なぜ戦争が始まるのか 

映画からその訳を探ってみようby亀仙人2世

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その2

time 2020/04/06

第1次世界大戦休戦までのウィルソン米大統領による、和平への働き その2

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亀仙人2

ハウス大佐の2回目の訪欧から、ドイツ宰相ベートマンの和平提案まで

1916年12月、ドイツ宰相ベートマン・ホルヴェークは交戦国に対して講和会議の開催を提案し、アメリカにその仲介を依頼しました。

ここではそれまでの経過と、その後、各国が戦争継続を決めるまでの様子を書いていきます。

アイキャッチの写真は、ドイツ宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークです。

1916年の出来事

終わらなかった戦争 ヨーロッパの主な国々

第1次世界大戦がはじまった当時、各国の軍首脳は戦争は2~3か月で終わり『クリスマスまでには帰れる』と思っていました。第1次世界大戦開戦直前の主要国の軍事状況を見てみます。

ドイツ

人口約6800万人、軍事訓練を受けていた兵士の数は550万人で当時ヨーロッパ最大の規模を持っていました。

1871年、普仏戦争で石炭と鉄鉱石の産地アルザスロレーヌ地方を手に入れたドイツは、産業革命を進め重工業を発展させイギリスと匹敵する強国に成り上りました。

1891年から1894年にかけて、フランスとロシアの間に露仏同盟が成立すると、ドイツは国の東西から攻撃を受ける可能性が生じ、軍備を増強させます。

ドイツ軍の特徴は、2~3年の徴兵義務の後、4~5年の正規予備軍、その後12年間の後期予備役、最後に国民軍に編入され、このすべてが戦闘可能な状態にありました。さらに他国より進化した参謀本部を持ち、整備された国内の鉄道網により、即座に統制の取れた軍隊として活動できるようになっていました。

ドイツで特に注目する点は、1914年8月の戦争の長期化を予想した国際的な電気会社AEG会長のヴァルター・ラーテナウの意見を取り入れて、陸軍省内に戦士資源局を設立して主要戦略物資の安定した供給を計りました。

これにより、1914年末期には他の交戦国が軒並み砲弾不足により戦闘不能になる中、ドイツだけはどうにか乗り越えることが出来ました。

フランス

人口約4000万人、戦闘可能な兵力は約400万人いましたがね予備役はほとんど使いのにならず開戦当時の戦力は約100万人ほどでした。さらに大きな問題として出生率が低く、1906年ドイツでの新兵の数が12万人に対して、フランスでは36万8000人しか集められませんでした。これは戦争が長引くと兵員が不足することを表しています。

この為守勢に回ることを嫌い、極端な攻撃主義を取り、1917年ニヴェル攻勢の失敗により兵士が反乱を起こし、一時戦闘力を失ってしまいました。

イギリス

人口約5000万人、列強の中では唯一徴兵制を取っていないため兵力は正規軍100万人程度。

ただ人数が少ないと言ってもイギリスは19世紀末から20世紀初めにかけて起こったマフディー戦争(スーダン)、ボーア戦争(南アフリカ)などで実戦経験を豊富に持っている兵士が大勢揃っていました。この時の司令官であったホレイショ・ハーバート・キッチナーは国民的英雄となり、第1次世界大戦では、「戦争は長期間続く」とみて積極的な新兵募集を行いました。

キッチナーの募兵ポスター『英国は君を必要としている』と書かれている

これを見て300万人の国民が志願しました。

出典 ウィキペディア

 

第1次世界大戦が始まると、イギリスはベルギーの救援を理由に、イギリス大陸派遣軍(司令官ジョン・フレンチ将軍、約15万人)を送りました。

第1次開戦当時、イギリスとフランスの軍首脳陣が描いていた戦闘は砲兵が敵の陣地を攻撃し、そのあと騎兵隊と歩兵が突撃して占領するという、ナポレオン戦争時代と変わらない図式でした。

西部戦線に展開したイギリス海外派遣軍(BEF)の初代司令官ジョン・フレンチと後任のダグラス・ヘイグ両者とも、ボーア戦争において騎兵師団の司令官と騎兵将校として功績を上げて指揮を執りました。

ところが、この方式は重砲と機関銃の有用性を見抜き、それらを大量に配備したドイツ軍の前にはまるっきり通用しませんでした。

そのような状態になってもイギリス軍はこの戦法に固執して、大戦終盤に戦車が実用化されるまで、大量の犠牲者を出し続けました。

ドイツの機関銃の前には、騎兵がいかに無力であるか分かる映画 ↓

 

第1次世界大戦を生き抜いた軍馬の物語 映画 「戦火の馬」

映画の中にドイツ軍に対して騎兵が突撃する場面があります。

ロシア

人口1億4000万人、戦闘訓練を受けていた人数は約450万人、開戦時の動員数は250万人、潜在的な動員数は4000万人と参加国中最大。

ロシア皇帝ニコライ2世は、ロシア軍を「蒸気ローラー」と称し、圧倒的な人海戦術で他国を押しつぶせると話していました。

国土の広さと動員可能な人数はドイツにとっては大きな脅威となり、フランスとイギリスにとっては頼りになる存在でした。

蒸気機関車なロードローラー

出典 WEB ミスター・バイク

しかし、兵士の大部分は農民で、粘り強い反面文字を読めない者が大部分を占めています。

ロシア皇帝ニコライ2世は、先祖代々受けついてきた専制君主制を守ることが、自分に課せられた義務だと信じていました。

1905年1月22日、日露戦争における莫大な戦費や労役に耐えかねた民衆が、皇帝に嘆願書を差し出そうとして集まったところ、これを阻止しようとした兵士に銃撃され4000人に及ぶ死傷者を出しました(血の日曜日事件)。

この事件はこれまでの民衆の皇帝崇拝を打ち砕き、戦艦ポチョムキンでの水兵の反乱をふくめ各地で反政府の暴動が起きました(ロシア第1革命)。この暴動は軍によって鎮圧され、専制君主制を守るために秘密警察による反政府分子の取り締まりが強化されました。

これによりロシア軍の首脳部は、皇帝お気に入りの将軍達で占められ、将軍たちは地位を守るため、有能と見た若い士官を潰し、軍の近代化は遅れてしまいました。

また工業化の遅れにより武器弾薬の製造が不足し、動員された兵士に対して、小銃が行き渡らない状態も発生しました。

また国土のわりに鉄道網も貧弱で、軍の移動や前線への物資の補給も支障をきたしていました。

オーストリア=ハンガリー帝国

人口 約5000万人、訓練済みの兵士の数450万人

サラエヴォ事件からしてセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦の元を作った、オーストリア=ハンガリー帝国は10以上に及ぶ多民族国家でした。

そのため、軍隊で使う言語は80語余りのドイツ語による基本用語(前進、停止など)以外は、連隊内で使われる訓練や連絡などにおいては、それぞれ各民族の言語が使われていました。

また構成する民族の半数近くがスラブ系であったため、スラブ人のロシアやバルカン半島の国々との戦いに躊躇することもあり、戦いが不利となると、戦闘を放棄して、自分の民族地域に帰ってしまう部隊も出るようになりました。

この様に軍隊としての統一が欠けているうえに、軍事費がドイツの4分の1、フランスの3分の1と少なく、砲や小銃等の装備も数が少ない上、旧式のものが多く使用されていました。

第1次開戦当初において、小国セルビアに対しても、1912年~13年にかけてのバルカン戦争によって領土を拡張した実践豊富なセルビア軍に苦戦したうえ、大国ロシアには大敗して軍としての機能を失い、以後はドイツ軍に支援して貰う状態になりました。ドイツにとっては見捨てるわけにはいかず、大きな重荷になってしまいます。

戦争は長引くか

1906年参謀総長に就任した小モルトケは、カイゼルにこう言っていました。

「今度の戦争は決戦では片づけられない。国家総力戦となるでしょう。そしてわれわれは、国力が完全に衰退するまでは負けてしまわない敵国を相手にして、長期間苦闘しなければならないと思います。たとえドイツが勝ったとしても、国民は徹底的に消耗してしまうでしょう。」

引用 「八月の砲声 上巻」バーバラ・W・タックマン ちくま学芸文庫 六八頁

第一次世界大戦は、結局彼の予言通りの結果となり、アメリカ軍の参戦により兵力で劣るドイツの負けとなりました。

しかし、当時の小モルトケはシュリーフェン計画に基づいて、フランス軍を6週間で降伏させ、短期間で戦争を終了できると読み、作戦を実行してしまいます。

この計画はフランスに侵攻したドイツ軍の補給線が伸び、各軍団の隙間が広がったところを、イギリス海外派遣軍とフランス軍に突かれ(マルヌの戦い)失敗してしまいます。

詳しくはこちら ↓

西部戦線 1914年 第1時世界大戦開始と同時にフランスに攻め込み、パリから50㌔まで攻め込みました。

小モルトケはシュリーフェン計画の失敗により、精神を病み引退してしまいます。新たに参謀総長に就任したファルケンハインは、もはや短期間で決定的な勝利を得ることはできないとして、フランス軍の戦力をそぐことを狙い、ヴェルダン戦いを仕掛けました。

ヴェルダンの戦いについてはこちら ↓

解説 「ヴェルダンの戦い」この戦いから大規模な消耗戦が始まりました。 

壊滅の恐れが出てきたフランス軍は、イギリスとロシアに助けを求め、ソンムの戦いと、ブルシーロフ攻勢でドイツ軍の戦力を分散させ、壊滅の危機をのがれました。

ソンム戦いはこちら ↓

ソンムの戦い 戦い初日でイギリス軍は、戦死者19,240名、負傷者57,470名の損害を出してしまいました。

ブルシーロフ攻勢はこちら ↓

解説 ロシア軍最後の大攻勢 「ブルシーロフ攻勢」

これらの戦いで同盟国側、連合国側共に多くの犠牲者を出しました。

この様な中1916年12月12日、ドイツの宰相ベートマンは連合国側に対して、講和案を出し、アメリカに仲介を求めました。ここまでの経緯について書いてみます。

1915年から1916年のアメリカの動き

1620年、イギリス国協会の弾圧を受けた清教徒102人がメイフラワー号でアメリカに着いてから、1783年の独立戦争で勝利して、イギリスから独立を果たしました。

その後、1840年から1860年にかけて、ヨーロッパ全土における飢饉、不作、人口増、政情不安などから毎年500万人の人々が祖国を離れ、アメリカに移住しました。

1845年から1849年にアイルランドに起きたジャガイモ飢饉(飢饉にもかかわらず、大量の食糧がイングランドに輸出された)で餓死を逃れるため、大勢の農民がアメリカに移住しました。

1848年から1849年にかけてのドイツ三月革命の失敗により、革命を推進した大勢の自由主義者たちが、政治的迫害を逃れてアメリカに亡命しました。

これらの人々は、1861年から1865年にかけて起きた南北戦争で北軍として兵役につき(当時、北軍兵の5人に1人が移民でした)、兵役後は政府から土地を貰い定住しました。

1880年代、ロシアを中心とした東ヨーロッパでユダヤ人の集団虐殺(ポグロム)が行われたため、ユダヤ人が大挙してアメリカに移住しました。

このため第1次世界大戦がヨーロッパで勃発しても、ウィルソン大統領は中立の立場を維持し続けます。

イギリスの海上封鎖と、ドイツの制限潜水艦作戦とを禁止することで、イギリスとドイツを歩み寄らせようとする努力は、お互いが妥協することがなく実りませんでした。

そこで条件を変え、交戦国双方の陸海軍の規模を縮小するということを原則として、講和する意思があるかどうか確かめることにしました。

こうした中、1915年9月22日イギリスの外相グレー氏から、ハウス大佐の元に1通の書簡が届きました。内容は

陸海軍の拡張を確実に絶やそうとする大目的は、小生にいわせれば即ち将来のために侵略的戦争を防ごうとする保障を得ることであります、米国はこれに対し、どれ程まで準備ができていますか、各国の連盟を組織し、条約に違反したり、陸上および海上における戦時規約(これは勿論今の戦争のすんだ後に設けらるべきものであります)の何れかに違反したり、或は争議の起こった場合、戦争以外の解決法に従うことを拒絶する国がある時は、加盟国はその国を敵とするという案を提出されますが、小生はこういう協定が出来ない限り、将来陸海軍を縮小し、何国も侵略的目的のために、陸海軍を建設せしめないという見込は立たぬと思います、かかる提議に対し、どこの政府が賛成せんとするかは今申上げることはできませんが、米国の賛成によってのみこの提案は有効となると信じます。

引用 神戸大学新聞記事文庫 ハウス大佐回顧録

ということであって、これは第1次世界大戦後に成立した国際連盟の基礎となるものでした。

ハウス・グレー覚書

1915年11月9日、ハウス大佐はウィルソン大統領の協賛を得て、グレー氏の書簡に賛成の返事を送り、英独両国に国際連盟案を定義するため、間もなくヨーロッパに旅立ち1916年1月6日にロンドンに到着しました。

翌1月7日には、グレー外相から軍備縮小を伴うことを条件として講和会議を開けば、海相封鎖を止め「海洋の自由」を認めることに賛成を得ました。

このことを知らせるハウス大佐の報告に、ウィルソン大統領は、文明諸国間に永遠の平和を建設、維持する政策に協力することを保証する、との返電を打ちました。

この条件を持って、ハウス大佐は1916年1月下旬交渉のためドイツに旅立ちます。

1916年1月28日、ドイツに渡ったハウス大佐は、ドイツ宰相ベートマン外相ヤゴウ植民相ゾルフ達と会談しました。この3人に共通していることは、戦争の短期終結が望めない状態では、講和を仲介してくれるアメリカの存在は重要であり、このまま無制限潜水艦作作戦を続行すればアメリカ軍が参戦して、講和が出来なくなることでした。

これに対してドイツ海軍大臣ティルピッツは、無制限潜水艦作戦を強化すれば、アメリカが陸軍を整備して参戦する前に戦争に勝利できると主張していました。

さらに、1915年9月18日からの無制限潜水艦作戦中止後もイギリスによる海上封鎖は続き、アメリカの輸出品のほとんどはイギリスに送られ、ドイツに届いていないことからアメリカの中立を信用していませんでした。

参謀総長のファルケンハインは、戦争の長期化が避けられなくなった今、フランス軍に対して大規模な戦いを挑み、フランス軍に大量の損害を与え、戦争を継続できないようにして、ドイツ有利の状態で講和を結ぶ考えでした。そのためイギリス軍の戦力を割く、無制限潜水艦参戦は有効であるとして、支持していました。

ファルケンハインはこの後すぐ、フランスに対して大規模な戦いを仕掛けます(ヴェルダンの戦い)。

ハウス大佐は、ドイツ政府及び軍の中にも早期講和を望む者がいることを知り、2月9日交渉のため、再びイギリスへ戻りました。

それから約2週間にわたりハウス大佐は、グレー外相、アスキス首相、ロイド=ジョージ軍需相、バルファ外相らと要談し、さらにフランスのブリアン首相やカンボン外相らの了承を得て、ハウス・グレイ覚書としてウィルソン大統領に報告しました。

1916年2月25日、ハウス大佐はアメリカへの帰国の航海に着きました。

1916年3月6日、ウィルソン大統領とハウス大佐は、覚書に「恐らく(probably)」の文字を加えることで、了承しました。これはアメリカが外国に宣戦布告するには、上院の賛成が必要になるためです。

下の引用文は、英国外相グレー氏の書いたハウス大佐との了解の覚書であって、ウィルソン大統領が「恐らく」の一字を加えて承認した旨をハウス大佐の名で通告したものです。

ハウス大佐は余(㊟グレー外相)に語るにもしイギリスおよびフランスから「機熟せり」との意見を聞けば、大統領ウィルソン氏は戦争を終熄せしむるために会議招集の準備あることを以てした。もし連合国がこの提案を容れ、ドイツが拒絶すれば米国は恐らく対独戦争に参加するであろうと。ハウス大佐の意見によれば、もしかような会議が開かれれば連合国にとって不利益ならぬ条件で平和を結ぶことになるであろう。もしドイツが不合理なるために平和を結び得なかった場合には米国は「恐らく」連合国側の一戦闘国として会議を去るであろうと。

引用  ハウス大佐回顧録 3月7日の日記より

この覚書により、ウィルソン大統領は上院にはかることなく、参戦の密約をイギリスと結んだことになります。

この頃からハウス大佐は、アメリカの参戦も考える様になりました。

1915年~1916年の戦線と指導者の交代

1914年末から硬直状態に陥ってしまった西部戦線を助けるため、連合国側はトルコの陥落とロシアとの海上補給路の獲得を狙い、ガリポリの上陸作戦を行いました(ガリポリの戦い)。しかしこの作戦は失敗して、指揮を執ったイギリスのチャーチル外相は辞任してしまいます。

1916年6月5日、キッチナー陸軍大臣を乗せてロシアに向かった収容艦ハンプシャーがドイツ軍の機雷に触れて沈没しました。655人の乗組員のうち、キッチナー陸相を含む643人が死亡しました。

キッチナーの後は、アスキス挙国一致内閣で軍需大臣を務めていたロイド・ジョージが陸軍大臣に就任しました。

七月から11月にかけて行われたソンムの戦いで、イギリス軍は40万人もの死傷者を出しました。ロイド・ジョージはイギリス軍が多大な損害にもかかわらず、軍部に対して政府の統制が利かない状況に対して、強力な文民統制を行える政府が必要であると考えるようになりました。

1919年のロイド・ジョージ

出典ウィキペディア

1916年12月6日、アスキス首相に代わり新たに首相に任命されると、自由党・保守党・労働党の三党からなる挙国一致連立内閣を立ち上げました。

「戦争に勝てる男」として登場したロイド・ジョージは「いかなる領土も要求しないが、ドイツ軍国主義を打倒する」ことを目的として突き進んでいきます。

 

一方ドイツの参謀長ファルケンハインは、東部戦線におけるロシアの圧力を弱めるため、ゴルリッツ=タルヌフ攻勢を仕掛けました。

これは、ドイツとオーストリアに大きく突き出たロシア領のポーランド(下の地図の赤丸で囲った部分)をドイツとオーストリアで挟み撃ちにして、ロシア軍を後退することを狙ったものです。

この作戦は成功して、ロシア領ポーランドから、ロシア軍を大きく後退させることが出来ました。ただ、このままロシア軍を攻撃して大打撃を与えることを主張するルーデンドルフと、戦力を温存して西部戦線に備えようとするファルケンハインの間で大きく対立しました。この対立はカイザーの支持を受けたファルケンハインの意見が通り、西部戦線のヴェルダンで新たな戦いが始まりました。

この戦いで大きく負けたロシアは、それまでの司令官ニコライ大公が更迭され、あらたにロシア皇帝ニコライ2世自身が最高司令官に就任しました。ロシアは戦争に対して素人であるニコライ2世が指揮を執ったことにより、ロシアはこれ以後、負け続け、ロシア革命が起こることになります。

ハウス大佐がヨーロッバを訪問している最中の1916年2月21日、ドイツのファルケンハインは膠着した西部戦線の打開を図り、古くからの要塞都市ヴェルダンを攻撃しました。この場所でフランス軍をおびき出し、大量の損害を与えることで兵力の削減と戦意を喪失させ、フランス軍を西部戦線から脱落させるのが狙いでした。しかしこの戦いは1916年の年末まで続くことになり、フランスで31万5千人、ドイツで28万1千人、双方合わせて約70万人の死傷者を出し、フランス軍のみならず、ドイツ軍にも大きな痛手となりました。

ドイツの攻勢に音を上げたフランスは、イギリスとロシアにドイツ軍の戦力を分散させるため、ドイツ軍に攻撃をかけるよう要請しました。

ロシアの南西正面軍総司令官のプルシーロフは、ドイツ軍の戦力分散を狙い6月4日ドイツに攻撃をかけます(ブルシーロフ攻勢)。

ブルシーロフ攻勢の詳しい説明はこちら ↓

解説 ロシア軍最後の大攻勢 「ブルシーロフ攻勢」

この戦いでヴェルダンから7師団のドイツ軍を引き離すことに成功しましたが、ロシア軍は100万に及ぶ死傷者を出し、戦闘能力を失ってしまいました。

またオーストリア軍も兵士の損失が多く出ため、一国では戦争を続けることが出来なくなり、ドイツ軍に助けてもらわなければ駄目になりました。

1916年11月21日、「国父」と呼ばれていたフランツ・ヨーゼフ1世が死去しました。

後を継いだ老皇帝の弟の孫であるカール1世は、即位の愛国民に向けて

「痛ましいまでに失われた平和の祝福を世の進化に取り戻すためにできる限りのことをする」

と宣言しました。その後ブルボン家の流れをくむ妃ツィタを通じて、フランスと単独講和を計りました。

帝国の象徴であったフランツ・ヨーゼフ1世の死後、オーストリア=ハンガリー帝国内における民族自立の動きが活発になり、帝国の崩壊につながります。

 

ヴェルダンの戦いで苦戦しているフランスの要請を受けたイギリスは、1916年6月から11月にかけてフランス軍と共同で北フランスのソンムでドイツ軍に総攻撃を行いました(ソンムの戦い)。

ソンムの戦いの説明はこちら ↓

ソンムの戦い 戦い初日でイギリス軍は、戦死者19,240名、負傷者57,470名の損害を出してしまいました。

この2つの戦いのおかげで、フランス軍は防戦一方だったペタン将軍に変わり、新たに司令官に就任したニヴェルは新戦術を使って、ドイツに奪われていた領土を回復し、ヴェルダンの戦いに勝つことが出来ました。

ヴェルダンの戦いで勝利したニヴェルは一躍フランスの英雄となりました。ニヴェルは勝利の秘密を発見したと告げたが、その秘密は何であるかは明かしませんでした。

フランスはニヴェルは西部戦線の最高司令官の地位につき、フランス国民はドイツに対する必勝法を発見したニヴェルに期待しました。

※ニヴェルの発見した必勝法とは、『移動弾幕射撃』で前進する歩兵の速度に合わせて、その直前横一線に砲撃を行い続けるやり方です。今までの敵陣に砲撃を加えて、そのあと突撃する方法では、砲撃後敵に準備する時間を与え多くの被害を出してしまいました。それに対してこの方法では、砲撃と突撃がほぼ同時に行うため、敵が反撃する暇を与えません。ただ、後方の砲兵隊と前進する歩兵との連携がうまくいかないと、見方を撃つことになります。

 

フランスに対して大きな出血を誘う、ドイツのファルケンハインの目論見は正しかったのですが、戦線が拡大させてドイツ軍に大きな損害を出してしまいました。

その上、無傷の兵力を持つ中立国のルーマニアを連合国として参戦するきっかけを作ったとして、ヴィルヘルム二世の信頼を失ったファルケンハインは失脚してしまいます。新たにドイツ軍の指導者として、参謀総長にヒンデンブルク、参謀次長に相当する第1兵站総監にヒンデンブルクが就任しました。

カイザーは、ドイツ国民から絶対的な人気があるヒンデンブルクとルーデンドルフの「英雄コンビ」により、戦局の形勢逆転を狙いましたが、逆に戦争の指導権を奪われてしまいました。

このことは、ドイツにとって大きな不幸をもたらすことになります。それまでカイザーを始め、参謀総長のファルケンハイン、宰相のベートマンたちは決定的な勝利を得られないとして、部分的な勝利を重ね、ドイツ有利の条件を作り出したうえで、アメリカの仲介による連合国と講和するつもりでした。そのために、アメリカの中立を侵すような政策と作戦は、極力抑えてきました。

しかし「英雄コンビ」の二人は、アメリカが陸軍を強化して大陸に派遣して来る前に、弱体化したロシアと単独講和を結び、フランス軍をもう一押しして戦闘意欲を削ぎ、イギリスの国力を潜水艦作戦で弱体化すれば、勝てると踏んでいました。

オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアとの戦いは、ヴェルダンの戦いから、ドイツ対ロシア、フランス、イギリスの連合国との戦いに変わり、どちら側か滅亡するか、降伏するまで戦い続けることになりました。

このため、連合国側と同盟国側両方とも、アメリカの仲裁を受け付け、和平を求める動きは無くなってしまいました。

アメリカ国内では

イギリス植民地時代の重税に苦しみ、独立戦争でイギリスの支配から逃れた人たちの子孫や、同じイギリスの中にあっても、ジャガイモが不作にも関わらず、統治していたイングランドに小麦を輸出させられ、150万人もの餓死者を出し(ジャガイモ飢饉)アメリカに逃れた100万人のアイルランド移民の子孫は、イギリスに対して良い感情を持っていませんでした。

第1次世界大戦でイギリスが海上封鎖を行ったことにより、北欧や東欧、ロシアなどの輸出の機会を奪われた産業界にも、イギリスを非難する声が上がっていました。

アメリカに移住してきたユダヤ人の大部分は、帝政ロシアを中心に起こったポグロム(1903年から1906年に起こったユダヤ人に対する迫害や虐殺)によって国外脱出してきた人々は、ロシアを含む連合国に対して好感を持っていませんでした。

この為、ヨーロッパで広がる戦争から離れて中立の立場をとるウィルソン大統領の姿勢は、大部分のアメリカ国民の支持を受けていました。

しかし、ドイツがイギリスの海上封鎖に対抗して、無条件潜水艦作戦を実行して1915年5月7日イギリスの客船ルシタニア号、同年8月19日には客船アラビック号を撃沈しました。この事件でアメリカ人乗客が犠牲となったことで、アメリカの対独感情が悪化し、ドイツに対して参戦を求める声が大きくなりました。

この事件は度重なるウィルソン大統領の抗議に答えて、1915年8月30日ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が無条件潜水艦作戦の中止を命じることで収まりました。ただ、連合国の戦艦や輸送船に対する攻撃は、今まで通り継続されます。

ハウス大佐がヨーロッパで講和に向けての交渉を続けていた1916年3月24日、フランスの定期連絡船サセックス号が、ドーバー海峡でドイツの潜水艦によって撃沈され80名が犠牲になりました。この事件で3名のアメリカ人も負傷したことから、再びドイツに向けて参戦を促す働きが大きくなりました。

ウィルソン大統領は、ドイツに対して次のような通牒を送りました。

「ドイツ政府が今直に客船および貨物船に対する現在の潜航艇政策を廃することを声明且実行するにあらざれば米国政府はドイツ帝国との外交関係を断つ外選ぶ途はない」

アメリカに中立の立場を望むドイツは

「ドイツ政府は潜航艇司令官に対する命令をすでに改め今後戦争の続く間戦闘行為は交戦国の戦闘機関に対してのみ行うことに制限すべく全力を尽さんとしている、商船はもはや無警告で撃沈することなく逃亡を計り或いは反抗を試みぬ限り人命を救われずして撃沈されることはない」

との声明を返しました。

(この部分ハウス大佐回顧録の1916年4月6日の日記から引用、要約)

この声明でドイツに対する反感は一時静まりました。

イースター蜂起

1916年4月24日、アイルランド独立を目指すアイルランド共和主義同盟(IRB)のキュンは約1000人が中心となり、武装蜂起(イースター蜂起)が発生しました。彼らはアイルランドの首都ダブリンの中央郵便局を占拠して、アイルランド共和国の設立を宣言しました。

蜂起の際に中央郵便局(GPO)の屋根に掲げられた、アイルランド共和国の旗

出典ウィキペディア

この反乱は1週間後の5月1日イギリス軍によって鎮圧され、5月3日から首謀者15人が軍事裁判によって、銃殺されました。

1914年9月、イギリスではアイルランドの自治を認めるアイルランド自治法が成立しましたが、第1次世界大戦が勃発したため、法案の実施は終戦後に行うことになっていました。この約束を信じて、アイルランド人の若者の多くが、早く戦争を終わらせるためにイギリス軍に志願して、第1次世界大戦で共に戦っていました。

ところが、イースター蜂起の指導者たちが正式な裁判を受けずに銃殺されたことはアイルランド人の愛国心をかき立て、アイルランド独立をめぐってイギリスと対立することになります。

イースター蜂起に対するイギリスの処置は、アメリカに住む1500万人のアイルランド系移民を中心に、新たな反英感情を加えることになりました。

現代に続くアメリカ外交の基本路線

ウィルソン大統領の外交姿勢の変化

1916年は、4年に1度のアメリカ大統領選挙が行われる年です。

これまで書いてきたように、ベルギーの中立を侵し、フランスに侵攻いたドイツは、無制限潜水艦作戦により民間の船を沈めたことと相まって、アメリカ国内には「ドイツに向かって参戦すべし」との声が上がっています。

一方、イギリスからの独立戦争で独立を勝ち取ったアメリカは、イギリスがイースター蜂起によるアイルランド(アイルランドはイギリス最初の植民地)独立を押さえつけたことと、海上封鎖による自由貿易を妨害されたことで、反英感情を増大していました。

第1次世界大戦のきっかけとなったオーストリア=ハンガリー帝国のセルビアに対する宣戦布告や、自由を求める国民を圧迫し続けるロシア帝国など皇帝による独裁政治に対する反発も見えています。

ウィルソン大統領は第1次世界大戦初期は中立を維持し、ドイツ・イギリス・フランス・ロシアなどと講和の仲介をする立場をとってきました。ここにきて、ハウス・グレー覚書に見るように平和を求めるためには、軍の派遣も辞さない姿勢をとる覚悟が見えてきました。今日の「平和のための戦い」を意図するようになりました。

このことは、大統領選挙直前に行われた五月二十七日平和期成同盟会大会におけるウィルソン大統領の演説に見られます。

世界の文明が其存在を立証せらるると共に確然保障せらるるの道は世界の大国が其共通の利益の基礎たるものに関して相一致し且つ之を犯す者に対して共同動作に出づべき或実際的方法に関して相一致するに在る…同盟と同盟と相反し協商と協商と相対するが如きことは之を避け各国共通の目的に対する共通の約束を作らねばならぬ…合衆国は此等の目的を実現し之に違犯する者を制御せんが為めに組織せらるる諸国民の実際的団結の一員たらんことを希望する此言明は合衆国民の意志希望を語るものなることを保証する

引用 1918.12.8 (大正7) 時事新報記事「講和断片」より

出典 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫

これは世界の平和を乱すものに対しては、「平和のための戦い」をするというものです。

アメリカ大統領選挙

1916年のアメリカ大統領選挙では、民主党はアメリカが中立を続けることを訴えている現職大統領のウィルソンが指名されました。彼のスローガンは「我が国を参戦させなかった人」でした。

共和党は、元大統領のセオドア・ルーズベルトの後押しで合衆国最高裁判所判事チャールズ・エヴァンズ・ヒューズが指名されました。ルーズベルトはヒューズの応援演説で、ドイツに対して中立の立場をとるウィルソンと、ウィルソンの中立政策を支持するアイルランド人系とドイツ系アメリカ人を愛国心がないと非難しました。軍備の増強と徴兵制度の導入及び積極的な介入を主張しました。

11月7日に行われた大統領選挙の結果は、獲得選挙人数で、ウィルソンが277人、ヒューズが254人、得票率ではウィルソン49.2%、ヒューズ46.1%と僅差でウイルソンが選ばれました。

ウィルソンが大統領選挙に没頭している時でも、戦闘は続いていました。

ユトランド沖海戦

海ではドイツ海軍が、海上封鎖を続けるイギリス海軍に対して第1次世界大戦でただ1つの大規模な海戦を仕掛けました()。

ユトランド沖海戦についてはこちらをご覧ください ↓

解説 「ユトランド沖海戦」 第1次世界大戦で唯一の主力艦同士の戦い。前編 「ドッガー・バンク海戦」

解説 第1次世界大戦で唯一の主力艦同士の戦い。「ユトランド沖海戦」 後編

戦果はドイツ軍の方が大きかったのですが、残存した艦艇の数ではイギリス海軍の方が勝り、イギリスの海上封鎖は続けられることになりました。ドイツ海軍はこれ以上戦艦を失うことを恐れ、潜水艦による通商破壊を目指すようになります。

ルーマニアの参戦

ルーマニアの国王カロル1世はプロイセンのホーエンツォレルン家出身でした。そのため第1次世界大戦開戦前は、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国による三国同盟に加わっていました。しかし第一次世界大戦が勃発すると、戦争はオーストリアの侵略行為であり、相互防衛の範疇に含まれないとして、中立を宣言します。

1914年10月、カロル1世が亡くなると甥のフェルデナント1世が即位しました。

新国王の妃マリアがイギリスのヴィクトリア女王の孫であることから、連合国側に近づき、1916年8月27日オーストリアの領土トランシルヴァニア併合を条件に、連合国の一員として参戦しました。

出典 カイゼン視点から見る第1次世界大戦

参謀総長を辞任させられたファルケンハインは、ゴルリッツの戦いで戦功を得たマッケンゼン元帥と新たに参戦したルーマニアを攻めました。オーストリアとブルガリアの力を借り、12月6日、ルーマニアの首都ブカレストを陥落させました。

これによりドイツからオスマン帝国まで同盟国は、直接つながることになりました。さらに豊かな農産物と、モレニ油田からの原油はドイツを大きく助けることになりました。

講和への試み

1916年の主な戦いでの各国の損害は

1・ヴェルダンの戦い

フランス   59万2千人

ドイツ    43万4千人

 

2・ブルシーロフ攻勢

ロシア    100万人

オーストリア 97万5千人(捕虜40万人を含む)

ドイツ    35万人

 

3・ ソンムの戦い

イギリス   45万6千人

フランス   20万人

ドイツ    52万人

ドイツは各戦線で良く戦い、攻め込まれることは有りませんでしたが、この3つの戦いだけでも140万人の死傷者を出しています。また、新たに軍を指揮することになったヒンデンブルクとルーデンドルフは、イギリス軍の力を弱めるため、潜水艦の建艦を進め10月に10万トン、12月には16万トンの輸送船を沈めました。

このままいけば遅かれ早かれ、アメリカが参戦することは避けられないと見たドイツの宰相ベートマンは皇帝と協議したうえ、1916年12月12日アメリカに和平へ仲介を依頼しました。

ドイツの依頼を受け、ウィルソン大統領は1916年12月18日に、各国に講和の条件を求めました。

米国大統領ウィルソン氏は十八日交戦各国に対し左の覚書を交附したるが帝国政府は二十一日之を接受したりと(東京電話)
予は出来得べき早き機会を以て現に戦争に従事しつつある総ての交戦国より現戦争を終熄し得べき各条件並に未来に於て同様の衝突を再起し若くは新に惹起することなきを保障するに十分なりと認むる協約を取結ぶことに関し各交戦諸国の意見を開陳せんことを乞い之に依りて率直に是等を比較することを得んことを希望す

出典 大阪朝日新聞 1916.12.24 (大正5)

ドイツ側の条件は、公表していませんでしたが、1917年1月30日駐米ドイツ大使のベルンシュトルフからハウス大佐あての書簡によると

一、フランスは占領している上部アルサスを返還すること
一、ドイツ及びポーランドはロシアに対し経済上及び戦略上自分を保護し得べき境界を得ること
一、条約の一条項としてドイツに対しその人口及び経済上の利益に十分なる植民地を返還すること
一、ドイツが占領しているフランス領地は経済的及び軍事的境界の変更及び財政上の賠償を保留条件として還附すること
一、ドイツはベルギーとドイツの安全に対する特別保障に関する条件を定めた上その条件でベルギーを復旧させること
一、講和締結と同時に還附さるべき相互の占領地帯の交換を考慮したる上経済上財政上の賠償を相互に行うこと
一、ドイツの商会及び個人の戦争による被害に対し賠償すること
一、講和締結後常態の通商交通の傷害となるべき経済協定及び規定を廃棄しその代りに合理的なる商業協定を設けること
一、海洋の自由(以上)

引用 ハウス大佐回顧録

でした。

連合国側は戦争が長引き国内経済が破綻に瀕していることと、ロシア国内が不穏な状態になっていて、ドイツと単独講和を結ぶ恐れがありましたが、ドイツが新たに攻撃を仕掛ける力はないことと、もしアメリカがドイツに対して参戦すれば勝利が得られると見て、応じませんでした。

イギリス・フランス側の条件は、

①国境を1914年戦争開始前に戻すこと。

②連合国各国に与えた損害を賠償することです。

その上にフランスは普仏戦争で奪われたルクブルクからスイスまでの土地(アルザス・ロレーヌ地方)の返還も加えました。

連合国側、同盟国側とも今まで払ってきた損害に見合う条件を出してきました。

さらにイギリス、フランス、ドイツ共に首脳陣が交代し、戦争に対する新たな体制が整ったことで、敗北が決定的になっていない状態での相手の条件を飲み譲歩する気はありませんでした。

このため、ウィルソン大統領の努力も、実りませんでした。

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亀仙人2

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