
1964年のトンキン湾事件の報復として始まった北爆は、総出撃波数(波、1ソーティ=1機となる)が380波でした。1965年3月から本格的な北爆(ローリングサンダー作戦)が始まり総出撃波数26050波、投下爆弾量16万トン、1966年83590波、47万トン、1967年33160波、55万トン、1968年25840波、24万トンとなりました。
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亀仙人21966年の航空戦
効果の無かった北爆
1965年3月2日から北ベトナムへの航空機による爆撃が始まりました(ローリングサンダー作戦、北爆)。しかし1965年末には、北爆による効果が無いことが分かりました。
このあたりの詳しい説明は、こちらをご覧ください ↓
ベトナム戦争 その8 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入の開始 前編(航空戦)ローリグサンダー作戦
北爆の目標の一つである、軍需工場を破壊して北ベトナムの繊維をくじく予定は、元々北ベトナムには戦闘機や戦車はおろか、トラックを生産できる工場が無く、意味がありませんでした。
1966年8月26日に出した、国防分析研究所の報告書によると、
「ローリングサンダー作戦の開始以来、北ベトナムの工場、施設が受けた損害は、主としてソ連、中国から流れてくる軍事、経済援助の増加によって相殺されたばかりか、差し引きプラスになっている。
情報機関の分析によれば、北ベトナムの受けた被害は、66年7月15日までに、約8千600万ドルに達した。しかし、65年1年間でハノイが、ソ連、共産中国から受けた軍事、経済援助は2億5千万ドルから4億ドルの線だとみられている。そのうち経済援助は、1億から1億5千万ドルであり、今年に入ってからは、これ以上の率で援助が続いている」
引用 サイマル出版会 杉辺俊利英訳「ベトナム秘密報告 下巻 573ページ」
つまり、北ベトナムは北爆から受けた被害を上回る援助を、ソ連や中国から受けていて、ベトナム戦争における軍備の低下を避けるどころか、かえって軍備を増強することが出来ているということです。
もう一つの目的である北ベトナムからホーチミンルートを通る物資を運ぶ道路や鉄道網の遮断も、失敗してしまいました。北ベトナムの道路の大部分は未舗装のため、あらかじめ道路沿いの民家に補修用のがれきや砂利などを準備させておいて、爆撃を受けて穴が開いても近隣の住民やボランティア達により瞬く間にトラックが通れるようにしてしまいました。
この様子を示す動画があります ↓
輸送網を守る青年突撃隊(1966年8月)/ ベトナム記録映像アーカイブ
この動画を作成した日本電波ニュース社は、西側で唯一北ベトナムでの取材を許されていた会社です。
1966年6月29日、ジョンソン大統領は軍部からの強い要請に従って、それまで爆撃禁止だったハノイ市内やハイフォン港にある燃料や石油の貯蔵施設の爆撃を許可しました。8月には北ベトナムにある大規模な貯蔵施設はほぼ破壊されてしまいました。しかし爆撃したのにもかかわらず、その効果が見られないとして、中止されてしまいました。それは北ベトナムは元々石油に対する依存度がアメリカが予想していたより少ないため、新たな貯蔵施設を作る代わりに、ドラム缶に入れた状態で輸入して、陸揚げされたらすぐにトラックに積んで運んでいたからです。
北爆が盛んになった1966年から1973年にかけて、アメリカ海軍はヤンキースション(北爆に参加するための航空母艦)の位置を、より北ベトナムに近い軍事境界線(DMZ)近くまで移動しました。
出典 Wikipedia
南ベトナムにおける戦いの航空支援のためディキシーステーションが設けられましたが、こちらは地上施設が整ったため、1966年8月で打ち切られました。
ムジア峠
ムジア峠は、北ベトナムのドンホイの北西90㎞の位置にある峠です。この峠は、ベトナム側の国道15号線とラオス側の国道12号戦がつながっているため車の通行が可能であり、北ベトナムからホーチミンルートへ輸送する物資の75%がここを通っています。
ムジア峠の位置
ハノイやハイフォンに届いたソ連や中国の援助品は、鉄道を使ってタンホアからビンまで運ばれ、ビンからトラックでムジア峠まで運ばれました。アメリカは、この運搬網を断ち切るためタンホア郊外にあるタンホア橋(ハムロン橋)や操車場のあるビンに激しい爆撃を行いました。
タンホア橋についてはこちらをご覧ください ↓
ベトナム戦争 その8 1965年 ジョンソン大統領によるアメリカ軍の本格的介入の開始 前編(航空戦)ローリグサンダー作戦
ムジア峠にも、1966年4月12日に29機のB=52による爆撃が行われましたが、峠の封鎖に失敗しました。4月26日に改めて行われた爆撃では、山崩れを起こし一時通行止めにすることに成功しましたが、10時間後には修復されてしまいました。
また峠に通じる道にいる、トラックの車列を直接攻撃することなどで、峠への空爆はその後も頻繁に行われました。
1966年4月に行われたB-52による爆撃で出来たクレーター
これに対して北ベトナムは300基に及ぶ対空機関銃や、高射砲を備えた対空砲台を設備して対抗しました。ムジア峠に通じる国道12号戦(ラオス側)には峠を迂回する道を何本も作り、爆撃に備えました。1972年には対空ミサイルSA-2が設置されたことにより、ムジア峠への空爆は中止されました。
ムジア峠に続く古い道。
トラックがぬかるみにはまらないよう、石が敷き詰められている。
ラオス内戦とホーチミンルート
こんな面倒くさいことをしなくても、直接ホーチミンルートを攻撃すれば良いと思われますが、1962年7月23日のジュネーブで結ばれたラオスの中立に関する国際協定により、ホーチミンルートが通っているラオスが中立国となり、外国の軍隊の活動が禁止されていました。しかしCIAは裏で、ホーチミンルートの爆撃をしていました。この話は、また後で。
ベトナム戦争の航空戦
MiG-21(北ベトナム)
1966年4月、北ベトナムにソ連製の最新戦闘機MiG-21が配備されました。
MiG-21(NATO名フィッシュベッド)は、第3世代に属する、マッハ2を超える小型迎撃戦闘機です。小型軽量のため取り回しが楽で、高い戦闘能力を持っています。その割に構造が簡単で、整備しやすく、運用コストが安価な為、東側諸国をはじめ、世界中で使用されました。その為、製造された数も11,496機(そのうちインドで840機、チェコスロバキアで194機が製造されました)と、ジェット戦闘機としては異例の機数となります。
アメリカ空軍国立博物館に展示されているベトナム人民空軍のミコヤン・グレヴィッチ MiG-21PF「フィッシュベッド」
出典 Wikimedia
MiG-21の格闘戦闘能力は当時としては群を抜いており、それを超える戦闘機はアメリカのF-16,ソ連のMiG-29の登場まで待たなくてはなりませんでした。
MiG-21はマッハ2を超える戦闘機として、1955年6月16日デルタ翼を備えた試作機としてミコヤン設計局によるYe-4の初飛行から始まりました。これをもとにして発展型のYe-5が設計され1956年1月9日に初飛行し、MiG-21の正式名称が与えられました。1958年5月20日前量産型のYe-6が初飛行に成功して、MiG-21シリーズ初の量産型MiG-21Fの製造が始まり、1959年ソ連空軍に配備されました。
その後MiG-21に全天候型のレーダーを搭載する改良型の試作機としてMiG-21Pが設計されました。そしてMiG-21Pの量産型MiG-21PFが製造されました。
武装
23㎜機関砲1門
翼下に4ヵ所と胴体下に1ヵ所(予備の燃料タンク用)のハードポイントがあり、ロケット弾ボット4発や空対空ミサイル4基、爆弾1.5t(500キロ爆弾2発+250キロ爆弾2発)のいずれかが搭載できます。
F4ファントムⅡ(アメリカ)
ベトナム戦争で、アメリカ軍の主力となった機体です。MiG-21と同様マッハ2(M2.23 高度12,190メートル)を超える艦上戦闘機です。ただMiG-21が重量7.75トンなのに対してF4ファントムⅡは重量18.8トンと重いため強力な GE J79-GE-17 軸式圧縮機 ターボジェット を2基搭載しています。
F-4では前席にパイロット、後席にレーダー・航法担当のレーダー迎撃士官が搭乗する、複座型艦上戦闘機となっているのも特徴です。
機体が大きいため、胴体下にAIM-7スパローミサイルを半埋め込み式で4発搭載出来るほか、胴体中心かに1カ所、左右主翼下に合計4カ所のパイロンが着いており、爆弾やミサイルの他、電子ポッド等各種兵装が装着可能です。
初期型では機関砲が装備されていなかったため、空中戦でMiG-17やMiG-21相手に苦労しました。ただアメリカ空軍では最初から機関砲を装備したF-110(F-4H)を採用しました。海軍で機首にM61Aバルカン砲を取り付けたF-4Eが部隊配備されたのは、ローリングサンダー作戦終了後の1968年11月になってからのことでした。
ダナン基地に駐機するアメリカ海兵隊の、F-4B。
1966年1月
出典 ウィキペディア
北ベトナム側の発表によると、ローリングサンダー作戦中の、1966年4月から1968年11月までに行われたMig-21とF4ファントムⅡの空中戦は46回、Mig-21は20機が未帰還となり、F4ファントムⅡ27機を撃墜したとされています。
アメリカ側の発表ではこの時期にMig-21を86機撃墜、または戦闘不能にしたとされています。撃墜されたF4ファントムⅡの数は42機でした。
F-8 クルセイダー
F4ファントムⅡ初期型が機関砲を搭載していなかったのに対して、F-8 クルセイダーは最初から20㎜機関砲を4門装備していたため、最後のガン・ファイターと呼ばれて居ます。
主翼前部を持ち上げた状態のF-8クルセイダー
出典 Wikipedia
F-8 クルセイダーの特徴はパイロットの操作により、主翼前部を約7度持ち上げることができるようにしたことです。これにより低速度における大きな揚力を得ることで、着艦時の速度が大幅に低下してより安全に着艦できるようになりました。また着艦時の機首上げを押さえられることで、前方視界の確保にも貢献しました。
F-8 クルセイダーは空軍のF-100スーパーセイバーと同じプラット・アンド・ホイットニーJ57-7アフターバーナー付きのエンジンを採用しながら、F-100スーパーセイバーの最高速度がマッハ1.3なのに対してマッハ1.7の速度を出せました。これは偶然に、空気取り入れ口の前の突き出た機首部分がショックコーンの形となり、エンジンへの空気の流入がスムーズに行われたためでした。
マッハ2を超える超音速戦闘機F104のショックコーン
出典 ウィキペディア
F8クルセイダーは、ベトナム戦争における 空中戦で16機のMiG-17、3機のMiG-21を撃墜し、撃墜されたF-8 クルセイダーは3機だけでした。
ただ主翼が可動式のため、重い兵装を主翼につけることが出来ず、より多くの兵装を装備できるF4ファントムⅡと交代しました。
北ベトナムの主な対空兵器
北ベトナムは、空中戦ではアメリカ軍には到底及ばないと悟り、戦闘機を充実する代わりに、地上からの防空設備の充実を図りました。
DShK 38/46 12.7㎜機関銃
DShK M1938はM2ブローニングに似せた重機関銃として1938年にソ連で生産が開始されました。
サンクトペテルブルクの砲兵・工兵・通信部隊軍事歴史博物館に所蔵されている DShK M1938
出典 Wikipedia
第2次世界大戦中、GAZ-AAトラック、IS-2戦車、ISU-152 自走砲、T-40水陸両用戦車などの車両に搭載され、主に対空戦闘用の機銃として装備されました。
1946年、信頼性と製造性を高めるために銃口と給弾装置を改良した改良型が生産されDShK 38/46と名付けられました。DShKは1954年のディエンビエンフーの戦いを皮切りに、ベトナムの共産主義勢力によって広く使用されました。
有効射程距離2000メートル
発射速度毎分600発
ZPU 14.5㎜対空機銃
ZPU は高度2000メートルまでの航空機、および軽装甲地上目標用に作られた重機関銃です。発射速度は毎分600発。
ZPU には2連装のZPU -2と4連装のZPU -4があります。
オリジナルのZPU-4。
ロシア、サンクトペテルブルクの砲兵・工兵・通信部隊軍事歴史博物館
出典 Wikipedia
これらの対空機関銃は、高射砲に比べると威力は劣るものの、ヒューイ・ヘリコプターやO-1バードドッグ(セスナ170)のような低速の前線航空管制偵察機の撃墜に効果的であった。ベトナム上空で米軍が失った約5,500機のヘリコプターと2,000機の固定翼航空機の60%は、地対空ミサイルやミグ戦闘機ではなく、地上からの攻撃によるものでした。
AZP S-60 57㎜ 対空機関砲
AZP S-60 57㎜ 対空機関砲は、発射は速度が速く強力な57㎜砲弾を毎分約70発(理論上では毎分105発から120発)射つことが出来ます。この砲は水平射撃で最大12㎞、垂直射撃で最大8.8㎞の高度まで射撃できますが、実際には500mから 1.5kmまでの低空を飛行する航空機と、約3㎞離れた地上目標に対して最も効果的です。
AZP S-60は単独でも使用できますが、 SON-9などの射撃管制レーダーと連動して最大6基までのAZP S-60を連結して、1つの対空砲台として作動させることも出来ます。
イスラエル軍のAZP S-60
イスラエル、ハツェリム空軍基地2006年
出典 Wikimedia
85mm M1939対空砲 KS-12
KS-12とも呼ばれる85mm M1939対空砲は、ソ連が1939年から製造した重対空砲です。1944年に威力を向上させるため、より強力な推進剤を使用できるように改良され、1944モデル(KS-18)となりました。これにより実用高度が1万500㍍まで伸びました。
ベトナム戦争ではそれまでの手動式に変わり、レーダー誘導方式が採用され命中精度が格段に上がりました。
サンクトペテルブルク砲兵博物館所蔵の85mm対空砲。
出典 Wikipedia
かなり怖い、レーダー誘導地対空ミサイル SA-2ガイドライン
S-75 ドヴィナ(NATO 名 SA-2ガイドライン)はソ連が開発したレーダー誘導方式の地対空ミサイルで、1957年、モスクワで開催されたメーデーのパレードで公開され、実戦配備が行われました。
SA-2ガイドラインが広く知られるようになったのは1960年5月1日、それまでどんな戦闘機やミサイルも撃墜不可能と思われていた高高度2万メートルで偵察飛行中のゲイリー・パワーズ搭乗のU-2が、スベルドロフスク近郊の試験場上空でSA-2ガイドラインに撃墜されたU-2撃墜事件によってでした。
対空ミサイルシステムS-75(NATO名 SA-2ガイドライン)
真ん中の小さな翼より下がロケットブースタで、五秒間に高度2万フィート(約6100㍍)までマッハ2.3に加速して、そこから本体のロケットエンジンにより地上レーダーの誘導に沿って、マッハ3.5で目標に向かって飛んで行きます。
出典 Wikimedia
S-75(SA-2)は、対空砲や戦闘機では対処出来ない超高空を亜音速で飛行する爆撃機や偵察機を撃墜するために、製造されました。
B-52などの大型機はこれに狙われたらお終いでしたが、F-4ファントムや F-105サンダーチーフなどの小型機では、早期に発見できれば急旋回や急降下などの回避運動をするとミサイルの小さな翼では対応出来ないため、回避することが出来ます。そうはいっても、ベトナム戦争で最初にSA-2によって撃墜されたのは、1965年7月24日ハノイ西部にある弾薬庫と弾薬製造施設の爆撃に出動したF-4Cファントムで、4機編隊のうち1機が撃墜され3機が損傷を受けました。
このミサイルの射程距離は約45㎞、射程高度は3000~30.000m(機種による相違あり)です。
ベトナム戦争でソ連は95基のS-75(SA-2)の運営システムと7658発のミサイルを供与しました。そのうち6816発のミサイルが使用され、1046機の米軍機を撃墜しました。これはベトナム戦争を通じて撃墜された米軍機の31%に当たります。
S-75 ドヴィナ(NATO 名 SA-2ガイドライン)の制御システム
射撃管制レーダー、ファンソング
ベトナム戦争で使用されたファンソングと呼ばれる、S-75/SA-2 SAMファミリー用の交戦および射撃管制レーダーシステム。
一番左のパラボラアンテナが、ミサイルの操縦アンテナ。
真ん中の四角い箱の下の横に細長いアンテナが、横方向の方位角アンテナ。
一番右の縦に細長いアンテナが、縦方向の迎角アンテナです。
S-75(SA-2)は、角度10°の幅で照射する縦方向と横方向あのレーダー波が交わる地点を(上の図の飛行機が書かれている部分)を自動で飛んで行きます。
そのためレーダーの操作員は、目標がレーダーから外れないように操作し続ける必要があります。
UVバン
レーダーアンテナの操作は、UVバンと呼ばれるトレーラーの中で行われます。
出典 Air Power Australia Website
S-75(SA-2)操作パネル
3人のオペレーターが、画面奥にある様な椅子に座って、操作パネルの下3分の1の所にある丸いハンドルを回し、左から方位、距離、高度を調整して、標的を捕らえ続けます。
出典 Air Power Australia Website
S-75(SA-2)の発射システムには、200㎞先まで探知できる長距離目標捕捉レーダーP -12「エニセイ」(NATO 名「スプーンレスト A」) が付随しています。
ソマリアで運用されていた、P-12「スプーンレストA」
出典 Wikipedia
ミサイルの飛行を制御するレーダー波は、遠距離になると広がってしまう為、1度に2~3発のミサイルを発射します。
SAMの発射台をはじめこれらのレーダー機器は、車で6時間ほどで移動して再設置できるようになっているため、以前のような固定陣地では無くより隠しやすい場所に移動して設置しました。またレーダー本体と、その操作員を乗せたバンは500㍍ほど離れた場所にも置けるようになっており、レーダーのアンテナが破壊されても大切な無線装置や操作員が被害を受けずらくなっています。
アメリカ軍のS-75(SA-2)対策
ワイルド・ウィーゼル(凶暴なイタチ)
これまでアメリカ軍の飛行機は高射砲が届かない4000㍍以上の高度で飛べば安全に飛行できましたが,地対空ミサイルSA-2やミグ戦闘機の出現によって安全では無くなってきました。特に北ベトナムに出撃する爆撃機にとっては速度が遅い上、機敏な動作が出来ないため非常に危険な状態となりました。
スプリングハイ作戦
1965年、北ベトナム軍は航空戦力ではアメリカ軍に勝てないとみて、強力な防空網の構築に力を入れていました。19665年4月からソ連の援助により、首都ハノイとハイフォン港周辺に地対空ミサイルSA-2のサイト(発射基地)の建設が始まりました。
北ベトナムに配置され初めた頃の、S-75(SA-2)のミサイル基地。
典型的な六角形の配置は上空から容易に発見できたが、北ベトナムは後にこの理由からこの配置を放棄した。
出典 Wikipedia
これらのサイトの建設や、SA-2の取り扱いや関連するレーダーの操作方法を教えるために、多くのソ連人指導員が就いていました。ジョンソン大統領はこれらの基地にいるソ連人技術者が被害を受け、ソ連との政治問題を避けるため軍部からの要求に対して、建設されたSA-2のサイトや、建設中のサイトへの攻撃は禁止していました。1965年7月24日米空軍のF-4Cファントム4機が、SA-2ミサイルにより1機が撃墜され、3機が損傷する事件が起こりました。
7月26日、ジョンソン大統領はF-4Cファントム撃墜の報復として、攻撃制限区域外にあるすべてのSA-2サイトへの攻撃を命じました。これに応じてアメリカ空軍はタイのタクリ基地とコラート基地は、各基地のF-105の3分の2を投⼊する48機の攻撃計画を立てました。この攻撃は「スプリングハイ」というコードネームがつけられました。
一夜明けた7月27日の早朝、ジョンソン大統領はF-4Cファントムを撃墜したとされるサイト6とサイト7のみの攻撃に変更しました。そのため新たに攻撃計画を作り直すことになり、部隊が飛び立ったのは27日の午後になってからでした。
SA-2のミサイルサイト6と7の位置
サイト6と7はお互い補完できるよう、3マイル(約4.8キロ)しか離れていません。
タイ国内のタクリから出発した部隊はサイトの北側から、同じくコラートから出発した部隊はサイトの南側から攻撃を開始しました。
一方、北ベトナムはアメリカは絶対報復爆撃を行うと考え、その時はファントムのように高空では無く、低空からやって来ると予想しました。報復爆撃に備えて、あらかじめSA-2やレーダー等の関連施設を安全な場所に移動し、その代わり竹の束を白く塗ったダミーのミサイルを作り設置しました。また集められるだけの対空機関砲や高射砲130門を、サイトの周りに配置しました。
案の定、低空から攻撃を開始した米国機は強力な防空網により、48機中6機が撃墜され、乗員のうち3名が死亡、2名が北ベトナムの捕虜、1名が救助される結果となりました。
これを機にアメリカ軍は、本格的にSAM対策に乗り出すことになりました。
F-100Gワイルド・ウィーゼルⅠ
スプリングハイ作戦終了後の1965年8月12日、統合参謀本部はSAMの使⽤を研究する委員会の設⽴を承認しました。
この委員会の勧告により、地対空ミサイルSA-2を制御するレーダーを発見して破壊することを目的とした、新しいタイプの航空機の必要性が認識されました。この新しい機体は「ワイルド・ウィーゼル(凶暴なイタチ)」と名付けられました。
ワイルド・ヴィーゼルの任務は、爆撃機に先立ち行き先にあるSAM地対空ミサイルの砲台を無力化することでした。まずレーダーに感知されないように低空で近づき、砲台の近くで急上昇して、SAMの追跡・誘導レーダーにわざとその身をさらします。当然敵は対空ミサイルを撃ってきますが、そのミサイルを交わし、SAMの追跡・誘導レーダーの発信元を調べ、破壊します。そうすればミサイルを無力化でき、後から来る爆撃機は高射砲などが届かない高空を飛べば安全に飛行することが出来ます。
はじめてこの任務の内容を知らされた、後席の電子戦士官が思わず叫んだ「YGBSM(You Gotta Be Shittin’ Me)俺をクソダメに突っ込ませる気か」が、ワイルドヴィーゼル乗員の合い言葉になっています。
これは青森県の三沢基地に駐留する、アメリカ空軍のワイルドヴィーゼルの第35戦闘航空団の記章。下に「YGBSM」の文字が記されている。ついでにこのイタチの名前は、「ウィリー (Willie) 」。
出典 ウィキペディア
三沢基地のF-16Gワイルドヴィーゼル機
垂直尾翼にワイルドヴィーゼルを表す「WW」の文字が描かれている
出典 Wikipedia
ワイルドヴィーゼルの初まりは、第2次大戦中に敵のレーダーを発見し、破壊する(フェレット任務)に従事した飛行機です。当時はアンテナや受信機が大きいためB-24や B-29などの大型爆撃機が使われました。
レーダー妨害装置を装備したB-24
搭載する電子機器は場所を取るため、爆弾倉に納められていた
出典 https://www.cbi-theater.com/
第2次世界大戦で、ドイツと日本の通信とレーダー活動を捕捉、記録、分析するために使用された監視装置
出典 AAFRadio
無線設備の制作を請け負ったATI(コンピューターのグラフィックチップを作っているATIとは、別の会社です)は、当時実用化されたトランジスタを使用して、これら一連の無線設備の小型化に挑みました。
90日で作られた、アプライド・テクノロジー(ATI)社のSA-2用誘導レーダーを発見するシステム。
左がSA-2ミサイル誘導および射撃管制レーダー「ファンソング」用受信機と表示装置、APR-25。
真ん中が早期発見、追跡用レーダー「スプーンレストA」等をはじめ、幅広い電波を受信できる、IR-133パノラマ受信機。
一番右の小さいのが、ミサイル発射警報器、APR-26。
これらの機器はワイルドヴィーゼル用の基本機器として改良されながら、ベトナム戦争後も使用されました。
出典 YouTube
これらの装置を搭載するためにF-100スーパーセイバーの2人乗り練習機F-100F の後部座席にこれらの機器を設置して、F-100Gして使用しました。
F-100G後席の電子戦士官用コックピット
出典 YouTube
F-100Gの胴体の前と両脇、下および尾翼の上にはいろいろな電波を受信するアンテナが付けられました。
出典 YouTube
これらの装置を組み込んだ4機のF-100Gが試作されましたが、1機だけはどうしても正常に動作しませんでした。
ワイルドヴィーゼルのチームはハンター(索敵)役のF-100G 1機と、キラー(破壊)役のF-105戦闘爆撃機4機で構成されました。
彼らは空爆する爆撃機部隊の前方を飛び、ハンター役のF-100Gが低空でSAM基地の近くまで近づき、急上昇してSA-2ミサイルミサイルが発射されるまで待ちます。ミサイルの誘導レーダーは、敵機を発見して撃墜する間だけの短い時間しか作動しないため、わざと身をさらして挑発する必要がありました。こちらめがけて飛んでくるミサイルを避けながら、ミサイルを誘導しているレーダーの位置を見つけ、レーダーアンテナとその制御装置を煙幕ロケット弾を使って場所を示し、後から来る爆撃機に毀壊させます。その間中、地上からの高射砲や機関銃からの攻撃にさらされることになります。そのため真っ先に撃墜される恐れがあり、後席の電子戦士官が「俺たちをクソダメに突っ込ませる気か」と言ったのはこの為です。
ワイルドヴィーゼルの役目はこれで終わりでは無く、予定されている爆撃機が攻撃地点まで航路と、帰り道の航路全体で爆撃機の編隊を守るため、常に爆撃機の先を飛び、基地に帰るまで同じ事を繰り返します。
最初の4機に加え、新しく3機のF100Gワイルドヴィーゼル機が製造されました。しかし6週間後に残ったのは1機だけで、4名が死亡、2名が捕虜、3名が負傷しました。
F-105Fワイルド・ウィーゼルⅡとF-105Gワイルド・ウィーゼルⅢ
一番問題となったのがF-100では最大速度はマッハ1.3ですが、翼下に増槽やロケットポットを付けると音速以下の速度しか出せません無いことでした。こに対して爆撃を受け持つF-105はマッハ2を超える超音速機で、F-100Gを先に行かせるため、わざとゆっくりと飛ぶ必要があり、これはこれで北ベトナムのミグ戦闘機の、格好の獲物になってしまいます。
F-100Gが予想外に早く破壊されたため、F-100Gと同様、F-105の練習機型2人乗りのF-105Fを改造しました。1966年1月15日初飛行に成功して、F-105Fワイルド・ウィーゼルⅡとして使用することになりました。
1967年、F-105Fワイルド・ウィーゼⅡに加えて新たに電子妨害装置(ECM )と地対空対レーダーミサイルAGM-45 シュライクが装備されF-105Gワイルド・ウィーゼルⅢとなりました。これにより敵のレーダーを攪乱させ、機体を敵のレーダーから守るのと同時に、SA-2の誘導レーダを破壊する確率が上がりました。
検査中のAN/ALQ-184 電子妨害ポッド。
F-105Gは主翼下の胴体にブリスター(膨らみ)を設けその中に収納しました。
出典 Wikipedia
F-105G後席の電子線戦士官のコックビット。
レーダー用と、パノラマミック受信機の表示部にはカバーが掛けられている。レーダー表示部の上にあるのは各種レーダーの受信警報器。
出典 National Museum of the United States Air Force.
F-105Gワイルド・ウィーゼル Ⅲ
胴体の主翼下に電子妨害ポッドを入れるための膨らみが見える。
垂直尾翼にワイルドヴィーゼル機を表す「WW」の文字が書かれている。
出典 National Museum of the United States Air Force.
F-105Gワイルド・ウィーゼルはⅡ型とⅢ型併せて61機製造され、ローリング・サンダー作戦が終わったあとのラインバッカーⅡ作戦(1972年)にも使われ、1984年F-4G「ワイルド・ヴィーゼルⅤ」と交替しました。
リパブリック リパブリック F-105B の航空電子機器。F-105Gはこれにワイルドヴィーゼル用の機器が加わる。
出典 Wikipedia
AGM-45 シュライク(空対地ミサイル)対レーダーミサイル
AGM-45 シュライクはアメリカ海軍が開発した、AIM-7 スパロー空対空ミサイルを改良して、敵が発射したレーダー波を受信して敵レーダーを破壊するように作られた対ミサイルです。
AGM-45 シュライク対レーダーミサイル
AGM-45は、北ベトナムの空対地ミサイルSA-2を誘導するレーダー波を自動でキャッチして、発射源のレーダーアンテナを破壊するために作られました。
出典 Wikipedia
AGM-45の有効射程はSA-2の有効射程の半分(約20㎞)しか無いため発射されたSA-2を避けて攻撃しなくてはなりません。空に弾頭の威力が弱く、当たってもレーダーアンテナを破壊できるだけなので、乗員からあまり好まれませんでした。また敵がレーダーの電波を止めるか、水平方向に変えると目標を見失ってしまいます。しかし、これをやるとSA-2も制御を失い、あらぬ方向に飛んで行ってしまいますので、お互い様です。さらにAGM-45は一つの周波数にしか対応できないため、敵がレーダーの周波数を変えると使えなくなります。
1年後、AGM-45に比べて、多くの周波数に対応出来るようにし、弾頭を強化し、射程距離を80㎞まで伸ばし、さらに記憶装置を取り付けレーダーを切られても最初の攻撃位置に向かって飛ぶようにしたAGM -78スタンダードARM(STARM)が製造されました。
しかし、このような状態になってもF105Gの乗組員はAGM-45の方を使っていました。それはAGM -78が高価(AGM -78が1発20万ドル、AGM-45が7千ドル)な為、AGM -78を使用した場合、その理由を書いた長々とした報告書を提出しなくてはならないためと言われています。
F-105Gは、両翼の4つのパイロンにAGM -78とAGM-45を2発ずつ計4発搭載しました。
F-4C ワイルド・ウィーゼル IV
F-105は1964年で生産終了となっていたため、将来を見据えて同時進行でF-4CファントムIIをワイルド・ウィーゼル Ⅱとする改修工事が行われていました。
しかし、F-105とF-4Cファントムでは、機体の大きさはほぼ同じですが、F-105は単発エンジンであり、さらに機内に大きな爆弾倉を持っていたため必要な電子機器を楽に治められました。対してF-4Cファントムは双発エンジンの上、長距離を飛ぶため機内に大きな燃料タンクを持ち機内に新たな機器を入れる場所があの間戦でした。その対策として、ワイルドヴィーゼル用機器(APR-25シリーズ)を入れた電子ポッドを製作し、胴体下右側のスパロー専用のパイロンを改造して、機外に装着することにしました。
ところがF-100Gや F-105Gでは問題無く使用できた機器が、全く作動しなかったり、表示が不安定になったりしてしまいました。
約1年に及ぶ試行錯誤の末、最終的に、F-100F にインストールされているワイルド・ウィーゼル I システムの考案者である CK Bullock 氏がコンサルタントとして招聘され、すぐに問題点を発見しました。 F-100とF-105はどちらも、機体の低容量配線に合わせて、低容量同軸ケーブルを使用してビデオ情報をRHAWスコープに伝送していました。一方、F-4はシステムに高容量配線を使用していたため、ワイルド・ウィーゼル装置を組み込むために高容量配線を使用していました。この装置はそのような用途には設計されていませんでした。
このように手間取ったため、36機のF-4C ワイルド・ウィーゼル IV が配備されたのは、ローリングサンダー作戦が終わったあとの1969年春となってしまいました。
1972年のラインバッカー作戦では、F-4Cワイルド・ウィーゼルⅣは460回出撃し、自軍の損失はありませんでした。
F-4Gに取り付けられた4種類のミサイルとレーダー探査装置(ECMポッド)
手前からAGM-88 ハーム、AGM-65 マーベリック、ALQ-119 ECMポッド、AGM-78 スタンダード、およびAGM-45 シュリンク
出典 WIkipedia
F-4GワイルドヴィーゼルⅤ
当時最新型だったF-4Eを改造して、F-4Eカら取り付けられた20㎜バルカン砲を撤去し、その場所にAPR-38(t)レーダーホーミング・警報受信機(後にAPR-47にアップグレード)に設置して、116機が改修されF-4Gとなり、1978年から実戦配備されました。APR-38レーダーは自機の周囲360度の範囲を探知でき、真後ろから迫ってくる敵の戦闘機やミサイルを捕らえることが出来ます。さらに受信した電波を分析し、高射砲の標準レーダーか、ミサイルの誘導レーダーか、ミサイルの誘導レーダーの場合その機種まで特定して表示パネルに表示できます。
さらに新型NWC/TI AGM-88A高速ARM(HARM)が、搭載できるようになりました。AGM-88は発射された航空機の位置と高度をもとに、敵の地対空ミサイルのレーダーシステムから発射される電波を自動的に追って破壊できるミサイルです。
F-4GワイルドヴィーゼルⅤは、1991年の砂漠の嵐作戦に投入され、約4000回出撃し1000発のミサイルを発射、敵の地上私設200カ所を破壊、SAMの70%以上を破壊しました。それに対して失われたF-4Gは1機だけでした。
F-4GワイルドヴィーゼルⅤは1996年に全機退役し、現代はF-16C/Dを改造したF-16CJ/DJ ブロック 50/52が使用されています。
第20戦闘航空団のF-16CJ
出典 Wikipeia
1966年のアメリカ軍機の損失は284機(空中戦による損失は9機)、北ベトナム軍の損失は23機でした。
1966年10月14日、これだけ攻撃しても勢いが衰え無い北ベトナムに対して、こう述べています。
ロバート・マクナマラ米国防長官は、南ベトナムへの再訪問後に提出した覚書の中で、共産主義勢力は年間6万人の死者を出しているものの、「敵の士気は低下する兆しを見せておらず、北ベトナムからの侵入と南ベトナムでの人員補充によって損失を補填する以上の力があるようだ」と述べた。マクナマラ長官はさらに、「敵の…勢力は…拡大し、テロと破壊工作は規模と激しさを増し、鉄道や高速道路の遮断は拡大し、市場に出荷される米の収穫量は減少している。我々の支配地域は、たとえあったとしても、人口のほとんどを占めていない…地方では、敵が夜をほぼ完全に支配している」と述べた。
出典 Wikipedia