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亀仙人2アメリカ参戦とロシア革命
アメリカの参戦
カブラの冬
ドイツでは自給可能なのはジャガイモだけであり、主食の大部分を占めるである小麦の29.5%をはじめ、野菜や乳製品、家畜用の飼料など食料の3分の1を輸入に頼っていました。特に大きな輸入元であるロシアと戦争状態に入り、また同じく大きな輸入元のアメリカからの船便がイギリスの海上封鎖で途絶えたため、戦争初頭から食料の供給が不足していました。
このため1916年ジャガイモが大凶作に見舞われると、極端な食料不足になり、パンやジャガイモに代わり、飼料用として主に用いられてきたルタバガ(カブラ・スウェーデンカブ)を食して飢えを凌ぐことになり、カブラの冬が始まりました。
ルタバガ(カブラ)とは
◆アブラナ科アブラナ属 (米)rutabagas (英)Swedish turnip (仏)rutabaga
ルタバガは北欧のスウェーデンが原産と言われているアブラナ科の野菜で、「スウェーデンカブ」や「カブハボタン」とも呼ばれています。主に北欧やロシアなどで栽培されてきました。
外見がカブの部分や葉の形状が蕪によく似ていますが、分類的には蕪よりも菜ばなの変種とされています。
非常に貯蔵性が高く、北欧では芋類や穀物などが底をついてから食べる食材と言われ、第一次世界大戦時にドイツでは他国からの食料輸入が閉ざされ、更にひどい凶作も重なり数十万人もの餓死者が出たと言われていますが、その時栽培が奨励されたのが栽培しやすく貯蔵性が高いこのルタバガだったそうです。他にこれといった食べ物がなく、ルタバガしかない飢えた時代として今ではその当時を「ルタバガの冬」又は「「カブラの冬」とよぶそうです。
日本には明治時代に北海道に導入されましたが、当時の日本人の口には合わなかったのか食用には普及せず、主に牛などの飼料用として栽培された程度のようです。 引用 旬の食材百科
無制限潜水艦作戦
ジャガイモの不作により、飢餓状態に陥ったドイツ国内に、無制限潜水艦作戦を再開して、イギリスの海上輸送に大打撃を与える声が出てきます。
1915年イギリスの海上封鎖に対抗するため、ドイツは無制限潜水艦作戦を実施していました。ところが、1915年5月7日イギリスの豪華客船ルシタニア号が、ドイツのUボートによって撃沈され1198名が犠牲になりました。その中に128名のアメリカ人が含まれていたため、アメリカ世論が開戦に傾きアメリカの参戦を恐れたドイツは、無制限潜水艦作戦を一時停止していました。
ルシタニア号撃沈の映画はこちら ↓
無制限潜水艦作戦を支持する軍人たちは、5ヶ月間の間にイギリスは大打撃を受け、戦線から離脱するためアメリカは参戦しないだろうとの見通しを立てていました。
1917年2月1日、無制限潜水作戦は再開されました。
ところが2月末に、ツインメルマン電報事件が起き、さらに3月中にはアメリカの商戦3隻がUボートに撃沈される事件が起きました。
これを受けてアメリカのウィルソン大統領は、議会に向けて宣戦布告の承認を求め4月6日下院議会がこれを承認して、アメリカの参戦が決まります。
アメリカ参戦の解説はこちら ↓
アメリカは参戦を決定したものの、アメリカ正規軍は10万人しかいなかったため急いで兵を徴収し、訓練をしてヨーロッパで戦えるようになったのは、翌1918年半ばからになりました。
ロシアの戦線離脱
ロシア革命
長引く戦争で、ロシアは1917年までに英仏両軍の死傷者の合計を上回る被害者を出していました。いくら戦っても勝てない戦争に、ロシア軍兵士たちは戦意を喪失して、前線から脱走する者が現れます。
戦争開始後、首都ペトログラードでは戦時産業が急成長し、工場労働者が急増しました。
ロシアではウクライナという穀倉地帯があり、食糧が不足するはずはありませんでしたが、軍への供給を優先したため鉄道による輸送もそれにとられて、ペトログラードでは食料の高騰どころか、食糧の不足が目立つようになりました。
1917年2月(ロシアのユリウス暦)繊維工場の女性労働者が「パンをよこせ」デモを行うと、反戦と平和を訴える大規模なストライキとなり、これを鎮圧しようと出動した軍隊までも反乱を起こして加わり、「2月革命」が始まりました。
2月革命により、皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝が倒れました。政権を握ったのは自由主義的市民を中心とする臨時政府でしたが、臨時政府は連合国からの援助を期待して、戦争を継続することに決めます。
その後、海外からレーニンをはじめとする社会主義者たちが帰国すると、労働者や兵士を中心とする「ボルシェビキ(多数派)」と呼ばれ値勢力を組織してソヴィエト(評議会)をつくり、戦争反対を唱えました。
ソヴィエトは戦争を継続する臨時政府を倒して、平和のため自ら政権を握ろうとします。
強引に戦争を続ける臨時政府は、次第に国民の支持を失い、内部分裂し始めます。
1917年10月23日、ソヴィエト派の労働者と兵士からなる「赤衛隊」が首都を制圧しました。25日にはトロツキーを委員長とする軍事委員会が臨時政府を打倒して、国家権力を掌握したことを発表しました。
戦争終結を掲げたソヴィエトは1917年12月ドイツとの休戦が実現し、1918年3月3日、ブレスト=リトフスク条約に調印してロシアは正式に第1次世界大戦から離脱しました。
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その他の戦い
イタリア戦線 カポレットの戦い
オーストリア=ハンガリー軍は1917年時点総数は死傷者・捕虜合わせて実に150万名というで多大な損害を出しいました。
もはやドイツ軍の援助がなければ戦線が崩壊すると考えたドイツは、1917年10月24日から11月9日にかけて、カポレット(現スロベニアのコバリード)でイタリアを相手に戦いを仕掛けました。
この戦闘でドイツ軍は浸透戦術を駆使して、イタリア軍を殲滅させました。
イタリア軍は全軍突撃65万人のうち死傷者3万1千名、捕虜27万5千名を出し壊滅します。
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中東の戦い
第1次世界大戦でイギリスはペルシャ湾沿岸の石油と、スエズ運河の安全に通行を確保するため、当時中東を支配していたオスマントルコに戦いを挑みました。
なれない砂漠の熱暑と戦いながらも、197年3月11日、ぱくだっとにに入城し、12月11日には聖地エルサレムを占領しました。
この戦いでイギリス軍のT.Eロレンス大尉は、アラブ人反乱部隊を率いて活躍し、アラビアのロレンスとして名前を残します。
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日本艦隊の地中海派遣
1917年1月、日本は日英同盟により、イギリスから地中海へ艦隊の派遣を要請されます。
始めは渋っていた軍司令部でしたが、青島攻撃後「対華21ヶ条要求」を出して中国へ進出する日本への不信感を払しょくするため、巡洋艦「明石」(後に「出雲」と交代)、と駆逐艦8隻からなる艦隊の派遣を決定しました。
マルタ島の港に着いた艦隊は、ヨーロッパとアフリカを結ぶ輸送船を護衛する任務に就きます。
1917年5月3日、Uボートの攻撃を受けた、英兵輸送船「トランシルバニア号」から1800名の乗員を助け出し大いに感謝されました。
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