あまり知られていませんが、第1次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件後の、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアの戦いについて、書いてみます。
1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フェルナンド大公とその妻ゾフィーが、セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されました。
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それから約1か月後の7月29日午前1時、オーストリア河川艦隊の砲艦SMSボドロッグがドナウ川から、セルビアの首都ベルグラードに向けて最初の砲弾を撃ち込み、セルビア戦が開始されました。
同じ7月29日、ロシアが総動員令を下命しました。
オーストリアの河川用砲艦SMSボドロッグ
出典 Wikipedia
当時のセルビアとオーストリアはドナウ川で国境を接しており、宣戦布告直後のベオグラード市民のほとんどは市外に避難して犠牲者はほとんど出ませんでした。首都機能も南にあるニシュに移転しました。
またここを守っていセルビア軍も、少数の守備隊を残し南部のアランジェロバッツに後退していました。
開戦前の予想では、オーストリア軍が歩兵師団48個と騎兵師団11個で、セルビア軍の歩兵師団11個、騎兵師団1個と、これに同盟国のモンテネグロからの歩兵師団3個が加わっても、圧倒的な戦力差でオーストリアの圧勝で終わるはずでした。
更にセルビア軍は2度のバルカン戦争で、経済が破綻しており小銃は25年、全兵士の3分の1しかなく、大砲に至っては数えるしかありませんでした。
そのためセルビア軍の武器と弾薬は、フランスとロシアからの輸入に完全に依存していました。
オーストリアとしては、セルビアがオーストリアと戦っても勝ち目がなく、オーストリアに対して抵抗しても無駄であることを分からせることで十分と考えたならば、ドイツの後ろ盾が確実となり、ハンガリーの首相イシュトヴァーン・テッサの意見を入れて(テッサは多民族で形成されているオーストリアに、新たに反感を持つセルピアを加えることに反対していました)オーストリアがセルビア全体の占領を望まず、サラエボ事件でセルビアが関係していたことが明らかになった時点ですぐにセルビアに宣戦布告し、首都ベオグラードを占領し、圧力をかけてセルピアを属国扱いにしておけば、皇太子が暗殺されたことで世界の同情が集まっており、スムーズに事が収まり、第1次世界大戦も起こらなかったと思います。
7月29日にベオグラードに向けて砲撃を開始したオーストリアですが、ロシアが動員を開始してガルシア戦線の戦いが始まり、そちらに戦力を向けざるを得なくなり、サラエボで戦える戦力は18個師団に減っていまいました。その上援助を約束したドイツ軍は、東プロイセンにロシア軍が迫り、タンネンベルクの戦いが始まった為、ドイツ軍の助けは期待できなくなりました。
タンネンベルクの戦いの解説はこちら ↓
7月29日から8月11日にかけてオーストリア軍はセルピアの予想通り、ドナウ川とサバ川にある国境の町、ベオグラードとシャバツに攻撃を開始しました。
オーストリア軍の攻撃を阻止するため、セルビアは国境に架かる橋を爆破したため、オーストリア軍に多大の被害が出てしまいます。
セルビアは兵力が少ないためオーストリア国境全体に軍を配置するのを止め、内陸の町アランジェロパッツ付近に兵力を集め、オーストリア軍をそこまで誘い込んで戦うつもりでした。
セルピア戦線 1914年8月
ツェル山の戦い(第1次ドリナ川渡河作戦)
8月12日、オーストリア軍は隣国のボスニアから国境のドリア川を越えて、セルビアに侵入してきました。これによりシャバツの町はオーストリア軍に占領されてしまいます。
1914年に砲撃と市街戦で破壊されたオーストリア=ハンガリー帝国とセルビアのサヴァ川北の国境にあったシャバツの町
出典 ウィキペディア
8月15日、オーストリア軍の侵入を知ったセルビアは、強力な第2軍を送りシャバツの町の近くにあるツェル山に敵を誘い込み、山中で夜襲やゲリラ戦を展開して反撃を開始しました。
セルビア北西部のツェル山。1914年、この山は、オーストリア・ハンガリー軍が数的に劣ったセルビア軍に敗北した。その名を冠した戦いの場所でした。
出典 Wikimedia
8月24日、10日間に渡る戦いで、オーストリア軍は、派遣した20万人の兵士のうち、40500~45500名の犠牲者を出し、ドリナ川を渡って撤退しました。ハンガリー軍の犠牲者は半分の18000~20000名でした。シャバツの町も取り戻せました。
9月末、ロシアから18万丁の小銃が送られてきました。
第2次ドリナ川渡河作戦
9月7日、オーストリアの第8軍団と第13軍団を中心にし、再びドリア川の渡河作戦が開始されました。今回は7月29に日ベオグラードを砲撃したSMSボドロッグ含む3隻の砲艦と砲撃隊も参加して行われました。オーストリア軍はドリナ川とサバ川の合流地点に橋頭堡を築くことに成功し、対応に当たったセルビアの第2軍は善戦したものの大きな被害を出し、一部は第3軍に送られました。
セルビア軍は近くの丘に撤退して塹壕戦を展開します。これは大砲と砲弾が不足しているセルピア軍にとって不利な戦いとなりましたが、約1ケ月半に渡って、ドリナ川の防御線を守り通しました。
ドリナ川の戦い中のセルビアの兵士
出典 Wikipedia
コルバラの戦い(第3次ドリナ川の戦い)
コルバラ川は近くの山から流れてくる小川を集め、バリエボからサバ川まで流れている川です。
ハンガリーはサバ川が流れているシャバツから、首都ベオグラードのあるドナウ川流域だけで平野で、後は丘陵地帯や山岳地帯になっています。9月中旬から10月中旬にかけて降り続いた大雨により上流から大量の雨水が川に流れて来て、平野部では反乱や排水がうまくできないなどで、主な道路はぬかるみ状態になっていました。
鉄道に関しては、戦争勃発とともにオーストリアとセルビアを結ぶ鉄道橋が破壊され、国内の大部分を占めるセルビアが支配地域に鉄道車両を避難させて居たため、線路があっても利用できませんでした。
また10月上旬に高い山では、雪が降り始めます。
この様な中オーストリア軍は年内にセルビア戦の方を付けようとして、11月5日第5軍、第6軍約45万人を動員して、ボスニアからドリナ川を越えてセルピアに侵攻しました。
11月10日、セルビア軍はシャバツからドリナ川に沿った前線から後退して、第2軍をウブに、第3軍と第1軍をバリエボの防御に当たらせました。その間ウジツェ軍はその名を取ったウジツェの町の防御に就きます。
コルバラの戦い地図。1914年11月
11月10日、ぬかるみだらけの田舎道を大砲を運んできたオーストリア軍砲兵隊が、セルビア軍に対して砲撃を開始しました。反撃に必要な大砲と砲弾が不足しているセルビア軍は士気をくじかれ、コルバラ川まで後退するしかありませんでした。
11月15日、オーストリア軍はバリエボを占領し、ウィーンでは盛大な戦勝祝賀会が催されました。
しかし、この時点で戦線南部の山岳地帯を担当しているオーストリア第6軍は、降雪とぬかるんでいる道とで深刻な補給不足になっていました。
11月27日オーストリア軍は、コルバラ川とサバ川の合流地点に到達しました。
オーストリア第6軍によって前線が拡大されたため、セルビア最高司令府はベオグラードの防衛を諦め、市は11月29日と30日にかけて避難を始め、12月1日、オーストリア軍はベルクラード市を占領しました。
12月2日のフランツ・ヨーゼフ2世の王位66周年に向けて、ドイツはベオグラードを占領したことに対して、お祝いの電報を送りました。
この頃、フランスからの大砲と砲弾がギリシャから鉄道によって、大量にハンガリー軍に送られてきました。
ハンガリー南部は戦闘状態ではないため、鉄道が使えたのです。
1914年12月4日、セルビア軍の反撃
これを見るとオーストリア第6軍は、山と谷が入り組んでいるところに誘い込まれたのが分かります。
出典 TOP WAR
1914年12月4日、深い霧に包まれ山深い谷を進軍中のオーストリア第6軍に向かって、セルビア第1軍が一斉に砲撃を開始しました。
1914年の塹壕でのセルビアの大砲
出典 WIkipedia
セルビア軍には砲弾がないと安心しきっていたオーストリア軍は、山岳地帯に入り、補給困難な状態で撃ち返す砲弾どころか食料も無くなっていたため、軍そのものが崩壊し、ベオグラード方面に向かって一斉に退却始めました。
12月8日ニシュに居たブルガリア大使は
「セルビア人の耳に優しい、戦場からの最もありそうもないニュースが今朝から起こっている」と報告した。彼は、過去3〜4日間で、セルビア軍が1人のオーストリア・ハンガリー将軍、49人の将校、2万人以上の軍隊、40門の大砲と「大量の戦争物資」を捕獲したと書いています。
引用 Wikipedia
12月9日までに、ベオグラード周辺のオーストリア・ハンガリー帝国の反撃は勢いを失い、オーストリア・ハンガリー帝国は市内中心部に向かって後退し始めました。
12月14日と15日にかけて、ペオグラードに居たオーストリア軍はサバ川とドナウ川を越えて、オーストリア=ハンガリー帝国に撤退しました。
セルビア軍は12月15日にベオグラードに再入国し、翌日の終わりまでにベオグラードを完全に支配していました。
この戦いでオーストリア=ハンガリー軍は、45万人のうち、半数を超える27万3千人の死傷者(捕虜7万人を含む)を出し、単独での戦闘力を失い、ドイツ頼みになってしまいます。
セルビア軍は40万人のうち死傷者(捕虜1男9千人を含む)13万2千人を出し、戦闘に勝ったものの、大幅に戦力が低下した状態で、翌年にはより厳しい戦いを迎えることになりました。