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亀仙人2アメリカン・ソルジャーズ 真実の戦場
2010年制作 イタリア
1968年3月16日ベトナム戦争の最中、クアンガイ省ソンティン県ソンミ村でアメリカ軍兵士が非武装のベトナム人住民504人を虐殺した事件(ソンミ村虐殺事件)が起きました。
この映画はソンミ村ミライ集落で虐殺を行ったアメリカ陸軍第23歩兵師団第11旅団第20歩兵連隊第1大隊C(チャーリー)中隊の動きを追っています。
アイキャッチ画像の写真は、C中隊第1小隊の隊長ウィリアム・カリー中尉です。
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監督
パオロ・ベルトラ
脚本
ジャンニ・パオルッチ ステファーノ・ポミリア
製作
ジャンニ・パオルッチ
撮影
ダリオ・ゲルマーニ
編集
ダニエル・カンペッリ
音楽
エンリコ・サベーナ
出演
ウィリアム・カリー中尉 ボー・バリンジャー
メディナ大尉 アンドリュー・ジョセフ
ティ・レ イヴェット・イゾン
コーウェン軍曹 ジョー・スバ
シモンズ マイケル・ブルキング
ラヴェッロ ダニエレ・カンベリ
ウッド アレッシオ・ケルビーニ
ホール リッカルド・フラミーニ
トンプソン准尉 マシュ・グリサム
バーカー大佐 トニー・ハント
ヘーベル(カメラマン) ブライアン・ウィルソン
あらすじと解説
映画の背景
1968年3月18日に起きたソンムの虐殺は南ベトナム、クアンガイ省ソンティン地区ソンミー村第4地区のミライ集落(My Lai 4)で起きたため英語ではミライ大虐殺(My Lai massacre)と言います。
ソンミ村とその周辺の森林地帯は、1945年ベトナム民主共和国間(北ベトナム)設立以前からフランスの植民地支配に抵抗したベトナム独立同盟会(ベトコン)の拠点でした。
1968年のソンミ村虐殺事件が起きた当時は、1月に起きたテト攻勢に参加した南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)第 48大隊(隊員約500名)が、この村に避難して活動しているとみられていました。
1968年2月から3月にかけてベトナム軍事支援司令部(MACV )は、この地域で解放民族戦線に対してサーチアンドデストロイ(捜索と破壊)作戦を行いました。ソンミ村虐殺事件は、この作戦中に起きた出来事です。
ソンミ村虐殺の犠牲者はアメリカ側の発表で347名、北ベトナム側では504名となっています。
ソンミ虐殺記念館のあるソンミ村の位置
この虐殺は当初、ベトコン部隊との戦いとして報告され、米軍による初期捜査では隠蔽されました。しかし、アメリカ第11歩兵旅団に所属していたロナルド・リー・ライデンアワーがソンミ村大虐殺の噂を聞きベトナムに勤務している間に関係者にインタビューしたりる証拠を集めたりしました。1969年に米国に帰国した後、彼はニクソン大統領、閣僚、24人の議員に自分が知ったことを手紙で伝えました。1969年9月9日、ライデンアワーの手紙により米陸軍は、南ペトナムの民間人を殺害したとしてカリー中尉を殺人罪で起訴しました。
1969年11月13日、カリー起訴の知らせはフリーランスのジャーナリストであるシーモア・ハーシュの耳に入り、彼はライデンアワーから情報の提供を受けた上で独自の調査を続け、ミライ(ソンミ)村事件のニュースを全米35紙で報じました。11月20日、米陸軍の戦闘カメラマン、ロナルド・L・ヘーベルが撮影した虐殺の鮮明なカラー写真と目撃証言が全国紙のクリーブランド・プレイン・ディーラー紙に掲載されました。これにより「ソンミ村の大虐殺」が世界に知れ渡ることになりました。
1968年3月16日、ソンミ村虐殺の直後にアメリカ陸軍のカメラマン、ロナルド・L・ヘーベルが撮影した写真。
出典 ウィキペディア
1970年シーモア・ハーシュは国際報道部門のピューリッツァー賞を受け、著書「ソン三村虐殺事件」の報道で『My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath(ソンミ――ミライ第四地区における虐殺とその波紋)』を出版しました。
シーモア・ハーシュ 2009年
この映画はこの本を元に作られました。
この映画を見る前に、なぜ兵士達がソンミ村で虐殺を行うことになったかに対して、次の3つの要素が絡んでいると思います。
1サーチ・アンド・デストロイ(捜索破壊)作戦、歩兵部隊を派遣して共産ゲリラの潜んでいる地域を発見し、その地域を殲滅する作戦です。
2ボディーカウント(敵兵の死者数)、サーチアンドデストロイ作戦では領土の保全や住民の安全確保目的としていないため、敵の殺害数が多いことが勝利の基準となりました。国防長官のロバート・マクナマラはアメリカ兵の戦死1に対して敵兵の戦死者が10の割合を維持できれば、近いうちに敵兵が枯渇してアメリカ軍が勝利できると、予想しました。そのためアメリカ兵により多くの敵を殺すように命じました。兵士達も敵兵を殺害した数が昇進につながるため、ころされた多くの民間人も敵兵して報告するようになりました。
3自由射撃地域( free-fire zone )、すべての友軍がその地域から撤退したという想定に基づき、その地域に住む住民が敵兵、およびその支援者と見なし攻撃の対象となる地域。映画の言葉を借りれば、「この地域で動く者は、すべて殺せ」となります。
1968年から1969年にかけて南ベトナムの支配している地域、
水色の部分
共産党の支配している地域(オレンジ色の部分)では、
住民が敵か味方か判別できないため、ややこしい状態になっています。
出典 Wikipedia
映画のあらすじ
ソンミ事件発生の2日前の3月14日、カリー中尉(アイキャッチ画像の人)が率いる第1小隊はソンミ村周辺で偵察活動を行っていました。森の中を進軍中突然砲撃を受け、仲間を失ってしまいます。さらに砲撃を避け練りを抜けて平地に出ると、そこには地雷が仕掛けてあり、さらに兵士が死んでしまいました。平地では身を隠すことができないため一行は暗くなるまでまで待って、元来た道を引き返しました。
この戦闘中ソンミ村ではベトナム人女性ティレが、祖母と大きくなった娘ティビ、まだ幼い息子ジウンと共に、村人達と一緒な暮らしている様子が映し出されています。ティレノ夫間戦争で亡くなっており、他の家族も成人男性の多くが亡くなっているか、戦争に出かけており村に住んでいるのは老人、女性、子供が大部分を占めていました。
翌早朝、師団長のバーガー大佐はC中隊の指揮官アーネスト・メディナ大尉と共にヘリコプターでミライ村の偵察を行い、明朝7時になるとミライ村にいる女性や子供はクァンガイの市場に出かけて居なくなるため、村に残っている解放民族戦線(ベトコン)の掃討を命じました。
アーネスト・メディナ大尉
出典 Wikimedia
基地に戻ったメディナ大尉は、任務中に死んだスタンリリー、コックス、ワイアット、ウェバーの追悼式を行っている第1小隊の所に行き、
「ベトコンどもに仕返しするチャンスを与えよう。日の夜明けと共にミライ村第4地区でベトコンの掃討作戦を行う。撃って、撃って、撃ちまくるのだ。逃げる者、隠れる者、刃向かう者は統べて敵だ。軍の上層部は(死んだベトコンの)数を求めている。思いっきり殺してこい。」
と伝えました。
ここまでが映画の前半で、ここからはミライ村での虐殺の様子となります。
この虐殺の模様は第20歩兵連隊第1大隊チャーリー(C)中隊の広報カメラマン、ロナルド・L・ヘーベル軍曹によって撮影されました。彼は軍から支給された白黒フィルムが入ったカメラの他、私物のカメラ2台でカラー写真を撮っています。
ロナルド・L・ヘーベル軍曹
出典 Wikipedia
1968年3月16日午前7時30分、攻撃ヘリコプターがミライ村の南の水田で働いていた農民に対して攻撃を開始しました。これはヘリコプターの着陸する場所を確保すると共に、村からの脱走を防ぎ村人を村に集める意味もありました。その後第1小隊を乗せた9機のヘリコプターが着陸しました。
ミライ村に着陸するヘリコプター
ロナルド・L・ヘーベル撮影
村に着いたカリー中尉は、村人達を集め始めました。虐殺の初めは、若い兵士が銃剣でベトナム人の男声を刺し殺したことが始まりました。次に老人を井戸につき落とし、続いて手榴弾を投げ込んで殺しました。
井戸で殺されたチュオン・トー(享年72歳)の遺体。
撮影しているロナルド・L・ヘーベルの顔も写っている。
ある程度集まったところで部下に命じ、片っ端から銃で殺し初めました。
アメリカの兵士に殺される直前のミライ村の女性と子供たち
ロナルド・L・ヘーベル撮影
出典 ウィキペディア
家に隠れて出てこない場合は、家に火をつけ、出てきたところを銃で撃ったり、家に手榴弾を投げ込んだりして殺害しました。
家に火をつけるデルポーネ上等兵
ロナルド・L・ヘーベル撮影
出典 Wikipedia
燃え上がる家のそばにある遺体
ロナルド・L・ヘーベル撮影
カリー中尉が無抵抗の老人、婦人、子供達に対して射殺を命じているとき、ドゥオン・ミン軍曹は
「我々は兵士であって、殺し屋ではない」
と抗議しましたが、
「命令を忘れたのか、上は死体の数をを要求している。とにかく俺に従え」
と言われました。
その後も村人達への虐殺が続いたため、ミン軍曹は中隊長のメディナ大尉に無線で連絡して
「兵士達が一般人を殺害して、手に負えない状態になっている。」
と訴えました。しかし、返事は
「戯言はよせ。そこの指揮官は中尉だろ。中尉に従え。」
でした。
民間人への虐殺に抵抗したのはミン軍曹だけではありませんでした。
真ん中がハーバート・L・カーター上等兵 。彼はピストルを再装填中に自分の足を撃ち、虐殺が始まったときに村から救急搬送されました。
ロナルド・L・ヘーベル 撮影
中隊長のメディナ大尉はヘリコプターから降り、村の前線指揮所に移りました。メディナ大尉はすぐにミライ村の視察に入りました。
偵察ヘリコプター
カリー少尉の舞台がソンミ村で虐殺を行っている最中、ヒラーOH-23レイヴン観測ヘリコプターに乗り上空から村を監視していたヒュー・トンプソン・ジュニア准尉は、子どもを連れて逃げる女性を米兵が銃で撃ち殺しているのを見つけました。トンプソン准尉の役目は、攻撃している部隊の上空を飛び、隠れている敵を見つけ、攻撃ヘリに連絡して敵を排除することでした。
ヒュー・トンプソン、1966年
驚いたトンプソン准尉は中隊長のメディナ大尉に知らせましたが、メディナ大尉は「村人は皆ベトコンだ。」と言って取り上げてくれませんでした。
さらにメディナ大尉当てに、大隊長のカーリー大佐からの無線で「ヘリコプターから民間人を殺しているとの連絡が入ったが、どうなんだ。」との問い合わせがきました。メディナ大尉は「殺したのはベトコンで、310名殺しました。」と答えています。
村人達を集めて殺そうとしているカリー中尉を見つけ、操縦手のヒュー・トンプソン・ジュニア准尉は機長のグレン・アンドレオッタ4級特技兵に頼んで応援を呼んでもらいました。機関銃手のローレンス・コルバーン4級特技兵に、これ以上村民たちを撃った場合、兵士を狙撃するよう命じました。こうして村民たちをヘリコプターに乗せ、トンプソンも死体の中から生きている女性と子供を見つけ、自分のヘリに乗せて基地に帰りました。
午前11時ごろトンプソンは基地に戻り、上官に村民が虐殺されていることを報告しました。この報告を受け作戦の総指揮官であるバーカー中佐は、作戦の中止をカリー少尉に伝え、虐殺は終わりました。
30年後の1998年3月、ヘリコプターの搭乗員3名に対して
『ソンミ村での米軍による非戦闘員の違法な虐殺の際に、少なくとも10人のベトナム民間人の命を救い、義務を超えた英雄的行為を行ったこと』
で兵士勲章が送られました。
ミライ村大虐殺その後
作戦に関する公式の軍報告書は、大勝利を宣言した。敵の死者は 128 人、アメリカ軍の犠牲者は 1人だけ (兵士 1 人が故意に自分の足を撃った、カーター上等兵)でした。
しかしこのブログの冒頭に書いた通りソンミ村の虐殺事件は、退役軍人のロナルド・リー・ライデンアワーと、フリーのジャーナリスト、シーモア・ハーシュの記事により明らかにされました。さらに1969年11月20日、従軍カメラマンだったロナルド・L・ヘーベルの写真がクリーブランド・プレイン・ディーラー紙に掲載されたことで、軍はソンミ村大虐殺を隠蔽できなくなりました。
1969年11月20日のクリーブランド・プレイン・ディーラー紙の一面。ミライ虐殺事件が初めて世界に報じられた。
出典 Wikipedia
1970年5月18日ソンミ村虐殺事件の軍事法廷(軍法会議)では、14人が起訴されました。1971年3月29日に下った判決でカリー小隊長だけが終身刑を言い渡され、残りの13人は証拠不十分で無罪となりました。カリーもニクソン大統領の恩赦により、3年半の自宅軟禁に減刑されました。
この映画の怖いところは、ナチスドイツのホロコーストと同じように、「殺せ」と命じられれば良心の呵責があっても明らかに無害と思われる人を、殺してしまうことです。
ミライ村大虐殺の生存者
その1 ドゥク・トラン・ヴァン
ロナルド・L・ヘーベルは撮影している途中、腹部を怪我した幼い妹(トゥ・ハ・トラン)を抱えて歩いている男の子(ドゥク・トラン・ヴァン)の写真を撮りました。
ミライ村虐殺の生存者 – 道を歩いていた2人の子供たち。ヘリコプターに驚いて身を伏せて居るところ。
撮影:ロナルド・L・ヘーベル
出典 Wikipedia
2011年、へーベルはミライ村に行き生存者と話していた時、上の写真の少年、ドゥク・トラン・ヴァンと出会いました。通訳を介して話すと彼の母親グエン・ティ・タウの写真も撮っていたことに、気がつきました。
ドゥックはヘーベルレに、母親から「腹部を負傷した生後14ヶ月の妹ハを抱えて」逃げるように言われたと話した。
米兵に頭部を撃たれて殺されたグエン・ティ・タウ(チン・タウ)夫人。
彼女の脳の一部が出てしまっている。
ロナルド・L・ヘーベル撮影
ヘーベルは二人は死んだと思っていましたが、、死体の山の下から逃げ出した生き残った3人目の妹のミとも会えました。
ソンミ村の生存者トゥ・ハ・トラン、ティ・ミ・トラン、ドゥック・トラン・ヴァンと共に写した、カメラマンのロナルド・L・ヘーベル。
ロナルド・L・ヘーベルは、当時使っていたカメラを3人に贈りました。
妹を庇って伏せて居る二人の姿は、ソンミー村犠牲者追悼記念碑の右下に刻まれています。
その部分のクローズアップ
出典 wikipedia
ソンミ村に立てられた犠牲者の記念碑。
出典 Wikipedia
その2 チュオン・ティ・レ
この映画のベトナム側の主人公、ティレのモデルとなったと思われる人です。
チュオン・ティ・レ
出典 Famous Trial
30歳のチュオン・ティ・レさん(写真上)は、夫、母、3人の兄弟、17歳の娘を含む肉親9人を失った。砲撃が始まったとき、母親と2人の子供は家の片隅に隠れた。米軍が到着し、彼らを引きずり出し、彼女は彼らとはぐれてしまった。代わりに、彼女は6歳の息子、ド・ディン・ドゥンと一緒に集められた。銃撃が始まったとき、彼女は息子を道脇の水田に押し込み、その上に横たわり、押さえつけて泣くなと頼んだ。彼女は、自分たちが助かるかどうか見てみたかったのだ。彼女の上には2人の死体が転がっており、銃撃が止んだときに彼女が少し頭を上げると、兵士たちがまだ動いているのが見えた。彼らは地上の人々を指差しているようだった。彼らは、生きている人々を再び撃ち始めた。
やがて彼らは去り、レ夫人は信じられない思いで道を歩いた。女性や子供たちがあちこちで死んでいた。彼女の3人の兄弟は爆弾の穴で死んだが、何よりも悲しいことに、彼女の娘は、すでに亡くなった祖母を抱きかかえて、死にかけて座っていた。彼女はレ夫人に言った。「お母さん、私はひどい怪我をしていると思う。死ぬかもしれない。生き延びられないと思う。あなたは生き延びたのだから、弟を連れて行った方がいい。ここにいないで。アメリカ軍があなたを撃つから。」レ夫人は心から泣いた。事実上、彼女の家族全員が死んだ。彼女は息子を田んぼに抱え、隠れるために再び横たわった。世界は終わった。彼女の夫はその日の朝明けに田んぼに出かけ、彼女は二度と彼の姿を見ることはなかった。彼女の家族のうち9人が死んだ。軍隊が去ったとき、彼女は子供を腕に抱えて家に帰ったが、家は残っていなかった。家は焼け落ちて灰になっていた。
第2次世界大戦中の1943年3月22日に、ベラルーシのハティニ村で起きたドイツの警察補助隊の第118大隊による村民虐殺事件が起きました。この虐殺では村民149名が殺されました。
この事件を基にした映画があります ↓
映画 「炎628」第二次世界大戦ベラールーシで、ナチス・ドイツのアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)が行った、残虐行為を扱った映画です。