スペイン風邪は戦場の兵士だけではなく、一般の人々にも広がりました。ここではアメリカ国内の状況と、最新の科学が明らかにしたスペイン風邪による症状悪化の仕組みを書いて見ます。
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亀仙人2スペイン風邪の被害(アメリカ)
1918年1月、カンザス州ハスケル郡で発生した病気がスペイン風邪の始まりとされています。この病気は近くのアメリカ陸軍ファンストン基地の兵士達に移り、1918年3月18日には522名の感染者が出ました。その後も軍の移動につれ、アメリカ各地の訓練基地にも広がりました。
この時は「三日熱」ともいわれ、感染力は強かったものの、致死性の強い病気ではなく、1918年の夏までには収まっていました。
前年の1917年4月、アメリカがドイツに宣戦布告を行い、第1次世界大戦に参戦しました。そのため1918年3月から毎月5万~20万人の兵士が訓練を終えヨーロッパに派遣されます。
ヨーロッパに派遣された兵士たちは、新たなインフルエンザに感染し始めました。
人口100万人当たりの死亡者数。黒線が1911年から1918年の平均値。赤線が1918年の値。
出典 bmcinfectdis.biomedcentral.com
新たなインフルエンザウィルスは、今までの感染症と違い15才から44才までの死亡率が異常に高くなっています。さらに発症から死亡までの時間が半日から2日ぐらいと極端に短いのも特徴です。
サイトカインストーム
現在最新の研究によると、スペイン風邪で一番免疫力のある若者が被害を受けた原因として、サイトカインストーム(免疫の暴走)が起こったのではないかと、みられています。
次にサイトカインストームと、スペイン風邪の元となったコロナウィルス、それを防ぐための生物に備わっている免疫システムを書いて見ます。
コロナウィルス
コロナウィルスの『コロナ』とはラテン語で『王冠』を意味します。ウィルスの周りに王冠の様なトゲ(スパイク)が付いているのが特徴です。
現在では、1918年に起こった『スペイン風邪』も、コロナウィルスで感染したインフルエンザであることが分かっています。
コロナウィルスと王冠
出典 forbesjapan.com
コロナウイルスの基本構造は「カプシド」というたんぱく質の殻の中に、遺伝子情報ゲノムを持つDNA またはRNAが取り込まれたヌクレカプシドで出来ています。
コロナウィルスは、このヌクレカプシドをエンベロープという膜が覆い、その膜にスパイクというトゲが刺さった形をしています。
ウィルスにはエンベロープを持たないウィルスと、持つウィルスがある。
このエンベロープの大部分は脂質で出来ているため、アルコールやせっけんで破壊することが出来ます。
ウィルスの持っているのは遺伝子情報(ゲノム)だけなので、単独では増殖することが出来ません。子孫ウィルスを残すには、宿主となる細胞に侵入(感染)して、細胞の力を借りて増殖します。
ウィルスは自分だけで増えることも、代謝することもできないため、生物とは見なされていません。
ところがウィルスが侵入する宿主となる細胞には、レセプター(受容体)があって、異物が簡単に侵入できないようになっています。
コロナウィルスが細胞に入る仕組み
出典 加藤医院 医師ブログ
ところがコロナウィルスのトゲ(スパイク)が受容体と一致すると、細胞の中に入ることが出来ます。コロナウィルスのスパイクが『鍵』、細胞膜にある受容体が『鍵穴』の役割を果たし、『鍵』と『鍵穴』が一致すると細胞の中に入ることが出来ます。
ウィルスが細胞内で増殖する仕組み
出典 城西国際大学
ウイルスは宿主となる細胞に侵入する時、エンベロープ(膜)とカプシドか溶けて、ウィルスのRNAだけがむき出しの状態で細胞内に残ります。感染されてしまった細胞は、このRNAを自分のRNAだと思いこんで、ウィルスのゲノムをもとにして、ウィルスを構成するRNAや各種のタンパク質を作り出してしまいます。
それを再び組み立てて、細胞内で新たなウィルスが増えていきます。細胞内で増えたウィルスは、宿主となった細胞を破壊して外に出て行き、新たな細胞に感染して次々と増殖してしまいます。
ウィルスのぞ移植を防ぐために、ヒトをはじめ生物には免疫系というものがあり、その中心となるのが白血球です。
白血球
白血球は、血液に含まれる細胞成分の1つです。
外部から体内に細菌や異物が侵入すると、それらを自分の中に取り込み、殺菌したり処理する働きがあります。
形態的に分類すると、好中球、リンパ球、単球、好酸球、好塩基球の5種類があります。
それぞれ外敵から身体を守るのにとても大切です。
白血球の種類と役割好中球外から侵入してきた細菌や真菌を酵素や活性酸素により消化、殺菌
リンパ球細菌や異物を判断し、攻撃する
単球外から侵入した異物を食べる
好酸球細菌を殺す。アレルギーに関わる
好塩基球寄生虫などの大きな対象に対して傷害性もつ。アレルギーに関わる
引用 藤本メディカルシステム
好中球の役割
他の細胞もそれぞれ食作用(貪食(どんしょく)作用)があり、活動が大きい順に並べると、好中球、単球、好酸球、リンパ球、好塩基球の順になります。このうち、単球はとりわけ大きなものを飲み込むので血管から出るとマクロファージ(大食細胞)と呼ばれます。
自然免疫
コロナウィルスに感染した細胞は、警報物質(インターフェロン)を放出して、免疫細胞(好中球などの食細胞)に知らせます。知らせを受けた食細胞は、血管から出て感染した細胞に近づき、ウィルスなどの異物を食べてしまいます。これを自然免疫と言います。ウィルスに感染しても無症状の人は、この自然免疫が大きいと言われています。
ところがウィルスによっては、この警報物質の放出を抑える働きを持っているものがあります。そうすると食細胞を呼び寄せる力が弱くなり、症状が悪化してしまいます。
更に食細胞は、細胞の外にいるウィルスは退治できますが、細胞内に侵入してしまったウィルスは処理できません。
そこで、いよいよリンパ球の出番になります。
リンパ球
リンパ球には、T細胞、B細胞、ナチュラルキラー細胞の3種類の細胞があります。
B細胞は、次に述べる抗体を作りだす働きをします。
ナチュラルキラー(NK)細胞は1975年に発見された新しい細胞で、単独で体内をパトロールしており、がん細胞やウィルスに感染した正常でない細胞を見つけると、処理してしまいます。
T細胞には、ヘルパーT細胞、サプレッサーT細胞、マクロファージがあり、ヘルパーT細胞は免疫に関する細胞の増殖を助け、サプレッサーT細胞は反対に抑える役目を持っています。
キラーT細胞は、食細胞からウィルスの断片を受け取ると、感染した細胞に取り付き、細胞に毒物を注入して、細胞ごとウィルスを破壊してしまいます。こうして細胞に取り込まれたウィルスも、死んでしまいます。
免疫力の強い人は、この働きによって、無症状か軽い症状で済んでしまいます。
ところがウィルスが増えすぎると、これでは間に合わなくなります。そこで登場するのが、抗体を作るB細胞です。
抗体
B細胞は、ウィルス(抗原)をとれ入れたマクロファージ(食細胞)やキラーT細胞から情報を受け取り、抗体と呼ぶたんぱく質を作り出します。
抗体はY の字の形をしており、上の部分でウィルスのトゲ(スパイク)に結合して、正常な細胞の受容体と合体することが出来なくさせます。ウィルスの持つ鍵に鍵穴をかぶせるようなものです。
また抗体には正常な細胞と結合するのを防ぐだけではなく、ウィルスの膜を溶かし、殺す働きもあります。
抗体のY の字の下の部分は、ウィルスを攻撃する食細胞などを呼び寄せる、働きをします。
免疫には2つの種類があり、B細胞はマクロファージやキラーT細胞から捕食したウイルスなどの抗原の情報を受け取り、形質細胞となって抗体を作り、体を守ります。抗体が血清中に溶けて活動するため、これを液性免疫と言います。
もう一つが、細胞性免疫です。細胞性免疫は、マクロファージをはじめとする食細胞、細胞傷害性T細胞 、ナチュラルキラー細胞(NK細胞)の働きによって、体内にある異物を排除する免疫です。
体内にウィルスや細菌などの抗原が侵入したした情報が入ると、ヘルパーT細胞はサイトカインと呼ばれるたんぱく質を放出して、抗原を攻撃する細胞を増殖、活性化させます。
反対にサプレッサーT細胞は免疫系の働きを終わらせたり、弱めたりします。
[引用] 『解剖生理をおもしろく学ぶ 』 (編著)増田敦子/2015年1月刊行/ サイオ出版
サイトカインストーム
普通サイトカインが放出されると、悪寒、悪心、倦怠感、頭痛、発熱、頻脈、血圧変動等の種々の症状が起こります。ところが、何かのきっかけでサイトカインが大量に放出されると、上記の症状の他に血栓があちこちに起こり、肺水腫や多臓器不全になり死亡してしまいます。
このサイトカインの過剰放出によって重症化した状態を、サイトカインストーム(サイトカインの嵐、サイトカイン放出症候群)と言います。1918年のスペイン風邪で、免疫力の強い若者が多数死亡したのは、このサイトカインストームが起こった為とみられています。
近年の研究で、サイトカインストームで大きな役割を果たしていたのが、食細胞のマクロファージとみられています。
マクロファージ
マクロファージは大きな食細胞で、普段は組織内の死んだ細胞を捕食して細胞内で消化しています。
大腸菌と赤血球と比べた、マクロファージの大きさ
コロナウィルスは大腸菌の1000分の1の大きさ
組織内に入った病原体などの異物も、同じように消化していまいます。
a.貪食された異物(病原体や死んだ細胞)が食胞(ファゴソーム)に取り込まれる
b.食胞はリソソームと融合しファゴリソソームを形成、異物は酵素により破壊される
c.残渣は細胞外に排出される(あるいは消化される)
ところがサイトカインが大量に放出されると、マクロファージも大量に増殖して、それぞれが異物(ウィルスや細菌)が異常に増えたと勘違いをし、自爆攻撃を行います。
マクロファージは1個づつ処理しきれなくなると、自分のDNAを体外に放出して死んでしまいます。DNAは粘り気があるため、標的になる細菌などを、一網打尽に絡めとることが出来ます。
自爆したマクロファージ。糸状のものがマクロファージから放出されたDNA。
出典 ワンコLOVE/セカンド
ところがこのDNAは標的となる異物だけではなく、血液成分の赤血球なども取り込んでしまいます。大きな細胞である、マクロファージや赤血球などの死骸が毛細血管などで詰まり、血栓を起こしてしまいます。
これが患者の肺で起こると、肺炎や肺水腫が起こり、チアノーゼ(血中酸素濃度が低下して起こし、顔や手足の指が紫になる症状)となり、早い人で数時間、遅い人でも数日のうちに呼吸困難となり死亡していまいます。
スペイン風邪が流行った当時は適切や治療法がなく、医師はただ死亡するのを見守るだけでした。
アメリカでの感染
ヨーロッパで変異を遂げたウィルスは、再びアメリカに戻りました。
1918年8月12日、ノルウェーの客船ベルゲンズ・フィヨルド号がニューヨーク港に入港しました。この船は航海中に100人の乗客が感染しており、4人の死者が出ていました。死者はすでに海に葬られており、感染した人たちは、検疫も受けずにそのまま上陸しました。この後乗客の一人オルセン夫人が亡くなりました。アメリカ国内での、新しいインフルエンザの拡散の始まりです。
アメリカでの本格的な感染は、前のベージに書いたボストンから始まりました。
スペイン風邪最初の感染地、ボストン
1918年8月27日、ボストンのコモンウェルス・ピアに停泊していた 海軍の新兵収容艦(英: receiving ship)で、3人の感染者が報告されました。翌日には患者は8人となり、29日には58人となりました。
サウスボストンにあるコモンウェルスピアの大桟橋。
市内で最初のインフルエンザの症例は、ここに駐留する船員の中に現れました。
新兵収容艦(英: receiving ship)の例。海軍の新兵が、乗組員として艦に配属するまで収容しておくための艦艇。
写真はUSSバーモントハルク(もとは帆船)
出典 ウィキペディア コモンズ
この病気は近くの海軍施設と造船所に広がり、9月中旬にはこの地域に駐留していた21000人のうち約2000人が感染しました。
この新しいインフルエンザの治療に当たった医師たちにとって衝撃的な出来事は、死亡した患者の肺が泡状の血液で満たされていたことでした。このため患者たちは十分な呼吸が出来ず、血中酸素濃度の不足により顔や手足の指が紫色になるチアノーゼを起こし、窒息して死んでいきます。
この病気は、ボストン郊外にある陸軍のキャンプでペンズでも発生しました。45000人収容のキャンプのうち3分の1に当たる15000人が感染して、9月末までには757人の死者が出ました。
キャンプデペンズでマスクを作る、
ボストン赤十字のボランティア達。
出典 CDC
9月3日、ボストン市内で3人の民間人が死亡しました。
それにもかかわらず、市当局は「自由のための戦いに勝つ(Win The War for Freedom)」ためのパレートを行い、これにはコモンウェルスピアの船員1000人と民間海軍と造船所の労働者200人を含む4000人が参加しました。
その後9月15日には、334人の患者が出ました。
9月26日ボストン市当局は、学校を始め劇場、映画館ねコンサートホールなど人が集まる場所の閉鎖を命じました。
しかし、10月中旬までに3500人もの人がインフルエンザ又は肺炎に罹り亡くなりました。
結局1918年の秋だけで、4794人の住民の死亡が発生しました。
フィラデルフィアとセントルイス
フィラデルフィアはペンシルベニア州にあり、アメリカで3番目に大きな都市で人口は約170万人でした。そして、スペイン風邪で最も大きな打撃を受けた都市の1つでした。
フィラデルフィアには45000人の船員のいる海軍工廠(造船所)で、9月11日19人の船員と海兵が病気になりました。
9月15日には患者は600人に増え、17日には5人の医師と14人の看護婦も感染してしまいます。
フィラデルフィアの海軍工廠でスペイン風邪が流行っていると注意する看板。
ここだけで1500人が感染し、30人が死亡したと書いてある。
出典 REDFLAG
感染は、海軍工廠だけではなく一般市民にも広がり、9月18日市の保健局はインフルエンザ流行の警告を出し、患者が発生した場合報告するよう求めました。
19日には2人の船員が死亡し、20日には15人の船員と1人の市民が死亡します。
この様な中、アメリカ政府は戦費調達のため、9月28日4回目となるし自由国債(Liberty bond)の発行を決め、各州に販売のためのキャンペーンを行うよう求めました。
9月28日、フィラデルフィアでは自由国債(Liberty bond)販売のための大規模な軍事パレードが実施され、20万人の観衆が集まりました。
1918年9月28日、自由国債( Liberty bond)販売のため、フィラデルフィアで行われた軍事パレード(白黒写真に着色したもの)。
出典 nefdailynews
パレード終了の1週間後には、4541人の患者が発生し、感染発生後の6週間で47000人が感染して12000人以上の死者が出ました。
スペイン風邪が収まるまでにフィラデルフィア市内で、約50万人を超える症例が報告され、約16000人の死亡者が発生しました。
フィラデルフィアとセントルイスの人口10万人当たりの死亡率
9月28日から、急激に増えているのが分かります。
黒線:フィラデルフィア、点線:セントルイス
出典 AMP
1918年のセントルイスは、人口687000人でアメリカで4番目に大きな都市でした。また、市の郊外にはヨーロッパの1826年に設立された、アメリカ最も古い軍事基地ジェファーソンバラックスがあります。第1次世界大戦中この基地は,、ヨーロッパに向かう兵士のための訓練および徴募基地として、延べ20万人の兵士が通過していきました。
セントルイスでの最初の感染は、10月1日軍事基地ジェファーソンバラックスで、最初の症状が確認されました。
1週間後に患者は800人に増えます。兵舎の主任外科医であるCEフリーマン博士は、セントルイスの看護師と看護師の訓練生全員に緊急の要請を行いました。
当時に基地内の隊員へ外部の外出とすべての集会を禁じ、外部の人間が基地内に入ることも禁止しました。
この手早い行動により、感染は抑えられ国内の他の基地よりもはるかい少ない、2000人が感染しただけで済みました。
しかし、10月5日、市内の7人家族全員の感染が確認され、翌日にまでに50人の症例が報告されました。
状況の深刻さを認識して、当時セントルイス保険局長であったスタークロフは、市長にンフルエンザを伝染病と宣言する緊急法案を可決し、市長に公衆衛生の緊急事態を宣言する法的権限を与えることを求め、理事会で承認させました。
マックス・スタークロフ博士、1918年のインフルエンザ大流行時のセントルイス市保健局長。
出典 米国国立医学図書館
10月8日にセントルイスは都市封鎖を行い、学校、劇場、映画館など、大勢の人が集まる施設を封鎖すると同時に、20人以上の集会を行うことも禁止しました。この中には、教会での礼拝も含まれていました。
これにもかかわらず10月11日には市立病院が患者で満杯となり、10月15日には3000以上の症例が報告されるようになります。
10月24日からは、市内の繁華街やダウンタウンの小売業に対して、営業時間を午前9時30分から午後4時30分までとしました。
また、赤十字の救急車警察のパトカーで患者の輸送や、入院できない患者の訪問看護を行いました。
これには多くの人がボランティアとして働き、休校中の学校の医師や看護師だけではなく、2500人もの教師が参加しました。
10月末には患者の発生数が150を割りましたが、11月9日からは重要でない店舗、企業、工場を4日間封鎖する処置をとることにしました。
しかし、11月11日第1次世界大戦の休戦が伝わると、人々は封鎖を破って街に繰り出しました。
セントルイスで活躍した赤十字の女性自動車部隊。
毎日100人もの患者を輸送していました。
11月13日には封鎖が解除され、町は活動を再開し、子供たちも学校に通うことが出来るようになりました。
次の2週間は感染者も徐々に少なくなり、危険は去ったかに見えました。
11月27日、突然700人もの感染者が発生し、その半数が学童でした。このため町は再び封鎖されてしまいます。
12月20日、1日の感染者数が125を下回ったため、学校の封鎖と児童の外出禁止を条件に、封鎖は解除されました。
翌年の1月2日、学校の封鎖も解除され、町は普段通りの生活に戻りました。
セントルイスでのスペイン風邪の感染者は31500人であり、そのうち死亡者は1703人と、先のフィラディルフェアの10分の1であり、他の都市に比べも格段に少ない数字となりました。
サンフランシスコとスペイン風邪の第3波
サンフランシスコの保健担当官であるウィリアム.C.ハスラー博士は、アメリカ東海岸で悪性のインフルエンザが猛威を振るっていることに注目していましたが、サンフランシスコには到達しないだろうと思っていました。
1918年9月23日、シカゴの旅行から帰ったエドワードワーグナーが新しいウィルスに感染したことが明らかになり、病院に隔離されました。
しかし、サンフランシスコのジェームズ・ロルフ市長は、第一次世界大戦が続いていることで愛国心を誇示することを切望しており、市は9月28日に予定されていた第4回リバティローン(自由国債)購入促進キャンペーンのパレードを行い、感染を拡大させました。
10月9日には感染者は169人となり、さらに1週間後の10月16日には2000例の感染報告が来ました。
10月17日、ジェームズ・ロルフ市長は、健康委員会のメンバーであるハスラー、赤十字、陸軍と海軍、米国公衆衛生局、米国海運委員会、劇場、映画館、そして、他のアミューズメント場所の所有者と協議して、サンフランシスコを封鎖することを決めました。
10月18日午前1時、封鎖命令が発布され、すべての公共の娯楽施設を閉鎖し、すべて集会を禁止し、すべての公立および私立学校も閉鎖されました。
サンフランシスコにおける10万人当たりの死亡率
出典 FR24news
施設が封鎖されたため、サンフランシスコの聖マリア大聖堂前の階段で祈る人たち。
同じく野外で行われた裁判の様子
出典(上下とも) nbcnews
10月21日保健委員会は、すべての住民に対して公共の場でマスクを着用するように勧めました。
10月24日、ロルフ市長はこれを受けて、マスクを着用していないか、または不適切な着用をしている者に対して、5ドルの罰金(これは赤十字に寄付されます)又は10日間の拘留をするよう命じました。
これによりサンフランシスコは、アメリカで一般の市民にマスク着用を義務付けた最初の都市になります。
1918年、サンフランシスコのモンゴメリーストリートでマスクを求めて行列する人たち。
出典 サンフランシスコ州立大学
10月が終わるまでには、サンフランシスコ市内で2万人が感染して、1000人以上の人が亡くなりました。
11月7日、サンフランシスコの審査官は、「インフルエンザの感染は抑制された」と宣言しました。
11月11日、第1次世界大戦休戦によるパレードが行われ、3万人の市民が参加しました。
1918年11月11日、第1次世界大戦休戦を受けて、サンフランシスコのマーケットストリートで行われたパレード。
この時は、まだマスクを着けていました。
11月16日、封鎖が解除されました。ただ、マスク着用の義務はそのままです。
1918年11月16日、シビックセンターオーディトリアムのボクシングリングと観客。
大多数の観客はマスクを着けていないか、顎にぶら下げています。
出典 the Sun
封鎖解除当日に行われたボクシングの試合で、警察のカメラマンは、マスクをしていない、数人の上司、下院議員、司法官、海軍大将、市のハスラー保健担当官、さらにはロルフ市長さえも撮影しました。
この為、ロルフ市長は50ドル、そのほかの人々は5ドルの罰金を払うことになりました。
11月21日正午、マスク着用の義務が解除されます。
1918年11月21日正午、マスク解除を知らせるサイレンと共に、マスクを外して喜ぶ一家。
出典 San Francisco History Center, San Francisco Public Library
しかし、これも長続きしませんでした。
サンフランシスコの桟橋で記念写真を撮る、ヨーロッパからの帰還兵
第1次世界大戦休戦で、大勢の若者がアメリカに帰ってきました。
彼等は、再びスペイン風邪を、アメリカ全土に広めてしまいました。
出典 San Francisco Public Library.
1918年12月7日、ロルフ市長は保険担当官のハスラーから、感染が拡大しているとの報告を受け、市民に自発的にマスクを付けるように要請しました。今回は要請であり、罰則はありません。
翌年の1月10日、1日の感染者数が612人となったことから、1月17日、監督委員会は、強制的にマスク着用を義務付けるマスク条例を制定します。
しかし、マスクを着用することに抵抗する多くの人々が「アンチマスクリーグ」を組織しました。
1919年1月25日、マスク条例に反対する集会に参加を呼び掛ける新聞記事。
彼らはマスク条例を「マスクが感染拡大に有効であるという科学的な根拠がない」と、「アメリカ憲法に定められている、自由を保障することに、反する」ことを根拠に反対を表明しました。
保険担当官のハスラーは、「マスクは有効である」と主張しましたが、2月1日ロルフ市長は、マスク条例を廃止しました。
その後も、都市封鎖も行われず、結果としてサンフランシスコはアメリカでスペイン風邪の被害を受けた最悪の都市のひとつになってしまいます。
1918年から1919年にかけて、サンフランシスコの感染者は45000人になり、3000人以上の市民が死亡しました。
1918年から始まった「スペイン風邪」で、アメリカ全体で約67,5000人の人が亡くなりました。
この中には、アメリカ大統領ドナルド・トランプの祖父フレデリック・トランプも、1918年5月27日スペイン風邪にかかり、ニューヨークで亡くなっています。
おまけ・第2次世界大戦の原因となったスペイン風邪
スペイン風邪が3回目に猛威を振るい始めた、1919年1月18日連合国の首脳たちは、ドイツをはじめとする同盟国と結ぶ講和条件について話し合うために、パリに集結しました(パリ講和会議)。
パリ講和会議は、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本の「五大国」の全権で構成された10人委員会で行われることになりました。
このうちイタリアは第一次世界大戦参加の代償として、イギリス、フランス、ロシアと結んだ「ロンドン秘密条約」で約束されたオーストリアに支配されている「未回収のイタリア」と言われる地域の領土獲得を目的としていました。
日本は第一次世界大戦参加で得た、中国山東省の権益確保以外の問題には、積極的に参加しませんでした。
このためパリ講和会議は、イギリス、フランス、アメリカの三国で進められることになりました。
パリ講和会議に集まった4か国の首脳たち
写真左からデビッド・ロイド・ジョージ(イギリス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)
アメリカのウィルソン大統領は、講和会議で無賠償・無併合を主張し、国際間の紛争を話し合いで解決するための機関「国際連盟」の創設を目的としていました。
戦争をしても、相手から賠償金ももらえず、領土も増えないことになれば、誰も戦争を起こす気にならないだろう、という考えでした。
イギリスは、ロンドンが空襲を受けただけで国内は無事だったため、ウィルソンの無賠償・無併合に原則的に賛同しました。
イギリスの主張は、海上派遣を脅かすドイツ海軍の解体と、戦争にかかった費用、遺族に対する賠償金、アメリカから借りた借金の支払いに必要な費用等を、当時一流の経済学者ケインズに計算させて、賠償金200億マルクの支払いを要求しました。
これはドイツを過度に追い詰めるとドイツ人の反発を招き、新たな戦争を起こすことを恐れたためです、。
第一次世界大戦の主戦場となり、ドイツにより国内を破壊されたフランスは、ウィルソン大統領の唱えた無賠償・無併合はドイツを呼び寄せるための「疑似餌」に過ぎず、これに食らいついてきたドイツを、思う存分料理するつもりでした。
フランスの要求は、ドイツにとられたアルザス・ロレール地方の返還、及びドイツによって破壊された炭田の代わりに、ザール炭田のあるザール地方の併合、さらにドイツが直接フランスに攻め入れないようにするため、ライン川左岸の占領を要求し、支払い不能ともいえる1320億マルクの賠償金支払いを求めました。
この為、アメリカのウィルソンとフランスのクレマンソーは鋭く対立して、会議はなかなか進みませんでした。
1919年4月3日フランスのクレマンソー、イギリスのロイド・ジョージらと密室で会談をしていたウィルソンは、午後3時ごろから声がかすれ始め、午後6時ごろには咳が激しくなり呼吸をするのもやっとの状態になりました。
その日の夜半39.4度の高熱を出し歩くのもやっとの状態となりました。同行していた主治医のグレイン医師の診断で、スペイン風邪と診断されました。高熱のほか激しい腹痛と下痢を引き起こし、急性脳炎も発症しました。
4日後の4月7日、熱も収まり会議に復帰しましたが、健康状態の不安を抱えたため、前からこだわっていた国際連盟設立を急ぎ、そのほかの点には、妥協を見せるようになりました。
そこでフランスは、国際連盟設立を認め、さらにラインラント占領も15年間の期限を儲け、15年後には住民の投票によって決めることとしました。
その代わり、ウィルソンが反対していたアルザス・ロレール地方の併合と莫大な賠償金の請求を認めさせました。
イギリスも国際連盟設立に賛成する代わりに、ドイツが望んでいた海上封鎖の継続を承認させました。
その後の歴史は、ヴェルサイユ条約で課せられた巨額の賠償金により、ドイツは深刻な経済危機に陥り、国内に不満が高まりました。
そこに現れた、ドイツ国民の誇りを蘇らせ偉大なるドイツ第3帝国(第1帝国は、神聖ローマ帝国、第2帝国はドイツ統一を成し遂げた、ビスマルク時代の帝政ドイツ)設立を唱えるヒトラーに国の将来を託し、第2次世界大戦を開いてしまうのでした。