なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その3

time 2019/03/24

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その3

1933年から始まった第1次4ヵ年計画で、ヒトラーは約束通り失業者問題を解決し、工業生産も政権発足前の2倍となり景気も良くなり、ドイツ国民の生活は劇的に向上しました。

ヒトラーは偉大なるドイツの復活をかけて、ヴェルサイユ条約で失った領土の再獲得からさらなる両土間拡大に向かいます。

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亀仙人2

ナチスドイツの再軍備から、第2次世界大戦開戦まで

ワイマール共和国時代のドイツ

第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約により、ドイツは多額の賠償金(1921年の決定で1320億マルク)と共に、国土の7分の1、人口の10分の1の領土を失い、東プロイセンはポーランド回廊によりドイツ本国と分断されました。

また軍事面においても、陸軍は10万人、海軍は1万6500人に限定され、航空機、潜水艦の所有は禁止されました。

赤い点線の部分が、ドイツが失った領土

出典 TOKYO VICTORY

・ヴェルサイユ条約で割譲した領土
a  アルザス・ロレーヌ  → フランスへ
b ベルギーへ
c  北シュレスヴィヒ  → デンマークへ
d  ポーランド回廊  → ポーランドへ
e ポーランドへ
f リトアニアへ

・関連地域
g  ラインラント 非武装地帯
h  ザール地方
i  ルール地方
j  ダンツィヒ  自由都市

引用 Gooブログ

ワイマール共和国時代の軍隊は陸軍10万人、海軍1万6500人に限定されていましたが、第1次世界大戦で退役させられた多くの軍人たちは、それぞれ義勇軍(フライコール)を編成して左派勢力との戦いで、活躍していました。

とくに有名なのは、1919年1月5日から1月12日にかけて起きた、スパルタクス団と呼ばれる共産主義者による武装蜂起でした。これに対して国防大臣グスタフ・ノスケは義勇軍の助けを借りて鎮圧に成功しました。

この後も社会主義の脅威に対する警戒から、赤色勢力に対抗する手段のため共和国軍では正規の軍に含まれない「黒い国防軍」として、民兵や義勇軍の組織を増強し続けました。

共和国軍は「黒い国防軍」に対して、武器弾薬の装備を供給するだけではなく、顧問の派遣や演習場の貸し出しなどを行い、戦力の維持を図りました。

主な団体としては、ナチス党に存する「突撃隊」、退役軍人で組織された「鉄兜団」等があります。

また共和国軍では、すぐに部隊を指揮できるようにするため、すべての軍人に下士官や将校の教育を行っていました。

 

ラッパロ条約(1922年)

1922年4月16日、イタリアの小都市ラッパロで、ドイツとソビエト連邦が秘密交渉を行い経済協力を目的とするラッパロ条約に調印しました。

この条約の付属秘密協定で、ドイツはソ連軍将校の教育をドイツ国内で行い、ソ連はヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツの航空訓練や毒ガスの実験場、戦車などの大型兵器の研究開発の場を提供しました。

軍用機の開発

空軍では、第1次世界大戦で戦闘機を製造していたドイツ航空産業各社はスイス・オランダ・スウェーデン等に生産拠点を移し、旅客機や輸送機、スポーツ機などの開発生産を行い、製造技術の向上と維持に努めました。

スウェーデンで開発されたJu 87急降下爆撃機シュトゥーカ

出典ウィキペディア

またラッパロ条約により、ロシアの奥地の都市リペツクに秘密の航空機訓練基地の提供され、試作機の試験飛行や戦闘機パイロットを養成していました。

1933年ヒトラーが首相に就任すると航空機の開発に拍車がかかりました。また、民間航空事業の促進を理由に航空省を設け、民間航空操縦士養成学校で将来の軍用機パイロットを養成しました。

 

ルフトハンザ航空で乗客10名を乗せて運用されていたハインケルHe111輸送機C型 1935年

出典 鳥飼行博研究室

ドイツ空軍ハインケルHe 111H-2爆撃機 1940年

出典 鳥飼行博研究室

 

ヨーロッパ周回国際レースに参加するために作られた、メッサーシュミットBf 108B-2スポーツ機「タイフン」1934年

出典 ウィキペディア

メッサーシュミットBf 109G-6 (第27戦闘航空団「アフリカ」所属、1943年撮影)

出典 ウィキペディア

これらの飛行機は当時の軍用機の水準をはるかに凌いでいたため、スペイン内戦(1936~1939年)で派遣されたコンドル軍団で大活躍し、改良を加えながら第2次世界大戦終了まで使われ続けました。

戦車の開発

1930年代初め、交通兵監オズヴァルト・ルッツ、同兵監部主席参謀で電撃戦の生みの親と言われるハインツ・グデーリアンらによって、将来の陸軍機械化構想が作られました。そのために必要な戦車の開発と製造技術の獲得、および乗員の訓練のため、農業用「軽トラクター」として「Ⅰ号戦車」、「重トラクター」として「Ⅱ号戦車」が作られました。

Ⅰ号戦車

製造開始 1935年

全長 4.02 m
全幅 2.06 m
全高 1.72 m
重量 5.4 t
懸架方式 リーフスプリング方式
速度 37 km/h
行動距離 145 km
主砲 7.92mm MG13 機関銃×2
装甲 13 mm
エンジン クルップ M305
水平対向4気筒空冷ガソリン\
57 HP/2500 rpm
乗員 2名(車長、操縦手)

出典ウィキペディア

Ⅱ号戦車

製造開始 1937年

全長 4.81 m
全幅 2.22 m
全高 1.99 m
重量 8.9 t
懸架方式 リーフスプリング方式
速度 40 km/h
行動距離 200 km
主砲 55口径20mm機関砲(2 cm KwK 30 L/55)
副武装 7.92mm機関銃MG34
装甲 基本装甲 14.5 mm
エンジン マイバッハ HL62TR
直列6気筒液冷ガソリン
140 馬力
乗員 3 名
(車長兼砲手、装填手、操縦手)

出典ウィキペディア

この両方の戦車は、独ソ秘密軍事協力に基づき、連合国の監視の目が届かないソビエト連邦のキエフで、電撃戦の生みの親ハインツ・グデーリアンの指揮で、ドイツ軍士官の戦車戦術の教育・訓練に使用されました。

第2次世界大戦初期は主力のⅢ号戦車・Ⅳ号戦車の数がそろわなかったためポーランドの電撃戦に実戦投入され、その後のフランス侵攻にも使われました。

海軍の場合

海軍は、排水量10,000t以下、主砲28cm以下と限定された範囲内で「ポケット戦艦」と言われた、ドイッチュラント級装甲艦3隻を製造するのにとどまった為、他国の海軍力に比べ、大きく差を付けられていました。

1922年6月にはオランダに海軍技術会社を設立して、潜水艦(Uボート)の開発を再開しています。

再軍備宣言とラインラント進駐

1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄して、ドイツの再軍備を宣言しました。

この宣言以前から秘密裏に準備を進めてきたドイツ軍部は、急速に軍隊を整備し始めます。

陸軍では1935年11月7日、徴兵制が敷かれ59万6千人が徴兵され、陸軍の規模が70万人となり装甲機械化師団3個師団が誕生しました。

空軍ではナチ党のNo2と言われるゲーリングが、空軍総司令官に任命されました。

この時ドイツ空軍の所有する軍用機は2500機であり、イギリスやフランスの空軍をはるかにしのいでいました。

1935年再軍備宣言時の主力戦闘機He51(750馬力速度332㌔)

この戦闘機は、スペイン内戦に多数派遣されましたが、より近代的な単葉機に全く歯が立たないことが分かりました。

出典 WAR BIRDS GRAPHTY

徴兵制の実施と、航空機や兵器の製造で軍需工業化活発化し、1936年にはほぼ完全雇用が達成されました。

1936年3月7日、非武装地帯と定められていたドイツとフランスの国境地帯ラインラントに陸軍を進駐させ、同地のアーヘン、トリーア、ザールブリュッケンに兵営を設けて駐留させました。

これはヒトラーにとって大きな賭けであり、ヒトラー自身も

「我が人生で、あれほど神経をすり減らしたときはなかった」

と語っていました。

それは機関銃以外大した武器を携行していなかったドイツ軍は、フランス軍の反撃に勝つ見込みがなかったからです。そのためフランス軍が向かってきたら、直ちに撤退するよう命令を受けていました。

これに対してフランスとイギリスは、ドイツ軍を攻撃した場合ドイツ軍が再軍備で強化されていたため、第1次世界大戦のように戦闘が長期化して多くの犠牲者が出ることを恐れ、またラインラントがもともとドイツ領であったため、抗議するだけにとどまりました。

もしこの時フランスが軍隊を派遣していたら、ドイツ軍は撤退し、ヒトラーの面目は丸つぶれとなり、歴史が変わっていたかもしれません。

反対にフランスが軍を動かさなかったため、ヒトラーはイギリスとフランスは積極的に軍隊を動かすつもりがないことを知り、本格的な領土拡大に乗り出しました。

ヒトラーは3月29日、ドイツ軍のラインラント進駐の可否を問う国民投票を実施し、98.8%の支持を受けました。

これはドイツが軍事面でも、他国から一目置かれる存在になったこと、ドイツ国民の多くがヒトラーの政策に同意したことを表しています。

1936年8月Ⅰ日から8月16日にかけて、ドイツのベルリンで行われた夏季オリンピック大会ドイツは参加国最多の89個のメダルを取り、成功を収めました。

こうしてヒトラーは政権後の約束通り、雇用問題を解決し、経済を復興させドイツを一流国に戻すことに成功し、ドイツ国民から絶対的な信頼を得ることになりました。

第二次四カ年計画

ドイツは石炭やの鉄鉱石の一大産地であるアルザスロレール地方を、ヴェルサイユ条約で失いました。また近代産業に必要な、石油・ゴムなども外国からの輸入に頼っていました。

また1934年の大旱魃で、1935年から1936年にかけて、ドイツは深刻な食糧危機に陥り、食糧の輸入が増加しました。

この時期ナチスのユダヤ人迫害に対抗して、欧米各国はドイツからの輸入を減少させていました。

そのため貿易赤字が拡大して外貨不足になり、ナチスドイツの金保有量も急激に減り始めました。

ドイツの金保有量

1931年 17億1100万マルク

1932年  8億3800万マルク

1933年  4億5700万マルク

1934年  1億5800万マルク

1935年    8600万マルク

1936年    6900万マルク

1937年    6800万マルク

出典 武田知弘著 「ヒトラーの経済政策」 祥伝社新書

この危機を乗り越えるためには、各国との協調外交に進め輸出を増加させるとともに、軍事費の増大を抑えることが必要でした。

ところがヒトラーはこれに反して、軍備拡大を続けて領土拡大によって占領地から収奪する道を選びました。

1936年10月18日第二次四カ年計画が制定され、それまでの経済相であり軍事費の拡大に反対していたシャハトを排して、ナチ党および政府のNo.2であるヘルマンゲーリングが全権責任者に任命されました。

この四カ年計画でヒトラーは

「経済の課題はドイツ民族が自己主張できるようにすること」

「ドイツ経済は以降4年間のうちに戦争に耐えうる経済になっていなければならない」

「ドイツ国防軍は4年間で戦場に投入可能なレベルになっていなければならない」

と述べています。

またゲーリングも

「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」

と語っています。

以後ヒトラー率いるナチスドイツは、軍備増強と領土拡大に乗り出していきました。

スペイン内戦とコンドル軍団

1931年、スペインでブルボン朝立憲君主制政体が倒れ、ブルジョワ共和政が成立しました。しかし、1933年の総選挙で右翼が勝利して、イタリアのムッソリーニをモデルとしたファシズムが台頭し、左翼の共産党やアナーキストに対してだけでなく、社会主義者や共和主義者までも弾圧し始めました。

1936年のスペイン総選挙で共和派・社会主義者・共産党などからなるスペイン人民戦線派が勝利し、人民戦線内閣が成立すると直ちに軍部はクーデターを起こしフランコ将軍の元スペイン各地で一斉蜂起して、人民戦線各地側と内戦状態となりました。

この内戦では、反ファシズム陣営の人民戦線をソ連が支援し、反乱軍のフランコ将軍をイタリアとナチスドイツが支援しました。

スペイン内戦はドイツにとって新多に開発された兵器や新戦術の格好の実験場となった。特に空軍では、メッサーシュミット Bf 109戦闘機、ハインケル He 111爆撃機、ユンカース Ju 87急降下爆撃機(スツーカ)は、コンドル軍団で初めて実戦投入され良好な結果を出し、第2次世界大戦を通して使用されました。

スペイン内戦で経験を積んだ熟練パイロットたちは、その後のポーランド侵攻やフランス侵攻において空軍の中核となって活躍しました。

陸軍では約100両のⅠ号戦車を主体としたイムカー戦闘団を派遣しました。しかし、当時最強と言われる45㎜砲を装備したソ連のT-26に全く歯が立たず惨敗してしまいました。

スペイン内戦に参加したソ連のT-26戦車

出典 ウィキペディア

製造開始 1932年

性能諸元

全長 4.88m
全幅 3.41m
全高 2.41m
重量 9.4t
懸架方式 リーフスプリング方式
速度 28km/h
行動距離 175km
主砲 45mm戦車砲M1932
副武装 7.62mm機関銃DT×1もしくは2
装甲 砲塔防盾 25mm 全周 15mm
車体前・側面 15mm
エンジン GAZ T-26
90馬力/66kW
乗員 3名

引用 ウィキペディア

ゲルニカ爆撃

1937年4月26日、ドイツのコンドル軍団とイタリア空軍がスペイン・バスク地方の都市がスペイン・バスク地方の都市ゲルニカに対して無差別爆撃を行いました。

これは今までの軍需工場や港・油田などの施設の破壊を目的にした爆撃と違い、都市全体を爆撃して敵国民の繊維をそぐための爆撃でした。

この爆撃で焼夷弾(対象物を焼き払うために使用される爆弾)が本格的に使用され、一般市民の住む民家や商店が破壊されました。

被害者は当初バスク地方政府の発表で1654人とされましたが、現在では100~250人とみられています。

当時パリに住んでいたスペインの画家パブロ・ピカソは、共和国政府の依頼によりゲルニカ爆撃を主題とした『ゲルニカ』を書き上げ、パリ万博で公開されました。

ピカソの『ゲルニカ』 出典ウィキペディア

オーストリア併合

第1次終戦後のオーストリア

第一次世界大戦後(1918年)の中欧 

緑色の部分が、旧オーストリア=ハンガリー帝国

出典 中世を旅する

1918年11月11日、オーストリア最後の皇帝カール1世が退位してスイスに亡命し、13世紀から続くハプスブルク帝国は終わりました。

この前後の、1918年10月28日チェコスロバキア、11月11日ポーランド、11月16日ハンガリー、12月1日セルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)が独立を宣言しました。

オーストリア臨時政府は連合国諸国とサン=ジェルマン条約を締結しました。内容は

  1. オーストリアはハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、セルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)の独立の承認する。
  2. トリエステ、南チロル(トレンティノ)などをイタリアに割譲する。
  3. ドイツとの併合の禁止。その他、軍隊の制限、賠償金などが規定された。

です。

これによりオーストリア共和国は、基本的にドイツ人国家となりました。

ナチスドイツのオーストリア併合まで

第1次世界大戦後、連邦共和国として出発したオーストリアでは、カソリック系のキリスト教社会党が政権を取り、国内の復興が進みました。しかし、同じくカソリック国のイタリアのムッソリーニの支援を受けた「護国団」と、社会主義者の結成した「防衛同盟」との争いが絶えず、国内は不穏な状態でした。

そんな中、ナチスドイツがオーストリア国内のナチ党員を動員して、盛んに反政府運動を行うようになりました。

1934年7月25日、オーストリア・ナチスは時の首相ドルフスを殺害し、放送局を占拠してナチス政権の樹立を宣言するクーデターを起こします。

このクーデターはヴィルヘルム・ミクラス大統領から全権を委任されたクルト・シュシュニック教育相によって鎮圧されました。この事件後イタリアのムッソリーニはナチスドイツの介入を牽制するため、国境地帯に4個師団を終結させました。

この事件でナチスドイツへの反感が強まり、「ドイツとの併合」を求めるオーストリア国内での勢力が、消し飛んでしまいました。

この後シュシュニックは首相に任命され、ヒトラーに対抗するためムッソリーニに近づきます。

ところが1935年イタリアがエチオピアに侵攻して国際的に孤立し、ドイツとの協調路線をとり、スペイン内戦では共同でフランコ将軍を支援するなどして提携し、ベルリン=ローマ枢軸を成立させ、オーストリアから手を引き始めました。

これに乗じてヒトラーは1936年7月11日オーストリアと独墺協定を結び、ドイツはオーストリアの独立を認めることと、内政干渉をしないことを約束しました。その見返りにオーストリアは獄中のナチ党員の恩赦と、ナチ党員の入閣を認めることを約束させられました。

1938年2月12日にヒトラーはベルヒテスガーデンの別荘でシュシュニクと会談して、オーストリアを保護下に置くための条件を要求しました。その条件は

  1. オーストリアの副首相、国防、内務、外務という主要閣僚ポストをナチ党員に与えること。
  2. オーストリアは、ドイツの反チェコ政策に追随すること。
  3. 反ユダヤ人の法律を制定すること。
  4. 国際連盟から脱退すること。
  5. 通貨同盟を形成すること。

でした。

ヒトラーの要求は到底受け入れられるものではなかったが、結局シューシュニックは流血を避けるため、2月18日にオーストリア・ナチスに転向していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命しました。この時すでにオーストリア・ナチ党は、政府打倒とドイツ併合を目指して活動していました。

これに対して、3月9日シュシュニクはナチスのオーストリア併合を防ぐため、3月13日に「ドイツの併合」か「オーストリアの独立」かを問う、国民投票の実施を発表しました。

これに対して、ヒトラーは国民投票の中止とアルトゥル・ザイス=インクヴァルトへの首相職移譲を要求する一方、圧倒的なドイツ軍を使ってオーストリアを制圧する作戦を立てます。

3月10日午後4時、国民投票の中止と総辞職に追い込まれたシュシュニクは、ラジオ放送で、国民に挨拶すると共にオーストリア軍に流血を避けるため、進攻してくるドイツ軍に抵抗しないよう命じました。この放送は「神よ、オーストリアを護りたまえ」との、シュシュニクの言葉で終わりました。

3月12日午前8時、ドイツ軍によるオーストリアへの進駐が開始されました。当初予想されていた抵抗は全く見られず、逆にオーストリア国民の烈烈な歓迎を受け、ドイツ軍兵士は戸惑っていました。

翌3月13日にはヒトラーもウィーンに入りました。

1938年3月14日、ヒトラーをウイーンで迎える群衆

出典 徒然なるままに

4月10日、ヒトラーとザイス=インクヴァルトは独墺両国で合邦の是非を問う「国民投票」を行い、97%の合邦賛成票を集めたことを発表した。これにより、オーストリアはドイツに併合されてオーストリア州となり、ザイス=インクヴァルトはオストマルク州総督  に就任しました。

合邦を問う国民投票用紙。出典ウィキペディア

「あなたは1938年3月13日に制定されたオーストリアとドイツ国の再統一に賛成し、我々の指導者アドルフ・ヒトラーの党へ賛成の票を投ずるか」とある。中央の目立つ記入欄の上に「はい」、右端の小さな記入欄の上に「いいえ」とある。引用 ウィキペディア

ヒトラーのオーストリア併合は主権国家をいとも簡単に消し去った暴挙であったが、積極的に非難をする国が出ませんでした。逆に、イタリアや日本、フランスなどの列強は直ちにウィーンの大使館を領事館に格下げして、事実上の併合を認めました。

合併直後、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や反ナチス的愛国主義者、知識人などが逮捕され、収容所に送られるか、処刑された。粛清の嵐はオーストリア軍にも及び、最後まで合併に反対し続けたヴィルヘルム・ツェーナー(Wilhelm Zehner)将軍が暗殺された他、「サウンド・オブ・ミュージック」で有名なゲオルク・フォン・トラップ少佐のようにオーストリアから亡命する者もいた。ナチス・ドイツのオーストリア統治は、政治的にも経済的にもドイツ本土への従属性を強化する一方、オーストリア人をドイツ人の中でも落ちこぼれの「二流市民」として扱う結果となった。このため、ユダヤ人抹殺(ホロコースト)など、ドイツ人が直接関りたくない仕事などに動員されたり、その一方でドイツ人としてのアイデンティティ確立のために、自ら積極的にナチスに忠誠を誓う者もいた。またナチス親衛隊の特殊部隊であるフリーデンタールの指揮官オットー・スコルツェニーもオーストリア出身である。そもそも、ヒトラー自身がオーストリア出身者であった。

引用 ウィキペディア

ベルリンに帰還したヒトラーは、ドイツ国民から英雄として迎えられ、ラインラント進駐に続く大成功に国民全体から讃えられました。

チェコ・ズデーテン地方とミュンヘン会談

第1次世界大戦が終了しオーストリア=ハンガリー帝国が解体すると、1920年チェック人とスロバキア人が合同するチェコスロバキア共和国(第1共和国)が成立しました。

チェコは、古くから工業化が進み、当時世界第7位の生産量を持っていました。スロバキアは農業地帯で豊富な農産物を産出していました。

特に1935年にシェコダ社が開発・製作した35t軽戦車(10トン級)と、1938年にČKD社が制作した38t軽戦車(10トン級)は、訓練用のⅠ号戦車とⅡ号戦車が主力のドイツ軍では、実戦に使える戦車として第2次世界大戦始めに大活躍しました。数字の末尾のtはチェコ(ドイツ語でチェコを指す、Tschechischの頭文字)製であることを表しています。

35(t)軽戦車
LT vz 35 (チェコ名)

製造開始1935年

性能諸元
全長 4.90 m
車体長 4.90 m
全幅 2.06 m
全高 2.37 m
重量 10.5 t
懸架方式 リーフスプリング方式複式ボギー型
速度 34 km/h
行動距離 120 km
主砲 3.7 cm KwK34(t) (A-3 37.2mm)72発
副武装 7.92 mm MG37(t)重機関銃 ×2 1800発
装甲 砲塔
前面25 mm
側・後面15 mm
上面8 mm
車体
前面25 mm
側面上部15 mm
側面下部16 mm
後面16 mm
上・底面8 mm
エンジン スコダT-11/0
直列6気筒水冷ガソリン
120 馬力
乗員 4 名(Ltvz.35は3 名)

出典 ウィキペディア

 

 

38t 戦車(ドイツ名)  

LTvz.38(チェコ名)

製造開始1938年

全長 4.61 m
車体長 4.56 m
全幅 2.15 m
全高 2.26 m
重量 9.5 t
懸架方式 リーフスプリング方式ボギー型
速度 42 km/h(整地)
19 km/h(不整地)
行動距離 210 km
主砲 3.7cm KwK 38(t)
(Škoda A7 37.2mm L/47.8)
副武装 7.92mm MG37(t)重機関銃 ×2
装甲 砲塔・車体前面 50 mm
砲塔・車体側面 30 mm
エンジン プラガ EPA
4ストローク直列6気筒水冷ガソリン
125 馬力
乗員 4 名

出典ウィキペディア

第1次世界大戦から戦車を使用していたイギリスとフランスに対して、戦車の開発に後れを取っていたナチスドイツにとって、チェコ製の戦車は、喉から手が出るほど欲しい物でした。

なおドイツの主力戦車となるⅢ号戦車A型が量産されたのは、1939年からです。

Ⅲ号戦車

製造開始 1939年

全長 6.41 m
車体長 5.56 m
全幅 2.95 m
全高 2.51 m
重量 22.7 t
懸架方式 トーションバー方式(D/Bではリーフスプリング)
速度 40 km/h(整地)
19 km/h(不整地)
行動距離 155 km
主砲 A-F:46.5口径3.7 cm KwK 36(120発)
G-J:42口径5 cm KwK 38(99発)
L-M:60口径5 cm KwK 39(84発)
N:24口径7.5 cm KwK 37(56~64発)
副武装 7.92mm機関銃MG34 ×2
(3,750~4,400発)
装甲
砲塔
前面57 mm
側・後面30 mm
車体
前面50+20 mm
側面30 mm
後面50 mm
エンジン マイバッハ
HL108TR(初期型)
HL 120 TRM(量産型)
4ストロークV型12気筒ガソリン
初期型 250 馬力
量産型 300 馬力 (221kW)
乗員 5 名
(車長、砲手、装填手、操縦手、機銃手兼通信手)

出典 ウィキペディア

 

またチェコには戦車の他、大砲や銃器・自動車や鉄道車両を製造している会社があり、これらもドイツの軍備増強には重要な製品でした。

またスロバキアの農産物も、食糧不足に悩むドイツにとって、必要なものでした。

そのため1937年11月5日に総統官邸で行われた軍部との秘密会議において、ヒトラーはドイツの東方生存圏を広げるにあたってソ連からの脅威を防ぐと同時に、ドイツ国民を養う食糧を得るため、チェコスロバキア侵攻を示唆していました。(ホスバッハ覚書)

 

ヴェルサイユ条約の結果、北西部のズデーテン地方には350万人のドイツ系住民が残ることになりました。

1938年3月オーストリア併合の後、ヒトラーは次の目標をチェコのズデーテン地方に定めました。

 

ドイツが割譲を要求したズデーデン地方

出典  世界史の窓

4月24日、ヒトラーはズデーテン・ドイツ人民党のコンラート・ヘンラインを支援して、ズデーテン地方の自治権をチェコに要求しました。

チェコのベネシュ大統領は、英仏に助けを求めましたが、反対にヘンラインの要求を呑むように勧告されてしまいました。

5月21日、チェコ政府は予備役兵1万7千人の動員を発令して、国境の要塞線を強化してドイツ軍を迎え撃つ準備に入りました。

強気に出たチェコ政府に驚いたヒトラーは戦術を変更して、ズデーテン地方からドイツに避難するドイツ人の様子を、映画やラジオでチェコがドイツ人を迫害していると報道し、ドイツ国民の支持を集めました。

チェコに対しては、10月1日までにズデーテン地方の割譲を認めない場合、チェコ政府に対してドイツは武力行使をすると恫喝します。

チェコスロバキアはナチスドイツの勢力拡張を警戒し対抗策として、1924年にフランスと相互援助条約を結んでいました。ドイツがチェコに侵入した場合フランスもドイツと戦争状態になり、そうするとイギリスもドイツの勢力拡大を防ぐため参戦せざるを得なくなります。こうなると第1次世界大戦と同じように世界規模の大きな戦争となる可能性があります。

9月15日イギリスのチェンバレン首相はドイツのベルヒテスガーデンでヒトラーと会見し、何とかこの事態を収めようとしましたが、ヒトラーの強硬な態度のため失敗してしまいました。続いて9月22日にもチェンバレンはゴーデスベルクでヒトラーとの会談に臨みましたが、これも失敗に終わりました。

2回目の会談が決裂した翌9月23日、チェコは総動員令を発令してドイツとの臨戦態勢を敷きます。ドイツ側は9月28日までに、スデーテン地方からチェコスロバキア軍・警察・官吏を撤退させて、ズデーテン地方を割譲させるよう、最後通告を行いました。

これにより、ドイツとチェコスロバキアとの戦いは避けられないとの見通しになりました。

ミュンヘン会議

開戦ギリギリの9月28日午前10時、イタリアのムッソリーニはイギリスのチェンバレン首相・フランスのダラディエ首相・ドイツのヒトラーが集まって会談を行うよう提案しました。

ヒトラーはこの提案を受諾し、開戦の延期を表明しました。

9月29日ドイツのミュンヘンに4か国の首脳が集まり、会談が行われました。当事国のチェコスロバキア代表のヤン・マサリク駐英大使とヴォイチェフ・マストニー駐独大使は会議には参加できず隣室で待たされました。

会議は英・仏・独の3か国語に堪能なムッソリーニが司会を務め、通訳を交えず話し合った結果、30日午前1時30分に会議は終了し、ミュンヘン協定が締結されました。

内容はヒトラーが望んでいたスデーテン地方の割譲を認める代わりに、チェンバレンの主張通りヒトラーはこれ以後領土の拡張をしない、というものでした。

隣室で控えていたチェコのヤン・マサリク駐英大使とヴォイチェフ・マストニー駐独大使は、協定書の写しを見せられて泣いたと言われています。

ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。左からチェンバレンダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニチャーノ伊外相

出典ウィキペディア

ミュンヘン会談の翌日チェンバレンはフランスに無断でヒトラーと会談を行い、イギリスとドイツが戦わないという、英独共同宣言を行いました。

ミュンヘン会談後

ロンドンに帰国したチェンバレン首相は、ロンドン空港で戦争を回避し平和を守ったとして、ロンドン市民の大歓迎を受けます。

ロンドン空港で、ヒトラーの署名の入った英独共同宣言の書類を得意げに見せる、チェンバレン首相

出典 太平洋戦争史ブログ

フランスの帰国したダラディエ首相も市民の大歓迎を受けましたが、「なんて愚かな国民なのだ。」と、側近に嘆いたと言われています。

ヒトラーは「あんなものは何の価値もない、ただの紙切れにすぎない」と言って、初めから無視するつもりでした。

その言葉通り1939年3月15日、ヒトラーは何の抵抗を受けずチェコ全域を軍事占領して、さらにスロバキアを独立させドイツの保護国としました。

ミュンヘン協定を無視してチェコスロバキアを併合しても、イギリス・フランスは実力行使に出ずこれを容認します。

これによって、チェコスロバキアは地図から消えてしまいます。

4月17日にはイギリスのチェンバレン首相、4月20日にはアメリカのルーズベルト大統領からは、ヒトラーの行動を非難する声明と、平和の維持を訴える知らせが届きました。

4月28日、ヒトラーはベルリンでラジオでドイツ国民に向けて演説を行いました。

 

『私はドイツを支配していた混沌を克服し、秩序を回復し、国民経済のすべての分野で生産を飛躍的に高めた。

われわれすべての胸に突き刺さる七百万の失業者達を、一人残らず有意義な生産活動に組み入れることにも成功した。

私はドイツ民族を政治的に一つにしただけでなく、軍事的にも拡張して見せた。

さらに私はあのヴェルサイユ条約を一枚一枚反故にする努力を重ねてきた。あの四百四十八項目こそは、かって民族と人間に強いられた最も愚かしい屈辱である。

私は1919年にわれわれのもとから奪い去られた土地をふたたび帝国に取り戻し、不幸のどん底に打ちひしがれる何百万ものドイツ人同胞をふたたび故郷に連れ戻した。

私は千年の歴史を誇るドイツ民族の生存権をふたたび統一した。

しかも私はこうしたことすべてを一滴の血を流さず、わが国民にも他の国民にも戦争の苦しみを味わわすことなく、やりおおせたのである。

二十一年前の私はまだ名もなき労働者であり、名もなき兵士であった。

そんな私がこうしたことを自らの力でやってのけたのである。』

引用 セバスチャン・ハフナー著 「ヒトラーとは何か」68~69頁 草思社

 

まことにそのとおりであり、ヒトラーは政権獲得からわずか六年で貧困に落ち込んでいたドイツに栄光と誇りを取り戻しました。

ヒトラーに反対した人や、非難していた人達もこの実績の前には口を閉ざすしかありませんでした。

この成功に気を良くしたヒトラーは、ドイツと東プロイセンとの間にある「ポーランド回廊」の奪還に向けて準備を始めました。ヒトラーは強硬な手段に出ても、戦争を恐れるイギリス・フランス両国は、軍事介入しないと読んでいました。

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なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その2

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