なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

YouTubeで見るマイダン革命の映画 その2 『ウクライナ・オン・ファイアー』(前編)

time 2022/10/08

YouTubeで見るマイダン革命の映画 その2 『ウクライナ・オン・ファイアー』(前編)

マイダン革命のドキュメンタリー映画「ウィンター・オン・ファイアー、自由への戦い」とよく似た題名ですが、アメリカの映画監督オリバー・ストーンがロシアのプーチン大統領と、ウクライナのヤヌーコヴィチ元大統領に対して行ったインタビューを主題として作られた映画です。ウクライナの歴史を語る場面では、かなりロシアよりな点もあり、版権者が著作権を放棄したにもかかわらず一時YouTubeから削除されていました。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻を機に、再びYouTubeで見れるようになりました。

映画では射殺されたり、暴行を受けたりして殺された死体がやたら出てきますので、削除する前に早めに見てください(年齢制限があります)。

ドキュメンタリー映画『ウクライナ・オン・ファイヤー ―Ukraine on fire―』【日本語字幕版】 

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亀仙人2

ウクライナ・オン・ファイアー

 

出典 the-liberty.com

2016年アメリカ

監督 ゴール・ロパトノク

YouTubeで見ようとすると、最初に

『次のコンテンツは、一部の視聴者にとって攻撃的または不適切な内容を含んでいると YouTube コミュニティが特定したものです。』

と出てきます。確かに映画の中には、ホロコーストや戦争、マイダン革命で亡くなった人達の無修正の死体映像が多数出てきますので、そのような場面が苦手な人は視聴を控えてください。

 

映画の冒頭で、マイダン革命後に大統領を辞めさせられたヤヌコーヴィチ元大統領が出て来て

「(デモ隊の中に)間違いなくスナイパーがいた。10人の死体があった。現在でも 犯人は不明です」

と述べていますが、これは完全に嘘です。

彼がスナイパーと呼んでいるものは、ヤヌコーヴィチ大統領が雇った格闘家や犯罪者、ならず者を中心とした「叔父(ティトゥショク)」と呼ばれる集団です。彼等は平和的なデモを望むデモ隊に紛れて、警察隊を挑発し、警察隊の暴行を誘発するために送られました。

詳しくは、こちらのブログを見てください ↓

YouTubeで見るマイダン革命の映画 その1 『ウィンター・オン・ファイアー、ウクライナ、自由への戦い』

この様に映画では、ロシア側の不利になるようなことは一切触れず、ロシア側の主張を一方的に流しています。ウクライナへのロシア侵攻に批判している人も、見ていると気分が悪くなるので覚悟してください。最も映像ではこの主張と矛盾する場面も流しており(結構笑えます)、このあたりオリバー・ストーンが苦労していることが分かります。

映画では、ヤヌコーヴィチ元ウクライナ大統領とプーチン露大統領の他、マイダン革命当時ウクライナ内務大臣を務めていたヴィタリー・ザハルチェンコも、当事者として出演しています。彼はマイダン革命最後の2014年2月20日、内務省管轄下の特殊警察(ベルクト)に対して、銃器による実弾の使用を許可する命令書を出し、デモ隊側に多くの死傷者を出しました。

デモ隊への銃器を使用する許可を発表する、ザハルチェンコ内務大臣。

この発表直後、彼はウクライナから逃亡しました。

出典 Wikipedia 

ヤヌーコヴィチ元大統領、プーチン大統領、ザハルチェンコ元ウクライナ内務大臣の3者に共通するマイダン革命の意見は、ウクライナの極右組織(彼らはこれをネオナチと呼んでいます)による反乱であるとしています。

下は映画でネオナチの一人とされた、ヴィタリ・クリチコ氏。

映画からのキャプチャー(29:24)

だいぶ怪しい顔をしていますが、ウィキペディアではこうなっています ↓

出典 ウィキペディア

ウクライナ議会で3番目の勢力を持つ野党「ウクライナ民主改革連合(UDAR)」の党首ビタリ・クリチコ(元WBO世界ヘビー級チャンピオン、現在キエフ市長)は積極的に集会に出かけ、集まった人々に冷静な行動をとるよう説得しました。しかし、政治家を信用できない人たちによってヤジられたり、消火器の粉を掛けられたりで散々な目に遭っています。

映画ウィンター・オン・ファイアーの解説より

「ウクライナ・オン・ファイアー」ではデモ隊を扇動して暴動を起こした犯人の一人になっていますが、ドキュメンタリー映画「ウィンター・オン・ファイアー」では、デモ参加者たちが過激な行動に走らないように、抑えようとしていました。どちらが本当でしょうか?。

あらすじと解説

この映画では、ウクライナが西欧がロシアに攻める時の通り道となっていたため、大きな被害を受けたとしています。しかし、ロシアがウクライナの侵攻していたことは、すべて省かれています。

「歴史は同じように繰り返さないが、韻いん(いん)を踏む」作家マーク・トウェイン

フメルニッキーの乱

最初に出てきたコサック軍のボグダン・フメルニッキー将軍について書いて見ます。

映画の中でコサック軍を率いていた、フメリニツキー将軍(18世紀初頭)の肖像画。 

足元に置かれた棍棒はコサック連隊の数を表している。

出典 ウィキペディア

 

17世紀前半までウクライナのコサックは強大な軍事力を持っていましたが、ポーランド・リトアニア共和国の支配国ポーランド王国の支配下に置かれていました。

1648年ウクライナコサックの将軍(ヘーチマン、ウクライナ・コサックの棟梁の伝統的な称号)のボフダン・フメリニツキーはウクライナの独立を目指し、ポーランド・リトアニア共和国に対して反乱(フメリニツキーの乱 1648年~1657年)をおこし、ヘーチマン国家(1649年~1786年)を成立させました。

下の図の桃色の部分がポーランド・リトアニア共和国

1648年の東欧

桃色の部分がポーランド・リトアニア共和国

出典 ウィキペディア

 

ヘーチマン国家(ウクライナのコサック国家、正式名称は「ザポロージャのコサック軍」)の位置、水色の部分。

ヘーチマンとはコサックの将軍の意味

出典ウィキペディア

ペラヤースラウ条約(1654年)

独立を宣言したフメリニツキーですが、強大なボーランドと戦うために早くから近隣に同盟国を求めていました。始め南に位置するクリミア・ハン国と同盟を結びましたが、戦いの途中で同国がポーランドに寝返った為、新たな同盟国を求めることになりました。

1654年1月17日の土曜日、ウクライナのペレヤースラウにおいて、ヘーチマン政府とロシア使節団の間でロシアの保護を受け入れる会談が行われました。

翌1月18日、フメリニツキーと12人のコサック連隊長は長官会議を行い、ロシアの保護を受けることに全員が賛成し、午後2時ヘーチマン政府とロシアとの間でペラヤースラウ条約が結ばれました。

条約の成立によって、ロシアはヘーチマン政府を国家として認め、ロシアの保護国とする代わりに、ヘーチマン政府はロシアのツァーリ―(皇帝)に臣従を誓いました。

この条約をめぐって、ロシア側はウクライナはロシアの一部になったと主張し、ウクライナ側は条約は一時的な軍事条約であり、ウクライナの主権は別であるとしています。

ペレヤースラウ会議におけるフメリニーツィキーの演説(ソ連時代に発行された「ロシアとのウクライナの統合300年記念」の切手、1954年)

出典 ウィキペディア

1954年1月25日、ロシアのフルシチョフ首相はこのペラヤースラウ条約締結300周年を祝って、それまでロシア領だったクリミア半島をウクライナ領に移譲しました。これは2014年のクリミア半島併合の元とのなりました。プーチンはクリミア半島を併合したのではなく、ウクライナに併合されたクリミアをもとに戻しただけ、と言っています。

ペラヤースラウ条約後ロシアは約束に従ってポーランド・リトアニア共和国に侵攻しました。それまでロシアは軍事的に弱かったので侵攻をためらっていましたが、強力なコサック軍団を得て、ポーランド・リトアニア共和国の南半分を支配するようになりました(ロシア=ポーランド戦争)。

ポーランド・リトアニア共和国が衰退したのを狙って、バルト海沿岸を支配していたスウェーデンも北方からポーランド・リトアニア共和国に攻め込んできて大北方戦争が始まり、ポーランド・リトアニア共和国は大洪水時代に入りました。

1657年におけるポーランド・リトアニア共和国(赤)とウクライナ(青)、ロシア(灰)、スウェーデン(紺)の領域

出典ウィキペディア

もともとウクライナ地方は、ヴァイキングが川を遡り東スラブ人を滅ぼして、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)を創設したことから始まりました。ほんとうは只のルーシ(大公国)でしたが1240年にモンゴル軍の攻撃により、分裂して首都をモスクワに移したため、分裂前に首都があったキエフにちなんで分裂前をキエフ大公国と呼び、分裂した後はモスクワ大公国(ルーシ)と呼んでいます。ちなみにルーシをラテン語読みにすると、ロシアになります。

キエフ大公国の位置

出典ウィキペディア

1704年、ロシア=ポーランド戦争で功績をあげ、1687年にヘーチマンとなったイヴァン・マゼーパはロシア支配からの独立を計り、スウェーデンのカール12世と秘密協定を結び、ロシアに対して反旗を翻しました。

イヴァン・マゼーパ

出典ウィキペディア

しかし、この試みはコサック連隊長の多くが、イヴァン・マゼーパの行いは、ヘーチマン国家の独立を助けてくれたロシアへの裏切りと見て反発したため、成功しませんでした。

結局ロシアはポーランド・リトアニア共和国の領土の大部分と、北方戦争に勝ったことでバルト海の覇権を得ることになり、一挙にヨーロッパの大国の一つとしての地位を獲得しました。

バルト海の覇権を握ったロシアはバルト海に面したサンクトペテルブルクに首都を移し、ヨーロッパとの交易を開始しました。しかし冬季は港が凍結して使えなくなるため、冬でも凍らない港(不凍港)を求めて、黒海に進出しました(ロシアの南下政策)。この南下政策によりコサック軍は南のクリミア・ハン国、オスマン・トルコさらにはバルカン半島での戦いに駆り出され、戦力の大半を失ってしまいました。戦力を失ったヘーチマン国家はロシア皇帝エカテリーナ2世によって名前を小ロシアと変えられ、ロシアの一地方として吸収されてしまいました。

1795年、弱体化したポーランドは隣接する、ロシア、プロイセン、オーストリア三国により分割され完全に消滅しました。この時ウクライナ西部のガリツィア地方はオーストリア領となりました。

その後、コサックの居なくなった平原ではロシアから多くの農民や、農奴を抱えた貴族たちが移り住み、穀倉地帯となりました。近代になり石炭や鉄鉱石の鉱山が開発され、これまたロシアから多くの工員がやって来て、製鉄業が盛んになりました。

このあたりのことは下のブログで、「クリミア半島の歴史」「ドンバス地方の歴史」として詳しく書いておきました。↓

なぜロシアはウクライナに侵攻したのか。その3 ロシアによるクリミア半島併合とドンバス戦争の始まり

2022年、ロシアはウクライナからの独立を願うドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を独立国として承認し、両国の独立を助けるため、ウクライナの侵攻しました。350年以上の時を経て、ヘーチマン国家の独立と同じようなことが、今日のウクライナで起こっています。

 

映画で言わなかったこと

映画では1918年3月3日のブレスト・リトフスク条約から、1939年8月23日のモトロフ・リッベントロップ協定(一般には独ソ不可侵条約として知られています)までの間は語られていませんが、この間にウクライナでは何百万人もの人が、ロシアによって殺されていました。

だいたい1917年のロシア革命にしても、第1次世界大戦で苦しんでいたドイツが、ロシアの戦線離脱を狙って、スイスに亡命していた過激派の革命家レーニンを列車でロシアに送り、活動資金を与えて成功させたものです。

この目論見は成功して、ロシアはドイツと「ブレスト=リトフスク条約」を結び、第1次世界大戦から離脱しました。これによりドイツは東部戦線に置いていた戦力を、西部戦線に向けることが出来ました。この条約によりウクライナはドイツに割譲されました。

ブレスト=リトフスク条約によってロシアがドイツに割譲した地域。ドイツの影響下におかれた地域にとってはこれが国家独立の保障となった。

出典 ウィキペディア

この辺の詳して話はこちらをどうぞ ↓

ロシア革命 その1 ロシア革命の目的は、第1次世界大戦から撤退することでした。

ロシア革命 その2 ロシア内戦と、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立まで

 

ロシア革命とウクライナ

ウクライナ人民共和国(1917年11月22日~1920年11月10日)

1917年2月ロシアで2月革命が起きると、ウクライナでもロシア帝国からの独立を求める運動が活発となり、1917年3月にはウクライナ全国の独立運動を統一する目的でウクライナ中央ラーダ(ラーダはウクライナ語で評議会を意味し、ロシアのソビエトと同じ)が設立されました。

ウクライナ中央ラーダは、ロシアの臨時政府に対して自治を求めましたが、拒否されてしまいました。しかし7月16日にはウクライナが独立することを恐れた臨時政府は、ウクライナの自治を認めました。この時は東部戦線でドイツ=オーストリア軍に対して大攻勢をかけましたが、逆にドイツ軍に反撃されロシア軍が崩壊し始めていました(ケレンスキー攻勢)。

1917年10月24日、レーニンの率いるボルシェビキは、臨時政府のあるベトログラードで武装蜂起を行い、臨時政府の拠点ペトログラードの冬宮を襲撃、政府閣僚を逮捕したため、臨時政府は瓦解してしまいました。

翌10月25日全ロシア=ソヴィエト会議の第2回大会が開催され、26日にはレーニンを議長とする人民委員会議(内閣にあたる)を選びソビエト政権が成立しました(10月革命)。

1917年11月22日、ウクライナ中央ラーダは暴力的なソビエト政権に反発して、ウクライナ人民共和国を成立させ、2か月後の1918年1月22日ウクライナ人民共和国の独立を宣言しました。

現在のウクライナは、この時のウクライナ人民共和国の国旗、国章、国歌(ウクライナは滅びず)を引き継ぎ、使用しています。

ウクライナ国旗

ウクライナの国章

出典 ウィキペディア

 

1917年12月25日、ウクライナ人民共和国に対して、ロシア側も東ウクライナのハルキウを首都とする傀儡政権である同じ名前のウクライナ人民共和国(ソビエト派)を創設して、ウクライナ人民共和国を打倒し、ウクライナをボリシェヴィキの勢力下に置くために活動を開始しました。


ウクライナ人民共和国(ソビエト派)の国旗

出典 ウィキペディア

ウクライナ人民共和国(ソビエト派)は赤軍の力を借り、ウクライナ人民共和国(首都キエフ)が独立宣言を出した直後の1918年1月24日から26日にかけてキエフを占領しました。この後も、ボリシェヴィキ軍とウクライナ民族主義者との戦いは1921年末まで続くことになります(ソビエト・ウクライナ戦争)。

ボルシェビキの赤軍と戦うことを余儀なくされたウクライナ人民共和国は、1918年2月9日中央同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国)に助けを求め、穀物100万トンと引き換えに反ボリシェヴィキ共同戦線を張ることに合意しました(ブレスト・リトフスク条約、3月3日にボルシェビキと中央同盟国が結んだブレスト・リトフスク条約とは別)。

条約に基づき2月16日にウクライナ中央ラーダ軍は50万のドイツ軍と共にキエフに入城しました。勢いを増した中央同盟軍は、戦争を停止した赤軍をしり目にバルト海沿岸まで勢力を伸ばしました。

慌てたロシアのボルシェビキ政府は、1918年3月3日中央同盟国とブレスト・リトフスク条約を結びウクライナを含む占領地の大部分をドイツに割譲して休戦に入り、第1次世界大戦から離脱しました。

しかし、中央ラーダのウクライナ人民共和国とってはこれからが大変でした。

ボルシェビキの10月革命に反対するデニーキンが率いる白軍が南から攻め入り、黒海沿岸のクリミア半島やオデッサからはブレスト・リトフスク条約でロシアが勝手に戦線から離脱したことに腹を立てた連合国のフランス、イギリスがボルシェビキ政権に干渉するためにやって来ました(対ソ干渉戦争)。

ロシア内戦の地図

出典ウィキペディア

1918年11月11日、第1次世界大戦が終わりドイツ軍がウクライナから撤退すると、東から再びボルシェビキの赤軍が侵入し、西からはパリ講和会議(ベルサイユ条約)でロシアからの独立を認められポーランドが、かってのポーランド・リトアニア共和国の復活を目指しガリツィア地方(現在のウクライナ西部)に攻めてきました。ポーランドはウクライナ人民共和国と共に一時キエフを占領しました。

これにより東ウクライナを支配していたボルシェビキ(ソビエト)との戦い(ポーランド・ソビエト戦争)になりました。ボルシェビキは150万(1919年秋)~350万(1920年)人にも及ぶ軍隊を派遣して、ポーランドのワルシャワまで攻め込みました。

1920年10月11日、ポーランドはボルシェビキと講和条約(ポーランド・ソビエト・リガ平和条約、正式調印は1921年3月18日)を結び、西側のガリツィア地方を除くウクライナ全域の支配をウクライナ・ソビエト社会主義共和国のものとすることを認め、これにより中央ラーダのウクライナ人民共和国は消滅しました。

しかし、ウクライナの独立を諦めないウクライナ人は、「ウクライナ軍事組織(UVO)」を結成して、ポーランドを相手にウクライナ西部で独立運動を続けました。

左側のヴォルイニ、ハーリチナ、ブコヴィナの3州がポーランド領となったハーリチナ地方

これ以後ウクライナの独立運動は、ソ連の支配の及ばない、ウクライナ西部で続けられることになりました。

出典 
黒川祐次 (著) 「物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 」(中公新書) 、200頁

1922年12月30日、ウクライナはロシア、ザカフカースベラルーシ、と統合してソビエト社会主義共和国連邦となりました。

ホロドモール

1918年11月11日に第一次世界大戦終了が終了するとロシアは1919年1月6日ハルキウで傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国を樹立し、2月5日キエフを占領すると、2月11日にはウクライナの全農民に対して、武装した食糧徴発隊を送り込み、一人当たり130キロを超える「余剰穀物」の徹底した徴発を行いました。

自分たちの食べる分を除き、すべての農産物を徴発されることに対してウクライナの農民たちは1919年4月から7月にかけて、300回余りの暴動をおこしました。

こうしたことからウクライナの農業生産量は減り始め、1921年夏の干ばつによって凶作となり、ウクライナだけでも100万人の農民が餓死しました。

翌1922年は豊作となり、ロシア内戦も一段落ついたことから、農民の強制徴発を辞め、自分たちの食べる分を除いたを農産物の10%を税として納めた残りは、自由市場での売買を認めました(ネップ 新経済政策)。

これにより農業は勢いを取り戻し、やがて第1次世界大戦前の生産量を凌ぐほどになりました。

第一次五ヵ年計画とホロドモール

1924年1月1日レーニンが亡くなり、1927年トロツキージノヴィエフらのライバルを追放して、スターリンが権力を握りました。スターリンは共産主義に反対する外国の脅威からソ連を守るため、ソ連の近代化と工業化を進めることが必要と考え、1928年第一次五カ年計画を実行しました。この計画でウクライナの工業近代化と、集団農場化が図られましたがウクライナの農民たちはこれに反対しました。

レーニンは反対農民たちを反乱分子として土地を取り上げ、シベリアの収容所に送ったり、強制労働や処刑したりしました。このため農民数の減少や生産意欲の減退、さらに単一作物(小麦)の連作障害により1931年と1932年には不作となりました。しかしソ連は農民から穀物の強制収用を続け、ウクライナ国内だけでも、300万人から600万人の農民が餓死することになりました(ホロモドール)。

ホロドモールに関しては、こちらで詳しく解説しています 

第1次5ヵ年計画(1928年~1932年)とホロドモール

特筆すべきは、ホロドモールはソ連の穀倉地帯と言えるウクライナとそれに隣接するコーカサス地方北部で起きており、ロシア全体が飢えに苦しめられた訳ではなかったことです。このためこの大飢饉はスターリンが自営農家を滅ぼすために、人為的に起こしたジェノサイド(大量虐殺)との見方が出ています。

スターリンによる粛清

スターリンは大飢饉の責任を、自営農民の民族主義を抑えきれなかったウクライナ共産党に擦り付けました。このためウクライナ共産党は、1933年から1934年の2年間で約10万人の党員を失いました。続く1937年から1938年の大粛清で17万人が粛清され、ウクライナ共産党は機能を失い1938年フルシチョフがウクライナ共産党第1書記に就任して、ソ連共産党と一体化しました。

その他ウクライナの民族主義を根絶やしするために、大勢の教員や知識人、文作家、民族音楽の演奏家、俳優なども粛清の対象となり脱ウクライナ化を進めました。

第2次世界大戦とウクライナ

映画の中で1939年のモトロフ・リッベントロップ協定と言っているのは、一般に知られている1939年8月23日ナチスドイツとソ連との間で結ばれた「独ソ不可侵条約」のことです。

この条約でドイツとソ連は、ポーランドを解体して両国で折半することを決めました。

ポーランドの地図。青い点線が1939年のポーランド国境。赤い線が独ソ間で合意された分割線

出典ウィキペディア

 

1939年9月1日、ソビエトと条約を結びソ連との戦いを避けられたドイツは、ポーランドに侵攻して西半分を占領しました。これに反対するフランスとイギリスは、ドイツに宣戦布告を出し(9月3日)、第2次世界大戦が始まりました。

1939年9月17日、今度はソ連がポーランド東部から侵攻し、ポーランドの東半分を占領しました。ソ連は占領した地域の北側をベラルーシ(白ロシア)に、南側をウクライナに併合しました。

占領した土地をベラルーシとウクライナに併合した記念切手

「1939年9月17日に親愛なる西ウクライナと西ベラルーシの人民は解放された」(ソビエト連邦の郵便切手、1940年)

出典ウィキペディア

 

バルバロッサ作戦 (1941年6月22日)

1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破り、300万人の軍勢でソ連に奇襲攻撃を掛けました。

この時ウクライナ共産党第1書記のフルシチョフは、380万人の東ウクライナの住民と、850の工場の設備をシベリア西部に避難させました。これにより武器や弾薬の生産が継続され、その後のソ連における戦争を続ける大きな力となりました。

ドイツの狙いはウクライナの穀物と、ドネツク方面の石炭と鉄鉱石の鉱山、さらに進んでカスピ海沿岸のバクー油田の確保でした。これらはドイツにとって戦争を続けるために、ぜひ必要なものでした。

第1次世界大戦後、ウクライナの独立やホロドモールカーなどでひどい目に会ったウクライナの人々は、始めソ連の支配から解放したドイツ軍を歓迎しました。中には率先してドイツ軍に加わった人たちも出ました。

ここで面白いのは、映画で出てくる上の画像ですが本当はウクライナではなく、1941年にソ連が出した兵員募集のポスターの一部です。

人物の後ろの文字は「祖国が呼び掛けている」と書かれています。

映画からのスナップショット(07分01秒)

ウクライナの豊富な資源を求めて東方生存圏の拡大を図るドイツとしては、ドイツ人の植民の妨げるとなるポーランド人、ロシア人、ウクライナ人は邪魔であり人口の減少を願っていました。そのためドイツは、ソ連以上に穀物の徴収を行いました。そのため農業に従事していないキエフやハリコフの住民に、大量の餓死者が出ました。さらに東方労働者(オスト・アルバイター)として230万人の若者がドイツに送られ、軍需工場などで働かされました。

 

ウクライナ民族主義者組織(英語: Organization of Ukrainian Nationalists、OUN)

OUNの元となった組織は、第1次世界大戦の1914年にオーストリア・ハンガリー帝国領下の西ウクライナでウクライナ義勇兵で構成されたシーチ射撃隊でした。彼等はウクライナ独立のためにはロシア帝国の敗北が必要であると考え、オーストリア軍に加わり、ロシア帝国と戦いました。1917年に起こったロシア革命後、シーチ射撃隊はウクライナ独立を目指し、中央ラーダのウクライナ人民共和国に加わります。

1920年7月30日、シーチ射撃隊の大佐エフゲニー・コノヴァレッツは、亡命ウクライナ人と共にチェコのプラハで非合法組織「ウクライナ軍事組織(UVO)」を結成します。ウクライナ軍事組織は「ウクライナ人の土地から征服者の追放」を目的としました。

彼らはボルシェビキ(ソ連共産党)によって支配された東ウクライナの対抗して、ポーランド国内のガリシア地方を中心に政治テロやサボタージュを行い、ポーランド政府を動揺させ西ウクライナの独立を確保することを目指しました。

1929年、UVO の退役軍人と学生過激派が集まり、団結してウクライナ民族主義者組織(OUN)を結成しました。

1930年代OUNは、ポーランド内相、リヴィウ警察署長、在リヴェヴソ連領事の暗殺や、政府施設の破壊などの武力闘争を行いました。

1938年5月23日UVOの創設者エフゲニー・コノヴァレッツがソ連のスパイ、パヴェル・スドプラトフによって暗殺されると、シーチ射撃隊以来からのからのベテラン、アンドリー・メルニクが率いる穏健派(OUN-M)と、青年活動家の支持を得たステバン・バンデラの急進派(OUN-B)との勢力争いとなり、そのまま第2次世界大戦に突入しました。

ステバン・バンデラ 1934年

出典ウィキペディア

ステバン・バンデラは、1909年1月1日、オーストリア・ハンガリー帝国のガリツィア地方に属していたスタルィーイ・ウフルィーニウ村で生まれました。父親のアンドリーイ・バンデーラは村の司祭を務めていましたが、第1次世界大戦終戦間近の1919年6月にウクライナ・ハルィチナー軍に入隊し、従軍牧師として右岸ウクライナでポーランド軍ならびにロシアの赤軍・白軍との合戦に参加しました。

1928年ステバン・バンデラはウクライナ軍事組織(UVO)の一員となり、翌1929年には新たに組織されたウクライナ民族主義者組織(OUN)に入党し、1933年に幹事長に選ばれました。

1935年、前年の6月15日ポーランドの内相ブロニスワフ・ピエラツキ暗殺の容疑者としてポーランド警察に逮捕され、1936年に裁判所から死刑の判決を受けましたが、終身刑に減刑されワルシャワの刑務所に収監されました。

1939年ナチス・ドイツのポーランド侵攻でポーランドが滅亡すると、バンデラはドイツ軍によって解放されてOUNの幹部として戻り、1941年4月にOUNの総裁に選ばれました。

ドイツとの協力とウクライナの独立宣言

ナハティガル大隊とローランド大隊

1939年8月23日に結ばれた「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」により、1939年、ナチス・ドイツがポーランド侵攻したことがきっかけとなり第2次世界大戦が始まると、1939年9月17日ソ連がポーランド領であった西ウクライナに侵攻しソ連に併合されてしまいました。これ以後、OUNは新たな征服者ソ連との戦いに突入します。

この時ドイツが近いうちにソ連に侵攻すると見抜いていたOUN-Bのバンデラはドイツの情報機関アブウェールと接触して、ソ連軍と戦うためのウクライナ人による軍団の創設を打診しました。

1941年2月25日、将来ソ連軍との戦いを予想していたドイツはこれを承認して、250万マルクの資金を与え、総勢800人のナハティガル大隊ローランド大隊による「ウクライナ軍団」の創設を承認しました。ウクライナの独立を目論むバンデラは、ドイツ軍とソ連軍とを戦かわせ双方の軍事力が弱った後で、ウクライナ独立のために新たにテロ組織を強化して正式な軍団を作り、ウクライナを独立させる予定でした。「ウクライナ軍団」はその時のウクライナ軍の中核とする考えでした。

1941年6月22日、ナチス・ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)に伴い、ナハティガル大隊はドイツ戦車部隊と共にリヴィウに向かい、6月29日リヴィウに到着し、放送局を占拠しました。

翌6月30日、ヤロスラフ・ステツコはラジオでウクライナ国民政府の独立を宣言しました。この時、ステツコは自称ウクライナ国民政府の首相に選ばれていました。

リヴィウポグロム

6月30日、OUNがウクライナ国民政府の独立を宣言した後、一斉に民族浄化を訴えるポスターを配布。民兵団を作り、ポグロムを主導、ユダヤ人の処刑を行った。リヴィウにおけるユダヤ人の虐殺は6月30日~7月2日と7月25日~7月29日の2回に分けて行われ、非ユダヤ系による市民による集団で強盗、性的暴行、暴行、殺人も含めて、2000人~7000人のユダヤ人が犠牲になったと言われています。

文字で書くと簡単ですが、実際はとても残酷な行為が行われました。

下のサイトに当時の写真が、掲載されています。

まともに見られない写真がたくさんありますので、心臓の弱い人はご遠慮ください。

1941年のリボフのポグロム。

 

ドイツとしては東方生存圏拡大のためウクライナに侵攻したのであって、ウクライナ人の独立を認めるわけにはいきませんでした。

これにより、ステバン・バンデラとヤロスラフ・ステツコは逮捕され、1941年9月15日政治犯などを収容するドイツ本国のザクセンハウゼン強制収容所に送られてしまいました。

更に、ナハティガル大隊とローランド大隊は1941年8月13日ドイツ軍により武装解除されて、50名ほどがウクライナ語の通訳や翻訳者として採用され、残りは10月21日ウクライナ人による補助警察大隊(第201シュッツマンシャフト大隊)として編成され、レジスタンスやゲリラの取り締まりの他、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)や強制収容所の監督として、白ロシア(現在のベラルーシ、当時はベラルーシもライヒスコミサー(帝国管区)ウクライナとして、ウクライナと同じドイツの占領地でした)で活動しました。

1943年までに、バンデラ派OUN-Bの幹部の8割が逮捕処刑され、穏健派のOUN-Mが主導権を握りました。

バビ・ヤールの大虐殺(1941年9月29日~30日)

バビ・ヤールはウクライナキエフ郊外にある峡谷で、1941年9月29日から30日にかけて、33,771人のユダヤ人が殺されました。

1941年9月19日、ドイツ軍を主力とする枢軸軍がキエフを占領した後、9月20日から28日にかけてソビエトの秘密警察(NKVD)によって市内で爆発事件が続発しました。

1941年9月26日、ドイツの軍事総督クルト・エバーハルト少将はこれをユダヤ人の仕業として、キエフに住む全てのユダヤ人を殺害する決定を下しました。

 

1941 年 9 月 28 日付の通知書 (ロシア語、ウクライナ語、ドイツ語の翻訳付き) 。キエフのすべてのユダヤ人に再定住を想定して、書類、お金、貴重品、防寒着、毛布など 持参して集合するよう命じています。

出典 Wikipedia

この布告に従いキエフ市内のユダヤ人は、ドイツ人による第45警察大隊と第303警察大隊、その下部組織でウクライナ人によって構成されたウクライナ補助警察の部隊とその協力者によって、バビ・ヤールの峡谷に集められました。

峡谷に集められたユダヤ人は ドイツのアインザッツグルッペン(移動殺戮部隊)Cと、そのサブユニットのゾンダーコマンド(特殊作戦部隊) 4a 、及びドイツ秩序警察の第45大隊によって射殺されました。

映画の中で使用しているバビ・ヤールの虐殺現場の写真は、1942年10月14日ミゾッチ・ゲットーで行なわれた、ユダヤ人大量射殺現場の写真です。

映画からのスナップショット(09分20秒)

 元の写真はこちら ↓

サイトには、ユダヤ人を集めて服を脱がせ、射殺後改めて生き残った人を仕留めるまでの、5枚の連続写真があります。

説明によると、列の上の方に映っている監視役は、ウクライナ補助警察部隊です。

出典 Wikiipedia

ウクライナのホロコースト

出典 Wikipedia

バビ・ヤールの虐殺は、1943年11月6日ソ連軍がキエフを解放するまで続き、ドイツ占領中に10万人から15万人が殺されたと見ています。

映画ではOUNの民兵が、15万~20万人のユダヤ人を虐殺したと述べています。

独ソ戦の期間を通じて、ウクライナでは140万人~150万人のユダヤ人がホロコーストの犠牲となりました。

SSガルシア師団(第14武装擲弾兵師団)

映画ではSSガルシア軍団が出来たのは、ドイツがウクライナの侵攻した1939年とされていますが、実はSSガルシア師団は1943年に設立されています。

1943年2月2日、スターリングラードでドイツ軍が降伏し、ドイツの敗色は日に日に濃くなってきました。穏健派のOUN-Mはこれをドイツから譲歩を引き出す好機と捉え、ドイツに協力を申し入れ1943年ウクライナ人によるSSガルシア軍団が創設されました。

ドイツ国防軍内も兵力不足を補うため、ウクライナ人部隊の創設を求めていました。部隊はウクライナ人の反ロシア感情を利用するため、ボルシェビキ(ソビエト赤軍)とだけ戦うことを前提にした為、82000人のウクライナ人が志願して、13000人が選別され入隊しました。

7月から8月にかけてのクルスクの戦いで主導権を握ったソ連軍は、ウクライナ国内に侵攻してきました。

ウクライナの地図。赤い部分がガルシア(ガリツィア)地方。

青い部分が親ロシアと言われるハルキウ州、ドネツィク州、ルハンシク州。

出典 JB press

SSガルシア軍団は1944年7月から参戦しましたが、7月8日から始まったブロディ包囲戦によって大きな損失を受け(SSガルシア師団の損害率は73%)、崩壊してしまいました。最もドイツ軍としてはソ連赤軍を食い止めてくれれば、ウクライナ人が何人死んでも構わないことでした。このため生き残った人の中で約2000名が、ウクライナ蜂起軍に加わり、ドイツ軍とソ連赤軍に対して戦い続けました。

その後ウクライナ国民軍として再編成され、1945年5月10日連合軍に降伏するまで、スロバキア、ユーゴスラビア、オーストリアで作戦任務に就いていました。

ですから、映画の中でSSガルシア軍団が戦争がはじまったころに結成されたとしているのは、嘘です。

上下ともウクライナ・オン・ファイアーからのスナップショット

07分40秒から07分50秒付近

ウクライナ蜂起軍(UPA)

ウクライナの独立宣言後勢力を失ったOUN-Bですが、ドイツによる過酷な穀物徴発や、東方労働者派遣などの政策に反対する人々が集まり、徐々に勢力を戻してきました。

主な組織と人物

タラス・ボロヴェッツ(1908年3月9日~1981年5月15日)とポリシアン・シック

タラス・ボロヴェッツ 。ポリシアン・シックのリーダー

1941年9月2日

出典 Wikipedia 

当時ポーランド領だった西ウクライナのリヴネ地方で生まれた彼は、青年時代の1930年代に起きた世界恐慌のさなか国境を越え、「労働者の楽園」と言われたボルシェビキの支配するウクライナ東部に侵入して、「ホロモドール」で多くの農民が餓死するのを目の当たりに見ました。

1932年、彼は友人たちと一緒に反ロシアの地下組織「ウクライナ国民復興」(UNV)を設立しました。

1940年6月20日、彼はUPA「Poliska Sich(ボリスカ・シック)」(ウクライナ人民解放軍)を結成してソ連領内に侵入し、ゲリラ活動を開始しました。

1941年には「Poliska Sich」は1万人の兵士を有していました。

タラス・ボロヴェッツはバンデラ派のOUN-Bとの連携を図りましたが、OUN-Bの過激な行動についていけず、穏健派であるメルニク派のOUN-Mに属することになりました。

ロマン・シュヘーヴィチ(1907年6月30日~1950年3月5日)

ウクライナ蜂起軍の中心的な人物で、当時オーストリア=ハンガリー帝国内のガリシア王国とロドメリア王国のリボフ市(現在のリヴィウ市)で生まれました。シュヘヴィチの両親はどちらも、19 世紀のウクライナの民族復興に関わっていました。

このため1925年イェヴェン・コノヴァレツ率いるウクライナ軍組織(UVO)に参加し、1928年から1929年までボーランド軍で兵役を務め将来のウクライナ独立に備えて、基本的な軍事訓練を受けました。

ポーランドでの兵役を終えた後、新たに組織されたウクライナ民族主義者組織(OUN)に加わり、ステバン・バンデラと共に、銀行強盗や要人の暗殺などの武力抗争を行い、何度か逮捕されています。

1938年、OUNの指導者コノヴァレッツがソ連のスパイに暗殺され後、OUN がアナドリー・メルニク率いる穏健派の OUN-Mと、ステバン・バンデラが率いる急進派の OUN-Bに分裂した後はOUN-Bに入りました。

UPA(ウクライナ蜂起軍)を指揮したロマン・シュヘーヴィチ。

1930年。

出典ウィキペディア

1939年、ドイツがウクライナに侵攻する情報を掴んだOUN両派は協力し、ウクライナを支配しているソ連に対抗するために、ドイツに対してウクライナ人による軍団の設立を打診しました。ドイツはこれを受け入れウクライナ人による「ナハティガル」大隊と「ローランド」大隊を創設してシュヘーヴィチは「ナハティガル」大隊のウクライナ人指揮官となりました。

1941年6月に独ソ戦が始まると、「ナハティガル」大隊はドイツの機甲師団と行動を共にし、6月29日リヴィウに侵攻しました。

翌6月30日、自称ウクライナ国民政府の首相ヤロスラフ・ステツコはドイツの了承もなしにリヴィウのラジオ局から独立宣言を出してしまいます。

ウクライナ占領後ウクライナ民族主義者による独立戦争の危機を感じたドイツは、首謀者のステバン・バンデラとヤロスラフ・ステツコをドイツ国内にある政治犯などを収容するザクセンハウゼン強制収容所に送りました。

「ナハティガル」大隊と「ローランド」大隊は8月13日に武装解除されてドイツ国内に送られ、10月21日ドイツのフランクフルトで、新たに第201シュッツマンシャフト大隊に編成され、ベラルーシに送られました。

第201シュッツマンシャフト大隊はドイツ秩序警察のもとに設置されたウクライナ補助警察の中の一隊ですが、他の隊との大きな違いは、メンバー全員がOUN-Bに属していることと、設立された場所がドイツ国内であったことです。

隊員は1年の契約でベラルーシ内でロシアのスパイの摘発や、赤軍パルチザンの掃討に活躍しました。

ロマン・シュヘーヴィッチは大尉となり、大隊の副司令官を務めました。

 

ウクライナのナチスドイツ第201シュッツマンシャフト大隊のロマン・シュヘーヴィッチ(前列左から2番目)、1942年。

出典 Wikipedia

ウクライナ蜂起軍(UPA)

ウクライナ蜂起軍の軍旗。

黒はウクライナの大地、赤は流された血の色を表している。

UPAの合言葉「ウクライナに栄光あれ。英雄たちに栄光あれ」は、

今でもロシアとの戦いで使用されています。

出典ウィキペディア

 

1942年10月14日、第201シュッツマンシャフト大隊の大部分の隊員たちは1年の契約更改を前にして新たな契約を結ぶことを拒否し、ロマン・シュヘーヴィッチと共に武器を持ったまま脱走して、OUN-Bの軍事部門であるウクライナ蜂起軍を設立しました。

蜂起軍はウクライナ北部のヴォルィーニ地方に潜み、ここからドイツ軍や赤軍パルチザンに対して戦いを始めました。ヴォルィーニ地方は平地の多いウクライナでは珍しく山や森林があり、またポーランドやベラルーシと接している為、ゲリラ戦を行うには適した地域でした。

ヴォルィーニ地方

出典ウィキペディア

1943年3月、OUN-Bはタラス・ボロヴェッツ のポリシアン・シックを吸収して、ポリシアン・シックの持っていたUPA(ウクライナ蜂起軍)の名前を使用し、ロマン・シュヘーヴィッチの下でウクライナ各地の独立派を一本化しました。この頃からドイツ軍との戦いを盛んに行うようになり、1944年ソ連軍がウクライナ西部まで進攻するようになると、ソ連軍とも戦いました。

ヴォルィーニ(ヴォリン)の虐殺

UPAの本拠地があるヴォルィーニ地方と南側のガルシア地方は、第2次世界大戦前はポーランド領であったため多くのポーランド人が住んでいました。

1939年、ドイツとソ連により占領されたポーランド政府は、初めパリに(1940年にアンジェに移転。その後ナチス・ドイツのフランス侵攻を受け、1940年から1990年のソ連崩壊までロンドンに存在していた。)亡命政府を立て、ポーランド国内のレジスタンス活動を指揮していました。このポーランド亡命政府は、第2次世界大戦に勝利した時は旧ポーランド領だったに西ウクライナの領有を主張し、連合国側もそれを認めていました。

かねてよりウクライナ人によるウクライナ独立を目指すUPAは、ポーランドの支配を防ぐため、ヴォルィーニ地方とガルシア地方に住むポーランド人に対して、ウクライナからの退去を命じていました。

ウクライナの地図上のガリシア

出典 Wikipedia

1943年UPAはウクライナ国内に住む異民族の排除を決定して、ヴォルィーニ地方とガルシア地方に住むポーランド人の殺害を開始しました。

ただ同じUPAでも、OUN-Mに属するタラス・ボロヴェッツはこれに反対し、参加しませんでした。

この虐殺はOUN-Bの指導者ロマン・シュヘーヴィッチ、ミコラ・レベジによって行われ、1945年までに5万人~゜10万人のポーランド人が虐殺されました。

 

1943年、ヴォリン(ヴォルィーニ)のリプニキ村でウクライナ反乱軍によって犯された虐殺の犠牲者であるポーランド人。

出典 Wikipedia

下のサイトにOUN-BとUPAが行った残虐行為の写真が掲載されています。写真だけでも身の毛がよだつ思いがしますが、説明の文章の方は、さらに恐ろしいことが書いてあります。心臓の弱い人は避けてください。

それがバンデラのしたことです。

 

1944年9月ソ連軍が西ウクライナに迫ってくると、ドイツは収容中のバンデラにソ連に対するレジスタンス活動を指導するように提案されましたが、バンデラはこれを断りました。しかしUPAは食糧不足のナチスドイツ軍に食糧を提供し、代わりにドイツ軍は銃、手榴弾、迫撃砲などの小火器を渡していました。

第2次世界大戦を通じて、パンテラが率いるOUN-Bとその軍事部門ウクライナ蜂起軍はウクライナ西部でウクライナ独立を目指し、ドイツ軍やソ連軍と戦いを続けました。ソ連では一時ナチス・ドイツと協力してソ連に抵抗したことにより、彼らを「ナチスの手先」と呼んでいました。

第2次世界大戦後

1950年5月9日、ドイツ軍が連合国に降伏しヨーロッパ戦線は終わりました。しかし、バナデラの願ったドイツとソ連が戦い、双方とも疲弊したところでウクライナを独立させる計画は、ソ連がナチスドイツに勝ったことでヨーロッパ大陸で最大の軍事大国になってしまい、叶いませんでした。

しかしソ連が戦勝国となったおかげで、ポーランド領の東ハリチナー(ガリツィア)・西ヴォルイニ・ポリッシャ地方が割譲され、ルーマニアから北ブコヴィナ地方、チェコスロヴァキアからザカルパッチャ地方を獲得、これらをウクライナ・ソヴィエト共和国に編入しウクライナの領土は大きく広がりました。

終戦後ナチスドイツから解放されたバンデラは、ドイツ南部に潜みOUN-Bの幹部と連絡して、1950年代までソ連に対してパルチザン活動を指示していました。

これに対してソ連はUPAの撲滅に全力を傾け、1945年から1952年にかけてUPAとその家族を含む60万人の西ウクライナ人を逮捕して、その3分の1を処刑して、残りは投獄または北方に追放しました。

同じ時期、ソ連も約3万5千人のソビエト警察部隊と共産党幹部がUPAによるゲリラ活動により、殺害されています。

UPAによるパルチザン活動はソ連による支配が確立した1950年には、それまで支援を受けていました農民たちが、集団農場となったことで支援を受けられず勢力が衰えてきました。

また、ソ連は1947年からUPAにスパイを送り込み内部から切り崩しをかけ、1950年3月5日ロマン・シュヘーヴィッチはMGB (ソ連国家安全保障省内の秘密警察) による隠れ家の襲撃で死亡しました。

指揮官を失ったUPAは弱体し、西ドイツでウクライナ民族主義者組織(OUN)を通じてウクライナ独立運動を続けていたステパーン・バンデーラも、1959年10月15日に西ドイツのミュンヘンでソ連のKGBスパイによって殺されると、ウクライナ独立運動は終わりました。

第2次世界大戦とその戦後、ソ連支配からの離脱を目指してソ連と戦い続けてきたバンデラは、ソ連邦時代のウクライナ人民共和国では悪者扱いをされていました。

バンデーラが英雄視されるようになるのは、1991年ソ連崩壊によるウクライナ共和国として独立後して、ウクライナがロシアの支配から逃れて、西欧諸国に接近するようになってからです。

マイダン革命

ウクライナの独立からマイダン革命まではこちらのブログをご覧ください

なぜロシアはウクライナに侵攻したのか。その1 ウクライナ独立からマイダン革命まで

ウクライナ独立後第2代大統領となったレオニード・クチマは、EUやNATOに加盟を表明する一方、ロシア連邦とウクライナの間の友好協力条約を結び、東西両陣営から中立の立場をとっていました。

しかし、ウクライナが西側諸国に近づくのを嫌うロシアは天然ガスの価格を上げることでウクライナに圧力をかけ、クチマ大統領は政策に反対していたジャーナリストを殺害するなどの、ロシア寄りの政策を採るようになりました。

また国営企業の民営化に伴う売却で、財力を得たオリガルヒ(新興財閥)との癒着や汚職も問題となりました。

オレンジ革命

2004年5月、かってソビエト連邦を構成していた東欧8ヵ国(チェコ・スロバキア・ポーランド・ハンガリー・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニア)が一挙にEUに加盟しました。ウクライナはこのうち、ハンガリー・ポーランド・スロバキアと直接国境を接することになります。

2004年10月31日の大統領選挙では、ヴィクトル・ユシチェンコが39.26%、ヴィクトル・ヤヌーコビッチが39.11%との得票率を獲得しましたが、両者とも過半数に達しないため、決選投票となりました。

11月21日に行われた決選投票では、ヤヌコーヴィチが49.64%、ユシチェンコが46.61%を獲得し、ヤヌコーヴィチの勝利となりました。

しかし選挙結果に不正があったとする人たちが、選挙のやり直しを求めて広場に集まり抗議集会を行いました。

2004年11月22日、首都キエフでの抗議集会

ユシチェンコ派のシンボルカラーであるオレンジ色の旗を振っていたことから、「オレンジ革命」と呼ばれました。

出典ウィキペディア

12月3日、抗議を受けた最高裁判所は決選投票に不正があったとして、選挙結果は無効と判断しました。

12月26日に改めて行われた決選投票では、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票でユシチェンコ側が勝利しました。

2004年の大統領選挙では、今までのようにロシア寄りの共産主義経済をとるか、欧米よりの自由主義経済をとるかの戦いより、前のクチマ大統領の執った「言論の自由」や「民主化」を抑圧するロシア的な政治に賛成するか、反対するかの戦いになった為、デモ隊に対しての過度な取り締まりは行われず、ウクライナの人々は初めて「言論の自由」により政治を変えることが出来ることを知りました。

 

EU加盟を目指すユシチェンコ大統領に対して、ロシアはウクライナ向けの天然ガスの料金を大幅に上げて嫌がらせを始めました。選挙前の2004年9月1000立方メートル50ドルを、選挙後の2005年3月に160ドルにしたのです。

ユシチェンコ大統領は「ガスの女王」と呼ばれるオリガルヒのユリヤ・ティモシェンコを首相に任命して交渉に当たらせましたが、汚職事件を起こし失脚してしまいました。

このため大統領選挙の競争相手であった親ロ派のヤヌーコビッチが首相返り咲き事態の解決をはかりましたが、かえって政権の分裂を招きユシチェンコ政権は自壊してしまいました。

この間にウクライナではロシアの支配に反発する極右組織が勢力を伸ばしし、ユシチェンコ大統領も第2次世界大戦中から戦後にかけてウクライナ独立のため働いたOUNのステバン・バンデラに対して、2010年「ウクライナ英雄」の称号を授与しました。

この映画によって、ユシチェンコ大統領の二度目の妻カテリーナ・ユシチェンコがシカゴ生まれのアメリカ人であることを知りました。

カテリーナ・ユシチェンコ

カテリーナ・ユシチェンコ

出典ウィキペディア

彼女の父親ミハイロ・チュマチェンコは第2次世界大戦中ソ連兵として戦い、1942年ドイツ軍に捕らえられてドイツに連行されました。

母親のソフィア・チュマチェンコは14歳のとき奴隷(オストアルバイター)としてドイツに移送され、ドイツ国内で強制労働させられていました。

両親はドイツ国内で出会い、1945年に結婚し、1956年アメリカに移住して1961年9月1日シカゴでカテリーナ・ユシチェンコを出産しました。

彼女は1986年シカゴ大学経営大学院でMBAを取得した後、ロナルド・レーガン政権下のホワイトハウスの公共連絡局、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の間、米国財務省の事務局長室で働いていました。

1993年KPMG入社後ピート マーウィック/バレンツ グループの銀行トレーニング プログラムおよびカントリー マネージャーのコンサルタントとして勤務し、そこで彼女はヴィクトル ユシチェンコと出会い1998年1月に彼と結婚しました。

アメリカ国籍を持つ彼女は、2004年の大統領選挙では反対陣営のレオニード・クチマ元大統領や候補者のヴィクトル・ヤヌコーヴィチからアメリカのスパイとして叩かれました。

彼女は2005年にウクライナの市民権を収得しています。

2010年のウクライナ大統領選挙

2010年1月17日に行われたウクライナ大統領選挙では、前回の大統領選挙でヴィクトル・ユシチェンコに敗れたヴィクトル・ヤヌコーヴィチが第1位(得票率35.32%)、首相を務めたユーリヤ・ティモシェンコが第2位(得票率25.05%)となりましたが、ともに過半数を取れず、決選投票に持ち込みました。なお現職のヴィクトル・ヤヌコーヴィチは人気が落ち、得票率5.45%しか取れず第5位となってしまいました。

1か月後の2月7日に行われた決選投票では、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが得票率48.95%で、対立候補のユーリヤ・ティモシェンコの45.47%をわずかに上回り、第4代ウクライナ大統領に就任しました。

親ロ派にも関わらず、欧州連合(EU)との政治・貿易協定の仮調印を済ませたは、2013年欧州連合(EU)との政治・貿易協定の仮調印を済ませましたが、ロシアの妨害(天然ガスの料金値上げ、ウクライナとの貿易停止)に会い、調印を見送りました。

これに対してキーウの独立広場(マイダン)で大規模な反政府デモが起こり、最終的にヤヌコーヴィチ大統領はロシアに亡命することになりました。

・・・続く・・・

 

 

 

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