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亀仙人2ユトランド沖海戦
1916年5月31日~6月1日
第1次世界大戦で、唯一行われたイギリスとドイツの主力艦隊同士の大海戦です。
ユトランド沖海戦まで
ドイツ皇帝の野望と提督の答
鉄血宰相ビスマルク
1862年プロイセン王ヴェルヘルム1世に乞われて首相となったビスマルクは、1890年に辞職する迄プロイセンを軍事国家として導き、多数の領邦国家に分かれていたドイツをプロセイン王国を中心に統一し、ドイツ最初の近代的なドイツ帝国を作り上げました。
特に1870年の普仏戦争(フランスとプロイセンとの戦争)戦争に勝利して、石炭と鉄鉱石の産地アルザス・ロレーヌ地方を帝国に加え、さらに50億フランと言われる多額の賠償金を使い産業改革を進め、工業化を進めると同時に軍備を増強して帝国主義の政策をとるようになりました。
普仏戦争に負けたフランスが反撃することを恐れたビスマルクは、巧みな外交政策によりフランスを孤立化させるビスマルク体制と呼ばれる国際秩序を作り上げました。
彼は1884~1885年にベルリン会議を主催してアフリカ分割の調停で、トーゴ、カメルーン、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領南西アフリカの4地域をドイツ帝国の保護領とすることを宣言しました。
鉄血宰相のあだ名は、1862年9月30日ドイツ帝国議会で行った 「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」 との演説がもとにつけられました。
その後に行われた彼の軍備拡張計画は、「鉄血政策」と言われます。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と海軍大臣ティルビッツ
『ドイツの将来は海上にあり、制海権を手中に収めなければならない』
これは1898年9月23日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の発言です。皇帝は内政重視のビスマルクの政策から一転して、積極的な海外進出を目指す「世界政策」と呼ばれる帝国主義的な政策を展開します。
しかし、ドイツ帝国が植民地争奪戦に乗り出すのには、最強と言わるドイツ陸軍だけでは十分ではなかつた。
植民地を拡大するには、海軍を拡大する必要があります。
そのため皇帝ヴィルヘルム2世は、1897年6月16日に、ティルビッツを海軍大臣に任命して本格的に海軍の増強に乗り出します。
彼は、当時世界最強と言われるイギリス艦隊の戦力の6割の規模を持つ海軍を作り上げれば、イギリスもそれ相応の反撃を恐れて、ドイツ海軍に手出しはできないという「リスク理論」をもとに、海軍の増強に乗り出しました。
ドイツ帝国 ティルビッツ海軍大臣
出典ウィキペディア
リスク理論とは
当時イギリスは食料の大部分を海上輸送に頼っており、もしこの海上輸送が途切れたら深刻な食糧難に陥ってしまいます。
イギリスとドイツが海上で戦った場合、イギリス海軍が勝ってもそれと引き換えに膨大な軍艦を喪失することになり、世界中に散らばる植民地からのシーレーンの防衛が出来なくイギリスは大変な事態に陥ります。
ですから、ドイツは艦隊決戦でイギリスに勝てるだけの艦隊を持つ必要がなく、イギリス艦隊の約6割の規模を持つ艦隊を作り上げれば、海上戦力が減少するリスクを恐れてイギリスはドイツに対して手を出せなくなります。
これによってドイツは、イギリスとの海上対決を回避できるとの「リスク理論」によって大規模な海軍を作ることになりました。
最初に公布された第一次艦隊法(1898年)によって戦艦19隻を建造します。続いて1900年の第2次艦隊法が可決され戦艦を38隻に増強。1908年の第3次艦隊法、1912年の第4次艦隊法と続き、総戦力は戦艦41隻、大型巡洋艦20隻を中核とした、世界第二位の海軍を作り上げました。
挑戦を受けたイギリス
ドイツ海軍の強化をイギリスが黙って見ている筈はなく、イギリスも海軍の強化に乗り出します。この時大活躍したのが、ジョン・アーバスノット・フィッシャー提督です。
フィッシャー提督
イギリス海軍においてネルソン提督とともに、大きな貢献をしました。
しかし、この人に関しては良い面と悪い面があります。
良い面は当時の戦艦の常識を覆す、画期的な戦艦「ドレッドノート」を建造したことです。
戦艦ドレッドノートとは
皆さんはどこかで「超ド級(超弩級)」という言葉を聞いたことがあると思います。この「ド」とはイギリスで建造された戦艦ドレッドノート(Dreadnought=”勇敢な”とか”恐れを知らない”という意味)から来ています。それまでの軍艦に比べて大型であったため、戦艦ドレッドノートを超える船は「超ド級(超弩級)」と呼ばれ、「(それまでに比べて)格段に大きい」「(非常に)大型である」という意味で使われています。
世界で最初の弩級戦艦、イギリス海軍の戦艦ドレッドノート
出典 ウィキペディア
1906年に作られた「ドレッドノート」の特徴は単一巨砲の搭載と、蒸気タービン採用による高速航行が出来ることでした。
戦艦ドレッドノート。中間砲・副砲を装着せず単一口径の連装主砲塔5基を搭載して当時の戦艦の概念を一変させた革新的な艦である。
出典ウィキペディア
上の図面が戦艦ドレッドノート、下の図面が1905年日本海海戦の旗艦であった戦艦三笠の図面です。図面の大きさが違うので分かりにくいですが、
多くの点で典型的な前弩級戦艦の特徴を示す戦艦三笠。中口径副砲と小口径副砲の位置や、砲塔と主機部分に集中した装甲に注意。
出典 ウィキペディア
全長は
ドレッドノート 160.6m
三笠131.7m
排水量
ドレッドノート 18110t
三笠 15140t
でドレッドノートの方が三笠より大きくなっています。
また主砲は
ドレッドノート 45口径30.5㎝連装砲5基(10門)
三笠 40口径30.5㎝連装砲2基(4門)
発射速度が
ドレッドノート 毎分1.5発
三笠 毎分1発(後に1.2発)
となり、同じ時間内にはるかに多くの砲弾を発射出来ます。また主砲の口径(大砲の口径は砲身の長さが使用する砲弾の直径の何倍あるかを示したもので、これが大きくなると発射速度が上がり、遠くまで飛ばせます)の違いで、同じ30.5㎝、重量386㎏の砲弾を使用していますが、最大射程距離が
ドレッドノート 15040m
三笠 13700m
となります。
最大速度は
ドレッドノート 21.0ノット(時速約38.9㌔)蒸気タービン使用
三笠 18.0ノット(時速約33.3㌔)レシプロ式蒸気機関使用
となります。
また、ドレッドノートはボイラーの燃料を石炭から重油に替えました。
もし、ドレッドノートと三笠が戦った場合、ドレッドノートは三笠の射程外の距離から一方的に砲撃することが出来、三笠は逃げようとしても速度が遅いため逃げることが出来ません。このようにドレッドノートが出来たことでそれまでの戦艦(「前弩級戦艦」と言います)はすべて旧式化してしまいました。
これはイギリスにおいても同じで、それまでイギリス海軍が持っていた多くの軍艦が、いっぺんに旧式となり役に立たなくなってしまいました。そのためフィッシャー提督はドレッドノートを建造するに先駆け、旧式の軍艦90隻を廃艦して売り払い、64隻を予備役とします。これにより得た資金と乗組員を、新たに作る新型艦の製造費と乗員に回しました。
ドレッドノートが出来たことにより、後発のドイツ海軍が新型の「ド級戦艦」ばかりをそろえた海軍となり、脅威を感じたイギリスはドレッドノートより強力な34.3㎝砲を搭載した「オライオン級」戦艦を建造しました。この戦艦はドレッドノートを上回る戦艦として「超ド級戦艦」と呼ばれます。
イギリスとドイツ間の建艦競争
この様に新しい戦艦の出現は、海軍力の強化を狙うドイツと、世界一の海軍の座を守ろうとするイギリスの間で激しい対立を呼び、第1次世界大戦の一因とも言われています。
欧州の新興勢力であるドイツ帝国は、皇帝ヴィルヘルム2世とティルピッツ海相の指導下にて「ドイツの将来は海上にあり」のスローガンの下、海軍力の建設に邁進した。
最初に公布された第一次艦隊法(1898年)においては戦艦19隻(艦齢25年)を中心とした比較的穏当なものであったが、1900年の第二次艦隊法では明確にイギリス海上権への挑戦を宣し、「彼が我と戦えば、我が負けても彼も回復困難な損耗を受ける」というリスク理論を提唱して戦艦戦力を倍の38隻に増強する大軍拡を開始した。以後1908年、1912年と改訂を繰り返し、総戦力は戦艦41隻(艦齢20年)と大巡洋艦20隻を中核とした、イギリス本国艦隊を上回る程の規模にまで成長せんとした。
挑戦を受ける立場のイギリスも建艦を拡大した。その渦中、1906年に就役した「ドレッドノート」が軍艦史上極めて重要な意義を持ち、弩級戦艦時代を開幕させた。この艦は建艦競争にも重大な影響をもたらした。「ドレッドノート」以前と以後で一線を画するほどの性能差は、それまで保有していた戦艦群を(建造中のものまで含めて)一挙に陳腐化させた。つまり列強各国は、「ドレッドノート」により海軍力を事実上リセットされたも同然の状態となった。特にドイツはこれを好機として弩級戦艦の建造に邁進し、急速に戦力を拡充していった。一方のイギリスもドイツ大洋艦隊への優位を再び確立するべく、連邦諸国の寄付金を募ってまで建造費を確保した。
技術の発達は戦艦の性能を急速に向上させ、程なく超弩級戦艦さらには高速戦艦が登場するようになった。当然建造費は高騰し、時に年間8隻もの戦艦・巡洋戦艦を起工するという凄まじい建艦競争は、英独双方に過大な財政負担を与えつつあった。この状況は両国にとって望ましいものではなく、軍縮を目指した政治的な働きかけも行われた。しかし対独二倍を目標とするイギリスと、十五割以上の優勢は不可とするドイツの主張は結局相容れず、両国の対立は深刻さを増していった。
引用 ウィキペディア
フィッシャー提督はドレッドノートの生みの親として、世界の海軍史に名を残しますが、他には駆逐艦を作り出した人でもあります。
19世紀末、自力で航行できる機雷として魚雷が発明されました。魚雷は艦船に対して命中すれば大型艦に大打撃を与え、当たり所や命中数によっては沈没させることが出来ます。
イギリス海軍に対抗するため、フランスやドイツの海軍は魚雷を搭載した高速の小型鑑艇「水雷艇」運用し始めました。
建造費の高い戦艦や巡洋艦が、安価で作れる水雷艇に撃沈されるのは割に合いません。
当時、艦船や設備供給の責任者である第三海軍卿になっていたフィッシャー提督は、ポーツマスの造船所を監督して水雷艇を排除するため、新種の軍艦「水雷艇駆逐艦」を開発しました。
始めは水雷艇から戦艦や巡洋艦を守るだけでしたが、高速で波の荒い外洋にも使えるため、自ら魚雷を搭載して大型水雷艇として使われるようになりました。
現在では「駆逐艦」と名前を変え、魚雷艇だけではなく大型の艦艇、潜水艦、航空機などを駆逐する役割を与えられて、世界中に広く使われています。
更に彼は、「潜水艦」をイギリス海軍に導入しました。
このようにしてイギリス海軍の近代化に大きく貢献し、ネルソン提督に次ぐ名声を得ています。
このままでいけば名提督となるところでしたが、かれは「英国面」に落ちた迷提督としても名を残しています。
英国面とは英国人特有の変態的表現技法の一つとも呼ばれる。
着眼点及び思想的に正しいアプローチを行っているものの、技術的ハードル等の対処方法などに諸外国の技術者とは一風異なる対応をすることから、出来上がりが「どうしてこうなった」と首を傾げられるシロモノが出来上がる。引用 ニコニコ大百科
その代表格が「速度は最大の防御」という彼の持論を実現するため、ド級戦艦と同じ主砲を搭載し、高速を得るために装甲を薄くした「巡洋戦艦(名前からしておかしい)」という艦種です。イギリスがこの艦艇を配備したことにより、ほかの国でも真似をして作り始めました。
特徴と誕生
各国の巡洋戦艦は下記の共通的特徴を持つ。
- 主砲は同時またはそれに近い計画の戦艦と同一型
- 戦艦よりも数ノット優速
- 戦艦よりも軽装甲
巡洋戦艦はイギリス海軍のジョン・アーバスノット・フィッシャー大将によって創造された艦種である。それは単に装甲巡洋艦の任務を継承するだけでなく、同大将が実現した戦艦ドレッドノートの艦隊に随伴するのにふさわしい偵察兵力として生まれた。
フィッシャー大将の考えた巡洋戦艦の任務は以下の5つで、同等の巡洋戦艦とも戦わない前提だった。
- 主力艦隊のための純粋な偵察
- 軽艦艇を主体とした敵警戒網を突破しての強行偵察
- 敵戦艦の射程外においての敵弱小・中規模艦狩り
- 遁走・退却する敵の追跡・撃破
- シーレーン防衛
引用 ウィキペディア
イギリス海軍の巡洋戦艦のデビュー戦は、第1次世界大戦で中国の青島を母港とする五隻のドイツ東洋艦隊が、太平洋を横断してドイツに帰港する途中、南米のホーン岬を回ったところのフォークランド沖でイギリスから駆け付けた2隻の巡洋戦艦(インヴィンシブルとインフレキシブル)を中心とする艦隊に発見され、沈没させるられたことです。
ただこの時発見してから、沈没させるまで5時間かかり、砲弾の命中率が問題となりました。
ユトランド沖海戦
海上封鎖
第1次世界大戦が始まる直前、イギリス海軍はドイツ海軍との衝突を予想して全艦隊をイギリス本国に呼び寄せていました。アイキャッチ画像の写真(出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons))は1914年7月18日スピンヘッドで行われた観艦式の様子を描いた絵ハガキです。この時232隻の艦艇が集結し、隊列の長さは64キロに及びました。この艦隊は7月28日に解散する予定でした。
しかし、解散予定の7月28日第1次世界大戦が勃発したため、当時海軍大臣であったチャーチルは艦隊をイギリス北部のスカパ・フローに移動させました。
フィッシャー第1海軍卿は、本国艦隊を編成しなおしてジェリコー大将が率いる「大艦隊(旗艦 超ド級戦艦アイアン・デューク)」とビーティ中将率いる「巡洋戦艦部隊(旗艦 巡洋戦艦 ライオン)」の2つの艦隊に分けました。
大戦初期、この2つの艦隊はイギリス北部とノルウェーの間を北海に蓋をする感じで封鎖し、また別部隊が英仏海峡を塞いで中立国の船がドイツに物資を運ぶことを防ぎました。
これに対してドイツも潜水艦による無制限潜水艦作戦を展開して、通商破壊活動を実施していましたが、1915年5月7日ルシタニア号事件が起きたため、アメリカの参戦を恐れて活動を縮小してしまいます。
ルシタニア号事件の詳しい説明は、こちらをご覧ください ↓
第1次世界大戦からの動き
北海での海戦に先立ち、イギリス海軍は有力な情報源を手に入れていました。1914年8月26日ドイツの軽巡洋艦「マグデブルク」がバルト海のエストニア沿岸で座礁し、ロシア海軍に拿捕されました。この時ロシアが手に入れた暗号解読書がイギリスに渡され、イギリスはドイツ海軍の暗号無線の内容を、解読できるようになっていたのです。
1914年8月28日、ヘルゴラント海戦
エルベ川河口と沖合のヘルゴラント島とに挟まれた海域は、ドイツ海軍の重要な処点となっています。
ここにイギリス海軍は、巡洋戦艦5隻、巡洋艦8隻、駆逐艦33隻、潜水艦3隻からなる艦隊を派遣します。
最初に潜水艦と駆逐艦とで、島の周辺をパトロールしているドイツ駆逐艦隊をおびき出しました。しかし、ドイツの軽巡洋艦の登場でイギリスの駆逐艦はピンチに陥ります。
この混戦に決着をつけたのはビーティ提督が率いる巡洋戦艦で、強力な火力でドイツの軽巡洋艦を次々と沈めました。
この海戦でイギリスの喪失艦はゼロに対して、ドイツは巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を失いました。
この結果に怒った皇帝は艦隊司令部の権限を縮小し、皇帝の裁可を得てから艦隊を運用するよう命令を出します。
これを機にドイツは本格的な潜水艦の運用を始めました。
結果はすぐ現れ、ドイツ潜水艦U9はオランダ沖で哨戒中のイギリスの旧式装甲巡洋艦アブーキア、ホーグ、クレッシーを発見して、1時間以内で3隻とも沈め仇を取りました。
またイギリスの新型弩級戦艦オーディシャスが10月27日敷設された機雷に触れて沈没しました。
このことは大型艦艇に対して、魚雷や機雷の有効性を示す良い機会となりました。
ドッガ―・バンクの海戦
ドッガー・バンクは北海の中央やや南にある広大な浅瀬のことで、よい漁場になっています。
1915年2月10日、この場所でイギリス海軍とドイツ海軍の海戦が行われました。
先のヘルゴランド海戦以来イギリス海軍は、北海の封鎖を一層強化しました。この状態を打開するためドイツ海軍は足の速い大型巡洋艦でイングランドの沿岸を攻撃して、退路を断とうと出てきたイギリス海軍をドッガー・バンクに誘い込み、ドイツの大洋艦隊とで挟み撃ちにする作戦を立てました。
1914年11月3日イングランド南部のヤーマスに向かいます。上の図の白線の部分。7時40分ヤーマスを砲撃し、随伴していた駆逐艦が機雷を敷設して帰りました。
しかし、狙っていたイギリスの巡洋戦艦艦隊がロサイス港を出港したのは2時間以上経過した9時55分でした。このためドイツ艦隊は無事帰港することが出来ました。
なぜ出航が遅れたかというと、1つはそれまで中立国だったトルコがドイツから購入したた大型巡洋艦ゲーベンを使って10月29日、黒海にあるロシアの軍港に艦砲射撃をしたことです。そのためイギリス海軍はロサイス港から2隻の巡洋戦艦、インディファティガブルとインドミタブルを地中海を通ってトルコに向かわせました。
もう1つが、1914年11月1日ドイツ東洋艦隊が南米に派遣していたイギリスの西インド艦隊を壊滅したことです。そのため巡洋戦艦のインヴィンシブルとインフレキシブルを南米に派遣します。そしてプリンセスロイヤルもカリブ海に向かいました。
このため当時のイギリス巡洋戦艦隊は、てんやわんやの状態になっていたのです。
1914年12月16日、再びイングランド本土の襲撃が開始されました。今回の目標はイングランド中部の、「ハートプール」「ウィトビー」「スカーバラ」の3都市です。上の図の緑色の部分です。
前回に比べてよりイギリス軍の本拠地に近く、ドッガー・バンクで待ち伏せして、おびき出したイギリス海軍をやっつける役目の大洋艦隊も戦艦22隻を含む総数85隻の規模でした。これによってドイツ海軍がいかに力を入れていたか、分かります。
一方イギリス艦隊は主力の巡洋戦艦10隻のうち5隻が南米と地中海に派遣されており、戦力が半減していました。
12月15日午前5時、ドイツ巡洋戦艦4隻がヴィルヘルムスハーフェンの基地から出航。午前8時に目標に到着して、上記の3都市に対して砲撃を開始します。
この砲撃で、スカーバラでは18人、ハートプールでは102人の一般市民が犠牲となりました。8時50分艦隊は砲撃を終了し、かねてよりの打ち合わせ通りイギリス艦隊を挟み撃ちにするためドッガー・バンクに向かいました。
同じ12月15午前3時、ドイツ海軍の暗号無線を解読したイギリス海軍は、上記ドイツ巡洋戦艦艦隊の退路を断つためドッガー・バンクに向かって出航しました。
12月16日午前5時ドッガーバンク東方、イギリス巡洋艦隊とドイツ大洋艦隊の前衛を務める駆逐艦および軽巡洋艦が接触。お互いに相手艦隊の編成を探ろうとしましたが、濃い霧のため全容を把握できませんでした。
午前8時、イギリスグランドフリート最前面では、ドイツ装甲巡洋艦ローンがこちらに向かってくるのを確認しました。イギリスの巡洋戦艦ニュージーランドは軽巡洋艦3隻とともに2マイル幅の横隊をつくり、本格的な偵察にかかります。
この時の戦力は、イギリス側の主力艦は10隻だったのに対して、ドイツ側は大洋艦隊のほぼ全力22隻でした。このままいけばドイツ側の勝利でしたが、そうはなりませんでした。
衝突直前、英国艦隊に「イングランド沿岸を攻撃したドイツ艦隊を迎撃せよ」との命令が入り、急旋回してイングランドに向かいました。
ドイツ大洋艦隊はそのまま直進しましたが、イギリス艦隊本体を発見できず、Uターンして戻りました。
また沿岸部を砲撃したドイツ艦隊も、濃い霧でイギリス艦隊と会わず、母港に帰投しました。
本国に帰ったイギリス艦隊は、沿岸部の住民に犠牲が出たにもかかわらず、ドイツ艦隊を取り逃がしたことで大きな非難を受けることになりました。
巡洋艦同士の戦い、ドッガー・バンク海戦
ドッガー・バンクは水深20~35メートルの浅瀬であるため、多くの機雷が設置されていました。そのため曳き網(トロール)漁を行う漁船を徴発して機雷の除去を行っていました。設置された機雷を文字通り一網打尽にして、安全なところに持っていくわけです。
当然これは戦闘行為になるわけですから、自衛のために武装しています。この武装した船を武装トローラーと言います。
以前、安倍総理大臣がホルムズ海峡での機雷除去について述べていまして、これは戦闘行為ではないとしていますが、世界の常識では戦闘行為になります。
出典 You Tube
1915年1月23日深夜、ドイツ巡洋艦隊はこの英国側の武装トローラーの排除を狙い出航しました。この時のドイツ艦隊は、旗艦に巡洋戦艦『ザイドリッツ』とし、同じく巡洋戦艦『モルトケ』『デアフリンガー』、装甲巡洋艦『ブリュッヒェル』の4隻で指揮官は、ヒッパー少将でした。
イギリス側も23日午前には、ドイツ側暗号無線の解読でドイツ艦隊の動きを知り、イギリス艦隊もロサイスから出航しました。
この時のイギリス艦隊はビューティ中将が指揮する第1巡洋戦艦隊が主力で旗艦『ライオン』と『タイガー』『プリンセス・ロイアル』に追従する第2巡洋戦艦隊の『ニュー・ジーランド』『インドミタブル』が加わります。
午前7時15分、 ドイツ軍前衛の小型巡洋艦コールベルクが西方海上にイギリス軽巡洋艦オーロラを発見して交戦状態に入ります。更にオーロラ工法にイギリス巡洋艦5隻が接近との知らせが入り、ドイツ海軍ヒッバー少将は戦域から離脱すべく反転し、南に向かって航行しました。
この時のドイツ艦隊の最高速度は
ザイドリッツ 26.5ノット
モルトケ 28.0ノット
デアフリンガー 27.0ノット
ブリュッヒャー 25.4ノット
で、一番船足の遅いブリュッヒャーに合わせて25.0ノットで航行します。
イギリス側は
第1巡洋戦艦戦隊
ライオン 27.5ノット
タイガー 28.0ノット
プリンセス・ロイヤル 27.5ノット
の3隻が全速で追いかけ、第2巡洋戦艦戦隊の
ニュージーランド 25.8ノット
インドミタブル 25.5ノット
の2隻が遅れて続きます。
速度に勝っていたイギリス艦隊は艦隊とドイツ艦隊に追いつき、東南東に向かって同航戦となります。
同航戦
双方の艦隊が、お互いに同じ方向に進みながら、撃ち合います。
歩調が合うと、相対速度が 0 になりますので、砲撃戦が長く続きます。
双方、ガチンコでダメージが大きくなりますね。そんなに敵味方で仲良く歩調を保てるのでしょうか?
似たスペックの艦同士だと、砲雷撃戦に最適な距離があるので、自ずとそこに調整されたりします。意外と。
自艦隊のほうが足が速い場合は、そのまま先に進んで相手艦隊の頭を抑えたりすることもできますね。
艦隊速度は重要です。味方艦隊の被害が拡大し、配色気配が濃厚になったら、距離を取って逃げて下さい。
反航戦
双方の艦隊が、お互いにすれ違いながら撃ち合います。
撃ちあう時間は短いので、双方ダメージは少なめです。すれ違った後は、そのまま進むも良し、反転して相手艦隊に再度砲撃戦を挑むも良しです。
引用 猫でもわかる艦これ
子前9時5分ごろイギリス艦隊に攻撃命令が下され、ライオンとタイガーがドイツ艦隊の旗艦ザイドリッツに対して砲撃を開始しました。
ドイツ側は先頭の3隻ザイドリッツ、モルトケ、デアフリンガーがライオンに対して一斉砲撃を始めました。
午前9時43分、イギリス旗艦ライオンの放った砲弾が、ドイツ旗艦ザルトリッツ後部砲塔付近に着弾。砲弾は甲板を貫き砲弾の連鎖爆発を起こし、この爆発は隣の砲塔内部に引火して、後部2つの砲塔から大きな火柱が上がり主砲塔2基が失われ、乗員159名が死亡しました。しかし機関は無事で速力は維持しています。
午前10時18分今度はドイツ巡洋戦艦デアフリンガーの放った砲弾2発がイギリス艦隊の旗艦ライオンに命中。1発はエンジンに損傷を与えました。30分後には左舷側のエンジンを停止して、11時さらに命中弾を受け浸水を招き、これによって残った発電機が停止してライオンはすべての電力を失い、戦線から離脱します。
午前10時37分、ドイツ艦隊最後尾のブリュッヒャーにイギリス艦プリンセス・ロイヤルの砲弾2発が命中。1発はブリュッヒャーの弾薬運搬通路に達して、置いてあった装薬(砲弾を発射するための火薬)に引火し、各砲塔は火災を起こします。
もう1発は機関部に入り、操舵装置は故障、ボイラーの蒸気管も損傷を受け速度が低下し、命中弾を次々と受け始めます。
午前11時直前、イギリス艦ライオンは船首の方向に潜望鏡が見えたような気がしたので、潜水艦の攻撃を避けるため「北東に進路をとれ」との旗旒信号(きりゅうしんごう)を出します。この時ライオンは電力を失っており、無線通信が使えなくなっていたため、信号旗による通信に頼っていました。
続いて、イギリスのビューティ中将は「敵艦隊後部を攻撃せよ」との信号旗を出しますが、ここで通信士が大きなミスを犯してしまいました。
前に出した「北東に進路をとれ」との信号旗を下ろし忘れていたのです。このためこの信号を見たイギリス艦隊は「北東に進路を取り、敵艦隊後部の船(ブリュッヒャー)を攻撃せよ」と解釈して、ブリュッシャーを集中攻撃してしまいました。12時10分ブリュッシャーは撃沈されますが、この間に残った3隻のドイツ艦隊は、イギリス艦隊の射程外に離脱するが出来ました。
転覆し沈没するブリュッヒャー
出典 ウィキペディア
ドッガー・バンク海戦その後
ドイツ海軍は海戦後、ザルトリッツとブリュッヒャーが被弾し、ともに甲板を貫き弾薬庫や弾薬運搬通路で火災を起こし被害を大きくしたことを重く見て、甲板や砲塔上部の装甲を厚くしました。更に弾薬庫の隔壁も厚くし、誘爆を防ぐため炸薬を出し入れするとき以外は常に閉めておくよう徹底しました。
また高速の巡洋戦艦と旧型の装甲巡洋艦を同じ艦隊で運用したため、艦隊全体の速度が遅い装甲巡洋艦に合わせなければならず、機動力が失われたことも問題となり、これ以後同じ速度の艦同士で艦隊を結成するようにしました。
一方イギリスでは被弾して大きな損害を受けたのがライオン1隻だったため、装甲の薄さは問題になりませんでした。
このことが次のユトランド沖海戦で、大きな被害を出すことになります。
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