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亀仙人2ガリポリの戦い
1914年10月オスマン帝国(トルコ)が同盟国側について参戦したため、地中海と黒海を結ぶダーダネルス・ポスポラス海峡がドイツ海軍に抑えられてしまった。
第1次世界大戦開戦の翌1915年春イギリス海軍大臣のウェストン・チャーチルは、エーゲ海からダーダネルス海峡を西側のガリポリ半島に上陸し陸路、オスマントルコの首都コンスタンチノーブル(現イスタンブール)を攻撃する計画を立てた。これが成功すれば、ロシアとボスポラス海峡を通じて海からつながり、またスエズ運河の安全も確保できることになる。
これに対しトルコ軍はダーダネルス海峡に大量の機雷を敷設し、海峡を挟む陸地には多くの砲台を設置して待ち構えていました。
チャーチルの作戦では、まず戦艦で海峡両岸の砲台を破壊し、そののち掃海艇を使って機雷を除去する予定でした。チャーチルは1週間で、コンスタンチノーブルを陥落できると踏んでいました。
1915年2月19日と25日の2度にわたる攻撃で、地上部隊が上陸し一部砲台を破壊したが、悪天候のため出航出来ず後が続きませんでした。
3月18日の攻撃では海峡の奥に進んだ海軍は、機雷によって立ち往生しているところを両岸の砲台によって攻撃されUターンしたところ、トルコ軍が新たに設置した機雷原(上の図の11番の機雷原)で軍艦3隻が撃沈し、さらに3隻が大破してしまいました。
失敗の原因は、トルコ軍の砲台は高台にあり半分地下に潜った状態で砲身の先だけを海に出していました。このため遠く離れた艦船からは大砲の位置が分かりにくくなっています。
更に航行中の船からの砲撃では、ピンポイントで大砲を狙うのは大変困難なことです。これに反してトルコ軍は敵が射程距離に入るまで待機していて、しっかりと固定した砲台から敵の軍艦そのものを沈めればよいので、有利な状態で攻撃できます。
またトルコ軍は、イギリス艦隊がUターンするのを見越して新たに機雷を敷設していました。イギリス側がその機雷に気が付かなかったので、大きな損害を生みました。
海からの攻撃だけで、被害も少なく海峡を突破することは不可能でした。海軍だけではガリポリ半島制圧は無理と悟ったチャーチルは、陸軍に協力を求めました。
ガリポリ半島地上戦
1915年4月25日イギリス軍はガリポリ半島の先端へレス岬付近5箇所に分かれて上陸しました。フランス軍は対岸のクム・カレに上陸しました。オーストラリアとニュージーランドの志願兵によって作られた軍団アンザック(ANZAC=Australian and New Zealand Army Corps)は半島中部の海岸で上陸作戦を開始しました。
ところが、上陸を予想していた、トルコ軍はあらかじめ海岸に強固な陣地を作り上陸を阻止。7万5千人を上回る8万4千人を動員して待ち構えていました。
しかも英仏連合国軍側はトルコ軍を甘く見たためか、トルコ軍の情報も、最新の地図もなく、旅行ガイドや昔の地図を頼りに作戦を進めていました。劣勢の上に情報不足では、初めから勝ち目がありません。
へレス岬に上陸したイギリス軍は西部戦線からの教訓で塹壕を掘るなどして前進よりも準備に時間がかかったため海岸から5キロ進んだところで、駆け付けたトルコ軍に進出を止められ、西部戦線に続いて新たな膠着状態を作ってしまいました。
半島中部のガバ・テペの海岸に向かったアンザック軍は、輸送を担当した英国海軍の手違いにより、予定していた平地の海岸ではなく、1キロ半も離れた崖沿いの海岸に上陸しました。更に分散してしまった各部隊をまとめるのに手間取り、近くに予備隊を率い待機していたケマル中佐よって押し戻され、海岸に閉じ込められてしまいます。
最初の計画通り、ガバ・テペの海岸に上陸していたら、近くのアリヌブにはトルコ軍が1個中隊しかいなかったため、反対側のダーダネルス海峡に達することが可能だったと思います。
この狭い海岸にアンザック軍は釘づけにされた
1915年8月6,7日にイギリス軍はスプラ湾に2個師団を上陸させ、アンザック軍もこれに呼応してトルコ軍を挟撃するために、攻撃を開始しました。
この時も、ケマル中佐はアナファタラルとコンクバイリを往復してこの攻撃を防ぎました。
この功績により、待機の命令を無視して自分の軍団を率い、アンザック軍を止めたケマル中佐は、1915年8月8日アナファタラル集団司令官に任命されました。
暑くなるにつれ戦死者などから発生したハエにより、赤痢や腸チフスなどの伝染病がはやり、連合国側で約14万人が病死したとされています。
この作戦を計画したイギリスの海軍大臣チャーチル(後の英国首相)は失脚。防御に成功したトルコ軍のムスタファ・ケマル・アタテュルク 大佐は、オスマン帝国崩壊後に出来た、トルコ共和国の初代大統領となります。
1915年10月14日にブルガリアが同盟国側について参戦し、ドイツ軍がトルコまで陸路での派遣が可能になると、連合国軍はガリポリからの撤退を決め、1916年1月9日に撤退は完了しました。
ガリポリの戦いで、指導者の無能や計画の杜撰さや指摘され、責任を取ってハーバート・アスキス首相とウィストン・チャーチル官軍大臣は辞任することになりました。
長年「ヨーロッパの病人」呼ばれ、列強との戦いで連敗していたトルコ軍にあって、連合国を撃退し勝利に導いたムスタファ・ケマル大佐は「アナファルタラルの英雄」として名声を獲得した。
彼は第1次世界大戦後、新たに誕生した「トルコ共和国」の初代大統領になりました。
ムスタファ・ケマル大佐(後に准将)
オーストラリア・ニュージーランド連合軍がガリポリに上陸した4月25日は、オーストラリア、ニュージーランドでアンザック・デーとして国民の祝日になっています。
ガリポリの戦いで初参戦したアンザックの様子を描いた映画は、こちら↓
ガリポリの戦いをトルコ側から見た映画です ↓
映画 「シーバトル 戦艦クイーン・エリザベスを追え!!」第1次世界大戦での「ガリポリの戦い」をトルコ側から見た映画です 。