なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

ヒトラーその3 ユダヤ人迫害(ホロコースト)後編 第2次世界大戦開戦、そして大量殺戮の始まり

time 2018/11/01

ヒトラーその3 ユダヤ人迫害(ホロコースト)後編 第2次世界大戦開戦、そして大量殺戮の始まり

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亀仙人2

第2次世界大戦とホロコースト

第2次世界大戦勃発で、ドイツは東ヨーロッパに進攻しましたが、そこには大勢のユダヤ人が住んでいました。このユダヤ人をどうするか、ドイツは大きな問題を抱え込みます。

ドイツのポーランド侵攻

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに進攻したことにより、第2次世界大戦がはじまりました。

同じく1939年9月17日には、ソ連が「ウクライナ系・ベラルーシ系市民の保護」を口実にポーランドの東部化に進攻を開始しました。

ポーランドに進攻したドイツ軍とソ連軍衝突することもなく、開戦直前の1939年8月23日に結んだ独不可侵条約の密約により、ポーランドの西半分をドイツ、東半分はソ連が占領することになりました。

9月28日には独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソビエト境界友好条約が締結され、ドイツの権益化にあるソ連国民をソ連領内に移住させ、代わりにソ連の権益化にある「民族ドイツ人(ドイツ国外に住む、ドイツ国籍を持たないドイツ系住民)」をドイツ領内に移住させました。

更にポーランドには250万人ものユダヤ人が住んでいました。

1939年9月20日、「ユダヤ人海外移住中央本部」の本部長である親衛隊のハイドリヒは、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーと、ダンツィヒ大管区指導者アルベルト・フォルスターと会談して、ポーランドの支配体制を検討しました。この会談により

  • ポーランドをドイツ領とポーランド総督府領に分割する。
  • ドイツ領からはポーランド人とユダヤ人を追放する。
  • ポーランドの政治指導者層やインテリ層は弾圧するが労働者層は利用する。
  • ユダヤ人はゲットーに隔離する。

といったナチスのポーランド統治の基本方針が決定されました。

1939年9月27日、ヒムラ―の布告により、SD(国家社会主義ドイツ労働者党の親衛隊保安部”Sicherheitsdienst” の略称)と保安警察が統合され、親衛隊内部に「国家保安本部」が立ち上げられ、その本部長にハイドリヒが抜擢されました。

1939年10月7日、ヒトラーは親衛隊全国指導者・全ドイツ警察長官のヒムラ―を「ドイツ民族性強化国家委員」に任命して、民族移住政策の全権を与えました。

ハインリヒ・ヒムラ―(1942年) 出典ウィキペディア

これによりドイツ勢力化の治安対策・民族移住政策・ゲルマン化政策は、ヒムラ―とハイドリヒを中心とする親衛隊・国家公安本部の手に任されました。

民族ドイツ人の移住 出典 https://www.keiwa-c.ac.jp

ドイツ軍の占領下となったポーランドの西半分は、ドイツ領に編入され「東部編入地域」となりました。またドイツ占領下のポーランド東半分はドイツ領に編入されず、新しく設けられた「ポーランド総督府」の支配下になりました。総督府長官には、ヒトラーの法律顧問ハンス・フランクが着任しました。

民族ドイツ人の帰還は、まずバルト海沿岸地区から始まり、東ヨーロッパ全域に及びました。帰還する民族ドイツ人のため、「東部編入地域」に住むユダヤ人はわずかな手荷物を除いて、家財や家屋は新しく帰還する民族ドイツ人のために没収され、ポーランド総督府に移住させられました。

ゲットー

もともと総督府には180万人のユダヤ人かすんでおり、増え続けるポーランドからのユダヤ人を収容するため、ワルシャワをはじめ各地にゲットーが作られ、狭い地域に多くのユダヤ人が閉じ込められました。

 

移送中ゲットー内を行進させられるワルシャワ・ゲットーのユダヤ人

出典 NAVER まとめ

ゲットー内にはこの様な親のいない孤児があふれていた。(1940年)

出典 ウィキペディア

ゲットーでの食事の配給は1日当たり成人の10分の1に当たる180キロカロリーしかなく、狭い場所に大勢の住民が閉じ込められていたため、腸チフス・結核・インフルエンザ等の伝染病が広がり、1941年には住民の10分の1に当たる、4万3千人が餓えと病で死亡しました。

マダガスカル島移住計画

西ヨーロッパでは1940年4月9日、ドイツ軍がデンマークに進攻してノルウェー攻略に成功した後、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクと軍を進め、1940年6月14日パリを陥落させました。

フランスの降伏を受けて、ユダヤ人を仏領マダガスカルに移住させる計画が練られ始めました。

国家保安本部ゲシュタポでユダヤ人問題を担当するアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は戦争終結後に5年をかけて、ドイツ占領地域に住む600万人のユダヤ人をマダガスカルに送る計画にを立てました。

計画によると、イギリス本土上陸作戦を成功させて、接収したイギリス艦隊でユダヤ人たちを移送する予定でした。

しかし、この計画は1940年夏のイギリス本土上陸作戦の失敗により、ユダヤ人のマダガスカル島移住政策は、頓挫してしまいます。

独ソ戦と大量虐殺の始まり

1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破り、ソ連領内に進攻しました。

もともと共産主義者を弾圧してきたヒトラーは、ソビエト侵攻を共産主義に対するイデオロギー戦争として、ユダヤ人と同じく絶滅の対象としました。

ヒトラーはこの戦争を「ユダヤ=ボリシェヴィズム」が支配する地域のソ連邦を倒して、ドイツ民族の発展に必要な「生空間」を作り、「大ゲルマン帝国」に必要な食料・原料・労働力を提供する場としてドイツ領の拡大を目指しました。

また新たに獲得した土地に、ユダヤ人を移動させる目論見もありました。

独ソ戦開始以後に、進撃するドイツ軍に追随してハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツグルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、組織的に「適性分子(得にユダヤ人)」を射殺しました。

アインザッツグルッペンは、現地のラトヴィア人・リトアニア人・ベラルーシ人の民間人や警察の支援を得てユダヤ人の住むコミュニティに直接出向いて大量殺戮を行いました。

子供を守ろうとするユダヤ人女性を銃殺するアインザッツグルッペン 1942年ウクライナ  出典ウィキペディア

 

キエフ近くのバービ・ヤールの渓谷で虐殺されたユダヤ人の所持品を調べるアインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)の兵士たち。 1941年9月29日〜10月1日、ソ連。出典 us holocaust musium

アインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)はA~Dまでの4部隊があり、お互いに競うように殺戮したため、独ソ戦開始後のわずか半年で約50万人のユダヤ人が殺され、大量殺戮(ホロコースト)の始まりとなりました。

しかし、銃撃による大量殺害は、参加した親衛隊員に精神的な重圧を与え、任務に耐え切れなくなる隊員が出てくるようになりました。またアルトゥール・ネーベSS中将率いるアインザッツグルッペンB隊の射殺の現場を視察した、ヒムラ―やアイヒマンも気分が悪くなる程でした。

このためヒムラ―は、射殺以外の殺害方法の検討を命令しました。アルトゥール・ネーベはT4作戦(障害者の安楽死計画 詳しくはこちらを見てください)に参加した医者や科学者を呼び大量殺害の方法について実験しました。

この実験で、トラックの排気ガス(ガス・トラック)を使って殺害する実験や、施設にガス室を作りツィクロンBによる殺害する実験が行われました。

ヘウムノ強制収容所のガス・トラック 出典 ウィキペディア

囚人50~70人を密閉されたトラックの荷台に乗せ、エンジンからの排気ガスをホースで流し込んで殺害しました。

20台ほど作られ3台が実際に使われました。

このような虐殺はアインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)だけでなく、ドイツ国防軍も占領した地域でユダヤ人やロマ(ジプシー)、ソ連軍捕虜などに対して、国際法を無視した蛮行を加えていました。

ドイツ軍は得意の電撃作戦で9月にはモスクワ近郊まで進軍しましたが、10月に短期決戦を狙っていたドイツ軍に例年より早く大寒波が襲い、冬用の装備を持たないドイツ軍の進撃は止まってしまいました。それに対して12月初旬には冬季戦に強いソ連軍が息を吹き返して反撃し始め、独ソ戦は初期の目論見に反し、長期戦となります。

このため、ソ連領内の地域へユダヤ人を送る計画は、ご破算となりました。

絶滅収容所の建設

マダガスカル島移住計画が破棄された1941年以降、ユダヤ人に対する対策は海外移住が東方占領地域への移送し、さらに強制労働から絶滅へと進みました。

移送されてきてユダヤ人のうち、強制労働に耐えられない老人・女子・子供たちは殺害し、労働に耐えるものは過酷な軍需産業などに従事させ死亡させる方針がとられました。そして、建設されたのがそこに送られた囚人を殺すためだけに作られた、「絶滅収容所」です。

1941年11月、ヘウムノとベウゼツの2か所に絶滅収容所が作られました。

ヘウムノではガス室はなく、前に書いたガストラック3台を使用して殺戮を行いました。1945年1月に閉鎖されるまでに少なくとも32万人が殺害されます。

ベウゼツではガス室が設けられ、初めは一酸化炭素のガスを使用していたが、のちに戦車の排気ガスを使用しました。こちらは1942年12月に活動を中止し、約60万人が殺されました。

6ヵ所に設けられた絶滅収容所 出典 us holocaust museum

ヴァンゼー会議

「ドイツのヨーロッパ勢力圏におけるユダヤ人問題全面解決」が進まないことに担当者のヒムラ―やハイドリヒは頭を悩ませていた。それは、広大な地域に散らばるユダヤ人を絶滅させるのに必要な官僚組織が、協調できていないことが原因でした。

1942年1月20日、ハイドリヒはベルリン郊外のヴァンゼー湖畔にある別荘に15名のヒトラー政権の高官を集め会議を行いました。この会議で「ユダヤ人問題」の「最終解決」を各担当の最優先事項とすることが、決定されました。

ヴァンゼー会議の開かれた別荘 出典ウィキペディア

これにより、諸官庁の調整がついたことで、移送や受け入れなどの各措置がスムーズに行われるようになりました。会議の議事録を作成した、アイヒマンはこの会議こそが「最終的解決」のはじまりだと宣言しています。


ヴァンゼー会議の議事録の一部。これによると「最終的解決」する予定のユダヤ人は1100万人とされました。 出典ウィキペディア

ヴァンゼー会議を扱った映画があります。 ↓

映画 「謀議」 ホロコーストを円滑に行うために開かれた、ヴァンゼー会議の映画です。

ラインハルト作戦

ヴァンゼー会議後に、ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦が開始され、ベウゼツの他にソビボルとトレブリンカの絶滅収容所が作られました。

独ソ戦の行き詰まりでナチスが当初思い描いていたユダヤ人の東方追放は難しくなった。ナチスは東ヨーロッパのゲットーのユダヤ人の処遇に困り、彼らを殺害することとした。後に「ラインハルト作戦」と命名されるこのユダヤ人虐殺作戦は、1941年10月頃から準備が開始され、1942年3月中旬から1943年11月初旬にかけて実行された。

「ラインハルト作戦」は1942年3月から5月にかけてルブリン・ゲットーやルヴフ・ゲットーの撤去作戦という形で始まった。7月22日にはワルシャワ・ゲットーで撤去作戦が行われる。8月には総督府全体でゲットーの撤去作戦が広がった。1942年のうちにはワルシャワ・ゲットーを除いて総督府領内のほぼすべての都市のゲットーが片づけられた。ゲットーのユダヤ人たちは絶滅収容所へ送られ、殺害された。ベウジェツでは1942年3月から、ソビボルでは5月から、トレブリンカでは7月からユダヤ人やロマ民族をツィクロンBを使ったガス室において処理させはじめた。 引用ウィキペディア

収容所名 作戦期間 虐殺数
ベウゼツ強制収容所 1942年3月 – 1942年12月 60万人
ソビボル強制収容所 1942年4月 – 1943年10月 25万人
トレブリンカ強制収容所 1942年7月 – 1943年8月 87万人
ヘウムノ強制収容所。 1941年12月 – 1945年1月 32万人

1943年11月のラインハルト作戦終了までに殺されたユダヤ人の数

ラインハルト作戦で設置されたベウゼツ・ソビボル・トレブリンカの3絶滅収容所は、作戦終了と共に証拠隠滅のために完全に解体されました。

これ以後は、ヘウムノ絶滅収容と、それまで強制収容所だったマイダネクとアウシュビッツにガス室と焼却所が設置され、この3か所の絶滅収容所が中心となります。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所では約110万人、マイダネク強制収容所では 約36万人が殺害されました。

1944年10月7日、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のゾンダーコマンドが反乱を起こし、焼却炉が一部破壊され、ドイツ軍は負傷者12名、死者3名を出しました。

反乱に加わったり逃亡したゾンダーコマンドたち200名は、すぐ捕らえられ射殺されました。この反乱で451名のゾンダーコマンドが死んでいます。

この反乱を取り扱った2つの映画の解説は、こちら ↓

映画 「灰の記憶」 アウシュビッツ収容所で働く、ゾンダーコマンドを扱った映画

映画 「サウルの息子」 ゾンダーコマンドのサウルが見たアウシュビッツ

ヒトラーはなぜ戦況が不利になってもユダヤ人を虐殺し続けたのか

1941年、ドイツ軍がモスクワの手前で新たな敵、冬将軍と戦っている12月8日日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まりました。ヒトラーはその3日後の1941年12月11日、アメリカに対して宣戦を布告しました。翌日の12月12日ヒトラーはナチ党大管区者会議で、ドイツを含むヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅を表明しました。

ヒトラーはヨーロッパ・ユダヤ人を対米・対英の交渉の切り札(人質)としての利用価値があると考えていたが、アメリカに宣戦布告したことでその必要がなくなった為でした。

1939年1月30日ヒトラーが国会で演説した

『もしヨーロッパ内外の国際ユダヤ資本が、諸民族を再び世界戦争に突き落とすことに成功するようなことがあれば、その結果は世界のボリシェビキ化、つまりユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となるだろう』

との言葉通り、ユダヤ人を絶滅する道を突き進み始めました。

ホロコーストで殺されたユダヤ人が最も多く出たのは、1942年と1943年の2年間でした。この間に、1943年2月ドイツ軍がスターリンググラートで敗北し、1943年5月には他アフリカ戦線でドイツ軍は破れ、7月にはムッソリーニが失脚して、イタリアが戦線から離脱しました。

1944年6月にはソ連軍が攻勢に出て、東部戦線が崩壊しました。同じ6月には連合軍がノルマンディー上陸作戦を行い、ドイツ軍の敗北ははっきりしました。

このような状況になっても、ヒトラーはユダヤ人を絶滅収容所に列車で送り続けたのです。

第1次世界大戦終盤、ドイツは国内に侵入されていないにもかかわらず、ユダヤ人の背後の一突きにより、敗戦国となり、ベルサイユ条約により多額の賠償金を払うことになり、また領土の一部をとられ衰退してしまいました。また戦後に発足したワイマール共和国では、共産党が勢力を伸ばしました。

ヒトラーはこれらのことはユダヤ人のせいであるとして、ドイツ民族を含むアーリア人種を守るためユダヤ人種を絶滅させる戦いを始めました。

自分の国土を持たないユダヤ人は国際的な金融ネットワークを使い、裏で所属する政府を動かし、自分たちに有利な世界を作り、世界を征服しようと企むようになりました。

ヒトラーは戦争に負けてもユダヤ人を絶滅させれば、ドイツをはじめ世界全体の発展に寄与できると信じました。それで自分の力が尽きるまで、ユダヤ人を殺し続けたのです。

ヒトラーは自殺する2か月前の2月13日、側近のナチ党官房長マルティン・ボアマンに自分の遺書を書かせました。そこには次のような言葉が書いてありました。

『ユダヤという腫瘍は私が切り取った。他の腫瘍のように。未来は我らに永遠の感謝を忘れないであろう』

 

 

 

 

 

 

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