sponsored link
亀仙人2映画 『黄色い星の子供たち』
2010年 フランス・ドイツ・ハンガリー
1942年7月16日から17日にかけて、親独派のヴィシー政権はフランスの警察官4500人以上を動員し、パリに住む外国籍のユダヤ人1万3千人以上を検挙しました。検挙された人達は、アウシュヴィツの絶滅収容所に送られ殺されてしまいました。その中には4千人以上の幼い子供が含まれていました。
この映画は捕らえられた後、収容所から脱走して助かった少年(ジョゼフ・ヴァイスマン)の体験を元に制作されました。
アイキッチ画像の写真は2018年1月18日に撮られたジョゼフ・ヴァイスマン(1931年6月19日生まれパリ在中)
監督 ローズ・ボッシュ
脚本 ローズ・ボッシュ
製作 イーラン・ゴールドマン
製作総指揮 マルク・ヴァドゥ
出演
メラニー・ロラン(プロテスタントの看護師 アネット・モノ)
ジャン・レノ(ユダヤ人の医師 ダヴィッド・シェインバウム)
ユゴ・ルヴェルデ(主人公のジョー ジョゼフ・ヴァイスマン)
ガド・エルマレ(ジョーの父親 シュメル・ヴァイスマン)
ラファエル・アゴゲ(ジョーの母親 スーラ・ヴァイスマン)
オリヴィエ・シヴィー(ジョーの親友、ノノの兄 シモン・ジグラー )
あらすじと解説
この映画は1942年7月に起きたユダヤ人一斉検挙=ヴェル・ディヴ事件で捕らえられた後、収容所から脱走して生き延びることが出来たジョゼフ・ヴァイスマン氏の体験を元に制作されました。当時ジョセフ・ヴァイスマン氏は11歳の少年でした。
下のサイトに日本での「黄色い星の子供たち」公開に先立ち、早稲田大学で行われたジョゼフ・ヴァイスマン氏のトークショーの記事が掲載されています。↓
http://notaru.com/?p=4952
映画の背景
ナチス・ドイツによるホロコーストのはじまり
1933年1月30日、ヒトラー内閣が誕生し、同じ年の3月23日全権委任法が成立してヒトラーによる独裁体制が確立しました。
4月1日にはドイツ全土において、ユダヤ人が経営する商店やユダヤ人医師・弁護士への一斉ボイコットが行われました。このボイコット運動は1日で終わりましたが、この後もユダヤ人の社会的活動をボイコットする動きは続きます。
4月1日から1週間後には「職業官吏再建法」が制定され、ユダヤ人の公務員や教職員が職務を失い、ユダヤ人の学生も学校から遠ざけられます。
1935年9月15日のニュルンベルク法により、ドイツに住むユダヤ人の公民権が剥奪されたほか、家族手当や保健手当、傷痍軍人手当、年金などの国家の保護も受けられなくなりました。
1938年 水晶の夜
1933年ヒトラー政権が成立して以来、ドイツ国内でのユダヤ人迫害が激しくなっていました。その中で唯一ホーランド国籍を持つユダヤ人は、ゲシュタポに捕まってもポーランド政府発行の旅券を見せれば、逮捕されることはありませんでした。また、いつでもポーランドに帰国することが出来ました。
ところが1938年10月6日ポーランド政府は、今まで使用していた旅券に検査済みの認印がないものは無効とする、新しい旅券法を制定しました。これによりドイツ在中のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍も無効となりました。
これ受けてドイツ政府は、無国籍となったポーランド系ユダヤ人1万7千人を捕まえてポーランドに送り返そうとしました。しかし、ポーランド政府は、彼らは無国籍であるとして入国を拒否しました。過去のため多くのユダヤ人がドイツとポーランドの国境付近で食料もなく放置され、大勢の餓死者が出てしまいます。
1938年11月7日、この時パリに留学していた17歳のセンデル・グリュンシュパンの一家もこの中に居ました。センデル・グリュンシュパンは抗議のためパリのドイツ大使館に行き、3等書記官のエルンスト・フォム・ラートに向かって2発の銃弾を撃ち込みました。彼は事件を起こすことで、ドイツによるユダヤ人迫害を世界に訴えようとしたのでした。
ドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートを暗殺したポーランド系ユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパン。フランス警察の拘置所で。
出典 Wikipedia
エルンスト・フォム・ラートは、10月9日午後4時30分に死亡しました。その晩、宣伝相のゲッベルズはドイツ全土でユダヤ人に対して復讐をするように演説しました。
この演説を受け、10月9日の夜から10日の朝にかけて反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生しました。これにより267のシナゴーグ(ユタや教の会堂)や7500のユダヤ人商店や企業が破壊され、少なくとも96人のユダヤ人が殺害されました。
この後、ドイツ全土でユダヤ人企業や商店の閉鎖、ユダヤ人労働者の解雇、学生の通学が禁止された他、公共施設や商店の立ち入りも禁止され、より一層迫害が厳しくなりました。
東欧で始まった本格的なホロコースト
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ポーランドやチェコから大勢のユダヤ人が迫害を恐れてフランスに移住してきました。
1942年6月22日、ドイツのソビエト侵攻(バルバロッサ作戦)が始まると、東欧に住むユダヤ人の他に、スラブ系民族、共産主義者もホロコーストの対象となり、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所に最初のガス室が建設されました。10月にはユダヤ人殺害だけを目的とした7つのガス室を備えたアウシュヴィッツ第2収容所ビルケナウの建設が始まりました。
東欧ベラルーシにおける、共産主義者(赤軍)のパルチザンを始めスラブ人虐殺を題材とした映画があります ↓
映画 「炎628」第二次世界大戦ベラールーシで、ナチス・ドイツのアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)が行った、残虐行為を扱った映画です。
ヴァンゼー会議
1942年1月20日、ユダヤ人問題に関係するドイツ高官が集まり、効率的なユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議が行われました。この会議の結果ナチス・ドイツのホロコーストはより一層加速するようになりました。
ヴィンゼー会議に関する映画があります。↓
1933年~1945年にかけて、ナチス・ドイツのホロコーストによる犠牲者は約600万人と見られています。
ナチス・ドイツのフランス占領
1939年9月1日ナチス・ドイツがポーランドに侵攻すると9月3日、イギリスとフランスはポーランドとの相互援助条約を結んでいたため、ドイツに対して宣戦布告を行いました。しかし、両国ともポーランドに軍隊を送らず事態を見守るだけでした。
1940年5月10日ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵攻し、続いてアルデンヌの森を抜けてフランス国内に進み、6月14日には首都パリを陥落させました。
6月22日、フランス、オワーズ県にあるコンピエーニュの森でナチス=ドイツとフランスとの休戦協定が成立しました。
コンピエーニュの森は1918年11月11日、ドイツと連合国が第一次世界対戦終了の休戦協定を結んだ場所です。ヒトラーはこの時使用され博物館に展示されていた客車(休戦の客車)を、博物館から引き出してコンピエーニュの森まで運び、この客車の中で今度は勝利者としてフランスとの休戦協定の調印に使用しました。
博物館の壁を壊し、引き出される「休戦の客車」
1940年6月21日
出典 wikiwand
1918年の第一次世界大戦休戦協定調印直後の写真
出典 ウィキペディア
6月22日に調印されたドイツとの休戦協定により、フランスはドイツ国境のアルザス・ロレーヌ地域をドイツに併合され、北方の国土とスペインと国境を接するドイツの占領地区と、南部の自由地区とに分けられました。
黄はドイツ軍の占領地域、橙は「保留地域」、紫はベルギー占領軍統治下の「禁止地域」、赤が禁止地域のうち、沿岸防備地域。青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白はヴィシー政府の支配地域である「自由地域」
出典 ウィキペディア
1940年7月11日、ドイツのフランス侵攻によりフランス第3共和国政府は崩壊し、代わりに第一次世界大戦の英雄であるペタン元帥を主席とする新政府(フランス国)が樹立されました。この新政府は、フランス南部の自由地区にある温泉保養地ヴィシーに首都を置いたことから「ヴィシー政府」または「ヴィシー政権」と呼ばれました。
フランス国初代主席、フィリップ・ペタン
出典 ウィキペディア
フィリップ・ペタンが活躍した、第一次世界大戦初期のヴェルダンの戦いの解説はこちら ↓
ヴィシー政府は始め中立国としてアメリカやソ連など多数の国に承認されましたが、北部を占領しているドイツの要求を拒むことが出来なくなり、最後にはドイツの傀儡政権と変化してしまいました。
さらにフランス国首相に就任したピエール・ラヴァルは、この戦いはドイツの勝利に終わるだろうと考え、戦争が終わった後フランスが有利な地位を得るため積極的に親独的な政策を打ち出していました。
ピエール・ラヴァル 1931年
始め、ドイツ軍は15歳以下の子供は検挙の対象から外していました。しかし、ラヴァルはドイツ軍と交渉して、助けることが出来た子供達も検挙して、アウシュヴィツに送ることにしました。
出典 ウィキペディア
このため民主的で人種差別のなかったフランスは、国内に住むユダヤ人に対して過酷な政策をとることになりました。
フランスのホロコースト
1791年9月28日、フランス革命によりフランス国内に住むユダヤ人に対して一般のフランス人と同様の市民権を与え、世界で最初にユダヤ人の解放を行いました。
しかし、フランスは元々カトリックの国でありユダヤ教と対立してきた歴史がある上、代々土地の所有を禁じられてきたユダヤ人が近代的な職業(金融、銀行、貿易、工業、医療、法律、ジャーナリズム、芸術、音楽、文学、演劇)に進出して成功した者が多くなったことで、ユダヤ人に対する警戒感が生まれ、反ユダヤ主義思想が出てきました。
ヴィシー政権誕生までのフランス側の対応
ヒトラー政権が誕生した1933年時点で、フランス本土には約22万5千人のユダヤ人が住んでいました。その後ナチスからの迫害を逃れて、ドイツ本国、オーストリア、チェコスロバキアからユダヤ人の難民がフランスに押しかけてきて、1940年には約35万人のユダヤ人が住んでいました。
フランス政府の国籍法では、外国人でも5年以上フランスに住み(家族が居る場合、家族全員)、安定した就労生活(フランス国内で働いて得たお金だけで、暮らせること)を充たせば、フランス国籍をもらえるため、多くの難民がやってきたのです。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、9月3日にはポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告を行い、第二次世界大戦が始まりました。
これによりドイツからやってきたユダヤ人とドイツ人が、敵性国民として抑留されました。
ヴィシー政権下のホロコースト
1940年7月11日に成立したヴィシー政権の主席フィリップ・ペタンは、敗戦の原因は第3共和国の議会で政治家達がお互いに主導権をとるための戦いに明け暮れ、政権がめまぐるしく変わったため、何も決められなかった政府組織にあるとしました。
そこで共和制をとる以前のフランスを復活するため、「国民革命」を進めました。
ペタン政権は反議会主義、個人崇拝主義、外国人排斥、国家主導の反ユダヤ主義、伝統的価値観の推進、憲法上の三権分立の拒否、近代性、コーポラティズム、および階級対立理論への反対など、フランス革命によってフランス社会に導入されたすべての制度に反対し、復古主義的な政策をとりました。
そして一番目に取りかかったのが、古き良きフランスを破壊した「望ましくない人々」とされた、ユダヤ人、メテック(居住地の市民権を持たない外国人)、フリーメーソン、共産主義者に対する迫害でした。
1940年10月3日ヴィシー政権はドイツに促される前に自発的に「ユダヤ人の地位に関する法律」を定め、続いて10月4日には「ユダヤ民族の外国人に関する法律 」が成立しました。最初の法律によりどのような人がユダヤ人になるかを定め、ユダヤ人となった人は、公務員、軍隊、教育、報道、ラジオ、映画から排除されることになました。次の日の法律では、知事はユダヤ系外国人を特別収容所に拘留したり、決められた居住地(ゲットーや難民キャンプなど)への移住を強制出来るようになりました。
グリーンカード一斉検挙
1941年5月14日、パリで最初のユダヤ人一斉検挙が行われました。これは1841年5月初旬、パリに住んでいる18歳から60歳のポーランド系のユダヤ人を中心に6694人の外国籍男性に対して、「グリーンカード」と呼ばれる召喚状を出しました。このカードには5月14日午前7時までに「身分調査」のために、パリ市内に設けられた5つのセンターのどれか一つに、本人が直接出頭するように書かれていました。
この呼び出しに素直に出頭した3700人のユダヤ人(ポーランド人3430名、チェコ人157名、その他無国籍のユダヤ人123名)は直ちに逮捕され、ピティヴィエ強制収容所とボーヌ ラ ロランド強制収容所に移送されてしまいました。
パリの南98kmの所にあるボーヌ・ラ・ロランド収容所
1941年撮影
この収容所は映画の中にも出てきます。
出典 Wikipedia
彼らは、翌年の6月から7月にかけてアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、殺されてしまいました。
1941年8月20日~21日、2回目のユダヤ人一斉検挙
これは1941年6月22日から始まった独ソ戦後に「共産主義の扇動に対する報復」として行われ、パリの11区を中心に4232名の成人男性が検挙され、新しく開設されたドランシ-強制収容所に送られました。
ドランシ-強制収容所 撮影1941年8月
出典 Wikipedia
パリ近郊のドランシーに設けられた収容所は、元々ラ シテ ドゥ ラ ミュエットという名前でモダニズムの都市コミュニティで、コの字型のモダン住宅として建設されました。しかし1939年第二次世界大戦が勃発したため、窓や扉がないまま建設途中で放置されていました。1942年6月22日からユダヤ人の強制収容所と使用され、最盛期には362の部屋に7000人以上のユダヤ人が収容されていました。
ここに送られてきたユダヤ人は鉄道に乗せられてアウシュヴィツに送られました。フランスから国外に追放された7万6千人のユダヤ人の内、6万3千人がドランシーを経由しています。
この建物は第二次世界大戦後きちんと整備され、住宅として使用されています。
集合住宅として使用されている、元ドランシ-強制収容所。
出典 Wikipedia
1941年12月12日 3回目の検挙
「一連の反ドイツ活動」の報復として、パリやその郊外に住む著名なビジネスマン、報道関係者、経済人、医師、弁護士、学者などのユダヤ人743名検挙されました。これらのユダヤ人はフランス国籍を持つ者が多かったため、占領軍(ドイツ軍親衛隊、親衛隊保安部、ドイツ憲兵隊)が直接行いました。
「春の風」作戦
1942年6月、西ヨーロッパのナチス・ドイツが占領した地域(フランス、オランダ、ベルギー)で、ユダヤ人追放を目的とする大規模な「春の風」作戦が計画され、オランダのアムステルダム、ベルギーのブリュッセル、フランスのパリに住む、すべてのユダヤ人を逮捕することが企てられました。フランスでは、1942年中に11万人のユダヤ人をドイツに引き渡すこととなりました。
ヴィシー政権のペタン元帥はとりあえずラヴァル首相と計らい、収容所に留置されている1万人のユダヤ人を送ることにしました。
1941年6月2日「ユダヤ人の地位に関する第 2法」が制定され、前年10月3日の法律よりユダヤ人の定義がより一層厳しくなり、フランス国籍を持つユダヤ人でもこの定義に合わないと、フランス国籍を剥奪される者が多く出ました。
ナチス・ドイツの占領下にあったフランスで1942年7月16日~17日に行われた最大のユダヤ人大量検挙事件が起こりました。この時検挙されたのはパリ市内に住む無国籍のユダヤ人を中心に、ドイツ、オーストリア、チェコ、ハンガリーなどの外国籍を持つユダヤ人で合計1万3152人に上ります。この事件は検挙された人達が一時収容されていたヴェロドローム・ディヴェール(パリ冬季競輪場)にちなんで、ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件と呼ばれます。
ヴェロドローム・ディヴェール(パリ冬季競輪場)は、1909年パリ15区のネトラン通りに作られた室内競輪場です。
ヴェロドローム・ディヴェール(パリ冬季競輪場)は、冬でも使用できるようにガラス製の屋根で覆われていました。室内には1周250㍍の木製のトラックが設けられています。
撮影 1910年
出典 Wikipedia
ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件に関係した主な人物
フランス側
ルイ・ダルキエ・ド・ベルボワ
フランスのユダヤ人問題担当長官
撮影 1942年
出典 Wikipedia
ルネ・ブスケ、フランス警察の書記局長
1942年4月、ラヴェル首相によりフランズ警察の書記局長に任命され、国家元首に代わって署名できる永久資格が、与えられました。
撮影 1942年
出典 Wikipedia
ブスケは下の写真のカール・オバーグ親衛隊大将と協力することを条件に、フランス警察の自治権を獲得しました。
ドイツ側
カール・オバーグ親衛隊大将
フランスにおける親衛隊長官および警察長官
撮影 1943年
出典 Wikipedia
テオドール・ダネッカー親衛隊大尉
ドイツ軍によるユダヤ人監視員のリーダー。
1942年7月、フランス警察によるユダヤ人の一斉検挙(ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件)を命じた。
1942年撮影
出典 Wikipedia
パリ治安警察の上級司令官、ヘルムート・クノッヘン
1942年撮影
出典 Wikipedia
(この5人は、映画の中でよく似た俳優が演じています)
1942年7月2日から7月13日にかけて、上の5人を中心にフランス側とドイツ側両者は度々会議を行い、ドイツ人、オーストリア人、ポーランド人、チェコスロバキア人、ロシア人、および無国籍のユダヤ人27,427人が逮捕の対象となりました。
7月16日午前4時から7月17日午後1時にかけて、フランスの警察と憲兵9000人が、あらかじめ用意されたユダヤ人逮捕対象者の名簿に従って、検挙を行いました。しかし、一斉検挙の情報が漏れていたため前もって逃亡した者や、近所の人、教会などで保護された人がおり、実際に逮捕されたのは1万3152人でした。
逮捕された者の内約7000人がディヴェール競輪場に送られ、残りはドランシ-収容時に送られました。
ディヴェール競輪場の屋根がガラス張りであったため、7月の逮捕の時は大変な暑さになり、さらに10カ所あったトイレのうち、5カ所は窓から逃亡される恐れがあったため閉鎖されてしまいました。そのため残りの5カ所もすぐ詰まってしまい、使用できなくなりました。(映画の中に、物陰で用を足している人の姿が映っています)。使用できる水飲み場も一カ所しかなく、収容された人々は、暑さと、飢えと渇き、そして悪臭に耐えながら5日間過ごした後、ドランシー(セーヌ県)、ボーヌ・ラ・ロランド、ピティヴィエ(ロワレ県)の収容所に連行されました。
1942年7月のヴィル・ディブ冬期競輪場の内部。
検挙された人たちは、観客席ではなく競技用のコースと、
その内側の平らな所で過ごしていました。
出典 mundobici
その後収容されていた人たちはアウシュヴィツ強制収容所に移され、殺されてしまいました。
ディヴェール競輪場一斉検挙後の、フランスにおける一斉検挙
失敗したナンシーの一斉検挙
1942年7月19日、フランス北部の街ナンシーでユダヤ人の一斉検挙が決まり、ナンシーの街に住む385人のユダヤ人が検挙の対象となりました。
7月18日、ユダヤ人の一斉検挙のために用意されたユダヤ人ファイルを受け取った、ナンシー警察の外国人課の責任者エドゥアール・ヴィニュロンは、急いで副官のピエール・マリーと5人の部下を集め、本物の用紙を使って偽の身分証明書とフランス南部のフリーゾーンに行ける切符を用意して、対象になったユダヤ人に配りました。中には訳が分からないまま駅まで連れてこられ、列車に乗せられてから切符と偽の身分証を渡された人も居ました。こうして350人以上のユダヤ人が脱出に成功し、逮捕されたのは32人だけでした。
ナンシー警察の外国人部長、エドゥアール・ヴィニュロン、副官のピエール・マリー、その部下3人(シャルル・ブイ、フランソワ・ピノ、シャルル・トゥロン)は、ナンシーの一斉検挙を阻止し、350人以上の命を救った功績で、イスラエルから「 諸国民の間で義人 」として勲章を送られています。
参考 judaisme.sdv
1942年7月18日から、一時フランス政府が避難していたボルドーでの、ユダヤ人狩りが始まりました。この後もボルドーでは度々ユダヤ人の検挙が行われます。
1942年7月2日のディヴェール競輪場一斉検挙に対する協議と平行して、フランス南部のフリーゾーン(Zone libre)でのユダヤ人一斉検挙を計画して、1942年8月26日に実施され6584人が逮捕されました。
1943年1月22日~23日、地中海に面した港街マルセイユで2000人近くのユダヤ人が逮捕される。
1943年 4 月 :ニームとアヴィニヨンの一斉検挙。
1943年 9 月 : ニースとニース後背地の一斉検挙。
1944年2月:グルノーブルとイゼール の一斉検挙。
1944年8月 15 日:クレルモンフェラン からフランス最後となるユダヤ人の国外追放。
フランスでは1944年8月25日のパリ解放までに、約75000人のユダヤ人が絶滅収容所に送られ、そのうち72500人が殺害されてしまいました。
映画のあらすじ
映画はドイツとの休戦協定が結ばれた翌日、1940年6月23日早朝パリを見学しているヒトラーの記録映画から始まります。この時のパリはドイツ占領を恐れ、市民の3分の2に当たる200万人がパリを離れ早朝であることもあり、数人の警察官を除いてほぼ無人の状態でした。
やがて映画は、モンマルトルの丘の頂上に立つサクレ・クール寺院の下で撮影をしているドイツ兵の姿を捕らえます。
ポンピドゥー・センターから見たモンマルトルの丘
頂上に立つのがサクレ・クール寺院
出典 ウィキペディア
この兵士はメリーゴーランドに乗った仲間を撮っていましたが、そばに立っていた少年を撮り始めたところ、少年の胸にユダヤ人を表す黄色い星形の布が着いていることに気づき、撮影をやめてしまいました。
この少年が映画の主人公となる、ジョゼフ・ヴァイスマンです。
1942年5月29日、ドイツの命令による第8回布告によって、6歳以上のユダヤ人全員に黄色い星形のバッジ着用が義務付けられました。
出典 Wikipedia
1942年6月ドイツ占領下のパリにおいて、ユダヤ人であることを表す黄色いバッジを付けた女性。
出典 Wikipedia
しかし、ジョゼフの通っていた学校では、黄色いバッジを付けた生徒を差別しないように教え、一般の人も普段通り付き合っていました。
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ポーランドやチェコから大勢のユダヤ人が迫害を恐れてフランスに移住してきました。
1942年6月に行われたドイツ軍の「春の嵐』計画により、フランスはパリに滞在しているユダヤ人11万人を逮捕して、ドイツに引き渡すことになりました。
これを受けて、ヴィシー政権はフランス南部の自由地区で移住したばかりでフランス国籍を持たないため収容されていた1万人のユダヤ人を送ることを決めました。
やがて7月になり学校が夏休み(フランスの夏休みは7月7日から8月31日まで)に入ると、学校などの教育現場からユダヤ人が追放されるようになりました。
1942年7月8日、ユダヤ人に対する第9回布告が公布され、ユダヤ人が公園などの公共施設を利用することの禁止や、商店などでの買い物も禁止されました。
1942年7月13日、張りしないに居るユダヤ人の一斉検挙が決まり、ユダヤ人登録カードから検挙の対象となるユダヤ人の名簿が作られました。
しかし、この名簿作成が漏れて警察官によりジョーの家族が住むアパートの管理人タチに、検挙が近いことが知らされました。タチの居るアパートには大勢の貧しいユダヤ人が住んでいて、知らせを聞いたジョーの父親シュメルは、用心のためアパートの地下室に避難することにしました。
7月16日午前4時から、フランス警察によるユダヤ人一斉検挙が始まりました。
ジョーの父親シュメルは、地下室に隠れていることがばれて家族と一緒に逮捕されてしまいました。
ジョーの親友であるシモンの居るジクラー家では長女のルイーズが、末の弟でまだ赤ん坊のレオンを連れいち早く逃げ出し、街の娼婦に匿われて教会に行き、保護されました。
学校の先生をしていたサウル・トローブは、ユダヤ人のため職を失い、早朝からユダヤ人生徒を相手にユダヤ人生徒を相手に特別授業を行っていたため、検挙を免れました。彼の長女アナは一端は逃げたものの、通りに出たところで捕まってしまいました。
検挙された人の内、独身者と子供の居ない夫婦はドランシーの強制収容所に、残りの子供の居る夫婦はヴェル・ディブの冬期競輪場に送られました。
7月16日午前4時から、7月17日午後までに行われた一斉検挙で、4115人の子供を含む1万3152人が逮捕されました。これは当初予定されていた2万4000人よりも約1万人少ない数です。
一斉検挙で捕らえられたユダヤ人達が収容されているヴェル・ディブ冬期競輪場に、一人の看護師がやってきました。名前をアネット・モノといいます。
アネット・モノー
映画のアネット・モノのモデルになった人です。彼女は看護師ではなく、ソーシャルワーカー(社会福祉士)として、赤十字から派遣されました。アネツト・モノーは1909年7月6日フランスのサンカンタンで生まれました。彼女の父親はプロテスタントの牧師で、社会的キリスト教運動の熱心な支持者でした。父の影響を受けた彼女は、パリのヴォージュ広場にある社会奉仕実践学校(EPSS)で、ソーシャルワーカーの国家資格を習得しました。
パリがドイツに占領された後、彼女は1941年5月14日に行われたグリーンカード一斉検挙の時から、赤十字のソーシャルワーカーとして、収容された人たちの世話を始めました。
アネット・モノー
収容所に居た人から送られた、アネット・モノーの肖像画(1941年)
出典 占領下のパリ
その後、1941年10月にはドランシーの収容所、1941年12月にはコンピエーニュのロワイヤル収容所に移り、1942年7月のヴェル・ディブ一斉検挙後に、ヴェル・ディブ冬期競輪場の収容施設に送られました。その後子供達の世話をするため一緒にロランドの収容所に行き、1944年8月のパリ解放までそこに勤めていました。
終戦後、ドイツ各地の収容所から戻ってきたユダヤ人の受け入れ場所となったホテル「ルテティア」で、帰国してきた人たちの世話をしています。
ホテル「ルテティア」の受け入れセンターで働いていたときの名札。
その後、法務省のソーシャルワーカーとして、フランス各地の刑務所に勤務しました。
彼女は2001年11月11日、フランスのアンドレシーで亡くなりました。92歳でした。
ヴェル・ディブ冬期競輪場にはユダヤ人の医師ダヴィッド・シェインバウムが、5人の看護師と共に、7000人にも及ぶ収容者の面倒を見ていました。
7月のヴェル・ディブ冬期競輪場は屋根がガラス張りになっている上、窓や出入り口が閉ざされているため、競技場の中はものすごい暑さでした。その上数少ないトイレも詰まって使用不可能となり、収容されている人たちは物陰で用を足していたため、ひどい悪臭に満ちていました。
そのような中で仕事をしていたアネットは幼い少年ノノに出会いました。ノノの母親は妊娠中検挙に来た警察官の暴力を受け、出血多量で死亡しましたが、ノノと兄のシモンはそのことを知らされていませんでした。
検挙の時、一家とはぐれたトローブ家の長女アナは、ダヴィッド医師に頼んで偽の通行書を手に入れ収容所からの脱出を図りました。アナはアネット共に出口に向かいましたが、そこで収容所にいた警察官に見つかってしまいました。しかし、偽の通行書を見た警察官は「よい出来だ」と言って、見逃してくれました。
ひどい環境の中で5日間過ごした収容者達は、ドランシーの強制収容所に移送されることになりました。アネットも医師のダヴッドに頼んで、一緒に行くことにしました。
ドランシーについて最初に驚いたのは、具のないスープとわずかなパンだけという、粗末な食事でした。アネットは県知事に食事の改善を要求する手紙を出しましたが、返事がありませんでした。そこで彼女は、収容されている人たちと同じ食事を続け、栄養失調となり、直接知事に会い食事の改善を訴えました。アネットの状態を見た県知事は、彼女の要求に応えることを約束しました。
数日後、ヴェル・ディブ冬期競輪場からの逃亡に成功したトローブ家の長女アナが収容所にやってきて、鉄条網越しに差し入れの品をジョーとシモンに渡し母親と妹のルネに、今は父親と共にリモージュに居ると伝えるよう頼みました。そしてシモンとノノの姉ルイーズと弟のレオンも、南部フリーゾーン出働いている父親の元に着き無事だと言いました。
アネットの願いが効いて、近くの尼僧たちが差し入れにお菓子のマドレーヌを持ってきたときは、彼女も子供達と一緒に踊り始めてしまいました。
喜んだのもつかの間、収容所にいた人たちは東方に送られることになりました。しかも送られるのは16歳以上の人たちだけで、15歳以下の子供達は強制労働に耐えられないとしてそのまま残されることになりました。
別れ際にジョーの母親は「なんとかしてこの収容時から脱走して、生き延びて」と言いました。
子供達だけになった収容所で、ジョーは母親と約束した脱走の準備に掛かりました。はじめは親友のシモンを誘いましたが、この時シモンはヘルニアになっており、幼いノノを連れて逃げることは無理だと言って断りました。そこでジョーは収容所で知り合った少年コーガンと一緒に、脱出することにしました。
食事の準備をしているときに、シモンがスープの入っている大鍋をひっくり返して大騒ぎとなった隙を突いて、ジョーとコーガンは鉄条網をくぐり抜けて脱走に成功しました。アネットは逃げるジョーに気が付きましたが、誰にも言いませんでした。
大人が送られてから10日後、子供達も東に送られることになりました。このとき熱があるアネットは必死に子供達が送られるのを止めようとしましたが、倒れて気を失ってしまいました。
彼女の手当てをした地元の医師は、東に送られた親たちは皆ガス室に送られて殺され、子供達も着き次第すぐに殺されるだろう、と言いました。その話を聞いたアネットはすぐ駅に向かいましたが、着いたときには子供達を乗せた列車は、出て行った後でした。
戦争が終わって、アネットはドイツの収容所から帰国したユダヤ人を受け入れていたホテル「ルテシア」で、子供達の世話をして働いていました。
ホテル『ルテティア』 撮影 2021年
ホテル『ルテティア』はパリの名門ホテルで、画家のピカソや、「星の王子さま」の作家サン=テグジュペリなど数多くの有名人が滞在しました。またフランスの大統領となったシャルル・ド・ゴールの結婚式も、このホテルで執り行われました。
出典 Wikipedia
1945年6月一人の少年が、アネットを訪ねて会いに来ました。会ってみると、その少年はドランシーの収容時から脱走したジョーでした。彼は脱走した後親切な人に助けられて、養子にして貰ったそうです。
さらにその近くには、見たことのある女の人の写真を掲げて人捜しをしている老夫婦がいました。その写真のそばに行くと、写真の女性はノノのペンダントに入っていた母親の写真であり、その脇には死んだと思っていたノノが居ました。老夫婦の話では、近くの駅で立っている彼を見つけて、保護したとの話です。
しかし、昔は無邪気で活発な二人の少年は、いまは無口で物静かな子供に変わっていました。
始め、ドイツ軍は15歳以下の子供は検挙の対象から外していました。しかし、首相のラヴァルはドイツ軍と交渉して、助けることが出来た子供達も検挙して、アウシュヴィツに送り、殺してしまったのです。