
1965年2月7日早朝、南ベトナム中部のプレイク近郊に設けられた米軍基地キャンプ・ホロウェイが解放民族戦線(ベトコン)の攻撃を受け、多大な被害を出しました。攻撃から12時間後、ジョンソン大統領は17度線のすぐ北のドンホイにある北ベトナム軍兵舎への爆撃を命じました。これが北爆の開始であり、ここからアメリカ軍による北ベトナムへの攻撃が一挙にエスカレートしました。
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亀仙人21965年の南ベトナム情勢
1965年2月の南ベトナムクーデター
事の起こりは1964年1月カーンがクーデターを起こしズオン・ヴァン・ミンを亡命させ自ら大統領に就任しました。ところが仏教徒の抗議に応じて官僚や軍部の中にいるカンラオ党出身者やカトリック教徒を政権内から排除しようとしました。1964年9月カトリック教徒の、ラム・ヴァン・ファット将軍は内務大臣を解任され、ズオン・ヴァン・ドック将軍は第4軍団司令官の職を解かれようとしました。9月13日、2人はカーンに対して反乱を起こしました。しかしこの反乱はベトナム共和国空軍のグエン・カオ・キ司令官と第1師団のグエン・チャン・ティ准将ら若手の将校によって押さえられました。
ファットとドックは政権の不安定化を恐れるアメリカの意向により、2ヶ月間の投獄という軽い刑に処されました。
1964年9月26日、米国の圧力により、グエン・カーン将軍と軍事政権の高官らは、議会に似た任命された諮問機関である最高国民評議会(HNC)を設立し、文民統治の体裁を整えた。1964年10月26日
ファン・カック・スーが国家元首に就任し、11月4日元サイゴン市長のトラン・ヴァン・フンが内閣を組織しました。
ファン・カークスー 1964年
彼はホアハオ教の創設者の一人であり、清廉潔白な人として知られていました。
国家元首に就任中は一切の賄賂を拒み、政府から支給される食事のみを食べ、給与は国民の社会福祉基金に寄付していました。そのため彼の妻レ・ティ・ティウは自宅で服を縫い、それを市場で売って生活費に充てていました。
出典 Wikipedia
1964年12月19日、南ベトナムでクーデターが起こり、グエン・カーン将軍率いる南ベトナムの軍事政権は最高国民評議会(HNC)を解散し、そのメンバー数名を逮捕しました。9月のクーデターで活躍した若手将校たちに報いるため昇進させようとしましたが、上には前年の1963年11月のクーデターでゴ・ディン・ジェム大統領を倒した古参の将軍達が居座っていました。彼らは高給をもらっていましたが、これといった仕事のない事務職に就いていました。そのため彼らを排除するため、勤続25年以上(25年前の1939年はナチス・ドイツがポーランドに侵攻して、第2次世界大戦が始まった年になります。)の将軍達を退職させるため最高国民評議会に求めましたが、評議会から拒否されたことが始まりでした。
最高国民評議会を解散させたことは、南ベトナムの民政化を望んでいたアメリカにとって大きな障害となりました。
マクスウェル・D・テイラー
南ベトナム駐在の米国大使マクスウェル・テイラーはクーデターに反対し、その指導者たちに怒りを覚えた。
出典 Wikipedia
テイラーはカーンに対して、高等国民評議会の解散を取り消さない場合は。アメリカは軍事援助を取りやめると脅しました。
カーンはベトナムはアメリカのために戦っているのではないと反論し、テーラー大使は内政干渉を行ったとして、ペルソナ・ノン・グラータ(不適格な外交官)と見なしアメリカ本国への送還を要求しました。
初めはカーンの強気な態度に喝采を送っていた軍部でしが、よく考えてみるとアメリカからの援助がなくなると自分たちにお金が入ってこなくなるのに気づき、カーンを見捨てるようになりました。
1965年1月9日、カーンは仲介役のはジョン・L・スロックモートン将軍の申し出に従い、最高国民評議会を復活し、トラン・ヴァン・フン首相は軍の要求に従い、アメリカからの助成金を使い徴兵制度の拡大と延長、軍備の増強を図り反共産党への軍事力の増強に務めました。徴兵制度の強化は対象となる学生や農民、仏教徒らの激しい反発を招き各地で暴動が発生しました。
1月27日カーンは、陸軍のグエン・チャン・ティ将軍と、空軍司令官グエン・カオ・キ将軍の力を借りクーデターを起こし、2月16日トラン・ヴァン・フン首相に変わってファン・ホイ・クアット博士を首相に任命しました。
2月の第1週、カーンが再びクーデターを起こしたことに憤慨したテイラーは、グエン・カオ・キ空軍司令官を通じて、第二軍団司令官のグエン・バン・チュー、海軍のチョン・タン・カン提督たちを中心とする7名の若手将校たちに、アメリカは今後カーンを支持しないと伝えました。
その裏で1965年1月から1964年9月のカーンに対するクーデターに失敗したラム・ヴァン・ファット将軍と、クーデターの関与したとしてカーンから国外追放として大使としてアメリカに送られたキエム将軍参謀であるファム・ゴック・タオ大佐がクーデターの計画を練っていました。
1965年2月19日の正午前、ラム・ヴァン・ファット将軍とファム・ゴック・タオ大佐が、グエン・カーン将軍率いる南ベトナムの軍事政権に対して2度目のクーデターを起こしました。
ファム・ゴック・タオ大佐についてはこちらの記事を見てください ↓
このクーデターは1964年9月のクーデター同様、グエン・チャン・ティ将軍とグエン・カオ・キ空軍元帥らの若手将校によって抑えられ膠着状態になりました。午後8時アメリカの仲介でラム・ヴァン・ファットとグエン・カオ・キは会談を行いグエン・カーンを追放することで合意し、クーデターは終了しました。その日の午後遅くに、グエン・バン・チュー、グエン・カオ・キとグエン・チャン・ティは軍事評議会を率いてカーンに対する不信任決議を採択し、軍事政権の実権を握った。
2月24日、軍事政権のトップだったカーンは特使としてニューヨーク市の国連での報告を皮切りに世界ツアーに派遣された。
1965年6月19日、軍によって任命された文民大統領ファン・カック・スーと首相ファン・フイ・クアットの自主辞任を受け、若手将校のトップ、グエン・バン・チューが国家指導評議会議長(国家元首)にグエン・カオ・キが首相に就任しました。
グエン・バン・チューが大統領と、グエン・カオ・キが副大統領による新しい軍事政権は、ベトナム戦争に詳しい評論家達によると、ベトナム戦争を通じて最強にして最悪な政権である、と言われています。
アメリカ軍による本格介入
北爆
1965年からアメリカ軍による本格支援が始まりました.1964年末には23,310人だった軍事顧問団が1965年末にアメリカ軍は184,314人まで増えました。
アメリカ軍の目的は南ベトナム(ベトナム共和国)の共産化を防ぐことにありました。そのためには反共主義の政権(軍事政権だろうが文民政権、独裁政権かまわず)を南ベトナムの多くの住民の意向を無視して、支持し続けました。そのためアメリカの目的に従って働くベトナム人の多くは、多額の経済援助や軍事援助に群がる官僚や高位の軍人達、および御用商人などです。彼らの望みは、国が混乱している間にできるだけお金を貯め、無事のうちに第三国に移住して優雅に暮らすことでした。このため将軍達の多くは首都サイゴンに住み、多発するクーデターに備えて自己の最強部隊をサイゴンに駐留させた折、最前線で戦うのは2線級の兵士でした。
1965年1月20日,再選を果たしたリンドン・B・ジョンソンの第2回目の大統領就任式が行われときには、1964年12月19日に起きたクーデターの余波で南ベト多ナムの政情は非常に不安定でした。
ビンギアの戦い1964年12月28日~1965年1月1日
南ベトナムの軍部トップの将軍達がサイゴンで醜い主導権争いを続けている最中、サイゴンからわずか70㎞離れたビンギア村では解放民族戦線(ベトコン)からの激しい攻撃を受けました。
ビンギア村の位置
赤い印の場所にあるビンギア村は、南ベトナムの首都サイゴンから70キロの所にある人口6000人の小さな村です。
この村の住民は、1954年のジュネーブ協定の時、北ベトナムから難民としてやってきたカトリック教徒で反共産主義者でした。
12月28日、解放民族戦線と北ベトナムの兵士1800人がビンギア村を襲い占領しました。ベトナム共和国軍第30レンジャー大隊がビンギア村を奪還するためにヘリコプターで輸送されましたが、待ち伏せに遭い大きな被害を受けてしまいました。
12月29日、第38レンジャー大隊がヘリコプターで村の南に到着し、反撃を開始しましたが、村を奪還することはできませんでした。
12月30日、第4海兵大隊が援軍として派遣され、北ベトナム軍と解放軍は村から撤退しました。
12月31日、第4海兵大隊は、村周辺で撃墜されたヘリコプターの乗員の救助や敵の捜索を行いましたが、逆に解放軍に襲われてビンギア村に撤退しました。
1965年1月2日、第1パラシュート大隊と第3パラシュート大隊が増援として村の東に空輸されたため、解放軍は村の占領を諦め撤退しました。
この戦いで南ベトナム軍は4300人のうち、死者201人(アメリカ人顧問5人)、負傷者192人(アメリカ人8人)、行方不明者68人(アメリカ人3人)を出してしまいました。さらに21機のヘリコプターと1機の偵察機が撃墜され、装甲車等37台の軍用車両が破壊されました。
これに対して解放戦線側は死者32人を出しただけでした。
小銃の他はわずかな機関銃と、迫撃砲を装備しただけの解放戦線に負けた南ベトナム軍も情けないですが、そんな中でも権力闘争に明け暮れている将軍達に対しては、呆れるほかありません。
こうなってはアメリカは南ベトナムから撤退するか、自分たちで共産軍と戦うしかありません。戦争に負けた大統領と言われたくないジョンソンは後者を選びました。
北爆開始のきっかけとなったキャンプ・ホロウェイへの攻撃
1965年2月7日早朝、南ベトナム中部のプレイク近郊に設けられた米軍基地キャンプ・ホロウェイが解放民族戦線(ベトコン)30名の攻撃を受けました。この攻撃でアメリカ軍には死者7名、負傷者104名が出たほか、航空機10機が破壊され、15機が損傷を受けました。
それに対して解放戦線側の死者は、1名だけでした。後に分かったことですが、この攻撃は解放戦線の現地司令官が独断で行ないました。
キャンプ・ホロウェイの場所
出典 Wikipedia
1966年4月のキャンプ・ホロウェイ
出典 Wikimedia
1964年8月4日の夜、トンキン湾で駆逐艦「マドックス」と駆逐艦「ターナー・ジョイ」が魚雷攻撃を受けたと報告してきました。8月4日深夜、ジョンソン大統領は報復爆撃として「ピアスアロー作戦」を命じ北ベトナムの水雷艇基地4カ所と石油貯蔵施設1カ所に対して、64回の空爆を行いました。しかし、1964年11月に行われる大統領選挙で戦争拡大を図っていると思われないため、それ以上の処置は取りませんでした。
1965年2月始め、二人の大人物がベトナムにやって来ました。
2月4日、アメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官マクジョージ・バンディがサイゴンに到着し、当時の南ベトナム駐在米国大使マクスウェル・テイラー将軍と会談してクーデターが続く同国の政治情勢について話し合いました。
2月6日には、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相が北ベトナムの訪問のためハノイに到着しました。コスイギン首相は1963年10月14日に解任されたフルシチョフの後を継いで首相になった人物です。前任のフルシチョフ首相は解任直前経済的困難から、ベトナムからの撤退を決めていました。しかし、それでは北ベトナムに対して中国の影響力が大きくなるため、コスイギン首相は新たな援助計画を立てるためハノイに来ていたのでした。
コスイギン首相がハノイに着いた翌日の2月7日、キャンプ・ホロウェイが攻撃されました。キャンプ・ホロウェイへの攻撃の知らせがサイゴンに届くと、ウィリアム・ウェストモーランド将軍、マクジョージ・バンディ、マクスウェル・テイラー大使が被害状況の調査のためプレイクに飛んだ。マクジョージ・バンディは、ジョンソン大統領に「ベトナムの状況は悪化しており、米国の新たな行動がなければ敗北は避けられないようだ。おそらく数週間、あるいは数ヶ月ではなく、今後1年かそこらで…。まだ状況を好転させる時間はあるが、あまり多くはない」と報告し、早急に報復爆撃をするよう、要請しました。
北ベトナムへの爆撃計画は、1964年1月24日に決められた作戦計画34A(OPLAN34-Alpha)によってあらかじめ準備されていました。ですからトンキン湾事件の時と同じように、すぐに報復爆撃を行えるようになっていました。
キャンプ・ホロウェイへの攻撃から12時間後、ジョンソン大統領は17度線のすぐ北のドンホイにある北ベトナム軍兵舎への爆撃を命じました(フレイミング・ダート作戦)。これが北爆の開始であり、ここからアメリカ軍による北ベトナムへの攻撃が一挙にエスカレートしました。
ドンホイの位置
1965年2月10日、ソ連のコスイギン首相と北ベトナムの首相ファム・ヴァン・ドンは共同声明を発表し、ソ連があらゆる「必要な援助と支援」を提供することで北ベトナムの防衛力を強化する決意を強調した。そして1965年4月、モスクワを訪問中のベトナム共産党書記長 レ・ズアンはソ連とミサイル協定に署名し、北ベトナム軍はローリングサンダー作戦に抵抗するために必要なものを手に入れた。
2月10日午後8時5分、解放戦線の兵士が、クイニョン市の米軍下士官宿舎として使用されていた「ベトコンホテル」を爆破し、建物全体を崩壊させました。この襲撃はフレイミング・ダート作戦の報復として行われ米軍の兵士23名とベトナム人の民間人2名が死亡しました。解放戦線側もアメリカの警備兵から機関銃で撃たれ、2名が死亡しました・
翌2月11日、アメリカは「フレイミング・ダートⅡ作戦」を発動して、海軍はドンホイの郊町のチャンホアを、南ベトナム空軍とアメリカ空軍もドンホイ近くの町チャプレの爆撃を行いました。
ローリングサンダー作戦 1965年3月2日~1968年11月2日
南ベトナム軍は、1964年末から1965年初頭にかけてのビンギアの戦いや2月のキャンプ・ホロウェイへの攻撃で一方的に負けてしまいました。それにもかかわらず、将軍達はクーデターを繰り返し権力闘争に明け暮れていました。
このままではベトナム共和国は、崩壊してしまいます。
ジョンソン大統領は、アメリカ軍が直接北ベトナム内に持続的な空襲を行う作戦を立てました(ローリングサンダー作戦)。
ローリングサンダー作戦の目的は
- 南ベトナム国民に、アメリカが北ベトナムを攻撃することによって、士気を取り戻させること。
- 北ベトナムと国民に打撃を与えることで、アメリカ参戦の恐怖を与え南ベトナムへの侵略を諦めさせること。
- 北ベトナムから南ベトナム解放戦線への物資の輸送を阻止すること。
- 北ベトナムを支援している、ソ連と中国に共産主義と戦うアメリカの力と意志を見せつけ援助を削減させること。
でした。
3月2日、ローリング・サンダー作戦による最初の攻撃が、アメリカ空軍によって行われました。タイ国内の米空軍基地から飛びだったB-57、F-105、、F-100を含む総勢105機がラオス上空で空中給油を受け、南北ベトナム間の非武装地帯 (DMZ) 付近のソムバンにある北ベトナムの弾薬庫を爆撃しました。
ソムバンの位置
1965年、北ベトナムに向かう途中で燃料補給するF-105D
出典 Wikipedia
この最初の出撃で、6機が撃墜されてしまいました。
北爆に使用された米空軍の基地
北爆は、北ベトナムからホーチミンルートにつながる道路や鉄道の他、
ラオス南部の南ベトナムにつながる細長い地域(パンハンドル地帯)
を通るホーチミンルートに対しても行われました。
北爆というとアメリカ海軍のF-4ファントム、 F-8クルセイダー、 A-6イントルーダーが映画などでよく知られています。しかし北爆で一番活躍したのがアメリカ空軍のF-105サンダーチーフで、北爆で使用された爆弾の75%はF-105が投下しています。F-105がこれほど活躍したのは元々マッハ2を超える超音速爆撃機として作られたため、第2次世界大戦で活躍したB-17の2倍を超える約6トンの爆弾が搭載可能だったためです。海軍の全天候型攻撃機A-6イントルーダーの爆弾搭載量は約1.6トン。海軍機で一番搭載量が多かったのはプロペラ機のA-1スカイレイダーで、約3トンの搭載量があります。A-1スカイレイダーはベトナム戦争で、トイレ爆弾を投下したことで有名です。
洋式便器の中に爆薬と信管を取り付け、爆撃に出動するA-1スカイレイダー。
出典 ウィキペディア
アメリカ空軍機はタイ国内のタイのコラート、タクリ、ウドーン、ウボン等の米空軍基地から発進し、ラオス上空で空中給油を受け、任務修了後もラオス上空で空中給油を受け元の基地に帰りました。
アメリカ海軍機は南シナ海で遊弋している3隻の航空母艦で構成された、ヤンキーステーションから発艦していました。
ヤンキー・ステーションの位置
出典 ウィキペディア
エスカレーション
1964年末から1965年初頭にかけて起こったビンギアの戦いの後、アメリカ軍事援助軍司令官のウエスト・モーランド司令官は南ベトナム国内の空軍基地から北爆に発進する航空機を解放民族戦線(ベトコン)や北ベトナム正規軍から守るためには、北爆だけではなくアメリカ陸軍の増強をジョンソン大統領に求めました。
ウィリアム・ウェストモーランド。1969年1月
出典 ウィキペディア
1965年3月8日、ダナン空軍基地の警備のためアメリカ第9海兵遠征旅団の1,400人の海兵隊員がダナン近郊の海岸に上陸しました。これを皮切りに、7月には8万5000人、9月に13万人、11月には19万人と増員しました。その後も増強が続きベトナム在駐のアメリカ兵は1966年には37万2000人、最高時の1968年には54万3500名となりました。
この兵力を使い第1段階として1965年中に南ベトナム政府軍の士気を高めて体制を立て直し、第2段階の1966年から1967年にかけて南ベトナム国内の戦いで主導権を握り、第3段階の1968年には南ベトナム内の共産勢力を完全に掃討する予定でした。
この計画は1967年末まではうまくいき、アメリカ国内にはベトナム戦争勝利の雰囲気が満ちてきました。しかし、1968年1月31日に南ベトナム全土に渡る解放戦線(ベトコン)の一斉蜂起が起き、一時首都サイゴンにあるアメリカ大使館が占拠される事態となりました(テト攻勢)。南ベトナム軍とアメリカ軍はすぐ反撃を開始して、ベトナム全土で共産側に4~5万人の戦死者与え、解放戦線(ベトコン)は計画通りほぼ壊滅状態になり、戦いは北ベトナムからの正規軍(ベトミン)に引き継がれました。首都サイゴンまで攻撃され、アメリカ大使館が占拠されたことで、それまでベトナム戦争に楽観的な見通しを述べてきたアメリカ政府と軍に対してアメリカ国民に騙されたという思いが起こり、ベトナム戦争反対の動きが起こり、ここからベトナム戦争の流れが大きく変わりました。
自由世界軍事援助軍
1964年4月23日ジョンソン大統領はアジア太平洋地域のアメリカ同盟国に南ベトナムを支援するためベトナム戦争に参加してもらいたいとの呼びかけました(メニーフラッグス作戦)。これに応じて1965年から1966年にかけてタイ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、フィリピンの5か国が軍隊を派遣しました。その中で一番多かったのは韓国軍で、年間で最大5万人、ベトナム戦争全体を通じて32万人を派遣し、5099人が死亡、1万962人が負傷しました。次がオーストラリア軍で年間で最大8000人、ベトナム戦争を通じて6万1000人が派遣され、死者521人、負傷者3000人を出しました。
当時アメリカには知られていませんでしたが、北爆が始まると中国は北ベトナム政府の要請に応じて、中国人民解放軍の6防空師団(5~6万人)を、高射砲や対空機関銃と共に北ベトナムに派遣していました。そのほかに破壊された鉄道や道路の修復、諸島や海岸線における要塞の建設、中国国内から北ベトナム向けの石油パイプラインの設置などで、最盛期の1967年には17万人、ベトナム戦争全体で32万人以上の工兵を中心とした中国軍が北ベトナムに入っています(抗美援越)。
ソ連もミグ戦闘機の運用法や整備を教えるためと、地対空ミサイル基地やレーダ基地の建設や操作を指導するために、約7000人の技術者を北ベトナムに派遣していました。
失敗した北爆
北爆を開始するにあたって、アメリカ政府はソ連や中国を刺激して大規模な戦争(第三次世界大戦)を引き起こさないよう、気を使いました。
そのためローリングサンダー作戦の初期には、北ベトナムから北ベトナムからホーチミンルートに物資や兵員を運ぶための道路や、鉄道、橋梁などの爆撃に限られました。
主な爆撃禁止地区を下の図を使って、説明します。
ルートパッケージ。
出典 Wikipedia
1965年12月、指揮系統の違うアメリカ海軍とアメリカ空軍が同じ地域を爆撃しないよう、北ベトナムを6つ(実際には7つ)の地域に分け、海軍はⅡ,Ⅲ,Ⅳ,ⅥB地域、空軍はⅠ ,Ⅴ,ⅥA地域を担当しました。ハノイ中心部から60㌔m以内、ハイフォン中心部から20㌔m以内の爆撃は禁止されました(上の図の大きな円と小さな円の部分)。
また間違って中国領に侵入するのを防ぐために、中国国境から30マイル(約48km)内の飛行も禁止されました。
下は北ベトナムの重要地点の部分を拡大した地図です。
上の地図で白い名前の付いた黒点が、ミグ戦闘機が配置されていた北ベトナムの空軍基地。
これらの5ヵ所の空軍基地はソ連の技術者達が居る可能性があるため、攻撃を禁止されています。
同じ理由で、北ベトナム各地に建設された、ソ連の地対空ミサイルSA-2ミサイルの発射基地の攻撃も禁止されました。
またハイフォン港もソ連や中国から援助物資を運んできた船が停泊しているので、爆撃や機雷の設置を禁止しました。
上部の赤い斜線の部分は中国を刺激しないための、飛行禁止区域。
上の図の下にあるタンホア橋は、北ベトナム北部からホーチミンルートに物資を運ぶ重要な道路と鉄道のための鉄橋です。この橋は1955年4月4日から200回以上もの爆撃を受け、1972年5月13日、米海軍のレーザー誘導爆弾によって破壊されました。アメリカはこの橋の攻撃で11機が撃墜されたと発表しています。
ベトナムではこの橋をハムロン(竜のあご)橋と呼んでいます。
1972年レーザー誘導爆弾によって爆破されたタンホア橋
出典 Wikipedia
破壊されたタンホア橋は1973年に修復され、現在ではベトナム戦争を語る観光名所となっています。
出典 Wikipedia
更に住民のの生活に大きな影響を持つ、ダムや発電所、ソ連や中国から贈られた来る援助物資の集積所、石油の貯蔵施設も爆撃の対象から外されていました。
そのため北爆の初期には、南ベトナムへの物資や兵員を輸送しているホーチミンルートへの補給路を断つしかなかったのです。鉄道や道路は爆撃の被害を受けると、工兵や大勢の民間ボランティアによって、夜のうちに修復され、破壊された橋は修繕や建て替えの間、荷物は浮き橋や船によって対岸まで運ばれ積み替えられていたため大した影響はありませんでした。
もう一つ大きな問題は、アメリカ政府は空中戦を行うに当たって同士討ちを避けるため、目視による敵機の確認を必要としました。これは当時ミサイル万能論を元に戦闘機を製造していたアメリカ空軍にとって、大きな痛手でした。
1965年4月3日から4月4日にかけてアメリカ空軍は、上に書いたタンホア橋への爆撃を行いました。
4月4日には橋を爆撃するための F-105サンダーチーフ46機と、護衛のためのF-100スーパーセイバー昼間戦闘機21機、ミグ戦闘機の警戒用にサイドワインダーを装備した4機、および高射砲陣地を攻撃するために17機のF-100スーパーセイバーが参加しました。
これに対してフクエンの空軍基地から4機のMiG-17が向かい、厚い雲の中から爆撃に夢中になっていて無警戒のF-105サンダーチーフ2機を撃墜しました。その後空中戦となり1機は地上からの対空砲火の爆発に巻き込まれて墜落、1機はF-100に追われて急降下中にそのまま墜落(その後F-100のパイロットはMiG-17を撃墜したと報告しましたが認められませんでした)、もう1機は交戦中に行方不明となり帰還できませんでした。残ったMiG-17の飛行隊長トラン・ハンも燃料切れで近くのケタム渓谷に胴体着陸しました。
この空戦はローリングサンダー作戦で最初の戦いとなり、マッハ2を超すF-105サンダーチーフが亜音速のMiG-17によって撃墜されたことは、アメリカ空軍にとって大きな衝撃となりました。
この空戦の模様を再現したYouTubeの動画があります。↓
ミサイル万能論を実証した金門沖空戦
第2次世界大戦後、ジェット戦闘機が普及され飛行速度が飛躍的に伸びました。そのため従来の機関銃や機関砲による空中戦では、敵機を撃墜することが困難になり、空対空ミサイルの研究が始まりました。空対空ミサイルが実用化されるにつれ、将来の空中戦はミサイルの撃ち合いになり、従来の機関銃や機関砲は不要となる考えが出てきました。これがミサイル万能論で、実際ベトナム戦争で活躍したアメリカのF4ファントムやソ連のMIG21の中には空対空ミサイルのみで機関砲などの固定兵器を持たない機種が出てきました。
このようなミサイル万能論の元になった戦いが、1958年9月24日台湾海峡の金門島上空で起きた中国人民解放軍空軍と中華民国(台湾)空軍との交戦でした(九二四空戰)。
事の起こりは金門島上空で偵察していた台湾空軍のRF-84F サンダーフラッシュ偵察機と護衛役のF-86F セイバー戦闘機が偵察任務を終えて基地に帰ろうとしたとき、中国人民解放軍空軍MIG17に見つかり空戦になりました。
中華民国軍のF86戦闘機
出典 ウィキペディア
偵察機のRF-84Fが急いで基地に戻った後、お互いの基地から応援駆けつけた100機の中国人民解放軍空軍MIG17と、32機の台湾空軍のF-86Fの空中戦となりました。 このとき10機のF-86F戦闘機に2年前に実用化されたばかりのAIM-9Bサイドワインダー空対空ミサイルが、2基づつ搭載されていました。サイドワインダーとって、初めての実戦配備となります。サイドワインダーは、敵機のジェットエンジンの噴射口から出る高熱の排気ガスを追って自動的に追尾する、赤外線誘導ミサイルです。
最初期型のAIM-9B「サイドワインダー」(一番下)
有効射程は700mから4㎞、
ただシーカー(赤外線センサー)が熱源を捕らえてロックオンするまで多少時間がかかります。
出典 乗り物ニュース
発射された20発の内、12発が命中し11機のMIG17が撃墜されました。命中した残りの1発は不発でMIG17に突き刺さったまま基地に運ばれ、ソ連に送られました。ソ連ではAIM-9Bサイドワインダーを元にR-3空対空ミサイルを製造して、のちにMiG-21と共に北ベトナムに送られました。
この空戦で台湾空軍が受けた被害はF-86Fが2機撃墜されただけで、圧倒的に勝利となりました。これを機にアメリカ空軍の戦闘機の装備は一挙にミサイル中心となりました。
話を北ベトナムに戻しますと、北ペトナムの6月から10月まではモンスーン気候の夏(雨期)で雨が多く曇りがちです。反対に冬(乾期)といわれる11月から5月までののベトナムへ北部では霧や霧雨が多く空には厚い雲がかかっています。そこで北ベトナム空軍のMIG-17は地上からのレーダーに従って、アメリカ軍の戦闘機や爆撃機を雲の中に隠れて待ち伏せしていました。
ただ雲の中に隠れていてもレーダーには反応するので、目視できなくても当時新開発された下のスパローミサイルなら攻撃できますが、あくまで目視してから攻撃することが条件でしたので、使用できませんでした。
AIM-7 スパローは、セミアクティブ・レーダー・ホーミング(SARH)ミサイルで母機が発射した敵機のレーダーの反射波によって誘導されるミサイルです。従って発射した母機はミサイルが命中するまで、敵機にレーダーを当て続ける必要があります。その代わり目視できなくてもレーダー波が届く範囲(初期型で10㎞現在では70㎞)の敵機を狙うことができます。
出典 ウィキペディア
アメリカ軍機が十分近づいたところで、北ベトナムのMIG-17は雲の中から出て近接攻撃を開始します。アメリカ軍機に比べて遙かに軽量で動きの速いMIG-17に対して、必ず後ろに回って噴射口の熱に対してロックオンすることが必要なサイドワインダーにとっては困難なことでした。まして命中するまで、レーダー波を当て続けなければばならないスパローミサイルは当てにできませんでした。
肝心のミサイルも熱帯地方の高温と湿気にやられて、発射できなくなったり、制御不良などの動作不良が多発していました。
この時代のアメリカ空軍の戦闘機は、離れたところから敵機をミサイルで蹴散らしながら、原子爆弾を積んで超音速で敵地に潜入し攻撃するように設計されていたため、空中戦には向いていませんでした。
ローリングサンダー作戦初期に使用された軍用機
F-100 スーパーセイバー
出典 ウィキペディア
朝鮮戦争で大活躍したF-86セイバーの後継機として製造された、世界初となる超音速戦闘機です。エンジンには強力なJ57ターボジェットエンジン(このエンジン機はB52爆撃機用に作られ、後にボーイング707 やダグラス DC-8にも使用されました)、試作機の段階で水平飛行速度の世界記録 1,215 km/hを達成しました(1953年10月29日)。1954年9月27日、F-100Aとして正式に米空軍に就役しました。しかし、構造上の欠陥で事故が続いたことと、索敵レーダーを装備してなかったため戦闘機として不適格であるとして、1958年に米空軍から撤退しました。
1962年、ベトナム戦争で機体を改造して爆弾を搭載できるようにしてF-100D戦闘爆撃機として再登場しました。ただ機首が細いためレーダーを搭載できず、べトナム戦争を通じて敵機の撃墜数0というあり得ない数字をあげています。
ベトナム戦争を通じて、198機が撃墜されています。
F-105 サンダーチーフ
出典 ウィキペディア
F105は当初地上すれすれの高度でマッハ1を超す速度で飛び、敵地に核爆弾を投下する超音速爆撃機として、1951年に計画されました。何回か試作と設計変更が行われた後、1955年F105Bはマッハ2.15を達成しました。1956年3月米空軍は65機のF-105Bと17機の偵察機型RF-105Bを発注しました。1957年F-105Bの機首を大型化し、新たに強力なレーダーとドップラー航法レーダーを設けた全天候型F-105Dの製造が始まりました。F105は大型で重い核爆弾を運ぶので、空気抵抗を減らすため胴体内に爆弾倉を設けているのが特徴です(ベトナム戦争では核爆弾の代わりに予備の燃料タンクが置かれていました)。
B43/Mk.43 核爆弾
タイプによって大きさに相違があり、直径は45cm、全長は3.81mから4.15m、重量は935kgから960kg。核出力は可変であり、威力は70ktから1Mtです。
出典 ウィキペディア
F-105Dは空戦用に20㎜バリカン砲の他、外部に設けられた5つのパイロンに爆弾や各種ミサイルを搭載することが出来ます。
ベトナム戦争では主に爆撃機として使用され、北爆では投下された爆弾の3/4を投下しました。そのため対空砲や空戦などで製造された833機の内334が撃墜され、61機が作戦中の事故で失われました。このため『ドスン(墜落したときの音)』というありがたくないあだ名を頂戴しています。
アメとムチ、1965年4月メコン川流域開発計画
当時のジョンソン大統領の主な公の発表は、(ジョンズ・ホプキンス大学でおこなった)4月7日の演説であり、軍事行動を中止するなら北ベトナムと東南アジア全般に経済支援(メコン川流域開発計画)を(無条件で)提供すると申し出た。この申し出は、米国の発展目標である「偉大な社会」と非常に一致しており、おそらく誠実な申し出だった。しかし、彼がそのような申し出を敵にとって魅力的だと考えたことは、対立するイデオロギーに対する理解が欠如していたことを示している。
引用 Wikipedia
4月8日、和平交渉の要請に応えて、北ベトナムのファム・ヴァン・ドン首相は、爆撃が中止され、アメリカが南部から全軍を撤退させ、サイゴン政府がベトコンの要求を認め、ベトナムの再統一はベトナム人自身によって解決されることに同意した場合にのみ交渉を開始できると述べた。
引用 Wikipedia
南ベトナムでは、ベトナム共和国(南ベトナム)が成立以前からフランスの植民地支配からの独立を目指す共産主義者のホーチミンが率いるべトナム独立同盟会(ベトミン)が活躍して、国土の大半を支配していました。
1954年、ジュネーブ会議で成立したジュネーブ休戦協定のよりカンボジアとラオスのベトナムの独立が認められました。独立を認められたベトナムですが、植民地支配の勢力を維持したいフランスは1949年ベトナム阮朝の最後の皇帝であるバオ・ダイ帝を立てベトナム国を樹立してベトナム民主共和国(北ベトナム)と対立していました。
1954年のジュネーブ休戦協定で、ベトナム国にいるフランス兵とベトミンはそれぞれの国に撤退して、2年後の1956年7月両国の住民による自由選挙でどちらの国に属するか選ぶことになりました。予想では十中八九、ベトナム民主共和国(北ベトナム)が勝ちベトナム全土を支配するはずでした。
1955年10月アメリカはベトナムの共産化を阻止するため、カトリック教徒で反共主義者であるゴ・ディがジェムを支援して、バオ・ダイ帝を追放して、新たにベトナム共和国(南ベトナム)樹立しました。
1956年、ゴ・ディン・ジェムとアメリカは。ジュネーブ休戦協定で定められている7月に行われるベトナム統一のための国民選挙を拒否して、南ベトナムに居座ってしまいます。北ベトナムから見れば、アメリカは南ベトナムに親米政権を立て、本来は北ベトナムの領土だったはずの地域を違法に選挙していることになります。
1965年3月2日の北爆開始、同じく3月8日のダナンにおける海兵隊の上陸を行うことで、ジョンソン大統領はアメリカ軍が直接北ベトナムと戦う姿勢であることを示しました。アメリカの目論見では世界最強のアメリカ軍が北ベトナムと直接戦ことになれば、これを避けるため北ベトナムはアメリカとの和平交渉に応じるだろうと思っていました。
たとえて言えば、強盗が家に押し入って「痛い目に遭いたくなければ、家(ベトナム南部)を明け渡せ」と言っているのと同じです。
しかし、第2次世界大戦以前からフランスの植民地から独立するために戦ってきたベトナム人には、最後の一人になるまで外国人勢力と戦う覚悟が出来ていました。それが4月8日のファム・ヴァン・ドン首相の答えです。これはベトナム戦争終了まで、変わることがありませんでした。
そして世界最強と言われる軍事力を見せつければ、相手が恐れをなして言うことを聞くと思っていたアメリカは、最後までこのことを理解できませんでした。只々、戦力を誇示するだけでした。
北ベトナムは、アメリカが本気で戦う意思(ソ連や中国を巻き込んだ本格的な全面戦争に発展させること)がないことを見抜いていました。
北爆はなぜ効果がなかったのか
その1北ベトナム最大の港、ハイフォン港の爆撃禁止
北ベトナム軍が使用している、戦車や装甲車、大口径の大砲、ミグ17などの航空機、ミサイルの他トラックや鉄道車両などの輸送機材は北ベトナム国内では製造できないため、ソ連や中国からの援助に頼っていました。
そのため、まずソ連や中国から送られてくる軍需物質を断つことが、最重要目的となります。
ところがすでに書いたとおり、訳の分からない自主規制とやらで、北ベトナム最大の港があるハイフョン港周辺は爆撃禁止となっていました。
このため中国やソ連からやってきた輸送船は今まで通り荷揚げを行い、間や悪天候で視界が聞かなくなったら、あらかじめトラックに積まれた荷物を各地に送りました(この時点で、アメリカ空軍は夜でも攻撃できる全天候型攻撃機を持っていませんでした)。
その2 航空基地の攻撃禁止
ローリングサンダー作戦が始まった当時北ベトナムには、ジェット戦闘機が発着できる飛行場はハノイとハイフォンを中心として,五カ所しかありませんでした。アメリカ軍はたとえこの飛行場にミグ戦闘が駐機し居てもこの飛行場に対しての攻撃を禁止していました。
これは北ベトナムに対して大きな強みとなりました。遠距離からの空対地ミサイルによる攻撃をされる恐れがないため、ギリギリまで北爆のためにやってきたアメリカ軍機を引きつけ、迎撃のために雲の中に隠れるなどして、優位な位置につけて待ち伏せすることが出来ました。アメリカ軍は目視により敵機と確認するまで攻撃をすることが禁止されていました。そのためレーダーによりミグ戦闘機が居ると分かっていても、遠距離からのミサイル攻撃は出来ませんでした。
北爆に出撃したアメリカ軍機は、ミグ戦闘機と出会うと空中戦に備えて身軽になるため搭載していた爆弾を捨てることになります。このためミグ戦闘機は無理に空中戦に持ち込まなくても、基地に帰還すれば北爆を阻止できてしまいました。また空中戦で不利になっても、基地に着陸さえすれば、それ以上の攻撃を受けなくなります。
そのため北ベトナムはミグ戦闘機の基地を、安心して建設や拡張、整備を行うことが出来ました。
1966年4月からはマッハ2の速度を持つ、ミグ21が配備され、北ベトナムの防空能力はさらに強化されました。
その3 地対空ミサイルSA-2発射基地への攻撃禁止
1965年4月5日、ハノイの南東16マイル(約24㎞)の地点で米海軍の偵察機RF-8クルセイダーが建設中のSA-2ガイドライン 地対空ミサイル(SAM)基地を撮影しました。
北ベトナムのSA-2 (S-75) SAM サイトの偵察写真。(USAF 博物館のウェブ コレクション)
5月11日、2番目のSA-2ガイドライン の基地が発見されました。
7月20日、SA-2ガイドライン ノ基地が六カ所になっていることが確認されましたが、この時点でもまだミサイル基地への攻撃は禁止されたままでした。
7月24日、米空軍のF-4Cファントム戦闘機がハノイの北東45マイル(約72キロメートル)の地点で、北ベトナムの地対空ミサイルSA-2によって1機が撃墜され3機が損傷を受けました。
7月27日F4Cファントム撃墜の報復として、スプリングハイ作戦を発動しサイト6とサイト7の二カ所のSA-2発射基地への攻撃を開始しました。しかし、北ベトナムはこの攻撃を読んでおり、サイト6には竹を束ねて白く塗ったダミーのSA-2を設置し、サイト7ではミサイルを移動して空の状態にしていました。さらに2つのSAM発射基地には多数の23 mm(0.91インチ)および37 mm(1.5インチ)対空砲を設置して待ち構えていました。
それとは知らず2つのSAM発射基地攻撃に参加した、46機のF-105戦闘爆撃機のうち6機が対空砲火によって撃墜される被害を受けてしまいました。
スプリングハイ作戦の詳しい情報はこちらのサイトをご覧ください↓。
historynet スプリングハイ作戦:ドスン(F-105)とSAM
1965年12月までに8箇所のSAM基地が攻撃で破壊され、ベトナム側の発表では米軍機31機を撃墜(アメリカ側では13機)しました。
1965年6月29日ジョンソン大統領はそれまで攻撃を禁止していた、北ベトナムの石油、石油、潤滑油(POL)貯蔵地域への空爆を承認しました。しかしあらかじめ空爆を想定していた北ベトナムは、在庫の大半をドラム缶に詰め全国に分散配置していたため、爆撃の効果がないことが分かり、9月4日にこの作戦は中止となりました。
下のサイトにベトナム戦争における北ベトナム側の情報が詳しく載っており大変参考になりました。かなりの長文ですが北爆に対する北ベトナム側の部分を紹介させていただきます。
Ⅲ 不屈の抗米救国闘争――限定戦争戦略を破る(ローリングサンダー作戦の解説はこちらです)
1965年におけるローリングサンダー作戦の結果
1965年12月24日までに、この作戦中に180機の米軍機が失われた(空軍85機、海軍94機、海兵隊1機)。南ベトナム空軍の航空機8機も失われた。空軍の航空隊は25,971回の出撃で32,063トンの爆弾を投下した。海軍の航空隊は28,168回の出撃で11,144トンの爆弾を投下した。南ベトナム空軍は682回の任務に就いたが、爆弾の総量は不明であった。
引用 Wikipedia
1965年12月10日のニューヨークタイムズの報道によると、北ベトナムへの爆撃は戦争にほとんど影響を与えていないとのことでした。
引用 Wikipedia
ローリングサンダー作戦の初日、マッハ2を超える最新のF-105D戦闘爆撃機を中心に104機の米空軍機と19機の南ベトナム空軍機で、これまで最大となる北ベトナムへの爆撃を開始しました。
ジョンソン大統領と、マナママラ国防長官は当時世界最強と言われる米空軍が本気で北ベトナムへの空爆をするつもりであることを見せつければ、ハノイ政府は脅しに屈して和平交渉に応じてくると思っていました。
しかし、北ベトナムは米軍の北爆はただの脅してあり、本気で北ベトナムを破壊する意思がないことを見抜き、乏しい戦力を駆使して反撃してきました。
こうしてアメリカは空の戦いでも、泥沼にはまってしまいました。