なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

1918年 「アメリカ参戦」によって世界に広まった「スペイン風邪」 その1

time 2020/08/08

1918年 「アメリカ参戦」によって世界に広まった「スペイン風邪」 その1

 アメリカ国内で発生した「スペイン風邪」は、アメリカ軍のヨーロッパ派遣により欧州から全世界に広まり、感染者は当時の全世界の人口の3分に1あたる5億人に及びました。感染して死亡した人は、第1次世界大戦の戦死者約1000万人を超える2000万~5000万人になりました。

sponsored link

亀仙人2

アメリカ参戦とスペイン風邪

1917年アメリカ陸軍の増強

1917年4月2日、ウィルソン大統領は独裁的な同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・トルコ帝国)の侵略から、自由と民主主義を守るために、第1次世界大戦への参戦を認めるよう議会に訴えました。

4月4日上院が82対6、5日には下院が372対50の圧倒的多数で参戦を決議し、4月6日ウィルソン大統領はドイツに対して宣戦布告を行いました。

ドイツに対して宣戦布告をしたアメリカですが、開戦時のアメリカ陸軍は8万人程であり、その大部分は内乱が続くメキシコとの国境で起こる小競り合いに備えていました。

そのためヨーロッパに派遣するためのアメリカ外征軍を、一から作らなくてはなりませんでした。

1917年4月24日、アメリカ政府はイギリス・フランスなど連合国側にに直接費用を貸し付けるために、19億ドルの「自由公債(Liberty Bond )」を発行しました。ここでいう「自由」とは、「自由と民主主義を守るための戦い」から来ています。この時は、ロシア革命でロシア帝国が崩壊していたため、堂々と「自由と民主主義」を唱えることが出来ました。


自由の女神を使用して債券の購入を促進する1917年のポスター
出典Wikipedia

「自由公債」は戦中に4回、戦後に1回発行され、総額210億ドルになります。また債券の売買単位を1口100ドルにすることで、大口の投資家だけでなく、一般の国民にも投資を呼びかけました。

1917年5月18日には南北戦争以来となる徴兵制が実施され、対象者480万人のうち、280万人が採用され、そのうち200万人がヨーロッパに派遣されました。

この時はまだ訓練設備が整っていなかった(兵舎だけでなく、教官までも不足していた)ため、21才から30才の人の対象者のうち、くじ引きで68万人が徴兵されました。このため、徴兵対象年齢の者全員が徴収される前に、第1次世界大戦は終了してしまいました。

1917年5月、ヨーロッパ派遣軍総司令官として、ジョン・パーシングが就任しました。

ジョン・ジョゼフ・パーシング。あだ名は「ブラック・ジャック」

出典ウィキペディア

ここでアメリカと連合国各国の間で、意見が分かれました。すぐに派遣してもらいたい連合国に対して、パーシング将軍は十分な訓練をして、一人前の兵士に育ててから派遣することを主張しました。

結局パーシングの意見が通り、1917年6月に先遣隊として、アメリカ海軍の兵士1万4千人がイギリスからフランスに到着しただけで、1918年5月まで本格的に投入はされませんでした。

1917年6月26日午前8時30分、フランスのサンナゼール港に到着した、アメリカ軍最初の輸送船テナドール号

出典 サンナゼールツーリズムアンドヘリテージエコミュージアムコレクション

アメリカからの先遣隊は、新しくアメリカ軍が加わることでドイツに対して優位に立つと思われて、イギリスとフランスで大歓迎を受けました。

バッキンガム宮殿前を行進するアメリカ兵の隊列。ロンドン、1917年

出典ウィキペディア

またアメリカの産業界は、英仏向けに軍需品を製作・輸出をしていましたが、自国の軍隊のために何も製作する準備が出来ていませんでした。

そのため、ウィルソン大統領は1917年7月28日、戦時産業局(War_Industries_Board)を立ち上げ、長官に民間の投資家バーナード・バルークを採用しました。

バーナード・バルーク(1920年)

出典ウィキペディア

戦時産業局は、企業に対し大量生産技術の導入を促進し、製品の規格標準化、生産量や資源・原料の割り当てなどすることにより、生産性を約20%も上げることが出来ました。

第1次世界大戦後バルークは、ヴェルサイユ講和会議に参加し、賠償委員会の委員長を務めました。委員会の提案に基づき、講和会議はドイツに法外な賠償金の支払いを求めることになります。

その後バルークは、30年にわたり8代の大統領に使え、ニューディール政策の実施から、第2次世界大戦のマンハッタン計画(原爆の開発、製造)等、アメリカ政府と産業界の橋渡し役を務め、今日の軍産複合体を作り上げることになります。

スペイン風邪

スペイン風邪とは

スペイン風邪( Spanish Flu )とは、第1次世界大戦終盤の1918年初頭から戦後の1920年にかけて、全世界で大勢の犠牲者を出したインフルエンザによるパンデミックのことです。

発生当時、交戦国では報道管制が行われており、中立国のスペインだけがアルフォンソ13世の重病を初めとする多数の記事が報道されたため、スペインが感染源と考えられ「スペイン風邪」との名が付きました。

発生源は

スペイン風邪の発生源としていろいろな説がありますが、主なものは次の三つです。

フランス・エタプル

イギリスのウィルス学者ジョン・オックスフォード によると、ドーバー海峡に近くイギリス軍の大規模(10万人程度)の駐屯地があったフランスの漁港エタプルが発生源としています。

ジョン・オックスフォード教授

出典 GRIP

第1次世界大戦で、フランスに派遣された約200万人のイギリス海外派遣軍(BEF)は、北フランスの港町エタプルにあるイギリス軍の軍事基地に駐留します。

第一次世界大戦でイギリス軍の大規模なキャンプがあったエタプルの位置

出典 www.kaizenww1.com に加筆

ここではイギリスから送られてくる軍事物資の集積所、広大な砂丘に作られた訓練基地、2万人以上収容できる20の総合病院、捕虜収容所等があり、常時10万人以上の人が出入りしていました。

この基地はイギリス軍軍だけではなく、スコットランド、アイルランド、そしてカナダ、オーストリア、ニュージーランド、南アフリカなどイギリス連邦の国々からの兵士も駐屯していました。

南アフリカやオーストリア、ニュージーランドの師団は、アフリカやインドシナ、中国などから出稼ぎの人夫もつれてきていました。

 

1918年5月、ドイツの空爆で破壊されたエタプルの病院とその内部。

出典 上下ともgeographical imaginations

ロンドン大学のウィルス学の権威ジョン・オックスフォード教授によると、鳥インフルエンザが人間にに感染するには仲立ちをする豚などの動物が必要ですが、駐屯地には食料のための養豚場があり、周辺の市場からは生きた鶏、アヒル、ガチョウなどが持ち込まれていました。さらに海岸の砂丘地帯には、たくさんの海鳥が生息しています。

この為、インフルエンザが人に感染する環境が整っていると、指摘しています。

エタブルにあったイギリス軍の養豚場。1918年4月26日撮影

出典 ウィキメディア・コモンズ

この駐屯地では、1916年末には風邪に類似していた新種の病気が流行していました。治療に当たった医師たちはこれを「化膿性気管支炎」と名付けました。

軍医のルイ・ロ-ランド大尉によれば、「化膿性気管支炎」にかかった20人の患者のうち13人が死亡しました。

1916年エタブルのキャンプ全体で約300名の犠牲者が出て、患者の死亡率は40%にも達した時期がありました。

症状は、高熱を発し、心拍数が上昇して血中酸素濃度の低下によるチアノーゼ(顔や手足の皮膚が濃い紫色になる症状)を起こし、窒息死します。死亡後の解剖では、肺が出血した血液で満たされ、患者は溺れ死んだ時と同じ状態になることが分かりました。この症状は、世界中に猛威を振るった、スペイン風邪の第2波と同じでした。

症状が重くなった原因の一つに、1915年4月22日のイープルの戦いから使われ始めた毒ガスが考えられます。この戦闘で5千人が毒ガスで死亡し、1万5千人がが負傷しました。この後も毒ガスは第1次世界大戦を通じて使用され、生き残った兵士たちも毒ガスで肺が損傷を受け、感染症に罹りやすくなって死亡してしまいます。

この感染症はオックスフォード教授が明らかにするまで、スペイン風邪と関係があるとは考えられていませんでした。

②中国

1993年、パスツール研究所のウイルス研究者クロード・アヌーンはスペイン風邪は中国から持たされたと主張しました。

中国では1917年11月中国北部で流行した呼吸器系の感染症に罹患した中国人たちが、出稼ぎのためフランス第一の軍港ブレストで荷役に従事しており、それがもとでヨーロッパ中に広がったとしています。

近年のコンピューター解析によって、1918年型インフルエンザウイルスの前駆体が1907年頃に中国で発生したことが判明しています。

③北米

複数の研究者によってスペイン風邪の起源と考えられているのは、アメリカのカンザス州ハスケル郡に設けられた軍のキャンプで、1918年1月に流行した病気がスペイン風邪の起源としています。

1918年初頭、アメリカで起こったスペイン風邪第1波

記録に残っているスペイン風邪の最初の発生地の一つは、カンザス州のハスケル郡とされています。1918年1月、ハスケル郡の医師ローリングマイナー博士が、

「激しい頭痛と痛み、高熱、激しい咳を伴い、時には死に至る未知の感染症が発生した」

との報告を米国公衆衛生局に送ったのが最初でした。

しかし、マイナー博士の報告書は1918年4月まで発表されず、注目を集めませんでした。

ハスケルの街

出典 YouTube

人口数千人の小さな町で起こった新しい病気は、普段でしたらその村だけの伝染で終わったでしょう。なぜなら感染数が一定の多さになると、免疫を持った人が増え新たに感染者ができなくなり、自然に消滅してしまうからです。

しかし、時代はそれを許しませんでした。

1917年4月アメリカはドイツに対して宣戦布告をしましたが、当時の陸軍では海外に派遣できるほどの兵士が居ませんでした。そこで急いで徴兵制を敷き、全米32ヵ所に2万5千人~5万5千人規模の訓練キャンプを作りました。

その中の1つに、ハスケルの住民の一部が出入りしていた、アメリカ陸軍の訓練基地キャンプ・ファンストンがありました。

キャンプ・ファンストン

出典米陸軍軍事センター

キャンプ・ファンストンは1917年夏に建設され、常時5万人以上の兵士が常駐するアメリカで2番目に大きい、陸軍の訓練施設です。

1918年3月4日キャンプ・ファンストンで最初の感染が報告され、1918年3月18日には522名の感染者が発生しました。

1918年に流行が始まった「スペイン風邪」の震源地とみられるカンザス州の陸軍基地キャンプ・ファンストンに設けられた臨時病棟。

出典 Wikipedia

その2週間後には、ジョージア州の「キャンプ・フォレスト」と「キャンプ・グリーンリーフ」でも集団感染が発生しました。

1918年の春までには、全米36の駐屯地のうち24ヵ所で感染が起こり、駐屯地に隣接する34都市でも犠牲者が出ました。

第1波の流行では死亡者が少なく、感染力は強かったものの症状は軽く,潜伏期間が3日、発熱が3日、回復が3日であったため、「3日熱」とも呼ばれていました。ただ、大勢の兵士が一斉に感染して寝込んでしまったため、軍の動員計画に狂いが生じます。

 

これと並行して、アメリカ軍のヨーロッパ遠征が始まり1918年3月には8万4千人、4月には11万8千人の兵士が輸送船で大西洋を横断し、ヨーロッパに渡りました。その後も1918年11月対戦が終了するまで、毎月20万人規模で輸送が行われていました。

 

1918年4月には、フランス北部にいたイギリス軍兵士と塹壕で対峙していたドイツ軍兵士に移り、5月になるとフランス南部のフランス兵にも感染が広がりました。

6月にはイギリスのポースマスからロシアのムルマンスクに渡った米軍によってウィルスが持ち込まれました。

ムルマンスクの位置

出典 団塊おやじの海外出張

同じ6月には、南米や南アフリカに行く船の石炭補給基地のあるフリータウン(シエラレオネの首都)から南米や南アフリカ、果てはインドを通り中国にまで広がります。


 シエラレオネの場所

出典 時事ドットコム

日本でも1918年6月には各地にある陸軍の連隊宿舎で感染が広がり、「部隊風邪」等と呼ばれていました。

1918年8月の大相撲の夏場所では、多くの力士が感染して休場者が出て、こちらは「相撲風邪」と呼ばれました。

第1波の流行は6月末から7月にかけてピークを迎え、いったん収まります。

1918年9月からの第2波

1918年9月から、一旦は収まったかとみられたスペイン風邪は、さらに致死率を高め広がり始めました。

第1波のインフルエンザは、典型的なインフルエンザの流行に似ており、高齢者や既往症を持つものに患者が多く出ました。

しかし、新たな感染症は、第1波の症状に上記のエタブルに起きた非常に強い致死率の症状が加わり、猛威をふるいました。スペイン風邪で一番死亡者が出たのがこの時期です。

 

新たに感染源とみられるのは、先のシエラレオネの首都フリータウン、ボストンの軍事基地キャンプ・デベンズ、フランスの軍事基地ブレストです。

ボストン キャンプ・デペンズ(フォートデペンス)での出来事

キャンプ・デベンズ(ポストカード)

出典 Wikipedia

1918年8月27日、ボストンの海軍施設で3人の船員が新しい感染症に罹ったとの報告がありました。翌日8人の感染が報告され、3日目には58人の報告がありました。

感染した船員はチェルシー海軍病院に収容されました。

9月8日、4万5千人が駐留している、ボストン郊外のフォートデペンスの陸軍基地で感染者が発生します。9月23日までには感染者が1万500人になり、9月末には1万4千人を超える症例が報告され、757人の死者が出ました。

フォートデベンズの医師と看護師。

出典 New England Historical Society

フォートデベンズで発生したインフルエンザは、軍隊の移動と共に経路に当たる鉄道の駅、各地の駐屯地近隣の都市から全米に広がりました。

フランス・ブレスト

ブレストは、大西洋に突き出たブルターニュ半島の西端にある港湾都市です。ここにはフランス最大の軍港があり、1918年3月から送られたアメリカ軍兵士は、ここから上陸しました。

ブレストの位置

出典 google map

 

フランス・ブレストの港

出典 National Museum of the U.S. Navy

 

1918年12月、ブレスト(フィニステーレ、フランス)にあるキャンプ病院№33

出典 AMERICAN EXPERIENCE

ヨーロッパ上陸後しばらく訓練を続けていたアメリカ軍は、1918年5月28日のカンティニーの戦いから作戦に参加し、1918年9月26日から第1次世界大戦が休戦となる11月11日まで続いた、ムーズ・アルゴンヌ攻勢に参加しました。

1918年10月と11月にピークを示す、アメリカとヨーロッパの主要都市における1000人当たりの死亡者のグラフ

出典 ウィキメディア・コモンズ

この過程で「3日風邪」と言われていたスペイン風邪は、上に述べたハスケルで起こった致死性の強い感染症と一体となり、全世界に伝わります。

120万人のアメリカ兵が参加したムーズ・アルゴンヌ攻勢は、上のグラフから分かるようにスペイン風邪の第2波が急に増えた時と一致します。

第1次世界大戦では、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本などの国々から主戦場のヨーロッパまで兵士の輸送は船によって行われていました。

これが感染を拡大させた要因の一つでもあります。

兵員輸送船、SSリヴァイアサン号 アメリカ

SSリヴァイアサン(SSは蒸気船を表す艦船接頭辞)は、元々高速客船ファーターランド(Vaterlandドイツ語で「祖国」を意味する)として、1913年4月3日、ドイツで建造され、ハンブルクとアメリカを結ぶ航路で運用されていました。

1913年4月3日、建造当時のファーターランド(後のリヴァイアサン)

出典ウィキペティア

1914年7月下旬ニューヨークに着いたとき、第1次世界大戦が勃発して祖国に帰れなくなり、ニュージャージー州ホーボケンの港に係留されたまま3年たっていました。

1917年4月6日、アメリカが第1次世界大戦に参戦したとき、客船ファーターランドはアメリカ海運委員会に押収され、船室のベットを2段ベットにするなどして、乗客定員6千8百人を倍の1万2千人にし、迷彩塗装を施し、USS リヴァイアサンと名前を変えて、アメリカとフランスのブレストを結ぶ航路で任務に就きました。

ダズル迷彩を施された、USS リヴァイアサン

出典ウィキペディア

リヴァイアサンは最大26ノット(約48㌔)の速度を出せる高速客船の特徴を生かし、ドイツのUボートが追い付けない21ノット(約38㌔)以上の速度で運行して1918年11月11日の休戦までに11万9千人以上の兵士を輸送しました。

1918年9月29日、リヴァイアサンは9千人の兵士と2千人の乗組員を乗せブレストに向けてニューヨーク港を出発しました。出港後24時間で7百人以上がスペイン風邪に感染してしまいます。10月8日、ブレストに着いたときは死者80人(上陸後に死んだ人を含めると200人)と、乗員2千人が病気になっていました。

 

スペイン風邪の感染経路

出典 Glogster

1918年11月、第1次世界大戦が終わり、ヨーロッパからアメリカに帰る兵士達

出典 CDC

防護巡洋艦 矢矧(やはぎ)日本

1914年(大正3年)年7月に第1次世界大戦が勃発すると、日本は当時、同盟を結んでいたイギリスを助けるために、8月23日、ドイツに対して宣戦布告します。これにより日本海軍は、ドイツが中国および南太平洋に持っていた租借地や植民地を占領するために艦隊を派遣することを計画、「矢矧」もその一員として投入されました。

これらドイツの拠点を占領すると、今度はイギリスから、ヨーロッパやインドとオーストラリアを結ぶ商船航路をドイツ海軍の攻撃から守ってほしいという要請が出たため、インド洋に派遣されました。

愛知県岡崎市にある軍艦「矢矧」ゆかりの神社「矢作神社」に、蒲郡港に停泊中の全乗組員が参拝した記念として、奉納された100分の1の模型

出典 癒しの御朱印巡り

1918年(大正7年)10月任務終了が告げられ乗員469名と共に、11月9日シドニーからシンガポールに回航され交代の「千歳」が到着するまでの3週間、当地に停泊していました。

艦長の山口伝一大佐は、シンガポールで流行性感冒(スペイン風邪)が流行していたことから、乗員の上陸を控えていました。

到着から約2週間後の11月21日及び22日に、陸上の病勢が衰えたと情報と、僚艦が上陸を許可したことから、艦長は4時間の半舷上陸(乗員の半分が上陸)を許可しました。

上陸後の11月24日、乗員のうち4名が発熱し、船室に隔離します。

11月30日午後4時フィリピンのマニラに向けて出港。夕食時に25名が発熱を訴え、翌12月1日数回の検査を行った結果69名の発熱を確認しました。

ところが12月4日には医官、衛生兵のほぼ総員が罹患して

「患者の診察投薬意に任せず、艦内至る所、患者転倒し、呻吟苦悩の声を聴くも如何ともする能はず惨憺たる光景を呈せり。」

との状態になり、12月5日、かろうじてマニラに入港しました。

12月9日普門副長死亡、10日に14名、11日に5名、12日8名、13日4名が死亡した。乗員469名のうち罹患した者306名、死亡者は艦内6名、病院42名の計48名に及びました。これは、発症率としては約65%、致死率は約16%にも上るものでした。

大正10年1月19日に英国墓地サンピドロ、マガチに石造高さ一丈六尺の「在馬尼剌(マニラ)軍艦矢矧病没者墓碑」が建設され、墓碑銘が刻まれ、同日納骨式が行われた。このことが矢作神社への写真額の奉納(大正9年5月27日)、分霊の艦上安置(大正9年9月7日)、1/100模型の奉納(大正10年4月)と乗組員全員の参拝につながました。

 

HMS マントヴァ イギリス

HMS マントヴァは最初は貨客船として1909年に製造され、インドと中国を結ぶ航路で運航されていました。

第1次世界大戦が始まった1914年8月イギリス海軍に移り、武装を施されHMS マントヴァとしてイギリスとアイルランドを結ぶ海域で任務に就いていました。

フランスのブレストで発生したインフルエンザは、イギリス海峡を越えてプリマスの港にも患者が出ていました。

1918年8月中旬、プリマスにあるデヴォンポート海軍基地を出発したHMS マントヴァがシエラレオネのフリータウンに到着しました。船には200人の乗員がスペイン風邪に感染していて、後に10名が死亡します。

翌日、燃料補給のため石炭船がHMS マントヴァに横付けになり、石炭を積み込みました。

十日後、フリータウンで石炭を積み込むための働いていた労務者600名のうち500名が病気になり、仕事が出来なくなりました。

航行中の武装商船マントヴァ

出典ウィキペディア

当時のシエラレオネはイギリスの植民地であり、フリータウンは南アフリカの喜望峰を回ってインド洋から東南アジアやオーストリアに行く船にとって、重要な燃料補給基地になっていました。

シエラレオネ植民地知事のリチャード・ウィルキンソンは、この病気に対して何ら有効な手を打たなかったことにより、中央アフリカ、南アフリカ、果てはインド、東南アジア、中国、オーストラリアまで感染が広がることになりました。

戦争がスペイン風邪を広めた

海上の輸送と同じように、各国に設けられた基地から前線までの移動は主に鉄道が用いられました。鉄道では客車や貨車に大勢の兵士が何時間も一緒にすごすことで、感染が広がり途中停車した駅からは、周辺の町々も病気が広がり始めました。

塹壕の中で手紙を書いている人と寝ている人

出典  https://www.bbc.co.uk/ 塹壕での生活

西部戦線では不衛生な塹壕で、何日時には何ヶ月も寝泊まりしながら戦いを続け、さらに病気が広まりました。

ルイスビル大学の進化生物学者であるPaul Ewald氏は、第2波の世界的広がりと毒性の強さは、西部戦線での塹壕戦に起因しているとみています。基本的にウイルスは、宿主が長生きすればするほど、他の人に感染する確率を上げられるため、感染が起こるにつれその毒性は弱くなっていきます。しかし、若い男性が1つの塹壕に何日も何週間も押し込められた西部戦線では「感染が容易」「インフルエンザ以外で人が死ぬ可能性がある」という理由によって、通常時のような自然選択が起こりませんでした。

「いつホストの体が利用できなくなるかわからない」というリスクによってウイルスは「宿主の体の中で急速に増加し周囲に多くを巻き散らさせる」ように変化したとのこと。そして、戦争に生き残った兵士たちは、毒性・感染力が高いウイルスと共に母国に帰りました。1918年の休戦によってアメリカ・オーストラリア・カナダ・ニュージーランドの兵士たちが復員となったことでウイルスは一気に世界中に広まったといいます。

引用 gigazine.net

この様な状態は戦争中であったため、交戦中の各国とも報道が規制され、このことが新たな感染症の脅威を抑える備えを弱めました。

ただ中立国であったスペインでは、報道の規制がなく1918年5月22日、マドリードの新聞「El Sol」に

『マドリードの守備隊の兵士の間では、まだ医師によって確定されたいない新しい感染症が発生して、砲兵連隊の中で、80人の兵士がこの病気に感染しています。』

との記事が出たのが最初でした。

1918年5月と6月の間では首都マドリードで、276人がインフルエンザによって死亡し、同じ時期に呼吸器系の病気と診断されて死亡した852人の死亡者と合わせると、1000人当たり1.31の死亡率となりました。

その後、国王アルフォンソ13世を始め800万人が罹患したと大々的に報じられたため、あたかもスペインが感染の発生地であるように思われ、「スペイン風邪」と言われるようになりました。

 

なぜ「スペイン風邪」で多くの人が死亡した理由と、アメリカ国内の状況はこちら ↓

1918年 「アメリカ参戦」によって世界に広まった「スペイン風邪」その2

 

sponsored link

亀仙人2

down

コメントする




このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください



プライバリーポリシー