宣伝班:左側にいるユダヤ人は,辱めのために,「ドイツ人へ!ユダヤ人からは購入しない!」とかかれている看板を下げています。
出典 鳥飼行博研究室
1933年4月7日には『職業官吏団再建法』が制定され、正式にドイツ国内の非アーリア系官吏や公務員、またナチス政権にとって好ましくない官吏は強制退職させられました。この法律は次の2つの点でホロコーストに向かう転換点になりました。
1つ目は、ユダヤ人の公務員が居なくなったことで、反ユダヤ的な公的規制がやりやすくなりました。
2つ目は、官吏以外にも弁護士や大学教授、医師、徴兵対象者などを含む民間の企業や団体にも適用され、ユダヤ人はほぼすべての就業分野から追い出されました。また、ユダヤ人の学生や生徒も就学を制限されまた。
そのため職を失ったユダヤ人は、毎年2~4万人程国外に脱出しました。
1933年5月10日、ドイツの学術・文化・芸術の世界から「非ドイツ的要素を一掃する」と称して、ユダヤ系または共産主義的文学作品や書物の焼却破棄(焚書)が全国的な規模で組織され、実施された。指揮をとったのはゲッベルスであったが、ナチスを信奉する学生たちが、観衆として動員された。この「焚書」によってベルリンで2万冊が燃やされた。
ベルリン・オペラ広場での焚書(1933年5月10日)
出典 ヒトラーの反ユダヤ政策
1935年9月15日、「ニュルンベルク法」が制定されました。
ニュルンベルク法は「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の2つの法律の総称です。
「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」では、ユダヤ人と「ドイツ人ないし同種の血を持つ国籍所有者」との結婚や性交渉を禁止しました。
「帝国市民法」は、「国籍所有者」と「帝国市民」を明確に区別して、「帝国市民」は「ドイツ人あるいはこれと同種の血を持つ国籍所有者だけが成れる」と定めました。
「帝国市民」の資格を持たない「国籍所有者(ユダヤ系ドイツ人など)」は政治的権利はないとされました。
1935年11月24日に「帝国市民法第一次施行令」によってユダヤ人の定義が定められました。
それによると
・4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体に所属している場合は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」。
・4人の祖父母のうち2人がユダヤ教共同体に所属している場合は次のように分類する。
・ニュルンベルク法公布日時点・以降に本人がユダヤ教共同体に所属している者は、「完全ユダヤ人」
・ニュルンベルク法公布日時点・以降にユダヤ人と結婚している者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
・ニュルンベルク法公布日以降に結ばれたドイツ人とユダヤ人の婚姻で生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
・1936年7月31日(翌日の8月1日にベルリンオリンピックが開催された)以降にドイツ人とユダヤ人の婚外交渉によって生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
・上記のいずれにも該当しない者は、「第1級混血」(ドイツ人)
・4人の祖父母のうち1人がユダヤ教共同体に所属している者は、「第2級混血」(ドイツ人)。
とされました。引用 ウィキペディア
1936年8月1日のベルリンオリンピックの開催で、一時的にユダヤ人の迫害は中止されました。
1937年ドイツで第2次4か年計画が発表され、ゲーリングが経済相に就任すると、ユダヤ人の経営するすべての事業を「アーリア化(非ユダヤ人に売却させて、ユダヤ人の経済活動を断つ政策)」により、ユダヤ人は生活の基盤を失いました。
1938年3月13日、オーストリアを併合。
1938年9月29日、ミュンヘン会談によりチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得。
これにより、新たに20万人以上のユダヤ人が加わりました。
水晶の夜
発端
ヒトラーがユダヤ人を迫害している中でも、ポーランドから来たユダヤ人は迫害を免れていた。彼らは官憲に捕まってもポーランドの旅券を提示すれば、在外外国人としての権利を主張することが出来ました。
しかし1938年10月6日、ポーランド政府はすべてのポーランド発行の旅券に検査済みの認印が必要とする新しい旅券法を布告しました。このため旧来からの旅券は効力を失い、今までいたドイツ国内のユダヤ人は国籍を失います。
これは反ユダヤ的なポーランド政府が、ドイツにいるユダヤ人がポーランドに帰国するのを防ぐためでした。
これに対してドイツ政府は10月28日、治安警察の長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将はドイツ国内のポーランド系ユダヤ人1万7千人を集めて、ポーランドに送りかえそうとしました。ところがポーランドは送り返されたユダヤ人の入国を拒否しました。彼らは国境の無人地帯で放置されたため窮乏した生活をすることとなり、餓死者も大勢出ることとなりました。
センデル・グリュンシュパンの一家もこの時ドイツ政府によって追放されたポーランド系ユダヤ人家庭のひとつでした。センデルはパリに留学中の当時17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えました。
11月7日、ヘルシェルはパリのドイツ大使館に行き応対に出た三等書記官エルンスト・フォム・ラートに2発の銃弾を打込みました。
彼はフランス警察の尋問に対して
「自分の家族がドイツ警察から非道の仕打ちを受けたと聞き、抗議のためにドイツ大使館員を殺害しようと決めました。ドイツで起きている事に対し、世界に訴えたかった。迫害されるユダヤ人に代わって復讐したかった」
と述べています。
ドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートを暗殺したポーランド系ユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパン。出典ウィキペディア
ヒトラーはゲ、オルク・マグヌス教授と自らの侍医カール・ブラント博士の2人を11月8日早朝にパリに派遣し、ラートの治療にあたらせたましたが、ラートは11月9日午後4時30分に死亡しました。
ラートが死亡した知らせは、ミュンヘン市役所で行われていた、ミュンヘン一揆15周年記念式典に出席していたヒトラーのもとに届きます。ヒトラーは宣伝相のゲッベルズと数分間話をした後、記念式典から退席しました。これは後に起こる暴動に関与していないことを示すためです。
ホロコーストの始まり
ヒトラーが退席した後の式典で、ゲッベルズはラート三等書記官の殺害は全ユダヤ人の陰謀であるとして、報復処置をとるよう呼びかけました。
彼自身も、大管区指導者や突撃隊指導者たちに対してミュンヘンから電話で暴動に関する具体的な指示をそれぞれの管轄地区執行部に下しました。
11月9日深夜には保安警察長官ハイドリヒの部下であるゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーが各地のドイツ警察に「まもなくユダヤ人とシナゴーグに対する攻撃が始まるが、邪魔をしてはならない」と電報で命令を出しました。
10日にはハイドリヒ自身が、全警察と親衛隊保安部に向けて次のように電報で命令しました。「ドイツ人の生命と財産を危険にさらさないユダヤ人への攻撃は許すものとする」「ユダヤ人の商店や住居はただ破壊するのみとせよ。略奪は認めない」「商店街の非ユダヤ系商店が被害を受けないように留意せよ」「外国籍の者はたとえユダヤ人でも被害を受けないよう留意せよ」。
暴動
11月9日の夜から11月10日にかけて、ドイツ全土で組織化された、ユダヤ人に対する暴動が一斉に起こりました。この暴動で200余りのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)と7000余りのユダヤ人の経営する商店や事務所などが破壊されました。
「水晶の夜」とは、暴動で割られたショーウィンドウのガラスが月明りで、水晶のように輝いたことから名づけられました。
水晶の夜で炎上するオーベルラムシュタットのシナゴーグ。シナゴーグの代わりに近隣のドイツ人の家屋に延焼するのを防いでいる消防隊員。
暴動で破壊されたユダヤ人商店のショーウィンドーのガラス。
出典ウィキペディア
翌日、被害者であるにもかかわらず3万人のドイツ系ユダヤ人男性がユダヤ人であるという「罪」で逮捕され、強制収容所に送られ、そのうちの数百人が死亡しました。
1938年11月10日、逮捕されるユダヤ人 出典 ウィキペディア
ブーヘンヴァルト強制収容所に新たに到着した囚人の点呼。そのほとんどが水晶の夜(「壊れたガラスの夜」)に逮捕されたユダヤ人だった。1938年、ドイツ、ブーヘンヴァルト。出典 アメリカ ホロコースト博物館
収容所入れられたユダヤ人は、財産を没収されることと、即時ドイツ国内から出国することに同意することを強制されました。
この暴動で保険会社が多額の保険金を負担することになり、経営が危うくなりました。そのため保険会社を救うための対策会議が、11月12日に4ヶ年計画の責任者であるゲーリングの空軍省で行われました。
この会議で「ドイツ国籍ユダヤ人の贖罪給付に関する命令」(罰金10億ライヒスマルクをドイツ国籍ユダヤ人団体に課す)の他、「ドイツの経済活動からユダヤ人を排除する命令」(ドイツ企業は年末までにユダヤ人労働者をすべて解雇しなければならない。1939年からユダヤ人の小売業も禁止)、「ユダヤ人商店・工場における街路美観修復のための命令」(破壊された建物の修復はすべてユダヤ人が修復する。ドイツ国籍ユダヤ人が受ける損害保険金はすべて国が没収する)の三政令か定められました。
「水晶の夜」以後ヒトラーはユダヤ人の国外追放に本格的に取り組み、1939年1月24日にはユダヤ人問題の責任者であるゲーリングの命令でドイツ国内に「ユダヤ人海外移住中央本部」を開設して、本部長に親衛隊保安部長のラインハルト・ハイドリヒを任用しました。
ラインハルト・ハイドリヒ(1904年~1942年) 出典ウィキペディア
ハイドリヒは、オーストリアのウィーンで半年間に5万人のユダヤ人を海外移住させたアドルフ・アイヒマンを呼び、ユダヤ人の移住の実務を任せました。
1942年のアイヒマン親衛隊中佐 出典ウィキペディア
1939年の1年で、ハイドリヒの指揮下で約7万5千人のユダヤ人が海外に移住しました。ヒトラーが政権を握った1933年からドイツを離れたユダヤ人は約30万人となり、「ユダヤ人なきドイツ」は、早晩達成できると考えられていました。
なぜドイツ国民から非難の声が上がらなかったのか
1929年、ニューヨークの株価大暴落から始まった世界恐慌は、第1次世界大戦から立ち直りつつあったドイツにとっても、大きな痛手になりました。1933年にヒトラーが首相になったのは、ちょうどこの時です。
ヒトラーが政権をとる前年(1932年)のドイツの失業者は557万5千人でした。それがヒトラーが政権をとった4年後(1937年)には、91万2千人となり、先進国でいち早く大失業時代から抜け出し経済が発展し始めました。
更に、戦争ではなく外交の駆け引きで、オーストリアやチェコのズデーテン地方を併合したことで、ヒトラーへの信頼が高まりました。
これはヒトラーの
「ドイツ国民よ。おまえがひとつになれば、おまえは強くなれる。」
の呼びかけに答えて、ドイツ復興のために国民が一致団結して努力した結果だと、宣伝されました。
このため国民の団結を乱すような反社会分子を排除するのは、当然のこととされました。
また出国するユダヤ人から、工場や商店を安く手に入れた企業や公共団体、家屋や家財道具を競売で格安に手に入れた人々にとって、国民の1%にも満たないユダヤ人が居なくなっても、問題になりませんでした。
ドイツの発展のためには、少数派の弾圧、人権侵害、自由の制限は一時的な代償として認められてしまったのです。
ホロコースト(ユダヤ人大量殺戮)へ
ここまで、ドイツ民族の血の純潔を守るため安楽死計画(T4作戦)や、ユダヤ人の海外追放をしてきました。
しかし、第2次世界大戦のきっかけとなった1939年9月1日のポーランド侵攻により、ポーランド国内に250万人ものユダヤ人がいたことにより、ユダヤ人の海外移住計画は大きく変わってきました。
詳しくは、こちらをご覧ください ↓