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亀仙人21917年、アメリカ参戦その1
1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告しました。前年の12月12日ドイツ宰相ベートマンがウィルソン大統領に和平の仲介を求めましたが実りませんでした。
ここでは1917年初頭から、アメリカの宣戦布告までの動きを追ってみます。
なぜ、ドイツは無制限潜水艦作戦を再開したのか?
1917年初頭のドイツの動き
19196年8月末、ファルケンファインに変わってヒンデンブルクとルーデンドルフの英雄コンビによる第3次最高司令部が発足しました。
ドイツの人々は、一進一退を繰り返す西部戦線において東部戦線で数々の勝利を挙げた英雄コンビが指揮を執ることにより、勝利による早期の戦争終了を期待しました。
ルーデンドルフは長く東部戦線に関わっていた経験から、ロシアの戦線脱落は決定的であると読み切っていました。この為には西部戦線から新たな部隊をまわさなくてはならず、そのためには、今ある前線から後方にヒンデンブルク線という新たな防御重視の塹壕戦を作り、ここで英仏軍の攻撃を食い止めるようにしました。
ヒンデンブルク線の地図。中央の点線部分から実践に書かれた部分に後退することにより、戦線が縮小されより少ない部隊で守ることが出来るようになりました。
出典 Wikipedia
次に攻略できそうなのがフランスです。フランスは人口が少なく、かつ出生率が低いため、戦争が長期化すると兵士の数が激減します。
前参謀総長のファルケンハインはこれを狙ってヴェルダンの戦いを仕掛けましたが、ドイツ皇太子ヴィルヘルム中将が無理な攻撃を仕掛けたことでドイツ側にも大きな死傷者が出てしまいました。これがもとでファルケンハインは、参謀総長の座から降りることになります。
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しかし、ヴェルダンの戦いと、この後に続くソンムの戦いでフランス軍は兵力が減り、イギリス軍の協力なくしては戦えない状態になっていました。
イギリスは、全世界の貿易量の43%を自国のシーレーンで賄っていました。イギリスの海上輸送路を混乱させ、機能不全に追い込むことが出来れはイギリスの戦力は格段に落ちていきます。
過去3度にわたってドイツはイギリスの海上輸送路の混乱を狙い、無条件潜水艦作戦を行ってきました。しかし、ルシタニア号やサセックス号などアメリカに被害者や損害が出るたびに、ウィルソン大統領から強い抗議が出て、カイゼルは何度も作戦の中止や縮小を繰り返して来ました。
かねてから無条件潜水艦作戦の必要性を説いてきたルーデンドルフは、1917年1月8日カイザーに拝謁して無制限潜水艦作戦の賛成を取り付けることに、成功しました。
翌1月9日宰相のベートマンが反対の意見を持ってきましたが、決定を覆すことが出来ず、カイザーは1917年2月1日に無制限潜水艦作戦を実行する命令書に署名しました。
無制限潜水艦作戦を実施するとアメリカの反感を招き、良くて国交断絶、悪くすると協商国側について参戦する恐れがあります。
しかしルーデンドルフはこう考えていました。
国交断絶を招いても、今まで平和路線を続けてきた国民の意見を覆し、議会で参戦の決議を得るのには3~4ヶ月掛かるだろう。
さらにドイツに対して宣戦布告をしても、現在のアメリカ陸軍の規模は20万人ほどであり、そのほとんどがメキシコとの武力紛争に割り当てられている。
欧州派兵するために新兵を募集し、訓練をして必要な装備を整えるのには、通常で2年、早くても1年半は必要である。
ロシアと単独講和を結び、無制限潜水艦作戦でイギリスの継戦能力を割くことが出来れば、アメリカがヨーロッパに姿を現す1919年までには、フランスを降伏させることが出来、ドイツが第1次世界大戦に勝利することが可能である。
この戦略に対して異議を感じた人たちも、「ドイツ勝利」の言葉にルーデンドルフを支持するようになりました。
ドイツ外相のツィンメルマンは1月16日、メキシコに対してアメリカ参戦の場合は、メキシコがドイツと一緒にアメリカと戦うように、秘密電報を打ちました。
1917年2月1日、ドイツは無制限潜水艦作戦を再開しました。「今回は徹底的にやる」とのルーデンドルフの宣言通り、1917年1月には15万トンもの船が沈められましたが、2月には30万トン、3月35万トン、4月には70万トンになりました。これは1916年に撃沈した船の総トン数150万トンの半年分になり、イギリスに向かう船の4隻のうち1隻は沈められたことになります。
参戦実行直後には、ロシアで2月革命が起こり、これを好機と見たドイツはスイスに亡命中のレーニンをロシアに送り、活動資金を援助して革命を手助けしました。
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この工作は成功して、翌1918年3月3日ソビエト=ロシアはブレスト=リトフスクでドイツと単独講和を結び、第1次世界大戦から離脱しました。これによりルーデンドルフは、東部戦線で従軍していた大勢の兵士を西部戦線にまわすことが出来るようになりました。
西部戦線では前年の半ばから建設していたヒンデンブルク線が完成し、3月には今までの前線から完全に撤退しました。ドイツは撤退するにあたって、道路、鉄道、家屋を破壊し、井戸には毒を投げ入れ、家畜は殺すか持ち去り、果樹園の樹木を伐採するなどした為、退却後の土地は荒涼とした荒れ地になってしまいました。
ドイツ軍が撤退中に伐採した果樹園
出典 Wikipedia
ドイツ側の予想よりも早く、1917年2月3日アメリカはドイツに対して国交断絶を通告しました。
1917年アメリカ、参戦決定までの動き
1917年1月22日、ウィルソン大統領は上院で行われた年頭教書演説で、『勝利なき平和』と呼ばれる和平構想を述べました。
すなわち「勝利なき平和(講和)」を結ぶことこそが必要であり、勝利とは講和を敗者に強制することであり、それは復讐心をそそるのみである。
したがってそこに成立する講和条約は永続しない。
勝者が敗者に押しつけるのではなく、対等に結ばれた講和のみが永続し得る。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「勝利なき平和」論は、いわゆる「新外交」の一つの理念を示している。
これに対して帝国主義的な「旧外交」は、勢力均衡、軍事的秘密同盟、植民地獲得、領土併合、軍拡、過大な償金等々を追求してきた。
旧外交に批判的な者は新外交に拍手する。
「勝利なき平和」演説は社会主義者、自由主義者、あるいは平和団体、労組などには歓迎された。引用 山本正太郎著 第1次世界大戦 講談社学術文庫 86~87頁
この考えは「無賠償・無併合」として、14ヶ条の平和原則に受け継がれました。
2月1日、ドイツが無制限潜水艦作戦を強行したことは、ウィルソン大統領の和平への願いを打ち砕くことになりました。
2月3日、ウィルソン大統領はドイツと国交断絶しました。しかし、すぐには参戦せず、国内の世論を抑えつつ和平への道を探っていました。
ツィンメルマン電報事件
アメリカ参戦の第1の理由としてあげられるツィンメルマン電報について書いてみます。
第1次世界大戦が始まるとイギリスは、ドイツが持っているアメリカ大陸向けの3本の海底ケーブルを切断しました。
アメリカは中立国の立場を利用して、自身の持つ大西洋横断ケーブルをドイツが使用することを許していました。
この電報は1917年1月16日、ベルリンのアメリカ大使館からコペンハーゲン、ロンドンのアメリカ大使館、ワシントンのドイツ大使館経由で、メキシコのドイツ大使館まで送られました。
だがこの暗号電報は、傍受していた英海軍省暗号解読部(通称40号室)の興味を引き、早速解読にかかりました。
ワシントンからメキシコへ送られたツィンメルマン電報
出典ウィキペディア
イギリスが2週間かけて、解読した内容は
発・ベルリン・ドイツ帝国外務大臣ツィンメルマン
宛・メキシコシティ―・メキシコ駐在大使エックハルト閣下
本文
(1)ドイツは1月31日をもってUボート無差別雷撃を再開する。
(2)ドイツは雷撃再開後もアメリカ合衆国に対し中立維持の外交努力を続けるが、合衆国の中立維持に失敗した場合を考慮し、大使閣下は以下の条項につき、秘密裏かつ速やかにメキシコ大統領に働きかけること。
- アメリカは連合国の一員として参戦し、欧州派兵に出る可能性が高い。この事態に鑑み、ドイツはメキシコと軍事同盟を締結したい。メキシコがドイツと同盟してアメリカの背後を脅かすならば、ドイツはメキシコに潤沢な資金を提供する。またドイツが勝利しアメリカと講和する場合には、テキサス、カルフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナをメキシコに返還させ、メキシコの失地を回復させる。同盟の細部決定はメキシコ駐在大使エックハルト閣下に一任する。
- 目下、ドイツと交戦中の日本に対し、メキシコ大統領の発議というかたちでドイツとの和解をうながし、かつ日本にドイツとの参画をうながすよう要求せよ。
- ドイツの容赦ないUボート作戦により、数か月で連合国は屈服する。この点をメキシコ大統領に注意喚起せよ。
引用 本多 巍耀 著 消えた帝国~大統領ウィルソンの挫折~ 芙蓉書房出版 39~40頁
この電報をアメリカに渡せば、アメリカの参戦を促す良い材料となることは明らかでしたが、大きな問題が2つあります。
その一つはイギリスがアメリカの外交通信を秘密裏に傍受していることが明らかになってしまうこと、もう一つがドイツの使用している暗号が解読されているとバレてしまうことです。
そこでイギリスは秘密工作員をアメリカに送り、商用回線を使用している駐米ドイツ大使館からメキシコのドイツ大使館あての電報の写しを手に入れました。送られたメッセージは公表しても構わない一昔前の暗号を使っていました。
この電報は2月24日ウィルソン大統領に送られ。3月1日新聞で公開されました。
この電報は、日本を始め、メキシコ、ドイツの各大使館や、アメリカの平和主義者によって、イギリスがアメリカの参戦を促すために作った偽電報だとして、非難されてしまいます。
メキシコは国内の内乱で四苦八苦しているうえに、反政府軍の一部が国境を越えてアメリカ国内で略奪や殺人をした為、アメリカ軍を国内に呼び込んでしまい、とてもアメリカと戦争する余裕がありませんでした。
日本は地中海に艦隊を派遣して、同盟国の潜水艦から輸送船を守る任務に就いている為、こちらもアメリカと事を構える気はありませんでした。
詳しくは、こちらを見てください ↓
ところが新聞発表から2日後の3月3日、ツィンメルマンは電報は真実だと認める演説をしました。
このことによつて、アメリカ中が激怒し、参戦を求める世論が盛り上がることになりました。
ロスチャイルド家とイギリス
ロスチャイルド家の始まり
ロスチャイルド家は、フランクフルトで古銭商を営んでいたマイアー・アムシェル・ロートシルト(ドイツ語読み、英語ではロスチャイルド)から始まりました。
やがてヘッセン=カッセル選帝候のヴェルヘルム9世の御用商人となります。ヴェルヘルム9世は領内の若者を傭兵としてイギリスに貸し出していました。マイヤーは古銭商の傍ら両替商もやっていたため、ロンドンから送られてきたヴェルヘルム9世宛の為替手形を割り引き(現金化)する仕事を任せられるようになりました。これによりロートシルト(ロスチャイルド)家は、イギリスとつながりを持つようになりました。
マイヤー・ロートシルト商会は、1801年からヴェルヘルム9世の資産運用を任されるようになり、投資銀行(マーチャントバンク)を開き成功しました。マイヤーには5人の息子がおり、長男のアムシェルがフランクフルトで父親の銀行業を引き継ぎ、二男のザロモンがウィーン、三男のネイサンがロンドン、四男のカールがナポリ、五男のジェームスがパリで銀行業を拡大させました。この中で一番成功したのがイギリスに渡った三男のネイサン・メイヤー・ロスチャイルドです。
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド
ネイサンがイギリスに渡ったときは1798年、21才の時でした。この時代はフランス革命(1989~1799年)からナポレオン戦争(1799年~1815年)と続くヨーロッパ激動の時代でした。
イギリスでは産業革命が始まり、大量の綿製品が生産されていた時でした。ネイサンは綿製品の製造で栄えているマンチェスターに移住し、綿布を仕入れ、それを染め物業者に送り、服やシーツなどの綿製品に仕上げ、ドイツのロスチャイルドけのルートを使って、流通が混乱して綿製品が高騰していたドイツに送りました。
インドやアメリカから送られてくる綿花から綿糸の製造して綿製品の販売まで、一手に行うことにより余分な中間マージンを省き、大茂家出来ました。
ネイサンはこの資金をもとにロンドンに投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズを立ち上げました。ナポレオンに攻め込まれたドイツのヴェルヘルム9世は資産をネイサンの元に送り、運用を任せました。この資金でイギリス政府が発効した公債を大量に買い、イギリスでの地位を高めていきます。
1906年ヨーロッパを席巻したナポレオンは、大陸封鎖例を発布して、イギリスとの貿易を禁止しました。これによりイギリスからの輸入に頼っていたコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などの価格が高騰しました。ネイサンは各国に散らばっているロスチャイルド家の兄弟の通称ルートや情報網を通じてこれらの商品を密輸・販売して、ここでも大きく資産を増やしました。
イギリス公債の大量売買で政府の信用を得ていたネイサンは、イギリス政府が各国の反フランス勢力に送る軍資金の輸送も任されることになりました。その最大のものは、1811年から1815年にかけてスペインで戦うイギリス軍の司令官ウェリントン公爵(後にワーテルローの戦いでナポレオンを破った司令官)に送った総額4200万ポンドに及ぶ金塊の約半分を、パリで事業を始めた5男のジェイムズと協力して、フランス国内を通り無事スペインに届けることに成功しました。
1815年6月18日、ロスチャイルド家のネットワークを通じワーテルローの戦いでイギリスの勝利を知ったネイサンは、手持ちのイギリス公債を一斉に売り出しました。それを見たシティの投資家たちも公債を売りに出し、価格は急落しました。公債が暴落したと見たネイサンは一転買いに入りました。イギリス勝利の報が入ると公債は急騰しネイサンは莫大な利益を開け、シティの有力な投資家となりました。
1825年、イギリスで大恐慌が起き、100以上の銀行で取り付け騒ぎが始まり倒産する恐れが出てきました。
原因は、産業革命よる機械化された自動織機と、それを動かす蒸気機関の発明でした。これにより大量の綿織物が生産されるようになり、価格が暴落します。このため高価な設備投資を回収することが出来ず、倒産する会社が多発したためでした。
この時、ロンドンのロスチャイルド家はイングランド銀行の要請に従って、ヨーロッパ中から金塊を集め、払い戻しに応じ、恐慌を乗り越えることが出来ました。
1875年11月、エジプトが対外債務解消のため、手持ちのスエズ運河の株式17万6602株を売ることにしました。この時までイギリスはカイロとスエズを繋ぐ鉄道を持っていたのと、スエズ運河完成は困難と見て1株も持っていませんでした。
しかし運河が開通すると、利用する船舶の8割はイギリスの船になりました。
11月14日、イギリスのディズレーリ首相(彼もユダヤ人でした)は、ロスチャイルド邸で主人のライオネルと夕食を共にしていたところ、ロスチャイルドの通信網からエジプトがスエズ運河会社の株を売り出そうとしているとの秘密情報が入りました。
話を聞いたディズレーリは、即刻スエズ運河会社株式の買収を決めました。翌日ロスチャイルド家から400万ポンドの資金を借り、売りに出たスエズ運河会社の株全部を買い取りました。
44%の株を保有することになったイギリスは、単独で筆頭株主となりました。1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言するまで、スエズ運河は実質的にイギリスの支配下に置かれることになりました。
この様にしてロスチャイルド家は、イギリスの政財界に深く食い込んでいきました。
シオニズムとロスチャイルド
シオニズムとは
国を持たないユダヤ人のために、パレスチナ(イスラエル)に新たに国家を建設し、そこに移住しようとする運動。シオニズムはイスラエル地方の歴史的地名である「シオン」から来ています。
ユダヤ人によるイスラエルへの集団移住は、1982年ロシア帝国で発生したポグロム(集団虐殺)から逃れて2万5千人から3万5千人のユダヤ人が、オスマン帝国下のパレスチナに移住したことから始まりました(第1次アリア―)。
シオニズムが盛んになるきっかけは、1894年フランスでユダヤ人系のドレフュス大尉がドイツのスパイ嫌疑で逮捕されたことです(ドレフュス事件)。
ドレフュス事件の裁判
出典ウィキペディア
本人が無罪を主張し、唯一の証拠とされたドイツとの繋がりを示すメモも、捏造されたことが明らかになったにもかかわらず、無期流刑となってしまいました。
これに対して1898年小説家のエミール=ゾラは、フェリックス・フォール大統領宛てに「私は弾劾する」との公開質問状を新聞に投稿して、フランス軍部内部の不正と虚偽を糾弾しました。
翌1899年、ドレフュスは流刑地から呼び戻され再審が行われましたが、有罪となってしまいました。この時は大統領特赦で出獄出来ましたが、実際に無罪が確定したのは1906年になってからでした。
ドレフュス事件に経過は、映画「ゾラの生涯」に詳しく解説してあります。↓
映画 「ゾラの生涯」無実の罪で流刑に処されたユダヤ人将校ドルフュスの疑惑を晴らすため戦った、小説家エミール・ゾラの話です。
ユダヤ人として、ドレフュス事件を克明に取材してきたハンガリー生まれのテオドール・ヘルツルは、ヨーロッパ社会における反ユダヤ主義の根強さに失望し、これを解決するには、ユダヤ人自身の国を建設する必要があると考えました。
1896年『ユダヤ人国家』と題して小冊子を書き、ユダヤ人国家建設へのプロセスを示しました。
「イスラエル建国の父」と言われる、テオドール・ヘルツル
出典ウィキペディア
1897年スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開催し、ヘルツルを議長とする世界シオニスト機構を作りました。その後もユダヤ人国家建設のため活動を続けましたが、1904年過労から肺炎を起こし、死亡しました。
ヘルツルが登場するまで、ユダヤ人たちは各地で迫害を受けていても、民族としての共通の目的を持っていませんでした。ヘルツルはそうしたユダヤ人たちに、ユダヤ人国家建設という大きな共通した目的を示したのです。
ハイム・ヴァイツマン
早く亡くなったヘルツルの後を継いでシオニスト運動を進めたのが、後にイスラエルの初代大統領に主任することになったハイム・ヴァイツマンでした。
ハイム・ヴァイツマン
出典ウィキペディア
1874年、ロシアの小さな村モトル(現 ベラルーシのモタリ)でユダヤ人として生まれました。ユダヤ人にに対する教育制限のあるロシアにおいて勤勉に勉強し、ベルリン工科大学に入学を果たしました。その後スイスのフライブルクで博士号を習得し、1904年イギリスに移りマンチェスター大学で化学を教えることになりました。
1907年、パレスチナを訪れた彼は、移住してきたユダヤ人の状態を見てユダヤ人国家の必要性を訴える様になりました。
1910年、澱粉からバクテリアを使って有機溶剤のアセトンを合成する方法を発見しました。
1914年第1次世界大戦が始まると、無煙火薬のコルダイト製造のため大量のアセトンが必要となり、ヴァイツマンはイギリスと協力して、バクテリア醗酵法によるアセトン製造の工業化に、成功しました。
これによりイギリス政府内のロイド・ジョージ、ウィストン・チャーチル、アーサー・バルファを始め、他の英主要政治家をシオニズム支持者にしました。
ロスチャイルド家
ヨーロッパ各国にまたがって商売しているロスチャイルド家としては、いまさらイスラエルに引きこもる気はなく、シオニズムに参加する気はありませんでした。
ただ、個人としてユダヤ人のイスラエル移住を、援助した人はおります。
現代イスラエルの父と言われる、エドモン・ド・ロートシルト
1881年、ロシアのポグロムから逃れてきた101人のユダヤ人が、テルアビブの港町ヤッフォに到着しました。
パリロスチャイルド家の一員である、エドモン・ド・ロースシルト(ロスチャイルド)は、水も出ない荒れ果てた土地に入植した彼らのために、3万フランの援助金を出しました。それ以後、ロシアから入植するユダヤ人のために、土地を購入したり、その土地に適した作物の研究費を出したり、栽培した農産物を相場より高く買ったりして、助けました。彼が資金援助した入植地は100以上にも上ります。
ヘルツルは彼に世界シオニスト機構の代表になってもらおうとしましたが、エドモン・ド・ロースシルトは、ロスチャイルドの名を出すことを嫌い、断っています。
ここからは陰謀論になります。
ユダヤ人の実業家ベンジャミン・H・フリードマンが1961年ワシントンD.C.にあるウィラード・ホテルで行った演説でした。演説の内容は下の通りです。
第1次世界大戦が始まって2年たった1916年夏、戦いは消耗戦の様相を呈し、イギリスが講和を模索していた時、ドイツ在住のシオニストがイギリスの戦時内閣に現れて、「諦めるのはまだ早い。アメリカがイギリスの味方として立ち上がればイギリスは勝つことができる。私たちが、アメリカがイギリスの味方となり、ドイツと戦うよう保証しましょう。約束はただ一つ。戦勝の暁にはパレスチナの地にユダヤ人国家を樹立させることです」ということを提案した。同年10月、イギリスはこの条件を呑んだ。
ユダヤ人はロシアから強い迫害を受けており、アメリカに逃れたユダヤ人はロシアに勝ってほしくなかったので、それまでのアメリカの新聞はドイツに好意的な報道をしていた。しかし、この取引が成立すると、アメリカの新聞論調は一変し、あらゆるプロパガンダが開始されて、邪悪なドイツをやっつけろという世論がアメリカで醸成されていった。反独プロパンダによる反ドイツのアメリカ世論、ツィンメルマン電報、ドイツ潜水艦によるアメリカ艦船撃沈などにより、1917年4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告した。アメリカ参戦が決まると、シオニストはイギリスに行き、約束の履行を迫った。同年11月2日、ユダヤ人にアメリカ社会を動かす力があることを認識したイギリスは、ユダヤ人がパレスチナの地で自治政府を作ることをイギリス政府が承認し、その目的のために最大限の努力を払うとしたバルフォア宣言を発表した。
引用ウィキベテア
演説の全文は、こちらに載っています。
https://plaza.rakuten.co.jp/555yj/diary/201601170001/
動画もありますけど、度々削除されるので見ることが出来ないかもしれません。
youtube
https://www.youtube.com/watch?v=lZqRhxgPepw
ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21017373
1916年夏から年末までのイギリスでの出来事は
5月16日、サイクス・ピコ協定で、終戦後オスマン帝国の領土のうちシリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とすることに決めています。
5月31日から6月1日にかけてのユトランド沖海戦で、撃沈された船はドイツを上回り敗北。
6月5日、ロシアに向かうイギリス陸軍大臣ホレイショ・キッチナーが乗船していた巡洋艦が嫌いに触れて沈没。ホレイショ―が死亡しました。
6月28日死亡したキッチナーに変わり、ロイド・ジョージが陸軍大臣になります。
7月1日、ソンムの戦いが始まる。11月18日まで続いた戦いでイギリスは40万人もの死傷者を出します。
10月にロイド・ジョージは、ソンムの戦いにおける戦況を打開するため、ブルガリアのソフィアに派兵してルーマニア王国を助ける作戦を提案しましたが、帝国参謀長総長のロバートソンによって退けられました。
11月には戦争の進め方でアスキス首相と、陸軍大臣のロイド・ジョージが対立。
12月6日、アスキスが首相を辞任し、ロイド・ジョージが首相に就任しました。この時、アーサー・バルフォアが外務大臣に就きました。
アーサー・バルフォア
出典ウィキペディア
12月12日、ドイツのペートマン宰相が国境を戦争前の状態に戻すことを条件に、講和の提案がありました。アメリカは講和を成立するため英仏と仲介しましたが、両国ともこれを拒否しました。
翌1917年1月20日、アメリカのウィルソン大統領は年頭の演説で「無併合・無賠償」を軸とする講和を提案しました。しかし、2月1日にドイツが無制限潜水艦作戦を再開したことで、態度を変え4月6日ドイツに対して宣戦布告を行い、第1次世界大戦に参戦します。
アメリカを参戦することに成功したロスチャイルドは、約束の履行を証明する文書を求めました。イギリス外務大臣バルフォアが、イギリスロスチャイルド家の当主ウォルター・ロスチャイルドに送った下の文書がそれです。
外務省
1917年11月2日親愛なるロスチャイルド卿
私は、英国政府に代わり、以下のユダヤ人のシオニスト運動に共感する宣言が内閣に提案され、そして承認されたことを、喜びをもって貴殿に伝えます。
「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解されるものとする。」
貴殿によって、この宣言をシオニスト連盟にお伝えいただければ、有り難く思います。
敬具
出典ウィキペディア
第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド
出典ウィキペディア
この文書はバルフォア宣言と呼ばれ、現代まで続く中東問題の原因となります。
次はドイツの無制限潜水艦作戦の宣言から、アメリカが参戦を決めるまでのアメリカ国内の動きを書いていきます。
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