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亀仙人2YouTubeで見るマイダン革命の映画 その2 『ウクライナ・オン・ファイアー』(中編)
『ウクライナ・オン・ファイアー』の中編です。
ここではマイダン革命とその後に起きたウクライナの問題について、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ元ウクライナ大統領、ヴィタリー・ザハルチェンコ元ウクライナ内務大臣、ウラジーミル・プーチンロシア連邦大統領、ロシア側3人の視点から見た映画です。
アイキャッチ画像の人はマイダン革命の時、内務省直属の特殊部隊(ベルクト)を使い、デモ隊を弾圧した、ヴィタリー・ザハルチェンコ元ウクライナ内務大臣です。
ウクライナの極右組織(ネオナチ)とマイダン革命
「あなたが新聞を読まなければ無知のまま、あなたが新聞を読めば、誤った情報を得る」
マーク・トウェイン
映画の中でマーク・トウェインが言っているように、ここからの内容はウクライナの親ロ派と、ロシア側から見た情報を基にしていますので、かなり偏っています。
ロシアのプーチン大統領を始めロシア側の言い分としては、マイダン革命はネオナチを代表とするウクライナの極右組織が、欧米からの資金援助を受け、親ロ派のヤヌーコヴィチ大統領を追い落とすために仕組まれた、としています。
それらの事柄については、出来るだけ事実関係を調べたうえで掲載しました。反対に欧米側では報道されましたが、ロシア側では知らされていないことも書いておきました。
ウクライナの過激組織(ネオナチ)について
マイダン革命についてロシア側3人の話に共通するのは、初めは民主的な平和なデモだったのが、過激派組織によって暴徒化し、最終的には1日で100人もの死者を出す事態になってしまったことです。
特にロシア側がネオナチと呼んでいる組織が、2012年のウクライナ最高議会選挙で初めて議席を獲得した極右の”全ウクライナ連合「自由」(通称スヴォボーダ) ”です。
党首のオレーフ・チャフニボークは、1968年11月7日ウクライナ西部のリヴィウで生まれました。リヴィウと言えば、第2次世界大戦中の1941年6月30日、ウクライナの独立運動家ステバン・バンデラがウクライナの独立を宣言した場所でした。
ステバン・バンデラの活躍については、こちらに詳しく書いてあります ↓
ステバン・バンデラは、一時ソ連からウクライナを独立させるためナチス・ドイツに協力したので、ソ連側からは「ナチスの手先」と見られ、第2次世界大戦の独ソ戦では、ソ連は2700万人の犠牲者を出していたことから、ソ連崩壊前のウクライナではバンデラはソ連の敵と見なされていました。
バンデラの目標は「ウクライナ人のウクライナ独立」で、第2次世界大戦前から西ウクライナ(ガリツィア地方)を支配していたポーランド人、帝政ロシア時代からウクライナを領土としていたロシア人、独ソ戦で国内に侵入してきたドイツ人と戦う一方、以前からにウクライナ国内に住んでいるユダヤ人やロマ(ジプシー)、ポーランド人に対して殺害を続けていました。
それでも第2次世界大戦が始まる10年少し前には、ウクライナでホロドモールやスターリンの大粛清などがあり、何百万人のウクライナ人が亡くなっていたため、多くの人が彼を支持していました。
第2次世界大戦後も、バンデラはドイツ南部に潜み、ソ連に対してウクライナ独立運動を続けていました。そのため1991年ウクライナが独立した後でもリヴィウを中心としたウクライナ西部では、ロシア(当時のソ連)に対して反感を持つ人が多くいます。
彼の母方の曽祖父が第1次世界大戦終戦まじかの1918年11月1日に独立を宣言した、西ウクライナ人民共和国で内務大臣を務めていました。
中等教育を追えた後、1982年から2年間徴兵のためソビエト軍に勤務しました。兵役終了後チャフニボークはリヴィウ地域臨床病院で看護師と働き初め、1993 年に、彼はリヴィウ州立医療研究所の医学部を卒業し、外科医 の資格を収得しました。
1991年10月、彼は政治運動に参加し、極右政党のウクライナ社会民族党の党員となりました。
2015年のチャフニボーク
出典 ウィキペディア
1998年ウクライナ最高議会議員となり、2002年最高議会選挙では、ヴィクトル・ユシチェンコの支持基盤である政党「我らのウクライナ」に加わり、再選を果たします。
2004年2月14日、オレグ・チャグニボクはウクライナ社会民族党党首に選出され、党名を全ウクライナ連合「自由」(通称スヴォボーダ)に改名しました。
同じ2004年7月4日、かってバンデラが率いていた時ウクライナ蜂起軍(UPA)の司令官だった人の葬儀で
「彼は訓練し銃を胸に森に潜み、ウクライナ独立のためにソビエト、ドイツ、ポーランド、ユダヤ人と戦った。我々も彼に倣い、ウクライナのユダヤ人とロシア人を一掃し、ウクライナ人によるウクライナを作らなければならない」
と演説し、これがネットに流れ大問題となりました。
下の画像はその時ネットに流れた画像の一部です。映画からキャプチャーしました。
「ウクライナ・オン・ファイアー」よりキャプチャ―
17分30秒付近。
これがもとでユシチェンコの「我らのウクライナ」から外されてしまいましたが、ガリツィア地方を中心とする西ウクライナでは支持が急上昇しました。
2010年の大統領選挙により、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に就任しました。親ロ派にあるにもかかわらず就任早々EUの首都であるベルギーのブリュッセルを訪問して欧州連合のヘルマン・ファン・ロンパイ大統領と会談し、EU加盟の手続きを継続することを伝えました。これには隣国のポーランドを始めとする東欧各国が2004年にEUに加盟してから、経済が改善されてきたからです。
それに対してロシアは、またしてもウクライナ向けの天然ガスの値上げを通告してきました。ヤヌコーヴィチ大統領はロシアのメドベージェフ大統領と交渉を行い、2017年で借用期間の切れるクリミア半島にあるロシア黒海艦隊の基地セヴァストーポリの借用期間を25年延長する代わりに、ガス料金を30%引き下げることで合意に達しました(ハリコフ合意)。
しかし、自国の領土内に外国の軍事基地の存在を認めるこの協定は、ウクライナ共産党を除く3つの野党から非難され、ソ連寄りの姿勢を見せたヤヌコーヴィチ大統領の支持率が大きく下がりました。
2011年10月、 裁判所は、2010 年にロシアとのガス取引をめぐる権力乱用の罪でユリア・ティモシェンコ元首相(2011年当時、野党第1党の全ウクライナ連合「祖国」の総裁を務めていました)を有罪とした後、投獄しました。ザ・モスクワ・タイムズ(ロシアで発行されている英字新聞)は、この逮捕劇はヴィクトル・ヤヌコーヴィチ前大統領がティモシェンコの失脚を狙って仕組んだものであるとの観測を伝えています。
2012年に行われたウクライナ最高議会選挙では、ロシアとの対決を訴えていたオレグ・チャグニボク党首の全ウクライナ連合「自由」は大きく票を伸ばし、37議席を獲得しました。
2012年ウクライナ最高議会選挙の結果
出典ウィキペディア
マイダン革命直後の全ウクライナ連合「自由」の政権参加
2014年2月27日、ヤヌコーヴィチ大統領がロシアに逃亡した後、最高議会議長のオレクサンドル・トゥルチノフが大統領代行となり、逮捕されていたユリア・ティモシェンコ党首に変わって、全ウクライナ連合「祖国」を率いてきたアルセニー・ヤツェニュクが首相に就任して臨時政権を樹立しました。
この政権で全ウクライナ連合「自由」から下の人々が参加しました。
2014年3月に発足した、ヤツェニュク暫定政権にはオレクサンドル・シチ(副首相)、イホル・シュヴァイコ(農業大臣)、アンドリー・マフニュク(環境大臣)、イホール・テニューフ(国防大臣)がそれぞれ入閣した他、オレフ・マフニツキーが司法のトップである検事・司法総長に、そして、ウクライナ社会民族党結成者であるアンドレイ・パルビイが安全保障のトップであるウクライナ国家安全保障・国防会議議長に就任するなど、政権の中枢を担った。
引用ウィキペディア
マイダン革命を暴力でもって鎮圧しようとした挙句、プーチンの言う極右組織(ネオナチ)が参加した政権が出来てしまいました。
ユーロマイダン(マイダン革命)
マイダン革命は、2013年11月21日(木)、ウクライナのヤヌーコヴィチ大統領が、それまで進めていたEU連合協定の調印を保留し、ロシアやユーラシア経済連合との結びつきを強化する決定を下したことから始まりました。
これに対して野党の全ウクライナ連合「祖国」党首代理アルセニー・ヤツェニュクは、抗議のため独立(マイダン)広場に集まるよう訴えました。11月21日の夜から22日にかけて、2000人の人々が抗議のためマイダン広場に集まりました。ここからマイダン革命が始まりました。
映画でも出てきた、人気のジャーナリスト、ムスタファ・ナイエム氏もフェイスブックで抗議集会への参加を呼びかけました。
ムスタファ・ナイエム
ムスタファ・ナイエムは1981年6月28日、アフガニスタンのカブールで生まれました。1984年弟のマシ・ナイエムが無くなって10日後に母親が亡くなりました。当時のアフガニスタンはソ連によるアフガニスタン戦争( 1979年 12月 24日 – 1989 年 2 月 15日)の最中であり、戦前アフガニスタンで教育大臣を務めていた父親のムハンマド・ナイム は、戦争勃発と同時にソ連のために働くことを好まず、職を辞しました。
1987年ソ連軍のアフガニスタン撤退と共に、彼の父親はモスクワのソ連科学アカデミーの心理科学アカデミーに留学し、心理科学の学位をとりました。1990年ウクライナ人のヴァレンティーナ・コレチコと結婚し、1991年キエフに引っ越しました。
2013 年 11月のユーロマイダンで講演するムスタファ ナイエム
出典 Wikipedia
2004年ムスタファ・ナイエムは、キエフ工科大学の航空宇宙システム学部を卒業し、情報および測定技術のエンジニアの卒業証書を受け取りました。
その後ジャーナリストの道に進み、2009年、翌年の大統領選挙に出馬予定のヴィクトル・ヤヌコビッチとのUkrayina TVチャンネルのライブ討論で、彼の豪邸メジヒリヤ邸を買収したことについて追及しました。ヴィクトル・ヤヌコビッチが大統領選挙に勝利した2010年ナイエムは警察官によって一時的に拘留され、注目を浴びました。
2011年 9月から 2013 年 4 月下旬まで、彼はウクライナのテレビ チャンネルTViで働いていました。その後経営陣との対立により、TViの仲間15人と共に辞職し、2013年11月22日新たにインターネットTV「 Hromadske TV 」を立ち上げ、連日マイダン革命のニュースを流し続けました。
NGO法人である Hromadske TVの立ち上げには、一般の寄付の他、オランダ大使館やアメリカ大使館、アメリカの大富豪ジョージ・ソロスが創設したルネッサンス財団も資金提供しています。
共に映画「ウクライナ・オン・フファイアー」からのキャプチャー
48分20秒付近
Forbes.Ukraine 誌によると、2013年12月にHromadske TVは750万人のユーザーを集めウクライナのインターネット テレビ チャンネルの評価で 1 位になりました。
ムスタファ・ナイエムはマイダン革命後の2014年10月26日に行われたウクライナ最高議会選挙で当選し、政界入りしました。
2013年年 11月 26 日のウクライナのミコラ・アザロフ首相は、「連合協定に関する交渉プロセスは継続中であり、わが国を欧州基準に近づけるための作業は 1 日たりとも止まらないことを全権をもって断言する」との声明を出しました。
2013年 11 月29 日、ビリニュスで開催された東方パートナーシップサミットで、ウクライナが連合協定に署名していないことが明らかになり、先の首相の出した声明がウソであることが分かりました。これで、ウクライナがEUに加盟しないことが明らかになりました。
(参考)東方パートナーシップとは
EUがポーランド及びスウェーデンの提唱を受け,欧州近隣国政策(ENP)の一環として,東方6か国(グルジア,ウクライナ,アゼルバイジャン,モルドバ,アルメニア,ベラルーシ)に対する地域的協力関係を強化するための枠組として策定したもの。東方パートナーシップは,地域の安定化のために,対象国との協力関係を4つのプラットフォーム(民主主義・良い統治・安定,経済統合・EUとの政策との収斂,エネルギー安全保障,人の交流)に沿って実施される。引用 外務省
マイダン革命支持を訴える3人の野党指導者。2013年11月29日。
左からUDAR(ウクライナ民主改革連合)のビタリ・クリチコ。
真ん中が野党第1党の全ウクライナ連合「祖国」の臨時代表アルセニー・ヤツェニュク。
一番右が全ウクライナ連合「自由」党首のオレグ・チャグニボク。
出典 Wikipedia
11月29日の抗議集会の参加者は、1万人を超えました。抗議者たちはヤヌーコヴィチ大統領の辞任を要求していました。
2013年11月30日
2013年11月30日午前4時、マイダン広場を占拠している市民に対してベルクト(ウクライナ内務省に所属している特殊部隊)が警棒、スタングレネード、催涙ガスを使用して力づくで広場からの排除を開始しました。
映画のスナップショット 37分30秒付近
この衝突で取材中のロイターのカメラマンを含め79人(うち入院10人)が負傷しました。
11月30日、内務大臣のヴィタリーザハルチェンコはウクライナ市役所のポポフ課長から、「マイダン広場にクリスマスツリーを設置するための資材を運びたい」との連絡があったと言います。
ザハルチェンコの反対にもかかわらず、11月30日午前1時ポポフ課長は抗議者たちが立ち去った深夜を狙い、マイダン広場に資材を運び入れました。
当時マイダン広場には400~500人程の学生がテントを張って寝ていました。
クリスマスツリー設置工事に反対した学生たちを、警官隊を使ってマイダン広場から退去させようとしたことが、事件の始まりです。
オレクサンドル・ポポフ
キエフ市国家行政長官
映画ではポポフ課長と言っていますが、実はキエフ市国家行政長官で、2010 年に市長と大統領が対立した後、当時市長だったレオニード・チェルノヴェツキーは州政府から解任され、大統領に任命されたポポフ氏に取って代わられました。
出典 Wikipedia
映画の中でヤヌコーヴィチ大統領は警察官と言っていましたが、肩についている紋章(赤丸)で、実は内務省直属の特殊部隊(ベルクト)であることが分かります。
ウクライナ騒乱で使用されていたベルクトの紋章
出典 ウィキペディア
ウクライナ内務省とは
ウクライナの内政を管掌する機関。ウクライナの警察機関。ソ連内務省時代の制度に従い、軍事組織、ウクライナ国家親衛隊を有する。
引用ウィキペディア
当時の内務大臣は映画に出てくるヴィタリー・ザハルチェンコでした。
ヴィタリー・ザハルチェンコ
2011 年 11 月 7日 から 2014年 2 月 21 日まで、ウクライナの内務大臣を務めていた。
出典 Wikipedia
建設しようとしていたクリスマスツリーは、このようなものです ↓
2004年、オレンジ革命の時に建てられた、巨大なクリスマスツリー。
写真左側 2004年12月28日
出典 AFP BB News
だから今回も、同じように建てようとしてのですね。
マイダン革命では建設途中の骨組みに色々なものを貼り付け、広告塔として使われました。↓
抗議者達が看板や旗を飾りつけて、マイダン広場にクリスマスツリーを築き上げているところ。
出典ウィキペディア
ヴィタリー・ザハルチェンコ内務大臣は、11月30日に行われた暴動は、欧米の支援を受けたウクライナの過激派によってあらかじめ仕組まれていたと主張しています。
映画よりキャプチャー
39分00秒から39分30秒付近
これがもとで、EU加盟を求める抗議デモは、過激化しヤヌコーヴィチ大統領退任を求めるデモに変化しました。
映画の中では、ボボフ課長の上司セルヒ・リョヴォチキンウクライナ大統領府長官が、全ウクライナ連合「祖国」の臨時代表アルセニー・ヤツェニュクと共謀して、マイダン広場のテントで寝ていた学生たちを追い出したとしています。私としては野党代表のヤツェニュクが、政府に抗議するために集まった学生たちを広場から追い出す必要があったのか、分かりません。
ヤヌーコヴィチ大統領によってこの事件の責任を取らされた格好のセルヒ・リョヴォチキンウクライナ大統領府長官ですが、映画では彼はアメリカの政治家と親しく、ヤヌーコヴィチ大統領を追い落とすための策略を計ったとされていますが、疑問点があります。
セルヒ・リョヴォチキン
出典 Wikipedia
1972年7月17日、当時のウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国のキエフで生まれました。1993年キエフ国立経済大学終了後、1993年から1997年にかけて大学院に進み2004年経済学博士になりました。それと同時に1999年から2002年にかけてウクライナ外国貿易アカデミーで学び国際法の修士号を獲得しました。
大学院時代の2002年から2005年にかけて、クチマ大統領の経済関係の補佐官となりました。この時首相を務めていたのが、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチでした。
2006年、2007年ヴィクトル・ユシチェンコ大統領のもとで首相に返り咲いたヤヌコーヴィチの時にウクライナ首相府長官になりました。
2007年ウクライナ最高議会選挙で、リョヴォチキンはヤヌーコヴィチ大統領が率いる地域党から出馬して、当選しました。
2010年のウクライナ大統領選挙に勝ったヤヌーコヴィチ大統領により、大統領府長官に任命されました。
2011年、2010年の大統領選挙で対立候補であったユリア・ティモシェンコを逮捕したことで評価の落ちたヤヌーコヴィチ大統領を助けるため、アメリカのロビイストであるポール・マナフォートと連絡を取り、ヒラリー・クリントン(なぜこれに関与しているのか分かりません)と共にアメリカ議会での「ヤヌーコヴィチ大統領非難決議」に賛成の投票をする議員に対して、妨害活動をおこないました。
ポール・マナフォート
出典 ウィキペディア
ポール・マナフォートはアメリカ合衆国のロビイストであると同時に、代々共和党の大統領の選挙コンサルタントを務めてきました。
選挙コンサルタントとして、ジェラルド・フォードやロナルド・レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ボブ・ドールなどの大統領選挙で顧問として働きました。2016年の大統領選挙ではドナルド・トランプの選挙対策本部長を務めています。
ロビイストとしてはアメリカ議会において、ウクライナのヴィクトル・ヤヌコーヴィチ元大統領やフィリピンのフェルディナンド・マルコス元大統領、コンゴ民主共和国の元独裁者モブツ・セセ・セコ元大統領などの独裁者、専制君主を擁護する活動を行っています。
ポール・マナフォートは2004年の大統領選挙でヤヌーコビッチの大統領選挙運動の顧問として働き、オレンジ革命で敗れた後も次の大統領選挙に備えてイメージチェンジを図りました(ヤヌーコビッチは新ロシア派に関わらず、2010年の大統領選挙の時はEU加盟に積極的でした)。
2010年ヤヌーコビッチが大統領に当選した後、脆弱な司法制度と、過半数を占めたウクライナ最高議会を利用して、ヤヌーコビッチ大統領の独裁を強めるよう助言しました。
詳しくは、こちらをどうぞ ↓
マイダン革命が終了した2014年9月、新たに元大統領府長官のセルヒ・リョヴォチキンの顧問となり、解散した地域党の元議員やマイダン革命に反対して議員を集め、野党ブロックを形成して2014年10月26日のウクライナ議会選挙で29議席を獲得しました。選挙後マナフォートは野党ブロックの政治顧問となりました。
先に言っていた疑問というのは、20年以上の前のクチマ大統領時代から、ヤヌーコヴィチ大統領を助けていたリョヴォチキン大統領府長官が、なぜ野党のアルセニー・ヤツェニュクと組んで大統領を追い落とすような真似をしたのでしょうか。さらにこの事件後リョヴォチキン大統領府長官は辞表を提出しましたが、ヤヌーコヴィチ大統領は受け取りませんでした?。
この疑問に答える前に、ヤヌーコヴィチ大統領に雇われた暴力者集団ティトゥシキ(叔父)について書いておく必要があります。
Titushky(ティトゥシキ)について
ティトゥシキ(叔父)はヤヌーコヴィチ大統領、またはウクライナ内務省によって雇われた、格闘家やアスリートの集団です。時には人数を揃えるため、失業中の若者やホームレスも雇っていたようです。
Titushky(ティトゥシキ)の名前の由来は、2013年5月18日EU加盟を求めるデモ隊と、親ヤヌーコヴィチ派の集団が衝突した際、取材中のジャーナリストに対して暴力を振るったVadym Titushko (ヴァディム・ティトゥシコ)から来ています。
2013年5月18日、「チャンネル5」のジャーナリストであるオルガ・スニツァルチュクと新聞「コメルサント」のフォトジャーナリストであるヴラド・ソデルに向かって、暴力をふるうVadym Titushko (ヴァディム・ティトゥシコ)。
逮捕後、彼は250グリブナを貰って行為に及んだと言っています。
参考 BBC NEWS
もとの動画はこちら ↓
YouTube Вадим Тітушко оголошений в розшук
Titushky(ティトゥシキ)は抗議のデモ隊に紛れて、警察隊を挑発して取り締まりの口実を与えたほか、デモ参加者に対して脅迫したり暴力を振るったりしました。
2013年12月6日。デモ参加者に対してティトゥシキ(叔父)に対して注意を呼び掛けるチラシ。2013年12月6日。
出典 Wikipedia
上に書いてある文字にはウクライナ語で
刑事体制の挑発に屈するな!
権威の手に渡る
武器にならないでください!!!
友よ、もしあなたがマイダンや人がたくさんいる場所にいるなら、おそらく「TITUSKI(叔父)」や「PROVOCATERS(挑発者)」と呼ばれる人に出会うでしょう。挑発に乗らないでください!!!。
とデモ参加者に、注意を呼び掛けています。
出典 Wikipedia
このことから、ヤヌコーヴィチ大統領が深夜にクリスマスツリーの資材を運ぶと言って、報道陣を集め、ネオナチや極右組織に扮したTitushky(ティトゥシキ)を使って警備していたベルクト(特殊警察)を挑発し、暴動を誘発させたと見ることが出来ます。
このTitushky(ティトゥシキ)は、翌日に起きた大統領府前のデモ隊と警察隊との衝突にも出出来ます。
11月30日に警察隊によってマイダン広場から追い出された学生とデモ参加者たちは、広場の北にある聖ムィハイール黄金ドーム修道院に逃げ込み、傷の手当と食料の支援を受けました。警察隊は修道院の中には、入って来ませんでした。
聖ムィハイール黄金ドーム修道院(鐘楼と大聖堂)
出典 ウィキペディア
11 月 30日、聖ムィハイール黄金ドーム修道院の大聖堂前に集まった、
マイダン広場で負傷した抗議者たち。
出典 Wikipedia
その他聖ムィハイール黄金ドーム修道院内部の様子を紹介したKYIV POSTの写真付きの記事があります ↓
「ヨーロッパに向かう途中で中世に戻る: 殴打されたキエフの抗議者は古代の教会の庭に避難する」
同じ11月30日、、野党の祖国党、UDAR、自由党は、ウクライナ全土の「ナショナル・レジスタンス本部(Headquarters of National Resistance)」を設置しました。
野党全ウクライナ連合「祖国」のヤツェニュク代表は抗議のため、12月1日正午にシェフチェンコ公園に集まるように呼びかけました。この時マイダン広場は警察隊によって封鎖されていました。
12月1日の朝、警察隊によって封鎖されているマイダン広場の様子を写したYouTubeの動画がありました↓
撮影したのは先に出てきたhromadske.tvです。
キエフ市国家行政長官ポポフは、マイダン広場にクリスマスツリーを建設し、ウクライナのクリスマスが終わる2014年1月7日(正教会ではローマ時代に作成されたユリウス暦を使っており、ユリウス暦の12月25日がグレゴリオ歴の1月7日に当たります)まで、マイダン広場での集会を禁止しました。
映画よりキャプチャー(52分付近)
2013年12月1日(日)
1夜明けた12月1日、40万~80万人もの人たちが、シェフチェンコ公園に集まってきました。
映画よりキャプチャー 40分10秒付近
12月1日12時シェフチェンコ公園には、前日(11月30日)の警察官の暴力に抗議する人たちが大勢集まりました。それらの人々はヤヌーコヴィチ大統領に抗議するために移動を開始します。
午後1時50分ごろ、デモ隊の一部が、マイダン広場の途中にあるキエフ市役所の窓を割って内部に侵入し、市役所を占拠してしまいました。12月1は日曜日で釈署は休みになっており、内部には20人ほどの警備員しかいませんでした。
占拠された市役所は、後にユーロマイダンの本部が置かれました。
ウクライナ市役所に置かれた、ユーロマイダンの本部。
入口には20世紀のウクライナ民族主義者ステパーン・バンデーラの肖像がある。
出典 ウィキペデア
マイダン広場に大勢の人が集まったことにより、封鎖は解除され隣にあった労働組合会館ビルもデモ参加者によって占拠されてしまいました。
労働組合会館ビルは後に、プレスセンターやけが人の救護施設、デモ参加者に食事を供給するためのキッチン、休憩所や仮眠施設などが置かれました。
2013年12月1日、デモ隊が通ったコース(白線)。
赤いバツ印の所で、警察隊が通りを封鎖していました。
12月1日大統領府前の衝突
12月1日午後2時、マイダン広場からあふれたデモ隊は、大統領府に向かいました。この時クリスマスツリー建設の現場から、ブルドーザー(中国製のホイールローダーLongGong CDM 833)を盗んで、警官隊のバリケードを壊すのに使いました。
11月27日のクリスマスツリー建設現場。
中央から左上にかけて鉄板で囲まれた中に
2台のクレーン車と作業用の小屋が見える。
たぶんブルドーザーも、この中にあったと思われます。
出典ウィキペディア
午後2時30分ごろ、大統領府に向かうデモ隊は大統領府の手前でバンコバ通りを封鎖していた、警察隊と衝突しました。
映画よりキャプチャー 40分45秒付近
以前から、このブルドーザーがどこから来たのか気になっていたのですが、クリスマスツリーの建設現場から持ってきたのですね。あと、鎖で警察官(よく見ると警察官ではなく、バリケードの鉄板)を叩いている若者の右腕に黄色い腕章が見えます。
下の写真は2014年2月20日、デモ隊を狙撃中で射撃した人達を写した写真ですが(映画ではネオナチか極右の過激派と言っています)、腕に黄色い腕章を付けています。右側の写真では、なぜか警察隊と一緒に居ます。
腕に黄色い腕章を付けたTitushky(ティトゥシキ)と見られる人の写真
出典 Wiikipedia
この若者は2,3回鉄板を叩くとすぐ他の人と交代しました。またブルドーザーも鉄板を倒した後、そのまま警察隊に突入しないでバックしてしまいます。
デモ隊がブルドーザーを使って設置していたバリケードを壊し、武装したネオナチや極右団体が鎖を使って警察核を攻撃し、道路の敷石や火炎びんを投げたりしたとの話とは、違うような気がします。
この場面を映したYouTubeの動画があります ↓
この動画では警察隊のバリケードを攻撃していたのは、ブルドーザーと黄色い腕章を付けた数人の若者であることが分かります。周りにいた人たちは携帯でこの模様をとっていましたが、見ているだけで攻撃には参加していませんでした。
もう一つ、警察隊もこの攻撃者に対して一切手を出していませんでした。この位の人数ならば一斉に突撃して、ブルドーザーと黄色い腕章を付けた者たちを取り押さえれば、事態は解決すると思いますが、そうしないのはなぜでしょう。
更に一般のデモ参加者が、警察隊に向かって進むブルドーザーを止めようとしてした写真があります。
ブルドーザーを止める一般参加者。
奥に警察隊のバリケードとそのバスが見える。
出典 KYIV POST
もっと面白いことに12月1日の正午頃、警察隊のバリケードの前から大統領府の中庭に入っていく2台のバスが撮影されていました。
乗っていたのは警官ではなく、普通の服を着ていた人たちでした。
YouTubeより
また、ベルクトの副司令官セルヒー ・クシュク大佐によく似た男が、ブルドーザーを誘導している動画がYouTube に公開されていました。
セルヒ―・クシュク大佐は、11月30日の暴動の時もベルクトを指揮していました。
当日、彼は内閣府で大人しくしていたと言っていますが、11月30日に陣頭指揮をしていた彼が、内閣府でじっとしていたとは思えません。
セルヒ―クシュク
彼はマイダン革命の後、ロシアに亡命して、
モスクワで特殊警察に勤務しています。2017年6月
もとになったYouTubeの動画はこちら ↓
この動画を見ると、ブルドーザーが警察隊のバリケードに向かって突撃した話とは、だいぶ違っていることが分かります。
このプルドーザーは、ベルクトがデモ隊に対して襲撃を開始する4時半まで同じ場所に居ました。
12月1日の暴動で、165人のデモ参加者が負傷し、109人が入院しました。警察側でも50人が入院したと言っています。
映画の画面でヤヌーコヴィチ大統領はこう言っていますが、マイダン革命終了後の2014年5月に行われた大統領選挙で当選して、ウクライナの第5代大統領となったペトロ・ポロシェンコはこの暴動に来ていました。
ペトロ・ポロシェンコ 2014年
オリガルヒの彼はマイダン革命に資金援助していました。
出典ウィキペディア
これがその動画です ↓
ブルドーザーの上に登って、警察への徴発を止めるよう説得しているみたいです。
ヤヌーコヴィチ大統領は映画の中でこの暴動を仕組んだのは、ネオナチや極右の活動家たちと言っていますが、本当はTitushky(ティトゥシキ)を使って警察隊を扇動した、あなたではないですか。
SNSが発達した現代では、大統領発表のウソを暴く情報が、すぐ流れてしまいます。
これ以後、ヤヌーコヴィチ大統領はデモ隊の弾圧を強化していきます。しかしそれはウクライナの人たちの民族意識を高める結果となり、ネオナチや極右団体が台頭を許すことになりました。
ヤヌーコヴィチ大統領は、自分から火に油を注ぐ様な事をやり続け、ロシアへの亡命を余儀なくされ、自滅してしまいます。
「私はあら捜しが好きだ。
それは私のやり方でなければならない。」
マーク・トウェイン
映画の真ん中あたりで(44分付近)で、この文字が出てきます。そこで私なりに映画のあら捜しをしてみました。
映画よりキャプチャー(50分~53分)
そこでマイダン革命の推進派は、デモ参加者の中から犠牲者を出し緊張状態を作り出した、としていますが、これはいくらなんでも無理があるでしょう。
テチアナ・チョルノヴォル
映画よりキャプチャー(52分30秒付近)
チョルノヴォルはジャーナリストとして、クチマ大統領時代から政治の腐敗と汚職問題を取材する反面、反政府の活動家でもありました。
映画に出てくる線路に鎖でつながれている写真は、「クチマのいないウクライナ」のためにキエフ駅の線路に他の活動家と共に、自ら手錠で線路につなげて列車の運行を妨害した時のものです。
2012年8月、厳重に警備されたキエフ郊外にあるヤヌーコビッチ大統領の官邸(「客観的な調査を実施し 、犯罪の真の加害者を見つける代わりに、( ヴィタリー内務大臣)ザハルチェンコの事務所はテチアナ・チョルノヴォルを殴打する命令を下した者を含む 、通常の挑発に訴え、実際に犯罪を隠蔽し ている.犯罪者」とヴィタリ・クリチコは述べた。)に不法侵入し、内部に設けられたゴルフコースや、巨大な船の形をしたレストランなどの写真を撮り公開しました。それまでこの屋敷の内部を暴いた人はいませんでした。現在この屋敷は(政府の金を横領した泥棒)公園として、一般に公開されています。
チョルノヴォルは、屋敷内の写真を撮るのに3時間かかったそうです。
映画で大統領官邸の塀を乗り越えるところの場面ですが、ヤヌーコビッチは塀だけこんな安っぽい物を使っていたのかしら。
映画よりキャプチャー(53分付近)
メジヒリア邸の入り口ゲート付近
2013年12月1日、彼女は市庁舎の窓ガラスを割って侵入したデモ隊に加わっていました。
同じく12月25日、デモ隊の様子を監視している怪しげバンに気づき、石で天井のガラスを割り中に侵入しました。後にこのバンはウクライナ保安庁(SBU)がテロ対策のために使用していたことを認めています。
映画には出てきませんが、襲撃される前の日(2013年12月24日)、チョルノヴォルは建設中のヴィタリー・ザハルチェンコ内務大臣の屋敷を取材して、数枚の写真を彼女のブログで公開しました。
「死刑執行人はここに住んでいます!ヴィタリー・ザハルチェンコ総務大臣の邸宅」
(タチアナ・チョルノヴォルのブログ)
襲撃
12月25日午前1時半、ボルィースピリ国際空港付近を走行中、後ろから走ってきた黒い車に無理やり止められてしましました。黒い車は、彼女の車を止めた後で二人の男が降り、彼女の車後部の窓ガラスを割り、彼女を車から引きずり出し暴行を加えた後、道端の溝に捨てて逃走しました。
彼女の車のドライブレコーダーによって撮られた、黒い車が無理やり停車させた後二人の男が降りてくるところまでの動画 がYouTube に掲載されています。↓
その日のうちに車の運転手が逮捕され、彼の供述によって暴行を加えた二人も、当日中に逮捕されました。その後関係者を含めて5人が逮捕されています。
内務省の主任捜査官は 12 月 27 日、野党議員のビタリ クリチコ氏、彼の弟でヘビー級チャンピオンのボクサー、ウラジミール クリチコ氏、その他の国会議員や地元の議員数名を、テチアナ チョルノヴォル氏を倒した容疑者と関連付けました。
警察は現在 5 人の容疑者を拘留しており、そのうち 3人は 12 月 25 日の チョルノヴォル の暴行に直接関与したと考えられている。
内務省の 調査部門の責任者であるミコラ・チンチン氏は 、クリチコ兄弟は 、容疑者の1人であるオレクサンドル・コテンコがメンバーだったとされる同じ組織犯罪シンジケートと密接に関係していると述べた 。
引用 KYIY POST
これに対してヴィタリ・クリチコは関与を否定し
「客観的な調査を実施し 、犯罪の真の加害者を見つける代わりに、( ヴィタリー内務大臣)ザハルチェンコの事務所はテチアナ・チョルノヴォルを殴打する命令を下した者を含む 、通常の挑発に訴え、実際に犯罪を隠蔽し ている.犯罪者」
と言っています。
2014年2月、政府に没収されたヤヌーコビッチ大統領の私邸メジヒリア邸にあるボディーガードの部屋から、襲撃に関与したと見られる記録の書かれている日記が見つかりました。
こちらをご覧ください↓
タチアナ・チョルノヴォルは、暴行事件から2ヶ月後再び活動を開始しました。
下の画面は214年2月28日、デモ隊が地域党本部を襲い、窓を突き破って火炎瓶を投げいれて火災をおこした時、燃えている建物からレポートしている彼女の姿です。
映画よりキャプチャー(54分付近)
この火災でコンピーターのメンテナンスをしていた職員が死亡しました。
映画ではこう言っていますが、この直前の画面を見ると着ていた衣服や部屋のドアも焼けておらず、逃げ遅れて煙にまかれたみたいです。
映画よりキャプチャー(54分付近)
2022年ロシアのウクライナ侵攻後、タチアナ・チョルノヴォルは、ウクライナの第72機械化旅団で対戦車ミサイルのオペレーターとしてロシア軍戦車相手に戦っています。
動画があります。 ↓
動画の詳しい説明はこちらにあります ↓
元ウクライナ国会議員は現在、対戦車ミサイルオペレーターとして最前線で働いています。(yahoo! news uk)
2014 年 1 月 22~ 25日のフルシェフスコホ通りでの暴動
タチアナ・チョルノヴォル襲撃後、反政府デモはますます活発になりました。2014年1月16日、政府は活発化したデモを鎮めるため「抗議取締法」を制定して、デモ隊を抑えることにしました。
2014年1月16日、ウクライナ議会で与党の地域党、ウクライナ共産党、及び多数の無所属議員により、抗議集会を取り締まるための法律「抗議取締法」が可決成立しました。
1. 5 台以上の車で組織されたグループで運転する – 車と運転免許証を 2 年間没収 (!!!)
2. 情報機関が政府から特別なライセンスを取得していない場合 – そのサーバーのすべてコンピューターと情報は没収され、多額の罰金を支払わなければならない
3. 平和的な集会の妨害 – 最大 10 日間の拘留
4. ヘルメット、制服、または火を携えた状態での平和的な抗議活動への参加 – 最大 10 日間
5. 警察の許可なしにテント、ステージ、またはサウンド システム (!) を設置する – 最大 15 日間の刑務所で7.
インターネットへのアクセスを制限する要求/命令に従わない – 罰金6800 UAH (800 ドル強)
8. SBU (ウクライナ保安局) の「合法的な命令」に従わない – 最大 2000UAH (約 250 ドル) の
罰金「証人」からの証言で十分です)
10. 裁判所の文書を「送達」したことの確認は、署名だけでなく、「その他のあらゆる種類のデータ」(!)
11. 誰かの住居へのアクセスをブロックする(aブランドスパンキング新法) – 懲役 6 年 (!!!)
12. 誹謗中傷 (刑法に戻されました!!!!) – 懲役 2 年
13. 過激派の資料の配布 (!!!!) – 3
14. 「平和の集団妨害」 – 2年
15. 大規模な混乱/抗議 – 10 年、さらには 15 年の懲役 (!) – マイダンでの抗議行動の参加者は誰でも、この法律によって刑務所に送られる可能性があります!!!
16. 「Berkut」警察の特殊部隊の職員、裁判官、およびその他の同様の政府職員に関する情報収集 – 懲役 3 年
17. 警察官および他の同様の政府職員に対する脅迫 – 懲役 7 年
18. 裁判官に関する情報収集 – 懲役 2 年
19. 海外から資金を受け取る NGO (非政府組織) は現在、「外国代理人」と見なされ、「収益」に対して税金を支払わなければならず、正式に「外国代理人」と呼ばれる/知られるようになります。
20. NGO は「過激派活動」に参加できない
21. 教会は「過激派活動」に参加できない
22. 「政府」は、インターネットへのアクセスを禁止する決定を下すことができる
23. 市民団体とは、次のような組織と見なされる。最初に「政府」に機能する許可と資金提供の許可を求める必要があります。
24. 法廷に迫害されている人がいなくても、迫害されて有罪または無罪の判決を受ける可能性があります (誰かを何年にもわたって刑務所に送ることを含む)。
25. 今後、交通違反については、違反が自動手段で登録された場合、実際に運転していて規則に違反した人ではなく、車両の所有者が起訴される可能性があります。
26. 国会議員 (国会議員) は、法的な迫害からの免責を剥奪され、特別委員会による評価なしに、議会の会期中に直ちに逮捕される可能性があります。
27.マイダンの活動家に対して犯罪目的で行動した「ベルクト」警察の特殊部隊と政府職員は、彼らの犯罪に対する迫害から解放されます (!!!!!)
出典 tanyalokot(ターニャ・ロコットさんのブログ)
法律を採択する際、最高議会は多くの独自の手続き規則に違反しました。法律は、主に手を示すことによって投票されました。これは英国の手続き規則で許可されていますが、電子システムを介して投票する「技術的な可能性」がない場合に限られます。さらに、議会グループに含まれる国会議員の数に基づいて、ハンドは数秒以内に「カウント」されましたが、実際には多くの国会議員が不在でした。投票を観察した外交官は、100 から 140 の挙手しか数えませんでしたが、法律は 226 票の過半数で採択される必要がありました。ほとんどの法律は、必要に応じて議会の委員会で事前に検討されることなく採択され、MP によってさえ法律を検討する時間がありませんでした
引用ウィキペディア
抗議集会に参加した人たちは、このような法律を作らない民主的な政府を望んでいるのに、ヤヌコーヴィチ大統領はわざわざ火に油を注ぐようなことをしてしまいました。
2014年1月19日(日)、9回目になる日曜の抗議集会が開かれ約20万人の人が独立広場に集まりました。12月25日に暴行を受けたタチアナ・チョルノヴォルが治療後初めて公の場に顔を見せ、野党党首と共に「抗議取締法」新せほぃ県の樹立を訴えました。
2014年1月19日、抗議集会に出てきたタチアナ・チョルノヴォル
出典 KYIV POST
集会後、参加者は独立広場から国会議事堂に向かってデモ行進を行いましたが、ロバノフスキー・ディナモスタジアム・サッカー場の入り口ゲート付近でバリケードを張っていた警察隊と衝突しました。
左側の独立広場から、右下のウクライナ国会議事堂へ向かったデモ隊は、ロバノフスキー・ディナモスタジアムの入り口付近(赤いバツ印の所)で警官隊と衝突しました。
デモ隊は道路を塞いでいる警察隊のバスやトラックに放火しました。
デモ隊によって焼かれた警察隊のバスとトラックの残骸
出典 Wikipedia
それに対してベルクト(特殊警察)の隊員は、散弾銃にゴム弾や催涙弾を詰めて発射し、デモ隊に対して応戦しました。
1月21日には、13mもあるディモナスタジアムの入り口の上に登っていたデモ隊の一人が落下して死亡しました。
紛争のほとんどが行われたディナモ スタジアムの入り口
出典 Wikipedia
この時の様子を写した動画があります。 ↓
セルゲイ・ニコヤン
1月22日デモ隊側のバリケードの上に登っていた、セルゲイ・ニコヤンが銃で撃たれて死亡しました。
セルゲイ・ニコヤンはウクライナのドニプロペトロフスク州生まれですが、彼の両親はアルメニア人でソ連崩壊の時に起きたアルメニアとアゼルバイジャンとの争い(第一次ナゴルノ・カラバフ戦争)から逃れて、ウクライナに移住してきました。
2011年体育の教師になるためドニプロツェルジン体育大学に入学しましたが、途中で退学してしまいました。在学中空手を習い、2012年にドニプロジェルジンスク極真会空手選手権で 3位になっています。
2013年11月8日から、デモ参加者を守る警備員として参加し、事件当日までテントや労働組合ビルで寝泊まりして暮らしていました。
映画よりキャプチャー 54分30秒~55分40秒付近
「人々の声は神の声」とのプラカードを持ち、バリケードの上に立つニゴヤン。
出典 pravda.com
2014年1月19日、ショットガン(散弾銃 Fort-500 )でデモ隊を狙っているベルクト
出典 Wikipedia
現場から回収された、「ベルクト」が使用した弾薬の薬莢と弾丸。
右側の赤い丸で囲まれているのが、ゴム弾の弾頭
出典 Wikipedeia
鹿などの大型の獲物や軍用に使われるバックショット弾。
出典 ウィキペディア
ウクライナ内務省は実弾は配布していないと言っていますが、個人で持ってきた場合は別です。
この映像を見ると胸に3ヵ所の小さな弾痕があります。これは散弾銃で撃たれた時の特徴です。他に頭部にも、1発銃創がありました。
挑発者が行動をエスカレートさせたというより、ヤヌーコビッチ大統領自身がデモ隊を挑発して暴徒化させたように思います。
レーニンがやったように、軍や警察を使えば反政府活動を抑えることが出来ると、思っていたのかしら。
1月28日ミコラ・アザロフ首相が辞任し、1月6日に制定された「抗議取締法」を無効とする法律が成立しました。
説明が長くなったので、次に続きます。
デモ隊で100人以上の犠牲者が出て、ヤヌーコヴィチ大統領がロシアに亡命し、ドンバス戦争が始まるまでの経過はこちらを見てください ↓