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亀仙人2イタリア戦線
中世以降イタリアはいくつかの小国に分裂していたが、19世紀初めのナポレオン戦争以後封建制度の打倒と、イタリアの統一をめざす運動がおこった。
この運動は1970年の普仏戦争(ドイツのプロイセン王国とフランスの戦い)でフランスが負けたことにより、後ろ盾を失ったローマ教皇領を併合して一応イタリアの統一を達成した。
しかし、南チロルとトリエステ、は、オーストリア・ハンガリー帝国に残された。イタリアはこの部分を「未回収のイタリア」と呼びこの地方の奪還を諦めなかった。
第1次世界大戦が始まった当初イタリアはドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいた。イタリアは、オーストリアに「未回収のイタリア」をイタリアに割譲するよう求めていたが、交渉がまとまらなかったため、中立の立場を取っていた。
ドイツは、イタリアが中立の立場を継続するよう望んでいた。中立の立場を維持してくれれば、イタリアから食料や工業原料、またイタリア経由で必要な物資を輸入できたからである。そこでドイツはオーストリアに譲歩するよう、圧力をかけ続けた。
それに対して、イギリスとフランスは第1次世界大戦後「未回収のイタリア」の割譲を条件に外交交渉をかけた。もともとオーストリアの領土なのでイタリアに渡すのに何の障害もなかった。さらにイギリスから5000万ポンドの借款も供与され、1915年4月26日イタリアは三国同盟を破棄し、連合国側に加わるロンドン条約が結ばれた。
イタリアの露骨なまでの、自国利益外交は「神聖なエゴイズム」と言われている。
イゾンツォの戦い
1915年5月23日イタリアはオーストリア・ハンガリー帝国だけに宣戦布告をしてイタリア戦線が勃発した。手ごわいドイツに対してはこの時点では宣戦布告しませんでした(ドイツに宣戦布告をしたのは翌1916年8月)。この辺はイタリアらしい振舞いです。
両国の国境600キロの内5分の4は山岳地帯のためイタリア戦線は山岳戦ともいわれ、軍の大規模な展開や大口径の砲の運用もできず、冬季には雪崩の被害も多かった。
そのためイタリアは南チロル地方を避け、1915年6月23日主力をトリエステに送り、イゾンツォ川沿いの都市ゴリツィアを攻撃した。(第1次イゾンツォの戦い)
カポレット付近のイゾンツォ川
ところがイタリア軍は戦争準備が十分に整っておらす、動員した兵士120万人に対して73万人分の装備しかなく、山岳戦に必要な山砲(分解して運べるようにした軽量な大砲)も足りなかった。
このためイタリア軍はオートりア対し2倍近くの軍勢を有していたが、高所に陣取ったオーストリア軍に対し登攀しながらの戦闘と、補給の困難のため何度も攻勢をかけたがその都度撃退された。
またオーストリア軍も東部戦線で攻めてくるロシア軍に対する戦闘を優先したため、この地では防御に徹していた。
そのためここも1915年から1917年にかけて西部戦線と同じように高地での塹壕戦の泥沼にはまり込み、前線は膠着状態になりました。
老皇帝の死去
1916年11月21日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が息を引き取りました。
このころオーストリアは深刻な食糧危機に見舞われ、この年の5月と9月には食料を求める暴動が起きていた。また長引く戦争で国内に厭戦気分が高まり、オーストリアに属する他民族では独立しようとする動きが始まっていた。
新たに即位したオーストリア皇帝カール1世は、帝国の崩壊を防ぐためドイツに内緒でフランスに「ラクセンブルク書簡」を送り単独で講和しようとした。この連合国に対する単独講和はイタリアの強い反対にあい、実現できなかった。
カポレットの戦い
このころイタリアは、第10次と第11次のイゾンツォの戦いで勝利をおさめ、バインジッツァ高地を占領したが補給が続かず撤退してしまった。このため戦っても軍事的に得るものの何もない戦闘に何度も投入される兵士たちは、士気が落ち脱走する者が多くなった。指揮官のルイージ・カドルナ将軍は、規律を厳しくして軍を維持しようとしたが、かえって兵士たちの反発を招きました。この時、兵士17人に1人が軍規違反に問われ、その内6割が有罪となりました。
カポレットの戦い (黒く囲った場所がイゾンツォの戦いの場所)
1917年ドイツはオーストリアの崩壊を防ぐため、増援部隊を送りイタリアを徹底的にたたくことを決めました。1917年10月ドイツ・オーストリア混成部隊はイゾンツォ川北部カポレットとトルミン付近に15師団を配置しました。このドイツ軍の中には、ロンメル中尉(後に第2次世界大戦で、砂漠のキツネと言われたロンメル陸軍元帥)、イタリア側の町カポレットには小説家ヘミングウェイが居ました。
10月24日激しい砲撃の後、ドイツ軍はイゾンツォ川を渡り戦いの最初の1日でカポレットの町を占領し、3万人のイタリア兵を捕虜にします。
その後もイタリア軍は100キロ以上も敗走を続け、11月の半ばになって、ベネチアから24キロの所を流れるビアーヴェ川でやっとドイツ軍の進撃を食い止めることができました。この敗走のもようは、映画 「武器よさらば」に出ています。またこの戦闘に加わったロンメル中尉は
「敵の防御地域に進撃すればするほど、敵の守備隊の準備が間に合わなくなり、戦いが容易になった。」
と書き記しています。
情けないのがイタリア軍で、この時の損耗人員70万人のうち戦死者は4万人、ドイツ側の捕虜になったもの28万人(その多くは部隊ごと無傷で、投降した)、さらにおよそ35万人が敗走中に脱走してしまった。
イタリアのこの状態を見て連合国側は11月6日から7日にかけてイタリアのラッパロで会談して、イギリスとフランスは11個師団を送ることを決め、イタリアはルイージ・カドルナに代わりアルマンド・ディアスが新しい司令官になった。これでイタリアはどうにかオーストラリアの攻撃を食い止めることができた。
ビアーヴェ川の戦い
1918年ドイツは西部戦線で春季攻勢に出るためイタリアからドイツ軍を引き上げました。イギリス軍とフランス軍もドイツの攻撃に備えて軍隊を西部戦線に回しました。
1918年5月、オーストリア皇帝カール1世はドイツから西部戦線の攻勢に合わせてイタリアでも攻勢に出るように要求されました。
イタリア軍側では新しく司令官になったディアズ将軍によって今までの司令部を中心とした指揮系統を改善し、各部隊が自主的に前進、後退、砲撃支援を決定できるようにした。これにより状況に合わせよる柔軟な戦闘ができるようになった。また大量の自動車を導入し、前線への補給体制を整えた。
6月15日午前3時、あらかじめオーストリア軍の脱走兵から情報を得ていたイタリア軍は、オーストリア軍が攻撃をする前に先制砲撃を行った。この砲撃で攻撃準備をしていたオーストリア軍は大混乱になり、大部分は攻撃を放棄して陣地に戻ってしまった。でも一部はイタリア軍の陣地に到達しましたが、イタリア軍の反撃で退却しました。
翌6月16日オーストリア軍は再び攻撃に出ます。しかし、前日の戦いで橋が壊され徒歩で川を渡るしかないオーストリア軍は、十分な装備や物資を持ち込めず、再び敗退してしまいました。
この攻撃でオーストリア軍は15万人の損害を受け、退却しました。
ヴィットリオ・ヴェネトの戦い
ビアーヴェ川の戦いで勝利したイタリア軍に対して、連合国側はすぐにオーストリア軍を追撃して打ち砕くよう要請した。しかし、司令官のディアズ将軍は川を渡って攻撃するとオーストリア軍の二の舞になることを恐れ、戦力を整いながら次の機会を待った。
ドイツの春季攻勢が8月に大敗したことを受け、9月29日まず中央同盟国のブルガリアが降伏。ドイツ頼みのオーストリアも動揺します。オーストリア皇帝カール1世は、10月16日帝国の連邦化と各民族の完全自治を宣言し崩壊を食い止めようとしました。
頃は良しと見たイタリア軍は10月23日、ビアーヴェ川の渡河を開始したイタリア軍は10月28日、対岸に橋頭保を築きました。オーストリア軍のボロイェヴィッチ将軍はこれ以上の防衛は無理だと見て全軍に退却命令を出します。同じ10月28日チェコスロバキア、翌29日には南スラブ系のスロベニア・クロアチア・セルビア人が合同で独立を宣言します。
10月31日にはオーストリア軍司令部のあるヴィットリオ・ヴェネトを陥落させます。11月1日に帝国の一翼を担うハンガリー人がオーストリアからの独立を求め、ブダペスト暴動が発生しました。
内部崩壊を起こしたオーストリア軍は11月3日戦闘を中止して、イタリア軍に休戦を申し入れます。しかし、イタリア軍は休戦が施行される11月4日までオーストリア軍を追い詰め戦わずに30万人を捕虜にする大勝利をおさめます。
この4日後の11月8日ドイツは休戦交渉に入り、11月11日休戦協定が成立して、第1次世界大戦は終了します。
イタリア戦線の映画です↓