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亀仙人2映画 『バグダット スキャンダル」
2018年 製作 デンマーク カナダ アメリカ
湾岸戦争後イラクへの経済政策の影響で、市民の生活に必要な食料や衣料品が不足する事態が起こりました。1996年国際連合は、困窮するイラク国民を救うため、イラク産の石油と引き換えに食糧や医薬品を支援する事業を開始しました(石油食料交換プログラム)。
このプログラムは2003年11月21日終了しましたが、その後18億ドル(約2000億円)を超える汚職が明らかになりました。さらにアメリカ合衆国政府会計局(GAO)による調査によって石油代金のうち101億ドル(1兆円越え)が、フセイン大統領に渡っていたことが分かりました。
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監督 | ペール・フライ |
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脚本 | ダニエル・パイン ペール・フライ |
原作 | マイケル・スーサン |
製作 | ラース・クヌードセン ダニエル・ベーカーマン |
製作総指揮 | テオ・ジェームズ ベン・キングズレー ヤコブ・ヨルゲンセン ジェームズ・ギブ パトリック・ロイ マーク・スローン ダニエル・パイン ロバート・オグデン・バーナム イーサン・ラザー ピート・エイブラハムズ |
出演者 |
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あらすじと解説
2003年9月、一人の若者がニューヨークの゛ウォール・ストリート・ジャーナル゛にやって来て、
「私はマイケル・サリバン、僕の話を聞いて欲しいと。」
言ったところからこの映画は始まります。
下の写真は、この映画の原作者でマイケル・サリバンのモデルとなったマイケル・スーサンです。
マイケル・スーサン
彼は、国連職員としてイラクの石油食糧交換プログラムに従事していました。
この事業は経済制裁の下で苦しんでいるイラク国民に、食糧や医薬品を配布するものでしたが、スーサンが目にしたのは国連のみでなく世界中に広がる大規模な汚職が行われていることでした。
2008年、この経験をもとに、国連の腐敗を暴く『Backstabbing for Beginners』(この映画の原作)を著わし、内部告発を行いました。
出典 Amazon.com
2002年10月、マイケル・サリバンはそれまで勤めていた銀行を辞め、長年の夢だった外交官になるため国連職員に応募しました。彼の父親も外交官でレバノンに勤めていましたが、1983年の大使館爆破事件に巻き込まれ、彼が5歳の時に亡くなっていました。
彼の履歴書はコスタ・パサリス(通称パシャ)の目に留まり、採用されました。パシャはサリバンの父親のことを知っていたのです。
コスタ・パサリスのモデルとなったのが、下の写真のべノン・V・セバンです。
べノン・V・セバン(1937年12月18日、キプロス、ニコシア生まれ)
1965年国連に入った彼は、イラン・イラク戦争やソ連のアフガニスタン侵攻で捕虜や難民の保護のため働きました。
彼は同じ中東で、サリバンの父親と一緒に働いていました。
1996年からはイラクの国連の石油食料交換プログラムの常務理事として働いていました。
出典 国連イラク事務所
国連に採用された彼は、石油食料交換プログラムの責任者パサリスの特別補佐官として働き始めました。
石油食料交換プログラムとは、国連がイラクの石油販売を管理し、その利益を困窮しているイラク国民のために食糧や医薬品を購入して援助する仕事です。最大でイラクの人口(約2600万人)の60%に当たる1560万人の人が、国連の食糧援助に頼っていました。当時としては、国連が開設されて以来最大の人道支援プログラムでした。
仕事に就いた彼は、早速資料を読んで、翌日に事務次官に提出するための報告書の作成を命じられました。前任者がイラクで交通事故に逢い、報告書の提出が遅れていたそうです。
仕事が終わり帰路に着いた彼に、CIAのカッターが現れ、
「石油食料交換プログラムは何者かによって悪用されている。注意して見張って欲しい。」
と言って名刺を渡して去っていきました。
翌日、パサリスに報告書を渡す際
「手数料と称して、最大30%リベートが支払われた疑いがある。」
というと、パサリスは
「そういうものは、交渉の際の切り札として使うものだ。」
と言い、その部分をシュレッダーにかけ、改めて簡単に分かりやすく書き直すよう、命じました。
その夜パサリスとマイケルは、書き直した報告書を持ってパグダットに旅立ちます。報告書を安保理に提出する前に、現地事務所の所長から最終サインをもらう必要があった為です。
現地事務所の女性所長デュプレは、石油食糧交換プログラムにまつわる不正に気が付いており、プログラムを廃止して経済制裁を緩め食料や医薬品の調達を容易にするよう、報告書に書き入れるつもりでした。
国連による人道支援に参加できると張り切っていたマイケルですが、その思いはすぐ裏切られてしまいました。
視察に行った病院の医師からは、国連から渡された薬は期限切れで使い物にならないと言われ、一緒に居た通訳の女性によると、地方では国連が配給した品を巡ってや横領や賄賂、恐喝がはびこっていると教えられました。さらにマイケルの前任者アベックが死んだのは交通事故ではなく、この汚職に関するある情報を掴んだため、国連のプログラムに関係する人物によって殺されたのだと言います。
一日が終わりホテルの部屋に戻ると、イラク諜報部と名乗る男がソファに腰かけタバコを吸っていました。男は、
「謝礼の入った封筒を机の上に置いておく。君の貢献に報いるためだ。」
と言いました。どうやらマイケルを買収しに来たようです。マイケルが封筒の受け取りを拒否すると、男は封筒を持って去っていきました。
翌朝、パサリスにそのことを話すと、驚く様子もなく、君の取った行動は正しいと言い、アベックの死亡については、通訳の女はサダトのスパイだから気を付けろ言われました。バグダットでは信じられないことが普通に行なわれているようです。
パサリスが一番苦労したのイラク北部のクルディスタン自治区に住むクルド人への物資支援でした。
クルド人たちはイラン・イラク戦争時イランに加担したとして、サダム・フセインから毒ガスによる大量虐殺(ハラブジャ事件)されたり、湾岸戦争終了後は自治権を求めれてイラク政府と戦っていました。そのためイラク政府はクルド人自治区への援助物資を送ろうとしませんでした。
パサリスは両者の間を何度も行き来して、0か100かではなく、出来るだけたくさんの物資がクルド人に届くよう、働きました。
クルド人問題が片付くと、パサリスは一旦アメリカに帰ることになり、マイケルはプログラムに反対している現地事務所の所長ディプレを罠にかけるため残りました。
現地事務所に戻ると、ディプレ所長の補佐官であるハッサンから、”報告書はサインが済むまで君に見せるな”と言われたと伝えられました。
マイケルは通訳のナシームを連れて、援助物資の倉庫に行きました。病院で知らされた、”渡された薬は全て期限切れだ”との言葉が気になって、調べると、全て期限切れのものばかりでした。マイケルはその場の責任者に期限切れの薬を廃棄して、自腹で新しい薬を補充するよう指示しました。
ふたたび事務所に戻ると、パサリスに言われた通り差出人不明の写真が届いていました。その写真には国連のトラックが武器を運んでいるところが、写っていました。マイケルはその写真を、所長のディプレに渡しました。その写真はディブレ所長を罠にかけ、失脚させるためのものでした。
ホテルに帰ると通訳のナシームが待っていて、二人の男と共にクルディスタン地区にある彼女の両親が眠っている墓の前に連れていかれました。
彼女は1本のUSBメモリーを出して、この中にはプログラムの関する汚職を明かそうとして殺されたマイケルの前任者アッシムが調べた関係者のリストがある筈だけど、暗号化されていて私たちには解読できないので、ぜひ解読できる人を探して解読してほしいと、頼みました。
その帰り、一行はイラク諜報部の男たちに襲われ(以前マイケルの部屋に忍び込んでいた人達)、男性二人は殺され、マイケルと通訳のナシームだけが解放されました。どうやら先ほど調べた不良品の薬品の処置が気に入らず、余計なことをするなとの、汚職グループからの警告みたいです。この時ナシームはパスポートを取られ、クルド人と分かれば殺されると怯えていました。
しばらくするとマイケルの事務所に、イラク情報部の調査官らがやって来てナシームの行方について追及し始めました。そこにディブレ所長がやって来て、越権行為だと言って男たちを追い出しました。マイケルは急ぎ国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に電話して、ナシームのビザを作ってもらいアメリカに避難させます。
マイケルはディプレ所長に呼ばれ事務所に行くと、所長はテレビ画面のパサリスに向かった盛んに怒っていました。偽写真で所長を罠にかけるたくらみが、見破られたようです。マナイケルはパサリスから至急アメリカに戻るように言われました。
ニューヨークのJFK国際空港に到着したマイケルは警備員に呼ばれ、別室に連れていかれました。そこにCIAのカッターがやって来て数時間前に、パクダットのディプレ所長が自宅で心臓発作のため亡くなったことを告げ、何か話すことはないかと聞かれました。マイケルは「別にない」と答えその場は終わります。
自宅に戻った彼の元にパサリスから電話があり、死んだディブレ所長の代わりに報告書を作成して、2日後の安保理で発表するよう頼まれます。
マイケルの姉も父の跡を継いで、夫婦で国連に勤めています。彼は姉の家に行くと、姉はマイケルが安保理で報告書を読むの聞くと、大喜びました。彼は国連内部監査部に勤めている義兄にUSBメモリーを渡して、解読を頼みました。
また、難民施設に電話してナシームを引き取り、一緒に住むことにします。
安保理に提出する新しい報告書が出来、パサリスに署名を求めると、パサリスは国連内部監査部から通知があり、国連パスポートを要求したことの確認を頼まれたと言って、1通のファイルをマイケルに渡しました。その中にはイラクを始め各国の要人たちと会っているナシームの写真が添付されていました。
パサリスからは、
「彼女はクルド人組織に頼まれ、ロシアや国連の情報を探っているスパイで、CIAやMI6、インターポールも注目している。今回は尻ぬぐいしてやるが、次からは、わしに相談しろ。」
と、言われました。
部屋に戻りナシームにファイルを見せると、
「フセインを倒し、同胞を助けるためにやった。」
と、スパイ活動をしていた事実を認めました。
懸念されていた国連安保理の報告も無事終わり、18カ月のプログラム継続が決まりました。これにはパサリスの指示通り、不都合な部分は隠し、成功した事実だけを報告したことで安保理の委員に好印象を与えたためです。石油食糧ブログラムは、6カ月ごとに安保理に報告書を提出して、継続するか否か決めることになっていました。
安保理事会後に開かれたパーティーには、マイケルと一緒にナシームも呼ばれていました。そこでパサリスは、一人の男を紹介しました。ティムール・ラスネッツォフの名乗った男は、かってマイケルとナシームを殺そうとした情報部のリーダーでした。彼はマイケルに「君はプログラムの救世主だ。」と言って離れました。どうやら、二人に圧力をかけるのが、目的のようです。
バーティー終了後、義兄からの電話でUSBメモリーの暗号が解けた、との連絡が入りました。
出てきたのは、プログラムにまつわる賄賂に関係した国や、企業、個人名が書かれたリストでした。
『石油食糧交換プログラム』における汚職の仕組み
イラク産の石油を購入する希望者は、プログラムに従って石油引換券を手に入れ、引換券で手に入れた石油の代金は一旦BNPパリバ銀行の石油食糧交換プログラムの口座に振り込みます。
口座に振り込まれた代金から、プログラムの運営費や湾岸戦争後にクウェートに払う賠償金を除いた金額が、イラク政府が規制に合致した物資(食料品や)を買うために使われることになっていました。
サダム・フセインはプログラムに関係する石油引換券を正規のものより安値で売り、それを手に入れた国や企業が正規の値段で転売するか、直接石油と交換することで、大きな利益を得ました。
プログラムでは石油引換券1枚で1バレル(約168ℓ)の石油と変えられることが出来ます。当時の石油価格は1バレル=20ドルですがサダム・フセインは正規の価格より15セントから50セント安い値段で売っていました。1バレル=19ドル50セントで石油を買うと、1バレル=20ドルで買うよりも約2.6%多く買えます。また、ただ転売しただけでも、1バレルに付き最大50セントの儲けになります。
また、石油引換券は賄賂を贈る際、お金の代わりとして使われました。
後の調査で石油食糧交換プログラムの責任者べノン・セバン(映画ではコスタ・パサリス)は少なくとも1100万バレル分の石油引換券を受け取ったと見られ、これだけでも350万ドル相当(1ドル=110円で換算して3億8千⒌百万円)の金額になります。
その利益の一部がリベートとしてサダム・フセインのもとに流れその総額は10億ドル以上(実際はプログラム終了までの総額は101億ドル)と見られて居ました。
下の表は、イラクから石油引換券(個人や企業の分も含む、国全体)を手に入れた国別の割合を示したものです。
受取人の国籍 | 受け取ったオイル (総量の%) |
---|---|
ロシア | 30 |
フランス | 15 |
中国 | 10 |
スイス | 6 |
マレーシア | 5 |
シリア | 6 |
ヨルダン | 4 |
エジプト | 4 |
その他(米国を含む) | 20 |
石油引換券を使用した企業や個人の国別の割合
出典 Wikipedia
第1位のロシアはイラン・イラク戦争前から湾岸戦争にかけて、戦車T54、T62、T72、戦闘機MiG23、 MiG25、Su20フィッターの他、大量のスカッドミサイルを輸出していました。
フランスは、イラクに戦闘機ミラージュF1とそれに搭載する、400発のAM39エグゾセ空対艦ミサイルや、200発のAS.30L レーザー誘導空対地ミサイルとともに、パイロット7人、ダッソー社の技術者など約30名がイラク軍に参加し、イラク軍を指導する傍ら実戦にも参加しています。
中国からはロシアのT54、T62戦車のデットコピー版と言える69/79式戦車を大量(1500~2000両)購入しています。これは本家のT54、T62式戦車に新たな装備を追加した改良版であり、さらに本家よりもはるかに安価であった為です。
またフランスは原子力発電所「オシクラ(イラク名タームズ1)」の建設とそれに必要な核技術を提供していました。この発電所は7万キロワットの出力を持ち、さらに核兵器の原料となるプルトニウムも生産できるものでした。
この原子力発電所は完成間近の1981年6月7日、イラクが核保有国となるのを恐れたイスラエルが、F-16戦闘機8機とF-15戦闘機6機をイラクに領空侵犯して破壊しました(イラク原子炉爆撃事件)。残った核研究施設やウラン濃縮工場は湾岸戦争時にアメリカ軍により破壊されました。
湾岸戦争後フセイン政権は、ロシアのルーク・オイル、フランスのトルフィナ・エルフ、中国の中国石油天然ガス集団公司に、破壊された油田の復旧と新たな開発をする権利を与えています。
この為石油食糧交換プログラムで、この3か国が優先的に石油引換券を貰うことになりました。
更にこのプログラムで購入した食料や医薬品にも、問題がありました。映画でも出てきたように、医薬品は有効期限が切れていたり、食料品も「人が食するのに値しない」賞味期限切れ、いわゆる産業廃棄物としか言えない代物が、正規料金で購入されていました。その上これらの品々には、正規の料金に10%の運送料が上乗せされていました。こうして儲けたお金の1部が、リベートとしてサダム・フセインの懐に流れていたのは、言うまでもありません。
話を映画に戻します。
解読されたリストの中には、動画が入っていました。
その動画には、パサリスがイラク情報部のリーダー、ラスネッツォフから封筒を受け取っていた場面が写っていました。
石油食糧交換プログラムの責任者パサリスもまた、汚職に関わっていたのでした。
ショックを受けたマイケルとナシームが家に着くと、暴漢に襲われナシームは連れ去られてしまいました。
翌早朝、マイケルはパサリスのもとに行き、リストが入っているUSBメモリーと、ナシームの交換を求めました。
パサリスの話によると、ラスネッツォフはプログラムを陰で操っているフィクサーで、彼抜きでは物事がうまく進まないため、モスクワや北京、サダムの他、多くの政府要人や企業、銀行などが彼に金を払っている、と教えました。イラクで飢餓に苦しんでいる人を救うには、どうしても彼の力を借りる必要がある、とも言いました。
パサリスは電話して調べた結果、ナシームはパスポートを紛失したことで移民局に移され、イラクに強制送還されることになったようです。
マイケルは彼女がイラクに移されると危惧しましたが、パサリスはバグダットなら自分の力でどうにかなると、彼女の開放を約束しました。
2003年3月20日、イラク戦争が始まり、マイケルが再びパクダットに戻ったのは、戦闘が一段落した開戦6か月後のことでした。
パサリスは約束通り、バクダッドでの人脈を操りナシームの身柄を解放させることに成功しました。ナシームはマイケルから、解放された代わりにリストの入ったUSBメモリーをパサリスに渡したことを聞くと怒って、彼から離れていきました。
イラク戦争後の石油食糧交換プログラムは、それまでの食糧や医薬品だけでなく、電気・ガス・水道などの社会インフラの復興事業まで受け持つようになりました。それに伴いフセイン政権下では締め出されていた、アメリカやイギリスも新たに加わり、汚職はさらに拡大することになりました。
マイケルが事務所に戻ると、新たな医薬品の契約を巡ってパサリスとラスネッツォフが話し合っていました。ラスネッツォフはマイケルの姿を見るとそそくさと帰っていきました。フセイン政権が倒れても、プログラムはラスネッツォフに陰から操られていることは、変わりませんでした。
そんなマイケルのもとに、ナシームから「会いたいと」の電話が入りました。
指定の場所に行くと、CIAのカッターもいて「是非合わせたい人がいる」と言ったマイケルを車に乗せました。
そこには依然クルド人代表として、食糧配給の不公平をマイケル達に訴えていた男がいました。男はサシュワー・ラウルと名乗り、イラク移行政府で大統領に就任する予定でした。サシュワーは、石油食糧交換プログラムの黒幕であるラスネッツォフを罠に掛けて捕らえるつもりだと言います。
計画ではパサリスがラスネッツォフに賄賂の入った封筒を渡すとき、に逮捕するためにパサリスを説得するよう頼まれました。
サシュワー・ラウルのモデルとなったのは、イラク初のクルド人大統領に就任したジャラル・タラバニだと思われます。
ジャラル・タラバニ(1933年11月12日~2017年10月3日)
バグダット大学卒業後、民族独立を目指すクルド民主党(KDP)に参加します。1975年にクルド愛国同盟(PUK)を創設し、旧フセイン政権と対立しました。
映画とは時間がずれますが、2005年4月7日イラク共和国移行政府大統領に就任し、続いて2006年4月22日にイラク共和国第四共和政初代 大統領となり2014年7月24日まで勤めました。
大統領としての彼は、対立が顕在化したシーア派、スンニ派両勢力の橋渡し役を担ったほか、中央政府とクルド自治政府との交渉の仲介役も務めました。
2012年12月脳卒中で倒れドイツのベルリンで治療を続けていましたが、2017年10月3日ドイツ・ベルリンで死去。83歳でした。
出典ウィキペディア
マイケルはパサリスの説得に成功し、ラスネッツォフをおびき寄せることになりました。
しかし、いくら待ってもラスネッツォフは現れませんでした。やがて待機していたCIAのカッターのもとに、新大統領のサシュワー・ラウルが車に仕掛けられていた爆弾で死亡した、と連絡が入りマイケル達は急いでその場を離れました。
その後、パサリスはプログラムを管理する常務理事を辞任すると言い、マイケルのためにはユネスコに特別補佐官として採用するように推薦したと知らせて、帰国しました。
マイケルも帰国し、義兄で国連の内部監査官を務めているトレバー・オーウェンと一緒にアメリカ軍がイラク石油省から押収した書類を調べ、石油省が発効した石油引換券の受取人一覧表を見つけました。
このリストは2004年1月25日、イラクの日刊紙アル・マダによって発表されています。
この一覧表の詳しい内容はこちらに載っています ↓
2003年9月、マイケルはウォールストリートジャーナル紙を訪れ、手に入れた資料を基に国連の石油食糧交換プログラムで贈賄が行われていると、内部告発を行いました。
2003年11月21日、石油食糧交換プログラム正式に終了し、残った資金は連合国暫定当局に引き継がれ、イラン復興資金に充てられました。
マイケル・サリバンのモデルとなったマイケル・スーサンは国連を辞め、世界中の紛争地帯を巡って取材し、その記事を報道機関に売ったり、自ら本を出版したりして暮らしています。
コスタ・パサリスのモデルとなったベノン・セバン は、2005年8月7日に国連を辞任し、故郷のキプロスに戻りました。
2007年1月16日、マンハッタン連邦検察により、約16万ドルの賄賂を受け取ったとして起訴されましたが、キプロスは犯罪人引き渡し協定に加わっていないため、そのままキプロスで暮らしています。