第2次世界大戦末期、ドイツ国内に連合国軍が侵攻しても、ドイツ国民はヒトラーに対して全国的な反乱を起こしませんでした。なぜヒトラーはそこまで国民に信頼されていたか。そのわけを探ってみました。
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亀仙人2国民との約束を果たしたヒトラー
ヒトラー首相就任時のドイツ
1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街の証券取引所での株価大暴落に端を発した世界大恐慌は、ハイパーインフレから復興しつつあったドイツに大打撃を与えました。
1923年ドイツはそれまで1ドル=4.2マルクだった状態から11月には1ドル=4兆2千億マルクまで貨幣価値が下がり、空前のハイパーインフレに見舞われていました。
1923年10月15日、ヒャルマル・シャハトドイツ帝国銀行総裁(後述)により、レンテンマルク導入が発表されたことでインフレーションはほぼ停止し、物価も安定しました(レンテンマルクの奇跡)。
ドイツ経済が安定したことにより、第1次世界大戦で英・仏などの武器輸出で潤っていたアメリカ経済界から、多額の投資資金がドイツに流れ込み、ミニバブル状態になっていました。
ところがニューヨークの株価大暴落の始まる世界大恐慌が起こり、アメリカの投資資金が一斉にドイツから引き上げられ、国内第2位のダナート銀行が倒産し深刻な金融危機を招き、大不況に陥りました。
ヒトラーが首相に就任する1年前の1932年2月には、登録失業者(職安=労働公署に登録されたもの)が557万人、非登録失業者(職安に届けなかったり、社会福祉事務所の援助を申請しなかった者)を加えた推計が778万人に達し、失業率が全労働者数の40%に達していました。
出典 池田信夫 blog
1933年1月30日、ヒトラー内閣誕生後の2月10日の演説で
「ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ、しかる後、我々に審判を下せ!」と訴え、更にヒトラーは「ドイツは今後、四年間に失業者が600万人から100万人に減少するであろう。」と約束しました。
1929年の世界恐慌から10年後1938年の各国の失業者数は
イギリス 135万人(最大時300万人)
アメリカ 783万人(最大時1200万人)
ドイツ 43万人(最大時600万人)
となり、見事公約を果たしました。
また、ヒトラーが政権をとる以前の1932年に比べて、1936年には国民総生産が50%増加し、国民所得が42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%増加し、ドイツはいち早く大恐慌後の不況から抜け出しました。
戦後初期の西ドイツで行われた、1951年の住民意識調査によると
『20世紀の中でドイツが最もうまくいった時期はいつですか』
の問いに、1933年ヒトラーが首相になり、1939年9月にドイツがポーランドに進攻するまでの期間が一番良かったと答えた人が40%に達していました。これは帝政期の45%に次ぐ高さでした。最もその後の第2次世界大戦中がよかったと答えた人はたったの2%でした。
第1次4カ年計画
ヒトラー政権成立の直後、1933年2月1日ヒトラーはラジオ放送で「第1次4カ年計画」を発表しました。その骨子は
- 公共事業による失業問題を解消
- 価格統制をしてインフレを抑制
- 疲弊した農民、中小の手工業者を救済
- ユダヤ人や戦争利得者の利益を国民に分配
- ドイツの経済界を再編成
というものでした。
経済の魔術師 ヒャルマル・シャハト
公共事業を起こすにしても、当時のドイツは大不況のど真ん中であり、必要な資金がありませんでした。
ヒトラーは第1次4ヵ年計画を実行するのにあたって、1933年3月16日に元帝国銀行総裁のヒャルマル・シャハトを再び帝国銀行総裁に任命して、必要な資金を捻出させました。
ヒャルマル・シャハト(1877年1月22日 – 1970年6月3日)
出典ウィキペディア
ドイツの経済学者、政治家、銀行家。ライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)総裁(在任:1923年 ~1930年、1933年 ~1939年)、ドイツ経済相(在任:1934年 ~1937年)。
レンテンマルクの奇跡
第1次世界大戦後ドイツは、ヴェルサイユ条約でGNPの2.5倍に相当する1320億金マルク(約66億ドル、純金47,256トン相当)を課せられました。この賠償金は2010年10月3日までに90%が支払わられ、残りの10%は条約締結100年後の2020年までに請求がなければ無効になる予定です。
ドイツは1921年8月に国債の発行などにより、10億金マルクを支払いましたが、1922年5月期の支払いが困難となりました。
1923年1月にはフランスのポワンカレ右派内閣は賠償の不履行を理由にベルギーとともにドイツに出兵し、ルール占領を強行しました。
ルール地方の占領に反発したドイツは労働者にストライキを呼びかけ、炭坑や工場、鉄道、行政は全面的にストップしました。このストライキに参加した労働者には、ドイツ政府から給料が支払われました。
この給料の支払と税収の減少でドイツの財政は破綻し、生産が急減した状況で支払いのため紙幣(パピエルマルク)が大量に発行された結果、ドイツ経済はハイパーインフレに襲われることになりました。
1923年10月15日、ヒャルマル・シャハト・ドイツライヒ ライヒ通貨委員主導により、国内の土地に対して設定した地代請求権を本にしたレンテンマルク導入が発表され、1レンテンマルクが1兆パピエルマルクと交換されることで、ドイツのハイパーインフレは収まりました。
これをレンテンマルクの奇跡と言います。
これによりヒャルマル・シャハトは経済の専門家として、名声を高め、この功績で1923年12月22日、ドイツ帝国銀行総裁に任命されました。
ところが1929年の世界大恐慌後のドイツで、ルドルフ・ヒルファーディング蔵相と大蔵次官ヨハネス・ポーピッツは外債を発行しようとしました。それに対して、金の海外流失を恐れたシャハトは増税によって賄おうとの意見を出しましたが、議会の反対にあって否決されました。
またヒンデンブルク大統領とも、ヴェルサイユ条約の賠償金の支払いに対して意見が合わず、1930年3月7日帝国銀行総裁を辞任しました。
シャハトが帝国銀行を辞任したのち、ブリューゲン内閣が成立します。ドイツ首相ブリューニングは、支出の削減と増税によって乗り切ろうとして、失業保険の支給を打ち切り、公務員の給料を引き下げ、所得税・消費税増税の緊急策を打ち出しました。
しかし、これは租税収入の激減をもたらし、自治体財政が崩壊し銀行の債権が焦げ付き、ブリューニングの緊縮政策は、ドイツ経済をさらに悪化させました。
1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達し、ピークになりました。産業総失業者割合は40%を超え、ブリューゲン内閣が崩壊、5月には新たにパーペン内閣が成立しました。
パーペン政権では、新規雇用を行った企業には一人につき年400マルクの租税証券を公布することで雇用の増大を計り、ブリューニング内閣時代の公共事業計画を拡大し、総3億マルクに及ぶ公共事業計画(パーペン計画)を開始しました。これによりドイツ経済は底を打ち、上昇に転じ始めます。
この頃シャハトは本格的にナチ党に接近し、自分の知り合いである企業家や銀行家をヒトラーに紹介して、ナチ党の活動資金確保に尽力しました。
1932年11月29日には、財界人との連名で、ヒンデンブルク大統領に対し、ヒトラーを首相にするよう要請する書簡を送りました。
しかし、ヒンデンブルク大統領はこれを無視してシュライヒャーを首相に任命しました。シュライヒャーはナチ党左派と計り、ヒトラーを副首相に任命して政権を固めようとしましたが、ヒトラーはあくまでも首相の座を狙い、元首相のパーペンと協力してシュライヒャーを失脚させ、1933年1月30日、自ら首相になりヒトラー内閣を成立させました。
ヒトラー内閣ではナチ党から内務大臣としてヴィルヘルム・フリック、無任所大臣としてゲーリングが入閣しただけで、後の人事は副首相のパーペンが取り仕切っていました。
ヒトラー内閣成立直後の2月2日、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、国会を大統領令により解散させ、3月5日に国会議員選挙を行うことに決めました。
ヒトラー内閣成立後に行われた国会議員選挙の1933年2月20日、ヒトラーはゲーリングの執務室でシャハトを含めた実業界首脳25名を招集して、マルクス主義の根絶と再軍備を約し、代わりとしてナチ党への献金を依頼しました。この会談でナチ党は300万マルクの献金を受け取りました。
3月5日の総選挙で圧倒的な得票を得たヒトラーは、3月16日シャハトを再び帝国銀行総裁に任命しました。さらに、3月20日の全権委任法で独裁権を握ったヒトラーは、1634年8月2日に経済相、1935年5月11日には「戦争経済全権」にも任じられ、シャハトはナチス党政権前期に当たって、ドイツ経済の実権を握ることになります。
雇用創出策の財源
何もない所から資金を生み出す2つの手形
ヒトラーが政権を握った1933年当時、ドイツ経済はどん底の状態であり、公共事業や軍備増強をしたくても、政府には紙幣を発行する裏付けとなる十分な金(きん)がありませんでした。と言って、やみくもに国債を発行すると1923年のハイパーインフレの二の舞いになってしまいます。
そこでシャハトは、雇用創出手形(労働手形)と、メフォ手形という2つの手形を発行して、必要な資金を捻出しました。
雇用創出手形
公共事業を受けようとする企業がドイツ公共事業会社(Deutsche
Gesellschaft für öffentliche Arbeiten, zit.Öffa)が引き受けることと公共事業の事業主(ドイツ国鉄・ドイツ郵便・地方公共団体など)の裏書を添えて雇用創出手形を振り出し、市中銀行などでこれを割り引いて(現金化)もらうことで事業資金を捻出して事業を行うことが出来る。手形の期限が来ればドイツ帝国銀行が受取人に代わって、手形を決済します。
手形を決済する期限は3か月ですが、支払いの都合で最大5年まで延長することが出来ました。つまりドイツ政府は公共事業の事業費を、最大5年後までに支払えばよいことになり、手持ちの資金がなくとも、事業を行うことが出来ます。
手形の最高発行額は各企業の労働者の数によって決められたため、より多くの公共事業を受けるためには、より多くの労働者を雇用しなければならないため、雇用が促進されることになります。
メフォ手形
1933年4月4日、政府はルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相に対し、「国防軍の再編成に必要な資金を、その源泉を顧慮することなく、意図される措置が国の内外の世論によっていかなる点も見破られることがない規模と形態において準備し、提供する」よう指示を出しました。
帝国銀行総裁のシャハトも、1923年1月のフランスとベルギーによるルール地方占領に対抗するためには、外国から侮れられない程度の軍事力は必要であると考えており、軍需産業による雇用増加も期待できるとして、賛成しました。
1933年8月15日、シャハトの呼びかけで、クルップ、ラインメタル、シーメンス、グーテホフヌンクの4企業がそれぞれ25万ライヒスマルクを拠出し、有限会社・冶金研究協会(ドイツ語: Metallurgische Forschungsgesellschaft m.b.H.、略称:MEFO=メフォ)が創立しました。
この仕組みは、国防省からの受注を行った企業が手形を振り出し、冶金研究協会(メフォ)が引受人となり、帝国銀行が再割引を保証し、ドイツ政府が支払義務を負うもので、仕組みは雇用創出手形と同じで最終的には、ドイツ政府が決済を行うものでした。
ただこちらは、ナチスドイツの再軍備に対する費用が年々増大し、最後には政府が払いきれなくなりました。シャハトの後を継いだ、第2次4ヵ年計画のゲーリングは領土拡大による政府歳入の増大を狙い、1936年のラインラント進駐、1938年オーストリア併合、1939年チェコスロバキア併合と進み、ついには1939年9月1日ドイツ軍がポーランドに進攻して、第2次世界大戦が勃発してしまいました。
ヒトラーの失業者対策
雇用創出政策の展開
ヒトラーの失業対策で1番に上げられるのが、アウトバーン(高速道路)の建設です。
アウトバーンの建設はヒトラー以前の1921年にベルリンとバンセーを結ぶ高速道路「アーバス」が作られ、1928年から1932年にかけてハフラバ(ハンブルク=フランクフルト・アム=バーゼル間自動車高速道路建設協会、de:HaFraBa)によってケルン=ボンの間に自動車専用道路が完成しました。「アウトバーン」の名前はこの時初めて使用されました。
しかし、アーバスは9km、ケルン=ボン間は35kmでしかありませんでした。
1933年5月1日に行われた「国民労働記念日」の演説でヒトラーは全長1万4000kmに及ぶ「帝国アウトバーン計画」を発表しました。
ドイツ帝国銀行総裁のシャハトにより初年度だけで、20億マルクの公共事業費のめどがつき、1933年6月7日アウトバーン設立法が出来6月30日にはドイツ国有鉄道の子会社として帝国アウトバーン会社(de:Reichsautobahn)が設立されました。それまでの公共事業用の費用は3億マルク程度だたたので、思い切った金額を投入しました。
9月23日の起工式にはヒトラー自ら鍬入れ式を行い、アントバーン建設が開始されました。
1933年9月23日、アウトバーンの起工式で鍬入れを行うヒトラー。出典ウィキペディア
アウトバーン建設
1933年の帝国地方会議でヒトラーは
「我々のなすべき議題は、失業対策、失業対策、そしてまた失業対策だ。失業対策が成功すれは、我々は権威を獲得するだろう」
と述べ、失業者対策を第1の政策として実行し、それに成功したことで国民の信頼を得ることが出来ました。
アウトバーンの建設(1933年9月23日)
上の写真はアウトバーンの建設現場ですが、土砂を運ぶ簡易鉄道の他にはブルドーザーやパワーシャベルのような大型土木機械が見えません。
これは、できるだけ機械化を排して人力での施工を多くすることで、多くの失業者を雇用するためです。
このため、人件費比率は46%にもなりました。
また雇用する場合は、家族の居る中高年の労働者を優先的に採用しました。これは一家の大黒柱の収入が安定すれば、生活が安定し、さらに収入が増えることで食料や衣類などが今まで以上に購入できるようになり、社会全体の金回りが改善され、他の産業も活発になるからです。
今の日本では公共事業費の大部分が企業の懐に入り、内部留保などの貯蓄に回り、いくら公共事業を行っても社会全体にお金が回らず景気が上昇しないのとは、大違いです。
アウトバーン建設が開始された1933年から1842年の9年間で4800kmが建設され3900kmが完成しました。
日本で高速道路建設が始まった1963年から、55年後の2018年で総延長1万2000kmが完成したスピードと比べると、いかにハイペースで建設されたか分かります。
アウトバーン建設に参加した労働者は、1933年末には1000人以下でしたが、1938年には12万人となり、それ以外にも接続する国道建設や付帯施設にも10万人の労働者が動員されました。
では若い人たちはどうなったかというと、ヒトラーは国家労働奉仕団(Reichsarbeitsdienst、略称:RAD)という組織を作り、アウトバーンなどの道路建設、運河建設、農地の開拓などの仕事に就きました。
国家労働奉仕団 銃の代わりにシャベルを持って行進
映画 「意志の勝利」より
国家労働奉仕団は準軍事組織とされ、各地の労働現場近くで集団生活をしました。宿舎や食事、制服などは支給されましたが、賃金はなく小使い程度のお金しかもらえませんでした。しかし彼らはヒトラーの呼びかけに応じて、新しいドイツ帝国建設のために進んで参加しました。
この制度に年平均40万人の若者が参加したことにより、その分失業者の数が減りました。
アウトバーン建設の経過は、宣伝相のゲッベルズによってラジオなどで逐一国民に知らされ、「発展する新生ドイツ」の象徴として宣伝され、国民意識の高揚に利用されました。
自動車政策
1885年、ドイツでカール・ベンツが世界初のガソリンエンジン(エンジンはダイムラーとマイバッハが開発)で動く自動車を製造しました。
ダイムラーとマイバッハが開発した4ストロークエンジン
ベンツ・パテント・モートルヴァーゲン(1885年)
ヒトラーが政権をとった当時、ドイツの自動車メーカーは、裕福な顧客のための高級車を生産しており、高価なため一般大衆が手にできるものではありませんでした。
1908年9月27日、アメリカでヘンリー・フォードがフォード・モデルT型の大量生産を開始して850ドルで売り出しました。
更にベルトコンベアによる流れ作業方式をはじめ、近代化されたマス・プロダクション手法を生産の全面に適用してコストダウンを図り、1925年には10台290ドルまで下がり一般大衆(当時フォードで働いていた工員の年収は1000ドル前後)でも買えるようになりました。
1924年、フォード車生産累計1000万台達成時の記念写真。ヘンリー・フォードの両側に、1896年の最初のガソリンエンジン試作車と、1000万台記念のモデルTが並ぶ。
出典ウィキペディア
1927年でフォード・モデルT型は生産終了となりましたが、総生産台数は1500万7033台となり単一モデルの総生産数として歴代2位の数です。ちなみに第1位はフォルクスワーゲン・モデル1の2152万9464台です。
1933年2月11日、ベルリンで開かれたモーターショーの開会式でヒトラーはこう演説しました。
「これからの国家の評価は鉄道ではなく、高速道路の長さで決まる。
自動車が金持ちの階級のものである限り、それは国民を貧富の二階級に分ける道具にしかならない。
国家を真に支えている多くの国民大衆のための自動車であってこそ文明の利器であり素晴らしい生活を約束してくれる。
我々は今こそ『国民のための車』を持つべきである!」
これに従ってフォード・モデルT型の様な大衆車を製造する計画が立ち上がりました。また1933年4月には自動車税を廃止しました。
これにより自動車の販売台数は、アウトバーン建設開始時の1933年の7万台から1936年には21万台に伸び、自動車産業に従事する労働者の数も増加しました。
ドイツ再軍備宣言
1935年3月16日、ヒトラーは政権は、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し徴兵制施行を行い、ドイツの再軍備を宣言しました。
それまでドイツはヴェルサイユ条約により、兵力は10万人に限定されていましたが、ヒトラーはこの兵士全員に下士官以上の教育を行い、すぐ部隊を率いることができるようにしていました。
そして徴兵制施行までに奉仕活動に参加するよう呼びかけ、成年男子に対して軍隊並みの規律で集団生活を行っていました。
このような下地があった為、短期間で優秀な軍隊を作り上げることが出来ました。
再軍備の際に決定された平時陸軍の規模は12軍団36個師団で50万人規模の兵が徴用され、その後は毎年100万人程度の若者が入隊し、その分失業者の数が減りました。
また兵器産業が復興して、その分新たな雇用が生まれます。
ナチスの女性政策
第1次世界大戦でドイツは多くの死傷者を出し人口が激減したうえ、1929年の大恐慌後には結婚する人数も減り、少子化が進み人口減少が進みました。
1933年6月1日、ナチス政権は女性に結婚して子供を産み、出生率を上げるために、「結婚資金貸付法」を制定しました。
これは結婚したくてもお金のない若い人に対して、1000マルク(日本円にして200万円相当)を無利子で貸し付けるものでした。返済は月10マルク(平均的労働者の日給2日分)を8年にかけて返せばよく、さらに子供を1人産むたびに返済額の25%が免除され、4人産めば全額免除となります。
また4人以上子供を産んだ母親には、補助金が支給され、「母親十字章」が授与されました。
またこの1000マルクは現金ではなく、「需要喚起券」という証書で支払われ、特定の商店で結婚に必要な家財道具と引き換えることが出来ました。
これにより1933年には51万件だった結婚数が、1934年には75万件に延び、出生率20%増加しました。
宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス一家。ゲッベルスの妻マクダ・ゲッベルスは7人の子を育てナチズムにおける理想の女性像として喧伝された。
出典ウィキペディア
5人以上8人未満の子を生んだ母親に授与される二級母親十字章。
出典ウィキペディア
この政策は出生率をあげるだけではなく、職に就いている女性を離職させることにより、失業者に新たな雇用先を生み出しました。また、新生活に必要な家具などを製作する産業も活性化します。
また家政婦の雇用を奨励し、雇用した者に対して3人までは扶養家族の1員として扱い、所得税が減額されるようにしました。これは低コストで女子の雇用を促進する働きがあると同時に、女子の失業者を減らす働きもありました。
労働環境の改善
労働時間の短縮
1933年6月28日「失業減少法に基づく雇用創出措置施行令」によって、1日の労働時間がそれまでの10~12時間だったのを8時間(週40時間)に短縮しました。一人当たりの労働時間を短くして、労働をより多くの人に分配するためです。
また、18歳以上で6か月以上勤務したものに対しては、最低6日間の連続した有給休暇が保障され、その間の賃金(休暇手当)は前払いで支払われるようにしました。
ただこれには条件があり、休暇中に働いた場合は休暇手当を返還し、以後有給休暇をもらう資格は取り上げられてしまいます。
しかし、労働時間が減ることは労働者にとって収入が減ることであり、初めは失業者対策に協力しても長い間には不満が鬱積してきます。そのためナチスは次のような対策を取りました。
ドイツ労働戦線(ドイツろうどうせんせん、Deutsche Arbeitsfront、略称DAF)
ナチスが政権をとる直前のドイツでは、大不況のため各地で労働者の解雇や減給などが起こり、それに対して労働組合はデモやストライキなどで対抗し、資本家や労働者双方とも解決のめどがつかず、各地で工場閉鎖が繰り返されて社会は不安定になり、治安も悪化しました。
これに対してヒトラー政権は労働者の祭典であるメーデーの5月1日を「国民労働の日」として休日にし、ヒトラーはベルリンのテンペルホーフ飛行場で行われた記念式典の演説で、
「国家運営のための生産に従事している人々が、身分や階級を越え一人一人が建国の担い手となって努力していることを確認するためにこの日を設けた。」
と話しました。資本家と労働者の区別をなくし、国民が一体となって新しいドイツのために貢献する必要を説きました。いわゆる「民族共同体」です。
翌5月2日には、ドイツ国内の労働組合は突撃隊と親衛隊の襲撃を受けて財産を接収され、解散に追い込まれた。
1933年5月10日労働組合の代わりに、労働者と経営者のお互いの利益を相互に代表する媒体の働きをすることを目的として、ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront、略称DAF)が設置されました。
DAFのこの理念は、従来のドイツ社会に存在していた階級意識を取り払い、ひとつの「民族共同体」であるという理念を植えつけました。
DAFの下部組織には、前に述べた「国家労働奉仕団」や、時代遅れの工場の刷新、労働者のための新たな食堂、禁煙部屋の構築、よりきれいな作業場の構築などを目指した「労働の美局」などがあります。
その中で一番活躍したのが「歓喜力行団(Kraft durch Freude、略称KdF)」です。
歓喜力行団(KdF)
「喜びを通じて力を」――ナチス・ドイツで、こんな呼び名の組織が誕生しました。娯楽の「喜び」を通じて労働の「力」を回復することを目的に「国民の余暇の充実」を図る組織です。
娯楽の一般化
歓喜力行団に慰安娯楽局を設けて各地の劇場を没収し、オペラや観劇、コンサートなどに、普通の労働者も行けるようにしました。
それまで上流階級の特権であったオペラやコンサートが、一般の労働者にも格安な料金で行けるようになったため、週末にはベルリンなどの大都市に大勢の人たちが特別列車で観劇に来ました。
また慰安娯楽局には巡回娯楽部隊があり、地方の農村などに回り、村の広場などで映画の上映や演劇などを行いました。それまで地方では映画を見たことがない人が多く、大変喜ばれました。
この巡回娯楽部隊は、地方の農村だけではなく、アウトバーンの工事現場や工場、軍の基地などにも訪れ、1935年から1936年の2年間で、延べ14万回の催しを行い、5310万人の入場者がありました。これは当時のドイツ国民の8割に当たります。
それまで上流階級の特権であったオペラやコンサートを、一般の人たちに開放することによって階級格差をなくし、「民族共同体」を強化する目的もありました。
激安パッケージツアーの販売
歓喜力行団のもう一つの目玉は、労働者のために、いろいろな趣向を凝らした旅行を、格安で斡旋したことです。
それまで、ドイツの労働者は自分の生まれた土地から一歩も外に出たことがない人たちが多く、そのような人たちをベルリン等の大都市で行われるオペラや観劇、また豪華客船に乗せて海外旅行に連れて行ったりしていました。
ほんの数年前には、職がなく生活に苦しんでいた人たちが、ヒトラーのおかげで豪華客船に乗って海外クルーズにまで行けるようになったのです。
今でも、この当時を懐かしく思う人がいるのも当然です。
歓喜力行団のクルーズ客船「ロベルト・ライ」、ちなみに「ロベルト・ライ」はドイツ労働戦線全国指導者の名前
出典ウィキペディア
歓喜力行団のポスター広告「あなたの休暇、1939年」
出典 www.uh.edu
歓喜力行団主催の旅行は8日間で国内は20マルク(労働者の賃金3~4日分)、海外旅行で60マルク(同じく半月分)と、それまでの値段の半分の料金で行けました。
1934年から1939年の間に国内外合わせて、約4500万のパッケージツアーが販売されて、当時としては世界最大の旅行代理店と評価されています。
スポーツの奨励
歓喜力行団にはスポーツ局があり、労働者にスポーツを奨励しました。
今までスポーツをやったことの無い人々にスポーツの楽しみを教え、心身をレフレッシュさせようというものです。
歓喜力公行団によってプール・体育館・運動場が各地に作られ気軽にスポーツが楽しめるようにしました。またライン河畔のプレイザッハ、ハルツ山腹のヴェルニゲローテなど景勝地6ヵ所に、宿泊施設を兼ねたスポーツ公園も作られました。
その最大の物がバルト海に面したリューゲン島の海水浴場に作られたプローラです。
1棟500mの長さがあるビルが8棟連なり、約2万人が宿泊できるものでした。しかも海に沿って建てられており、どの部屋からも海が一望できるようになっていました。
付属施設として500mおきにレストランが併設されており、後の計画では、二つの造波プール・劇場・映画館と2万人の宿泊客全員分の座席があるフェスティバル・ホールも予定されていました。
空から見たプローラ 出典karapaia.com
プローラの客室 出典WIkiwand
冷暖房完備の部屋にはベッドが二つ、洗面台、衣装棚、ソファがあり、シャワーとトイレは共同でした。これで1泊2マルク(当時の労働者の半日分の賃金)で利用できました。
第2次世界大戦が始まったため放置されてしまいましたが、現在では一部がユースホステルなどに再利用されています。
ユースホステルとして再利用された元保養所 出典ウィキペディア
従って一般的に、ドイツの労働者たちは労働戦線に与えられたものに満足し、これに報いて労働戦線に忠誠を誓い、1938年には会員は200万人を超え、第2子世界大戦中には労働者の90%がドイツ労働戦線(DAF)に加わっていました。
1家に1台、国民車の販売
前に述べたヒトラーの国民車構想に従って製作されたのが、フェルディナント・ポルシェが設計・開発した車が、後のフォルクスワーゲン・タイプ1と言われる車でした。
開発に当たって、ヒトラーがポルシェに示した大衆車の条件は、
- 頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること
- 標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能なこと(すなわち、成人であれば4人乗車可能な仕様である)
- 巡航速度が100km/h以上。
- 7Lの燃料で100kmの走行が可能である(= 1Lあたりの燃費が14.3km以上である)こと。
- 空冷エンジンの採用。
- 流線形ボディの採用。
- そして何よりも大切なことは、価格が1000マルク以下であること。
開発を任せられたポルシェにとって、一番間難関は1000マルク以下の価格で車を量産することでした。
開発作業が行われた、シュツットガルトのポルシェ家のガレージ
さすがのポルシェも、最初の試作車「VW3」を作り上げるのに2年間もかかりました。翌年にはさらに改良を加えた「VW30」が作られ、徹底した走行試験が行われました。
試作車「VW30」。リアウィンドウが付いていません。
当時、戦闘機のプロペラ技術導入のためドイツに滞在していた日本航空学会会長の佐貫亦男氏は次のように語っている。
「VW30計画と称するフォルクスワーゲン実用走行試験の総費用は3000万マルク以上、すなわち価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。
自動車史上これほどテストに費用をかけた前例はなく、今後もありえないであろう。普通はこの10分の1以下である。フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、通常の新車開発費に相当したという」
1938年5月26日、この車は「KdF-Wagen」(KdFワーゲン=歓喜力行団の車)」と名付けられ、ブラウンシュヴァイクで生産工場の起工式が行われました。
KdF-Wagen 出典 fiveiron.exblog.jp
歓喜力行団では、毎週5マルクづつ積み立て、手に入れた証紙を政府発行の手帳に貼り付け、4年後には車が手に入るという販売方法を取り入れました(左側のポスター)。この購入予約に33万人が応募しましたが、1939年9月1日ナチスドイツのポーランド侵攻で第2次世界大戦がはじまり、実際に車を手に入れることはできませんでした。
第2次世界大戦後フォルクスワーゲン社は、西ドイツに限って「KdF-Wagen」の購入予約をして代金を積み立てた人に対して、実車(フォルクスワーゲン・タイプ1)を納車しました。
フォルクスワーゲン・タイプ1は1938年の生産開始以来、2003年まで半世紀以上も生産が続き、国際的な自動車市場で多大な成功を収めた。四輪自動車としては世界最多の累計生産台数「2152万9464台」の記録を打ち立てました。
ちなみにフォルクスワーゲン・タイプ2は下の車。
フォルクスワーゲン・タイプ2 出典ウィキペディア
フォルクスワーゲン・タイプ1をベースに作られたスポーツカーも、登場しました。
フォルクスワーゲン・カルマンギア タイプ1
出典ウィキペディア
第2次世界大戦中、フォルクスワーゲンでは軍用自動車として、こんな車を作っていました。
キューベルワーゲン Typ 82 出典ウィキペディア
戦争映画好きにはお馴染みの、ドイツ軍のジープと言えるキューベルワーゲンで、約5万2千台が作られました。
そしてこのようなユニークな車も作られています。
シュビムワーゲン 出典 MOBY
「なに、これ? 。バスタブに車輪を付けたような車は」という方は、下のシュビムワーゲンを扱った動画をご覧ください。
動画でご覧の通り、この車は水陸両用車です。陸上を走るときに邪魔になるスクリュウは上に跳ね上げておき、水上に居る時は下げてエンジンと直結されたシャフトに繋いで水上を航行します。
車体後部の跳ね上げ式のスクリュー。その下に、エンジンと繋がったシャフトが装備されており、使用の際には、連結してスクリューを駆動させます。
出典ウィキペディア
こちらも好評で1万4276輌作られました。
国民労働秩序法
1934年1月20日「国民労働秩序法」が制定され、雇用主による労働者により多くの労働を求める要求とも戦いました。
この法律でドイツ国内を13の管区に分けてそれぞれに労働管理官を配置しました。
また労働者が20人以上知る現場では「信任委員会」野設置が義務付けられ、委員は労働者の投票によって選ばれました。
委員は労使双方の言い分を調整する役目を持っていましたが、もし信任委員に不正な行為があった場合、資格をはく奪され、これ以後の雇用は受けられなくなり、社会的に抹殺されるようになります。
労働管理官は各企業の信任委員会を監督し、労使間の交渉で対立が起き、信任委員会で解決できない場合は、調停に乗り出します。
さらに労働管理官の上には労働裁判所が設置されていて、労働管理官が乗り出しても調整がつかない場合は、労働裁判所が判断を下します。労働裁判所の決定は絶対的なものであり、労使双方ともこれに従わなくてはなりませんでした。
労働裁判所はもし雇用主に不正があった場合、労働者に対して1年分の賃金の賠償を命ずることが出来ました。
賃金は12人の労働管理官によって決定されました。労働者は比較的高く設定された賃金を渡され仕事上の保障を受け、雇用主からの解雇はますます難しくなっていきます。
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