2024/09/20
1991年間の8月革命の後、ソ連が崩壊してウクライナはそれまでの「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」から、新たに「ウクライナ」として独立しました。しかし、ロシア依存の経済は変わらず、独立後はロシアから脱却してEU加盟を望む親欧米派と、今まで通りロシア依存を望む親ロシア派との間で、政局は大きく揺れ動きました。
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亀仙人2ウクライナの現代史
第2次世界大戦後からソビエト連邦崩壊まで
1953年、ソビエト連邦の一部としてウクライナの独立派を抑え「ロシア化」を進めていたスターリンが亡くなり、ウクライナ出身のニキータ・フルシチョフが第一書記及び首相に就任しました。
フルシチョフ政権下では、スターリンの大粛清の犠牲になった民族主義者の名誉回復が行われ、ウクライナ共産党の書記長や幹部にウクライナ人が登用されました。またそれまで禁止されていたウクライナ語の使用も許されました。
1954年2月19日ペレヤスラフ協定300周年を記念してクリミア半島をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管しました。
1964年10月、フルシチョフは解任され新たにレオニード・ブレジネフが第一書記に就任しました。
ブレジネフ政権下では冷戦時代から続く軍事や重工業を重視し、民生用産業を軽視したことから経済が停滞し始めていました。特に西側諸国と境を接する東欧において、ソビエト連邦の経済政策に疑問を持ち独立して独自の経済政策を打ち出そうとする国が現れました。
1968年チェコスロバキアで経済の停滞と言論の抑圧などに対する不満が爆発し、民主化運動が高まりプラハの春と言われる改革運動が始まりました。
これに対してブレジネフは、15万のワルシャワ条約機構5か国による軍隊を介入させて抑え込みました。
これによりソビエト連邦を構成する国々の自由化は抑えられ、ウクライナでは民族主義者の逮捕や、ウクライナ語の出版物の制限などが行われました。
その反面、ウクライナの工業化を進めるためドニエプル川に5つの水力発電所と、8基の原子力発電所の建設を計画しました。
これによりウクライナの工業を発展させるはずでしたが、1978年から始まったソ連のアフガニスタン介入による戦費の拡大により、反対に経済は衰退してしまいました。
1985年、ミハイル・ゴルバチョフが書記長に着くとロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカとチェルノブイリ原発事故を隠蔽し問題となったことを契機に「情報公開」を意味するグラスノスチを推し進めました。
この2つの政策は本来ソビエト連邦共産党による一党独裁体制の問題点を洗い出し、新たな社会主義政権を作り直すためのものでしたが、逆に共産党政権の悪い点を見て、ソ連を構成する各共和国のソ連邦離れと独立を促すことになってしまいました。
ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる改革・開放を求める運動が起き、弾圧されてきたウクライナ語の使用や弾圧されてきたウクライナ語の使用や、ウクライナカトリックの解放を求め、1989年ウクライナ語の公用化と、ユニエイト(東方典礼カトリック教会)が公認されました。
1989年9月、作家連盟などを中心に民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」(通称「ルフ」)が結成され、翌1990年3月にはウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、ルフを中心とする民主勢力がウクライナ共産党を抑え、大きな勢力を占めました。
1990年7月16日、最高会議はウクライナの独立を採択します。しかし、この時はまだソビエト連邦を構成する共和国の1つでした。
翌1991年8月15日、ソ連で8月クーデターが起こります。
ソビエト連邦崩壊とウクライナ独立
8月革命からソビエト連邦の崩壊
1985年3月、ソビエト連邦の新書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任しました。彼は硬直したソビエト政府を立て直すためにペレストロイカを提唱し、チェルノブイリ原子力発電所事故の教訓から情報公開を意味するグラチノスと共に、共産党による計画経済・統制経済を廃止し自由主義経済をとり入れ新たな経済政策を打ち出しました。また経済のみならず、言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化も行い、社会全体の活性化も図りました。
1987年、ワシントンDCのホワイトハウス図書館でのゴルバチョフ
出典 Wikipedia
1988年12月憲法改正により、今までの共産党一党支配からの脱却を目指し、ソ連共産党と党政治局が支配していたソビエト連邦最高会議に変わり、新たに人民代議員大会が創設され、共産党以外の政党も認め1989年3月26日に行われた第1回人民代議員大会選挙では、旧来の共産党幹部の多数が落選する一方、急進改革派のアンドレイ・サハロフや共産党を離れたボリス・エリツィンが当選するなど非共産党員の議員が当選しました。
5月に開かれた第1回人民代議員大会で、それまでのソ連共産党書記長に変わり、ソ連人民代議員議長が国家元首に定められ、ゴルバチョフが初代議長に就任しました。
東欧革命
この動きによってソ連による東欧諸国へ影響力が弱まり、1989年にはポーランド(6月18日)とハンガリー(10月23日)における非共産党国家が成立しました。
11月9日には東西ベルリンを隔てるベルリンの壁が崩壊し、11月17日チェコスロバキアではビロード革命が起こり、12月に非共産党系による新政権が発足しました。
12月25日、ルーマニアでニコラエ・チャウシェスク政権が打倒され、共産党そのものが非合法化され、翌1990年5月20日には自由選挙制による大統領選挙と国会議員選挙が同時に行われ救国戦線評議会議長であったイオン・イリエスクが大統領に就任しました。
1990年3月12日~15日かけて行われた第3回人民代議員会議で、ゴルバチョフは権力強化のため新たに大統領職を設け、人民代議員議員の投票により、初代大統領に就任しました。
1990年12月の第4回人民代議員大会で憲法改正が行われ、大統領は、人民代議員議員の選挙ではなく、ソビエト国民の選挙で決めるように改正されました。
これにより、ソビエト政府の実権は共産党から、国民によって選ばれた大統領に移り、共産党の力が弱くなってしまいました。
8月革命とウクライナの独立
1991年3月11日、先の東欧に続いてエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国が独立を宣言しました。
1991年3月17日、ソビエト連邦を構成する15の国において連邦制維持のために、今までの中央集権的なソビエト社会主義共和国連邦から、各国が主権を持つ緩やかな国家連合としてのソビエト主権共和国連邦に移行する是非を問う国民投票が連邦を構成する各国で行われました。
この投票では、既に分離独立を宣言して投票を拒否したバルト三国(エストニア共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国)、モルダビア共和国(現在のモルドバ)、グルジア共和国、アルメニア共和国を除く各国で70%以上の賛成票を得て、1991年8月20日各国は新連邦条約に署名することになりました。
ところが署名前日の、1991年8月18日午後5時、新連邦条約に反対する保守派の国家非常事態委員会(主なメンバーは、ヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB議長、ボリス・プーゴ内相、ドミトリー・ヤゾフ国防相、ヴァレンチン・パヴロフ首相、オレグ・バクラーノフ国防会議第一副議長、ワシリー・スタロドゥプツェフソ連農民同盟リーダー、アレクサンドル・チジャコフ国営企業・産業施設連合会会長)のワレリー・ボルジン大統領府長官ら代表団が、クリミア半島にある別荘で休暇中のゴルバチョフ大統領に対して、ヤナーエフ副大統領への全権委譲と非常事態宣言の受入れを迫りました。
これに対してゴルバチョフ大統領は要求を拒否し、別荘に軟禁されてしまいました。
翌8月19日午前6時半、国家非常事態委員会は『ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ』との声明を発表し、モスクワ市内に戦車を出動させ、全権を掌握しました。
これに対して同日の午前11時、ロシア共和国(ソビエト連邦を構成する国家の一つ)大統領のボリス・エリツィンは『クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法』との声明を発表し、クーデターに参加した戦車兵を説得して、自ら戦車の上に乗り旗を振って、国民にゼネストを起こすよう呼びかけました。
ロシア共和国大統領、ボリス・エリツィン
出典 ウィキペディア
これに応じて1万人の市民たちが市内のロシア最高会議ビル前にバリケードを築き、火炎瓶や銃を手にクーデター派の軍隊に対して抵抗の意思を表しました。
8月21日午前0時、国家非常事態委員会はロシア政府ビル前に集まった市民約10万に対して、戦車隊の突撃を命じました。
これに対してロシア共和国側は発砲を許可し戦車2台を破壊するも、10数名の市民が死亡しました。
午前5時、国家非常事態委員会は戦車隊に撤退を命じ、以後両軍とも事態を静観すると確約しました。
午前11時40分、国家非常事態委員会の実質的リーダーであるクリュチコフKGB議長がエリツィンにゴルバチョフ大統領との話し合いを申し出る。ロシア最高会議はイワン・シラーエフ首相を代表に任命、ゴルバチョフ救出のためクリミアに派遣することを決定した。
午後1時53分、エリツィンはクーデターが未遂に終わったことを宣言しました。
8月22日深夜ゴルバチョフ大統領はモスクワに戻ってきましたが、クーデターを起こしたメンバーはいずれも共産党の主要幹部でゴルバチョフ大統領の直属の部下だったこともあり、共産党とゴルバチョフの権威は失墜した。8月24日、ゴルバチョフ大統領は共産党書記長を辞任し、同時に共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止する決議を採択し、同党は事実上の解体に追い込まれました。
ソ連共産党が力を失ったことで、各共和国で独立の動きが活発化して、9月6日バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立が認めれられ、12月3日、ウクライナが国民投票の結果独立を宣言して認められました。
1991年12月25日、ソビエト連邦(正式にはソビエト社会主義共和国連邦)はソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、それまでソビエト連邦を成立させていた15の国々が独立してソビエト連邦が崩壊していまいました。この時ウクライナも、独立の是非を問う国民投票で9割以上の独立賛成票を得て、ソビエト連邦から正式に独立しました。
ソ連崩壊後の独立した連邦構成共和国
1.アルメニア 2.アゼルバイジャン 3.ベラルーシ 4.エストニア
5.ジョージア 6.カザフスタン 7.キルギス 8.ラトビア 9.リトアニア
10.モルドバ 11.ロシア 12.タジキスタン 13.トルクメニスタン
14.ウクライナ 15.ウズベキスタン
出典ウィキペディア
ソ連崩壊後の独立に際して、1991年8月25日ウクライナ最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除し国名を「ウクライナ」としました。
1991年12月のウクライナ独立の是非を問う国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれました。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されました。
1991年の独立からクリミア危機まで
初代大統領 レオニード・クラフチュク(1991年12月5日~1994年7月19日)
ウクライナの大統領職は、ソ連の8月クーデター(1991年8月15日)後の8月24日、ウクライナの独立宣言に伴い制定されました。任期は5年で2期を超える再選は禁止されています。副大統領職はなく、大統領が不在の場合は首相が大統領職を代行します。
1991年12月1日にウクライナで独立を問う国民投票が行われ圧倒的多数で独立が決定されました。その時一緒に行われた大統領選挙で、シオニード・クラフチュク最高会議議長がウクライナ初代大統領に選ばれました。
レオニード・マカロヴィッチ・クラフチュク
出典 ウィキペディア
クラフチュクは1934年ウクライナ西部のリウネ州で生まれ、1958年キエフ国立大学を卒業し、ソ連共産党に入党します。以後ウクライナ共産党中央委員会宣伝・煽動部次長、イデオロギー部長、書記、政治局員を歴任する。1990年にはソ連共産党中央委員に選出され、同年ウクライナ最高会議議長に選出されました。
1991年の8月クーデターでソ連共産党が非合法化されたことで、ソ連共産党から離れます。12月1日に行われた選挙で、ウクライナ初代大統領に選ばれました。したがって彼は典型的な『ノーメンクラトゥーラ(共産党エリート)』です。
大統領としての最初の仕事は、1991年12月8日エリツィン・ロシア大統領、シュシケビッチ・ベラルーシ最高会議議長とベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と中央集権的な連邦制に変わり、それまでソ連邦を構成していた15ヶ国のうちバルト3国を除いた12ヶ国でより緩やかな国家連合体である独立国家共同体(CIS)の結成することで合意しました。(ベロヴェーシ合意)。
この会談の結果、12月31日に連邦制のソ連は崩壊することになりました。
ウクライナ独立後のクラフチュクは脱ロシア化をすすめ、今までの計画経済から自由市場経済への移行を目指し、価格統制の終了、政府の補助金の停止、国有産業の民間部門への移行、海外貿易の自由化などの政策を実行しました。
しかしこの新政策はオリガルヒによる企業の独占化に伴う物価の高騰に加え、今まで同じソ連邦内のため格安で供給されていたロシアからの石油や天然ガスが、はるかに高い国際価格になり、1000%を超えるインフレが発生しウクライナ経済が破綻してしまいました。
そのため国民の支持率が急落し、クラフチュクは任期満了前の1994年7月に大統領選挙を行い国民の信任を問うことに同意しました。
第2代ウクライナ大統領 レオニード・ダニロヴィッチ・クチマ(1994年7月19日~2005年1月23日)
レオニード・ダニロヴィッチ・クチマ
出典 ウィキペディア
クチマは1938年8月9日ウクライナ北部のチェルニゴフ州生まれのウクライナ人です。1960年ドニエプロペトロフスク国立大物理工学部卒業し、旧ソ連最大の戦略ロケット工場「ユージマシ」に勤務し、1986年総工場長になりこの時ソ連共産党に入党します(1991年のソ連8月クーデター後共産党から離党)。
1992年10月,レオニード・M.クラフチュク大統領により首相に任命されたが,1年後には経済政策をめぐって対立し,辞任しました。
1994年7月10日の大統領選挙にクチマは、現職のクラフチュクに挑戦する形で立候補して、クチマは過半数を超える52.14%を獲得し第2代大統領に就任しました。
ブダペスト覚書
クチマ大統領の最初の仕事は、ソ連崩壊後にウクライナに残された旧ソ連軍の核ミサイルの撤去を決めるブダペスト覚書に、署名することでした。
1994年12月5日、ブダペスト覚書に署名する各国首脳
手前から、エリツィン大統領(ロシア)、クリントン大統領(アメリカ)、クチマ大統領(ウクライナ)、メジャー首相(イギリス)
出典 bastion.tv
ソビエト崩壊の時ソ連軍が配備していた戦略核兵器が、ウクライナに1900発、カザフスタンに1410発、ベラルーシ―に81発がそのまま残されました。おかげでウクライナは、ロシア・アメリカに次いで第3位の核保有国になってしまいました。
そこでアメリカ・ロシア・イギリスの3ヶ国は欧州安全保障協力機構(OSCE)会議において、ウクライナ・カザフスタン・ベラルーシの3ヵ国が核拡散防止条約に加盟して核兵器の所有を放棄(実際はロシアに移転)する代わりに、協定署名国(つまりアメリカ、ロシア、イギリス)がこの3カ国に安全保障を提供する、という内容の覚書の署名が行われました。また残りの核保有国の中国とフランスは、別々の書面で若干の個別保障をしています。
詳しい内容は下の通りです。
1.ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナの独立と主権と既存の国境を尊重する。
2.ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに対する脅威や武力行使を控える。
3.ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに政治的影響を与える目的で、経済的圧力をかけることは控える。
4.「仮にベラルーシ/カザフスタン/ウクライナが侵略の犠牲者、または核兵器が使用される侵略脅威の対象になってしまう」場合、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに支援を差し伸べるため即座に国連安全保障理事会の行動を依頼する。
5.ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに対する核兵器の使用を控える。
6.これらの誓約事に関して疑義が生じた場合は、互いに協議を行う。
引用 ウィキペデア
この条約は2022年、ロシアによるウクライナ侵攻で破られています。アメリカとイギリスは、ウクライナに与えた「安全保障」は軍隊の派遣を意味するものではないとして、兵器や物資の援助のみを行っています。
ウクライナの経済問題
大統領になったクチマにとって、最大の問題は経済問題でした。
1993年のインフレ率は10,000%を超え、1994年には400%を超えました。1994年には、GDPの記録的な低下が記録されましたマイナス22.9%。経済のほぼすべてのセクターで、生産は産業を含めて27%減少し、建設では35%減少しました。1994年の結果によると、ウクライナのGDPは1990年レベルの54.4%でした。ウクライナはロシアに対してエネルギーのために多額の債務を負っていました。ウクライナには、本格的な国の通貨、銀行システム、社会基金、食品、金融、その他の市場はありませんでした。実際、中産階級はなく、中小企業はまだ揺籃期にありました。
1995年に発行された100万クポーン札
出典 ウィキペディア
1994年7月に選出されたクチマ大統領は,IMFの融資とガイドライン,世銀の経済支援等を背景に,(i)財務省の中央銀行からの大規模借入の廃止,(ii)国有企業等への各種補助金の廃止,(iii)価格の自由化の推進,(iv)為替レートの一元化及び外貨市場の自由化,(v)企業の税負担の軽減を主な内容とする経済政策を実施し,インフレを収束させた。1996年8月,ウクライナ政府は10万分の1のデノミを実施し,同年9月に自国通貨の「フリヴニャ」を導入した。
1996年9月2日デノミ後に使用開始された10フリヴニャ札
上の100万クポーン札を10万分の1の単位に切り下げた新札
出典 ウィキペディア
その反面1997年5月31日、ロシアとの友好関係を保つため、、ロシアのエリツィン大統領とともに、ロシア連邦とウクライナの間の友好協力条約に署名しました。
更にエネルギー確保のため3か所の原子力発電所を建設し、鉄道の施設を更新しました。
1999年11月の大統領選挙で、クチマは再選されました。
こうした努力のおかげで、2000年になってウクライナ独立後初めての6%のGDPプラス成長を記録し、以後6年間にわたりGDPプラス成長をなし遂げました。
その反面オリガルヒ(新興財閥)も急激に成長し、政府との癒着を強めていきました。経済発展のためには、道路や鉄道、電力などの社会基盤の開発が必要ですが、その費用を確保するためには強力な企業や財閥の力が必要です。したがって企業や財閥は費用を負担する代わりに、政府からいろいろ便宜をはかってもらいます。こうしてクチマ大統領とオリガルヒの間で、汚職が進むことになりました。
この様な出来事は資本主義が発展する過程で見られることで、アメリカのロックフェラーやモルガン、イギリスのロスチャイルド、明治初期の日本にでは江戸幕府の御用商人を経て政商と言われた三井や、三菱、住友、などの各財閥、韓国では1960年代後半漢江(ハンガン)の奇跡と言われ急速な経済発展を遂げた時に誕生した、韓進グループや現代財閥・大宇財閥などの新興財閥があります。
イギリス政府とロスチャイルド家の関係についての解説はこちら ↓
アメリカ政府とモルガン家の関係についての解説はこちら ↓
この様な汚職は政府幹部だけでなく、個人のレベルで行われました。
2008年のManagementSystemsInternational(MSI)の社会調査によると、最も高い汚職レベルは、車検(57.5%)、警察(54.2%)、医療(54%)、裁判所(49%)で見つかりました。および高等教育(43.6%)
贈収賄の最大の受取人は、警察、保健サービス、教育システムです。2000年代後半から2010年代初頭にかけて、政府と取引したウクライナ人の約67%が、腐敗した取引に直接関与していたと答えた。
引用 Wikipedia
汚職大国ウクライナ
世界中の腐敗との戦いと腐敗に絡む犯罪防止を目的とする国際非営利組織トランスペアレンシー・インターナショナルの調査によると、2021年ウクライナは180国中122位にランクされ、ロシアの136位に次いでヨーロッパで2番目に汚職の多い国とされています。
汚職の原因の一つが『ノーメンクラトゥーラ』と呼ばれる共産党のエリート層です。旧ソ連を含む東欧各国の社会主義国は共産党による一党独裁であり、政治に携わる人物は全て党の任命と承認を受けた人物である必要がありました。そのため党の役職に就く人物を候補者名簿に登録しておく必要がありました。この名簿に登録されるには、名簿上位者の同意が必要なため、派閥や縁故主義の温床となりました。この制度は共産党崩壊後も残り、官僚組織の根幹となっています。
もう一つが、民営化に伴う新興財閥『オリガルヒ』の台頭です。これはソ連崩壊後、社会主義経済から資本義経済に移るとき誕生した財閥です。
ソ連崩壊後、資本主義に移るためには国有企業を民営化する必要がありました。民営化の一つの手段として国有企業は国民全体の所有物であるから、国民一人一人に民営化証券(バウチャー)を配り民営化企業の株券と交換できるようにしました。ところが大半の国民にとって資本主義になじみがないことから、株券の価値が分からず、ただの紙でしかありませんでした。
1992年ロシアで発行された民営化バウチャー
出典 Wikipedia
そこで自由化の波に乗って大儲けをした個人事業者や、先に述べた旧共産党の幹部(ノーメンクラトゥーラ)によって、実際の株価よりもはるかに安い値段で買いたたかれることになりました。
また、オリガルヒが経営する民間銀行が国営企業の政府が持つ株式を担保に融資を行い、ロシア連邦政府が期限までに資金を返済できない場合(たいていの国営企業は今まで通り採算を度外視した経営を行い、借金を返せないことが多い)、銀行は担保に取った株式を保有又は売却して、国営企業が実際の企業価値よりも安い価格で、オリガルヒの手に渡ってしまいます。
こうして大量の株式を手に入れ経営権を握った企業家は、カルテル・トラスト・コンツェルンなど今日の独占禁止法で規制されている制度が整っていないことを利用して、大儲けをしました。
こうして誕生したオリガルヒたちは、政府の要人に賄賂を贈り、事業の拡大に有利になるようにさらなる規制の緩和や廃止、競合相手が生まれにくくなるような妨害を依頼して政界との癒着状態を作り出しました。したがってオリガルヒは開かれた資本主義よりも、独占や寡占状態を作れる政府を望み、基本的には親ロシア派です。
2008年には、ウクライナで最も裕福な50のオリガルヒの総資産は、ウクライナのGDPの85%に相当しました。
引用 Wikipedia
ウクライナの汚職は急激な経済発展を遂げたクチマ大統領から、次のユシチェンコ大統領の時代(2000年~2010年)に広まりました。
ウクライナの汚職についてはこちら(英語版 wikipedia ウクライナの汚職 )をご覧ください。
クチマ大統領にとって大きな汚点となったのが、汚職問題を追及して政府に批判的な報道をしていた独立系ジャーナリスト、ゲオルギー・ゴンガゼの殺人事件でした。
2000年9月16日の夜、ウクライナ・プラウダの創設者のゴンガゼは編集長の家を出た後、行方不明となり約1か月後の11月2日キーウから約100㌔離れた森の中で首を切られた死体で発見されました。
ゴンガゼの失踪から2ヶ月後の2000年11月28日、社会党のリーダーであるアレクサンダーモロスは、クチマ大統領と政府高官との間でゴンガゼ排除に関して行われた会話の秘密記録を持っていることを、議会とジャーナリストに明らかにしました。(カセットスキャンダル)
この会話は、クチマ大統領のガードマンをしていたメルニチェンコ、ニコライ・イワノビッチ(事件後、彼は家族とともにアメリカに亡命しました)が内緒で録音していたものでした。
この報道の後「クチマのないウクライナ」を求める抗議集会が起こり、クチマ大統領の支持率が急減しました。
2月6日の抗議集会
出典 Wikipedia
2004年の大統領選挙とオレンジ革命
2000年になるとウクライナに接するポーランド・スロヴァキア・ハンガリー・ルーマニアでEU(欧州連合)加盟の動きが出てきました。EU内では関税が撤廃され自由に貿易が出来る反面、EU域外の国との貿易には関税がかけられてしまいます。
そのためウクライナでは、ロシア依存の経済から脱出して、ヨーロッパ諸国との貿易拡大のため、EU加盟を望む勢力が出てきました。
2004年5月1日、ウクライナと接するポーランド・スロヴァキア・ハンガリーを始め、チェコ・エストニア・ラトビア・リトアニアの東欧諸国と、地中海のマルタとキプロスがEUに正式加盟、ルーマニアとブルガリアも2007年7月1日に正式加盟しました。
EU加盟国。灰色の国は加盟候補国
出典 国土交通省国土政策局
2004年10月31日に行われた大統領選挙には、ロシアとの関係を重視する現職の首相ヴィクトル・ヤヌコーヴィチと、、ヨーロッパへの帰属を唱える野党代表で前首相(当時)のヴィクトル・ユシチェンコとの一騎打ちとなりました。
10月31日の大統領選挙の結果、ヴィクトル・ユシチェンコが39.26%、ヴィクトル・ヤヌーコビッチが39.11%との得票率を獲得しましたが、両者とも過半数に達しないため、決選投票となりました。
当時ウクライナの大統領選挙では、単独で過半数を取れなかった場合上位2者で決選投票を行い、過半数を取れなくても、得票数の多い方が当選する仕組みでした。
2004年11月21日に決選投票が行われ、翌22日午前2時、ウクライナ選挙委員会から投票用紙の33%を超えた時点での得票率はヤヌコビッチ首相が50%の票を獲得し、ユシチェンコが46%を獲得したと報告しました。
この時ロシアのプーチン大統領は、ヤヌコーヴィチ首相に選挙に勝利したお祝いの電話をかけています。
反対にユシチェンコ陣営は、決選投票において全国で1万1000件の不正が行われ、第一回投票の5倍に膨らんだと、政権側の選挙違反を糾弾しました。
投票直後に行われた出口調査で、ユシチェンコが優勢との予想に反したこの結果に納得のいかないユシチェンコ支持者たちがユシチェンコ候補のイメージカラーであるオレンジ色の旗を掲げて、ウクライナ中央選挙委員会のあるビルに抗議のため集まりました。やがてこの抗議運動は、キエフを中心にストライキなどを含む大規模な政治運動となりました。
11月24日にウクライナ中央選挙委員会から発表された結果は、ヤヌコーヴィチが49.64%、ユシチェンコが46.61%を獲得し、ヤヌコーヴィチの勝利となりました。これを受けてユシチェンコの支持者たちが議会に乱入し、建物を実力選挙して政権側に選挙結果の見直しを迫りました。
2004年 11月 22 日、選挙に抗議するためキエフの広場に集まった人達。
出典ウィキペディア
この出来事は報道を通じて世界に広まり、プーチン政権は世論操作・資金提供など、あらゆる手を尽くしてヤヌコーヴィチ首相を応援しているとされ、アメリカのパウエル国務長官は24日の記者会見で「選挙が国際基準を満たしていないため、選挙結果は正当とはいえない」とし、経済制裁も辞さない構えをみせました。
翌11月25日、ユシチェンコ陣営は大統領選挙に不正があったとウクライナ最高裁判所に訴状を提して、受け入れられました。
12月3日、ウクライナ最高裁判所は選挙中に多数の法律とウクライナ憲法違反を発見し、ユシチェンコの要求を部分的に満たしました。特に、第2ラウンドの投票は無効と宣言され、改めて決選投票が行われることになりました。
12月26日に改めて行われた決選投票では、ユシチェンコが52.12%、ヤヌコーヴィチが44.09%の得票でユシチェンコ側が勝利しました。
最高裁の決定を受け、議会では、選挙法改正に向けての動きが活発化した。まず、
不正を防止するために大統領選挙法が改正された。この過程で、8 日に憲法改正案(2005 年 9 月
1 日施行、後に 2006 年 1 月 1 日施行に変更)が可決された。改正憲法により、大統領は、「議
会多数派に属する会派の提案により、首相候補を議会に提案する」ことになった。大統領の首相
候補が、議会承認にかけられる点は従来と同じである。また、議会は「大統領が提案する首相、
国防相、外相を承認する権限」、「首相、国防相、外相を解任する権限」、「首相が議会に提案
する他閣僚を承認する権限」、「他閣僚を解任する権限」を新たに手に入れた。他方、大統領は、
単独で首相候補を提案できる権限や首相および閣僚を解任できる権限を奪われた。
この一連の動きを称してオレンジ革命と言います。
2005年ウクライナで発行されたオレンジ革命の切手
出典 Wikipedia
オレンジ革命の間、新欧米派のオリガルヒで女性政治家のユリア・ティモシェンコは自らの政治集団ティモシェンコ・ブロックを率いてユシチェンコ陣営を助け、オレンジ革命のジャンヌ・ダルクと言われました。
ユリア・ティモシェンコ
2009年11月のユリア・ティモシェンコ
三つ編みにした髪を頭に巻いたヘアースタイルは、
彼女のトレードマークになっています。
出典 Wikipedia
1960年,旧ウクライナ・ソビエト社会主義共和国,ドニプロペトロウシク(現在のドニプロ)市に生まれる。
1984年にドニプロペトロフスク州立大学を卒業した後、ドニプロペトロフスクの「ドニプロ機械製造プラント」(ミサイルを生産)でエンジニアエコノミストとして働いていました。
1988年ペレストロイカの始まりと同時に、違法コピーしたDVDをレンタルする事業を立ち上げ成功しました。
1991年ソ連崩壊と共に「ウクライナ石油公社」を設立して、ドニプロペトロフス州の農業団体に販売しました。1995年「ウクライナ石油公社」は、ウクライナの「ユナイテッドエナジーシステム」に再編成され、そこの社長となります。この期間に「ユナイテッドエナジーシステム」はロシアの「ガスプロム」から天然ガスを輸入販売し、やがてウクライナの天然ガス輸入の80%を支配し、ウクライナのGDP の約4分の1を占める企業となり、ユリア・ティモシェンコは「ガスの女王」と呼ばれるようになります。
またウクライナは下の図の通り、ロシアがヨーロッパ向けに供給する天然ガスのパイプラインが繋がっており、ロシアからヨーロッパ向けのガスの80%がウクライナを通っていました(2010年)。
ユリア・ティモシェンコはパイプラインによる正規の輸送料金の他に、密かにガスを抜き取って(*)販売したり、ロシアに支払うガス料金の不払いなどで、度々問題を起こしています(ロシア・ウクライナガス紛争)。
*ウクライナのガス抜き取り問題
ウクライナは国内に巨大な天然ガスの備蓄施設を作り、ガスの使用量の少ない夏にガスを大量にため込み、需要の増える冬にになると、ロシアからの供給の不足分をそこから補って使っていました。しかし、ウクライナは国内向けのガスで余った分をヨーロッパに販売(もちろんヨーロッパ価格で)していたのです。
ロシアのヨーロッパ向けの天然ガス供給量が増えると、ガスの通過料金が増えるためユリア・ティモシェンコはオルガリヒにしては珍しく親欧米派です。
ロシアから欧州へのパイプライン
出典ウィキペディア
1996年彼女は「ユナイテッドエナジーシステム」の座を義父(ヘナディ・ティモシェンコ)に譲り、政界に進出しました。
1999年から2001年にかけてクチマ大統領の下でエネルギー担当の副首相(この時の首相は次の大統領となるヴィクトル・ユシチェンコ)を務め、ロシアとガス価格の協議を行いました。この時までロシアからのガス価格は兄弟国扱いの特別割引価格でしたが、クチマ大統領が新欧米派の政策を行ってきたため、EU諸国と同じ値段を通告してきました。
また電力業界から古くからの慣行を廃止して、近代的な経営にしました。
2002年に行われたウクライナ最高議会選挙では自らの政治団体ティモシェンコ・ブロックを率いて22議席を確保しました。
2004年のオレンジ革命のときは、一緒に働いた元首相のヴィクトル・ユシチェンコの味方となり、運動資金を提供し彼を助けました。
第3代大統領 ヴィクトル・ユシチェンコ (任期 2005年1月23日~2010年2月25日)
ヴィークトル・アンドリーヨヴィチ・ユシチェンコ
出典 ウィキペディア
ユシチェンコ大統領はEU(欧州連合)の加盟を望んでおり、2005年2月4日に首相に就任したユリア・ティモシェンコは、行動計画「国民に向けての10のステップ」を発表し、は「権力」と「市民」の関係の見直しが改革の原則として貫かれており、汚職撲滅を含め不公正・不透明な経済活動をなくすことを通した国民生活水準の向上を目指しました。
しかし、ユシチェンコ大統領の求めていた汚職の一掃,組織犯罪との闘い,行政改革の目標に反して、ティモシェンコ派による工場乗っ取り事件が明らかになり、2005年9月8日にユシチェンコ大統領によってティモシェンコ首相を含め全閣僚が、解任されました。
ティモシェンコ派による工場乗っ取り事件
2004年民営化のため、国営企業であるクリヴォリジュスターリ製鉄所の株式の93.02%を40億フリヴニャ(8億米ドル)で、産業金融コンソーシア「Investment Metallurgical Union(投資冶金連合)」に売却しました。Investment Metallurgical Unionの創設者にはオリガルヒのアフメトフ、リナト・レオニドビッチとヴィクトル・ピンチュク(レオニード・クチマ大統領の義理の息子)が加わっていました。この時他に6名が入札に参加申請を出していて中にはInvestment Metallurgical Unionよりも高い値段を付けた者もいましたが、2004年6月14日に行われたオークションではInvestment Metallurgical Unionだけが唯一の購入者となるように設定されていました。
この取引は「腐敗した民営化」の例として国民の非難の的になり、ユリア・ティモシェンコ政権が発足した後ウクライナ最高経済裁判所にクリヴォリジュスターリ製鉄所にの売却は、非競争的原則に基づいて、法に違反して割引価格で行われたとして提訴しました。
2005年4月22日、キーウの経済裁判所は、クリヴォリジュスターリ製鉄所の株式93.02%の売却を違法と宣言し、ウクライナ国有財産基金に返還するよう命じました。
こうして民営化されたクリヴォリジュスターリ製鉄所は、再び国営企業に戻りました。
2005年10月24日クリヴォリジュスターリ製鉄所の株式は民営化のため再びオークションにかけられ、ミッタルスチールカンパニーが勝者となり、242億グリブナ (48億1000万米ドル)を支払い、93.02%の株式を収得しました。
この時ユシチェンコ内閣を非難していたのが、オレンジ革命で戦った前首相のヴィクトル・ヤヌコーヴィチでした。
その次の首相は、ユシチェンコ大統領の指名を受け「我らのウクライナ」に属するユーリー・エハヌロフを首相に指名して、2005年9月22日の議会で信任され正式に就任しました。
ユシチェンコが大統領に就任した2005年は、アメリカのイラクに侵攻(2003年)により、原油と天然ガスの値段が高騰していました。このおかげでロシアは原油と天然ガスの輸出で経済を立て直すことが出来、プーチンが権力を強化した時代でした。
ロシアは2004年9月に1.000立方メートルあたり50米ドルだった天然ガスの価格を、2005年3月には1.000立方メートル160ドルに引き上げると通告しました。
2005年1月24日ロシアとの天然ガスの価格とヨーロッパへの輸送費(パイプライン使用料)を交渉を行い、ウクライナの天然ガスの値段は、ロシア産の天然ガスに比較的安い中央アジア産の天然ガス(50~60ドル)を混ぜることで、1.000立方メートル95ドルになりました。詳しくはWikipediaの2005–06年のロシアとウクライナのガス紛争をご覧ください。
この交渉の最中2006年1月10日にウクライナ議会は不信任決議を可決しましたが、次のヤヌコーヴィチが首相に就任するまで、首相代行を務めました。
2004年に行われた憲法改正が2006年1月1日から施行され、首相指名の権限が大統領からウクライナ議会に移りました。
2006年3月に行われた最高会議選挙で、ヤヌコーヴィチ率いる地域党は450議席中186議席を獲得して第1党となります。この選挙でティモシェンコ・ブロックは129議席で第2位、ユシチェンコ大統領の「我らのウクライナ」は81議席となり第3位に落ちてしまいました。
第1位の地域党はウクライナ社会党とウクライナ共産党とで連立を組み、ウクライナ議会で過半数(450議席中249議席)を獲得して、6月18日ヤヌコーヴィチ地域党党首は首相候補としてユシチェンコ大統領に提案されました。
ユシチェンコ大統領は、始めオレンジ革命で戦ったヤヌコーヴィチが首相になることに反対していましたが、「我らのウクライナ」から5人の大臣を政権に入れることで合意に達し、8月4日ユシチェンコ大統領が首相に任命されました。
しかしこの連合は2006年10月に決裂して、「我らのウクライナ」に属する5人の大臣は解任され、「我らのウクライナ」は完全に野党となりました。
2007年1月には大統領権限を大幅に削減する「閣僚会議に関する法律」が,野党であるユリア・ティモシェンコ・ブロックの支持を受け大統領の拒否を覆して採択されるなど,大統領との権限争いは首相側に優位に進んだ。
2007年4月2日、ユシチェンコ大統領はウクライナ議会解散の大統領令を出しました。それに対してヤヌーコビッチ首相は議会解散令は憲法違反だとして、ウクライナの憲法裁判所に訴えました。
この争いは2007年5月26日、ユシチェンコ大統領、ヤヌーコビッチ首相、ウクライナ議会議長の3者会談によって、2007年9月30日に新たに議会議員選挙を行うことで解決しました。
9月30日に行なわれたウクライナ議会議員選挙では、ヤヌコビッチの地域党は第1党の地位を保ったものの大きく得票率を減らし得票率34.37%、議席175名となりました。
第2位のユリア・ティモシェンコ・ブロックは得票率30.72%、議席156名と躍進しました。
ユシチェンコ大統領の「我らのウクライナ」は得票率14.16%で72名となり議席を減らしました。
ティモシェンコ・ブロックと「我らのウクライナ」は第5位になったリトヴィン・ブロック(人民党と労働党の合同政党、得票率3.97%、議席20名)と連立して過半数(議席450名中248名)で過半数となり、2007年12月18日ユリア・ティモシェンコが2度目の首相に選ばれました。
第二次ティモシェンコ内閣は、2008年5月にWTO(世界貿易機関)に正式に加盟して、将来のEU加盟を狙い自由貿易交渉を開始しました。これにより2008年前半期には輸出が伸び、外資流入が増えて経済が好転しました。
ところが2008年9月の国際金融危機(リーマンショック)のため株式市場の低迷、外国資本の流出、輸出の減少などにより経済が低迷しました。
さらに追い打ちをかけるように、10月にはロシアがガス料金の値上げを要求してきました。
これはNATO 加盟を進めるユシチェンコ大統領と、 EU加盟を準備しているティモシェンコ首相の権力を弱める狙いがあったとしています(ロシアは単に天然ガスの国際価格が上昇したためとしている)。
2008年1月1日、ウクライナが経済悪化のため、ロシアの請求したガス料金の一部しか払わなかったことで、ロシアは天然ガスの供給量を大幅に減少しました。この時はウクライナが国内に備蓄していた天然ガスをヨーロッパに回したため、ヨーロッパには影響はありませんでした。
更にロシアはウクライナがヨーロッパ向けに送った天然ガスを抜き取っていると主張し、1月7日ガスの供給を全面停止しました(ウクライナはガスの圧力を高めるためのコンプレッサーの運転に使用して、違法ではないと主張)。これによりヨーロッパ各国で、広範囲にガス不足が起こりました。
赤・ガスの供給量が75%以上減った国。以下オレンジ50%~75%、桃色25パーセント~50%、黄色25%以下。
出典 ウィキペディア
この問題は2009年1月18日、モスクワでロシアのプーチン首相とウクライナのティモシェンコ首相は会談を行い、2009年度のガス供給価格に関しては20%の割引を行うが、2010年度以降はヨーロッパ諸国と同じ価格を支払うことで合意し(1000立方メートル当たり450ドル)、1月20日ヨーロッパ向けの天然ガス供給は、元通り再開されました(2009年のガス紛争)。
これに対してユシチェンコ大統領は、ウクライナに対して不利な契約を締結したとして、ティモシェンコ首相を非難して、ロシアの思惑通り連立政権にひびが入りました。
ウクライナ独立以来、親欧米派の大統領が続いてきましたが、この後親ロ派のヤヌコーヴィチ大統領が登場してマイダン革命が起こり、ウクライナの運命は大きく変わります。
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