なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その2

time 2019/02/01

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その2

前章に続いてナチスドイツの失業者対策を通じて、ヒトラーが一般労働者をどのようにして味方につけ、熱狂的な支持を受けることが出来たのか、の続きです。

前 ↓

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その1

住宅政策

大恐慌で発生した失業者の多くは、職を求めて大都市に集中して住宅難となりました。ヒトラー以前の政権では都市に公共住宅を建設していましたが、都市部では建設の費用がかさむため、目立つような効果は上げられませんでした。

そこでヒトラーは郊外に目を付け、郊外に労働者向けの住宅の開発・建設、するように支援しました。

ヒトラーは郊外に宅地を開発して、住宅を建設する労働者に対して住宅建設費の15%~20%払を頭金として払えば、国の金融機関から残りの建設費を借りられるようにしました。

当時は住宅ローンなど無かった時代なので、一大建設ブームが起こりました。またナチス政権が用意した宅地は原則300坪で、家庭菜園で野菜を作ることを奨励しました。

ドイツでは慢性的に食糧不足で、農産物の大部分を輸入に頼っていたため、外貨を減らすのを少しでも防ぐ目的もありました。住民にとっては食費の倹約にもなり、一家族の平均で年400マルク相当の食糧が栽培されました。

また自力で住宅を建てられない人には、大企業に対して雇用者のために住宅を用意することを義務付けました。労働者は企業に対して家賃を払い、一定額を払うとその住宅が譲渡される仕組みも作りました。

住宅を建設できない事業所は、雇用者のために近くの賃貸住宅を借り上げ、従業員に安く貸すことになっていました。

農業政策

下にドイツの伝統的な料理の写真を載せてみました。

ザワークラウトとヴルスト(ソーセージ)を中心としたドイツ料理

パンはライ麦を使用した黒パン

出典 ウィキペディア

農夫の朝食

小さく角切りにしたベーコン(あるいはソーセージ)と予め茹でたジャガイモをスライスしたものと、タマネギをこんがりと炒めて、最後に溶き卵で閉じたもの

出典 ウィキペディア

実はこの2つの写真が、ドイツの農業における大きな問題を表しています。

ドイツでパンと言えばライ麦を使用した黒いパンが代表的ですが、ドイツ(特に北方)では土地が痩せていて、小麦が十分育ちません。しかしライ麦は、小麦が育たないような痩せた土地でも、栽培することが出来ました。

さらに、ライ麦でも育たない土地でも、ジャガイモなら栽培できます。

ライ麦は寒冷地でも育ちますが、収穫率(1粒の種で何粒収穫できるか)が非常に低い(中世のドイツで3倍、化学肥料を用いたワイマール期でも8倍程度、ちなみに現代の日本のお米は180倍)ため、ひとたび不作となると深刻な食糧不足となります。それを防ぐためにも、ジャガイモが広く栽培されました。

冬になるとこの穀物も収穫できなくなるため、農家では豚を飼育し、夏に生まれた子豚を秋に森に放ち、ドングリを食べさせて十分太らせたところを、冬の初めに殺して塩漬け肉やハム、ソーセージ、ベーコン、ラードといった保存食品に加工して次の年の秋の終わりまで食いつなぐ(農作物が収穫できる春までは豚肉のみで食いつなぐ)という養豚システムが行われていました。

1929年の世界大恐慌が起きと、ドイツの外貨準備高が激減して、化学肥料の輸入が途絶えてしまいました。

そのため生産量が減り、更に農産物の大暴落が起こり収入減となった多くの農家が農業をやめて都市に職を求めて移動したため、失業者が増加しました。残った農家も生活のための借金に苦しみ土地を手放さざるを得ない状態になりました。

そのためヒトラーは政権を取るとすぐに穀物価格安定法を作り、穀物の最低価格を設定して、農産物の暴落を防ぎました。

多額の負債を背負った農家に対しては、世襲農場法という法律を作り、手を差し伸べました。

世襲農場法により一定の条件を満たす農家は借金のカタに農地を取り上げられなくなり、また大きな借金を背負っている場合は返済できる額まで引き下げられるものでした。

一定の条件とは

  • 7.5ヘクタール以上125ヘクタール以内の農地を経営していること(7.5ヘクタールは一家4人が生活できる最低限度の農地であり、125ヘクタール以上の農地を所有する大規模農家は対象から外されました)
  • 正当なドイツ人であること
  • 男子一人に農場を継がせること

等です。

この条件を満たせば、正当なドイツの農民として認められ、借金を抱えている農家は「債務償却銀行」に、毎年支払い可能な金額を振り込めば、残りの金額は「債務償却銀行」が立て替え払いしてくれるというものでした。

その代わり、この法律の適用を受けた農家は、今後土地の売買は禁止され、政府の農業政策に進んで協力する義務を負います。

1938年までにこの法律を利用した農家は、ドイツ全農地の38%に及びました。

また農家の人手不足を解消するために、ドイツ労働戦線の国家労働奉仕団を農家に派遣したり、大卒の若者を一年間農業年季奉仕(この証明書がなければ、職安から仕事の斡旋を受けられない)に出しました。農家の手伝いに出た若者たちの中には引き続き、農村で働く者も出て農業人口の減少にも役立ちました。

肥料不足を解消するために、農業大臣のリヒャルト・ヴァルター・ダレによって痩せた農地の改良を目指して有機農業を試みましたが、こちらは思ったほど食糧が増産できず、効果はありませんでした。

しかし、ナチスが始めた有機農業による農地を改良する試みは第2次世界大戦後も続き、2017年には改良された肥沃な土地により、農産物の生産量はフランス・オランダに続くEU地域第3位となり、農産物を輸出できるようになりました。

中小企業経営者の保護

ヒトラーは政権をとると、大規模な小売店の新たな出店を規制しました。新たに小売店を出店するときは、地域の店舗数、人口などを考慮して出店を許可するかどうか決めました。

これはデパートや大型ショッピングセンターなどの出店から、地元の商店街を守る働きがありました。

また官公庁が備品などを購入する時は、一定規模以下の企業に発注するよう決めました。これは大企業と官公庁との癒着を防ぐ目的もありました。

1929年の世界大恐慌後のドイツでは、銀行の取り付け騒ぎが起こり中小企業への貸し渋りが多発しました。

そのため中小企業では、仕入れや原材料の購入、製品が完成するまでや、商品が売れるまでの労働者への支払い等の運転資金に困り、倒産する会社が続発し、失業する者が増加しました。

そのため中小の企業経営者に対して信用保証制度を作り、少額の運転資金の貸し付けを行いました。

1934年3月に、ベルリン商工会議所・ベルリン手工業会議所・ベルリン独逸中央銀行集会所・ベルリン独逸産業組合連盟及びベルリン市の5団体が出資して、ベルリン保証協会が作られました。

この協会の目的は協会が保証人となって、銀行や信用金庫、信用組合から中小企業への融資をしやすくすることでした。

融資額は1口5千マルク、利率5.5%で一事業所につき2口の1万マルクまで借りることが出来ました。貸出期限は最長2ヵ年です。

利用目的は当面の運転資金に限られ、借金の返済や設備投資に使うことは禁じられていました。

審査は前出の5機関に加えて、ナチスの代表者、労働局の代表者を加えた7名の審査員によって決定されました。

これによって運転資金に必要な『つなぎ融資』を受けられやすくなり、倒産を防ぐことが出来るようになりました。

このような信用保証協会は、ベルリンの他クールマルク保証協会・ヘッセン保証協会・ライン保証協会の4協会が設立されました。

ヒトラーの税金革命

低所得者への大幅減税

1933年、ヒトラーは政権をとるとすぐに国家・地方合わせた税収の1割にもあたる大減税を行いました。

その主な内容は

  • 自動車税の減税
  • メイドを雇用した場合の所得税の減税
  • 農産物売上税の減税
  • 農地の土地税の減税
  • 住宅の土地税の減税
  • 防空施設などを作った場合の所得税の減税
  • 設備投資をした場合の事業税の減税
  • 建物の修理をした場合の事業税の減税
  • 卸売業の売上税の減税
  • 失業保険料の引き下げ
  • 家賃税の引き下げ

また労働者を守るためには

  • 労働者に対する救済金には税金をかけない
  • 低所得者の税金を軽減して、高所得者から多くとる「累進課税」の導入
  • 家族が多い物の税金を軽くする「扶養控除」の導入

また税金を納めやすくするために、労働者の給料から少しずつ天引きして納める「源泉徴収制度」を初めて導入しました。

このような減税を行ったことにより、国の税収が減ったかというと、

1933年、税収51億マルク

1934年、税収59億マルク

1935年、税収75億マルク

と増えていきました。これは失業者が減ったことにより、税金を納める人が増えたことに加えて、それまで失業していた人たちは、お金が入ると食べ物や衣類など当面必要なものを買うためにすぐお金を使い、国全体では消費が増え、お金が市中に出回り、景気が上向いたためです。

これに加えて、自動車税・住宅地の税金・農産物取引税・卸売りの売上税等の減税により商品が買いやすくなったこともあります。

大企業への増税

景気が上向いた1934年末、大企業に対して「配当制限法」という法律を作りました。

  • 企業に6%を超える剰余金が出た場合、6%を越える配当を禁止する。
  • 6%を超える剰余金は国営銀行に預けて、4年間は引き出し禁止。
  • 国営銀行に預けられた企業の剰余金は、貧困者救済資金・建設資金に充てられる。

更に1935年8月には、法人税が20%から30%に引き上げられました。

これにより各企業は税金を払うより、設備投資や建物の建て替えなどをした場合の事業税が減税されていたため、新たに工場を作ったり、既存の工場の設備を新しくしたりしました。

これにより建設業や生産設備を作る製造業なども活発になり、雇用も増えました。

ナチスのプロバガンダ

国民ラジオの販売

ナチスが政権をとるまでは、ナチ党の宣伝は新聞やポスターが主流でした。ヒトラーの演説は多くの人々を引き付けましたが、一人では全国を回ることが出来ず、ごく限られた人しか聞くことが出来ませんでした。そのため地方の党大会で演説を行う専用の弁士を育成したりしていました。

1933年3月14日、新たに「国民啓蒙・宣伝相」が設けられ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)で宣伝全国指導者を務めていたヨーゼフ・ゲッベルスが初代大臣に任命されました。国民啓蒙・宣伝省は帝国放送協会を国営化して、一般国民に向けてプロパガンダ放送を開始しました。

また今まで、1ヶ月2マルクだった視聴料を無料にします。

「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」と考えていたゲッベルズにとって大きな障害となったのは、それまでのラジオは非常に高価(200~400マルク)で一般に市民が手に入れることが出来ない品物だったことです。

そこで国内のラジオメーカー28社に対して、安価で販売できるラジオの開発を命じました。そこで出来上がったのが「国民ラジオ VE301W」です。

国民ラジオ VE301W(301はヒトラーが政権をとった1933年1月からつけられた)  出典ウィキペディア


国民ラジオ VE301の内部構造  出典ウィキペディア

ドイツ国民受信機 VE301Wの回路図  出典ウィキペディア

当時開発されたばかりの真空管の数をぎりぎりの3本まで絞った為、感度が低く外国からの放送は聞けませんでしたが、ドイツ国内のローカル放送局を聞くには十分な性能を持っていました。

こうした経緯を経て開発された最初の国民ラジオVE-301型は、1933年8月18日にベルリン国際無線展示会で紹介され、展示初日だけで10万台が販売されました。キャビネットの素材にベークライトを使用し、内部構造を簡略化することなどによりコストの圧縮に成功したVE-301型は、76マルク という比較的手頃な価格で入手可能なでした。

1938年には電源トランスを無くし、真空管を2本にした簡易型ラジオDKE38が35マルクで売り出され、1939年にはラジオを所有する世帯数が全体の70%までになりました。

国民ラジオ DKE38  出典ウィキペディア

ナチス政権は国民にラジオを聴かせるために「国民ラジオの時間」を作り、ウィークデーの決まった時間になると、ドイツ中の職場や喫茶店、酒場等では一斉に休憩をとり、ラジオを聴くように義務付けました。

さらに、公園や街頭に設置されたスピーカーからも、放送が流されました。

ラジオからはヒトラーの演説の他、失業者の減少、アウトバーンの建設状況、各地の経済状況が上向いている状態等が流され、ヒトラーの新しい政策により、ドイツが不況から脱出しつつある現状が流されました。

人々はこれを聞き、経済が上向いていることを知り、それまで万一のために貯めておいたお金を使い始めました。こうして消費が伸び、さらに経済が発展していきます。

ラジオではナチスドイツのプロパガンダ放送だけではなく、ベルリンフィルの演奏なども流されました。

テープレコーダーの発明

1939年製造のK4型マグネトフォン 出典ウィキペディア

テープレコーダーのもとになる磁気録音の技術は、デンマークのヴォルデマール・ポールセンが、1988年に鋼線を利用した磁気録音装置ワイヤー・レコーダーを完成させたのが初めでした。

1928年ドイツ人技術者フリッツ・フロイメルがプラッチックのテープに鉄粉を塗る方法を発明して、テープレコーダーの原型を作り上げました。

1933年電機メーカーAEGの技術者であるエドゥアルト・シュラーにより、磁気ヘッドが開発されました。

AEGは駆動機構などにさらなる改善を加え、機構部、アンプ部、スピーカー部をそれぞれ筐体に収め、システムとしてまとめた「マグネトフォン K1 型」を1935年のベルリンのドイツ・ラジオ展に出品しました。

1939年までにはドイツ国内のほとんどの放送局に導入され、その後も改良を加え(交流バイアス方式の導入)音質の向上が図られました。

テープレコーダーは、それまでのSPレコード盤(再生時間5分)に比べてより長時間の録音・再生が可能であったため、ヒトラーの長大な演説の録音・放送に利用され、ナチスのプロバガンダに大いに利用されました。


第二次世界大戦中にドイツのラジオ局で使われていたマグネトフォン

出典ウィキペディア

第2次世界大戦中、録音されたヒトラーの音声を聞いた連合国側は、音声が生中継されたものか録音されたものか判断できなかったため、ヒトラーの居場所を撹乱するのに役に立ったそうです。

オリンピックとナチス党大会

第11回ベルリン・オリンピック

1936年8月1日から8月16日にかけて、ベルリンで第11回夏季オリンピックが開催されました。

第11回ベルリン夏季オリンピックのポスター 

出典 日本オリンピック委員会(JOC)

ベルリンでのオリンピック開催は、1931年フランスのパリで行われた開催地の投票で、ベルリンがスペインのバルセロナに43対16で勝って1936年のベルリン・オリンピック開催が決まりました。

1933年に政権をとったヒトラーは、初めオリンピックの開催には消極的でした。それは、近代オリンピックの父と言われるクーベルタンの定めたオリンピック憲章で、人種や宗教・性別・政治などによる差別はオリンピック精神に反するとされていたからです。

現にユダヤ人の多いアメリカやイギリスでは、ナチス政権によるユダヤ人迫害に反対して、オリンピックへの選手派遣をボイコットす動きがありました。

しかし、宣伝大臣ゲッベルズ達による

「ドイツの国力やアーリア人の優秀性を、世界に示す絶好の機会である」

との説得により、オリンピックの開催に乗り気になりました。

一旦開催すると決めたら、徹底的にやるのがナチス流です。

1936年のベルリンオリンピック時のスタジアム

出典ウィキペディア

メイン会場は10万人収容することのできるスタジアムを、新たに作りました。しかもこのスタジアムはコンクリートではなく、すべて天然石で作られています。

このスタジアムは、2006年サッカーのワールドカップドイツ会場として大幅に改装されました。屋根が付けられたのも、この時です。

2006年ワールドカップドイツ大会のため、屋根が付けられたスタジアム

出典 ウィキペディア

ベルリンオリンピックで使われた巨大なテレビカメラと、暗いテレビ室でテレビ観戦する人たち 

出典 リュウマの遺言

オリンピック初のテレビ中継も行われました。ドイツで本格的なテレビ放送が始まったのはオリンピック前年の1935年3月22日で、まだテレビ受信機が普及していませんでした。そのためテレビホールという施設を作り、暗くした部屋で、大勢でテレビを見るようにしました。

聖火リレー 出典ウィキペディア

古代オリンピック発祥の地アテネで採火した聖火を開催地までリレーで運ぶ、聖火リレーもこの大会で初めて行われました。

これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるという、ヒトラーの思想に沿うものでした。

ベルリンオリンピックの記録映画、オリンピア(民族の祭典と美の祭典)と撮影中の女流監督レニ・リーフェンシュタール 出典 ウィキペディア

「ナチス党のお抱え監督」と呼ばれた女流映画監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画である『オリンピア』が撮影された。この作品は1938年のヴェネツィア国際映画祭で金賞を獲得する等各方面で絶賛されて、不朽の名作とされている。本作の成功により、IOCは以後のオリンピック大会において、組織委員会に記録映画の制作を義務づけることになった。

引用ウィキペディア

オリンピック開催に当たって、大会期間中にユダヤ人に対する迫害政策を一時中止しすることや、有色人種に対する差別を控えることを決め、それまで選手派遣に難色を記していたアメリカやイギリスも参加を表明しました。

大会期間中は、ユダヤ人を迫害するポスターや、ユダヤ人たち入れ禁止などの看板も全て取り外され、「ユダヤ人と思われる観光客に対しても親切にしよう」との注意もされていました。

選手村の食事は、アメリカの選手にはビーフステーキにアイスクリーム、フランスには極上のワイン、日本の選手団に対しては白米のご飯に漬物といったように細かい心配りを見せました。

寝具についてもアメリカ人にはマットレス、スイス・オーストリア人には羽毛布団、日本人には綿の入った布団という具合に、それぞれの国にあったものが使用されました。

報道陣に対しては古いビルを改築して、大規模なプレスセンターが作られ、300席以上の机・電話ボックス・それぞれの国に対応したタイプライターとタイピスト・現像室が設けられていました。

そこにはオリンピック施設等の資料の他、ドイツ各地法の観光案内なども置かれていました。

ヒトラーの目論見通り、1929年の大不況からいつ早く立ち直り、発展していくドイツの様子が、全世界に報道されていきました。

1936年オリンピックベルリン大会で活躍したアメリカの黒人選手の映画です。  ↓

映画「栄光のランナー/1936ベルリン」 1936年開催のベルリンオリンピックで金メダル4個の偉業を成し遂げた、アメリカの黒人ランナーの物語です。

ナチス党大会

ヒトラーが政権をとった1933年から、毎年9月の初めの1週間ニュルンベルクでナチス党大会が行われるようになりました。

それまでの党大会は、ナチス党員たちを相手にヒトラーが演説するという堅苦しく、熱心な支持者以外の一般の人たちには無縁なものでした。

大会の運営はナチス党の帝国組織指導部が担い、ドイツ労働戦線指導者のロベルト・ライが仕切りました。

ニュルンベルクには建設家シュペーアにより、いろいろな施設が作られました。

 

出典 heibay.exblog.jp

サッカー場では、2006年のワールドカップで日本対クロアチア戦が行われました。4万7千人収容。

となりの四角い敷地がメイン会場のツェッペリン広場。グランドで20万人、周囲の観客席で7万人収容できます。

現在のツェッペルン広場に当時の写真を重ねてみた。旗が立っている四角い建物はトイレ。

出典 Johann”Gottlieb”223

現在とナチス党大会の時のルイドボルド・アレーナ

出典 Johann”Gottlieb”223

大会のプログラムは

1日目 ヒトラー到着の日。2日目ナチス党会議の日。3日目労働奉仕団の日。4日目ナチス党政治組織指導者の日。5日目ヒトラー・ユーゲント。6日目突撃隊と親衛隊。7日目国防軍。

と定められ、各組織には決まった集会場が指定され、それぞれの組織が独自に集会を行いました。

集会では常に「総統」の登場でクライマックスを迎えるように企画され、彼の姿をじかに見て、直接彼の声を聞いたことが大きな感動をもたらし、さらなる忠誠心を盛り上げるようになりました。

大会最初の街頭パレードは、今まで突撃隊や親衛隊の他、ドイツ各地の民族衣装を着た農民や少女たちも加わりました。軍人中心の堅苦しさとは無縁の一般人や少女たちによるパレードが加わったことにより、警戒心は薄れ、ナチ党以外の人たちも会場に足を運びやすくなりました。

1937年以降には4日目に「共同体の日」が挿入されヒトラー青年団とドイツ女子同盟による、マスゲームやダンスなどが披露されました。

ドイツ各地の民族衣装を着けた少女たちの行進

出典 映画「意志の勝利」

集会に参加する人たちには、行き帰りの旅費や宿泊代、食費などが無料となり、更にいくばくかの小遣いも支払われました。

参加者は自分の集会に参加する日以外は、他の集会やパレードを見物したり、歓喜力行団が行うスポーツの試合や映画会・演劇・歌唱会・花火大会・ダンスホール・特設のビアガーデンなどに参加し、大いに楽しみました。

無料で行われるこれらの催し物は集会に参加する人たちだけでなく、集会を見に来た人たちにも解放され、各地から集まった人々は「民族共同体」の意識を埋め込まれていったのです。


映画「意志の勝利」は1934年に行われた第6回ナチ党全国大会の模様を、レニ・リーフェンシュタール監督が撮影したドキュメンタリー映画です。

この映画が公開された当時は、ドキュメンタリ映画の傑作として、1935年のヴェネツィア・ビエンナーレでは金メダル、1937年のパリ万博でグランプリを獲得していいます。

第2次世界大戦後のドイツでは、ヒトラーを礼賛するプロパガンダ映画として、ドイツ国内での一般上映は禁止されています。

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上に述べた「意志の勝利」の他、ベルリンオリンピックの「民族の祭典」「美の祭典」などヒトラーに関する10枚のDVDを収めたセットです。

特に圧巻なのは「ナチス絶滅収容所」「ナチス強制収容所」の2枚で、終戦前のドイツ領内に進軍したアメリカ軍によって解放された直後の、強制収容所の様子を映した記録映画です。これを見ると、ホロコーストを描いたどの映画も、実際の収容所の残酷さを描き切っていないと、言えます。

 ザール編入

ドイツ南部のザール地方はヨーロッパ屈指のザール炭田があり、豊かな工業地帯でした。第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約でザール地方は15年間国際連盟の管理下に置かれ、フランスが統治を委任されていました。

その15年の期限が切れる1935年1月13日に住民投票(投票率98%)が行われた結果、ドイツ帰属が90.73%、フランス帰属が0.4%、現状維持が8.86%となった為、1935年1月17日にザール地方のドイツ復帰が国際連盟によって認められました。

ベルサイユ協定で失われたドイツの領土

出典 gakuen.gifu-net

この後ヒトラーによって、1935年3月16日に徴兵制施行が宣言され、ヴェルサイユ条約での軍備制限条約が破棄され、再び編成された軍隊をバックに、次々と失われた領土を取り返し、さらに人気を上げていきました。

公共事業資金の回収

1933年から始まったナチスドイツの失業者対策は急激な成果を見せ、ベルリンオリンピックが開催された1936年には1929年世界大恐慌直前の状態まで復活しました。

それに加えて1635年の再軍備開始に従って、軍需産業が大幅に発展してさらに失業者が減り、経済が発展しました。

そのため、1933年の税収が51億マルクだったのが、1934年には59億マルク、1935年75億マルクと伸びていきました。

これは大規模な公共事業により失業者が減り、税金を納める人が増え、さらに大幅減税を行ったため、消費に回すお金が増え、多くの企業の業績が向上して事業税収入も増加したためです。

  1. 減税する
  2. 国民が潤う
  3. 景気が良くなる
  4. 税金を払う人が増える
  5. 税収が増える

となり景気循環がうまく行きました。

財形貯蓄の奨励

しかしこれだけでは、今まで発行した雇用手形やメフォ手形の償却には不足しています。

そのため政府は国民に対して「貯蓄は労働とパンをもたらす。浪費は国家建設のサボタージュ」と宣伝して、さらなる経済発展のために貯蓄することを勧めました。

例えば今でいう「財形貯蓄」に似た制度を取り入れました。

日給の人は1日1マルク、週休の人は6マルク、月給の人は26マルクを国が作った共済に貯蓄すると、利子には税金が掛からず、積み立てたお金は所得税の対象から外されました。

そのため定められた期間は引き出せませんでしたが、加入者は400万人以上に達して1939年末には総貯蓄額が193億マルクとなり、これで発行した政府公債を買い支えました。

企業に対しては、6%を超える利益をあげた場合は特別公債を購入することが義務づけられました。

このようにして、政府が失業者対策で行った莫大な資金は、再び政府に回収されていきました。

しかし、その裏には「軍事大国」を狙うヒトラーの思惑がありました。

1933年2月1日、ヒトラーは4年以内に「経済再建と失業問題の解決」を実現する「二つの偉大な四カ年計画によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表しました(第一次四カ年計画)。

その反面、ヒトラーは2月8日の閣議で「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、何時でも何処でも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と述べ、経済政策も軍事に従属させる意思を示していました。

例えばアウトバーンの建設では、将来航空機の離発着を想定して舗装面の厚さを75㎝(普通は30㎝前後)にしました。

第2次世界大戦では、戦闘機をトンネルや近くの森の中に隠し、滑走路として使用されました。

アウトバーン脇の森林に隠された軍用機

当時の映像

これは戦後の東西冷戦中にも続き、アウトバーンにはNATO軍の非常用滑走路としての設備を備えている場所があります。

 

緊急離着陸場の境目、中央分離帯は固定部と可動部にわかれている。 

出典ウィキペディア

上空から見たエプロン(駐機場)地区。普段は駐車場として使用

出典ウィキペディア

 

着陸後、誘導車両に追及するC-130輸送機

出典ウィキペディア

 

道路上にて離陸態勢をとるA-10攻撃機

出典ウィキペディア

次は、軍事力をもとに、ヴェルサイユ条約で失われた領地を取り戻した、ヒトラーの活躍を書いていきます。

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その3(前編)

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