なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

映画 「ワンス・ アンド ・フォーエバー」ベトナム戦争で初めて、アメリカ軍と北ベトナム正規軍が戦った争いです。

time 2025/02/04

映画 「ワンス・ アンド ・フォーエバー」ベトナム戦争で初めて、アメリカ軍と北ベトナム正規軍が戦った争いです。

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亀仙人2

映画 「ワンス・アンド・フォーエバー」

2002年    アメリカ

1965年11月14日から18日日にかけてカンボジア国境近くのチュポン山の麓にあるイア・ドラン渓谷でアメリカ軍と北ベトナム正規軍の戦いがありました。この戦いでアメリカ第7騎兵連隊第1大隊の指揮官ハル・ムーア中佐は隊員400名で、約2000名の北ベトナム正規軍と戦い陣地を守り抜きました。

アイキャチ画像の写真は、実際の戦場で撮影したハル・ムーア中佐です

 

監督
ランダル・ウォレス
脚本
ランダル・ウォレス
製作
ランダル・ウォレス
ブルース・デイヴィ
スティーヴン・マケヴィーティ
製作総指揮
ジム・レムリー
アーン・L・シュミット

配役

メル・ギブソン(ハル・ムーア中佐役 )
マデリーン・ストウ(ジュリア・ムーア役)
グレッグ・キニア( ブルース・クランドル少佐役)
サム・エリオット(バジル・プラムリー上級曹長 役)
クリス・クライン(ジャック・ジョーゲン少尉役)
ケリー・ラッセル(バーバラ・ジョーガン役)
バリー・ペッパー(ジョー・ギャロウェイ役)
ドン・ズン (グエン・ホウ・アン中佐役)

原作

かって、第1騎兵師団の指揮官ハル・ムーア中佐とUPIの従軍記者ジョセフ・L・ギャロウェイによる共著「我々はかつて兵士だった…そして若かった(1992年)」

 

あらすじと解説

1954年、フランス軍が南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に待ち伏せされて、全滅する場面から始まります。この戦いは1964年6月24日から29日にかけて行われたマンヤン峠の戦いの一部です。1964年5月ディエンビエンフーの戦いに敗れたフランス軍は、アンケに駐屯している第100機動部隊(GM100)に、中央高地で孤立している基地を捨て、プレイクまで撤退するよう命じました。

アンケー近郊で待ち伏せされたフランス軍 GM100 部隊の航空写真

出典 Wikimedia

3500名のフランス軍は撤退中、解放民族戦線(ベトコン)の待ち伏せ攻撃により、各地で分断され、少なくとも死亡500名、負傷者600名、捕虜800名という大きな被害を受けてしまいました。解放民族戦線側は兵士700名のうち死亡100名、負傷者200名でした。

映画の中で、解放民族戦線の兵士が怪我をした捕虜をどうしたらよいか、隊長に聞いている場面があります。それに対して『殺せ。殺して脅かせば、侵略をやめる』と答えた隊長が、後のイア・ドラン渓谷の戦いで北ベトナム軍の総司令官となった、グエン・ホウ・アンです。

グエン・ホウ・アンと妻の写真

出典 Wikipedia

フランス軍が撤退したアンケには、この映画に出てくる第1騎兵師団の基地キャンプ・ラドクリフがあります。

フォート・ベニング(現在はフォート・ムーア)

フォート・ベニングはジョージア州コロンバス地域にあるアメリカ陸軍駐屯地です。

この基地は1918年南北戦争の南軍ヘンリー・L・ベニング将軍の名にちなんで名付けられました。しかし、2020年5月25日にミネアポリス警察が黒人男性のジョージ・フロイドを殺害したことに続く全国的な抗議活動の結果、全米に広がる軍事基地から南軍指導者の名前を剥奪するという民主党の提案を受け、2021年アメリカ合衆国議会で命名委員会が設立されました。

命名委員会は、フォート・ベニングを、基地内に埋葬されているハル・ムーア中将と妻ジュリア・コンプトン・ムーアにちなんでフォート・ムーアに改名するように勧告しました。 2022年10月6日、ロイド・オースティン国防長官は勧告を受け入れ、2024年1月1日までに改名を行うよう指示しました。

フォート・ベニングは、2023年5月11日改名する記念式典を行い正式にフォート・ムーアに改名されました。

 

フォート・ベニングの位置

1963年2月1日、ヘリコプターによる空中機動作戦(ヘリボーン作戦)の実用化を試験するためのテスト部隊、第11空挺師団(テスト)が設けられました。1964年、ハル・ムーア中佐はフォート・ベニングに転属し、後に第11空挺師団に所属する第23歩兵連隊第2大隊を指揮官に就任しますることになりました。副官には第2次世界大戦から空挺隊員として数々の実戦に参加してきた、バジル・プラムリー上級曹長が就任します。

X-RAY の戦いの時のハル・ムーア中佐(左)、とバジル・プラムリー上級曹長(右)

出典 Mail Online

1965年7月28日ジョンソン大統領はテレビ演説で、現在の兵力7万5000人から、航空部隊を含め12万5000人の増強を発表しました。

ハル・ムーアは壮行会の時、上官から担当していた部隊の名前が第7航空騎兵連隊第1大隊に変わったと知らされました。

第7騎兵連隊と言えば、1876年6月25日リトルビッグホーンの戦いで、インディアンと戦って部隊全員が虐殺されたカスター将軍がいた部隊です。

その上冒頭の場面で出てきたとおり、第7航空騎兵連隊のベトナムの基地があるアンケは、かってフランス軍が大敗して虐殺された場所でした。北ベトナムの軍隊は第2次世界大戦の初めからフランスからの独立を目指して、戦い続けていてベテラン揃いです。

それに対してアメリカ軍はヘリコプターを使用した新しい戦法といっても、まだ実戦で使用したことがなく、参加する兵士も実戦経験のない若者が大部分を占めていました。

このため、ハル・ムーアは眠れない日々を過ごすことになります。

南ベトナムに派遣される直前の出陣式でハル・ムーアは次のように演説しました。

『全員を祖国に生還させる約束など出来ないが、

攻撃地点では、私が一番最初に戦場に降りて

一番最後に戦場を離れる。

生死に関わらず、誰も戦場に置き去りにしない。

一緒に国に帰るんだ。』

次の日の夜あけ前まだ暗いうちにハル・ムーアは、寝ている子ども達に別れを告げ、戦場へと旅立ちました。

南ベトナム キャンプ・ラドクリフ。

ハル・ムーア含む第1騎兵師団の兵員とヘリコプターは、スエズ運河を通って南ベトナムに向かいます。

映画ではアンケにある第1騎兵師団の基地、キャンプ・ラドクリフはかなり小さいですが、実際は下のように大規模な基地でした。

 

1965年、滑走路建設中のキャンプ・ラドクリフ。

右側に各種のヘリコプターが見える。映画より遙かに大規模で400機以上のヘリコプターを収容できます。

この基地で運用された、各種ヘリコプターです。

OH-13観測ヘリコプター約90機、UH-1汎用ヘリコプター約290機、CH-47輸送ヘリコプター約50機を装備し、更にCH-54輸送ヘリコプターも臨時配属されていた。この莫大な空輸能力により、師団独力で一度に4,000名以上の兵員を空輸する能力があり、歩兵だけに留まらず、騎兵(偵察)、砲兵、更に支援部隊までもをヘリボーン展開することができた。すなわち、史上初の「空中機動可能な諸兵科連合部隊」であった。

引用 Wikipedia

 

1965年、ベトナム戦争に向かう第1騎兵師団のヘリコプター200機を積んだ空母ボクサー。

空母ボクサーは1945年4月16日に就役しましたが、すぐに太平洋戦争が終わり、その後朝鮮戦争で活躍しました。しかしすぐに艦載機のジェット化が進み、その後はヘリコプター空母、強襲揚陸艦、航空機運搬船として1969年まで就役しました。

出典 Wikipedia

 

イア・ドラン渓谷の戦い(LZ  X-RAY)

1965年11月13日、12日の夜、カンボジア国境近くのチュポン山近くで北ベトナム軍と接触がありました。犠牲者は出なかったものの、攻撃後200名とみられる北ベトナム軍はチュポン山に向かって逃げていきました。

第3旅団司令官ブラウン大佐は、ハル・ムーア中佐に部隊を率いて、翌14日から15日にかけて、逃げた北ベトナム兵を探し出して殲滅する(サーチ・アンド・デストロイ作戦)よう命じました。

ハル・ムーアは何カ所かある着陸予定地のうち、LZ  X-RAYを選びました。この場所が、敵が逃げ込んだと思われるチュポン山に一番近いからです。ただ一つ気がかりな事がありました。LZ  X-RAYは乾いた川床に沿って出来た広場(大雨になると水が溜まって、池になると思われる)ですが、所々低い木が生えていて、一度に着陸できるヘリコプターは8機だと推定されていました。使用できるヘリコプターは16機で、1機に兵員5名が搭乗できます。さらにアンケの基地からLZ  X-RAYまで往復30分かかります。もし部隊全員が揃う前にLZ  X-RAYが攻撃され、ヘリコプターが着陸できなくなると、それまで到着した部隊が全滅する可能性がありました。

第1日目 (11月14日)

午前10時19分、LZ  X-RAYから8キロ離れたファルコン砲兵陣地から約30分にわたって、着陸地点に対して準備砲撃が行われました。10時48分砲撃終了を知らせる白リン弾の閃光と白煙が上がると、そばに来ていたヘリコプターが一斉に着陸して兵士を下ろしました。最初に降りたのはハル・ムーアをはじめとする指揮官グループと。、第1大隊のB 中隊でした。

B中隊の半分は着陸地点の防備に当たり、残りの部隊は周囲の偵察に行きました。

この頃チュポン山に居る北ベトナム軍の指揮官グエン・フー・アン中佐は、アメリカ軍を迎え撃つため部隊を出動させました。グエン・フー・アン中佐は11年前、アンケでフランス軍を虐殺したときの隊長でした。

 

11時15分、第2陣のA中隊と B中隊の残りが到着し、チュポン山に面した北側と西側に防御陣地を構築しました。

11時20分着陸場所の近くで隠れていた、北ベトナム軍の兵士が見つかりました。尋問するとチュポン山には北ベトナム軍の師団がおり約4000名の兵士がいるとのことでした。

12時10分、A中隊の残りの部隊が到着しました。

その直後の12時15分、北ベトナム軍の攻撃が開始されました。

LZ X-Ray でヘリコプターHU-1Dから降りる、第 7航空騎兵隊第 1 大隊の兵士達。

HU-1Dには正・副のパイロット、両側面に居る2名の機関銃手の他、5名の兵士を乗せることが出来た。

出典 Wikipedia

ハル・ムーアはB中隊のすべての偵察隊にすぐ戻るように指示しましたが、ヘリック中尉の分隊だけは、周囲を敵に囲まれて孤立していました。

13時15分、ヘリック中尉が戦死した後指揮を受け継いだサヴェジ軍曹は、砲兵支援を要請してとりあえず全滅の危機だけは避けることが出来ました。

13時30分、銃弾やロケット弾が飛び交う中、ヘリコプターがC中隊を運んできました。C中隊はチュボン山に面した南西部と、川床のある南側の防御につきました。

13時45分、ハル・ムーアは航空機と砲兵隊による支援を要請しました。

14時30分、Cの残りと、 D中隊の先遣隊が到着しました。D中隊は機関銃や迫撃砲などを装備した、重装歩兵です。しかし、このとき北ベトナム軍が着陸地点に突入したため、到着した兵士に多くの犠牲者が出てしまいました。そのため、新たな兵士の補充は中止されました。

到着したD中隊はA 中隊とC中隊の間を埋める位置に、配置されました。

 

11月14日夕方のLZ  X-RAY における、アメリカ軍の布陣

上の図で『B中隊2』とあるのは、偵察から帰ってきた部隊で構成されています。

アメリカ軍を分断させるため、A中隊と C 中隊の間隙を狙っていた北ベトナム軍は、改めてC中隊の居る南側に攻撃の主力を持ってきました。

15時20分、北ベトナム軍が配置換えをしている隙を狙って、D中隊の残りの部隊が到着して、C中隊の東側に布陣しました。このとき敵の攻撃により着陸寸前のヘリコプター1機が、破壊されました。ただ地表近くだったため、乗員に被害はありませんでした (映画ではパイロットが死亡しています)。

15時45分D中隊はLZ  X-RAYの東側に展開し、ようやくヘリコプターの着陸場所全体を囲むことが出来ました。

もし、D中隊が到着する前に北ベトナム軍が無防備な東側から攻めていたら、第7騎兵隊第1大隊は壊滅していたかも知れません。

これでハル・ムーアの指揮する第1大隊450名が、LZ  X-RAYに到着したことになりました。

隊員を届けた後も、第1騎兵師団のA中隊第229強襲ヘリコプター大隊の隊長ブルース・ペリー・クランドール少佐(通称スネーク)は僚機のエド・フリーマン大尉(トウ・トール)と共に2機でLZ  X-RAYに、弾薬や水などの補給品を運び、帰りには多くの負傷兵を乗せ戻り、大活躍しました。2人は14回も戦場を往復し、70名の負傷兵を運びました。この功績が認められ、ブルース・クランドール少佐は2007年2月26日、エド・フリーマン大尉は2001年7月16日に名誉勲章が授与されました。

 

2007年、ブルース・クランドール(スネーク)が名誉勲章を受けた時の写真。

出典 Wikipedia

名誉勲章をつけたフリーマン(トゥメトール)、2001年

出典 Wikipedia

11月14日の夕方、UPIの記者ジョセフ・L・ギャロウェイは司令部近くのテントに居ましたが、どうしても最前線で戦っている兵士達を取材したくて、補給に行くスネーク(ブルース・クランドル)のヘリコプターに乗せてもらいLZ  X-RAYに行きました。

ベトナムに居た頃のジョセフ・ギャロウェイ

出典 Killeen daily herald

17時頃、第7騎兵連隊第2大隊B中隊の先導部隊 が、包囲されている第1大隊の増援のためLZ X-Rayに到着しました。映画の中でスネークがジョセフ・ギャロウェイを運んだ後、ある隊長と「私の部下を戦場に送った」ことでもめていましたが、多分このことを指しているのだと思います。

B中隊の孤立した部隊を救う試みは、夜が更けることで中止されました。この時点で小隊29人のうち8人が死亡、13人が負傷していました。夜中から明け方にかけて3回の攻撃がありましたが、サヴェジ軍曹のもと新たな犠牲者を出すことなく朝を迎えることが出来ました。

この頃アメリカのフォート・ベニングの兵士の宿舎には、陸軍大臣から戦死を知らせる訃報の電報が届き始めました。米軍はあまりの電報の多さに配達人が不足して、タクシーの運転手に配達を依頼しました。これはタクシーの運転手にとってつらい仕事でした。見かねたハル・ムーアの妻ジュリア・ムーアは運転手から隊員の妻達宛ての電報をすべて受け取り、1軒1軒回って配達しました。

北ベトナム軍の総司令官グエン・ホウ・アンはアメリカ軍の砲撃を防ぐため、全員に敵兵のベルトのバックルを掴むぐらいまでに接近して戦うよう命じました。敵味方入り乱れての接近戦になれば、同士討ちを恐れて砲撃が出来なくなるためです。

翌朝の戦いに備えて、北ベトナム軍の兵士は敵に気づかれないよう、忍び足でアメリカ軍のそばまで移動しました。

気配を感じたアメリカ兵が試しに照明弾を射ってみると、大勢の北ベトナムの兵士が、すぐそばに居て小競り合いが起きました。そのためアメリカ兵達は一睡も出来ずに朝を迎えることになりました。

 

第2日目(11月15日)

朝6時20分、C中隊が守る川床から新たな戦闘が始まりました。C中隊は前日戦闘が始まってからLZ  X-RAYに到着しました。そのため着陸時に多くの犠牲者を出していたため、守備を固めることが不十分でした。さらに北ベトナム軍から守備が甘いとみられ、激しい攻撃を受けていました。

6時50分にはこの時のためにC中隊のそばに潜んでいた、北ベトナム軍200名の攻撃を受け白兵戦となったため、砲兵の支援を受けられず守備が破られてしまいました。

7時45分、C中隊の防御戦が崩壊し、A 中隊と B中隊も後退しました。ついに北ベトナム軍が指揮所まで、押し寄せてきました。この状況に対してバジル・プラムリー上級曹長は負傷して動けなくなった兵士や、現場を撮影していたUPIの記者ジョセフ・ギャロウェイまで銃を渡し、『接近戦に備えよ!!』と、叫びました。銃を渡されたギャロウェイは初めは戸惑っていましたが、自分や仲間の命を守るため、次々に襲いかかってくる北ベトナム兵を殺し続けました。

さらに3角形の笠を被った解放民族戦線(ベトコン)の兵士も加わり、一方的な戦いとなりました。

この時点で、北ベトナム軍の指揮官アン中佐は勝利を確信しました。

7時55分、敵味方入り乱れて戦う混乱した状況に、ハル・ムーアは本部に『ブロークン・アロー』と伝えました。『ブロークン・アロー』は近くに居る攻撃可能な航空機すべてに、航空支援を求める暗号名です。

たちまち多くの航空機が駆けつけ、爆弾やナパーム弾、機銃掃射で北ベトナム軍を攻撃し、形勢が逆転しました。

映画の中では、第1騎兵師団第7騎兵隊第1大隊だけで戦っているように見えますが、実は先にで出来た第1騎兵師団第7騎兵隊第2大隊と第1騎兵師団第5騎兵隊第2大隊も増援のため派遣されていました。

午前8時、第1騎兵師団第5騎兵隊の第2大隊がLZ X-RAYの南東3.5キロの所にあるLZ VICTORに到着して、救援のため徒歩での移動を開始しました。

11月15日のLZ X-RAYの救援

出典 Wikipedia

12時5分、第5騎兵隊第2大隊は航空支援による爆撃の混乱に乗じて、たいした抵抗も受けず、LZ X-RAYに到着しました。

午前9時10分、第1騎兵師団第2大隊の残りの部隊も、ヘリコプターでLZ  X-RAYに運ばれてきました。到着した部隊は、C中隊の増援に回りました。

午前10時、北ベトナム軍は撤退を開始しましたが、まだ散発的な銃撃戦があちこちで発生していました。

防御が強化されたことで、ハル・ムーアはネイダル大尉の部隊に、孤立した小隊の救援に向かわせました。15時30分孤立していた第 2 小隊の B 中隊は戦死者9名、負傷者13名と共に29名全員がLZ X-RAYに戻りました。

ここから先は、映画とは違っています。

16時グアムからやってきたB-52の編隊がチュポン山周辺の地域を爆撃しました。

16時30分、第1騎兵師団(空挺部隊)前線指揮官ノウルズ准将がLZ X-Rayに着陸し、翌日の第7騎兵連隊第1大隊の撤退を発表しました。

20時40分、B-52によるこの日二回目の爆撃が行われました。B-52による爆撃は20日まで続き、合計で9000トンの爆弾が下されました。

11月15日~20日、北ベトナム軍の陣地に対するB-52による爆撃。

地図に書かれた四角形の一辺は1㎞、中に書かれた数字は爆撃が行われた日付。

出典 Wikipedia

 

3日目(11月16日)

午前4時22分、C中隊に変わって守備に就いていた、第7騎兵隊第2大隊B中隊に対して、北ベトナム軍が後列な攻撃を開始しました。アメリカ空軍のC-123プロバイダー輸送機が連続して照明弾を投下して周囲を明るくしたため、アメリカ軍は正確な援助砲撃を利用して、北ベトナム軍に壊滅的な被害を与えました。

その後も午前4時40分、午前5時、午前6時30分と併せて計4回の攻撃を受けましたが、砲兵隊の援助と機関銃により北ベトナム軍を敗退させました。この攻撃でアメリカ軍は6名が軽傷を受けただけでした。反対に北ベトナム軍は数百名の死傷者を出し、戦闘を継続する力がなくなってしまいました。

午前10時30分、ハル・ムーアの指揮する第7騎兵隊第1大隊は命令を受けて、撤退を開始ました。後には第7騎兵隊第2大隊と第5騎兵隊第2大隊が、防御の任務に就きました。

映画ではハル・ムーアがLZ X-Rayから撤退する場面で終わっています。

しかし、その翌日もっと悲惨な戦いが行われました。

 

4日目(11月17日)

この日の午後LZ  X-RAYを中心とした地域に、B-52による爆撃が計画されていました。そのためLZ  X-RAYに居る第7騎兵隊第2大隊は北東に3.5キロ離れたLZ アルバニーに、第5騎兵隊第2大隊は東に3.5キロ離れたLZ コロンバスに移動することになり、午前9時に両隊はLZ  X-RAYから徒歩で出発しました。

ところが第7騎兵隊第2大隊が行くことになっていたLZ アルバニーには、北ベトナム第66連隊第8連隊が野営していました。そのため第7騎兵隊第2大隊はLZ アルバニー近くで北ベトナム軍に包囲され、隊員400名のうち155名が死亡、124名が負傷するという大きな被害を受けてしまいました。

詳しくは こちらのサイトで書いておきました ↓

ベトナム戦争 その9 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入 後編(地上戦)アメリカ海兵隊のダナン上陸 

 

この映画で北ベトナムの指揮官グエン・ホウ・アン中佐を演じた俳優ドン・ズオンはベトナムでは有名な俳優でしたが、この作品に出演したことでベトナムに居られなくなり2003年アメリカに移住しました。

この映画は原作者の一人ジョセフ・ギャロウェイが述べているとおり、「本当の戦争とは」どのようなものか知ってもらうために作られました。そのため映画の中では、敵兵と直接組み会って殺したり、生きたままナパーム弾で焼かれたり、爆弾で吹き飛ばされる場面が数多く出てきます。覚悟して見てください。

 

 

 

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