2024/09/20
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亀仙人2ドイツ最後の賭け
1917年12月、ロシアはドイツと休戦協定を結正式に第1次世界大戦から離脱しました。これによりドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に投入できるようになり、人員不足に悩むイギリスとフランスに対して優位に立てるようになりました。
しかし、夏にはヨーロッパに派遣されたアメリカ軍が、本格的に戦闘に参加することが予想される為、ドイツはそれまでに西部戦線で決定的な勝利を手に入れる必要がありました。
1918年1月8日に起きた3つの出来事
1918年春、ドイツ軍西部戦線司令官エーリヒ・ルーデンドルフは1918年3月3日ブレスト・リトフスクでロシアと講和条約を締結し、東部戦線の兵力を西部戦線に投入して、大攻勢をかけました。しかし、この戦いは些細な出来事が原因で負けてしまいます。
1918年⒈月8日、年明け早々大きな出来事が3つ起こりました。
その1 カイザーシュラハト(ドイツ語 ”皇帝決戦”)
1917年11月、ドイツ軍首脳はベルギーモンスで会合して、1918年春に連合軍に対して一大攻勢をかけることにしました。
長年の戦争でドイツ経済は逼迫し、これ以上戦争継続が困難となり、さらに翌年の夏にはアメリカ軍の本格的参入が予想されるため、連合国軍に対して最後の一撃を与え戦局を好転させる狙いがありました。
ただ、アメリカ軍が参入した後では、兵力に劣るドイツには勝ち目が無くなるため、短期決戦で勝負を決め無くてはならないため、攻撃プランがなかなか決められませんでした。
1918年1月8日、ドイツ皇帝のヴェルヘルム二世はいくつか検討された作戦の中から、ルーデンドルフの推すイギリス軍とフランス軍の境にあるソンム地区を攻撃することに決定しました。
当時のソンム地区は、北方の海岸線を守るイギリス軍と、パリ防衛を主眼とするフランス軍との境にあり、イギリス第五軍が担当していましたが、主力の北方地区に対して防備の兵力が少なくなっていました。
塹壕で休むイギリス第五軍(当時の写真)
ルーデンドルフはここを攻撃して、イギリス軍とフランス軍を分断し、イギリス軍を包囲して海岸線まで追い詰めることを目的としていました。
この作戦はドイツの守護神ミヒャエルの名前をとって、ミヒャエル作戦と名付けられました。
その2 ブレスト=リトフスク条約
春季攻勢を成功せるためには、早急にロシアと講和条約を結び、東部戦線の兵士を西部戦線に移動させる必要がありました。そのために、1918年1月8日ロシア革命で成立したボルシェビキ政権と中央同盟国は、前年12月末に中断していた、ロシアとの講和条約締結の交渉を始めました。
しかし、2月9日ドイツ側からの「屈辱的」な領土要求に対して、ロシア側代表のトロツキーは
「戦争もなし、講和もなし」
と宣言して、一方的に戦争状態の打ち切りを宣言しました。
それを待っていたかのように3日後、ドイツ・オーストリア連合軍がロシア領内に攻め込みました。
この攻撃を受けてレーニンは、講和反対派を抑え1918年3月3日、ドイツを盟主とする同盟国側の国々と講和に踏み込み、3月3日ブレスト=リトフスク講和条約を結びました。
桃色の部分が条約によってロシアがドイツに割譲した地域。ドイツの影響下におかれた地域にとってはこれが国家独立の保障となった。出典ウィキペディア
講和条約と言っても、内容は第1次世界大戦でロシアが得た領土を、ドイツ側に渡すという屈辱的な内容でした。しかし、ロシア側にはドイツに対する武力がなく、飲まざるを得ませんでした。
この条約により、ドイツは50万人もの兵士を西部戦線に投入できた他、ウクライナが加わったことにより豊富な穀物を手にすることが出来ました。
その3 ウィルソンの14ヶ条の平和原則
1918年1月8日、アメリカのウィルソン大統領はアメリカ連邦議会で来るべき講和の原則について演説して、「14か条の平和原則」を発表しました。
ウッドロウ・ウィルソン 出典ウィキペディア
「14か条の平和原則」の内容
- 第1条 講和の公開、秘密外交の禁止
- 第2条 航海航行の自由
- 第3条 平等な通商関係の樹立
- 第4条 軍備の縮小
- 第5条 植民地問題の公正な処置 (民族自決の承認)
- 第6条 ロシアからの撤兵とロシアの自由選択
- 第7条 ベルギーの主権回復
- 第8条 アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還
- 第9条 イタリア国境の再調整
- 第10条 オーストリア=ハンガリー帝国の民族自決
- 第11条 バルカン諸国の独立保証
- 第12条 オスマン帝国支配化の民族の自治保障
- 第13条 ポーランドの独立
- 第14条 国際平和機構(国際連盟)の設立
この時の演説の内容は、アメリカ国務省出版物の「米国の歴史と民主主義の基本文書大統領演説」の中にある「14 カ条の平和原則(1918 年)」を見てください。日本語の訳文と、英語原文の2つがあります。
この「14か条の平和原則」は、連合国側からも同盟国側からも反対されました。
連合国側からは
- ドイツに対して海上封鎖を行っているイギリスが反対
- アルザス=ロレーヌ地方だけではなくラインラントまで手にしたいフランスも反対
- 1915年のロンドン秘密条約で領土拡張の要求を認められ、同盟国側から連合国側に寝返ったイタリアが大反対
同盟国側からは
- 領土と植民地に対する譲歩を受け入れがたいとして、ドイツが反対
- オーストリア=ハンガリー帝国内の民族自決に対して、オーストリアが反対
- バルカン半島とオスマン帝国内の民族自決に対して、トルコが反対
と散々でしたが、1918年後半にドイツの降伏を引き出すことになり、1919年1月18日のパリ講和会議から6月28日のベルサイユ条約調印まで、第1次世界大戦の戦後処理は、だいたいこの理念をもとにして行われました。
ミヒャエル作戦発動
ドイツ軍の動き
ブレスト=リトフスク条約により、東部戦線から西部戦線に師団を移動した結果、西部戦線ではドイツ軍193師団、連合国側173師団と第1次開戦以来初めて、ドイツ軍が兵力で連合国を上回りことになりました。
しかし、ドイツはイギリスの海上封鎖により、食糧や軍需物資が不足していました。このためルーデンドルフは師団を大きく2つに分け、攻撃を専門にする師団には食料や最新兵器を優先的に渡し、残りの師団は陣地の防御専門にしました。
東部戦線から師団を回したことにより、一時的に人的優位に立ちましたが、これ以上兵員の補充は難しく、アメリカ軍が本格的に戦争に参加する前に、イギリス軍とフランス軍に大打撃を与えなければ、講和交渉において不利になってしまいます。
ルーデンドルフは、兵力の損耗を防ぐため、大兵力を一点に集中して決着をつける方法をとらず、敵の手薄な地域を狙って攻撃を仕掛け、不利と見たらサッサと手を引いてしまい、大兵力を一点に集中して決着をつける方法をとりませんでした。しかし、この方法では兵力を分散させることにより、大きな戦果を挙げられず、無駄に兵力を減らすことになりました。
もしドイツがこの戦いで負けたら、二度度立ち上がることはできないため、文字通りこの戦いが、ドイツの将来をかけた大きな賭けになります。
1918年始め、イギリス軍は、海岸からの補給に便利な北フランスに部隊を固め、フランス軍はパリ防備のためランス付近に部隊を集結していました。
この為両軍の境目に配置されたイギリス第5軍は、広い地域を少数の師団でカバーしなくてはならず、防御が手薄になっていました。
ルーデンドルフはこのイギリス第5軍に対して、東部戦線から回した部隊を中心とするドイツの主力部隊を投入しました。
これはフランス北部のイギリス軍と、南部シャンパーニュ地方にいるフランス軍の分断を狙ったものです。
イギリス第3軍14個師団とイギリス第5軍14個師団に対して、ドイツは第17軍19個師団、第2軍20個師団、第18軍24個師団の圧倒的な兵力で攻撃を仕掛けます。
1891年3月21日午前4時40分、ドイツ軍の6000~7000門の火砲が一斉に火を噴き、大量のガス弾を含む砲弾がイギリス第3軍及び第5軍に降り注いぎました。
この砲撃はドイツ軍参謀本部砲術顧問ブルフミュラーによって、綿密な計画の元に行われました。
ゲオルク・ブルフミュラー大佐 出典ウィキペディア
ブルフミュラーは年初めから徹底的に訓練を施し、予備砲撃なしに敵に対して正確に砲撃できるように訓練を重ねていました。
手持ちの大砲のうち75%を敵砲兵隊用に使用し、ガス弾により直接大砲を破壊できなくとも、敵砲兵の働きを麻痺させることにより味方の損害を少なくできるようにしました。
20%を歩兵支援用とし、連続砲撃の後一旦停止して、敵兵がドイツ軍の攻撃に備えて塹壕に出てきたころ合いを見て、再び砲撃を開始しました。これを何度か繰り返し、敵兵が疲れたころ、ドイツ軍の突撃歩兵が攻撃しかけます。
残りの5パーセントは長距離砲を主体とし、敵の指令所、通信所、観測所を狙い部隊間や前線と後方の連絡を絶つようにしました。
砲兵隊は、各歩兵部隊ごとに連絡将校を置き、歩兵の突撃に合わせて攻撃目標を柔軟に変えられるようにしました。
ブルフミュラーの目的は、敵を撲滅することではなく、敵を混乱させ防御システムを無力化させることを目的としたものでした。
ルーデンドルフは、砲撃の後に突撃する歩兵師団を3種類に分けました。
まずは44個の「機動師団」。主に突撃歩兵からなり足の速い若者を中心に軽機関銃、火炎放射器、迫撃砲を持ち、敵の弱点を突き、突破口を開きながら進みます。
次はおよそ30個の「攻撃師団」、機動師団とほぼ同等の装備を持ち、「機動師団」によって寸断された敵部隊や機関銃陣地などを各個撃破しながら後に続きます。
残りの100個以上が「塹壕師団」陣地の確保や、「機動師団」や「攻撃師団」の支援を行います。比較的高齢の兵士で構成されています。
短機関銃の誕生
突撃歩兵の携行武器として、世界初の短機関銃MP18が使用されました。
種別 | 短機関銃 |
---|---|
口径 | 9mm |
銃身長 | 201mm |
使用弾薬 | 9mmパラベラム弾、.30ルガー弾、7.63mmマウザー弾、9mmラルゴ弾 |
装弾数 | ルガーP08用32連発スネイルマガジン 20連発ボックスマガジン |
作動方式 | ストレート・ブローバック、オープンボルト |
全長 | 818mm |
重量 | 4350g |
発射速度 | 350 – 450発/分 |
銃口初速 | 380m/s |
有効射程 | 100m |
世界初の短機関銃 MP18 出典ウィキペディア
塹壕に突撃しての白兵戦では、将校や下士官などでは拳銃外給されていましたが、普通の歩兵が持つライフル銃では連射が出来ず、また長くて重いため、主に銃剣やシャベルを使用した格闘戦が主でした。
1915年から、ドイツ陸軍は歩兵でも携行できるような小型の機関銃の開発を進めていました。ミヒャエル作戦で短機関銃MP18が実用化され、突撃部隊で初めて使用されました。
MP18は拳銃の弾丸を使用するため、有効射程距離が100mと短いのが欠点ですが、敵の塹壕に飛び込んで連射することで大きな戦果をもたらしました。
MG08重機関銃 重量62㎏ 出典ウィキペディア
MG08/18 重量14.5㎏ 出典れりあ on Twitter
それまでは重機関銃MG08の銃身を取り外し、空冷化して銃床とピストルグリップを取り付けたMG08/18がありましたが、重量が14.5㎏もあり、素早い行動をする突撃隊には不向きでした。
MP18を持つ突撃歩兵: 1918年春 北フランスにて
出典ウィキペディア
ミヒャエル作戦で、5000挺のMP18を持つドイツの突撃部隊は、次々と連合軍の塹壕線を突破し、わずか8日間で65kmも進軍しました。
作戦開始から4日後の3月24日には、パリから120kmの地点バポームを陥落させました。これにより、イギリス第3軍と第5軍との隙間は拡大し、第5軍は孤立して壊滅状態となりました。
ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世は参謀総長のヒンデンブルクに大鉄十字章を送り、この日を国民の祝日としました。
1918年3月26日 アミアンの戦いと、連合国総司令部
ドイツの快進撃に驚いたフランス軍は西部戦線から兵を引き上げ、パリ防衛を検討し始め、イギリス軍は海岸に撤退を考え始めました。
3月25日このままでは英仏連合軍が分裂する恐れが出てきたため、アミアンの北にあるドュロンで連合国首脳は緊急会議を開きました。
この時イギリス軍は、ドイツ17軍からアラスを守るため、第1軍と第3軍を終結させ、手薄になった第5軍を助けることが出来なくなっていました。
攻撃の主力であるドイツ第2軍は、アルベールに向かって快進撃を続け、ドイツ第18軍は退却するイギリス第5軍を追って、これまたアルベールの向っています。
もし、アルベールが陥落すれは、交通の要所アミアンまで手が届き、アミアン攻略後ドイツ軍が北方に進路を変更したならば、イギリス第1軍と第3軍は完全に包囲されてしまいます。
イギリスは、司令官ヘイグ将軍の頼みで新たに兵員の増員を受け入れましたが、現地に到着するまで日数がかかります。
ヘイグ将軍は、フランスのペタン将軍にイギリス軍の救援を要請しました。ペタン将軍はパリ防衛のための24個師団を、アミアンに向かわせることを承諾しました。近くのフランス軍予備隊がアミアンに到着するまで2日、砲兵隊を含むフランス軍本隊が到着するのには5日かかります。
イギリス軍は急ぎ集めた部隊でもって、アミアンの手前でフランス軍が到着するまでの時間を稼ぐため、強力なドイツ軍を食い止めなくてはなりません。これは兵士達に「死ね」と命令したのと同じです。
さらにこの会議で英仏両軍の指揮系統を統一するためにフランス軍のフェルディナン・フォッシュ将軍が、イギリス軍とフランス軍の調整役として任命されました。
フェルディナン・フォッシュ 1915年
出典ウィキペディア
フォッシュ将軍は、交通の要所であるアミアンの絶対死守を命じます。
この間にも敗走中のイギリス第5軍は、アミアンにフランス軍が到着するまでの時間を稼ぐため、各地に小規模な陣地を築きドイツ軍の進撃速度を遅らせ、英仏両空軍は1000機もの航空機を使い、ドイツ軍に対して空から大規模な攻撃をしかけました。
ドイツ軍、謎の停滞
攻撃開始から7日目の3月27日、ドイツ第2軍司令官のマルヴィッツの元に、アルベールで前衛部隊の進軍が止まっているとの報告が入りました。
航空隊の偵察で、アルベールからアミアンの間にはほとんど敵が存在しないとのことなので、急ぎ連絡員を派遣し、原因を探らせました。
アルベールで連絡員が見たものは、ワインを片手に酔いつぶれている大勢の兵士たちでした。
イギリス軍攻撃の先鋒を担うドイツ攻撃部隊の急襲部隊は、わずかな携行食糧だけで先に進み、食糧や弾薬は後続部隊が届ける手はずでした。
ところがイギリス軍の前線地帯を抜けると、そこは敗退する敵軍だけで、組織的な抵抗は無くなり進軍のスピードが上がりました。そのため補給を担当する後続部隊が追い付けず、急襲部隊はイギリス兵から奪った食糧や、民家から強奪した食べ物で飢えをしのぎつつ前進を続けました。
アルベールを前にして、ドイツ軍の勢いがなくなり始めました。それまでの5日間にわたって十分な補給を受けず、不眠不休で前進を続け、激しい空襲を凌いできた彼らは肉体的に疲労困憊し、いくら気合を入れても体が言うことを聞かない状態になっていました。
そんな彼らの前に、イギリス軍が退却する時に放置した物資補給所に大量の酒類と食料があったのです。ドイツ兵たちは酒と食料に群がり、収拾がつかない状態になっていました。このために、貴重な時間を失うことになってしまいました。
ドイツ軍が体勢を立て直して、進軍を開始したのは翌3月28日になってからでした。
ドイツ軍が酔いつぶれていた3月27日、待ちに待ったフランス軍の第一陣が、アミアンに到着しました。イギリス軍とフランス軍は必死でアミアン郊外に塹壕を掘り、防衛線を築き上げました。
翌28日、砲兵隊の援護なしに(砲兵隊も補給部隊同様、前線に到着できていませんでした)突撃を開始したドイツ軍は、敵軍の機関銃に阻まれ、多大な損失を出してしまいます。
その後も続々とフランス軍の後続部隊が参加し、30日には砲兵隊が到着し、本格的な反撃が開始されました。
4月2日ドイツ軍の参謀次長ルーデンドルフは、アミアンへの攻撃の中止を命じました。
この攻撃中止でイギリス軍を包囲して殲滅する作戦は失敗し、優秀な急襲部隊は大損害を受け、後に残ったのは防御に不利な大きい突出部だけでした。
ただ8日間でドイツ軍が65kmも進軍したことは、連合国側の首脳に大きな衝撃を与えました。このため、英仏両軍の指揮系統を統一するための連合国総司令部が設けられ。初代司令官にフランスのフェルディナン・フォッシュ将軍が任命されました。
ゲオルゲッテ作戦
4月9日午前4時30分、ドイツ軍はアミアンでの戦いを牽制するため。ゲオルゲッテ作戦を開始して、ドイツ第17軍が9個師団でもってイーブルからレンスの間のイギリス軍に攻撃を開始しました。ゲオルゲッテとは、竜退治の伝説を持つ戦争の守護神「聖ゲオルグ」から付けられました。
ここの守備に当たるイギリス第2軍は、アミアンに兵を送った第1軍の補強のため移動しており、この地域はポルトガル軍の2師団に任されていました。ドイツ軍の攻撃に驚いたポルトガル軍は戦わずに潰走して、ドイツ軍は攻勢初日に、幅15km深さ8kmにわたって防衛線を突破しました。
翌4月10日にはドイツ第4軍も戦闘に参加して、戦線はさらに北に拡大しました。このままではドイツ軍にカレーからブローニュまでの海岸線を占領され、イギリス海外派遣軍は本国からの補給が受けられなくなります。
イギリスのヘイグ将軍は前線の死守を命じましたが、イギリス第2軍の指揮官プルーマー将軍は、大胆な行動に出ました。なんとイーブルに向かって、徐々に軍隊を後退させたのです。
これまでドイツ軍は、兵員や物資の輸送を鉄道に頼っていました。塹壕戦などの固定した前線の戦いでは、大量の物資や兵員を迅速に送れましたが、今回のように急激な攻撃では、トラックや軍馬の数が足りないドイツ軍では、鉄道の終端から最前線までの補給が困難になってしまいます。
これに対して、鉄道網の発達していないフランス国内で戦う連合国軍は、大量のトラックを有する自動車部隊で、どこにでも物資を輸送できました。
開戦から5日目の4月14日には、プルーマー将軍が前年自ら奪い取ったパッシェンデールの街を放棄してイープルまでの撤退を始めました。
その間にイギリス軍には、オーストラリア軍2個師団、フランスから5個師団が到着して防御準備が整いました。
ドイツ軍の進撃は徐々に衰え始め、4月25日イープル郊外にあるケメル高地を占領したところでゲオルゲッテ作戦は終了しました。
その4日後の4月29日、ドイツ軍は再びイープルとアミアンに同時攻勢を仕掛けてきましたが、防御を固めていた連合国軍に難なく撃退されてしまいます。
この戦いの最中の4月21日、ドイツの撃墜王「レッド・バロン」ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンが撃墜されなくなっています。
この戦いの最中の3月には、ドイツのルーデンドルフが最も恐れていたアメリカ軍25万人がフランスに到着して、訓練を始めました。
ブルヒャー=ヨルク作戦(第3次エーヌの戦い)
作戦名は、ナポレオン戦争で戦ったプロイセンの二人の将軍の名前から来ています。また、エーヌ川周辺で戦ったため「エーヌの戦い」とも言います。
フランス兵とイギリス兵とで守りを固めてフランス北部に対して、フランス南部シャンパーニュ地方で守備を固めていたフランス軍は、予備隊のほとんどを北フランスに派遣していたため、守りが薄くなっていました。
ルーデンドルフは、ここに目を付けました。ドイツ軍がパリ近郊まで進軍し、フランス軍が北フランスのフランダース付近から兵を引き上げ、パリ防衛向けることで、イギリス軍への攻撃が容易になる、と考えていました。
5月27日午前1時、1か月の準備をかけたドイツ軍は激しい準備砲撃の後、ソアソンとランスを結ぶ線上にあるシュマン・デ・ダームに39個師団を送り、エーヌ川を越えました。
シュマン・デ・ダームには、北フランスの戦いで2度に渡ってドイツ軍の矢面に立ち、大きな損害を受けたイギリス第25師団が休養を兼ね守っていましたが、瞬く間に蹴散らされ幅40km、深さ19kmに渡ってドイツ軍に蹂躙されてしまいました。
現地のフランス軍は、前線基地に守備隊を密集させていた為、ドイツ軍の準備砲撃で大きな被害を出しました。
ドイツ軍は5月29日にはソアソンを陥落させ、翌30日にはマルヌ河に到達しました。
この時、視察に来ていた皇帝ヴェルヘルム2世は、占領したカルフォルニア展望台と名付けた高地に上がり、遠くに見えるパリの灯りを見ました。
アメリカ軍の参加
この戦いの5月28日、アミアンの南にあるカンティニでアメリカ軍が本格的に戦に参加し、勝利を収めました。5月30日にはマルヌ河の流れるシャトーチェリーにおいて、アメリカ先遣隊の2個師団がドイツ軍と戦い、予想外の粘りでドイツ軍の進撃を食い止めました。
アメリカ軍の参加は、押され続けていた連合国の兵士に、大きな勇気を与えました。
ブルヒャー=ヨルク作戦の成功でドイツ軍はフランス軍に対して大打撃を上げ、フランダース地方からフランス軍を呼び戻すことに成功しました。
ここでドイツのルーデンドルフは、最初の予定通り北フランスに駐留するイギリス軍を駆逐するか、崩壊寸前のフランス軍を攻撃して、パリに圧力をかけるか悩みました。結局、彼はパリへの誘惑に負けてフランス軍へ、さらなる攻撃を決意します
第2次マルヌ会戦
6月の戦いから約1か月、アメリカの海外派遣軍は毎月30万人づつ増え、今や連合国軍とドイツ軍の兵力は拮抗してきました。
ルーデンドルフは、イギリス軍駆逐のたの最後の戦いを始めます。
7月15日、ルーデンドルフはフランス軍を南フランスに釘付けするため、ランスの街に攻撃を仕掛けました。
ドイツ第7軍はマルヌ川を越えランスの裏側に回り込みを図ります。第1軍もランスの東側から攻撃を開始して、ランスを包囲し始めました。このままでは、ランスは完全に包囲され孤立してしまいます。
7月17日には、ランスを包囲する見込みが付き、ルーデンドルフは本来の目的であるイギリス軍を殲滅するために、重砲隊と航空部隊を共に北部のフランダース方面に移動しました。
しかし、ここで大きな突出部を作ったことが、ドイツ軍の命取りとなりました。
7月18日、連合国最高司令官フェルディナンド・フォッシュは、ランスを攻撃しているドイツ第7軍に対して、ソアソンにいたペタンが率いるフランス第10軍を使い、ドイツ軍の背後から攻撃を開始しました。
この時のドイツ軍は、陥落目前のランスを攻撃するのに集中しており、背後の警戒を怠っていました。
この反撃は、フランス軍24個師団を中心に、アメリカ軍8個の大型師団(アメリカ軍の1個師団はフランス軍2個師団分の兵員を有していました)、とイギリス、イタリア軍も加えた連合国の総力を挙げて、突起部の後方ソアソンに攻め込みました。
戦闘スタイルも指揮系統も違う多国籍軍を、連合軍総司令官フォシュは見事に纏め上げ、攻撃を成功させました。
ソアソンを砲撃するアメリカ軍の155㎜砲
出典 ウィキペディア
フランスの最新式戦車ルノーFT17軽戦車350両を含む、478両の戦車も、この作戦に投入されました。
FT17の詳しい説明はこちらをご覧ください ↓
7月20日、フランス軍の反撃で、ランスを包囲しているドイツ軍は、後方の連絡を絶たれることを恐れ、突起部からの撤退指令が出されました。
この撤退は、約2週間後の8月2日に完了します。
この後も連合国軍は攻撃を続けますが、ドイツ軍の反撃に押され。8月6日にいったん攻撃を終了しました。
おまけですが、後にドイツの総統となったアドルフ・ヒトラーが鉄十字章を授けられたのは、8月4日のソアソン付近での戦闘による功績からです。
ドイツ軍は3月から8月までの春季攻勢で70万人近い損害を出しました。特に、優秀な突撃歩兵に、大きな被害が出てしまいました。
連合国軍側の損害はドイツを上回る85万人にも上りましたが、その損害は新たに加わった200万人ものアメリカ軍によって補われました。ここでドイツ軍の人的優位は、崩れてしまいます。
アメリカ軍の本格的な投入前に第1次世界大戦の決着を付けようとした、ルーデンドルフの計画は実現しませんでした。
さらに、ドイツ軍には海外からの輸入が途絶えていることから、食料を始め、原材料不足による兵器や弾薬も不足がちになます。
また、兵士の間に勝利の見込みが亡くなったことで投降する者や、休暇で帰ったまま帰還しない者が続出するようになりました。
春季攻勢失敗の原因
ルーデンドルフは、兵力の損耗を防ぐため、敵の手薄な地域を狙って攻撃を仕掛け、不利と見たらサッサと手を引いてしまい、大兵力を一点に集中して決着をつける方法をとりませんでした。しかし、この方法では兵力を分散させることにより、大きな戦果を挙げられず、無駄に兵力を減らすことになりました。
また、フランス軍攻撃に成功したことにより、パリ攻略に色気を出し無駄に時間をかけたため、イギリス軍立ち直るスキを与えた上、戦闘準備中のアメリカ軍が連合国軍と一緒に戦いに加わる羽目になってしまいました。
アメリカ軍が加わったことにより、ドイツ軍兵士に勝ち目がないと考えるものが増え、投降する者が続出して、より一層兵力が無くなることになりました。
ここから、新たにアメリカ軍を加えた連合国軍の反撃が始まります。詳しい説明はこちら ↓