1918年8月8日ドイツ軍が大敗したアミアンの戦いから、1918年11月11日、第1次世界大戦休戦までの主な戦いを書いていきます。
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この頃から世界中に広まり始めたスペイン風邪は、前線の兵士だけではなく、各国の炭坑や軍需工場で働く労働者も襲い、作戦の実行に支障が出てきました。
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連合軍の大反撃(100日攻勢)
アミアンの戦い
1918年8月8日、アミアンの戦いでドイツ軍は大敗を期し、ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と呼びました。
この日から連合軍は1918年11月11日の第1次世界大戦休戦まで、ドイツ軍に対して反撃を続けました。これを「100日攻勢」と言います。
アメルの戦い
ドイツ軍の春季攻勢初期に行われたミヒャエル作戦とゲオルゲッテ作戦の後、ドイツ軍主力は南フランスのランスに移動したため、イギリス海外派遣軍(British Expeditionary Force、BEF)は体制の立て直しに入りました。
担当するイギリス第4軍にはBEF最強と言われるオーストラリア軍団とカナダ軍団が加わりました。
オーストラリア軍団長のモナッシュは、歩兵を徒に前進させず、迫撃砲、飛行機、戦車を積極的に活用して、敵の鉄条網や機関銃座を破壊して歩兵が安全に前進すべきとの考えを持っていました。
モナッシュは第1次世界大戦が始まると、ガリポリの戦いから始まり、メシーヌの戦い、パッシェンデールの戦いに参加した経験で、今まで行われてきた準備砲撃では鉄条網や機関銃座を破壊できないことを知っていました。
※鉄条網は細い針金で出来ている為、砲撃の爆風や破片がすり抜けてしまい効果がありませんでした。また、敵の機関銃手は準備砲撃の間、地下に造られた安全な掩蔽壕(えんぺいごう)に潜み、砲撃がやむと機関銃を持ち出して突撃して来る歩兵を攻撃しました。そのため、多くの犠牲者を産みだすことになってしまいました。
第一次世界大戦中のモナッシュ
出典 wikipedia
イギリス軍の戦車は、鉄条網を踏みつぶし、機関銃座を破壊するのに有効でしたが、当時の戦車は装甲が薄く、動きも鈍いため敵の砲撃によって簡単に破壊されてしまう欠点がありました。
そこでモナッシュは、1917年11月に行われたカンブレーの戦いを参考に、戦車を気づかれることなく敵の塹壕近くに配置して、奇襲をかける方法を考え、実行しようとしました。
モナッシュの考え方の中心は、歩兵の損害を少なく、かつ早く敵の塹壕を制圧することが出来るか、ということでした。
カンブレーの戦いについてはこちらをご覧ください ↓
モナッシュは、この計画を所属するイギリス第4軍司令官ヘンリー・ローリンソンに持ちかけました。ローリンソンはソンムの戦いで指揮を執っており、従来の準備砲撃では効果がないことを知っていました。
ヘンリー・ローリンソン 1916年撮影
出典 ウィキペディア・コモンズ
モナッシュの話に興味を持ったローリンソンは、アミアンの東方13㌔の地点にある小さな村アメルで、機械化戦闘の実験的な戦闘を行うことを決めました。
アメルは村全体がドイツ軍の塹壕で囲まれており、実験に適した地点でした。また最前線にあるアメリ村の高地からは、連合軍の動きがよく見えました。
アメルの位置
参加した人員は、イギリス第5戦車旅団の戦車60両と弾薬や医薬品を届けるための輸送用戦車4両、歩兵はオーストリア軍第4歩兵師団、アメリカ軍第131、第132連隊からの分遣隊の7500名、これを野砲、重砲620門が支援します。さらに各種支援のため飛行隊3個も加わりました。
攻撃は7月4日(この日はアメリカの独立記念日で、参加したアメリカ兵のために選ばれました)に決まり、前日の7月3日午後22時30分イギリスのマークⅣ戦車と、ホィペット戦車が攻撃位置に着きました。
7月4日早朝3時2分に砲兵隊が砲撃を開始し、イギリス王立航空隊の第101飛行隊が爆弾を投下しました。
砲兵隊はガス弾と煙幕弾を使用したため、ドイツ軍はガスマスクをつけ動きが鈍くなっていました。
3時14分に砲撃が終わったときには、砲撃の音と飛行機の轟音に消されて、近づいていた戦車が煙幕の中から、塹壕いたドイツ兵たち目の前に現れました。
攻撃から93分後にすべての戦闘が終わり、ドイツ軍の守備隊のうち2000名が戦死、1400名が捕虜となりました。対する連合軍の損害はオーストラリア軍の死傷者1062名(死者800人)、アメリカ軍で176人の死傷者(死者13~26名)、失なわれた戦車5両でした。
戦いの後で、オーストラリアのモナッシュ中将が、第4旅団のメンバーに勲章を授けている時の写真。
出典 wikipedia
アメル郊外にあるオーストラリア軍団記念碑
出典 google map
アメルの戦いの戦果を見て、ローリンソンもモナッシュも機械化戦闘の有効性に確信を持ちました。
アミアンの戦い
イギリス第4軍司令官ローリンソンは、アメルの戦いの結果を受けて規模を10倍に拡大した大規模な機械化攻撃を企画しました。
攻撃開始は8月8日に決め、歩兵13個師団12万人、騎兵3個師団1万5千人、航空機1904機、戦車532両が用意されました。
更にアミアンの南部には、新たにフランス第1軍が加わります。ただフランス軍は戦車がなかったため、イギリスの攻撃開始から45分に敵の塹壕破壊のための事前砲撃を開始することにしました。これは、イギリス軍の奇襲を察知されないようにするためです。
攻撃準備は秘密裏に行われ、情報が洩れぬようにかん口令が敷かれ、各師団長に攻撃計画が伝達されたのは4日前でした。カナダ軍の一部は、欺瞞のためイープル南方に送られ、目立つように野戦病院や、無線中継所を設置して、何事かをやるように見せかけました。
飛行隊は活発に活動して、敵の偵察機を防ぐとともに、移動する戦車の音を覚られないようにし、大砲などは主に夜間に動かしました。
砲兵は攻撃の日に備えて、音響測定によりドイツ軍の砲兵隊の位置をあらかじめ突き止めておきました。
赤線が戦闘開始の8月8日、黒線がドイツのヒンデンブルク線
薄紫色の線が8月8日に到達した線。薄緑色の線が8月9日に到達した線。
攻撃初日
8月8日アミアン一帯は、濃い霧に覆われていました。早朝4時20分、1000門を超す火砲が一斉に火を噴き、ドイツ軍の540門の大砲のうち504門が破壊されました。
イギリス空軍の爆撃機も、ドイツ軍の後背地を爆撃しました。これは戦車の音を消す役目もあります。
移動弾幕にそってを戦車が続き、ドイツ軍の鉄条網と機銃座を破壊して進みました。そのあとを歩兵が続き、敵の塹壕を確保します。
アミアンの戦いでのマークⅤ戦車
出典 鋼鉄の嵐の中で
霧の助けもあって奇襲は完全に成功して、午前11時には多くの場所で第1目標の五㌔ラインを超えました。
特にオーストラリア軍は午前10時30分には、第三目標に達して、早くも戦線の1部が突破されました。
オーストラリア軍軍団長のモナッシュは、この裂け目から16台の装甲車を送り、弾薬集積所を破壊し、輸送列車を襲撃するなど後方撹乱に勤めました。特に功績のあったのは、ドイツ軍第1師団の司令部を襲い、食事中の司令官や幕僚たちを捕虜にしたことです。
カナダ軍の装甲車
司令部を失ったことで、ドイツ軍は混乱に陥り、事実上崩壊してしまいました。
戦闘初日だけで、イギリス第4軍は幅24㌔、深さ13キロにわたって進撃し、ドイツ軍の塹壕は突破されてしまいます。
この戦いでドイツ軍は2万7千名の損害を出しましたが、そのうち1万5千名が捕虜となりました。
全体から見れば些細な事に思えますが、たった1日の戦いで1万5千名の投降者が出たことに、ルーデンドルフはショックを受けました。
今まで鉄の結束を誇ってきたドイツ陸軍に、士気の低下がみられ戦意が亡くなってきた表れです。ルーデンドルフは、8月8日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と呼び、8月12日の参謀本部の会議で、カイザーに決定的勝利は難しいことを伝えました。
アミアンの戦いでイギリス第4軍に捕らえられた、ドイツ軍の捕虜たち
出典 wikipedia
当時の戦車は撤退するドイツ軍を追撃するには速度が遅く、また故障が多かった。さらに搭載している35㎜砲は射程が短く、敵の機銃座を攻撃するには十分であったが、射程外から75㎜野砲などに攻撃された場合、一方的に打たれ無力ででした。
このため8月8日の攻撃が終わった時点で、稼働できる戦車は176両に減り、攻撃終了後の8月15日まで残った車両は、わずか7両になってしまいました。
8月9日
ドイツ軍の主力がイギリス軍に移った為、アミアン南部にいたフランス第1軍とカナダ軍は、モンディディエまで戦線を拡大させました。
この頃には新たにドイツ軍18個師団が到着して、突破された背後に新たな戦線を構築しました。これに対してイギリス軍はすでに予備兵力を使い果たしていました。
8月12日、戦闘の最前部が砲兵の射程外に出たことと、ドイツ軍が新たにペロンヌからノアイヨン前面に防御線を構築したため、戦闘は中止されました。
この戦闘で英仏連合軍は4万4千人の犠牲者を出し、ドイツ軍の損害は7万5千人(そのうち捕虜になったもの5万人)でした。
これまで、攻撃側の損害が防御側の損害を上回っていましたが、その比率が逆転しました。人的消耗を、戦車などの機械的消耗に置き換える道が開けました。
反面この戦いでドイツ軍首脳部から必勝の信念が失われ、ドイツは坂道を転げ落ちるように敗勢を強めていくことになります。
百日攻勢
8月8日のアミアンの戦いから、11月11日の第1次世界大戦まで連合国軍はドイツ軍に対して、各地で連続して攻撃を仕掛けました。これを百日攻勢と言います。
サンカンタン運河の戦い
8月8日から起こったアミアンの戦いの後、ドイツ軍は守りやすいヒンデンブルク線に撤退を始めました。
イギリス軍(カナダ・アオーストリア・アメリカの各軍団も含む)は、ドイツ軍を追ってヒンデンブルク線に迫り、サンカンタン(サンクエンティン)運河の戦いでヒンデンブルク線を突破しました。
ヒンデンブルク線への道
①アルベールの戦い(8月21日~23日)、②バポームの戦い(8月21日~9月3日)、③モンサンカンタンの戦い(8月31日~9月3日)、④エプイーの戦い(9月18日)、⑤サンカンタン運河の戦い(9月29日~10月10日)
①アルベールの戦い
8月8日から始まったアミアンの戦いの後、ドイツ軍予備隊がアルベール付近に集結していました。
8月15日、イギリス陸軍元帥のダグラス・ヘイグは、連合軍総司令官のフォッシュからアミアンの戦いを継続し、これを叩くように要求されました。しかし、ヘイグは軍が補給品を使い果たし、戦車にも多大な損害が出たことで、これを拒否しました。
代わりに、アミアンの戦いでバックアップのため背後にいたイギリス第3軍とアメリカ第2軍団とで、アルベールを攻撃することにしました。
8月22日第18師団が街を占領し、アメリカ第3軍は元のアラスに向かって進軍していきました。翌8月23日プロヤールからオーストラリア軍が北進し、途中に居たドイツ軍を掃討しながらアルベールに入りました。
②バポームの戦い
バポームは北にアラス、南にペロンヌ、東にカンブレー、西にアルベールに繋がっている交通の要所です。またカンブレー・アラス、アルベールに鉄道が通っています。
バポームの戦いにはイギリス第3軍の第4軍団のニュージーランド師団が中心となりその両側をイギリス第42師団と第37師団が受け持つことになりました。
攻撃の目標はバポーム占領の後、フレミクールとバンクールの丘を通って、ベルタンクール奥の高台を確保することです。
バポームの戦いマップ
赤い矢印はニュージーランド師団が前進した位置
攻撃は8月21日から始まり、最初の日にニュージーランド軍はピュイーズの街を占領して100人以上の捕虜を捕らえました。21日から23日の戦いでグラヴィエからビーフヴィエに続く尾根に迫ります。
8月24日、グラヴィエとビーフヴィエを攻撃し、さらにバポームを包囲するため北と南に前線を伸ばしました。
8月27日、南部のティヨワは確保できませんでしたが、北部のブナートルが英軍によって確保され、包囲攻撃が始まりました。
28日の砲撃により、ドイツ軍はバポームの街から、フレミクールとバンクールを結ぶ尾根に撤退しました。
1918年8月30日に撮影された、バポームの景色
出典 Wikipedia
9月1日バンクールの尾根を攻撃し、9月上旬にはドイツの春季攻勢でとられた土地を取り戻しました。
③モンサンカンタンの戦い
モンサンカンタンは、ソンム川が南から西に大きく曲がるペロンヌの街の郊外にある100mほどの丘です。ソンム川を見下し周囲の見晴らしがよいため、ドイツ軍にとって丘の頂上は、ペロンヌの街を守る戦略的に重要な観測点でした。
なおアルベールとバポーム、ペロンヌを結ぶ三角形の地帯は、第1次世界大戦最大の激戦と言われるソンムの戦い(1916年7月1日~1916年11月18日)が行われた場所です。
フレッドライスト(1878年-1945年)が描いた、モンサンカンタンの戦い
正面に見えるのが、モンサンカンタンの丘。頂上にドイツ軍の監視哨があった。
アミアンの戦いの後、オーストラリア軍はソンム川に沿って東に移動していました。
1918年8月29日、オーストラリア軍のモナッシュ将軍は、クレリ、アール、ベロンヌの3ヵ所でソンム川を渡り、モンサンカンタンの攻撃を命じました。
しかし、ソンム川は流れが幾筋に分かれて川全体が広い沼地になっており、第2師団はここを渡れず、計画は失敗してしまいます。
モンサンカンタンの戦い
8月30日夜、クレリ・シュル・ソンムの東側に臨時の橋が架けられ、第2師団と第5師団がソンム川を渡りました。
8月31日午前5時、砲撃開始と共に第2師団によるモンサンカンタンの攻撃が始まりました。
もともとソンム河の北岸に居た第3師団は、攻撃陣を守るため防御線を構築しました。
第5師団はペロンヌの街の攻撃に向かいました。
午前7時にはモンサンカンタンの頂上を確保しましたが、人数が少なかったためドイツ軍の反撃にあい、撤退してしまいます。
後部では第5師団で残っていた第19大隊が、砲撃と銃撃の中修理したクレリ―橋を通ってペロンヌに入りました。
9月1日、第2師団は再びモンサンカンタンへ攻撃を再開して、午後1時30分頂上を確保しました。
第5師団はペロンヌの街の北方にある森に到着し、攻撃を開始しました。
9月2日、前日からの白兵戦で第5師団はペロンヌの街を占領しました。
1918年9月2日、ペロンヌの街で警戒するオーストラリア兵。
出典 VIRTUAL WAR MEMORIAL AUSTRALIA
9月3日には、対岸のフラミクールも墜とし、オーストラリア軍はさらに東に進みました。
9月4日、イギリス第4軍の司令官ローリンソンは、
「モンサンカンタンの戦いは、オーストラリア軍の最大の軍事的成果である。」
と、述べました。
サンミッシェルの戦い
サンミッシェル(サンミエル)の戦い(1918年9月12~15日)は、第1次世界大戦でアメリカ外征軍(アメリカがいせいぐん、英: American Expeditionary Forces、AEF)が独自に作戦を立て、成功した戦いです。
1918年百日攻勢での西部戦線南部の地図
中央の赤い点線で囲まれた部分が、サンミッシェルの戦いの地域
サンミッシェルにあるドイツ軍の突出部は、1914年ベルダンの戦いの終盤の9月15日、メッツのドイツ軍騎兵隊が国境付近のデュールアール-マルタンクール地域で、フランスの守備隊と小競り合いをしたことから始まります。
ドイツ軍はそのまま進み、サンミッシェルを占領し、ベルダンに向かいましたが、途中にあるトロワイヨンにある古い砦でフランス軍に止められてしまいました(フレリの戦い)。
こうしてできたサンミッシェルの突出部によりベルダンは3方から囲まれてしまいます。さらに南の都市ナンシーと結ぶ鉄道と道路を寸断できるほか、現在ロレーヌ自然公園に指定された山岳地帯を含み、ベルダンまで見下ろすことが出来るようになりました。
そのため、1918年にアメリカ軍によって解放されるまで、ドイツ軍によって維持されていました。
連合軍の百日攻勢により、ドイツ軍がフランス国内に作った突出部は解消されましたが、ベルダンの南にあるサンミッシェルだけが残りました。
アメリカ軍のパーシングはこの突出部を解消することにより、フランス東部と南部の交通を確保し、近くのドイツ国内にある鉄道の要所メッツを攻撃してドイツに打撃を与えようとしました。
9月7日、パーシングは配下の第1軍団、第4軍団、第5軍団に対して「D-Day.H-Hour」に行う攻撃に対して、準備するように命じました。「D-Day.H-Hour」は正確な攻撃日時を敵に知られないようにするためでしたが、当時は悪天候が続き、攻撃する日時を決められなかった面もあります。
翌8日、ドイツ軍のルーデンドルフはアメリカの攻撃が近いことを知り、人員の損耗を防ぐためサンミッシェルの突出部を放棄することにして、現地に居る兵士にアノンヴィル、ヴィーニュル、ティオクールに作られた防御陣地に撤退するよう命じました。
パーシングが用意した軍勢は、歩兵55万人、これにフランス第2軍の11万人が加わります。
戦車419両、これを率いていたのは第2次世界大戦でパットン大戦車軍団で活躍したジョージS.パットンジュニアです。
他に1481機の航空機、2900門の火砲が用意されました。
サンミッシェルの戦いの地図
計画では米第1軍団がすぐ北にあるティオクールを攻撃して、第5軍団と第4軍団が北と南からヴィーニュルで合流してサンミッシェルを孤立させます。孤立したサンミッシェルはフランス第2軍団に任されました。
1918年9月12日早朝、4時間の準備砲撃の後、攻撃が開始されました。しかし、5日前から降り続いている雨のため、道路は泥沼と化して戦車や歩兵の前進を阻みました。
サンミッシェル近くで、泥だらけになりながら、塹壕を通り抜けてドイツ軍に向かって進むルノーFT-17戦車。
出典 Wikipedia
この時アメリカの第304戦車旅団を率いていた、ジョージ・S・パットン
出典 Military.com
ただアメリカにとって幸いなことに、ドイツ軍の主力は撤退を決めていたため、攻撃の翌日の13日にはアメリカ第4軍団と第5軍団は予定より早くヴィーニュルで合流出来ました。
9月16日までにはサンミッシェルの突出部全体を制圧でき、指揮官のパーシングは、近くに在るドイツの鉄道の要所メッツの攻撃を計りましたが、連合軍総司令官フェルディナン・フォッシュが、ベルダン北方のセダンを攻撃するよう命じたため、アルゴンヌの森に移動しました。
この戦いでアメリカ軍の死傷者は約7000人、ドイツ軍は死傷者約7500人、そのほか捕虜15000人を出しました。
100日攻勢後半の解説はこちら ↓
サンミッシェルの戦いに参加したアメリカ軍航空兵を題材にした映画です。
この映画は第一回アカデミー賞の受賞作品になりました ↓