なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

なぜ、ドイツの大衆はヒトラーを選んでしまったのか その3

time 2019/08/15

なぜ、ドイツの大衆はヒトラーを選んでしまったのか その3

前回まででヒトラーが首相に就任するまでを説明してきました。ここからは、全権委任法で権力を手に入れ、第2次世界大戦開戦になるまでを書いていきます。

 

sponsored link

亀仙人2

ドイツ国会選挙に見るドイツ大衆の動向(後編)

1933年3月ドイツ国会選挙

1933年3月5日 投票率88.74%
第1党 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 288議席(得票率43.91%)
第2党 ドイツ社会民主党 (SPD) 120議席(得票率18.25%)
第3党 ドイツ共産党 (KPD) 81議席(得票率12.32%)
第4党 中央党 (Zentrum)  73議席(得票率11.25%)
第5党 黒-白-赤戦線  52議席(得票率7.97%)
(国家人民党/鉄兜団/全国農村同盟)
第6党 バイエルン人民党 (BVP) 19議席(得票率2.73%)

ヒトラーが過半数獲得を狙った国会選挙でしたが、得票率43.91%となり達成できませんでした。

2月10日夜、ヒトラー首相は、ベルリンのスポーツ宮殿で初めての公式の演説に臨みました。
立錐の余地のないほど観客に埋まった会場で、ヒトラーは過去14年間の政治的・経済的混乱を引き起こした人々の責任を糾弾し、ドイツの経済を立て直し、生活を立て直すことを約束し、国民の統合と、党派政治からの訣別を訴えます。そして、こうも叫んだのです。「ドイツ国民よ、我々に4年の猶予を与えよ。然る後に我々を裁き、判決を下し給え!」と。

この選挙でのナチ党のスローガンは『ポルシェヴィズムと闘え』と「国民にパンと職を』の2つでした。

選挙戦開始早々の2月4日には、ヒトラーはシュライヒャー内閣下で準備されていた集会や新聞を制限し、政党への寄付を禁止す『ドイツ民族保護のための大統領令』をヒンデンブルク大統領に発令させ、野党の行動の自由を奪いました。

※ドイツ国民保護のための大統領緊急令

集会と言論の自由に制限を加え、政府批判を行う政治組織の集会、デモ、出版活動を禁止しました。駒為ナチ党以外の政党は、選挙において政府に対する自由な意見を言うことが出来なくなりました。ま、早い話が政府の悪口を言ってはいけないということです。

 

さらに、2月27日の国会議事堂放火事件後「国民及び国家保護のための大統領令」をヒンデンブルク大統領に頼んで出してもらい、共産党や者三野党の弾圧を強化しました。

※国民及び国家保護のための大統領令

1933年2月27日の夜に、ドイツの国会議事堂が炎上した事件が起こりました。その日のうちに、オランダ人でオランダ共産党員であったマリヌス・ファン・デア・ルッベが、放火の疑いで逮捕されました。

炎上する国会議事堂

出典 ウィキペディア

ヒトラーはこの事件を共産党による国家転覆の陰謀だと決めつけ、翌2月28日にヒンデンブルク大統領に頼んで非常事態宣言に当たる「国民及び国家保護のための大統領令」を交付してもらい、共産党の国会議員をはじめとする急伸左派勢力を一網打尽にしました。

国民及び国家保護のための大統領令で決められたこと

  1. 人身の自由、言論、集会、結社の自由、親書(手紙など)、電信、電話の秘密、住居の不可侵など、ワイマール憲法で定められていた基本的人権がすべて廃止されました。
  2. これにより州内で起こった出来事に対して、州政府にヒトラー政権が介入できることになりました。
  3. 非常事態下の執行権が軍ではなく、中央政府に任せられた結果、首相(ヒトラー)が軍に代わり強大な執行権を握ることになりました。
  4. この法令には「当面の間」という期限が付けられていましたが、1945年の終戦まで効力を発揮されていました。

これは、ヒトラーがすべてのドイツ国民を意のままにできることを、意味します。

 

2月6日、プロイセン州の内相にゲーリングを就任させました。州の内務省はその州の警察を管掌していたから、これによりドイツ国内で最強のプロイセン州警察が、中央政府では無任所大臣にすぎなかったゲーリングの手中に握られることとなりました。

 

2月21日、ゲーリングは突撃隊(SA)、親衛隊(SS)、鉄兜団の団員5万名を『補助警察』として雇い入れました。

2月24日には共産党本部のカール・リープクネヒト館をプロイセン州が捜索し、「共産党叛乱の計画書」を発見したと発表し、多くの共産党職員を連行しました。

国会議事堂炎上事件では、ゲーリングが支配するプロイセン州だけでも。5千人の共産党員が逮捕されました。

この様なヒトラー内閣による合法的な選挙妨害にもかかわらず、民主主義を擁護する社会民主党が得票率18.25%、120議席、共産党が得票率12.32%、81議席を確保し、それぞれ第2党、第3党となります。

この選挙の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の得票率は43.91.%で、ドイツ国民の過半数はナチ党を支持していませんでした。

しかしこの反ナチ勢力は、ヒトラーによる合法的で汚い手段により、全権委任法が成立すると、消されてしまいました。

全権委任法成立

 ドイツにおいて、1933年3月24日に成立した「全権委任法」は、正式には「民族および帝国の困難を除去するための法律」といい、「帝国暫定憲法」とも呼ばれている。あるいは略して授権法ともいう。この法律は、内閣に対し無制限の立法権を賦与し、さらに大統領の諸権限は縮少さるべきてないと規定した。議会の立法権は、完全に、廃止されたわけてはないとはいえ、事実上、有名無実なものとなり、その結果、それは、例外的な事情においてのみ、したがって装飾的な目的のためにのみ、用いられるようになった。
これは、ヒトラー内閣による2月の国会議事堂放火事件に続く、第二のクーデターであった。まもなく全ブルジョワ政党は完全に自発的に解散し、6月に社会民主党、7月に共産党が禁止されて、ドイツ共和国のドイツの議会政治・政党政治は終わりを告げた。

引用 世界史の窓

1933年3月23日、議場で全権委任法への賛成を要求するアドルフ・ヒトラー

出典ウィキペディア

全権委任法の成立については、こちら⇩の終わりの方に書いてておきました。

テレビ映画 「ヒトラー 第2部 独裁者の台頭」 ヒトラーが独裁者となった手口

全権委任法が成立し、3月31日政府によって最初に公布された『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律』によって、ドイツ共産党は結社禁止になり、国会と地方議会で全ての議席を奪われました。

全権委任法に唯一反対した社会民主党も、6月22日までには、党としての活動を禁止されたうえ、すべての資産を奪われ、党幹部も続々と国外に亡命したため消滅してしまいます。

これに続き、6月27日にドイツ国民戦線(ドイツ国家人民党)が解散した。6月28日にドイツ国家党(旧ドイツ民主党)が、6月29日にドイツ人民党が解散した。鉄兜団も突撃隊に組み込まれた。

7月4日、ヒムラー配下のバイエルン政治警察によって幹部を逮捕されたバイエルン人民党も解散に追い込まれた。7月5日、ナチ党以外の最後の政党であった中央党も解散した。

これによって、選挙スローガンの一つ『ポルシェヴィキと闘え』は実現しました。

7月14日に政党新設禁止法が公布され、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)がドイツでただ一つの合法的政党となり、一党独裁体制が確立します。

この頃から医師連盟や教職員会、フライコール、街のコーラスグループから同好会に至るまでありとあらゆる団体は解体され、ナチ党主導によるものに再編成された。ボーイスカウトなどの青少年組織も解体され、党の青少年組織であるヒトラーユーゲントに編入された。これにより、街の社会的な組織はほぼ完全に根絶され、「独裁者が歓迎するあの組織なき大衆へと鋳造された」。出版・放送業界も宣伝省の監督下に置かれ、報道・表現の自由は消滅した。また、ナチズムによる「民族共同体」建設といったスローガンや、ヒトラーユーゲントなどのナチ党組織による運動によってもたらされる高揚感は、青少年たちにナチズム運動の一員であるという実感を与えた。

このような動きに大きな抵抗は出ず、ヒトラーの山荘ベルクホーフはヒトラーの姿を一目見ようとする人々で賑った。海外にも熱烈な信奉者が生まれ、ドイツの「正当な要求」を理解する動きが生まれた。

また、国会議事堂放火事件以降継続されていた保護拘禁は市民の間にも恐怖を与え、1933年の夏には「当局に反対しただけで警察の追求を受ける」という認識が広まっていた。さらにゲシュタポが密告を奨励したため、市民の間には友人が密告者かもしれないという恐怖心が芽生えた。また、拘禁された人々のその後が不明であることも恐怖に拍車をかけた。

引用ウィキペディア

ナチ党員の増加

1933年2月4日に公布された、「ドイツ民族保護のための大統領令 」と、国会炎上事件後の1933年2月28日「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令で、それまでワイマール憲法で保障されていた、国民が安心して暮らすための基本的人権、人身の自由、住居の不可侵、親書の秘密、意思表明の自由、集会の自由、結手の自由などが損なわれたことに対して、国民が抗議の声を上げなかったことがナチ党を躍進させた原因とみなされます。

それどころか、ヒトラーが首相に就任した1931年11月の国会選挙の時にはナチ党の党員数は80万6294人でしたが、全権委任法が成立した1932年4月には、推定100万人、1932年末には120万人、1933年末には390万人と大きく増加しました。終戦直前の1945年の段階で党員番号は850万を超えていました。

この時点から、多くのドイツ国民は自由主義的な政府から、ヒトラーを頂点とするナチ党の一党独裁政治に積極的に鞍替えしたのです。

多くの人たちがナチ党に鞍替えした理由の一つに、ヒトラーの行った『強制的同一化』があります。

それまでドイツの地方自治は、各州の州政府が行っていたのが廃止され、すべて政府が直接統治するようになりました、州の長官には、その州を管轄するナチ党の大管区指導者が握ることになります。こうなると、その州に勤めていた役人たちは、ナチ党員にならざるを得ません。下手に共産党員のままでいると、良くて解雇、悪くすると逮捕され、強制収容所に送られてしまいます。

ナチ党の権力掌握後の1933年5月2日、当時ドイツに有ったすべての労働組合は解散させられました。代わりに5月10日、党の組織全国指導者ロベルト・ライを指導者とするナチ党の組織「ドイツ労働戦線」(略称DAF)が成立しました。

このドイツ労働戦線は、単に労働者に安定した雇用を確保するだけではなく、労働者の福利、厚生事業にも力を入れ労働者に豊かな生活をもたらしました。しかし、これを利用するためには、ナチ党に入らなくてはなりません。

ヒトラーがいかに失業者を救い、豊かな生活を送れるようにしたかは、下の記事を読んでみてください。

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その1

なぜ、ヒトラーは、ドイツ国民から熱狂的な支持を受けることが出来たのか? その2

これはナチ党が選挙に際して掲げた『国民にパンと職を』が実現したどころか、ドイツ国民が期待した以上に生活が好転したのです。

もちろん、これらの恩恵を受けられるのは、ナチ党員及びナチ党に反対しない人たちでした。

ヒトラーが首相になる直前、600万人と言われ失業者を出したドイツの大不況は、首相就任演説で約束した4年のうちに大きく成長しました。1919年から始まり、1933年まで続いたワイマール体制下の政府が成しえなかったことを、ヒトラーはたった4年間で実現しました。

ドイツ大衆は強力な実行力を持つヒトラー政権を支持し、『ドイツ民族の復興』を目指すヒトラー政権に積極的に協力しました。

よく、ドイツの大衆はヒトラーの巧みな演説によって、ナチスに引き付けられたと言いますが、ヒトラーの演説の裏にはこのような実績がありました。ヒトラーは成果が上がるたびに、演説によって成果を強調して国民に伝えたのです。

 

もし、この動きに同調しなかったらどうなるか?。ここに二枚の写真があります。

この写真は、1936年6月13日に、ハンブルクの港において新しい戦艦の出航を祝うために集まった群衆の写真です。

出典 MUSEY MAG

 

上の写真の丸の部分を拡大した写真

大勢の人がナチス的敬礼をしている中で、一人だけ敬礼をしないで腕組みをしている人がいます。彼の名はアウグスト・ランドメッサーと言います。

彼は193Ⅰ年、職を求めてナチ党に入党しました。この写真の前年1935年に、ユダヤ人のイルマー・エクラーと結婚しました。その1か月後の1935年9月15日、ニュルンベルク法(ニュルンベルク法のうち、ユダヤ人と「ドイツ人」の婚姻を禁止した「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」)が制定されました。そのためナチ党から除名されてしまいます。

1937年夫婦はデンマークに亡命しようとして、逮捕されてしまいました。裁判の結果二人は同居生活を禁止されてしまいましたが、同居を続けたため、ランドメッサ―と妻エクラーは別々の収容所に送られてしまいました。

妻のエクラーは収容所で死亡したと見られていますが、ドイツ人のランドメッサ―1941年1月19日に釈放され、運送会社で働いていました。1944年2月に徴兵され、1944年10月17日のクロアチア・ペリェシャツ半島のストン近郊における戦闘で行方不明となり、戦死したと推定されています。

この様にヒトラー政権が提供した利益を受けたドイツの大衆は、このような生活の向上を果たすためには、「多少の自由が制限されるのは仕方がない」とあきらめ、事態を容認するか、反対にヒトラーの政治改革に手を貸し、ヒトラー政権に反対する異分子を排除するようになりました。

この様にして、ドイツ国内はナチ党一色に染まっていきます。

1933年11月ドイツ国会選挙

1933年11月12日 投票率95.30%
第1党 国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP) 661議席(得票率92.11%)

反対票/無効票 7.89%

この選挙の時点でナチ党以外の政党は全て解散されていたため、ナチ党に対する信任投票となります。

ナチ党に投票し、国民投票に賛成するように求めてベルリン中心部に掲げられた宣伝幕。「一つの民族、一つの指導者、一つのヤー(イエス)」と書かれている。1933年11月12日

出典ウィキペディア

この国会の選挙日と同日に、国際連盟からの脱退を信任する国民投票も実施されており、こちらは95.1%もの支持票が賛成に投票されています。

首相就任以前から、ヒトラーはヴェルサイユ条約で決められた軍備の制限に反対していました。

また1926年に加盟が認められた国際連盟の規約第8条にも、軍備縮小が書かれています。

国際連盟規約 第8条 

連盟加盟国は、平和を維持するためには、国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮小する必要があることを承認する

この為1933年10月、国際連盟に加入して、国際社会に復帰しましたが、わずか7年で国際連盟を脱退することにしました。

ヒトラーはこれを重大な外交問題と考え、国民投票にかけることにしました。結果は、95.1%の圧倒的賛成となりました。

副首相パーペンによる、ヒトラー政府転覆計画

ヒトラーの首相就任に当たり、保守派の政治家の多くは反共産主義を掲げるヒトラーの人気を利用して共産党を葬り、大部分の国民の支持を取り付ければ大統領に頼んで、新たに首相を任命してもらい、ヒトラーを解任すればよいと考えていました。

そのためヒンデンブルク大統領はヒトラー政権を固めるために、「ドイツ民族保護のための大統領令 」や、「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」など、ワイマール憲法で決められた国民の権利を侵す大統領令を、ヒトラーに頼まれて交付します。

1933年3月ドイツ国会選挙のポスター。ヒトラーとヒンデンブルクが並んで立っている。「元帥と一等兵が我々と共に平和と同県のために戦う」との文字か添えられている。

出典 MUSEY  MAG

ドイツ共産党の撲滅、階級闘争の追放、全権委任法の成立など共通の政治目標を達成した中で、ヒトラー内閣の保守派の閣僚たちは、追放されるか、懐柔されてしまいました。

ナチ党との一体化を嫌う閣僚の中には、ヒンデンブルク大統領と軍部を味方に付ければヒトラー政権の権力基盤を切り崩し、新たな君主制国家をつくり上げることも不可能ではないと考えるものも少なくありませんでした。

ヒンデンブルク大統領には、ワイマール憲法47条で認められた国軍最高指揮権と、53条で認められている首相の任免権があります。

ヒンデンブルク大統領に頼んで軍の協力を得て軍部独裁を敷き、突撃隊を武装解除し、さらに大統領令を出してヒトラーを解任してもらい、帝政復活を実現させることが、反ヒトラー派の企てでした。

ただ大統領にそのような進言をできるものは副首相のパーペンを措いてほかに見当たりませんでした。

パーペン自身も帝政復活を考えており、瀕死の重病であったヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言状を書かせ、彼の死後帝政を復活させる計画を立てていました。

副首相府には全国から届く不服申し立てを取り扱う部門があり、ヒトラーの急進的な改革に対する国民の苦情が集まっていました。副首相官房の高官たちは、ヒトラーをたたえる民意の裏にある現実を知ることが出来ました。

そして、ここにはかってパーペン内閣の政治顧問であった青年保守派のエドガー・ユングが、秘書として働いていました。

ヒトラーの政治姿勢に疑問を持つユングをはじめとする若手保守派を中心に、政府批判を世に問うための取り組みが始まりました。

そして副首相府の高官たちによるお膳立てで、パーペンのがマールブルク大学でヒトラーの政治姿勢を問う演説が行われました。この演説の原稿は、先のユングが書きました。

この原稿はゲッベルスの禁止通達が来る前に報道機関に届けられ、新聞に掲載されました。また、パーペンの演説はフランクフルトからラジオで流されました。

演説では、大衆民主主義に由来するナチ党の一党支配の弊害、とくに「下からの永遠の叛乱」に翻弄され、「針路を見失った」ドイツの現状──暴力と集団主義の横行、過剰な介入、過剰な強制、過剰な宣伝、自由の喪失、経済の停滞、私利私欲、腐敗とでたらめ、精神の抑圧、宗教の軽視など──が批判的に語られた。パーペンは、「かつて国民が(ヒトラー)政府に贈った信頼の財宝がいまや脅かされている」と断言した。そして危険な「運動を終わらせ」、突撃隊のような「ナチ教条主義者」が実行しようとしている革命「第二波」を阻止するよう、求めたのだ。

引用 石田勇治著 「ヒトラーとナチスドイツ」講談社現代新書 183頁

この演説後、原稿を書いたユングは逮捕され、6月30日に行われた「長いナイフの夜」の時親衛隊により射殺されました。

パーペンは自宅で軟禁されていましたが、8月7日副首相を辞して隣国オーストリアに公使として赴任しました。

1934年8月1日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が危篤になると、ヒトラー首相の率いるドイツ国政府は「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定した。

この法律の第1条には

「ドイツ国大統領の官職はドイツ国首相の官職と統合される。それにより、ドイツ国大統領の従来の権限は、指導者兼ドイツ国首相であるアドルフ・ヒトラー (der Führer und Reichskanzler Adolf Hitler) に委譲される。彼は自らの代理人を定めるものとする」

と定めてありました。

翌日の8月2日にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーはその日のうちに大統領職を廃止して、新たに設けられた「総統」に就任しました。

1936年ドイツ国会選挙

1936年3月29日実施
第1党 国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) (白票含む)741議席 (得票率98.8%)
反対・無効票 1.2%

この選挙は1936年3月7日にドイツが、ロカルノ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに、陸軍を進駐させたことの国民投票も兼ねていました。

1938年ドイツ国会選挙

1938年4月10日 投票率 99.59%
国家社会主義ドイツ労働者党 (白紙票含む) 813議席(得票率99.01%)
反対/無効票 0.99%

オーストリアでは国会選挙の代わりにアンシュルス(ドイツのオーストリア併合)の是非を問う国民投票が実施され、こちらはナチ党組織や行政組織による投票行動への厳しい監視の中、99.73%が賛成票を投じた。

この選挙を最後に、ドイツでは国会選挙は行われませんでした。

ヒトラーが首相になるまでの解説はこちら ↓

なぜ、ドイツの大衆は、ヒトラーを選んでしまったのか その2

sponsored link

亀仙人2

down

コメントする




このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください



プライバリーポリシー