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亀仙人2第2次世界大戦の火付け役
チェコスロバキアを無血で占領して、ドイツの大衆から褒められても、ヒトラーは不満でした。
ヒトラーは戦いに勝つことで、英雄として賞賛してもらいたかったのです。
ポーランド侵攻
ヒトラーは、チェコスロバキアを占領してから1週間後の1939年3月22日ポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求しました。
しかし、ポーランド政府はこの要求を拒否しました。
1939年3月30日、それまでナチスドイツに対して、宥和政策をとっていたイギリスとフランスは、ポーランドに対して軍事援助を保障しました。
ポーランド回廊
ポーランド回廊付近拡大図
CORRIDOR:回廊地帯
DANZIG:自由都市ダンツィヒ
GERMANY:ドイツ・プロイセン州
EAST PRUSSIA:東プロイセン
出典 ウィキペディア
独ソ不可侵条約
1938年10月のミュンヘン会談でソ連が外され、ドイツに対する宥和政策を利用してナチス・ドイツがチェコスロバキアを領土にしたことで、ソ連国内では反共的な英仏がドイツのソ連侵攻を黙認したのではないかとの見方が出ました。
ドイツ側でも、ポーランドに進出をするのにあたって、軍事介入する英仏との2面戦争を避けるため、ソ連の中立化を計る必要がありました。
その結果1939年8月23日、天敵と言われるヒトラーとスターリンは手を結び、独ソ不可侵条約を締結しました。
この条約には公表された以外に、独ソ間の秘密議定書があり、ドイツとソ連の勢力範囲が決められていました。それはポーランドの西半分をドイツが、東半分とバルト3国をソ連が領有するというものでした。
ドイツとソ連で分割されたポーランド
年末ポーランドの地図。青い点線が1939年のポーランド国境。赤い線が独ソ間で合意された分割線。
出典ウィキペディア
紫色の部分がドイツに併合され、黄色の部分が総督管区になった。緑色の部分はソ連の占領地域。
1939年9月1日午前4時30分、自由都市ダンツィヒを親善訪問中のドイツ巡洋艦シュレスヴッヒ・折るスタイン号がポーランドの守備隊を砲撃してドイツとポーランドの戦いが始まりました。
午前8時、急降下爆撃機の支援を受けた100万のドイツ兵がポーランドとの国境線を超え、侵入を開始しました。
チェコは北側の東プロイセンから、南のドイツ領スロバキアまで2800㌔の国境線を有し、各部隊は国境を守備していたが守備隊の数が足りなかったため、薄く浅くしか防衛できませんでした。
爆撃機と戦車隊で前線に穴をあけたドイツ機甲部隊は、前線を放置したまま前進し後方の司令部を襲います。司令部からの通信と補給を絶たれたポーランド軍に対して、ドイツ軍の砲兵隊と歩兵部隊が襲い掛かりました。
9月9日にはポーランド軍はワルシャワ近郊まで後退し、抵抗を続けていました。ところが9月17日ソ連がペラルーシとウクライナからポーランドに侵攻してきました。
ドイツとソ連によって挟み撃ちにされたポーランド軍に対して、ポーランド政府は全軍に対してポーランドから脱出して、フランスでポーランド軍の再編成をするよう命令を出します。
10月6日最後に残ったポーランド陸軍の独立作戦部隊「ポレシェ」がルブリン市郊外で4日間の戦いの後降伏し、ポーランドの戦いは終わりました。
9月1日にドイツがポーランドに侵攻したことを受けて、9月3日イギリスとフランスはドイツに宣戦布告しました。
しかし、ポーランドが期待したような軍隊の派遣はせず、ドイツ西部国境で戦闘を起こすこともしないで、にらみ合ったままでした。人々はこれをまやかし戦争と呼びました。
一方ポーランド政府は、国家としては決して降伏をせず、ポーランドから脱出に成功した軍隊と共にフランスに亡命政府を樹立し、第2次世界大戦を通じてドイツと戦い続けました。
1か月余りで一国を征服したことに気を良くしたヒトラーは、11月にフランスに攻め込むよう、軍に要請しました。
軍はこれに大反対します。ポーランド侵攻に派遣されたⅠ号戦車とⅡ号戦車は、装甲が薄い為、貧弱なポーランド軍の対戦車砲によって大損害を受け、全く歯が立たないことが分かりました。
電撃戦の発案者であるハインツ・グデーリアンも
「訓練用のこれらの戦車で、実際に戦うなんて思ってもみなかった」
と語っています。
大敗したポーランド軍も、姿かたちは恐ろしいけれど、これらの戦車は実は脅かしのための模型だと思っていたそうです。
これらを解決するためにも、実戦用のⅢ号戦車とⅣ号戦車を急ぎ増産する必要があります。
電撃戦の運用に関しても、戦車の進撃速度が速すぎて、支援の歩兵部隊や補給部隊が追い付けず、機動部隊が敵地の真ん中で孤立するという問題も起きていました。
そして何よりドイツ軍の大半が。ポーランド各地に展開しすぎていて、1か月でフランスに進撃するのは、困難でした。
結局フランス侵攻は、翌年の春まで持ち越すことになりました。
この時のポーランドの首都ワルシャワに住む、あるユダヤ人ピアニストのお話 ↓
ヴェーザー演習作戦
ヴェーザー演習作戦とは、第二次世界大戦中の1940年4月にナチス・ドイツが実行したノルウェーとデンマークへの侵攻作戦です。
ドイツ国内だけでは十分な量の鉄鉱石を確保できないため、ドイツはフランスのロレールの鉱山から鉄鉱石を輸入していました。ところが1939年9月のポーランド侵攻により、フランスから輸入が出来なくなったため、スウェーデンのキルナ鉱山から産出する鉄鉱石を、鉄道でナルヴィク港まで運び、ノルウェーの沿岸を通ってドイツまで輸送していました。
ドイツの輸送船は中立国ノルウェーの領海内を通ってドイツに行くため、イギリス海軍はこの輸送船を妨害することが出来ませんでした。そのためイギリスはウィルフレッド作戦とR4計画を立て、鉄鉱石の輸送を阻止することにしました。
ウィルフレッド作戦は、ノルウェーの領海内に機雷を設置して(明らかな国際法違反)ドイツの輸送船が機雷を避けるため公海上に出たところを、攻撃するつもりでした。R4計画はドイツ軍がそれを阻止する動きを見せたら、すぐさまノルウェーにイギリス軍が上陸して、ナルヴィク・トロンハイム・ベルゲンを占領する予定でした。
4月8日、巡洋戦艦「レナウン」に支援されたイギリス海軍部隊はノルウェー領海内に機雷の敷設が完了しました。
鉄鉱石の鉱山があるキルナから鉄道(紫色の線)がスウェーデンのルーレオ港・ノルウェーのナルビク港に伸びている
これとは別に、かねてから連合国側のノルウェー侵攻を予期していたドイツ軍は、ヴェーザー演習作戦を計画し連合国側より先にノルウェーを占領する予定を立てていました。
4月9日、海軍と空軍の援護のもと上陸部隊が、ナルヴィク、トロンハイム、ベルゲン、スタバンゲル、クリスチャンサン、オスロに上陸し侵攻を開始しました。
空軍の支援を受けたノルウェー南部のドイツ軍は占領を完了しました。
イギリスは支援の軍隊を派遣しましたが、ドイツ本土に近いノルウェー南部には近づけず、ナルヴィクに艦隊を派遣し、4月13日にはナルヴィクにいたドイツ駆逐艦隊を攻撃して全滅させました。
ノルウェー国王と閣僚たちは残ったノルウェー軍と共に北部に向かってに逃走し、ナルヴィクで連合国と共に戦い続けました。
ナルヴィクに上陸したドイツ軍は、陸と海からの補給が立たれ敗北が見込まれていましたが、ドイツがフランスに侵攻したため、6月にはノルウェー北部の連合国軍は撤退して、ノルウェー全土がドイツ領となりました。
ノルウェー国王と閣僚たちはロンドンに亡命政府を樹立し、連合国軍に加わり、ドイツと戦い、またノルウェー国内のレジスダンへの支援を続けました。
この時のノルウェー国王ホーコン7世を主人公にした映画です ↓
また同じく、ヴェーザー演習作戦の対象となったデンマークは、開戦直後の4月9日午前6時ドイツに降伏して、国内にドイツ軍の進駐を認め、ドイツの保護国となりました。
内政や外交においてドイツの干渉を受けたものの、デンマーク政府は存続を許され、デンマーク軍もそののまま残りました。
デンマークでの戦いを描いた映画です ↓
フランス侵攻
第1次世界大戦でフランス軍は150万人が戦死し、400万人が負傷しそのうち150万人が後遺症に悩むことになりました。さらに一般市民も34万人が死亡しました。
このことは出生率の低下を招き、第1次世界大戦終了後の20年目には深刻な兵員不足を招くことが予想されました。
また、ドイツ国境からフランス北部が西部戦線の主戦場になった為、フランスの工業地帯が破壊され、復興するのに時間が必要となり、戦車など大型兵器の製造が遅れることになりました。
これにより、フランスはスイス国境からベルギーまで、10年の月日をかけてマジノ線と呼ばれる要塞群を作り、守備を固めることに軍事費の大部分を費やしてきました。
ヴェルサイユ条約でフランスがヒトラーのズデーテン地方の併合を認めたのは、もう2度と第1次世界大戦の様な悲惨な戦争に巻き込まれたくないとの、思惑がありました。
この考えは、この後のポーランド侵攻においても同じで、ドイツに対して宣戦布告をしてもポーランドに軍隊を派遣することや、ポーランドを助けるために積極的にドイツに攻めこんで新たな戦線を作ることはありませんでした。
ただ、フランス側からドイツに対して宣戦布告した以上、ドイツとの直接対決は避けられないことになります。
ポーランドがドイツの電撃作戦により1か月余りで征服されたことにで、シャルル・ド・ゴールが機甲師団長となり近代的な戦車戦の訓練を始めていました。
フランス軍は第1次世界大戦と同じように、ドイツ軍はマジノ線を避けてベルギーを通過してフランスに攻めてくると予想していました。そこでフランス軍の主力とイギリス海外派遣軍との混成部隊を、ベルギーの国境に配備していました(ディール計画)。
ただマジノ線とベルギーの国境に挟まれたアルデンヌ地方は深い森や峡谷のある山岳地帯で、ここを過ぎたところにはムーズ川があり、戦車主体の機甲部隊が通過するのは困難とみて、少ない防御軍しか配備しておりませんでした。
今回は、ここを狙われたのです。
戦争をする場合は、攻める方が守る方より3倍の戦力を必要とするのですが、ナチスドイツは英仏連合軍とほぼ同じ戦力で戦っていました。
ナチスドイツ軍の戦力
141個師団
野戦砲7378門
戦車2445両
航空機5638機
兵員335万名
連合軍の戦力
144個師団
野戦砲1万3974門
戦車3383両
航空機2935機
兵員330万名
注目するのは電撃戦の主力となる戦車で、速度ではドイツ軍が優れていましてが、防御力・攻撃力では、イギリスやフランスの戦車に対して、はるかに劣っていました。
ドイツ軍の主力Ⅲ号戦車
III号戦車F型 出典 戦車研究室
仕様
全長: 5.38m
全幅: 2.91m
全高: 2.44m
全備重量: 19.8t
乗員: 5名
エンジン: マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最大速度: 40km/h
航続距離: 165km
武装: 46.5口径3.7cm戦車砲KwK36×1 (131発)
7.92mm機関銃MG34×3 (4,500発)
装甲厚: 10~30mm
最大の特徴は、砲塔に装填手・射手・戦車長の3名が乗り、すべての戦車に無線機が備えられていることでした。今までの戦車では戦車長が射手や装填手を兼ねていましたが、独立することにより戦車の進行方向や攻撃目標の指示が的確に行えるようになりました。
また各戦車が送受信機を装備することにより、戦車隊全体での連係プレーができやすくなりました。
写真はヘッドセットを装備した戦車長の写真で、喉の所にタコホーンと呼ぶ喉頭マイクを付けており、喉の振動を直接拾うことで騒音の中でも音声が確実に伝わるようにしました。これにより戦車内部の指示や、無線通信が確実に行えるようになりました。
出典 プラモデルの戦士たち
ただ装甲と戦車砲は特に優れているわけではなく、第2次世界大戦初期としては標準的なものでした。
3号戦車の強敵となったのは、次の2両です。
ただこれらの戦車は、無線機が装備されていたのは部隊長の車両だけで戦車間の連絡は手旗信号や手信号で行われていたため、戦闘中には十分な連絡が出来ず各個撃破されてしまいます。
フランス ルノーB1bis重戦車
B1bis重戦車 出典 戦車研究室
仕様
全長: 6.383m
全幅: 2.494m
全高: 2.795m
全備重量: 31.5t
乗員: 4名
エンジン: ルノー 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 307hp
最大速度: 27.6km/h
航続距離: 150km
武装: 17.5口径75mm戦車砲SA35×1 (74発)
32口径47mm戦車砲SA35×1 (72発)
7.5mm機関銃M1931×2 (5,250発)
装甲厚: 20~60mm
砲塔に装備された47㎜戦車砲は強力で、射程500mで58㎜、1000mで43㎜の装甲を撃ち抜くことが出来ました。装甲厚30㎜の3号戦車は、1発で撃破されてしまいます。
前面と側面の装甲厚が60㎜もあり、3号戦車の3.7㎝砲の攻撃に十分耐えることが出来ました。最大の弱点は戦車左側の側面に設けられたラジエター部分(上の写真の鎧戸の部分)で、ドイツ軍でロンメル将軍の指揮する3号戦車は5~6台で取り囲み、ここを狙い撃ちしました。
イギリス Mk.Ⅱ歩兵戦車マティルダⅡ (A12)
Mk.Ⅱ歩兵戦車マティルダⅡ (A12)出典 戦車研究室
仕様
全長: 5.613m
全幅: 2.591m
全高: 2.515m
全備重量: 26.926t
乗員: 4名
エンジン: レイランドE148またはE149 V型6気筒液冷ディーゼル×2
最大出力: 190hp/2,000rpm
最大速度: 24.14km/h
航続距離: 257km
武装: 50口径2ポンド戦車砲×1 (93発)
7.92mmベサ機関銃×1 (2,925発)
装甲厚: 13~78mm
最大の特徴は装甲が前面で78㎜、側面で70㎜更にキャタピラー全体が装甲板で覆われており、3号戦車がいくら砲弾を当てても全て弾かれてしまい効果がありませんでした。いくら命中させてもコン・コンと音を立てるだけなので、「ノッキングマシーン」というあだ名が付けられました。
マチルダⅡを撃破した8.8cm 高射砲FlaK 18
出典ウィキペディア
困り果てた戦車隊の師団長ロンメル将軍は、8.8cm 高射砲FlaK 18で編成された空軍野戦高射砲部隊に命じ、水平射撃でマチルダⅡの撃退を成功させました。8.8cm FlaK 18の改良型は、後にドイツ軍最強と言われるティーガー戦車の戦車砲として搭載されました。
ヒトラーのフランス侵攻と二人の軍人
電撃戦を生み出したハインツ・グデーリアン
ハインツグデーリアン (1947年7月)
出典ウィキペディア
1988年6月17日プロイセン王国のクルムで生まれる。陸軍士官であった父親の影響でカールスルーエ陸軍幼年学校からベルリンの陸軍士官学校に進学し、19歳で少尉に任官されました。第1次世界大戦では通信大隊に配属され、無線技術を習得しました。
第1次世界大戦後、陸軍に残ったグデーリアンは10万人と制限された少ない人数で、いかに敵軍に大打撃を与えるか、研究し始めました。イギリスやフランスの書籍から機動性のある戦車を大量に動員して、敵軍の弱点を攻め、そのまま後方に進み司令部や補給基地・通信施設を破壊して敵軍を混乱・麻痺させて勝利を得るというものでした。
グデーリアンが戦術研究のために作った、木製のダミー戦車
1922年4月16日に結ばれた独ソ秘密軍事協力(ラッパロ条約)によって、英仏の目が届かないソビエト連邦奥地でドイツ軍士官相手に戦車を用いた新たな戦術の教育・訓練をしました。
ヒトラーはグデーリアンの新しい戦術を気に入り、彼を第2装甲師団長に任命して支援しました。
1939年9月のポーランド戦役においては、1個装甲師団・Ⅱ個自動車化歩兵師団を擁する第19装甲軍団長として空軍の急降下爆撃機とともに、ドイツ本土と東プロイセン州を切り離していたポーランド領のダンツィヒ回廊を守るポーランド軍を短期間で寸断・壊滅させ、回廊を横断しブレスト・リトフスクまで進撃した。その功によりヒトラー総統から騎士鉄十字章を授与されています。
1940年のフランス侵攻では、ポーランド戦駅において徒歩や馬で移動していて戦車に追いつけなかった歩兵も、装甲車やトラックで一緒に進軍できるようになりました。
電撃戦とは
戦車を中核とした部隊が先陣を切り、それに装甲車両やオートバイで機械化された部隊が随伴する。トラックに乗り自動車化された歩兵が続き、迅速に部隊を展開する。こうした機械化が1つのイノベーションである。
その結果、指揮命令においてもイノベーションがなされた。少なくとも当時の常識では、司令官は後方から各種情報を総合して指揮を執るのが通例だったが、電撃戦においては、師団長自らも指揮車に乗り、前線で指揮を執った。グデーリアンの工夫は、単に機械化するだけでなく、通信機器を効果的に使用した点にも表れている。
第1次世界大戦で無線技術を取得していた彼は、戦車内部と通話できる通信装置を戦車の後方に設置した。これにより、ハッチを開けて危険に身をさらしながら意思疎通を図る必要はなくなった。ところが、フランス軍はこうした配慮がなされておらず、実戦において甚だしい困難に直面することになる。
電撃戦では敵の一点を突破し、その背後に回り込み、挟撃して殲滅する戦法だが、その露払いとして、強力な火力が敵陣地を襲う。後方からの砲兵射撃が行われ、急降下爆撃機による地上部隊の掩護がなされる。時には空挺部隊(ドイツ軍では降下猟兵)が敵の要塞陣地に降り立ち、火砲やトーチカを破壊する。このような空陸一体作戦がもう1つのイノベーションである。
前線の指揮者に乗り、指揮を執るグデーリアンとエニグマ通信機。1940年5月
これには空軍士官も同行して、戦車隊の要請ですぐに爆撃を行えるようにしていた。
出典 ウィキペディア
マンシュタイン計画の立案者エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
少将時代のマンシュタイン(1938年)
出典 ウィキペディア
1887年11月24日、プロイセン王国の首都ベルリンで、父エドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将とその妻ヘレーネとの間で生まれました。ところがゲオルク・フォン・マンシュタイン中将もとに嫁いだ母の妹ヘートヴィヒ・フォン・シュペルリンクには子供がいないため、マインシュタイン家に養子として迎えられました。
マインシュタイン家は代々軍人の家系であり、彼の母の妹はヒンデンブルグ元帥の妻という縁故があった。そのため生まれたときから軍人としての教育を受け、第1次世界大戦では、参謀将校として勤めていました。
ヒトラーが政権を取り、ヴェルサイユ条約を破棄して軍備拡張を始めたとき、マインシュタインはこれを支持しました。ただユダヤ人迫害に見る人種差別政策には反対して、生涯ナチス党員にはならず、国防軍で参謀として勤めました。ヒトラー政権が合法的に成立した以上、政府のために働くのは軍人としての義務だと感じて、最後までナチスドイツのために働いています。
ヒトラーもナチス党員にならない彼を信用できないと見ていましたが、彼の作戦作成能力を高く買い、参謀本部に入れていました。
1939年末、ドイツ参謀本部が建てたフランス侵攻の計画は第1次世界大戦でドイツが行ったシュリーフェン・プランと同じく、ベルギーを通ってフランスに侵入するというものでした。
フランス側もマジノ線がある限りドイツ軍がベルギー経由で侵攻してくることを予想して、主力戦力をベルギー内に進めドイツ軍を迎え撃つ計画を立てていました。フランスとしては第1次世界大戦の時みたいにフランス国内での戦いを避けたいという思いがありました。
このため当初の計画ではフランス軍とドイツ軍の主力がベルギー国内で正面衝突し、長期戦になる可能性がありました。
当時ドイツ国防軍A軍団(ドイツ国防軍はA.B.Cの3軍団に分けられていた)の参謀長であったマンシュタインは、それまで戦車部隊が進軍できないと思われていたアルデンヌの森林地帯を通過して、英仏海峡に到達し、ベルギー国内で展開しているフランス軍をフランス国内から孤立させる計画(大鎌作戦)を立てました。しかし、この計画は陸軍総司令部によって拒否されてしまいました。
しかし、1940年1月10日ドイツ軍のベルギー侵攻参戦の指令書を持った、ドイツ空軍第2航空艦隊参謀将校の搭乗した飛行機がベルギー領内に不時着する事件が起これました(メヘレン事件)。
フランス侵攻の作戦内容が敵側に漏れたと考えたドイツ軍は、作戦の変更を余儀なくさせられ、1月16日ヒトラーは作戦内容の変更を決意します。
この時、マンシュタインの参謀、ギュンター・ブルーメントリットとヘニング・フォン・トレスコウはかねてから交流のあったヒトラーの副官のルドルフ・シュムントに連絡を取り、シュムントは2月2日にマンシュタインの『大鎌作戦』をヒトラーに知らせました。
2月27日、ヒトラーはマンシュタインを総統官邸に招き、直接『大鎌作戦』の説明を受けました。
マインシュタインの作成した『大鎌作戦』をもとに、新しい計画が立てられました。
この計画は、南部ベルギーのアルデンヌを経由してA軍集団が侵攻の中央攻勢を担うという点で、マンシュタインの提案に従ったものでした。すなわち、ナミュールとセダンの間でマース川を渡り、B軍集団が連合軍を罠に引き込むために北のベルギーで偽装攻撃を実行し、英仏連合軍をベルギー国内に引き付けている間、A軍集団が北西のアミアン方向へ遊撃戦を行ない、英仏海峡まで進軍してベルギー国内の英仏軍を挟み撃ちにするというものでした。
この新しい計画は、『マインシュタイン計画」と呼ばれることになりました‐。
ナチスドイツのフランス侵攻
1940年5月10日、アルデンヌの森を抜けてフランスに侵攻するA軍集団、ベルギーに侵入して英仏軍を引き付けるB軍集団、マジノ線を攻撃して守備隊を釘付けにするC軍集団は、一斉に攻撃を開始しました。
ベルギー軍とフランス国境に待機していた英仏軍は、侵入してくるドイツ軍に対して、ベルギー中央を流れるディール川で防ぐため、移動を開始しました。この時、ドイツ機甲軍団がアルデンヌの森を通り抜けていることに、まったく気づいていませんでした。
フランス国境におけるドイツ軍とフランス軍の作戦計画
5月13日100㌔の森の中を通り吹けることに成功したグデーリアン率いる1700両の戦車部隊は、ムーズ川に到達して橋頭堡を確保し、翌日には渡河に成功しました。
これを最初に迎え撃ったのが、フランス軍のFCM36軽戦車でした。
FCM36軽戦車
FCM36軽戦車 出典 戦車研究室
全長: 4.465m
全幅: 2.14m
全高: 2.205m
全備重量: 12.8t
乗員: 2名
エンジン: ベルリエMDP 4ストローク直列4気筒液冷ディーゼル
最大出力: 91hp/1,550rpm
最大速度: 23km/h
航続距離: 230km
武装: 21口径37mm戦車砲SA18×1 (102発)
7.5mm軽機関銃M1931×1 (3,000発)
装甲厚: 13~40mm
ドイツ軍の3号戦車と同じ37㎜戦車砲を備えていましたが、砲身が短く3号戦車の装甲を撃ち抜くことが出来ませんでした。その代わり正面装甲は3号戦車よりも10ミリ厚くこの点では有利でした。
両者は至近距離で打ちあい、砲の威力の大きい3号戦車により、フランス軍は出撃した36両うち26両を失い撤退しました。
5月17日、ベルギー領のディナンでマース川を越えたロンメルの率いる第7機甲師団は、フラヴィオンにて180両の戦車を保有するフランス第1機甲師団とを発見しました。フランス第1機甲師団はB1bis重戦車70輌をふくむ170両の戦車で構成されていました。この時、前線に到着したばかりのフランス軍は燃料も尽き、休息して補給部隊の到着を待っていました。
ドイツはロンメル率いる第7機甲師団と、マックス・フォン・ハートリープ少将の率いる第5装甲師団合わせて330両の戦車で攻撃を仕掛けました。上空からはJu87急降下爆撃機も攻撃に加わります。
このためフランス第1機甲師団は、140両の戦車を失い壊滅状態となりました。
ロンメル率いる戦車軍団はグデーリアン率いる戦車軍団と共に、英仏海峡に向かって突き進み、5月19日ドーバー海峡に到達しました。これにより、ベルギーに進出したフランス軍とイギリス軍は完全に包囲されてしまいました。
その反面グデーリアンの率いる戦車部隊の進撃が速すぎ、後続の歩兵師団と離れてしまい、ベルギーの連合国軍とフランス本土との遮断が完全に行われていませんでした。
これを見て、ベルギーのイギリス軍はフランス本土のフランス軍と連携して、アラスでドイツ軍を挟み撃ちにし、補給路を断つ作戦を立てました。作戦の実行は5月21日とされました。
ところがフランス軍は避難する住民に阻まれ、21日に予定地点に到着できませんでした。連絡が出来なかったイギリス軍は、88両の戦車と48門の大砲でドイツ軍に向かって行きます。
前線から駆けつけたロンメルは反撃に移りましたが、装甲の厚いイギリスのマチルダⅡ戦車には全く歯が立ちませんでした。そのためありとあらゆる大砲で、マチルダⅡ戦車の前進を食い止めるべく、砲撃を命じました。その中にドイツ空軍対空砲部隊の持っていた、88㎜対空砲FlaK 18 がありました。大口径対空砲の水平射撃による砲撃は大きな効果を表し、イギリス軍は88両のうち68両の戦車を失い撤退しました。
22日に遅れて到着したフランス軍は、あらかじめ警戒網を敷いていたドイツ空軍のJu87急降下爆撃機の激しい空爆により、撤退させられてしまいます。
イギリスとフランスの作戦は失敗してしまいましたが、連合国の反撃に驚いたヒトラーは、5月23日に進軍停止命令を出し、戦線の強化を図りました。
5月28日、ベルギー軍が降伏しました。残った英仏軍約40万人がダンケルクまで追い詰められ、ダンケルクから半日の距離にいたクデーリアンは上層部に攻撃を訴えましたが、却下されてしまいました。
この間にイギリスは海軍の軍艦及びチャーチルの呼びかけに答えた民間の船を総動員して、6月4日には35万人の兵士がイギリスへ脱出しました(ダイナモ作戦)。
ドイツ軍は6月5日にダンケルクを制圧した後、一転してパリに向かいました。
主力戦力をベルギーで失ったフランスは、残存した兵力とマジノ線の守備隊から引き抜いた部隊で戦いましたが、歩兵主体の戦力ではドイツ軍と互角に戦えず、6月14日にはドイツ軍はパリに無血入城を果たしました。
6月21日、フランスは降伏しました。
1940年7月23日、エッフェル塔を訪れたドイツ総統アドルフ・ヒトラー(シャイヨ宮)
出典ウィキペディア
第1次世界大戦で4年もかかって出来なかったフランス征服を、たった6週間で成し遂げたヒトラーを迎えたベルリン市民は、2日ににわたって記念式典を行いました。
https://www.youtube.com/watch?v=GG6_0Lcb7Jc
占領した地域から豊富な食料品やワインなどが流れ込み、ドイツの人々は勝利の美酒に酔いしれました。
これまで経済や軍事において有能な人に任せたり、意見を聞いていたヒトラーも、ナポレオンと並ぶ軍事の天才と自負するようになり、周りの人の意見を聞かず、独断で物事を進めるようになりました。
それが大きな判断ミスを犯し、ドイツは奈落の底へと進んでいきます。
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